2003年3月10〜12日 寝台特急で山陰・関門の旅(2)

(2003年3月10日) 湯田温泉で温泉開眼


 の昔、1匹の白狐が脚の傷を癒し、そこから金の観音像と共に、温泉が湧き出した伝説がある湯田温泉。今日の宿泊地だ。
 此処で一句。
 白狐湯気の幻湯田の街

 田温泉駅はホームが一方向しかなく、駅舎もシンプル。しかも、駅の周りは民家で囲まれていた。温泉街という雰囲気は微塵もない。しかし、此処から少し歩くと、湯田温泉街に入る。静かな住宅街から、賑やかな温泉街に変わる様は聊か奇妙だが、駅名や地名に「温泉」と入っている以上は、必ずならなくては意味を成さない。
 駅を降りると、左には白狐の像があって、優しい表情から歓迎の意が汲める。そこを真っ直ぐ進むと、広い湯の町街道に出る。その手前のベージュ色のホテルが、今日の宿泊地である。しかし、私はすぐにホテルに入らず、手前の湯田温泉出身の詩人中原中也の詩碑がある高田公園に入った。この公園は明治時代の政治家井上馨の邸宅跡であり、中原中也の他に小郡にゆかりのある種田山頭火の句碑がある(私が写真に収めたのは前者の方)。しかし、お偉い人の邸宅跡にも拘わらず、ブランコや砂場、ジャングルジムがあったりと何処にもありそうな陳腐な公園だった。言い換えると、(悪い意味で)威厳を侮辱した公園だ。
 テルのチェックインを済ませ、私が案内されたのは、窓から何とも静かな湯田温泉の住宅街が一望出来る部屋だった。休まるね。何だかネオンやら車の往来が多い道が無く、飾らない湯田温泉の情景が垣間見られて、得した気分だ。しかも、ベッドがツインベッドなのも嬉しい。さて、ベッドで横になって少し休むか……。
 ホテルの地下にある日本料理屋で、セット物の夕餉を頂いた。マグロの刺身に、エビと茄子、オクラと玉葱の天ぷら、茶碗蒸しに魚の煮物のセットと、焼き鳥を頂いた。セット物では、腹が満たないかなと思って焼き鳥を追加したのだ。
 部屋に戻り、旅行記を綴る事1時間少々。小腹が空いてきたので、1階にあるレストランで、アイスクリームとソーダ水を頂いた。外を見たが、浴衣姿で往来する観光客の姿は見られなかったし、厳ついネオンが無い所為か、通る車さえも上品に見えた。
 部屋に戻り、再度執筆開始だ。それにしても、今日は結構移動したな。日本海側の出雲から、周防灘が近い湯田温泉まで移動したからな。その割には、立ち寄った所が津和野だけだったが、充分に内容が濃い旅行になった。とはいえ、津和野の名所を全て回る事は出来なかったが。今度、来たら何処に行こうかな……。と色々な事を巡らせつつ、ペンを走らせる。
 どの位綴ったのだろう……。懐中時計を見たら、11時近くになっていた。そうだ。露天風呂でも入るとするか。夜遅いからそんなに混んではいないだろう。浴衣で行ってもいいのだが、わざわざ風呂に行くのに、浴衣を着るなんて面倒だから、洋服のままで行った。
 田温泉。泉温65℃。pH値9.2の弱アルカリ温泉。私が来た時は2人しか入ってなく、しかも浴槽には誰も入っていなかった。私は熱めの風呂が苦手なので、噴き出し口から一番遠い所に浸かった。お湯の温度も丁度良くて、私はその温かさに甘え、徐に身体を沈ませた。此処のホテルの温泉は露天風呂で、屋上に造られているので、満天の星空が存分に見える。しかも、今日は晴れていたので、ちゃんと星が出ているから気分爽快だ。
 モウモウと立ち篭める湯気、屋根が無い開放感、そして輝く星空。この3つが揃った露天風呂は一日何度でも入りたくなる。そういえば、今朝の6時45分にも入ったな。朝風呂は何処か贅沢だ。その上、晴れ渡っている空が眺められるから、朝から気分爽快だ!

 上はJR湯田温泉駅と白狐の像。
 下は湯田温泉街。



(2003年3月11日) 中原中也記念館

 が泊まったホテルから詩人中原中也の生家跡は結構近い。文学に多少長けている人は、温泉に入るがてら、中原中也の足跡を辿るのもいいかも知れない。
 私はチェックアウトせず、歩いて記念館(生家跡)へ出掛けた。かつて此処にあった病院が彼の生家である(因みに生家は、昭和47年5月に消失してしまった)。
 資料集で大体の生涯は把握しているので、補習気分で記念館に入った。しかし、そこに展示してあった物は、詩人中原中也の本当の素顔が垣間見られた。
 優等生時代であった小学生時代。同人誌の投稿に傾注し、落第を余儀なくされた中学校時代。京都の学校に転校したものの、成績は相変わらずで、酒と煙草に溺れた放蕩生活。友人の死と愛人の逃亡の重なった中也の心労の様。処女詩集『山羊の歌』発行への多難な道。結婚と愛児誕生の中也の喜び。愛児を亡くした時の彼の失望。そして、精神錯乱と彼の死。また生まれ育った山口、学生時代を送った京都、作家活動に勤しんだ東京、そして終焉の地鎌倉。此処から彼の山口に対する望郷の念は、一生消えなかったのだろう。心の拠り所や終生を望んだのも、此処山口であったに違いない。それらが、展示品と共に詩人中原中也の本当の素顔があからさまにされていて、資料集では物足りない彼の足跡が見られた。
 一番面白かったのは、文筆業達から見た中也の感想だ。ある人は存在を否定しながら、彼の力量を認めたり、またある人は彼の心情は何もかも知っていると豪語していたりと、様々ある。

 写真は中原中也記念館。



(2003年3月11日) 西の小京都 山口



 ェックアウトを済ませ、山口線で1つ隣の山口で降りた。
 西の小京都、山口。県庁所在地ながら、緑や文化物が多く、都会特有のギスギスした所はない町だ。室町時代、此処を治めていた大内氏が、京都に憧れて様々な寺社を建立させたというが、一押ししたいのは大内義隆だ。彼は2度の日明貿易で成した莫大な財産を、軍備よりも商業発展や文化発展に充てたと言うのだから、戦国武将にしては類い希なるケースだ。しかし、謀略を得意とした武将として名高い陶晴賢に謀反を起こされ、長門の大寧寺で自害している。その後、大内氏は安芸の毛利元就に攻められ、悲劇的な最期を遂げてしまうのだが、山口に遺された建物を見ると、改めて大内氏の懐の深さが読み取れる。
 その中で、印象に残った場所を幾つかご紹介しよう。
 山公園は、公園というよりは毛利公の広い墓域の印象が強い。13〜15代目の当主・夫人の墓や忠魂碑があり、更には毛利敬親公の偉勲を讃える為、明治天皇が直々に建てさせた勅撰銅碑があるのだから、連々と続いた毛利家の偉功に驚かされるばかりである。噴水やベンチ、遊歩道がある現代風の公園に慣れてしまった私は、古風の公園の様にキョロキョロしながら、公園内に入った。
 ず目に入ったのは、高さ5メートルはあるかの青銅製の碑だった。何かと見てみれば、「勅撰」の文字に目が行った。天皇と関係があるものなのか。興味津々に碑を見ると、何と驚く事勿れ! 明治天皇が敬親公の偉勲を讃える為に、直々に建てさせたと説明書きにあったのだ。日清・日露戦争を勝ち抜いて、日本を近代国家に成長させ、国民から「明治大帝」と崇め(あがめ)られたあの明治天皇が、毛利公の偉勲に平伏すとは、中国地方の有力大名に成長させた毛利元就公とい、関ヶ原で敗れ防長2ヶ国に減封されたものの、善政を布き萩焼を創始させた輝元公とい、そして、この公園の壮大さとい、毛利公の実力振りをまざまざと見せ付けられて、顔が青冷めた。いや、この勅撰銅碑だけで毛利家の偉功を示せるだろう。
 次に印象に残ったのは、「うぐいす張りの石畳」だ。これは実に面白い。此処で拍手や足踏みをすると、前の石段に反響して美しい音がするのだ。実際にやってみると、童心に帰ってしまいそうだ。キャン、キャン。高く鋭い音がした。両手が叩き過ぎて痛くなってしまったが、必ず反響する面白さに、何度も拍手や足踏みをしたりして、暫し旅の疲れを癒した。その石段の上には13〜15代目の当主・夫人の墓があるが、もしかしたら見慣れぬ旅人の為に、美しい音を出して下さっているのかも知れないね。性格が良くなければ、此処までなれない。

 上は香山公園。
 中は勅撰銅碑。
 下はうぐいす張りの石畳。



(2003年3月11日) 大内文化の象徴 瑠璃光寺





 山公園の隅に、「瑠璃光寺への近道」の看板があったので、辿っていった。周りは静かな林で、踏まれて土が剥き出しになった所は細く、本当に近道なのかと疑ったが、瑠璃光寺の路地に出たのだ。それも、正面から程遠い、左の外れ山地に向かうコンクリートで固められた粗末な道路に出た。
 この瑠璃光寺は、大内文化の象徴であり、偉功でもある。京都を模して造られたこの寺は、山口の地名を無視すれば、京都の寺社でも充分通じそうだ。
 まず目に入ったのは、この山口の町作りを手掛けた張本人、大内弘世像だった。京都に憧れて、この町に多くの寺社を建立させて、文化向上を図ったそうである。仮に、そんな憧れを持っていなければ、多くのビルが乱立し緑が少ない、無味乾燥な県庁所在地になっていたに違いない。しかしまぁ、毛利氏に攻められ悲劇的な最期を遂げた義長公の凋落(ちょうらく)と比べると、無縁に感じるし、余計最期が悲愴に感じる。
 そんな事はさておき、散り気味の梅花が、手入れの行き届いた常緑の低い植木に降り掛かる光景や、そびえ立つ五重塔。当に、大内氏の絶頂だ。しかし、敵対関係であった毛利氏ゆかりの香山公園が隣にあるとは、何とも皮肉だ。
 の瑠璃光寺には、有難い仏様や自分にグッと来る物が多くある。
 まず、山門を潜って、左の階段の脇にある「身代わり地蔵」。一見は普通の地蔵様だが、よく見ると3つの切り傷がある。不幸等をバッサリ斬り捨てて下さるそうだ。思わず合掌した。次に、本堂左側の手水鉢だ。四角い穴が真ん中にある寛永通宝の形をした鉢で、時計回りに(真ん中の穴を「口」として、上下左右に付けると)吾、唯、足、知の四字熟語になる。この言葉は経本から『吾は唯、(現実に満)足しているのを知る』となり、「これ以上、我欲を求めるな」という意味になるのだ(断っておくが、「現状維持」とは意味が全く違うので)。此処で線香を供しようとしたが、風が吹いていて、上手く付けられなかったので、結局はヤメ。後味悪いね。
 本堂右側には、出雲一畑に本山がある一畑薬師の山口分院がある。何でも、眼病治癒にご利益があることで有名だが、私には娯しかった出雲での思い出が過ぎった。今度は誰が出雲を訪れているのかな……。しかし、島根ワイナリーで往生食ってなければ、出雲市散策が出来たのにな。そんな舌打ちをしながら、回す大念珠。
 この大念珠は、念珠を引き下げて珠8つを落として、煩悩や苦悩を掻き消すという物だが、丁度8つ落とすのが大変難しいのである。遊び気分で何十個落としたら「邪念」になるので、油断は出来ない。無邪気な子供には遊び道具にしか見えなそうだが、大人になるとそんな遊び心は「邪念」に変わって、自分の抱えている煩悩を掻き消したい一心で、珠8つを目を伏せながら落とす。
 少し引くと、カン、カン……。2つ落ちたな。後6つか。考えて落とさないと、そう思い徐に引き下げる。
 カン、カン、カン……。後3つか。
 カン、カン……。後1つか……。念入りに落とそう。思わず引き下げる手に力が入る。大分引き下げたから、そろそろ来そうだな。
 ゆっくり引き下げて、カン……。8つ目が落ちた。深い溜息が漏れた。どんな煩悩が掻き消されたのだろう。彼女がいない煩悩か、幸せの実感が無い煩悩なのか、自分の才能が生かし切れていない煩悩なのか、何れにせよ、私に蓄積した煩悩が大念珠の8つの音で打ち砕かれたのは、確かだろう。攻めて、木端微塵に砕け散って、前途洋々になってくれれば幸いだ。今か数年後か判らないが……。
 その後、瑠璃光寺の境内で、私自身の煩悩について、ゆっくり考え始めた。丁度、青空が出ているし、鳥の囀りも聞こえるし、考える所としては最高だ。遊び気分で、大念珠を引き下げている俗っぽい観光客を後目に。
 重塔は瑠璃光寺の一部だが、この五重塔と周辺の庭園の景観がメインに見える。実際、その景観は水墨画でも水彩画、油彩画でも絵になるが、どちらかというと瑠璃光寺自体が地味で、景観負けしているようだ。その証拠に文学碑が五重塔近くにあるし、案内のアナウンスも五重塔に集中している。若山牧水の歌碑も五重塔の近くにあり、その和歌の解釈も、「五重塔の元に立った」と出ているから、その景観の美しさは想像出来よう。何しろ、国宝指定だから。
 この五重塔は室町時代、応永の乱(1394年)で戦死した大内義弘公の霊を弔う為に、山口にいた盛見(もりはる)が建てたそうである。しかし完成したのは、40年以上後の嘉吉2年(1442年)だ。幾ら何でも、時間の掛け過ぎだ。国宝の魅力は判らない訳ではないが、10〜20年あれば建立出来そうだ。財が有るか無いかは別としてだ(京都を模して町造りをしていたら、かなりの財はあった筈だ。了見違いではないが、五重塔の建設費位は充分回せた筈だ)。だとしたら、建築技術だろう(高さがかなりある建築物)。そうともしなければ、こんな立派な五重塔は建てられないだろうに。風格ある五重塔に近付くと、黒く変色した木々がしっかり組み込まれている力強さや、空を突かんばかりの相輪(塔の頂の方)が凛として、その威風を山口中に、いや国中に表している様は、やはり大内氏の威光に似ている。
 此処で一首。
 春恋し常緑被う五重塔梅散る時の西の山口

 うだ。瑠璃光寺近くで面白い物を見付けたので、ちょっと綴らせて頂く。
 雑貨屋との対に、「書状集箱」と書かれている黒いポストがあった(多分、複製)。郵便制度が発足した明治初期のポストだ。しかも、雑貨屋に頼めば、消印も特製物に換えられるのだそうだ。私は此処で手紙を出そうとしたが、別に誰に出す訳でもないし、何も書く訳でもないので、写真に収めただけだった。私の無事を遠い東京に向けて、あの青空に託しながら……。

 上は大内弘世像。
 中は瑠璃光寺本堂、大念珠、五重塔。
 下は瑠璃光寺近くにある書状集箱(ポスト)。



(2003年3月11日) 山口サビエル記念聖堂


 ビエルは鹿児島出身のアンジローの案内の許、1549年に鹿児島に着き、島津貴久公の許しを得て説教したが、意外にも大内義隆公と縁があったのだ。因みに、山口では「ザビエル」ではなく、「サビエル」と呼ばれているそうだ。
 ビエルは一旦京都に赴いたが、応仁の乱の戦禍が色濃く残っていて、布教の目途は立たなかった。それ所か、当時の天皇はサビエルが贈り物を持っていないと知るや否や、謁見を願ったサビエルを門前払いしてしまったそうだ。これで、天皇の謁見では役に立たない事を知ったサビエルは、10日余りで京都を去り、山口に戻ったのだ。そして、「日本最大の領主」と謳った大内義隆公に謁見したのである。義隆公はサビエルが献上したオルゴールや時計、老眼鏡等の贈り物やサビエルの熱意に感激し、布教を赦したそうである(この前にも1回義隆公に謁見しているが、サビエルが失言してしまい、布教の許しは得られなかったそうだ)。サビエルは無人の寺に住み、山口の街で布教を行ったそうである。しかし、その道は必ずしも平坦とは言えなかった。街を屯する浮浪児達から石を投げられたり、(日本語が堪能であった)フェルナンデスが町人に対して説教をしていた所、一人の男から因縁を吹っ掛けられ、顔に向かって唾を吐かれたのだ。しかし、フェルナンデスは少しも顔色を変えず、ハンカチで唾を拭き取ると、何事もないかのように説教を続け、それが終わると、フェルナンデスの真摯な態度に心を打たれて、信者になる人がいたそうである。
 この井戸端で布教する像は、サビエルの存在の大きさを物語るには余りあるだろう。布教活動だけではなく、当時明しか交流が無かった日本に、西洋の品物を献上したり文化を紹介したりして、未知なる扉を開けさせたのだから……。
 更に、布教活動ではなく、山口の民との交流も積極的だった事も判る。その決定的な一言。サビエルと共に布教活動を行ってきたトルレス神父曰く。
「私の生涯の中で、山口で過ごした6年間程、慰めになった時はありませんでした。」知的好奇心が強かった山口の民は、異国人のサビエル達とすぐに溶け込んだと見える。
 記念聖堂には驚くべき、サビエルの布教活動が絵画となって紹介されている。私が印象に残ったのは、東南アジアで暴風雨に遭った時、サビエルは十字架の荒海に投じ、鎮めたそうだが、何とその十字架を蟹が運んでくれたのだ。タイトルは「十字架と蟹」だった。宗教人には、このような奇跡を起こす事が多い。
 サビエルはアンジローとの出会いから、日本への興味を示したのだが、本当は心身とも安らぐ所を求めて、布教するがてら探していたのかも知れない。

 上は山口サビエル記念聖堂。
 下は布教姿のサビエル。



(2003年3月11日) 最初の萩観光は商港から


 萩駅行きのバスに乗ったのは、山口駅に到着した5分後だった。それも録に昼食も頂かずに。何ともまぁ、騒々しい移動だ。空腹を逸らすがてらの速歩きは、運動不足にはもってこいだが。
 速歩きで疲れたので、バスの中で一眠りするとしようか……。
 が覚めたら川沿いの国道を走っていた。周りは山で囲まれ、バスは九十九折りの道を何の苦も無しに走っていた。信号が余り無いので、スムースに走れるし、衝動がそんなに無いので気軽にウトウト出来る。昼寝には好条件ではないか! 昨夜は余り寝ていない訳ではないが、時としては昼寝が必要なのだ。向こうでは昼寝する時間が無いのだから、余計眠くなる。
 心地良さに身を委せている内に、停留所が萩駅となった。もうそろそろだ。
 の萩駅は無人駅で、市街地から外れていて、それ故寂れているが、駅舎がライトグリーンの洋館で和やかだった(余りよく見ていなかったので、断言出来ないが)。これが何と、寂れた町外れにピッタリなのだ!
 スは萩市街を走った。渋滞気味だったが、定刻通りに走れた。しかし、細々した民家や商店が集中しているのに、2車線道路しかなく、歩道も2人並んで歩けば、邪魔になる位狭いのだ。萩バスセンター付近は特に酷かった。交通量が多い車線に隣接していて、おまけにバスセンター自体も小さかったので、余程慣れていない運転手でないと、上手く入れないだろう……。今回はベテランで、周りに迷惑を掛けずに済んだが。再開発した方が無難だろう……。歴史があって、観光地であり、交通量が多いのは、かつて住んでいた川越と同じだが、こんな細々した所もよく似ている。早い所、手を付けた方がいいよ。幾ら何だって危険過ぎるよ。
 昔前の雰囲気が詰まっているホテルを横切り、松本川に掛かる雁島橋を渡り、少し南に進むと終着地の東萩駅だ。何の変哲もないありふれた駅舎で、観光地になっている市街地とのギャップに苦笑し掛けた。
 時間近く乗ったバスを降り、駅近くのレンタサイクルで荷物を預け、使い込んでいる自転車で、萩散策に出掛けた。それも、萩主要の名所を半日で訪れる即席ツアーだ。
 毛利輝元公のお膝元、長門萩。此処萩には魅力ある名所が幾らでもある。とても半日では回れないそうで、そうとなると、「即席ツアー」ではなく「お粗末ツアー」となってしまうかな(何と惨めな……)。馬鹿にしないでくれ給え! それでも、中身がとても濃いツアーになっている。どんなツアーかは、この後を読めばよく判る。
 近くの萩橋を渡り、川沿いの道を走ると、小さな舟が何隻も繋留されている。冬の名物詩、シロウオ漁の舟だ。生憎、漁はやっていなかったが、この漁が終われば、本格的な春が到来するのだ。今日は3月11日。中旬にも拘わらず、東京では春の彩りが薄いが、西の萩では半分以上春が来ていているのかも知れない。コートを羽織っていたが、少し暑かった。
 本川の川下に行くと、萩商港にぶつかる。此処は離れ島の大島と見島に繋がる要所なので、市民にとっては重要な足だ。
 港の前で自転車を停めて、中の様子を調べた。漁船数隻と連絡船らしい船が停泊しているようだ。私は中に入りたかったが、眼前に守衛室の前に掲げられている看板が気になって仕方がなかった。自転車の駐輪料が有料だったからだ。しかし、30分以内なら無料と出ていたし、中の守衛さんも「行きなよ」とゼスチャーを送っていたので、軽く礼をして中に入った。
 港の駐輪場には所狭しと、自転車が置かれてあって、萩に通勤通学している人達の自転車なのかも知れない。此処でも、重要な足だと一目で判る。
 次に目に止まったのは、切符売り場を兼ねた待合室だ。利用客が多い割には、コンクリート剥き出しの床に、観光ポスターが無造作に貼られている壁に、粗末なベンチが待合室に置かれていてちゃち過ぎる。床にビニールシートでも敷けば、イメージが多少なり変わるのだが。私は粗末な待合室で休む気分は無く、眼前に迫る日本海を眺めていた。灯台付近の防波堤では、ノンビリと釣り糸を垂らす太公望の姿があった。その内に離島行きの船が発った。そして、静かな港が残った……。

 上は萩市内を流れる松本川。
 下は萩商港(右端に出航したばかりの連絡船がある)。



(2003年3月11日) 菊ヶ浜に秘宝あり

 商港を出て、海沿いの道に自転車を走らせると、右から黄土色をした綺麗な砂浜が現れる。菊ヶ浜である。遠くから見ても砂浜だけではなく、海も綺麗だった。少々濁り気味のお台場の海に呆れていた私は、思わず自転車を停め、澄み切った海に見取れていた。シーズンオフで人の気配は無いので、素顔の菊ヶ浜が眺められて得した気分だった。菊ヶ浜は延々と続いていた。私は浜風に吹かれながら、春の菊ヶ浜を疾走した。と言っても、時間を気にする通勤スタイルとは異なり、この菊ヶ浜が何処まで続いているのか、久し振りに見た綺麗な海の爽快感に酔いしれて、速度を上げて疾走したのだ。
 がて、道は菊ヶ浜を逸れ、観光ホテルと常緑樹が続く道を走り、萩城跡の入口の指月(しづき)小橋を渡った。
 萩城跡の二の丸跡に階段があり、一目で展望台かと察知した。自転車から降りて、土塁の階段を登り切ると、突然息を呑んだ。
 さっき見た菊ヶ浜が見えたのだが、さっきの景観よりも比べものには成らない程綺麗で、日本海に続く様が大らかに見えたのだ。澄んだ海はマリンブルーに彩られて、黄土色の砂浜はクリーム色になっていて、菊ヶ浜の最高にして最大限の魅力を忌憚無しに引き出している。おまけに晴れていたので、彩色の度合いが実に華美だ。海水浴だけでは勿体ない。絵画が何枚も描けそうだ。

 写真は萩城跡の二ノ丸跡から見た菊ヶ浜。



(2003年3月11日) 志都岐山神社・旧福原家書院


 城。防長36万石に減封された、毛利元就公の嫡孫輝元公が築いた城である。明治7年に取り壊されたものの、緑や見所の多さは、今朝行った山口の香山公園に裏付けされている。判り易く言えば、他の寂れた城跡よりも群を抜いているって事だ。
 の丸跡の入口で入場券を買って、自転車に乗ったまま中に入ると、庭園が両側にある。車の騒音が全く入らないので、気を静めて庭園が眺められる。灰緑の苔が幅を利かせている池。時期をひっそりと待つ桜。庭園の殆どが常緑樹だった。季節を証す花は咲いていなかった。それを証すのは、衣類しかなかった。着慣れたコートが春が来ていない事を証していているようだった。
 都岐(しづき)山神社の前に自転車を停め、眼鏡橋の向こう側の小高い丘ににある志都岐山神社を眺めた。そこには毛利家の家紋があり、さては毛利家に関係ありそうだなと思い、ガイドブックを開くと、当にその通り。毛利家歴代藩主を祀った神社だったのだ。早速、参拝しようかと思ったが、眼鏡橋近くの看板には、「滑り易いので、左の橋をお渡り下さい」と出ていた。左の橋は平坦で滑らずに難無く渡れるが、急なアーチが曲者の眼鏡橋は、靴のゴムの良し悪しで渡れるかどうか決まるからね。此処は格好付けて眼鏡橋を渡ろうとしたが、転んでズボンを汚してしまったら嫌なので、遠くから本殿を拝むだけで終わらせた。
 神社の傍には意外な物を見付けた。昔の田圃の跡だった。一体、何の為に城内に田圃があったのか、あれこれ思案を巡らせる。志都岐山神社への奉納する米を作る為なのか。殿様だけが召し上がれる米を作る為なのか……。何れも脳裏だけの論議に終わってしまった。
 都岐山神社の次は(毛利家の永代家老)福原家書院に向かった。江戸中期の上級武士の生活が垣間見られると出ていたのだが、ご立派なのは広さと畳位で、襖絵は絢爛の様相を留めていたものの、綻びが余りにも酷く、修繕の必要がありそうだ。襖絵は青竹に紅葉、山水が描かれているが、汚れて綻びていては、民家の悪戯書きで占められている襖よりも貧相に見える。

 上は志都岐山神社。
 下は福原家書院。



(2003年3月11日) 花江茶亭でお手前

 内を徐行していたら、門に掛札を見付けた。そこには、「お点前が頂けます」と書かれてあった。お点前の基礎なら弁えているので、門の傍らに自転車を置いて中の茶室に入った。此処の茶室は13代当主敬親公が建て、明治維新前夜に志士達と密議を交わしていたという曰く付きの茶室だ。此処でお点前が頂けるとは、維新を推進する志士になった気がする。
 に入ると、ご丁寧に茶釜に茶筅等の茶道道具があり、本格的だ。六十路のお婆さんがピシッとした張りのある着物を着て、私に礼をした。これも本格的だ。此処は胡座ではなく、正座で頂こうか。ちょいと足が痺れるけどね。
 始めに、丸くて小さい紅白一組の和菓子が出てきた。「お殿様」と言うちょっと変わった名前の菓子だった。見ると毛利家の家紋付きで、ひょっとしたら、毛利家に関係があるかなと思って、お婆さんに質問したら、紅は贈答用で、白は何と殿様だけが頂ける菓子なのだ。コリャ、恐れ入ったわ! 味は甘かった。そうだよ。おいそれと砂糖が手に入らなかった時代、貴重な砂糖菓子が頂けるのは、殿様レベルの身分だ。それが200年以上経って、庶民にも、私のような旅人にも難無く頂ける菓子になったのだ。
 次は抹茶だが、私は眼前にある茶釜から湯を汲むのかと思っていたのだが、隣の部屋から丁寧に持って行き、一礼をして私に差し出したのだ。思わず失笑した。めて、茶釜でも使ってくれよ。飾りじゃないのだから……。本格的作法が見られなかった落胆を、ほろ苦い抹茶と一緒に3〜4回に分けて飲み干した。
 て、私はある一幅の掛け軸に目が止まった。毛利元道公の印がある書で、『百万一心』と書かれてあった。しかし、「百」が「白」に見えたり、「万」の字が何処かアンバランスで、力強さに欠ける。その掛け軸を見取れていた私を見て、お婆さんが口を開いた。
「それは『百万一心』に見えますけど、よくみると、『百』の部分が『一日』に、『万』の部分が『一力』に見えますよ。」そういわれて、目を凝らしてその書を見た。明らかに「一日」の部分は判ったが、「万」が「一力」に見えるのは、聊か(いささか)無理がありそうだ(こじつけでも)。しかし、その書には大切な事が秘められていたのだ。お婆さん曰く。
「『一日に一力を、一つの心に集めれば、何時しかその力が百も万も超える』と言う、解釈なんですよ。」成程、一つ一つの積み重ねが大きな力を成していくという事だね。「塵も積もれば山となる」と同じだ。いい事を聞いたな。

 写真は花江茶亭。



(2003年3月11日) 厚狭毛利家萩屋敷長屋


 焼資料館を抜けると、昔の長屋が控えていた。これだな。確かに長屋だが、どの位人が住んでいたのだろう。名家の毛利だから、分家であったとしても、悠に40〜50人は超えるだろう。
 に入ると、厚狭毛利家の当時の姿が原形を留めていた。速歩きしても、結構長い屋敷だ。故に長屋と呼ばれているのだが。この長屋には厚狭毛利家が使用した甲冑や茶器、更には江戸末期に某家に嫁いだ際に使用された駕籠も展示されていた。駕籠の中には品のある老女の写真が置かれていた。嫁いだ当時は相当美少女であったに違いないね。
 一番印象に残ったのは、一番奥にある中間部屋。広さは大体20畳だったが、10人も入ればアップアップになりそうだ(蛇足だが、修行僧は一人1畳と聞いた)。しかし、今と昔では部屋の広さと人間心理は、較べようもないからね。どんな生活をしていたのだろう……。あれこれ仕事話や、片思いの女中の思いを語っていたに違いないね。でも、見た限りでは私にはとても為し得ない「集団行動」が見え隠れしていて、長く見ていた所為もあるか、息苦しさを感じてしまった。現にこうやって一人旅を満喫しているのだから……。嗚呼、流れ流れの旅烏。まだ見ぬ幸せを追い求め、今日もまた旅に出ている……。
 話が逸れたので、本線に戻すとするか……。
 中間部屋には、在りし日の萩城の模型があった。山の麓には本丸に二の丸があり、指月山の頂には詰城という城があり、海陸の監視塔として使われていたそうだ。
 て見終わって、引き返そうとしたら、夏蜜柑の木が山吹色の実を付けていた。そうだ。萩といえば、夏蜜柑だな。しかし、他人様の土地故、夏蜜柑をもいで頂く事は出来ず、ただ熟したのか否か、目視で尋ねるだけだった。しかし、見た目では殆ど判別出来ず、微かに漂う夏蜜柑の香りを吸えただけで精一杯だった。

 上は厚狭毛利家萩屋敷長屋。
 下は長屋で見付けた夏蜜柑。



(2003年3月11日) 旅先で萩焼造り

 焼か……。折角萩に来たのだから、土産に萩焼でも買って帰りたいな……。そう思って、萩に来たと言っても過言ではない。それも、既製品よりも自分でアレンジを加えた萩焼がいいな。計画当初そう思い、窯元に予約を入れて、この旅を迎えたのだ。やはり、旅慣れた人や旅好きの人には、自分の拘りの作品を作りたがるのが、心理に適っている。それも、工程にも拘りを持って。焼き物も絵付けだけよりも、手捻り。そして、手捻りよりも轆轤(ろくろ)回しを望むに違いない。陶芸家気取りで作ってみたい気がある。
 は予約を入れた窯元に行った。今いる厚狭毛利家萩屋敷長屋から程近いので驚いた。この窯元は土産屋を兼ねていて、色彩々の萩焼に夏蜜柑菓子等置かれていたが、街外れにある所為か、客の気配は私以外なかった。広いスペースで私一人とは、少々息苦しい。下手に萩焼でも触ったら怒鳴られそうだ。緊張が昂ぶって苛々し始めた時、係員が私を轆轤のある所に案内した。
 は、中学校の美術室を思わせるような広いテーブルに椅子数脚、部屋の真ん前には手捻りの説明をしているテレビが置かれていて、手捻りをやっている数人の観光客が見ながら、作業をしていた。何処か郷愁感があった。しかし、私は気軽な手捻りをする訳ではなく、本格的な轆轤回しをやるのだ。しかし、器用貧乏な私にでも出来るのかと少々不安だった。しかも、近くにあった完成作を見ても、バランスの取れた綺麗な作品ばかりで、不安は募るばかりだ。しかし、器用貧乏だからこそ、敢えて難しいものを選ぶのだ。
 そして、電動轆轤の前に座った。中年の女係員がスイッチを入れ、慣れた手捌きで盛り上げた土に指を差して、分厚い湯飲みを作った。係員曰く。
「此処からが、お客様が手掛ける所です。」いよいよ、緊張が高まる……。私は抹茶茶碗を作りたかったので、あれこれどう手掛けたらよいのか、見当が付かなかった。また、係員曰く。
「先ずは、両手の親指を重ねて、そこから上になぞるように、土を伸ばして下さい。」私は言われるまま、両手の親指を重ねて、手に泥を付けて、そこに人差し指と中指を当てて、対の指と同じ位置になるよう、ゆっくり指を伸ばした(書くと結構長いが、実際やってみると意外と簡単である)。しかし、感触が軟らかかったのか、余り力が入らなかった。その為、厚さにムラが出来てしまった。そこで、係員曰く。
「左肘を膝の所に置くと、バランスが保てますよ。」そこで、左肘を膝に置いて、再度、底から土を伸ばした。今度は膝がいい下敷きになったお陰で、ムラはかなり減らせた。しかし、高さだけ伸ばしたので、今度は底を伸ばすとするか。此処で、係員曰く。
「普通の人はかなり手に力が入り過ぎてしまうので、失敗する事が多いです。撫でる様に伸ばすと、上手く行きますよ。」撫でる様にか……。所が終わりの方でサッと引いてしまう所為か、ムラは完全に直せなかった。再度、左肘を膝に置き、人差し指と中指を底に当て、外側から同じ指で糸底に触れながら、同じスピードでゆっくり伸ばした。均衡感覚を確かめるのにはもってこいなのだが、運動らしい運動をしていないので、少々不安……。
 員の指導のお陰で、厚さ均等の茶碗の形が出来上がった。もう少し伸ばしたかったのだが、これ以上伸ばすと鉢になってしまうので、ヤメにした。緊張が解かれた瞬間だ。ウーム、初めてにしてはいい出来だな。抹茶茶碗の形に見えるのだが、底が狭過ぎる感が否めない。しかし、係員から抹茶茶碗でも充分に通じるとお墨付き(?)を頂いたので、嬉しかった。係員が凧糸で糸底を切り取り、上に板を乗せてひっくり返すと、少しも形が崩れずに立ったのには驚いた。軟らかい感触しか憶えていなかったので、驚きは一入だ。
 記念に日付とローマ字で自分の名が付けられるので、私はすかさず、「3.9 R.Suzuki」と記入した。所が、もう一人の20代の女係員がクスクス笑っていた。見たら、何と! 日付が間違っていたのだ。凄い失態だ。傍にあった茶碗から日付を失敬したのだが、これが2日前の日付とは迂闊にも気が付かなかったのだ。やだねぇ。今日の日付を忘れる程、旅行に夢中になるとは……。下手して、仕事先までも忘れてしまったら、迂闊だけでは済まされないな、コリャ。日付を訂正して、改めて自作の萩焼を眺めた。ウーム。抹茶茶碗にも見えるし、飯盛り茶碗にも見える。とにかくオールマイティーが茶碗になりそうだ。勘定は送料含め6500円也。応対した係員が20代の女店員で、こんな若い人が焼き物を作っているのかと思うと、しんみりしたな。失礼ながら、こんな娘がまだいるとは……。
 に窯元を見学した。まず、目を引いたのはNHKドラマ(短編)で使われた焼き物だった(タイトルは忘れてしまったが)。萩焼の制作に青春を懸けている若い女性の物語なのだが、その全ての現物やご丁寧に台本までも、硝子ケースに保管されていた。中に入ると、物音一つ無い静かな陶芸の世界が広がっていた。足音だけでも、耳障りになりそうだ。薄暗い部屋で黙々と轆轤を回す職人。小さな異なりすら見られない出来上がった茶碗を、12個ずつ一度に板に乗せ、形を崩さずにひっくり返し、乾燥させる職人。脇目も振らずに仕事している姿は、当に職人だ。時計を見ずに自分の作業に没頭するするのは、そう簡単な事ではない。
 次に萩焼を売っている所に入った。中に入ったらあるある。一輪挿しに花瓶、抹茶茶碗に湯飲み茶碗。それも色彩々にあるのは驚いた。青、黄、白、黒、緑、臙脂、釉薬の種類が違うとこんなに色の差が出るとは……。私は奥にある抹茶茶碗コーナーに入って、あれこれ見定めた。6500円の茶碗を見た後に、白い茶碗を見た所、手が震えそうになった。30000円の値札が付いていた。私の財布より重いな、コリャ。隣の茶碗には16500円と付いていたが、大して驚かず、胴から糸底に至るまで、じっくり見ていた。更に奥に入ると、野立をあしらったコーナーがあって、そこにも人間国宝に指定されている陶芸家の茶碗があった。しかも、硝子ケースに入れられているので、余程高価な物に違いない。16000円、25000円と人間国宝の作品にしては、どうも迫力が弱いな。と思った時、薄紅梅の茶碗に目が行った。糸底縁に値札があったが、驚く勿かれ。お値段106万円也! 一瞬息を呑んだ。大きさはさほど大きくなかったが、こんな茶碗が100万円以上するとは、人間国宝の魅力はさることながら、此処まで成り上がった労苦の痕跡が滲み出ているようだ。もし、割ってしまったら、苦笑すら出来ない。更に、若手陶芸家が作成したオブジェも面白かった。このコーナーにあったのは、亀裂、割れが多々ある黒地に下地の赤が見え隠れしている、何とも静かな空間に熱き思いが滾る力強い作品だった。また、入口近くにあった紅くて、曲線美が魅力の作品も絶品だった。縁の曲線や胴にまでしっかり続いている所に、柔らかさを感じる。しかも、これが萩焼だとは想像が付かないね。
 私は萩焼の想像を超える芸術美をも手に入れたのだ。

 写真は萩焼を焼く窯。



(2003年3月11日) 自転車で巡る城下町 萩




 転車で指月橋を渡り、堀内に入った。
 堀内界隈は、藩政時代の名残を留めていると出ていたので、どんな所かと自転車を走らせていたが、美しい土塀を見付けた。思わず、ブレーキを掛けて眺めてしまった。落書きが全く無い土塀は、自然に城下町萩を誇りにしている市民の息吹が読み取れる。何と言っても、毛利公のお膝元だからね。私もかつて城下町として知られている川越に長く住んでいたのでよく判るのだ。
 しかし、藩政時代の名残は何も建造物だけとは限らない。
 処堀内から南に下ると、「平安橋」という石橋が見え、国道191号線を渡ると、如何にも読めそうな地名が電柱にある。「平安古(ひやこ)」と出ているが、地元の人は疎か、余所者で正しく読める人はざらにいないだろう。此処平安古は、中級武士と下級武士が住んでいた所で、此処にも土塀があるのだが、私が一押ししたいのは、見通しの悪い曲がり角(クランクという)が何ヶ所もある道路である。おまけにガードミラーも無いので、迂闊にスピードは出せない。これも藩政時代の名残の一つ「鍵曲(かいまがり)」である。字の如く、鍵のようにクネクネ曲がった道の事で、戦争の事を考えて、敢えて見通しを悪くさせたそうで、城下町ならではの道だ。今となっては交通事故防止対策道となっているが、立派な藩政時代の名残である。
 政寺は一見は普通の寺だが、何を隠そう幼少時の高杉晋作や伊藤博文の良き遊び場だったと聞いたら驚くだろう。山門には毛利家の家紋をあしらった垂れ幕があり、毛利家のお膝元の城下町という事を証している。中に入ろうとしたが、拝観終了時間の5時に近かったので控えた。入ってすぐに出る拝観は、味気ないからね……。
 の円政寺付近は、木戸孝允旧宅、萩藩主の侍医を務めた青木周弼(しゅうすけ)旧宅、そして高杉晋作旧宅が立ち並び、車が殆ど通らず物静かな所だ。こういう所は、自転車を使わずに漫ろ歩きで行きたい所だな。どうも自転車を使っていると、通勤を思い出してしまい、急いでいるだけにしか見えない。ゆったり漕いだのは、菊ヶ浜だけみたいだ。萩の名所を訪ねるべく自転車を使ったのだが、時もの癖が知らず知らずに出てしまい、結局、時間制限ありのミニパックツアーに変わってしまった。本当に味気ないよ。時間は一杯あるのにさ。秒針を気にせずに過ごせる日は何時来るのかな……。
 見給え。青木周弼旧宅前で、バスガイドに率いられたパックツアーの観光客が、物珍し気に旧宅を見ていた。そして案内が終わり、次の場所に移ると、ゾロゾロと付いてきて、大勢で名所を見ていた。あのさ……、折角娯しい旅行なのに、こんな集団でゾロゾロするのは、本当に娯しいのか? 真顔で問い詰めたい。勝手に決められたコースと、定刻きっかりのスケジュールで動かされるのは、私にとっては極めて苦痛であり、「旅の醍醐味」を満喫するのには、とてもじゃないが難い。お金と休暇を使ってきたのだから、コースもスケジュールも自分の勝手で行き、時折アドリブを利かせるのが、道理じゃないのか? 20代の若造が既に、旅の醍醐味を味わっているというのに、集団行動が殊の外苦手な私なら、すぐに判ってしまったのだろう……。束縛される愚かさと奔放の嬉しさを。いい歳して、そんな事を解さないとは、旅行する資格なんて微塵も無い! 私は嘲笑をしながら、パックツアーの観光客を見送った。
 この後、菊屋家住宅に行ったが、閉館時間を過ぎていたので、外観だけ見ていった。中に入れるが、次回此処に来た時のお娯しみに取っておくとするか……。

 上は美しい土塀が続く道 堀内界隈と平安古(ひやこ)の鍵曲(かいまがり)
 中は円政寺。
 下は菊屋家住宅。



(2003年3月11日) 城下町の温泉旅館へようこそ

 処萩には数多くの旅館・ホテルが点在しているが、私がよく利用している旅行サイトで調べてみると玉石混淆(ぎょくせきこんこう 良い物と悪い物が混ざっている様)で、なかなか「此処にしよう」という旅館・ホテルは見付かり難い。随分考えた末、東萩駅東の椿東(ちんとう)にある(旅館固有の)露天風呂がある日本旅館に泊まる事にした。外観は風情漂う旅館だったので、或る程度期待は持てそうだ。何でも、東萩駅から電話を入れると、迎えに来てくれるのだから……。泊まる前にも期待は膨らむ一方だ。
 近くのレンタサイクルに自転車を返しに行くと、奥のソファに一杯置かれていた観光客の荷物が、私のだけになっていて、もう夜が近い事を証していた。今宵の宿に向かったんだな。となると、一番最後は私か……。と言う事は、片付けが捗っていない事になるな。気不味そうに荷物を取りに行き、宿泊斡旋している所を後目に去った。宿泊斡旋って、17時からでも間に合うのか? そりゃ、萩には多く点在しているのだから平気だろうが、下手な所に当たらない事を祈るだけだ。
 速、宿に電話を入れて、待つ事10分。宿の車が来た。しかし、私は予期せぬ事に目を疑った。何と一人客なのに、ワゴンで迎えに来たのである。それも7〜8人乗りの大型ワゴンで。いきなり贅沢な気分にさせられた。疲れが吹っ飛びそうだ。運転手はドアを開け、私は車内に入った。一昔前の仕様車だったが、一人客でも差別していない所を見ると、相当宿の方もいいだろうと、自然に気分の良い鼻歌が出た。
 その鼻歌に乗じて、運転手が話し掛けてきた。
「今日は、何処からいらっしゃいました?」
「あぁ、東京です。西寄りの八王子です。」
「へぇ、東京から。随分遠い所から。直接此処へ?」
「いえ、始めは出雲に出まして、松江、津和野、湯田温泉と回って、今日は山口に行って、此処に来ましたよ。」
「ほぇ、随分長く旅行しましたね。」行程が長かったのか、驚きの溜息が出た。
「えぇ、今日で4日目で。明日は関門の方へ行くんですよ。」
「関門ですか。この萩は回られたんですか、今日。」
「レンタサイクルで回りましたよ。菊ヶ浜は滅茶苦茶綺麗でしたよ。東京の海とは較べられませんよ。」
「そうですか。人がいなくて、よく見られたでしょ。」
「えぇ、オフですからね。後、萩城址に行きまして。あっ、そうだ。萩焼も作ってきましたよ。」
「萩焼もですか。いい旅の思い出になりましたね。」
「いい土産が出来ましたよ。」と、話している内にワゴンは椿東に入り、急な坂を登った。登り切ると、目の前に風格漂う7階建ての和風旅館が見えてきた。玄関も落ち着いた暗色が配されて上品だった。コリャ、中途半端な旅館では無さそうだな。期待と現実が一致しそうだ。
 私は運転手に礼を述べて、胸を張って玄関を潜った。脇にある団体歓迎の看板を後目にしながら。
 フロントはベージュ基調で、絨毯も落ち着いた葡萄色で、尚も上品さを窺わせる。
 ェックインと済ますと、紫色の着物を着た従業員が部屋まで案内して下さった。私が泊まる部屋はバス・冷蔵庫無しの東館であり、その分料金が割安で、旅館では「ビジネスプラン」として、扱っている。
 それにしても、東館までの距離は結構あった。入口から右へずっと進み、途中に売店や食事処がある。それを抜けると、右に曲がり、突き当たりのバーを左に曲がる。途中からビニール張りの床になっていて、安っぽさが先走っていた。となると、さっきの落ち着いた上品なフロントは上っ面なのか。それでも、ピシッとした着物の従業員はどういう事だろう……。見栄と来たら厭らしいが、もしそれに相応しい設備があるとしたら……。
 ビニール張りの階段を上がって、2階の客室に案内された。和室だった。バスと冷蔵庫は付いてないものの、毛羽立っていない綺麗な畳の部屋は上品で新鮮だった。此処の所、ホテル泊まりだったので、余計新鮮さが際立っていた。ざっと、10畳程あったな。しかし、窓からの景色は海や市街地は見えず、静かな椿東の林が見えただけだった。「ビジネスプラン」だから、風景は二の次にされるのか? でも、万年床に近い洋室で暮らしている私にとっては、心寛ぐ客室だった。
 さて、休むか。



(2003年3月11日) 城下町の旅館の過ごし方

 は荷物を下ろして、背凭れに少し凭れながら、座布団に座った。そして、家具調炬燵にある、茶請けのゴフレットを抓んだ。甘さ控え目の夏蜜柑クリームがイケていた。思わず3枚全部抓んでしまった。是非土産にしたい。
 さて、どうするかな……。18時近くになっていたが、露天風呂は混んでいそうだし、夕食はまだいい(録に昼食を頂いていない癖に……)。自転車を漕いでちょいと足腰が疲れたな、足を伸ばして、少し休むとするか。何も急ぐ事はないじゃないか。時間に追われる東京ではないのだから。旅先の山陰の萩だ。旅行の時計に合わせていこう。食事をするのも、入浴するのも、定時でやる必要はない。
 さて、休むとするか!
 麗な畳の客室で、私は滞っていた旅行記を綴っていた。部屋が変われば気分も変わるという通り、遅筆に悩まされた旅行記が、軽く1頁を超してしまった。こいつはいいわ。このまま遅れた分を取り戻そうかとしていたが、一旦思案に詰まったら、快進撃は此処で止まってしまう。飲みかけのペットボトルに手が届き、ペンを走らせず、ついついCDに手が伸びて、時間をCD鑑賞に充ててしまう。そして、思い出したようにペンを走らせる。段々、その旅行記を綴るのも飽きてきて、とうとうペンの蓋を差してしまった。
 それにしても、周りは本当に静かだ。教養を知らぬ子供達が走り回る音や、酒精で緩んだ口から出る大声奇声は聞こえなかった。風格溢れる旅館だな。ただ、静かな空間が流れていくだけ。
 の空間に浸りながらCDを聴いている内に、空腹感が沸いた。そういえば、朝食も録に摂っていない状態だ。それにしてもよく持ったなぁ。我ながら感心する。山口では、昼食を摂る時間が無く、早足で駅に向かったし、萩では欲張って名所巡りに時間を費やし、結局、今日は体内脂肪を燃やして旅行した事になるのだ。萩位の由緒ある城下町は半日の即席ツアーではとても回れない。仮に回ったとしても、私のような中途半端に終わってしまう。
 愚痴になりそうなので、夕食を頂くとするか。
 は先程通り過ぎた食事処で、夕食を摂りに客室を出た。しかし、距離があるのが難だ。途中の内湯の所で、若い女性を見付けた。大学のサークルなのか、仲間同士の旅行なのか。しかし、都会の喧噪を一時でもいいから忘れて、地方のゆったりとした空間に浸りたい気持ちは良く判る。その所為か、話し声も内容もゆったりとして明るく、両目も輝いていて、身体も何処か芳醇に見えた。
 目の美しい食事処で、カツ丼と刺身盛り合わせを頂いた。此処で少し奮発して小瓶の麦酒を頼んだ。厨房にはおばさん一人しかいなく、客も私一人のようだった。何処か気不味かった。おばさんの視線に落ち着きを失いそうだ。その所為で、出された麦酒もグラスに注いだまではよかったが、飲もうとはせず、急須毎出されたお茶ばかり飲んでいた。
 次に刺身盛り合わせが出てきた。萩は漁港もあるから、新鮮な魚介類が頂ける。鮪、鰤、鯛、鯖等盛られていて、2000円だった。しかし、量はさほど多くないので、割高な印象だ。鮪、鰤、鯛は難無く頂けるが、鯖は味噌煮か塩焼きでしか頂いた事が無く、刺身で(〆鯖ではなかった)出されたのは少々戸惑った。どんな食感が判らず、故意に忌避し、カツ丼ばかり口に運んでいた。
 それにも拘わらず、客は私一人。気不味さは一向に収まらない。酔いで紛らわそうと、視線をいちいち気にしながら、麦酒を啜り始めた。気不味さはどうにか和らいだが、つい周りを見ると、客は私しかいないので、気不味さが蘇る。
 私一人だけの食事処で、黙々と食事を摂る事に専念しようとしたが、刺身盛り合わせの鯖がどうも気掛かりで、箸を進めようとするが、刺身の鯖なんか全く口にした事がないから、もう少しの所で引っ込めてしまった。しかし、少なくなったお茶を注ぎ足し、なみなみにした後に、鯖の刺身に手を付けた。酢の匂いはしなかったが、早く噛んで飲み込んでしまったので、食感はどうだったのかは判らない。敢えて言うなら、醤油を多目に浸して頂いたのと、その後にお茶を多目に啜った事は憶えている。馴染めない物を頂くには、多少の勇気が要るな……。
 そんなこんなで、カツ丼と刺身盛り合わせを平らげた。麦酒は6割程干した。身体から発した信号で止めた。
 部屋に戻り、滞っている旅行記を綴り始めた。



(2003年3月11日) 城下町の温泉

 り続けていた旅行記が、キリのいい所まで来たので、ペンの蓋を差した。
 では、露天風呂にでも行くとするか!
 の旅館の露天風呂は個性的で、露天風呂へは旅館専用のモノレールで行くのだ。更に、モノレールの終点はテーマパークになっていて、萩市街と日本海が望める展望台があり、ハイキングやウォーキングも出来る。
 しかし、私の客室からモノレール乗り場までは、本当に遠い。ただでさえ、フロントに行くにも1〜2分も掛かるというのに、モノレール乗り場へは、そのフロントの右を出て、宴会場を過ぎると、眼前にゴルフ練習場が見えてくる。その手前にモノレールがあるのだ。待合室があるのには驚いたね。それも、屋内に造られている。ご丁寧に絨毯(じゅうたん)が敷かれてあって、ソファや自販機もあった。多分テーマパークに向かう人が使うのかな?
 私が来た時、モノレールは発ったばかりだったので、テレビの天気予報を見て、明日の天気を確かめた。明日は下関だから、山口西部だ。晴れのマークが出ていた。よかった。そう安心していると、上からモノレールが降りてきた。私は乗り場に行った。
 モノレールから降りてきたのは、私と同年齢の若者だった。いいね、仲間揃っての旅行は。それも、城下町萩と来たから、低俗な格好も小洒落て見える。
 乗客は私一人。中は長椅子だけの簡素な造り。
 運転手が発進のボタンを押すと、車体は揺れながら、上り坂をゆっくり登り始めた。それも、ディーゼル音を発しながら。風情一杯だ。
 モノレールはゆっくり坂を登っている。下は岩場で、よくもまぁ、1本のレールが上手く敷かれた感心が沸いたが、大きな車体を上手く支えられているのかと疑いの気持ちも出た。揺れも多少あるから不安は募る。
 泉場に着いた。乗り場を出ると、道を隔ててすぐに露天風呂がある。中は時間が遅いのが幸いして、人影は少なかった。従業員1人が脱衣所を監視していたが、人影がいない所為なのか、少々退屈気味で怠そうにしていた。
 さて、待望の露天風呂だ。中は中年のおじさんが1人いるだけだが、温かい湯気が立ち篭めていて、まだ暖か味が薄い東京に住んでいる私には、入りたい一心で、充分身体にお湯を掛けずに眼前の露天風呂に入った。おじさんが平気な顔で入っているから。所が、思わぬ暑さに咄嗟に足を引っ込めた。熱い湯なのか……。此処しかないのなら、充分に湯に慣れて入るしかないな。私は湯を掬って、身体と両脚に掛けて、露天風呂に入ったが、熱い湯が苦手な私には、難無く肩まで浸かれず、待望の露天風呂が充分に娯しめない悔しさが先走った。
 ると、奥の方に差し札があった。眼鏡を掛けていなかったので、湯槽の中をザブザブと見える所まで進むと、「こちらは少々お湯が温めです」と書かれてあった。これならイケそうと、熱めの風呂を上がって、温めの露天風呂に入った。オッ、今度はイケるな。ゆっくり肩まで浸かった。あぁ、丁度いいわ……。しかも、温めには私一人だけなので、自由自在に浸かれる。泳ぐ事にはちょっと狭いが、悠々と全体を回れる。
 ちょっと身を上げて外を眺めると、思わず見取れてしまった景色があった。眼下には街灯の明かりがとても綺麗な萩市街の夜景が見えたのだ。華美で派手なネオンサインは無いが、此処が由緒ある城下町とは思えない程、街灯が昼とは違う夜の萩を演出している。露天風呂に浸かりながら、夜景を見るのは殆ど無かったが、旅先でこのような美しい夜景を見ながら、露天風呂に入れるなんて、本当に初めてだ。昨夜の湯田温泉では、夜空を見ながら露天風呂に入ったな。今まではそんなに風呂に拘らなかったが、この旅行で大分変わったな。従来は手軽にシャワーだけで済ませていたのが多かったが、やっぱり風呂は全身で浸かれるのがいいね、しかも風呂が広くて、しかも私一人しかいなくて、テレビの旅行番組みたいに、充分に露天風呂の雰囲気が娯しめるのがいいね。
 朝も、起きて暫くして内湯で妙徳温泉という温泉に入った。まだ、7時前後なので、人もそんなにいなかったし、ノビノビと入れた。バブルジェットがある浴槽にゆっくり身体を沈ませて、手入れされている庭園を眺めた。バブルジェットは初めてなので、朝からエナジーが貯まっていくような爽快感が沸いた。おまけに人があまりいなかったので、両脚伸ばして気楽に寛げる。



(2003年3月12日) 松下村塾・吉田松陰記念館



 て、松下村塾は宿泊した旅館前の急な坂を下って、川沿いに右に歩いて橋を渡ると、大きな駐車場が目に付く。その奥にデンと控えているのが、松下村塾の入口の松陰神社の鳥居である。その鳥居を潜ると、左には「親思ふ 心にまさる 親心……」と詠まれている石碑がある。これは松陰が安政の大獄で、死刑を執行される時に詠んだとされる遺詠である。しかし、妙な事に首を傾げた。一般的には「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも……」が有名であり、石碑には「寅二郎」と記されているので、本当に松陰が詠んだのかと、疑いを持つ方もいらっしゃるだろう。その答えは此処萩松陰神社にある。どうしても信頼出来ない疑心暗鬼の方は、実際行ってみて確かめるといいだろう。
 その石碑を通り過ぎると、松の下にコンパクトな一軒家が建っている。もしや、此処がそうなのかと疑問を持ち、周りを回ったら、玄関に「松下村塾」と立派な毛筆で書かれている看板がある。此処から多くの優秀な人材を輩出した松下村塾である。実際見てみると、8畳と10畳半の講義室があるだけのこぢんまりとした小屋である。でも、此処で高杉晋作に木戸孝允、伊藤博文や山県有朋が学び明治維新の原動力になったのだから、大いに価値がある……。しかしまぁ、全国でも有名な藩校明倫館が寂しい跡しかないのに対し、こんな粗末な松下村塾が立派な史跡として残っているとは、歴史というのは判らないね、コリャ。
 陰神社でお神籖を引いた後、吉田松陰歴史館に入った。所が仮設なのか、床はビニール張りでも絨毯(じゅうたん)敷きでもない。三和土(たたき)が剥き出しなのには驚いた。壁も厚みのある板だけで拵えていて、650円の入場料は自棄に高く感じた。おまけに此処では蝋人形で松陰の生涯を語っているのだが、表情が止まっている蝋人形は、薄暗い灯りに照らされて、不気味さを醸し出していた。
 それでも、面白い所が一杯あった。例を挙げると、何度も投獄された松陰だが、そこでも勉学に励み、次第に周りの囚人達もその松陰の真摯な姿勢に惹かれて、松陰の講義を聞くようになった。何もする事が無く悶々とした毎日に、刺激的な行為だったのだ。それだけではなく、囚人達で句会を催したり、更には牢番や司獄官までもが、講義を聞くようになったそうである。また、先程の松下村塾も、松陰を慕って入門してきた門下生達が、書物を片手に増改築を施したという話も残されている。今としては考えられない話だが、吉田松陰はそれ程、人々を惹き付ける程の学者だったのだ。

 上は松陰神社。
 中は松下村塾。
 下は吉田松陰像。



(2003年3月12日) 目指すは、関門海峡!

 けた荷物を受け取る為に、旅館に戻った。所が、旅館前の急な坂を登るのがきつかった。おまけに連日左肩で鞄を掛けていたから、左肩が痛み始めた。勤続疲労だ。そこで、担ぎ慣れない右肩で鞄を掛けたが、違和感が拭えず、却って鬱陶しさがぶり返ってきた。それでも、愚痴を一つ零さずフロントに寄り、荷物を受け取って、東萩駅まで歩いた。
 いたのは良かったのだが、今度は徐々に重くなってきた衣類袋が、担ぎづらくなってきた。おまけに、土産が入っている紙袋を一緒に持っているから、右手が痛くなってきた。指の腹はすっかり臙脂(えんじ)色に染まり、皮膚が剥けるのは時間の問題になってきた。それだけではない。行きは運転手と話をしながら走ったので、道が良く判らないのだ。思しき道を辿っても、合っているかどうかも心配だ。11時25分発の小郡行きのバスに乗らなくてはいけないのだから。懐中時計を見たら、11時2分だった。後20分か……。早く行かなくては、予定が大幅にずれてしまう。
 私は駅前にある一際目立つホテルを道標にして、昨夕ワゴンで通った思しき道を辿った途端、踏切を渡った。その右手には東萩駅のホームが見えた。近い証拠だ。急に安堵感が湧いてきた。まだ20分近くもある。こうなったら、肩や腕の疲れは何ともならない。
 松本川沿いの道を北上すると、右手に道標のホテルと、タクシープールが見えてきた。東萩駅だ。
 此処で思わぬ出会いがあった。伊藤博文別邸に向かう途中に会った、タクシーの運転手に又会ったのだ。見た途端、私も運転手も驚いて、つい挨拶を交わしてしまった。いやぁ、「旅は偶然の出会いを約束させる」と私の旅の定義にあるが、本当にその通りだ。もしかしたら、お忍びのスターやタレントに会えるかも知れないね。ただ、こんな地方の小都市を旅しているかどうかは、「?」だが。
 スに揺られる事1時間少々。小郡(現 新山口)に着いた。殆ど、途中のバス停では乗り降りすることなくスムースに行けた。それにしても、随分長く走ったな。日本海側の萩から、瀬戸内海の小郡まで山口県を縦断したのだからね。何時もなら、気怠そうに背伸びをするのだが、今回は背伸びをせずにバスを降りて、駅に入ったのだ。しかも、欠伸も一つもせず。
 その理由は、これから向かう関門海峡に大いに期待しているからだ。ふく料理は勿論、海峡ゆめタワーに壇ノ浦、関門隧道、レトロ門司港、そしてしものせき水族館「海響館(かいきょうかん)」。実を言うと、この海響館が私の目的と言ってもいいだろう。前に、或るアイドルユニットが手伝ったコーナーがあると知り、是非見たいと予定を組んでいた。しかし、2年前の話だ。あるかどうか判らない。だけど、この旅行が現実になっているだけでも、価値があると思いたい。
 真っ先に列車に乗りたかったが、キャラメルにチョコレート、ジンジャーエールと食事らしい食事は摂っていなかったので、腹拵えしていく事にするか。「急いては事をし損じる」からね。売店で、穴子弁当とレモンティー、チーズバーガーを買った。本当は穴子弁当だけでもよかったのだが、箱が小さく五分しか収まりそうにもなくて、補助として買ったのだ。しかも、レンジで穴子弁当を温めて貰ったので、食が進みそうだ。
 車中の山陽本線に乗り込んで、終点下関までノンビリするとするか……。も、時間を過剰意識し過ぎて、新幹線に乗る必要なんか無いのだ。「急いては事を……」ま、いいか……。
 郡を出れば、すっかり田舎の光景が広がっていく。休閑中の田畑の合間に民家が点在しているかと思えば、遠くには靄(もや)が掛かった瀬戸内海(周防灘)が見え隠れする。隧道を出れば、前とは違った景色が見えてくる。民家が集まり、後ろからローカル線が出てきたり、高架の新幹線が、方々を走っていたりしていた。それにしても、長閑(のどか)な田園地帯にコンクリートの高架線は、何ともアンバランスだ。唐突で違和感を誘うからだ。一体、日本人はこの新幹線で速さ以外に、何を獲得したというのだろう。旅人には全く理解し難い疑問だ。
 て、難しい話は、此処で終わりにして、昼餉でも頂くか。
 先ずは、チーズバーガーを頂いた。熱くなく、丁度いい温め加減で、一気に進んだ。バーグの真ん中には500円玉大の穴が開けられていて、そこにはチーズがトローリとしていた。高速道路のSA・PAで頂けるのと同様だ。次に穴子弁当だ。歯応えのある穴子がイケていた。大根の粕漬け、岩国蓮根を合間に抓んだ。
 此処で一首。
 埴生(はぶ)越えて遠くに聳える関門の春は来たかと隠す靄かな

 関。東に銚子、南に串本、そして、西の下関。本州の西端を制覇したか(実際の西端は下関ではないが)。
 私は窓框(まどかまち)に頬杖をしながら、下関到着を見詰めていた。下関の街は、市街地の向こうには関門海峡が控えていて、近くに海峡メッセ、ゆめタワーが建っていて、海峡には関門橋がデンと控えていた。此処が下関か……。海の街だ。
 列車はホームに入り、ドアが開いた。私は3番ホームに立ったが、ホームの一昔前の造りに、唖然とした。ホームの番線しか記されず、ペンキが剥がれ落ちて錆び付いている柱、電光掲示板が無くて、幾ら由緒正しい下関でもチャチ過ぎる。
 言いようがない文句をブツブツ呟いて、駅を出た。

 写真は懐かしい(?)小郡の駅名標。





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