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憧れの関門に降り立った私が、まず向かったのは、ゆめタワーだ。千葉にあるポートタワー同様、ライトアップされて、夜景を彩らせてくれるのだが、そのスケールや様相はゆめタワーの方が上だ。展望台は球体になっていて、スペースが広いし、高さも153メートルと高い(因みにポートタワーは125メートル)。それ故、関門海峡が良く見えるのだ。
一刻も早く見たい、と興奮していた私は、重くなってきた手荷物を嫌々抱えて、ゆめタワーに向かっていた。それにしても、あちこちで土産を買ってしまって、重くなってしまったな。東京に戻ったら、次の旅に備えて、カートでも買おうか……。
海響館共通入場券2200円を買って、中に入った。エレベーターからは、関門海峡や巌流島が見え、歴史の大舞台が間近に見られた興奮で、疲れを癒した。録に朝食も頂いていなかったので、疲れ方は急激だ。
最上階の展望台に着いた。いよいよ、360度の関門海峡の眺望とご対面だ。そして、展望台からの眺望は、萎え気味の展望台に対する心持ちを覆すものだった。
眼前に広がる下関と門司の街並みや、港町に挟まれた関門海峡、そこで行き交う貨物船や海峡を跨ぐ関門橋が良く見えて、如何にも自分が関門一帯を握る資産家になった気がするのだ。
右方に視線を移すと、レトロで名を馳せる門司港が見えてくる。三井倶楽部に旧大阪商船、門司港駅が古き良き大正浪漫を醸し出してくれる。いや、生きた大正浪漫だ。
左方に視線を移すと、外国情緒と歴史が交差する下関の街が見える。秋田商会、旧英国領事館、高杉晋作ゆかりの日和山(ひよりやま)公園、火の山に関門橋。そして、源平合戦の終着点壇ノ浦が見える。古代と近代が交差する光景は、アンバランスにも見えるし、この街が昔から続いている事を証している。
下の方を見ると、あるかぽーと(地名)があって、その一角に曲線美の煉瓦造りの建物が海と隣接している。此処が海響館だ。見てみると、意外に近そうだ。時刻は14時半だ。今からでも行けそうだな。しかし、私は巌流島の方に視線を向けた。
本来、巌流島には住民がいたそうだが、昭和30年代後半に最後の老人一人が島を出たので、無人島になったそうだ。しかも、明治時代から埋め立てが始まったらしく、今では島の面積が5〜6倍にもなり、その3分の2が会社の所有地で、資材置き場として使っているのだ。呆れた。歴史の大舞台が、心ない企業に踏みにじられているようで、歴史の匂いが薄らいでいく。それでも、こうして展望台から眺めてみれば、互いに手が届きそうな距離に見えるから驚いた。
上は海峡ゆめタワー。
中は(ゆめタワーから見た)門司港の街並みと下関の街並み。
下は巌流島。 |
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ゆめタワーを降りた私は、観光案内所が入っている秋田商会に向かった。在りし日の秋田商会の邸宅が見られるのだが、補強は余りしていないので、入場者数が制限されているそうだ。しかし、私は幸運にも、秋田商会の邸宅が拝見出来たのだ。
2階に上がると、広々とした畳部屋の一角に、髭を生やした好々爺の銅像と肖像画があった。秋田商会の開設者の秋田寅之介だ。ひょっとしたら、この部屋に多くの友人を集めて、賑やかな宴を開いたのであろう。この町が貿易港なので、東京では手に入り難い珍しい酒肴(しゅこう)が出たのかも知れないな。
3階も畳部屋だが、よく見ると、四角い部屋が続いていた。これは襖を取り外して、大勢の客が難無く入れるように工夫されている部屋だったのだ。成程、襖を取り外せば大広間に早変わりし、襖を取り付ければ、個人の部屋に早変わりするのか。単純だが、機能性を持たせた設計だと判る。それ程、秋田商会は人脈があったのだろう。驚いたのは20畳ある部屋だ。こんな広い部屋だと、何をすれば良いのか判らないな、コリャ。
しかも、キチンとした防災対策も施してあるのも、この邸宅の魅力だ。歩いてみると判るが、直線の廊下が多い。これは、逃げ易いように複雑な廊下を避けているからだ。また窓には丈夫な鉄の防火扉が取り付けられているが、隣家に燃え移らないようにしているのだ。建物は西洋風でありながら、中は純和風で、堅実な防火策がキチンと施されているのだ。また、屋上には(非公開ながら)茶室や庭園、離れもあり、その離れの灯りが灯台の役割を持っていたのだ。資産家でありながら、決して他人様に迷惑を掛けない、開設者の心の広さが伺える。
秋田商会と程近い、煉瓦造りの建物が旧英国領事館である。流石煉瓦がよく似合う英国風の建物で、レトロの薫りを醸し出している。しかし、時代の流れは何とも不思議な物で、当時は珍しく気障な建物も、100年近く経てば、レトロの仲間入りを果たし、人々の目も変わってくるのだから。
中に入ると、英国から取り寄せた優雅な家具、使い込んでいる煤が付いている暖炉(そういえば、外観で煙突が数本あったな)、エリザベス女王の肖像画等、隅から隅まで英国一色だ。しかし、日本に建てられた建物だから、少しでも日本文化を仄かに感じさせてくれる物が一つでもあればいいな。差詰め近辺の工芸物、博多人形だろう……。
一番印象的だったのは、領事館長の部屋だった。机と椅子があって、「お手を触れるのは、ご遠慮下さい」という注意書きが無かったから、早速座ってみた。机の引き出しは楽に開けられ、下敷きもまだ現役で使えそうだ。此処で、滞っている旅行記を綴って……、駄目だ! こんな気易いご用で使える訳がない。仮初めにも、領事館だからね。一体、どんな仕事をしていたのかな……。書類に目を通して、了承の印を押したのだろう。また、お気に入りの秘書を呼んで、仕事の打ち合わせをしたのかも知れないね。しかし、異国下関で過ごす生活は、何かしら不安があったのかも知れない。文化の違いは外せないし、ホームシックも避けて通れない。そのお隣門司も然り。明治からずっと本州と九州の玄関口でもあったし、外国船が停泊していて国際都市として鳴らしていたからだ。横浜、神戸にも負けなかった程だから。
館長の部屋には大きな窓があって、そこから傾いていく陽がよく見えた。執筆中であっても、このような夕陽を見ながら、懐かしい故郷の事を思っていたのだろうね……。
上は秋田商会と開設者の秋田寅之介の胸像。
中は秋田商会3階の広い畳部屋。
下は旧英国領事館と領事館長の部屋にある机。 |
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次に向かったのは、海響館の近くにある海峡の駅、カモンワーフだった。対には門司の街並みがよく見える。此処は、レストラン、ショップ、マーケット等が集まるショッピングセンターで、私がよく行くプレナ幕張によく似ている。しかし、プレナ幕張に行き慣れている私は、そんなに変わらないカモンワーフを詰まらなさそうに歩き回り、最終的に海と接しているラブストリートのオープンカフェに着いた。此処がプレナ幕張と大きく違う所だ。
間近に関門海峡を通る貨物船の汽笛や、必ず恋が成就する恋人灯台なる物があり、近隣のアベックには是非訪れたい所として名高い。此処から海峡、門司がよく見えるし、木製の欄干が良い味出している。何処か、暖かみがあってホッと気が安らげそう……。良い所に造ったね。
欄干に凭れて、門司の街並みを眺めていると、赤煉瓦の建物があるが、あれが今日の宿泊場所の門司港ホテルだ。それにしても、此処はラブストリートと言われている事はあるね。門司の街並みを眺めている最中でも、アベックが何組も通っているから。この欄干に凭れて、行き交う船を見ながら、彼女と一緒に語り合うのもオツな物だ。しかし、今回は流れ流れの男一人旅だ。相手なんかいやしない。裏を返せば、何も囚われる物はないから、気楽で仕方がない。何がラブストリートだ。嫌味極まりない名前だこと! 此処から右を見れば白い灯台。そして、左を見れば赤い灯台。この2つの灯台を巡り歩けば、2人のロマンスの幕は、海峡の壮大さと美しさに彩られて開かれるのだから……。嗚呼、何故に一人で此処に来たのか。そうだ。旅の途中なのだ。思えば、この旅は長かったな。出雲で雪と格闘した日や、津和野で和紙を造った日、萩焼を上手く作り上げた日はほんの数日前なのに、懐かしく感じてしまう。明日の夜には帰ってしまうのだが、有意義な日にしたい。対の門司の街並みを酒肴(しゅこう)にして、クッと酒を啜りたい……。
此処で一句。
春来れど旅する男は孤独なり
上はカモンワーフ。
下はラブストリート。 |
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下関と門司港。その距離は本当に海峡を挟んで、5キロあるかないかだから、行くとなればスッと行けるし、想いを馳せてもすぐにその思いは果たせるから驚きだ。その手段は、車なら関門橋、自転車ならば(少し離れるが)関門隧道、そして、歩行者は船となる。
私は門司港に連絡する船に乗って、対の門司港に向かった。待合室には巌流島に近いということあって、来訪証明書の申し込みポスターが貼られていた。記念に1枚欲しかったが、申込書が無かったので、渋々諦めた。補充しておくれよ。こんなに大きく宣伝しているからさ……。
片道270円。JRと同じ料金だが、連絡船の方が近道だし、関門橋が見られるので、利便性と景観を両得出来るから、こっちの方が何かとしらお得だ(JRだと、隧道が殆どだから面白くない)。連絡船は片道10分足らずの航路なのにも拘わらず、シート張りの椅子が何とも豪華に見えた。しかし、船に乗った途端、多少の揺れがあった。生涯何度も船に乗っているので、大した揺れではないが、大酒呷った後だと、反吐でも吐き兼ねんな、コリャ!
さて、出発。……したが、走っている最中の揺れが尋常ではなく、閉め切った船窓からは、飛沫が絶え間なく飛び散っていた。迂闊に開けてしまったら、服が濡れてしまいそうだ。かなりの速度を出しているだけではなく、この関門海峡の潮流が異常に速く、潮流を横切っている所為で、抵抗力が並大抵ではないのだ。立っているだけでも蹌踉(よろ)めく。しかし、普段利用している人にとっては、こんな揺れは屁でも何でもない。
嗚呼、暮れ行く関門。私の左手には、関門橋が潮流の速さを気にせずに、2つの都市を跨っていた。その橋を渡る車が何とも羨ましい。あんな高い所で窓を開け、潮風を浴びながら疾走したら、さぞかし爽快だろうな。しかし、私のような車を持たない鉄道愛好者には、専ら連絡船を使って、潮風を浴びる他無いのである。
船窓が飛沫に濡れて、視界が滲んできたから、デッキに出るとしよう。デッキでは、髭を生やしたおじさんが、本格的レンズを用いたカメラで、関門海峡を撮っていた。関門海峡は夜景が素晴らしいと有名だが、夕映えの景観も何とも美しい。私も早速、夕映えを撮る事にした。所がまぁ、私のカメラはおじさんのと比べて何ともチャチだな。これで上手く撮れるのかなと、少々心配。おまけにデッキは船室よりも揺れが酷く、2本の脚が唯一の頼りだ。関門橋を撮ろうとしたが、揺れでなかなか焦点が定まらない。時折、飛沫が飛んできて、シャッターチャンスを逸してしまう。仕方なしに、私はブレが出るのを覚悟しながら、シャッターを切った。まぁ、潮流の速さには適わないし、致し方のない事だ。人間がこの早い潮流を止める訳にも行かないからね。しかも、このカメラはプロ仕様ではないから。でも、上手く撮れていたら、それで万歳なのだから……。次に、遠離る(とおざかる)下関の街並みを撮ったが、どうもおじさんのカメラに迫力負けしているようで、写り様を期待しなかった。
門司港に着いた。25歳にして初めて九州の地を踏んだ。しかし、高校2年の修学旅行でアメリカ西海岸の地を踏んだ癖に、8年も遅れて九州の地を踏むとは、何処か皮肉だ。
話を戻して……。門司港に着いた。それも、レトロ情緒一杯の門司港だ。此処だけでも、充分一日を過ごせそうだ。
連絡船から乗客が吐き出され、私もそれに混じって下船した。所が、足許がどうも覚束無いのだ。酒でも飲んだのか、いや、酒豪ではない私には、到底無謀な事だ。上手く立てないのだ。立ち止まったつもりでも、バランスが巧く取れず、フラフラ蹌踉めいてしまうのだ。関門海峡の潮流の速さを両脚でもって知らされたのだ。壇ノ浦の戦いは、この潮流との闘いでもあったのか。途中で船酔いを起こし、録に戦わず、先に逃げ出してしまった兵もいたであろう。
何とか、近くのベンチに座って、下関の街並みを眺めた。まだ、身体が揺れる。背凭れにしっかりしがみついて、重心を定めなければ。潮流が早い所為なのか、やはり遠く感じてしまう……。ほんの数分前までは、向こう側にいたのだから。
写真は連絡船から撮った関門橋。 |
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建築界のノーベル賞と言われているプリツカー賞を受賞し、芸術の国イタリアを代表する建築界の巨匠故アルド=ロッシ。さて、氏の遺作となった建物は、何処にあるのだろうか? 実は、これから向かう門司港ホテルがそれなのだ。しかも、関門海峡のすぐ近くに建てられているので、此処からの夜景がとても素晴らしいと好評なのだ。私としては何としてでも泊まってみたいホテルだった。この旅行を締め括るには実に相応しい。
連絡船発着所から少し歩くと、レトロな駅舎門司港駅が見えてきた。大正から昭和初期に掛けて横浜、神戸と並ぶ国際港として賑わった門司港駅。現代風に改築されていない所に大正浪漫を感じさせる。現に駅舎の中でも数少ない重要文化財に指定されているから、その雰囲気はお判りだろう。駅近くにはアインシュタイン夫妻も宿泊した旧三井倶楽部、旧大阪商船、旧門司税関等の歴史的建造物、落ち着いた煉瓦が映えるショッピングコーナー海峡プラザ、九州の鉄道の起点を示す旧九州鉄道本社(現在は九州鉄道博物館になっている)、更には昔から続いている港町を証している日本郵船ビル等、レトロをこれでもかと思う位詰め込んでいる。又、町の一角に「バナナの叩き売り発祥の地」の記念碑がある。町の至る所にアセチレンランプを点して、黄色く熟れたバナナを戸板に並べて、威勢の良い声で売られている様は、旅人の目を娯しませたそうだ。その賑やかさは不夜城を呈していた程。まさに、レトロの玉手箱。「モボ(モダンボーイ)・モガ(モダンガール)」の発信基地だった東京と何も遜色ない文化を、此処門司港はレトロを保存しつつ、発展を遂げてきた。レトロは門司港の宝という事がよく判る。
さて、歩いたり、バスや鈍行列車に乗ったり、揺れが激しい連絡船に揺られたりしたから、早速門司港ホテルに向かうとするか。まだ、フラフラする。
その門司港ホテル、流石建築界の重鎮が手掛けた事はあるな。煉瓦の建物がレトロの世界に迎合している。入ると、長い階段があった。何とか登ってきたが、落ち着いた暗色のベースにして目でも癒せる場所に仕上げている。
階段を上って左側にロビー、中央にはレストランがあるが、木目が通った木材で入口の門を造っている所にもホォッと溜息が漏れる。ただ、質の良い木材を使うのではなく、良質や外見の良さをも見ている。一見神殿のように見えるが、神社の鳥居にも見える。アルド=ロッシ氏は日本の文化をさり気なく取り込んでいる。視野の広さに拍手を送りたくなってきた。
ロビーは私が今まで泊まったホテルの中では一番広く、ざっと20畳以上はある。千鳥張りの白黒のタイルに、茶色のゆったりとしたソファが上品さを醸し出していた。しかも、ロビーの右側には著名人御用達の品が陳列されていて、それを販売しているコーナーもあると言うから、1泊の予約ながら、一気に旅人からVIP待遇に格上げされる。山陰旅行完遂のご褒美といった所か。
チェックインを済ませ、ベルボーイに荷物を持たせて、客室に向かった。私が予約したのは海峡側の客室。8階に上がるエレベーターの中で、若いベルボーイと会話を交わした。それも、ベルボーイの方から話し出したのは驚いた。東京より積極的だな。しかも、会話は客室に着くまで、続いたのも驚いた。一等地に建っているという奢りの感覚は全く見られない、雰囲気の良いホテルだな。
廊下の一番奥、非常口近くの右側の客室のドアを開けた。
待ちに待った関門海峡ともご対面! と、意気揚々と入ったが、窓からの景色に首を傾げた。門司港の街並みがあった。あれ、確か、海峡側の客室を予約した筈だが、妙だ……。私はベルボーイに客室が違う旨を告げると、一緒にすぐさまフロントに戻った。黒の背広を纏った支配人(?)曰く。
「料金が高いお客様を優先に、海峡側のお客室にさせて頂いております。」何と言う失態。ネットでは6500円という破格の価格で予約出来たのだが……。折角関門海峡に来たから、何としてでも海峡側の客室がいい。此処で、変更出来るか交渉した。はやる気持ちを抑えて、フロントの右側の事務所を覗いてみた。そこには「親愛なるお客様主義」と書かれている横長の垂れ幕を見付けた。成程ね。ベルボーイが積極的に会話したのは、その主義に則っている訳なのか。出来れば、客室の変更もその主義に則って欲しいのだが。支配人が戻ってきた。果たして、結果は?
何と、変更出来たのだ。しかし、階は8階から5階に下がり、値段が6500円から10000円に撥ね上がってしまった。まぁ、値千金の関門海峡の夜景が見られればそれで良いのだから、文句は無い。
気を取り直して、海峡側の客室へ向かった。5階ながら、充分に景色が見られる。広さも10〜12畳位あって、居心地も良好! 一気にテンションが上がった。1泊だけの利用は勿体ない! 2〜3泊したいな。
寝心地が良いベッドに身を投げて、部屋全体を眺めた。建ててまだ10年も経っていないので、調度品も新しいし、ワイングラスにブランデーグラスも置かれてあった。窓側にはソファとテーブルがあり酒肴(しゅこう)を嗜みながら、夜景を娯しめるという演出が良いね。本当に1泊だけでは勿体ない!
外はまだ明るく、ライトの映え具合も目立っていなかった。その間に夕餉でも摂るとするか。私はテーブルに置かれてあった「門司港グルメマップ」を広げて、色々思案した。折角、門司港に来たんだから、夕暮れの街並みでも歩きながら考えるか。私はグルメマップを、折り目を付けずに持ち出して、ホテルを出た。
上は重要文化財に登録されているJR門司港駅。
中はバナナの叩き売り発祥地の碑。
下は建築界の重鎮が手掛けた門司港ホテル。 |
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(2003年3月12日) シナリオが無い夜景のミュージカル |
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夕餉を済まして、ホテルに戻った私は、門司港駅で思わず買ってしまった、夜店の焼き鳥をテーブルに置き、寝心地が良いベッドに身を投げた。暫く休んだ後起き上がり、関門海峡を見た。
陽は沈み、至る所でライトアップされ、行き交う船の霧笛が一気に感傷的な場面を醸し出している。引き戸を開けて海峡を見ると、右手には関門橋がライトアップされていた。橋を揺れから支えているアーチ状のワイヤーから、綺麗な明かりが点されていて、レトロな街を往来するに相応しい橋になっている。かたや、下関の街並みは、海峡ゆめタワーに海響館、カモンワーフに唐戸市場がライトアップされていて、昼とは全く違う夜の世界を各々築いている。何と言っても、ど派手なネオンサインが無い分、ライトがとても綺麗に見える。多からず少なからず、まさに丁度良い! 潮流が激しい関門海峡に鏤められた(ちりばめられた)宝石といった所だ。今頃ゆめタワーでも、海響館でも若いカップル達が、東京には無いライトアップされた海峡の美しさに酔いしれているだろう。殊にカモンワーフのラブストリートでは、行き交う貨物船を見ながら、愛を語り合っているだろう。しかし、一人気侭にその夜景を娯しむも良いだろう。
これから、一人で関門海峡の夜景を娯しむとしよう。冷蔵庫で予め冷やしておいたロゼワインを飲みながら、焼き鳥を抓んで、我ながら優雅な一時を過ごすか……。
ソファに腰掛けて、ワイングラスにロゼワインを注ぐと準備万端。夜景を見ながら、土産の焼き鳥を抓む。合間にロゼワインを一啜り。ウ〜ン、庶民の食べ物と親しまれていて、1本僅か90円の焼き鳥が、この時だけは高級料理に感じてしまう。
私は滅多に見られない関門海峡の夜景の美しさに、見取れてしまった。海はすぐ近くなので、潮風が入ってくると、海好きにはもう堪らない。この夢見心地は、実際門司港ホテルの海峡側の客室に泊まらなくては語れない。この旅行の最大の山場に相応しい。嗚呼、何と言う煌びやかな世界だろう。海峡を挟んで下関と門司が光の競演。往来する貨物船の霧笛も潮風も、良い脇役になっている。二度と見られないシナリオの無いミュージカルだ。この夜景を見て何を思うかは本人次第だが、責めて、夜の雰囲気で醸し出した夜の外套をスッと纏って、一期一会の夜景に存分に酔いしれて欲しい。気兼ねは要らない。
関門海峡の夜景が醸し出したミュージカルに酔いしれている内、焼き鳥は1〜2本になり、ロゼワインもグラスの底に少しあるだけになってしまった。酔い醒ましに下関で買ってきたジュースで酒精を薄めようと、客室を出て製氷機で氷を出した。酔いが来たのか、ボタンの押し過ぎて氷が入れ物から溢れそうになった。でも、家庭では到底作れそうにない綺麗な氷が出てきた。これなら、何の気兼ねせずに飲めるな。ジョッキで飲もうとしたが、生憎持ち合わせが無く、普通のコップに入れられる程に氷を入れて、ジュースを注ぐだけでも、良い気分になれる。
そうだ。雰囲気的にBGMが欲しい所だ。私はCDを取り出し、雰囲気に合うCDをセットして、再生ボタンを押した。序でに客室の灯りを全て消した。
これで、私だけで夜景を娯しめる。
1曲目は、美しい音色が夜景と調和している曲だった。間奏のサックスも耽美的だった。
2曲目は、歌詞入りのピアノソロの曲だったが、歌詞が出た途端、急に寂しい気分になってしまった。内容は別れた彼女を遠い空から想っている男の歌だった。しかし、これが旅先の夜にピッタリなのだ。それが心に想っている人がいる時に、遠くまで旅行し、そこで迎える夜の寂しさや、一緒にいた時の懐かしさが去来している心境に良く合う。
そう言えば、前の職場の面々はどうしているのかな。主任は元気かな。余り居心地が良く無かった職場だったけど、主任の包容力の良さで救われて、仕事が出来たのだ。もう、私の事なんか忘れてしまっているのだろう……。そして、ロゼワインの最後の一口をゆっくり啜った。フッと来た酒精で、前の職場の思い出を掻き消す覚悟を固めた。
そう冷静に考えると、この旅も行程上後半に入って、その半ばも終わろうとしている。明日のこの時間は帰路に就く為、下関駅にいる時間になるだろう。とうとう、この旅も今日と明日で終わりか。計画は去年の12月から立て始めて、行程をあれこれ立てて3ヶ月位要したが、いざ実行するとほんの数日に過ぎない短い物だ。しかし、幾ら短くても私が行った事に何ら悔いも無い。明日がどんな日になったとしても、何の悔いは無い。
……湿っぽくなってきたな。気分を変えるか。
キリの良い所でCDを停め、飲み掛けのジュースを一気に呷ると、客室を出た。
9階のバーで一服したいからだ。 |
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レトロな街並みで有名な港町門司港。その街にある商店はそのレトロ感を損なわないように造られている。突拍子な造りの建物は、一発で景観損壊とヤジが飛んでしまう。酒場だって同じ事が言えよう。東京や大阪にあるチェーン店の酒場では、雰囲気を毀し兼ねないし、しっとりとして落ち着いた酒場がよく似合う。果たして、これから向かう9階のバーも、そのような造りなのか? まぁ、レトロ街に溶け込んでいるホテルだから、見当外れは無いと思う。
エレベーターで向かおうとしたが、すぐに来なかったので、階段で向かった。その途中に、マットやシーツが積まれていた。どうやら、此処は従業員専用の階段らしいね。何かホテルの裏側を覗いているようで、或る意味得をした(?)。
その階段も7階で終わって、後はエレベーターで向かった。
さて、9階に着くと、そこには煉瓦造りのバーが見えた。外してないな。
中は落ち着いた柔らかい照明が、各々の席を照らしていて、煉瓦色の木材が見事に調和している。カウンター席からは関門海峡がデンと見える特典付き。丁度、ライトアップされている最中だから、雰囲気も最高潮だ。此処は是非、カウンター席に座らなければ、来た甲斐が無いな。
空いているカウンター席に陣取って、関門海峡を眺めた。やはり、9階だと眺望が全く違うね。潮流が速い所為で、妙に遠く見えた海峡を隔てた下関の街並みが、手に取るように見える。しかし、高さが増している分、建物が軒並み低く見えるので、何か偉そうな役人みたいで、気分が削いだ。ライトがバラバラに見えてしまって、その箇所は周りから取り残された寂しさが湧き出たりしているみたいだ。
夜景は一先ず置いといて、一杯飲むか。
メニューを見ると、ウィスキーやウォッカ、テキーラ等をベースにしたカクテルがズラズラ並んでいて、カクテルを飲んだ事が無い私は、最初は何を飲んだらいいのか判らなかった。いきなり、強いウォッカやテキーラを飲むのは、酒豪ではない私には無謀だし、かといって普通にウィスキーや黒麦酒を飲むのは、東京でも出来る。そこで、カウンターにいる若いバーテンダーに訊いてみた。
「何を先に頂いたらいいでしょうか?」
「カクテルは初めてですか?」
「ええ、それでも余り酒は飲まない方なんで……。」
「そうですね、私としてはですね。」此処で私は、バーテンダーにメニューを見せて、論議した。
「ウォッカ・テキーラ系はちょっと強そうですね。」
「そうですね。それでは、最初は軽めのカクテルなんか如何でしょうか?」
「それにしましょう。じゃ……。」と、軽いカクテルを探した。ノンアルコールのカクテルがあった。5〜6種類あるが、その中でグレープフルーツジュースをベースにした「バージンブリーズ」を頼んだ。
バーテンダーはシェイカーにグレープフルーツと何やら柑橘類のジュースを入れて、シェイクした。カクテルは振らずに掻き混ぜる。素人目では振っているように見えるが、丁度、グラスで泡立たなければ、巧く掻き混ぜられた証拠だ。最後に、グラスにルビーグレープフルーツを挿すと、出来上がりだ。甘くなく、グレープフルーツのほろ苦さがジュースとは違う味を形成する。大人向けの飲み物だ。
下戸の私でもスイスイ飲めるのだが、一気に呷るのは味気ないし、折角、関門海峡の夜景が見られるんだ。チビチビ飲んで夜景を娯しむのが、道理という物じゃないのかな? おまけにこのようなシックなバーだ。雰囲気に染まりたい。と、私の視線は専ら関門海峡に向けさせて、左手だけが指示でカクテルのグラスを動かしていた。
バージンブリーズを半分飲み終えて、次は何にしようか。今度は、酒精が入ったカクテルでも飲むか。野球で言うと、先発から中継ぎに交代するように。
そこで、ブルーキュラソーを入れたカクテル「ブルーハワイ」を頼んだ。細かく砕いた氷の上にブルーハワイが注がれた。細かい氷が邪魔で少々飲み難いが、スッと通る飲み心地に、今日の疲れがスッと癒えた感触が何とも言えない。名前や色からすると、夏に相応しい飲み物だな。かき氷にブルーハワイがあるように。一気に夏を先取りしたお得感があるが、このブルーハワイは、四季を問わず、清々しい青空を連想させる。やはり、青空は良いね。空の向こうに何があるのかな。私が知らない何かがあるのかな。今は室内作業が殆どなので、空を見る機会は貴重な時間になってしまった。チラッと見るだけでも、何処かに出掛けたくなるんだよね。旅好きだから。そう自分の(妙な)性に感謝しながら、グラスに挿したパイナップルを抓んだ。そして、ブルーハワイをチュッと啜った。飲み慣れないブルーキュラソーの爽快感が鼻孔を走った。ミント系なのかな?
紳士気取りで、生チョコレートを抓んだ。900円也。ほろ苦さが上品だった。海峡の夜景とシックなバー。自然に、自身が旅人から紳士になってきた。
私はバーから見える夜景を見ながら、ブルーハワイを飲んでいたが、酒精が先走ってしまい、バージンブリーズと水を交互に飲みながら、生チョコレートを抓んでいた。
そして、ブルーハワイを飲み終えて夜景を見たら、信じられない光景があった。
今までライトアップされてきた下関の街並みが、全て暗闇の中の輪郭になっていたのだ。ゆめタワーも海響館もその姿を全て、輪郭だけにされていたのだ。酔いが幻覚を生んだのか。私はもう一杯水を頼み、クッと呷っても、暗闇は消えなかった。消えている……。
これで、かの麗しき関門海峡の夜景はもう終わってしまったのだ。急にライトを消されてしまったから、白けてしまった。飲み慣れないブルーハワイと格闘した結果、今まで眼前に広がっていた夜景が無くなった事を悔やみ始めた。責めて、ライトが落とされる所を見届けたかったな。
見届けられなかった悔しさから、麗しき夜景が無くなってしまった哀しさに変わってしまい、もう此処には長居は無用と悟り、最後に頼んだミント風味のムーンストーンが入ったグラスをゆっくり回しながら味わっていた。このバーでは誕生石名のカクテルがあり、その月のカクテルを作ってくれるのだ。今月は3月だからアクアマリン。しかし、私は6月生まれなので、ムーンストーンを頼んだ。又、真珠も該当する。この真珠が誕生した志摩鳥羽に憧れていたのも、何かの因縁なのかも知れない。
写真は9階のバーでの一枚。 |
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宿泊した門司港ホテル周辺は、レトロ文化が色濃く残っている所で、東京の喧噪(けんそう)を瞬時にして忘却できる。人は懐古的な物や建物を見ると、心が和んでくる。そして、自ずと心の余裕が出来て、何の気兼ねせずに観光を娯しめるのだ。この私も大正浪漫の美しさを堪能しようと、わざわざ東京から出雲を経由して関門海峡に来たのだ。
先ず、訪れたのは三井倶楽部。かの三井物産が大正10年に、接客が宿泊場所として建てられた由緒ある建物で、重要文化財に指定されている。何と、あのアインシュタイン夫妻も宿泊した事もある。
説明はこの辺にして、中に入るとしよう。
中に入ったら、時代は平成から大正に遡った(さかのぼった)。見る物全て大正浪漫の世界。欧米から調度された家具、鳥居をモチーフにしたドア、大理石製の暖炉、当時としては滅多に手に入らない貴重品が此処に勢揃いしている。此処では平成年間を用いては駄目だ。あくまでも大正年間を用いるのだ。となると、此処は大正何年なのか。平成15年は大正92年になるのか。
そんな大正浪漫に心身共々陶酔していると、追い討ちを掛けるように、イベントホールでは、あるイベントが開かれていた。
海外に流出し、再び日本に里帰りしたオールドノリタケの作品展示会だった。テレビでオールドノリタケを知ったので、興味津々入ってみた。見ると、何と華麗な皿、コーヒーカップに飾り壷、更には蓋まであり、此処でもレトロが味わえる。しかし、どうしてオールドノリタケというのかサッパリ判らない。美術にさほど詳しくない人には、創作者がノリタケさんではないかと思うだけだが。
オールドノリタケは明治半ばから昭和初期の半世紀、欧米に輸出された陶磁器で、日本人独特の繊細な製作方法が高い評価を得、当時の欧米の陶芸家に多大な影響を与えたのだ。そして、21世紀の平成の世になり、祖国の地を踏んだのである。しかし、中にはセットになっていた珈琲セット(カップ、ポット、ミルク入れ、ソーサ)が、バラバラになっている物もあって、全てお披露目できない難しさや、遠き仲間に思いを馳せるつらさが読み取れる。
いい値段しそうだな。折角レトロ門司港に来たのだから、1品買って土産にしたいな。実際これで紅茶でも飲んだのだろう。私も倣って、紅茶を飲んでみたいな、と優雅な気持ちに浸って、金縁の瑠璃色のカップを手に取った。その美しさの余り、使うのが勿体ない気がした。飾りにしても、実用にしても、価値が十二分にありそうだな。と思った時、この展示会を主催するギャラリーの店員が声を掛けてきた。早速、オールドノリタケの説明を流暢に話し始めた。テレビで囓っただけのオールドノリタケの知識だが、欧米文化を偏重していた明治時代、繊細さと卓越した観察眼で造られた絵入りの陶磁器が、欧米で珍重されていたのだ。これが日本製の陶磁器と知ってか、欧米にはない魅力を、当時の日本と同じように貪欲に求めていたのだ。
……嗚呼、段々欲しくなってきたよ。と、満遍なくカップを見ていたら、店員曰く。
「お買い求め出来ますけど、如何でしょうか?」確かに欲しいけど、幾らするのか判らない。オールドノリタケと言うから、いい値段はしそうだな。おまけに、値札も付いていないから、どの位私の財布に響くか……。
「作品名の下に、bェありまして、そのbノ『0』を4つ付けて下さい。」店員に因ると、即売会ではなく、三井倶楽部のホールをお借りしている事情があり、付けられないのだ。100以上の陶磁器はざらで、旅の途中でおいそれと買える値は、見当たらなかった。でも、滅多にお目に掛かれないオールドノリタケに、旅の途中で出会えるとは、ちょっぴり嬉しかったな。
写真は旧門司三井倶楽部。 |
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さて、三井倶楽部の2階は何と、実際に宿泊したアインシュタイン夫妻の客室が展示されている。大正11年に来日した夫妻は、多忙なスケジュールをこなしたそうで、講演したその地で宿泊することは余りなかったそうである。日本でアインシュタイン夫妻が宿泊した所なんて、東京界隈だったことは聞かないな。でも、此処三井倶楽部ではベッドに書斎、浴室等当時の宿泊施設を忠実に再現しているのだ。方々に博士のエピソートが出ていて、今にも白髪のアインシュタイン博士が出てきて、コミカルに「アカンベー」しそうな雰囲気だ。
一番面白かったのは、現地で餅搗き大会が開催された時、偶然にもアインシュタイン博士もその場に居合わせたのだ。リズム良く餅を搗く姿に博士は興味津々。何と、博士自ら杵を持って、餅搗きに参加したのである。鉢巻きを巻いて慣れない手付きで餅を搗く姿は、周囲からヤンヤヤンヤの大喝采! 夫人も大笑いしたそうである。残念ながら写真は無かったが、博士は東洋文化の魅力を自分の身でもって、体験したかったのだろう(黄金の国「ジパング」と言われる由縁も納得いける)。博士の幼少時の成績は芳しくなかったが、数学の知識だけはずば抜けていて、「相対性理論」等の難易度が極めて高い論文を発表したり、アメリカの原子爆弾利用を声高らかに反対したりして生涯を懸けて、現代科学の神秘と恐怖を伝えていったのだ。
更には、繁栄時の門司港の写真や門司港産のサクラビールの看板もあった。中でも、当時官能的で刺激的だったあのポートワインの看板もあり、今でも見ても官能的だ。昨今氾濫している女体中心のエロスと言うより、禁断のエロスの世界へ誘う一枚だ(モデルとなった女性の経緯も書いてある)。左向きの女神、アポロマークで知られている出光興産の発祥地も此処門司港であり、森光子氏の『放浪記』で有名な作家の林芙美子氏の書斎もある。この門司港を舞台にした小説を書いていて、実際に訪れているが、書斎は東京から移されたそうだ。
しかし、此処門司港が特別凄い街だという一文を見付けた。これに因り、東京とは全く違った文化が育まれていたことも判る。探してみ給え。
東京「今日は帝劇、明日は三越」。
門司港「今日はマルセイユ、明日はロスへ」。
どうだろう。東京は東京にある物で、近代文化を謳歌していたのに対し、門司港は既に世界に目が向いていたのだ。
写真はアインシュタイン夫妻が実際に宿泊した部屋。 |
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門司港駅で0哩(マイル)標と貴賓室を見、水路を挟んで見える旧門司税関をバックに写真を撮り、レンタサイクルで関門隧道を経由して、下関へ渡った。
その前に、どうしても立ち寄りたかった場所がある。
「バナナの叩き売り発祥の地」の碑だ。(2002年)去年5月伊勢神宮内宮門前のおかげ横丁で開催された「夏まちまつり」で、本場門司港のバナナの叩き売りを見て、是非門司港に来たら行きたかったのだ。地図を頼りに探したら、何とカフェの一角にあったので、失笑し掛けた。しかし、そこには日本中に轟かせたバナナの叩き売りの熱き息吹が聞こえてきそうだ。大陸、欧州、台湾、国内の旅行者の疲れを、威勢の良いバナナの叩き売りで癒やしたに違いない。何しろ、大正初期から始まったそうだから、もしかしたら先述のアインシュタイン夫妻も、見たのかもしれない(三井倶楽部の創設が大正10年であるから、その可能性は濃厚だ)。
レトロ街を過ぎて、まず目指したのは和布刈(めかり)付近にある隧道入口だ。隧道入口には国道3号線を北上すること5分で、いや10分、いや15分以上掛かった。レトロ街を過ぎ、交通量が多い国道3号線に沿って自転車を漕いでも、普通の街並が続いていて、一向に着く気配すら無い。
10分程経ち、「隧道入口」を標識が右にあったので右折すると、逆方向に道が続いているのを見付けた。交通量が少ない方が入口とは妙だな、と思っていたら、左側に高速道路の料金所みたいな入口を見付けた。此処が入口かと思い、その道を進んでいくと、待ち受けていたのは苦笑だった。「歩行者、自転車、スクーターは入れません」の標識があったのだ。また、来た道に戻り、自転車を漕いだ。あとどの位掛かるのだろう? 無言でペダルを漕ぎ始めた。
坂になっている道を走ると、白い大鳥居がデンと控えていた。見ると「和布刈神社」の額が掲げられている。ということは隧道入口は近いな。そう気合いが入り、ペダルを踏んだが、緩い坂が続いていたので思うように進まなかった。左側の海峡を越えると、下関の街並みがすぐあるというのに。
大鳥居を潜ると、門司港駅から伸びている貨物線の踏切があり、すぐ隧道があった。鉄道好きの私には一旦止まって、両側を眺めた。此処は眺望が良いし、観光名所もあるので、旅客営業させたいなと思うのは、私程の余所者位だろう。地図を見ると、和布刈付近を通って、新門司港という貨物取扱所まで伸びている。しかも、JR貨物ではない。貨物列車でも撮ろうかと思ったが、時刻が判らず断念(余談になるが、この貨物線は2005年10月の休止、2008年9月の廃止を得て、2009年4月に「やまぎんレトロライン」として、旅客営業を開始したのだ)。
ここに来たら緩やかだった坂が急になってきて、とうとう海峡が見える和布刈公園入口で止まってしまった。熱くなってきたので、一服しよう。門司港を発って、どの位経ったのか。もう20分以上経っている。
和布刈公園は小高い丘で、船が往来する海峡や下関の街並みがよく見える(特に壇ノ浦辺り)。関門橋が大きく見える分、早い潮流を為している関門海峡が、雄大で恐ろしく見える。近くには「殉職船員無縁塚」がひっそりと建てられていて、「殉職船員」と出ているから、関門海峡で遭難した船員を祀っているに違いない。此処で、往来する船の無事を祈っているのか。合掌して、自転車を走らせた。
関門橋を潜ると、緩やかな下り坂になっていた。すると、左側に神社が見えてきた。そう言えば、先程「和布刈神社」の大鳥居があったな。これが和布刈神社なのか? ちょっと寄り道していくか。時間はタップリあるしね。
上は門司港駅ホームにある0哩標。
下は関門隧道の途中にある和布刈神社の大鳥居。 |
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和布刈(めかり)神社は海と隣接していて、台風の襲来でバラバラになっている石垣があり、付近には神社には不釣り合いの(黄色と黒のツートンの)工事ロープが張られていた。しかし、私が見たのは崩れている石垣の近くに石段があって、その周囲は浅瀬になっている柔らかい雰囲気だった。すぐ近くに、潮流の激しい関門海峡があるとは思えない。いちいち見比べて、どちらが本物の関門海峡か、自問自答した。
答えが出ない内に、和布刈神社に目が行った。確か、此処で若布(わかめ)を刈り取る神事があると、テレビで見たことがあるな。「めかり」と「わかめ」、何処か発音が似ている上、それを知れば何処か「和布刈」は、若布自体を彷彿させるな。
この和布刈神社は、源平合戦にも由縁がある。壇ノ浦の合戦前夜、此処で平氏が最後の酒宴を開いたそうである。一体、何を思って酒宴に臨んだのだろう。
−武士で初めて太政大臣にまで出世し、藤原摂関家をも凌ぐ権力を得た(この時は、藤原道長のような絶大な権力は無かった)。宋との貿易を通じ、莫大な富を得ただけではなく、文化交流に一役買った平清盛が為した平氏の繁栄だが、後白河法皇の息子以仁(もちひと)王の令旨を受けた、源頼朝義経兄弟の勢力の他、南都(奈良)の僧兵との確執、福原(現在の神戸)遷都の失敗、そして、五男重衡(しげひら)南都攻撃の折、東大寺失火の痛恨のミスが重なり、平氏は凋落(ちょうらく)の一途を辿っていった。平氏の今後を憂いて、清盛は原因不明の熱病で病没し、木曽義仲の軍勢に押され、幼い安徳天皇を連れて、都落ちした。平氏は二度と都帰りすることなく、一ノ谷、屋島と連敗し、遂に壇ノ浦まで追い詰められた。
そう思うと、此処での酒宴は華やかなる都での酒宴のように賑やかで贅沢だったとは思えない。平氏達は覚悟を決めていたのだろうか。僅か8歳の安徳天皇も、平氏の血が流れている皇族には逃れられない運命を、幼いながらに覚悟していたのだろうか。何とも残酷だ(一説には、入水したのは本人ではなく、平氏一門の子であり、当の安徳天皇は鬼界ヶ島に流れ着き、子供を設けて68歳まで生きたという)。
そして、壇ノ浦で破れ、平氏一族や安徳天皇は関門海峡に散った(安徳天皇の母である平徳子だけは、源氏勢に助けられた。その後京都に送られ出家し、「建礼門院(けんれいもんいん)徳子」と名乗り、京都大原にある寂光院で隠棲した)。今は、対の下関にある赤間神宮に祀られている。どういうことだろうか。死を覚悟した和布刈神社では、安らかに眠れないのだろう。
平氏一門を弔う一句。
椿散り霧笛轟く和布刈かな
写真は和布刈神社。 |
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(2003年3月13日) 関門隧道を駆け抜ける旅人 |
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和布刈神社を出ると、右側に建物があった。そこに「関門隧道人道入口」と出ていた。やっと着いたよ。門司港から結構あったな。時計を見たら30分以上も経っていた。自転車を走らせていたから、脚が疲れてしまった。適切な運動を施して、建物の中に入った。
入口にはエレベーターがあり、これで地下に降りて海峡の下を通って、下関へ向かうのだ。
地下に着いた途端、ゴーゴーと送風機の喧しさや、自動車と同じ海峡を渡っていくのだから、何だか高速道路を走るような爽快感がある。此処を抜けると下関か。
さぁ、此処は疾走していくか!
自転車は隧道内を疾走している。上は潮流が早い関門海峡だ。でも、此処は潮流は関係ない。いや、潮流に負けない位速く走ろう! 自転車も人もそんなにいないから、スピードは出し放題だ。
すると、道路に横線が引いている箇所を見付けた。此処が県境か……。私は徐々にブレーキを握って速度を落とし、横線の手前で止まった。県境だ。普通の道路だと、標識があるだけで特に感動は無いが、川を跨ぐ橋になると、国境を越える程の緊張感がある。此処から向こう側は違う県となるから。私はカメラで県境を撮った。
自転車を押して、山口県に入った。そして、再び自転車を走らせた。
しかし、妙だな。ペダルが漕ぎ難くなっている。私の両足が疲れているのか。馬鹿言え、20代の若造がこんな事で疲れる訳がないと思っていたが、やはり漕ぎ難い。いよいよ立ち漕ぎをして、下関側に向かった。すると、目に映ったのは、延々と伸びている緩やかに上り坂になっている隧道だった。もしかしたら、門司側から県境まで緩い下り坂だったのでは。だから、スピードが出易かったのだ。門司港から和布刈まで登り坂が続き、関門隧道で山口側に入ったら登り坂が続き、両足の疲れがピークになった。出口はまだかと、一心不乱に漕ぎ続けた。
汗が流れ、鬱陶しさが立ち始めた時、漸く出口が見えた。へたばりそうになったが、何とか力を振り絞って出口に向かい、服で仰いだ。3月なのに、暑くなってきたな。連絡船で向かったら、関門海峡の潮流の速さに翻弄され、自転車で向かったら、予想外の長距離と坂に翻弄されるとは、楽に旅させてくれないね、関門は。
上は関門トンネル門司側入口。
下はトンネル内にある県境。 |
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長い関門隧道を自転車で通過し、エレベーターで上に上がると、ステンレスの箱があった。何かと見ると料金箱だった。そう、自転車やスクーターは有料なのだ。自転車20円也。
時計を見ると、もう昼近くになっていた。昼餉でも頂くか。
丁度、近くに(かつての)JH(日本道路公団)が経営しているドライブインがあったので、此処で頂いた。それも、有り触れたカレーライスを。駐車場を見ると、長距離を走る運送トラックが一杯あった。捌けは良いな。九州に入る前の腹拵えなのか、出た後の開放感が勝っての昼餉なのか?
再び、自転車を漕ぎ出すと、海峡に沿って松が植えられていて、「壇ノ浦古戦場址」の碑があった。この辺か、壇ノ浦って。平氏の亡霊が移った甲羅が人面模様になっている「平家蟹」があるし、安徳天皇と平氏一門の霊を慰める為に建立した阿弥陀寺があったのは此処だと聞いた。この寺は、松江で知った小泉八雲の代表作『怪談』にも出てくる『耳なし芳一』の舞台としても知られている。
古戦場址から逆方向、関門橋を潜り暫く走ると、右側に赤い神社が見えてきた。神社なのに、妙に派手だなぁ。何か荘厳な雰囲気は薄いが、明るそうな雰囲気がある。見ると、「赤間神宮」と書かれていた。確かに、「赤間」と言う位、赤が目立つな。此処か。安徳天皇と平氏一門が祀られているのは。
中に入ると、また赤が目立った。安徳天皇が祀られていて、天皇の威厳を見せ付けるとなれば、日光東照宮のように極めて卑しいが、僅か8歳で平氏一門と同じ運命を辿らざるを得なかった運命を思うと、長生きしたかった無念さを慰める物であろう。僅か8歳だ。その無念は20代の私でもよく判る。
さて、私が此処に興味を持ったのは、先述の通り『怪談』の『耳なし芳一』の話である。
−かつて、此処にあった阿弥陀寺は、壇ノ浦の合戦で亡くなった平氏の霊を慰める為に建てられた。この寺に盲目の芳一というとても巧い琵琶法師がいて、平氏の亡霊も聴きたいとばかり、芳一の前に現れて、毎晩毎晩亡霊達に聞かせた。しかも、そのときの芳一の形相はおぞましい表情だったという。所が、その現場を見た僧侶は、そんな芳一の奇行に驚き、和尚に相談した所、「平氏の亡霊が、芳一をあの世に誘おうとしているのだ。何があっても、声を出すな。動くな。返事もするな!」と言われた。和尚は芳一を呼び、事の経緯を話し、全身に般若心経を綴って、夜を迎えた。此処で、和尚は致命的なミスを犯してしまったのだ。般若心経が綴ってあった箇所は亡霊には見えなかったが、耳の部分に綴っていなかったので、亡霊はその耳だけ持って去って行ったのだ。朝戻ってきた和尚は、芳一の異変に驚き、耳に綴っていなかったことを悔やんだ。しかし、芳一の命だけは何とか救われた。早速、阿弥陀寺の全僧侶を動員して、懸命に亡霊を弔ったのである。そして、傷が癒えた芳一は琵琶を通じて、平氏の凄惨なる最期を後世まで弾き伝えたそうである。
一角に平家塚があって、此処で戦死した平氏一門を弔っているが、その近くに、その芳一の木像があるのだ。見ると、盲目で耳が無い。一体、芳一はどうやって音感を取ったのだろう。真逆、平氏の亡霊が手助けしたのではあるまいな。でも、現実にあったのだから、何とも恐ろしい!
平家塚の中には女性も含まれているが、中には源氏勢に助けられたり、岸に流れ着いて、地元の人の看病で一命を取り留めたりしたのもいた。その女性は近くの野山で花を摘み、生計を立てる身に窶したが、安徳天皇の命日には身形を整えて、墓前に花を手向けたという話がある。現在も「先帝祭(せんていさい)」として、催されている。
平家塚を見ると、清盛の妻であり、安徳天皇の祖母であった平時子(二位の尼)もあった。辞世の句「今ぞしる みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは」で有名だ。「波の下にも都がある」というのは、逃げられない運命を否定する他ないが、何とも切ない。その時子の思いは約700年を経て、現実になった。此処関門が、明治時代から貿易で栄えたからだ。そして、今日多くの貨物船や客船が海峡を往来する交通の要所となった。今、平氏一門がこの光景を眺めたら、どんな表情をするのだろう。もしかしたら、この関門海峡の下にも、本当に都があるのかも。そう考えてしまいそうだ。
帰りに水天門を潜ろうとすると、また赤い箇所に目が止まり、先程のことを蒸し返した。確かに、この水天門は名の通り、海中にあると結構目立つし、『浦島太郎』に出てくる竜宮城のイメージそのものだ。青系の世界に赤が目立つ水天門は、まさに竜宮城だ。そこから見る関門海峡は都そのものだ。悲劇的な滅亡を遂げた平氏一門だが、こうしてみると、少しでも救われたような気がする。
阿弥陀寺はその後も残ったが、明治維新の折、廃寺となり、明治8年に新たに赤間神宮が建立され、阿弥陀寺という名は、地名の阿弥陀寺町(郵便番号 750-0003)として残っている。
此処で一首。
赤間から霧笛届けば阿弥陀寺の今に伝える芳一の琵琶
上は赤が目立つ赤間神宮。
下は平時子の辞世の句が彫られている安徳帝御入水之処の碑。 |
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(2003年3月13日) 海響館で見た「波の下の都」 |
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しものせき水族館「海響館(かいきょうかん)」。(2003年当時)比較的新しくできた水族館だが、此処に或るアイドルユニットが手伝ったコーナーがあると言うことで、一目見たいと思って行程に入れた。
曲線美が生えている煉瓦造りのお洒落な水族館に一歩入ると、いきなり大きなシロナガスクジラの骨格がデンと出迎えた。下関は鯨に縁がある町なのか? そう言えば、門司港の居酒屋にも鯨カツがあったな。調査捕鯨基地があるのか? 私がよく知っているのは、外房の和田浦だけど。
昨日入った海峡ゆめタワーの共通券で中に入り、エスカレーターで4階に上がった。このエレベーターは両壁に海の生物が、ブラックライトに照らされていて、神秘的な雰囲気を醸し出していた。水族館に入って、いきなり期待感が膨らむな。
4階にはでかい水槽が出迎えてくれるが、何と関門海峡の潮流を再現しているコーナーなのだ。様々な魚が早い潮流に従って、悠々と泳いでいる光景に驚き、私は自然と水槽間近で、その様を見ていた。水槽の向こうから外光が入っていて、向こうには何があるのかと、群れをなす魚に訊いてみた。所が、潮流が速いので、巧く答えが聞けなかった。何度も訊いても訊けなかったので、その詫びにと、魚は渦状になって泳ぐ様を見せてくれた。魚の形は目で追うのが精一杯だったが、渦状になって泳ぐ様は言葉が出ず、シャッターを押してその美しさを収めることに奮闘した。出来映えよりも間近で見られた感動の方が勝っている。そして、水中の渦も見せてくれた。何だか、都の賑わいに似ているな。赤間神宮にある水天門が置いてあったら、もう『浦島太郎』の世界だ。平時子が言った「波の下にも都がある」というのは、関門の繁栄の他に、こういうことも言うのかも知れないな。
先程の渦に戻るが、阿波鳴門の渦潮なら知っているが、関門でも見られるとは。ただ、あの関門海峡で実際にあるとなれば、先述の壇ノ浦の合戦は、余程船漕ぎが巧い人ではないと、呑まれてしまいそうだ。実際源氏軍は平氏軍の漕ぎ手を射殺し、操縦不能にさせたと言われているので。架空と願う恐怖心を抑え、その渦を撮ろうとしたが、いい絵になる背景が決まらず、イライラした。その内、渦は細くなって、上に引き込まれるかのように消えてしまった。フィルムを数枚犠牲にしてでも撮りたかったな。仕方なく、魚群を撮った。
その次は海中トンネル。私が来た時は、頭上で鰯の大群が歪みない曲線で疾走していて凄かった。此処はシャッターを押したが、鰯一匹の形は止めていなかった。それ程速く泳いでいたのだ。しかも、一匹もはぐれることなく。どうやら、鰯は集団行動がお好きなようだ(食物連鎖で、鰯は食べられる方に入るから、集団で行動する)。(食物連鎖を無視して)私みたいな単独行動はできないのか? 時間に束縛されることなく、悠々と過ごしたいとは思わないのか?
すると、私の目に「順路」という矢印が飛び込んできた。となると、今まで順路通りに進んでいたと言うことだ。多かれ少なかれ順路に束縛されていることだ。あぁ、嫌だ。ちょっと、順路から外れて歩こう。序でに制限時間も外すか。旅で来たのだ。遠足ではない。
順路から外れて窓側に行くと、関門海峡が見えた。しかし、そんなに高い所ではないので、潮流の速さを含めた壮大さには欠けていた。丁度隣にあった先程見たシロナガスクジラの骨格が、海の壮大さを十二分に物語っていた。地球上で一番大きい生物で、生きたまま展示することは海外でもできないので、1階の吹き抜け部分を使って、斜めにして展示している。パンフレットでは実態が巧く掴め難いが、こうしてきてみると、その大きさとそれを育んだ海の壮大さ、そして、我ら人間のちっぽけさを痛感させられるのだ。順路から外れて良かったな。
偶然見た光景で一首。
貨物船霧笛鳴らせば旅先の関門海峡夕暮れ近し
上はしものせき水族館「海響館」。
中は魚群。
下は綺麗な曲線を描いて泳ぐイワシの群れ。 |
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(2003年3月13日) アクアシアターのパフォーマンス |
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順路から外れた私が、次に向かったのはアクアシアターというイルカやアシカがパフォーマンスを披露する場所だ。鴨川や銚子でも見たが、遠く離れた関門で観るとは、海好きだな、私って。後ろは関門海峡が一望できて、霧笛を聴きながらパフォーマンスが観られるのだ。海好きにはイチオシの場所だ。それにしても、良い所に建てたね。海響館がある(地名の)あるかぽーとも海に対する羨望が篤い。
そんな性に嘲笑しながら、アクアシアターの一席に座り、開演時間を待った。間近になるとカップルや家族連れ(平日だったので、母子が大半)、更には修学旅行なのか、学校の制服を纏った学生がゾロゾロ来た。
甲高い女性アナウンスの声の挨拶が終わると、イルカの華麗なるジャンプで、パフォーマンスが始まる。「ウォーッ」と威勢の良い歓声が沸き上がり、細かな拍手がサッと沸いた。此処までは銚子でも見られるが、流石に次の絵描きはなかなか観られないな。イルカが口に絵筆を咥えて、カンバスに絵を描く光景は、物事を自分の解釈で表現し、且つその作品に対する感情を赤裸々に表現するピカソの絵画によく似ている。何を描こうとしていたのかは判らない。ピカソさん、貴方は理解できますか? 難しい芸術はさておき、係員が色の異なる絵筆もタイミング良くイルカに咥えさせているのはお見事だ。「阿吽」の呼吸が巧い証拠だ。イルカに心開いていなければできないだろうし、動物を酷使して、自分だけ旨い汁を吸う残虐な行為は見られない。
その後、イルカの後ろ歩きに、張られたロープの上を飛ぶハイジャンプが続いたが、特に印象に残ったのは、高さ10メートル近くに吊り下げられたボールにタッチするスーパージャンプだった。しかし、これは一朝一夕の練習や1回で成功を試みるのは、至難の業。現に、今回が成功するかどうかも判らない。観客席の興奮は最高潮を迎える。今か今かと固唾を呑む時の鼻息までもが聞こえてきそうだ。
さて、1回目のイルカのハイジャンプは、思い切り水飛沫を上げてハイジャンプをし、ボールに届きそうかと思いきや、ほんの僅差で届かなかった。歓声が重く暗い溜息に変わってしまった。飛び込んだ時の水飛沫が、打ち砕かれた願望のように感じた。冷たいのだ。水槽に飛び込む時の無念の溜息は、自分自身の願望や思いを託しているかのようで、必死に成功を願う空気が五臓六腑を駆け抜け、この海響館全体を駆け巡っている。
もう一度、スーパージャンプだ。今度はどうだ? イルカの鼻がボールに触れた。観客席は一斉に歓声が沸き上がった。その水飛沫は願望成就の喜悦の塊に見えた。東京界隈でも、なかなか見られないだろう。私はこの旅で、一番大きな声を上げ、拍手を送った。何か心配事が吹っ切れたかのようで、スッとした。
写真はイルカのハイジャンプの一コマ。 |
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(2003年3月13日) 遂に見付けたお目当ての場所 |
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パフォーマンスが終わって、私はまた館内を回った。目的のアイドルユニットが手伝ったコーナーを探していた。確か、下関に相応しいふぐのコーナーだった気がするが。あれから2年経ったから、今でもあるとは確信が持てない。もし無かったら、この旅は単なる山陰・関門の旅に過ぎなくなる。
そのふぐのコーナーに入った。ふぐのコーナーがある水族館は、下関位だろう。多種多様なふぐがいた。内臓に猛毒があるふぐが、こうしてみると良い観賞魚になっている。
その一角に、カラフルな看板を見付けた。そこには何処かで見た名前が記されていた。その名前を見たら、此処だ! やっと見付けた。此処にあったのだ。4種類のふぐが展示されていて、捕った2年近く経っても、少しも色褪せることなく、来館者にその存在をアピールしていた。人気グループが一肌脱いで協力したのだから、ファンにしろ、ふぐについて断片的な知識しか知らない人にしろ、そして、私のように遠く東京から遥々来た人にしろ、見逃してはいけない場所に相違ない。良かった。サンライズエクスプレスから始まったこの旅は、大成功だ!
そして、此処に来たならば、絶対に立ち寄ってほしいコーナーがある。下関由来の生き物コーナーだ。そこには源平合戦ゆかりの生物が展示されている。平氏に使えた女官の魂が宿ったとされる小さな赤い鯛「小平家(こべけ)」、そして、甲羅が人面模様で脚の長さが不揃いの「平家蟹」だ。小平家は普通に水槽でも飼えそうだが、平家蟹の方は正直言って飼いたくないな。甲羅の模様が不気味な上、仮初めにも平氏の亡霊が乗り移ったと言われる由縁があるのだ。その由縁なのか、砂地に隠れて、時折人面模様の甲羅を突き出して、平成の世に平氏の無念さを伝えていた。私自身、耳なし芳一のように、亡霊に誘われたり、両耳を取られたりしたら嫌だからね。
写真は水族館内のフグのコーナー。 |
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海響館に併設されているカフェで一服した。しかも、海峡側に席があって、眺望は抜群だ。まさに、一挙両得だ。しかし、曇りがちだったので、折角の海峡も潮流の速さと深さが先走ってしまい、恐怖感が湧いてしまった。何だか、鈍い灰色に染められた海に嫌でも吸い込まれそうだった。
此処のカフェでアイスティーを啜りながら、この旅を振り返った。
今思うと、関門海峡を満遍なく巡るには、1日半では到底無理だ。下関駅から出発して、海響ゆめタワー、秋田商会、旧英国領事館、カモンワーフ、門司港レトロ、関門橋、赤間神宮、海響館と結構多く回ったが、何処か不十分だな。ガイドブックに綴られていない名所があるのも事実だが、こういう都市(に限らず)の魅力を十二分に堪能するには、物判りが早い人でも、たった1日という僅かな期間では不十分だ。責めて、2〜3日掛ければ、充分に堪能できるだろうし、自分が住んでいる町には無い魅力が判るようになって、漸く「この地を旅行した」と胸張って言えるのである。丁度、私はその心境だ。できれば、関門の名所を存分に回りたかったな。東京だって、新宿や渋谷の雑踏もあれば、上野や浅草等の下町、奥多摩や高尾等の山間の町もあるのだ。断片的な憧憬や生半可な都市知識を持って、「この都市はこのようだ」と断言して貰っては、国際化に乗り遅れる必至だ。
難しい話は、此処まで。
時計を見れば、短針は「3」を指していて、この1週間に亘った旅行も、残り僅かとなってしまった。その行程は、また門司に戻り、レンタサイクルを返して、列車で下関へ戻り、本場のふく料理を頂いて、23時56分の寝台特急に乗って帰る。それでも、何があるのか判らないから、無事八王子に着くまで気が抜けない。
自転車で戻る途中、壇ノ浦古戦場の碑を撮り、隧道に入って門司へ渡った。 |
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それでも、時間があるので、門司港の街並みでは真新しい様相の門司港レトロ展望室へ向かった。此処は六本木ヒルズと同じ最上階は展望室で、下の階は住戸という建物だ。
その展望室は比較的広くて、アクセントのようなカフェがあるだけだが、大きな柱が無い分広く感じる。此処は飾らずに、門司港の街並みと関門海峡、対の下関の街並みを見て欲しいという設計者の思考が感じられる。その設計者はかの黒川紀章氏だ。よく考えて設計しているな。本人も「この建物も100年経ったら、レトロの仲間入りをするだろう」と述べている。
さて、その眺望は、昨日行ったカモンワーフや先程行った海響館も見えたが、よく見ると、私がまだ行っていない火の山や日和山公園、巌流島等がチラチラ見えて、また行きたくなる気持ちが湧いてくる。しかし、タイムリミットは今日の深夜で、為す術が無い。もどかしさが募ってゆく。
でも、念願叶って関門海峡に行けたことは、何より嬉しい。
−門司港ホテルから見た関門海峡の夜景が織り成したミュージカル、シックなバーで美しい夜景に酔いしれた夜、三井倶楽部で触れたオールドノリタケの作品とアインシュタイン夫妻滞在中の出来事、和布刈(めかり)神社での平氏の最後の宴の哀しさ、赤間神宮と安徳天皇と耳なし芳一の秘話、海響館でのイルカのパフォーマンスとアイドルユニットが手伝ったふぐのコーナー……。ほんの数時間前でも、良き思ひ出になっている。嗚呼、再来の時まで、その麗しき姿を保ち続け給え……。
1週間に亘る旅行の最後の夜は、下関名物ふくを頂こう。
私は連絡船乗り場、いや、門司港駅に向かった。往路で尋常ならぬ揺れに遭い、足下が蹌踉(よろ)めいたので。下手して、船酔いに遭ってふく料理が頂けないのは嫌なので。
JR門司港駅。有名な駅舎だ。ネオ・ルネッサンス様式の駅舎が魅力的で、重要文化財に指定されている。かつて国際港の玄関口として栄え、九州鉄道の起点となっている。此処には、戦時中の金属供給を免れた「幸運の手水鉢」や九州鉄道の起点の印となっている「0哩標」があるので、機会があれば、どうぞご覧あれ。
しかし、ホームに入ると、とんでもなく簡素。売店は何処にもなく、木の柱で屋根を支えているホームには、駅名標も「ようこそ門司港」と書かれてあるのが1箇所あるだけ。駅舎がレトロ色豊かで重要文化財に指定されている分、簡素を通り越して貧相に感じる。これも、レトロの仲間なのか?
写真は門司港駅構内にある「幸運の手水鉢」。駅の何処にあるかは、ご自分でお探しを。 |
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列車で下関へ向かった。所が、途中の門司駅が印象が悪かった。屋根を支える鉄柱のペンキが至る所で剥がれていて、褐色の錆が印象悪かった。幾ら、(在来線で)九州に入っていの一番の駅なのに、こんなに酷ければウンザリする。
下関に到着した私は、荷物をコインロッカーに預けて、ふく料理屋に向かった。やはり本場だ。ふく料理屋が点在していて、フラッと暖簾を潜るのも旅の醍醐味だ。
駅近い豊前田町に辿り着いた。そこにも多くのふく料理の暖簾が掲げられていた。これだけあると迷うな。どの店も余所者の私の肩を叩いて、店に誘おうとしている。どの店が当たりなのかな……。
その中の一番手前の店に入った。その理由は生け簀が見えていて、活きのいいふくが頂けそうだから。
店内はカウンター席と座敷席がある小さな店で、五十路のおばさんが調理の準備をしていた。このおばさんがふくを捌くのか。となると、相当難しい試験をパスしなければできない。故に、料理の腕はお墨付きと見た。
時刻は19時を回っていないので、客は1人もいなかった。これからなのかな。私はテレビが見える座敷席へ座った。
さて、何を頂こうか? 一番乗りだから、誰にも気兼ねせずに頂ける。品書きを見る目付きも余裕に満ちている。東京人には垂涎の的の一つのふく料理だ。
ある、ある! ふく刺しにふくちり(関西では「てっちり」という)、白子豆腐に何と鯨刺しもあった。捕鯨基地が近くにあるから、手に入るのだ。あの海響館でもシロナガスクジラの骨格を展示していたからね。これも、垂涎の的の一つだ。1週間に亘る旅行の最後の夜に相応しい。しかも、値段も手頃で、つい多く注文してしまいそうだ。ふく刺しが3000円と出ているが、東京では築地でも5000円はするだろう。流石本場だが、此処でもいい値段するね。
品書きを見ていると、ふくミニコースに目が止まった。何と、4900円で(皮の刺身を含んだ)ふく刺し、ふくちり、雑炊の3点セットが付くのだ。何て、贅沢極まりないのだ! 東京で幾らするかは頂いていないので見当は付かないが、高級魚として崇められているふくが5000円札出して、お釣りが来るとは聞き捨てならないだろう。これにするか。本当は大盛りふくフルコースもあったが、値段は10000円で私の財布の底が見え隠れしているので、今回はミニコースを注文した。
さて、ご覧の通り、何故「フグ」ではなく「ふく」なのか? これには、願担ぎが込められているのだ。普通の「フグ」だと、「不遇(ふぐう)」に聞こえてしまい、縁起が悪い。そこで、「福」を掛けて「ふく」と呼んでいるのだ。此処下関では、漁業や貿易で成り立っている都市なので、「不遇」となると町が寂れてしまうので、死活問題だ。「福」ならば今度も栄えると言うことだ。しかも、濁点を取ることも、汚れた所を拭い取るという願も担がれているのだ。その福を4900円で頂けるとは、何か前途洋々な気がする。今年はいい年になりそうだぞ。
切っても切れない下関と福との関係を再認識した所に、おばさんが料理を持ってきた。差し出されたのは白子豆腐だった。あれ、品書きには無かった筈だが。その理由を訊くと、ふくちりの準備がまだ整っていなくて、サービスで出したのだ。ラッキー! この白子豆腐はフルコースでの一品だが、真逆この場で頂けるとは。テレビのニュースが流れているが、味わって頂こう。程良い甘さの中に、ふくのエキスが凝縮している豆腐だった。しかも、口中でトロッと溶ける感触もナイス! これは旨い! この歳になってふくを頂いたことはなかったので、余計感動した。
白子豆腐でふくの旨さに陶酔した後は、代表的なふく料理のふく刺し。薄く切ったふく刺しが放射線状に盛られていて、白い刺身がキラキラとしていた。その手前には、千切りに捌いてあるふくの皮が盛られていた(提供されているふくはとらふくなので、皮自体に毒は無い)。これに長く切った浅葱を巻いて、ポン酢にちょっと付けて頂く。うむ、1枚巻いただけでは高級感が薄いな。
そうだ。或る本に「箸で何枚も一気に取って、ペロッと頂くのが贅沢」と出ていたので、それを実践してみるか。ふく刺しの一枚一枚は薄いので、まずは2枚巻いて頂くか。……何か、浅葱のシャリシャリ感が強いな。3枚でやってみるか。今度はふく刺しの感触がよく判った。スッと噛めるのではなく、或る程度の弾力があって、食が進みそうだ。先程の浅葱のシャリシャリ感も、いいアクセントになった。皮は小盛り程度だったので、少しずつ抓むとするか。
なかなか減らないふく刺しと格闘していたら、おばさんが小さな鍋を載せたガス焜炉を持ってきた。メインのふくちりだ。まだ、ふく刺しを平らげていないというのに、ふく刺しとふくちりを両方同時に頂けるなんて、とんでもなく贅沢だ。
出汁を取った昆布を鍋から取り出すと、いよいよふくちりを作る。えのき茸、白菜、椎茸、長葱、そしてふくの切り身。東京では料亭レベルの贅沢品なので、次から次と出されるふく三昧に、目を丸くするばかりだった。最終日の夜に、こんな贅沢が堪能できるとは……。
そんな贅沢品を、まずは脇役の野菜から頂いた。えのき茸と長葱をポン酢に付けて頂いた。ふくは最後に取っておこう。
……駄目だ。これでは極普通の鍋になるではないか。ふくも一緒に頂かないと、値打ちが下がってしまう。見た所、ふくの量は結構あるので、こうなったら値段のことは気にしないで、下関の味覚を堪能しようではないか!
穴あき杓子で掬い上げたのは、大きなふくの切り身だ。さぁ、脇目も振らずにかぶりつくのだ! ポン酢に付けるや否や、丸ごと口に運んだ。骨があっても取り出さずにそのまましゃぶりつく。ふくのエキスを存分に娯しむのだ。
嗚呼、贅沢だ! 箸を絶え間なく動かして、贅沢を五臓六腑、いや骨の髄まで味わっている。私はとんでもない貪欲者だ。東京に帰ったら、とんだ落とし穴が待っているぞ。しかし、そのことを気にせず、ドンドンふくちりを頂き続けた。その贅沢の余波が、ふく刺しに及んだ。残り少なくなったふく刺しを何の惜しむ気もなく、スイスイと平らげてしまったのだ。ふくちりも、野菜よりもふくを味わうことに専念してしまい、気付けば、ボロボロになったふくの身と大きく切った白菜、細かくなったえのき茸が残ってしまった。
此処でまた、おばさんがやってきた。今度は雑炊にする為のご飯を持ってきた。ふくのエキスが濃縮した鍋で作る雑炊か……。最後まで、贅沢だね。これが、5000円近くで頂けるのだ。でも、エキスを吸ってできる雑炊だから、何処か華やかさが薄いが、〆は少し寂しく終わらせるのが私の好みだ。
再び焜炉に火が付けられ、ご飯を鍋の中に入れ、待つこと5分少々でできあがり。レンゲで掬って茶碗に入れて、フゥフゥ言いながら掻き込んだ。此処でも、ふくの濃厚なエキスが口中を駆け巡った。
ふくの旨さに陶酔し続けながら、雑炊を平らげた。ふぅ〜っと深い溜息が漏れた。これで、4900円の贅沢なふくミニコースは、華々しいまま幕を閉じた。ふくを1匹丸ごと使ったのかは判らないが、例え「ミニ」が付いていても、下関の味覚を堪能できたのは、正直言って嬉しかったな。 |
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