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小郡改め新山口。どうも私は、この新山口の名が気に食わない。安易過ぎるというか、交通の要所として知られる小郡を、判り易くする為に新山口にしたのか? 地元に定着するには時間が要りそうだな、コリャ。
出雲市から「スーパーおき」に乗って、此処に出た。歩道橋を渡って、用を済ませると、ホームの一角に人が一杯集まっていた。何かのパックツアーかと思ったら、駅のアナウンスがその答えをひっくり返した。
SL「やまぐち」号の入線だった。SLか……、いいなぁ。鉄道ファンや旅行ファンならず、一般大衆も必見だ。それでなくても、入線するホームにはフラッシュを焚いている人達が一杯いた。この私も、突然のイベントに心を躍らせて、鞄からカメラを取り出し、入線を待った。
すると、最後尾から展望室が入線してきた。「やまぐち」号のヘッドマークを中央に備えている。一気にフラッシュの雨は客車に降り注いだ。近未来的な電車はすぐに見飽きてしまうが、SLとなると希少価値があるので、人を惹き付ける。その姿は子供のように無邪気だ。誘導する駅員を後目にシャッターを切った。
次は機関車だ。大急ぎで行ってみると、物凄い人集り。多くがヘッドマークを付けている機関車をバックにフラッシュを焚いていた。特に親子連れが多かった。そりゃ、滅多に見られないSLだ。子供だけではなく、親も興奮している。初めて見るSLの雄姿にはしゃぐ子供もいれば、飽きずに眺め続け、親から他人様の迷惑にならんよう宥められる子供もいた。子供だけではない。写真を撮り続ける熟年女性達、懐かしさに目を細め、自分の夢と照らし合わせながら、尚懐かしむ年配者達。SLは誰でも子供のように無邪気になる魔力を持っているのだ。
私もタイミングを見て、機関車を撮っていたのだが、或る家族連れに機関車をバックにと撮らせた貰ったのだが、この一言が今日の旅に彩りを添える事となったのだ。
「あれ、SLに乗るんですか?」痛い所を突かれた。
「いえ、満席だったんで……。」そう、指定券が取れなかったのだ。だから、機関車だけと思って、写真を撮っていたのだ。
「でも、私達は当日で取れたんですよ。」当日? どういう事だ?
「えっ、1週間前に訊いたら、満席だったんですけど……。」
「キャンセルが出たので、それを取ったんですよ。」キャンセル待ちか……。何と、運が良い家族連れだこと。
すると、私の脳裏に、鋭い閃きが浮かんだ。
キャンセル待ちか。そうだ! その手があったのか! もしかしたら、私もその運に与れるか。SLに乗れる夢は、徐々に蘇ってきた。
「今からでも、間に合いますかな?」興奮付いた台詞だ。
「早く行かないと、取れませんよ。」この家族連れも、期待しているようだ。
「よぉし、行ってきます!」
私は機関車前で混み合う人の波を掻き分けながら、改札へ走った。
みどりの窓口では、1組の母子が切符を頼んでいた。もしかしたら、「やまぐち」号の指定券なのか? これで、指定券が終わりとなると、沈んだ気分で関門に向かう羽目になる。母子が頼んだのは、新幹線の切符であったので、ホッとしたが、一縷の望みを掛けながら、順番を待った。
やっと、私の出番になった。急ぐ気を抑えて、駅員に尋ねた。すると、降車駅を訊かれた。何処にするか。510円の指定券を買うのなら、終点の津和野迄行った方が特だから、津和野に決定した。駅員は予約画面を操作し始めた。この日の旅の命運が掛かっているのだ。何としてでも、あの家族連れの幸運に与りたい。
画面には「0」の欄が無かった。そして、1枚の切符がマルスから吐き出された。切符にはしっかりと「SL やまぐち」号と記されていたのだ。
あったのだ。思わぬ幸運に笑みが出た。その直後、
「『やまぐち』号の切符は、満席になりました。」駅員が周りに知らせた。ギリギリセーフだ。思わず、ガッツポーズ。
さて、発車時間まで後5分も無かったので、急いで1000円札を出した。早歩きで改札を通り、指定された4号車に入った。思い掛けぬ予定変更だ。
いざ行かん! SL「やまぐち」号で、山陰の小京都津和野へ!
上は「小郡」改め「新山口」になった駅名標。
下はSL「やまぐち」号。 |
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この「やまぐち」号は、各車両毎に年代の趣向を取り入れている。私が乗った4号車は明治式で、落ち着いたダークブラウンが基調。どこそこに文明開化の香りが漂っている。1号車は展望車式、2号車はイギリスの「オリエンタルエクスプレス」を復刻した欧風、3号車は昭和式、そして、5号車は大正式となっている(ざっと見た感想なので、詳しくは書けないが、此処は明治式の客車の写真で、勘弁して貰いたい)。SLや当時の鉄道風景を知らぬ現代人にとっては、510円以上する垂涎の的である。大都会では決して買えない物が此処にあるのだ。私は東京に住んでいるのだが、東京でも手に入れられない物を求めに、旅しているのだ。悪く思うなよ。
暫くは座席でジッとしていたのだが、車内は興奮が収まっていない乗客で右往左往していて、ノンビリとSLの旅を娯しむ事は出来なかった。それを振り切る為に、1号車の展望車に行く事にした。
やはり此処にも、家族連れが大半だった。滅多に味わえない体験だ。欄干にしがみつき、直に走っている感覚にはしゃいだりしている。しかも、吹き抜けだから、興奮は最高潮に達する。私も欄干に肘を突いて、走っている感覚を声も出さずに喜んだり、遠離る(とおざかる)山口駅を見送ったりした。
そうホッとしていると、私の肘が煤で汚れていた。機関車だから、煤が此処にも飛んでくるのか。これもSLの醍醐味だ。
通路には、色々な人々の喜怒哀楽が交錯していて、このSLの人気の高さが伺える。懐かしいSLに乗って昔話を語り合う熟年グループ。向かう津和野での計画を練っている若いカップル、興奮を隠せずに写真を撮り続ける仲間、更には見慣れないSLの旅に興奮して、通路を走ったり、泣き喚いていたりする子供達もいた。微笑したり舌打ちしたりして、自分の席に戻った。
此処で一首。
子は娯し老は懐かしSLの汽笛娯しみ彩る紅葉
しかし、座っている間でも、目はあちこち動いていた。新山口で出会った家族を捜していたのだ。指定券が取れたので、吉報を報告する為だ。
4号車を抜けて、5号車に入った。いないな……。顔は微かに憶えているのだが、一致した顔は無かった。とうとう先頭の室内展望室まで来てしまった。此処にもいなかった。3号車の方か? と思って、5号車に入った。
すると、母親の顔にピンと来たので、此処で声を掛けた。そうしたら、家族は思い掛けぬ再会にビックリ仰天! 何と、私の事を憶えていたのだ。
「此処に、いらしたんですか?」
「いやぁ、取れたんですかぁ。」驚きと嬉しさが入り混じった声。
「えぇ、それも後1席でしたよぉ!」指定券を見せて、嬉しさを興奮で表した。
「そりゃ、おめでとうございます!」父親と熱い握手を交わした。後1席は私だから、値千金だ!
「いやぁね、乗れるかどうか心配してたんですよ。」
「それは、本当に有り難う御座います! 勝ちましたよ。」
「これで、心残りが消えましたよ。嗚呼、よかった!」爽やかな父親の顔が印象的だった。
「どちらまでですか?」
「津和野ですよ。急遽予定変更という事で。」
「えぇ、私達も同じですよ。」
「アハハ、コリャまた偶然ですねぇ。」本当だ。旅行という物は、偶然の出会いを約束してくれると、常々思っていたのだが、本当にその通りだよ。
写真はSL「やまぐち」合の明治式客車。 |
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(2003年11月3日) SL「やまぐち」号の歓喜絵巻 |
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嬉しさ一杯で4号車に戻った私は、車窓から見える景色を娯しんでいた。車窓からは、SLに手を振る沿線住民が多かった。中には偶然SLが通ったので、車を停めて外に出て手を振るドライバーもいた。車社会もSLの珍しさに平伏すのか? 鉄道ファンの私には、微笑ましい光景だ。
此処で一句。
熟れた柿揺らして落とす汽笛かな
鍋倉になると、リンゴ園が目立つ。こんな所でリンゴ狩りかと思うが、ちゃんとあるし、観光客もいるから驚きだ。そんな所を通るSL。一気にリンゴ狩りの手を止めて、手を振る。SLは手を振る人達に、サービスの汽笛を鳴らして、津和野に向かって走っていた。乗客もリンゴ園に向かって手を振っていた。
此処で一句。
鍋倉の紅き紅葉林檎かな
この私も、何かをやらなくてはと、アントニオ猪木氏の「1、2、3、ダー」をやった。プロレスファンではないが、偶然取れたSLの指定券に、興奮を隠せなかったのだ。向かう津和野にも良い事がありそうな気がする。
此処で一首。
此処は皆子供になりしSLの手を振る人も無邪気な子供
さて、昼も近いので、昼餉でも摂るとするか。車内で買った特製弁当を広げた。周りもボチボチ買って、すぐに頂いているから。一般大衆と同じ行動を行うのは余り好まないが、初めて乗るSLだ。750円也。
しかし、中を見ると、私は一気に落胆した。一番嫌いな幕の内だったのだ。弁当はうなぎ弁当やかに弁当等、偏りがある物を好むので、頂く前に舌打ちしてしまった。でも、買った以上は頂かなくては。若布ご飯にちらし寿司、シラハヤの甘露煮、山菜の煮物、柚子味噌と魚のフライ。鶏の唐揚げに厚焼き卵等入っている。
若布ご飯を抓んだ時、隧道に入った。ボワーッ。煤が木枠の窓から入ってきた。火薬の匂いが鼻を衝いた。これもSLの醍醐味だ。味わっていくとしよう。合間に烏龍茶を一啜り。
SLは津和野に向かって走っている。所が、幕の内弁当を頂く手は、勾配を駆けるSLよりも遅く、特に篠目に続く長い隧道では、火薬の匂いを吸いながら、不味そうに抓んでいた。何とか頂き終えたのは、そう、長門峡を過ぎる頃だった。
津和野に着く直前、又あの家族に会いに向かった。別れの挨拶をするつもりだ。向こうも偶然が織り成した一つの出会いを噛み締めていたらしく、私との別れを惜しんでいた。互いのカメラで写真を撮ったり、この後の予定を話したりした。家族は津和野に小一時間滞在した後に、益田の方に向かうそうだ。帰る途中だったそうだ。しかし、私は津和野観光は予定外だったので、「一応、観光」と漠然とした答えを出した。
「帰りにSLに乗れるのなら、乗って帰ります。」この付け加えが、津和野観光を引き起こす要因になったのだ。どんな、事かは後で綴る。アドリブを利かせた旅行も良いだろう。
津和野に着いた。此処でも、記念撮影する人達で賑わっていた。
私はみどりの窓口に寄り、帰りの「やまぐち」号の指定券を頼んだ。何と、スンナリ来たのだ。これで決まった。
私は3月に訪れた津和野を、もう一度訪れる事にしたのだ。
写真は鍋倉のリンゴ。 |
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新山口で、思わぬイベントに出会い、急遽予定変更して、津和野に来た。
しかし、3月の旅行で、津和野の名所は殆ど訪れたので、何処に行こうかと思案していた。SLの発車時間まで、駅舎でジッとしているのも嫌なのでね。殿町通り、津和野カトリック教会、石州和紙作り体験、森鴎外旧宅、西周(にしあまね)旧宅……、残っている場所は余りない。それでも、3月の旅行を回想していた。
一つあった。津和野今昔館だ。確か、旧式の電話が現役で使えるそうだし、町役場の役人が館長と聞いた。そこにするか。3月の旅行では、開館期間ではなかったからね。
私は、駅前の釜井という土産物屋で、レンタサイクルを拝借し、街に繰り出した。
8ヶ月振りの津和野か。変わっている点は無いと思うが、それでも、殿町通りとカトリック教会だけは訪れようと思う。
殿町通りは3月同様、観光客で賑わっていた。その通りにある堀の鯉が何とも愛おしく、観光客は、餌となる麸を投げていた。鯉は我先にと麸を飲み込んでいたが、その姿に観光客の心を癒してくれるのだ。途中でその一角にあるカトリック教会に立ち寄った時、その鯉に見取れた。
此処で一首。
堀の鯉早春に来し我知らば餌を飲み込む姿愛しき
例の津和野今昔館は、観光スポットとやや離れた場所に位置する。前述の通り、3月の旅行では、開館期間ではなかったので断念したが、11月は開館期間に入っているので、リベンジにとやってきた。
建物は山陰の小京都に相応しく、民家を改装している。それなのに、駐車スペースが異様に広いのは、どういう訳なのか? 訪れる観光客が多いのか。
中に入ると、温厚な館長が出迎えてくれた。
此処でオススメの展示品を紹介する。
まずは、旧式電話だ。回すダイヤルが何とも懐かしい。そういえば、父方の祖母の家もこのダイヤルだった。しかし、受話器が聞く方と話す方がバラバラで、何かをしながら電話する訳にはいかなかった。此処では時報を掛けさせてくれた。117とダイヤルを回して、受話器を耳に当てる。さて、どう聞こえるのか……。
「只今、〇時〇分〇秒をお知らせいたします……。」聞こえるではないか。しかも、スッキリしている。もしかしたら、ケイタイにも掛けられるのでは。掛けられるとなると、結構面白いかもね。買い替えが激しいケイタイの世の中だが、見事現役バリバリの旧式電話には恐れ入る。キチンとその領収書も頂いた。ケイタイの領収書なんか見飽きているから、余計新鮮だ。いやいや、恐れ入りました。
次に手動計算機。これは目盛りを計算した式に合わせて、クルクル取っ手を回して計算する物。所が、これには苦笑してしまう欠点があるのだ。取っ手が取れてしまうのか? 簡単な計算しか出来ないのか? とにかく、館長に言われた通り、目盛りを動かして、取っ手をクルクル回そうではないか。此処では「1000÷7」を計算することにしよう。
142.857142857……。答えが出てきた。しかも、チャキッと歯車が動く音も聞こえて、耳にも娯しい。初めて触れる物だが、歯車の音が娯しく、つい早回しになってしまう。それでも、びくともしない。何時頃の物かは判らないが、平成の世でもバリバリの現役だから、これも恐れ入る。
キチンと小数点も計算出来て、これは掘り出し物かと思うが、それはとんだ早とちりだ。実はこの計算機、掛け算や割り算等の計算は出来るが、足し算や引き算は出来ない代物なのだ。普通は足し算や引き算が出来た上に、掛け算や割り算が出来るのだが、これは全く逆。常識が当てはまらない。しかも、小学生の来訪者は取っ手を乱雑に扱うが、高校生になると慎重に扱うそうである。小学生には玩具に見える手動計算機が、高校生になると立派な骨董品になってしまうから皮肉だ。
展示品は日用品がメインで、昔の子供のブリキの玩具や英字タイプライター、1行しか表示されないワープロは、使った経験があったから余計懐かしかった。自家用映写機や練炭を使ったアイロン、映画のネガフィルムもあった。又、国鉄からJRに移管した時の時刻表や、聖徳太子の10000円札も展示されていた。博物館としては時代が新し過ぎるが、しかし、私達にはこれくらいが丁度良いかなと思う。利用していた時代やその姿を想像出来るからだ。私は昭和53年生まれなので、ブリキの玩具やワープロ、聖徳太子の紙幣を使っていた記憶があるからだ。成程、今昔館か……。
上は津和野今昔館。
中は聞き口と話し口が別々の旧式電話。
下はクルクル回す所が面白い手動計算機。 |
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この今昔館の最大の魅力は、展示品が直に触れられる点だ。
そこで、JRに移管した時の時刻表を開いてみた。そこには、ダイヤ改正で消え去った特急や寝台特急、廃線になった路線がズラズラ出てきて、鉄道ファンには何とも懐かしかった。路線図を見ると、当時の川越にはみどりの窓口は設けられていなかった。まだ、観光都市として拓けていなかったから無理はないが。やはり、交通の要所大宮にはしっかり設けられていた。此処でも、後塵を拝されている気がしてならない。
そして、極め付けは紙幣だ。そこには岩倉具視の500円札、伊藤博文の1000円札、聖徳太子の5000円札と10000円札が展示されていた。見た事も使った事もある紙幣だ。何れも思い入れがある。確か昭和59年に新紙幣が発行されたっけ。僅か6年間しか触れられなかったので、幼心にどうしても欲しかった。両親はすぐさま新紙幣に切り替えたので、その気持ちは高まるばかり。岩倉具視の500円札、伊藤博文の1000円札はピン札で手に入れたのだが、どうしても聖徳太子の2種類の紙幣だけは手に入れられなかった。その内5000円札は川越の行き付けの切手商で、ピン札で手に入れたのだ。10000円札は一度手に入れたのだが、訳あって手放してしまったのだ。そして津和野で、この10000円札を見付けたのだ。ピン札ではないが、状態はまあまあいい方だ。これも、直に触れられるのだが、私は聖徳太子の10000円札に出会えただけでも、充分に津和野観光の元は取れたと実感した。
余り、10000円札をジッと見ていたので、館長が尋ねてきた。
「使った事があるんですか?」
「いや、親が使った事がありまして、その光景を見た事があるんですよ。」
「そうですか。何時頃ですか?」
「そうですね。昭和59年に新札が出たんですよね。となると、当時6歳でしたよ。この辺の記憶は、しっかりしてますよ。」
「6歳で。それじゃ、残りの3種も見た事もあるんですね。」
「そうです。新札が出た後も、しばしば。でも、この10000円札だけは、手に入れられなかったんですよ。どうしても、欲しくて。」
「もし、宜しかったら、交換致しますけども。」えっ、交換? 我が耳を疑った。この紙幣が手に入れられるとは。新札が発行されてもう18年も経つが、聖徳太子の10000円札が手に入る事は、もう殆ど無い。しかも、交換媒体の福沢諭吉の10000円札は、しっかり財布の中にあった。嗚呼、何という幸運か。新山口では当日予約でSL「やまぐち」号に乗れたし、津和野では探し求めていた聖徳太子の10000円札が手に入れられるなんて。
そして、福沢諭吉の10000円札と、聖徳太子の10000円札を交換した。財布には入れず、ハードケースに大切に入れた。
最後は、英字タイプライターだ。ブラインドタッチが出来る私には、打って付けの道具だが、修正が利かないので、正確に打つ必要がある。しかも、英字だ。ローマ字を憶えていないと難しい。
カタ、カタ、カタ、カタ……。1文字ずつ紙に押し出されていく。何を打ったのかは憶えていないが、キーボードの勾配が急だった。その為、両手を動かす範囲が広くなって、4〜5行打った時点で、手が疲れてしまった。改行の時は、いちいち紙を動かしたり、シフトキーの代わりにレバーを動かしたりするので、結構ややこしい。
さて、数字の「1」を入力する時、或るキーを押すのだが、そのキーは何かお判りだろうか? お手元にキーボードがある人は、探してみ給え。
そう。アルファベットの「I」だ。これを数字の「1」の代わりに使うそうだ。見た所、アルファベットの「I」でも、数字の「1」でも通じそうだ。ワープロばかり使っている人には、ちょっと苦戦しそうだな。
津和野で、玉手箱を見付けた気がする。
帰りは又、SL「やまぐち」号を使って、新山口に向かったのだが、途中で寝てしまったので、大した事は書けない。ただ、車内は行きと較べて相当静かだった事は憶えている。 |
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