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此処数年、秋冬だけだが、父方の祖母の墓参りに出掛ける事が多くなった。最初は、命日の2月20日に合わせて、有給休暇を取って出掛けていたが、あれこれ事情があって、命日近くの日に合わせて出掛けるようになった。時には、十三回忌を私自身で趣味であった「旅行」で執り行ったり、墓前でお茶菓子を抓みながら、祖母と会話したりする事もあった。家庭の事情で、父方の祖母に育てられた私は、祖母が亡くなる17年間掛け替えのない人物だった。だから、余計愛着心があるのだ。
そんな事で一首。
命日に揃ひし供物如月の家族別れて我一人なり
その愛着心を持って、今回も武蔵小金井に降り立った。長年使っていた民家風の駅舎は使われなくなり、駅前にあったファーストフードの店や交番が無くなった。その代わり、近未来的なステンレスが異様に輝く高架駅が登場し、様相が激変していた。段々、私の知っている武蔵小金井が過去の物になっていく。駅近くに踏切があり、その道を車で通って、多磨霊園に向かっていたのだが、両親が離婚して早10年、その道を眺めていくと、平和一色だった幼少時代が蘇ってくる。後戻り出来ないもどかしさを抱えて、多磨霊園に向かった。
時間は8時15分。通常なら電車の中だが、新しい職場で何度も土曜出勤(休日出勤)してきたので、ちょっと骨休みしたいので、休日出勤要請を断ってきた。先祖の供養だ。罰は当たらないだろう。
多磨霊園脇の墓石屋で供花を買って、私だけしか知らない記憶で、墓までの道程を歩いていると、余所の墓に植えられている梅が僅かに咲いていた。春が徐々に近づいている事に気付き、思わず、頬が綻んだ。丁度、京王線の百草園(もぐさえん)で梅祭りが開催されているからな。
どうも、東京八王子に住んでから、四季の移ろいが段々ぼやけてきた。それも、人工的な物でしか。ただ、衣服が替わった、冷暖房が変わった等、不人情過ぎる。尤も(もっとも)、梅が咲いた、旬の野菜が変わった、蛙の合唱が聞こえた等、自然で知るのが道理だ。四季の変化が一番激しい日本だ。これで、大いに知り給え。今、私が歩いている両脇の墓で眠っている余所のご先祖様に尋ねても、そう答えるだろう、ねぇ……。
墓に着いたら、いきなり動作が止まった。供花が妙に新しいのだ。前に訪れたのは、1月25日だった。それなのに、供花が萎びている様子は何処にも無かった。それ所か、供えた憶えが無い缶入りのお茶も備えられていたのだ。
私は、煙が上がっている線香を置いて、変に苦笑した。
父方の親戚が、墓参りに来ていたのだ(推論)。どうして判るって。今日が命日近くだからだ。供花の様子から見て、1週間以内に墓参りに来ていたな。どうして、墓参りに来たのだろう。祖母に報告したい何かがあったのかな。それとも、命日だからだろうか。どっちにしても、蔑ろにされていない事は確かだな。肉親関係が稀薄になっている平成の世に、良き教訓を見せて貰ったな。ありがとう。今年のゴールデンウィークは、帰省するか。
さて、供花は捨てるには勿体ない程の鮮やかさなので、その隙間に挿し込むか。と、私が買ってきた供花を挿したら……。うわっ。冬の霊園には珍しい、赤、黄色、桃色、白と彩り豊かな墓になった。ビックリするだろうな。
それでは、お供え物を供えるか。海浜幕張で買ってきたうぐいす餅だけでは飽きるから、大盤振舞と行くか。まず、家から持ってきた蜜柑2個と、ダブルコートのチョコレートのビスケットと、上野アメ横で買ってきたきびだんご、ドーナツも供えていくか。そして、飲み慣れたワンカップの甘酒を半分頂いて供えた。
供花は華やかで、供え物も大盤振舞。それにしても、随分豪華な墓だこと。余り金銭を掛けずに、此処まで出来たのだ。喜んでくれるかな……。
此処で一首。
訪れて供えし花の鮮やかさ別れし身内の無事を認める
また、霊園脇の墓石屋に戻り、店員の好意に甘えてお茶を啜った。
さて、どうするか。先程見た梅で、私の心は躍り始めていた。何処かに行くとするか……。梅が咲いているとなれば、梅の名所に行くか。と、候補を挙げた。先の百草園は、近場過ぎるので却下(どうも、近場は行きたくない)。熱海は1月に出掛けたので、その必要は無し。それでも、磐梯熱海のPRイベントに出会し、最後の2番目で福引きが出来て、「あさか米」というお米1キロが当たったな。しかも、ミス熱海との記念撮影のおまけ付き。でも、A型インフルエンザは頂けなかったな。これで1週間がパーになった。お茶の渋みと相俟って思わず苦笑。
ならば、何処がある。と、水戸が思い浮かんだ。確か、梅の名所偕楽園がある筈だし、時刻表を見たら、臨時停車する日だった。もし、出掛けられたなら、紀州(和歌山)、尾張(名古屋)、そして水戸と徳川御三家制覇となる。しかも、ラーメンが有名だから、出掛けてみる価値は大いにある。だから、水戸に決定! えっ、水戸とラーメンの関係って。まぁ、行ってみようではないか。ここは東京都小金井市だ。水戸の話は、水戸でしようではないか。
親戚が集まって、1ヶ月に1回あるかないかの頻度で墓参りに出掛けていた事もあって、私にとって墓参りは大きなイベントだった。所沢の親戚の家で遊んだ事もまだ憶えている。このまま八王子に帰るのは、極めて勿体ないので、水戸に向かう事にした。 |
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(2009年2月21日) ちょっと上野で寄り道し、いざ、偕楽園へ出発! |
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武蔵小金井9時38分発の快速に乗り、途中の三鷹で中央特快に乗り換え、神田で山手線に乗り換えて、10時24分に上野到着。
水戸へは、常磐線に乗って出掛ける。その玄関口が上野駅だ。何時も往来が絶えない賑やかな駅なのだが、新宿駅と違うのは、周辺に超高層ビルが余り建っていない事と、近くに上野公園や不忍池があり、のんびり寛げるし、飲食店の品書きや値段が非常に庶民的で、余所者でも難なく入れる気さくさだ。私も何度も此処に寄り道している。京成上野付近では、かつての集団就職の折、初めての洋食に舌鼓を打った店があったが(その店は交差点を渡ったアメ横脇で、営業を続けている)、今再開発の様相で、コンクリート剥き出しの廃屋が野晒しにされているのにも拘わらず、不気味さは微塵も感じられず、何が出来るのかなという期待感が勝っている。もしかしたら、洋食屋が出来るのか? そうしたら、誰を相手に営業するの。まさか、地方から来た若者なのか。東京在住者にとって、東京一極集中の昨今の様相は、嘲笑の的になっているのに、気付かないのか。東京の若者が地方へ転勤する事もあるのにね。まぁ、いい店が出来る事を祈るとするか。
10時30分近くなのに、アメ横は既に混雑している。この不況、1円でも安く買いたい一般大衆の心理を、真っ向から受け止めているアメ横だ。老若男女誰でも足を運びたい場所だ。この私も、ちょいとアメ横で寄り道させて頂くとするか。久しぶりに立ち寄りたい店があるからね。
出発は11時12分だ。後42分だ。でも、11時に戻ればいいか。
予定通り11時頃に、上野駅9番線ホームに立った。11時12分発勝田行きは、此処に到着する。上野駅の山手線、京浜東北線ホームは、東京方面に貫通しているので、大した感想は無いが、常磐線、東北本線、高崎線の特急列車停車ホームは、櫛形(頭端式)になっているので、明らかに「此処でお終いでもあり、始まりでもある」という雰囲気が強く表れている。そのホームにある石川啄木の「ふるさとの訛りなつかし〜」の歌碑が、此処上野が目的地で、多くの人が往来し、方言が飛び交っている様子が目に浮かぶようで、いい感じだ。上野駅に来た時は、探して頂戴な。
しかし、勝田行きはまだ来ていなかった。とすると、腹の虫が鳴き始めた。そういえば、家で紅茶を啜って、墓参りではきびだんごとドーナツ、甘酒をワンカップで半分頂いて、墓石屋で緑茶1杯頂いただけ。これでよく持ったな。相変わらず、私の燃料タンクは低燃費だな。これで土浦迄持ってくれればいいけど、と私の目はウロウロし始めた。丁度いい所に、立ち食いそば屋を見つけた。嗚呼、土浦迄1時間位掛かるし、持つかどうかも判らない。此処は一時凌ぎという事で、暖簾(のれん)を潜った。
天ぷらそば360円也。僅か3畳(か?)のスペースに、客が2〜3人。客の捌けよりも、スペースの無さに苦笑した。これも、東京の土地事情に通じているのかな……、と思いそばを啜る。天ぷらも歯切れが良くてスイスイ啜れた。到着まで後数分だが、懐に仕舞ってある懐中時計を取り出して、時間を調べる事はしなかった。折角の寄り道だ。1分1秒に執着する現代人の悪い癖は止めておきたい。
とはいうものの、予定時間を確かめるべく懐中時計を見たら、10分を指していた。軽くそばつゆを啜って、店を出た。
急いでいるが、一句詠む。
そば啜る動く目春や梅まつり
常磐線。文字通り常陸(茨城県)と磐城(福島県浜通り)を通る大動脈だ。しかし、私はこの常磐線は余り乗った事がない。ちょっと昔になると、柴又に向かう為、金町迄乗車した事や、上野からの寄り道で土浦迄乗車した事、昨年の4月28日に友部〜上野、臨時快速「常磐エアポート」で、上野〜我孫子を通っただけ。今回は、一気に水戸まで向かう。どんな出来事に出会うのだろう。 |
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(2009年2月21日) 常磐線モンタージュ(上野〜土浦) |
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東京下町の大繁華街、上野を発った常磐線は、吉原の薫り漂う鶯谷の側面を通過し、日暮里から東北本線と岐れ、三河島付近では尾久から続いている貨物線が左側に出てきた。南千住の手前から隅田川貨物駅と岐れ、北千住に着くと、東京メトロ千代田線とご対面。何れも東京下町の細々とした住宅街を貫いている。
私にしてみれば、東京の魅力を一番よく伝えている場所だと思う。人情味をよく「向こう三軒両隣」というが、ピッタリ合う場所に相応しい。高い建物が無い分、空が広く見えるし、小さな家同士、商店街全体が肩を寄せ合って、助け合って暮らしている。人間関係が稀薄になっている平成時代に送る、最高の教科書だ。新宿、池袋でよく見掛ける高層マンションが、此処では随分迷惑で浮いた存在に見えるのだ。思わず苦笑。東京とは言え、東西南北で随分異なるな、コリャ。果たして、この光景が東京だと信じてくれる上京者は、何人いるのだろうか。
この常磐線に乗って、一番面白かったのは、「常磐線東京駅乗り入れ」推進の看板が駅の近くにあった事だ。確かに、他の大都市は寸断されていないが、東京だけが常磐線や東海道本線等の大動脈が、上野と東京で寸断されている。これが相互接続出来れば、東京も或る意味変化が起きると思う。或る本で読んだのだが、「東京一極集中を食い止め、物流が東京で寸断されず、スムースに流れる。」とあった。まさにその通りだ。しかし、その推進の看板が見られたのは東京界隈だけ。乗り入れを願っていないとは思えないが、此処に利益をもたらせる効果があると思っていないのか。
土浦に着いた。此処で7分停車する。グリーン車から降りて、背伸びをして用を済ませた。
次に、駅弁のうなぎ丼だ。上野で期待していた駅弁だ。此処で、大盤振舞するか。
実は、鰻丼発祥の地が常陸なのだ。何でも、旅人が忙しい行程の余り、丼飯の上におかずのうなぎを載せて頂いたら、イケたそうだ。しかも、三河一色産うなぎだから、安心感がある。しかも、建物も看板もやや色褪せていて、年季が入っているようで、このうなぎ弁当がロングセラーを誇っている事を証明してくれる。1200円也。あれ? 確か1000円だった気がするが、うなぎを運送する費用が割高になったのか、うなぎ丼を作る人件費がそんなに掛かっているのか。此処で、うなぎの養殖はしていないのか。牛久沼や霞ヶ浦が近いから、どうにか出来る話だ。今は、地産地消がブームだ。土浦産のうなぎを是非出して貰いたい。
高浜駅停車時に一句。
紅梅や残され寒し枯れ芒
写真はJR常磐線土浦駅下りホームにある駅弁屋。 |
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偕楽園。金沢の兼六園、岡山の後楽園と並んで、日本三大名園と謳われている。その中でも駅が設けられているのは、此処偕楽園だけだ。
偕楽園駅は臨時駅だが、偕楽園で梅まつり等イベントが開催される時に営業する。
さて、その偕楽園駅に降り立った。臨時駅に相応しく屋根が無く、ホームがすらっと伸びている簡素な駅。しかも、ホームがあるのは下りだけ。東京方面から来たならばいいのだが、勝田方面から来た場合は、水戸駅で降りて、バスで行くしかない。昭和61年まで東海道本線にあった新垂井駅みたいで、使い勝手が悪い。しかし、瓢箪(ひょうたん)の形をしている千波湖が近くにあり、のんびりボートを浮かべている光景に目を細めた。しかも、周りには遮る物も無いので、眺望が良く、暫くホームに立った。
振り返ってみると、肩に「ミス〜」の襷(たすき)を掛けた、華やかな紅白の着物を着た若い女性が、パンフレットを配っていた。この私も1部頂いた。偕楽園のパンフレットだった。フ〜ン、着物を見ると、赤と白が目立つな。差し詰め、梅まつりに相応しい色柄を選んだな。上手い選択だ。拍手!
プレハブの精算所は大混雑で、混雑が嫌な私には鬱陶しいので、すぐに顔を千波湖に向けた。最も、私は人混みに揉まれる為に、わざわざ偕楽園に来た訳ではない(人に揉まれる事ならば、東京でも出来る)。梅を愛でて、近付いてくる春を娯しむ為だ。そして、ご当地ラーメンを頂く為だ。
1月は熱海で、2月は偕楽園で梅を愛でるのか……。下手に金を使わなくても、一足早い春の贅沢が出来るのだ。思わず有頂天になり、この陽気も相俟って、心地好い鼻歌が出た。もしかしたら、熱海同様いいイベントに出会えるかも知れないな。出来れば、インフルエンザだけは受け取りたくないけど。
それにしても、梅を見る為に、近くの百草園に向かわず、敢えて遠くの水戸の偕楽園に向かうとは。大した理由もないし、どうしてかな……。
写真は偕楽園臨時駅。 |
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さて、偕楽園に入る前に、必ずする通過儀礼があるそうだ。よく見ると、観光客の多くが同じ道を歩いている。一体何があるのだ? 梅を見る前に、何か価値がありそうな物があるのか? それでは、私も同じ道を辿るとするか。間違いなく、脇にある今川焼やフランクフルトを売る露店が目当てではなさそうだな。
近くの常磐神社に参詣する事だ。しかし、これを単なる神社と思っては、水戸人は呆れるだろう。何を隠そう、水戸黄門こと徳川光圀公と、15代将軍徳川慶喜公の父親徳川斉昭公を祀っている神社なのだ。時代劇でお馴染みの徳川光圀公が祀られているとあって、偕楽園に向かう前に、この神社に立ち寄って、水戸に来た事をご挨拶するのだ。そう、水戸人のプライドが秘められているのだ。この私も余所者だ。一言ご挨拶をして、偕楽園に向かわなくては、不意にお供の助さんと格さんに不審者と間違えられたら、溜まった物ではないからね。ましてや、父方の祖母の墓参りの後に此処に来たのだから、清廉潔白を証明する為に、立ち寄るとしよう。
本殿は、さすが徳川光圀公のご威光が眩しかった。ズラズラと参詣者が続いていた。思わず、拍手した。しかも、割り込みをする礼儀知らずは何処にもいない。これも威光のお陰なのか。本殿前で立ち止まって、改めて水戸黄門の威光に驚いた。例え勧善懲悪、破邪顕正の時代劇でも、これ程までに人気がある歴史上の人物は殆どいない。5代将軍徳川綱吉公が発した「生類哀れみの令」を批判し、飢饉に見舞われた農村に年貢の軽減を図ったりと、藩内はおろか藩外でもその名君振りを轟かせた。ウ〜ム、もしかしたら時代劇「水戸黄門」は、光圀公の名君振りに感動して、創られたのだろう。実際、脇役の風車の矢七は実在の人物と聞いているから。
此処で、ご挨拶しておくか……。
−武蔵国は八王子から参った旅の者です。父方の祖母の墓参りを終え、彼女の代わりといっては何ですが、孫である私が代わりに水戸に参りました。出来れば、ご老公様の旅のお供をさせて頂きたいのですが……。それが叶わない場合は、水戸にいるだけでも結構ですので、私の旅程を見守って下さい……。
常磐神社の境内は、露店や観光客で賑わっていた。徳川光圀公が祀られているとあって、下手に高級品を使って値を吊り上げたり、値段の割には量をケチったりと、卑しい商売はしない。光圀公が祀られている神社で商売が出来る嬉しさを噛み締めて、食べ物を旨そうに作り上げて客を待っていた。皆、偕楽園の梅を見る前に腹拵えとあって、旨そうに頬張っていた。その光景を見る度、露店を過ぎる度に、頂きたい気持ちに駆られるが、土浦で頂いたうなぎ丼がまだ胃袋に残っているので控えた。でも、アツアツのたこ焼きやお好み焼き、焼きそばに今川焼きを頬張る姿は、どうも耐えられない。「隣の芝生は青い」と言う理は、例え贅沢品のうなぎを頬張った後でも、十分に言えるな。金銭は幾分余裕はあるが、下手に使いたくない。父方の祖母の墓参りの後だもの。羽目を外したくない……。
この常磐神社で、偕楽園は徳川光圀公か斉昭公のどちらかにゆかりがあるのかと、思い付いたら鋭い。
さて、どちらだろう。偕楽園に向かう前に、クイズと行こうか。
名君と謳われた徳川光圀公かと思うだろうが、実は、この偕楽園が造営されたのは、幕末なのだ。そう、徳川斉昭公なのだ。1841年(天保12年)から造営が開始され、完成したのは翌年の1842年。僅か1年で完成したのだが、その広さはかのニューヨークのセントラルパークに次いで世界で2番目の広さを誇るのだ。広さにして約300ヘクタール。徳川御三家の中でも格下であった水戸藩が、このような広さを誇る庭園を造れるとは、懐の深さよりも斉昭公の偉大さに驚く。(余談になるが)しかし、大老井伊直弼の安政の大獄で、水戸城蟄居を命じられ、そのまま没している。この時、斉昭公の子慶喜公も同じく蟄居を命じられていたが、井伊直弼が桜田門外の変で斃れると、状況は一変。14代将軍家茂公が亡くなった後に、15代将軍になった。この時30歳。そして、大政奉還の後、水戸に戻り謹慎していたが、今度は謹慎先が駿府になった。それ以降、歴史の表舞台に出る事なく、鉄道写真や自動車等の西洋文化に傾注し、ずっと趣味人として人生を全うした。それが祟ったのか、徳川16代当主には、慶喜公と何らゆかりの無い、徳川家にゆかりがある(御三卿の)田安家から迎えられた。徳川家達(「いえさと」と読む)と言って、初代日本赤十字社の社長となった。何だか、徳川家の歴史をもっと知りたくなってきたな。何処へ行けばいいのだ。(幕府があった)東京か、(御三家の)和歌山か、名古屋か、(慶喜公謹慎の地)駿府か、それとも此処水戸か。それが出来る日は、何時来るのか?
写真は常磐神社。 |
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難しい話になってきたので、偕楽園に向かうか。
偕楽園入口には土産物屋がある。水戸の土産で、真っ先に思い付くのは梅製品と納豆。
やはりそうだ。店頭に並べられているのは、梅製品と納豆だ。まさに水戸土産のエースだ。
此処では、藁に包まれた本格的な納豆があり、「さすが水戸」と感動するが、干し納豆や甘納豆もある。しかも、水戸市内の納豆料理屋では、天ぷらやチャーハンもあると聞く。まさに納豆の街だ。この不況でも、納豆の如く粘り強く頑張って欲しい。
納豆料理のバリエーションも豊富だが、メーカーも豊富だ。一番気を惹いたのは、天狗がデンと描かれている納豆だ。筑波山にも高尾山同様天狗伝説があるから、印象が強い。もしかしたら、高尾山の天狗が天狗伝説の繋がりで、筑波山の天狗に向けて、私を導いて下さったに違いない。ならば、なおさら清廉潔白、品行方正を心掛けて置きたいな。
一方の梅製品も話しておこうか。
偕楽園入口のレストハウスを併設している土産物屋では、梅を使ったお茶を観光客に配っていた。此処で、私も一杯頂くか。
と、頂いたのは、紅梅色のお茶。しかも金粉が浮いている。上品さがあるが、果たしてお味は。一口啜ったら、私の一番嫌いな紫蘇の香りが口中を走った。思わず、顔を顰めて吐き出してしまった。しかも、まだ紫蘇の香りが残っている。ダメだ。洗い流さないと。と、次に貰ったのは梅干しの欠片が入った緑茶。紫蘇の香りをいち早く掻き消したい為に、急いで啜った。それなのに少量だけ。……ウ〜ン。紫蘇の香りはしないけど、何だか、やや温めのお茶漬けを飲んでいるみたいな味がした。不味くはないけど、土産にはしたくない。それで、顔の険は余り直らなかった。梅干し入りの緑茶か……。そういえば、伯父がよく飲んでいたな。それも、丸ごと1個入れて。今も飲んでいるだろうか……。
次は、麹入りの温かい甘酒を頂いた。300円也。「酒」と付いているが、酒精分は極微量。それ故、酒に強くない私でも、スイスイ飲める。墓前に供えた甘酒に次いで、2度目だ。
冷たい甘酒は最近飲むようになったが、温かい甘酒を飲むのは久しぶりだ。そうだ。2001年に天橋立を訪れた時だ。その時は、余り馴染みのない味わいだったので、ほんの2〜3割しか飲まなかったが、今回は、スイスイと半分も飲んでしまった。一体、どうしてなのかな……。若者が甘酒を飲む話は、余り聞かないし、年を取った証拠なのかな。注文してくるのは、五十路を越えた観光客が多かったし。私も、昨年で三十路に入った。家庭を持つ同級生や、夭折した同級生もいる中、私は旅行に生き甲斐を持つ独身貴族になってしまった。この先どうなるのか。家庭を持って幸せに暮らせるのか、四十路を迎えずひっそりと逝るのか。金銭的な悩みは幾分か解決したが、今度は自分の生き方に悩みを持つようになった。そんな悩みは、温かい甘酒で流す他無い。今は、旅を娯しむ時なのだ。
日本中に散らばる、私と一緒に学校生活を送った同級生達よ、夭折した同級生達よ、この旅を娯しむ私の姿を、温かい甘酒で以て呈しよう。 |
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偕楽園。昨日の2月20日から梅まつりが開催されている。2月20日か……。何だか、父方の祖母の命日という事もあって、霊を慰めるかのようだな。今日は土曜日で天気も気温もいい事もあって、相当の賑わいだ。喜んでくれるだろうね……。
梅を愛でるのは、何も中高年や年配者ばかりではない。私より年下の若者や若い家族連れだって、楽しそうに咲いている梅を愛でているのだ。まるで、春を待ち焦がれたかのように、ずっと視線は梅の方に向けられていた。まさに偕楽園の名にピッタリだ。
どうして、ピッタリかって。紅白を梅を愛でながら、話すとしよう。
偕楽園の由来は、中国の古典『孟子』にある「古の人は民と偕に楽しむ 故に能く楽しむなり」の言葉から採用されたのだ。「民」とは老若男女を指すから、地元の人でも、私のような余所者でも誰彼隔たり無く、存分に楽しむ場所であって欲しいという思いが込められている。そして、その思いが現代に通じているのだ。そう、この梅まつりだ。
園内は観光客や地元の人で大賑わい。紅白の桜が咲いているが、まぁ、満開というよりは5〜6分咲といった所かな……。「梅まつり」ときた以上は、満開の状態で行きたかったな。1月に行った熱海梅園は3分咲だったので、余計満開の様が待ち遠しい。一体、満開の時期は何時なのか。梅の木に直に問いたい。遠路遥々八王子から来た、自然の摂理で春を待ち焦がれる旅人が問う。
しかし、徒に満開の時期を問うのは、欲張りの証なのかな。周りの人は咲き頃を気にせず、咲いた梅を楽しんでいる。近くの芝生や千波湖の良い眺望を借景として、旨そうに弁当を抓んだり、咲いている梅をケイタイで撮したりと、春が近付いてきた証を大事にしている。例え、3分咲の梅の木でも、春が近いと判ってくれれば、それだけでも価値があるという物だ。
此処で一句。
紅白の梅で春知る平和なり
写真は偕楽園内の梅。 |
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(2009年2月21日) 偕楽園で水戸黄門のお付きの者 |
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と、園内を歩いていると、行列を作っている場所に出会した。一体、何があるのかと思って近付いてみたら、聞き慣れた曲が聞こえてきた。水戸黄門のテーマ曲だ。長年親しまれている時代劇の曲だが、この不況下でも一般大衆を鼓舞する力強い曲だ。見ると、水戸黄門に扮した人達が、観光客と記念撮影をしているではないか。観光客はお馴染みの時代劇に出会えた嬉しさを、差し出す印籠で示している。これで、徳川光圀公のお付きの者になれるのだ、と。個人でも、家族でも全く関係ない。これは、イケるぞ。
私はすぐさま、行列の最後尾に並んだ。途中で、水戸観光に関するアンケートに答えた。その中で、「立ち寄った(立ち寄る予定)名所は何処ですか」の問いが出てきた。徳川博物館、義烈館、弘道館と水戸徳川家ゆかりの名所がズラズラあるが、まぁ水戸初見参だから、出来れば、偕楽園以外にも立ち寄りたいのだが、時間が赦してくれそうにもないな。でも、欲張ってあちこち立ち寄るよりも、偕楽園で充実した時間が過ごせれば、何も言う事は無い。これも「いろは」の「あさきゆめみし ゑひもせす」の理だ。
次々に順番が巡ってくる。並んでいた観光客は、馴染み深い時代劇のヒーローの一員になれる嬉しさで、ずっと、余所の記念撮影を眺めていた。何としてでも、いいショットを撮りたいと、急いで髪型を整える人、服装を直す人、ポーズをあれこれ決める人等、受験に望む学生のように、落ち着かない雰囲気が付き纏っていた。この私も着ているグレーのコートを着直した。一般大衆と同じ行動だ。
とうとう私の番になった。
先程の紅白の着物を着た若い女性を両脇にして、私と徳川光圀公を中央の配置。助さんも格さんもいる。でも、うっかり八兵衛や風車の矢七、柘植の飛猿やかげろうお銀の姿は見当たらない。そうだ。今日限定の脇役になろうかな。私は旅好きだから、諸国の名産品や情報を誰よりも知っていて、常に単独行動で徳川光圀公ご一行を陰で守っている役がいいな。東京八王子の出だから「桑都の〜」になるな。(レプリカながら)印籠を持つと、まさに感無量だ。脇役ではなく、助さん格さんに次ぐ第三のお付きの者になったな。「両手に花」と言うが、この場合は、抱え切れない程の花だな。それも紅白の梅だ。ヘッヘッヘッ。
いやぁ、熱海では偶然にも(「熱海」繋がりで)磐梯熱海のPRに出会って、福引きで新米が当たって、その上ミス熱海とのツーショットが出来たけど、水戸でも、偶然にイベントに出会えるとはな。やはり、墓参りはするものだな。後、高尾山と筑波山の天狗にもお礼を言わなくてはね。
水戸黄門ご一行と記念写真が撮れた嬉しさが歩調に出た。随分ルンルン気分だな。また、予期せぬ良いイベントに出会えるに違いないと踏んだのだ。となれば、時間上、旅範囲は水戸だけになりそうだが、頂きたいラーメンも期待出来そうだな、コリャ。
真っ白に咲き誇る梅をバックに記念写真。これが一番映えているな。と、写真を撮って貰った五十路の夫婦がデジカメで撮ってくれと頼んできた。お安いご用です。もう、中高年もデジカメを使うご時世になってきたのか。難なくシャッターが押せたが、今持っているアナログカメラの存在が気になってきた。もしかしたら、これも十数年後に無くなってしまうのか。あの、インスタントカメラのように……。
今度は土産を買うか。早速、近くの売店に入った。問題なのは、絵葉書やテレカが置かれている事だ。去年の9月の鹿島神宮では、需要低下で廃止されてしまい、ケイタイで物事を済ませる現代人の薄っぺらい感覚と、骨董品扱いになっている絵葉書とテレカの存在に苦笑したっけ。
中は土産物屋の他に食堂も併設してあったが、此処でも土産のメインは梅だ。おまけに近くでは、梅の盆栽の即売もしていたので、まさに梅一色だ。温泉やぐり茶で有名な熱海では、こう行かないね。やはり、水戸にして良かったな。
絵葉書は、……あった。後は、テレカだな。見ると、オリジナルテレカ発売中と出ているではないか。もしかしたら、あるのか。と、店員に聞いてみたら、これもあった。やった。骨董品(?)の絵葉書とテレカを両得出来た。いい事は続く物だね。えっ、他の土産はどうしたかって。残念ながら、菓子等の嵩張る物は、買わなくなった。最も、帰路で疲れた身体で袋をぶら下げる気力は、三十路になって殆ど無くなったから。これを単に歳の所為にしたくないね。 |
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偕楽園の見所は、梅だけではない。
奥に入ると、時代劇でよく見る垣根に囲まれた竹林が広がっていて、一瞬にして、時間が止まってしまう。此処で、時計やケイタイ等の現代道具を取り出さなければ、暦は江戸時代になる。流石に服装はそうはいかないが、水戸の場所柄、風車の矢七やかげろうお銀が出てきそうだ。この私も徳川光圀公のお付きの者だ。仮に出会ったら、どんな会話を交わすのだろう……。悪の組織の情報交換か、光圀公の具合を確かめるのか。
それにしても、偕楽園は広い。
梅林を抜けると、鬱蒼(うっそう)とした森の小道が延々と続く。又、岐れ道も多いので、初めて来た観光客はガイドブックを開いたり、道標を頼りながら、方向を確かめていた。先述のセントラルパークに次ぐ広さだが、セントラルパークみたいに平坦な芝生が少ないので、余計広く感じてしまう。それでもって、余計歩かされる事で、いい運動になるだろう。森の狭間から見える便利至極の市街地が目に入っても、現代文明に逃避行する事なく、懸命に目的地に向けて歩いている。ちょいとした冒険気分だ。
そんな鬱蒼とした森の中にあるのが吐玉泉(とぎょくせん)だ。この辺りは湧き水が豊富で、偕楽園造営前からあり、平成の世でも滾々と湧き出ている。果たして、咽喉を潤せるのか。ガイドブックを開いてみると、茶の湯に利用したと出ているから、飲めるだろう。飲用不適の看板も出ていないし。しかし、私の周りには、この湧き水を飲もうとする人はいなかった。湧き水を触って、意外に冷たくない事を確かめていた。徳川斉昭公の威光は、徳川光圀公に敵わない事を、暗に示しているようだった。幾ら、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜公の父親では、迫力不足なのかな。
上は偕楽園内に広がる竹林。
下は吐玉泉。 |
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好文亭に入った。入場料190円也。しかも、売り場には、「10円玉が不足しております。ご協力お願いします」の貼り紙があったので、小銭で膨らんでいる財布を取り出し、190円を用意した。10円玉4枚もあれば、少しは持つだろう。
ちょいとした親切を施して、好文亭入口に入ると、いきなり、私の足が止まった。
観光客が多過ぎるのだ。此処で、嫌な予感が過ぎった。まさか、ゾロゾロ列を作って巡る味気なさ過ぎる遠足を、此処で経験するのか。よしてくれよ! 折角、いい気分で旅しているのだから。しかし、一般大衆は私の憂いを嗤笑するかのように、靴を袋に入れて、中に入っている。にわかに(神経性の)頭痛が起き、額を抱えた。
踵(きびす)を返そうかと思ったが、190円の入場料をむざむざとドブに捨てたくないので、嫌な予感を抱えて中に入った。
その嫌な予感は、ズバリ当たった。入口辺りからゾロゾロ列を作って、好文亭を巡っていたのだ。旅の雰囲気が一気にぶち毀された。全く、水戸くんだりで遠足を体験するとはね……。日を改めて来るとしよう。
それだと、190円の入場料をドブに捨てたと同様になるので、少し感想を綴るとしよう。
好文亭は、城中の者が歌合わせや茶会を開いたり、舞踊や演奏を娯しむ場所だが、意外にも城中で災難に遭われた場合の避難場所として使われていたのだ。しかし、娯楽場所としては見事だが、避難場所としては些か(いささか)贅沢過ぎるのではないだろうか。庭には1本ながら梅が咲いていたし、四季折々の草花が部屋毎の襖に描かれていた。側の説明文に因ると、部屋毎に入れる身分(家老、側用人、女中等)が違っていたと言うから、興味深い。そうなると、四季折々の草花がなんか怪しい。描かれている草花の価値で、入れる身分が違ってくるとなると、もっと興味深い。ただ、ゾロゾロ列を作って見物していたので、どの草花が一番価値があるのか忘れた。日を改めてきた方がいいな、コリャ。
こんな贅沢な場所を、ゾロゾロ列を作って見物とは……。神経性の頭痛がぶり返してきた。
気分転換に一句。
梅咲けどゾロゾロ歩きは嫌いなり
ゾロゾロ列に本当に苛立ち、いっその事罰抜けして、先に巡ろうかと思った矢先、広い部屋に入った。
西塗様広間という黒い部屋だ。黒だから、漆が使われているのだろう。広さは20畳を超えているので、此処で大人数で娯楽を開催したら、さぞかし面白いだろうね。
実際此処は、誰彼専用の場所ではなかった。むしろ、領民を招待した場所だった。その領民とは高齢者。天保13年9月、斉昭公が開催した「養老の会」。藩士は80歳以上、領民は90歳以上が招待され、斉昭公自ら羽織を授与したそうである。招待された人数は藩士が16〜17人、領民が40人位と意外に多い。医療が発達していなかった時代に、これだけ、長寿を誇っていた人が多いのは、奇跡に等しいと言ってもいいだろう。一部の武士でしか施せなかった医療を、水戸藩は領民にまで施していたのかも知れないな。流石、徳川御三家のお膝元だ。拍手! 長寿が出来るめでたさを大いに祝う。今の日本の議員や金の亡者の代名詞官僚にも聞かせたい美談だ。
しかし、天保年間って、老中水野忠邦の天保の改革が行われた時期ではないだろうか。天保年間は14年あり、年代から見て、彼が失脚した後だと思うが、もし、これが天保の改革にぶつかってしまったら、例え徳川御三家でも容赦されなかったと思う。何せ、12代将軍徳川家慶公の好物とされていた初生姜も、なかなか頂けなかったというから。(余談だが)このような圧政が元で、水野忠邦は周囲の反感を買い失脚。山形に移り、その後復職したが、かつての面影は無かった。江戸幕府もこれが元で、崩壊の速度が速まったのかも知れない。天保年間が終わった24年後に、大政奉還が行われたのだから……。いろいろ、考えさせられるな。
気を取り直して、眺望を娯しむ事にした。丁度、千波湖の方向だから、よく見えた。しかも、眼下には紅白の梅が咲いているので、眺望としては、百点満点! 何でも、千波湖を中国の西湖に見立てて、借景としたので、偕楽園には池泉を設けなかったと言われている。余計な物を設けなかった結果が、この見事な眺望が出来上がったのか。ウ〜ム、勉強になるな。列の邪魔にならないように列から外れ、暫く眺望を娯しんだ。果たして、ゾロゾロ列の連中に判るのかな。「前へ倣え」の状態で、録に名所云々を娯しみもせず、闇雲に時間と金銭を費やす。これが空前絶後の大不況の観光なのか。190円の金子を軽視し且つ侮蔑しているとしか見えない。たかが190円、されど190円だ。また、神経性の頭痛がぶり返してきた。あぁ、もうっ。無視して、私独特の娯しみをしようではないか。神経性の頭痛を乱暴に髪を掻き毟って、紛らわせた。
此処でカメラを取り出したが、いいショットが決まらなかったので、やむなく仕舞った。ゾロゾロの所為なのかな?
一番の見所は、3階の楽寿楼と呼ばれる場所だ(そういえば、東海道本線の三島に、小松宮ゆかりの楽寿園がある。先程の草花も、楽寿園にあった鵞鳥の絵に通じている所もありそうだし。もしかしたら、命名は、此処から採用されたのか?)。その途中に滅茶苦茶急な階段を上らなくてはいけない。しかも、ゾロゾロ列を作っている状態ならば、その混雑振りは、此処で綴らなくてもお判りだろう。身体を横にして、譲り合って乗り降りしていた。若者ならば楽に行けそうだが、年配者になると、乗り降りだけでもうっかり足を踏み外すと、大怪我になり兼ねないので一苦労する。此処で年配者が身内の手厚い介護で、階段を乗り降りしていた。そうだ。長寿を祝った西塗様広間に立ち寄ったばかりだ。此処で、陰ながら長寿を祝うとしよう。と、道を空けた。
楽寿楼には部屋が3室あり、南側の8畳の部屋が正室だ。此処を利用出来るのは藩主だけで、此処から眺める千波湖が、本当に言葉にならない。千波湖だけではなく、目に見える偕楽園全体が両手にすっぽりと収まりそうなのだ。何だか、独り占めしたい気が湧いてくるが、偕楽園の由来を知れば、罰当たりになってしまう。紅白の梅が咲き、その嬉しさを藩主だけではなく、領民にも分け与えるだけではない。その領民の嬉しそうな姿や歓声を、肌で感じ取り、より一層の善政を敷こうと、気を奮い立たせる。成程、藩主だけにしか赦されない理由が、よく判った。政治の善し悪しを感じ取る為の絶好の場所としていたのだ。神経性の頭痛が、スッと治った。
後で知ったのだが、この好文亭は、偕楽園の梅に関係する事が判った。「好文」は梅を指す言葉であり、「学問に親しめば梅が咲いて、学問を捨てれば梅は咲かなかった」が元だそうだ。本当に梅一色だな、コリャ。
この好文亭には、現代文明が取り入れられているのだ。一体、何だろう?
答えは、エレベーターだ。しかも、滑車を利用した料理等を運ぶ小型のエレベーターだ。これが、先程の3階の楽寿楼に繋がっている訳だ。見ると、入口を拵えた和紙で作られた箱があるだけだが、江戸時代にエレベーターがあったとは、歴史的発見(?)なのかはよく判らないが、これも斉昭公のアイデアなのかな。まぁ、あの眺望を見ながらの食事は、何とも贅沢に感じられるな。
兎にも角にも、徳川斉昭公は、単に水戸藩の藩主だけではない。身分の隔たりを超えて、誰でも楽しめる偕楽園を造営し、長寿を身分の隔たりなく祝い、しかも、倹約令で何の娯楽も無かった城中の者に対して、この好文亭で娯楽が取れるように配慮する等、光圀公にも負けない善政を敷いていたのだ。
上は好文亭外観。
中は西塗様広間からの千波湖。
下は料理用のエレベーター。 |
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時計を見たら、15時を指していた。徳川博物館、義烈館、弘道館は立ち寄れそうにもない。精々、千波湖の辺で娯しそうにボートを漕いでいる光景や、偕楽園からの観光客相手の露店を冷やかしたり、偕楽園の観梅ツアーなのだろうか、多くの観光バスが停まっていた光景を見て、変に苦笑しただけだった。苦笑した理由は、他でもない。時間や行程に縛られた遠足が、殊の外嫌いだからだ。仮に歳を取っても、こんなつまらないツアーには、参加したくないね。
先述の通り、立ち寄れたのは偕楽園だけだったが、充実した時間が過ごせた。後は、水戸藩ラーメンだけだ。随分遅い昼餉だな。
15時24分の列車で、水戸に向かった。それも、駅員や着物を着た若い女性達の見送りを受けて。
水戸駅の観光案内所で、水戸藩ラーメンの事を聞いたら、地図が差し出された。水戸市内に6店舗あるが、今の時間帯営業しているのは、駅から10分程歩いた所にあるシティーホテルの中華レストランだけだそうだ。それでも充分だ。
水戸駅南口を出て、そのシティーホテルに向かう事にした。水戸駅南口は意外にも、大きな建物は見られなかった。徳川御三家のお膝元なのに、随分大人しい印象を受けた。この辺りで、目的の水戸藩ラーメンが頂けるとは……。
さて、此処で歩きながら、「なぜ、ラーメンなのか」という事をお話ししよう。
日本で最初にラーメンを頂いた人は……。将軍家ではない。かといって、出島が設けられた長崎の人ではない。徳川御三家の誰かなのだ。さぁ、一体誰だろう。紀州徳川家か、尾張徳川家か。いやいや、そうではない。此処水戸徳川家の人なのだ。しかも、誰でもよく知っているあの人なのだ。そう、水戸黄門こと徳川光圀公なのだ。しかも、ラーメンに付き物の餃子を最初に頂いた人も彼なのだ。
しかし、水戸徳川家は徳川御三家の中でも、一番格下なのにも拘わらず(紀州と尾張は大納言、水戸は中納言だった)、どうしてラーメンや餃子が頂けたのか。
それは、徳川光圀公の大事業「大日本史」の編纂が絡んでいる。
明国から長崎に亡命していた儒学者朱舜水を、「大日本史」の編纂の助手として水戸に招待し、大変お世話になったお礼にと、母国の麺料理を振る舞ったのが最初だと言われている。蓮根の粉末を混ぜた麺を用いて、スープは豚肉と鶏肉で取ったそうだ。それだけではない。大蒜(にんにく)、辣韮(らっきょう)、葱、生姜、韮の5種類の薬味を振り掛けて頂いたそうだ。当時の記録には、「饂飩(うどん)のようで、色々な薬味を掛けた物だ」と出ている。彼は大層気に入ったようで、自分で麺を打って、スープを作って食していたそうだ。更には、当時食していた事を御法度としていた普通の肉やチーズ、ワインや牛乳を頂いた好奇心旺盛な人物だったのだ(もしかしたら、光圀公自ら作っていたのかも知れないね。歴史が覆りそうだ)。いやぁ、大名でも将軍家でも手に入るかどうか判らない伴天連の食品を、水戸で頂いていたとは。そして、現代になり、残された資料を基にして極力再現したのが水戸藩ラーメンなのだ。
さて、シティーホテルの中華レストランに着いた。眺望のいい席を取って、水戸藩ラーメンとシュウマイを注文した。
水を軽く啜って外を眺めると、先程立ち寄った千波湖や偕楽園がよく見えた。梅の紅白はぼやけているが、中華レストランが位置する場所が高かったので、水戸観光のエースが一気に抱きかかえられそうだ。しかし、人影が小さく見えなかったので、楽寿楼からの眺望同様、善政を敷こうと奮い立つ事は出来なかった。何だか、高層マンションに住み、水戸市街を支配する男みたいで、余り心地好い物ではなかった。
水戸藩ラーメンが届いた。1000円也。醤油ベースのスープに、青梗(ちんげん)菜と大きめのチャーシュー1枚、やや大きめの椎茸、松の実と枸杞(くこ)の実が撒かれている。ちゃんと前述の5種類の薬味も添えられている。ただ、今回は辣韮ではなく、エシャロットで出された。アレンジなのかな? そして、柔らかめのシューマイを合間に頂いた。
懐中時計を見たら、時間は16時を回った所。普通の感覚なら、本当に遅い昼餉だな。幾ら、非日常な日とはいえ、これが普通になってしまうから、恐ろしい物だ。この恐ろしさを巧く小気味良いスパイスに仕立てるのが、旅人の腕の見せ所と言った所だ。即ち、往き帰りの行程やその道中での過ごし方等、あれこれ工夫を凝らすのだ。
当初の予定は、水戸発16時18分の鹿島臨海鉄道で、鹿島神宮、佐原経由で千葉に出て、千葉みなとの行き付けの印度料理屋で、夕餉を取る筈だったが、時間が無いのを悟ると、懐中時計を仕舞った。久し振りに本場の印度カレーを頂きたかったが、土浦のうなぎ丼と水戸藩ラーメンが頂けただけで、充分食事での元は取れたような物だ。
上は千波湖近く。
下はシティーホテルからの千波湖。 |
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水戸駅に戻り、今度は北口に出てみると、東京でも見掛ける雑踏が広がっていた。つまらないな。しかし、そのつまらなさを掻き消してくれるのが、水戸光圀公と助さん格さんの像だ。しかし、常磐神社で、水戸光圀公の威光に触れた後なのか、この雑踏を気に入っていらっしゃらないようで、顔の無表情さが際立っていた。
駅構内のカフェで軽く一服し、鹿島臨海鉄道17時4分発鹿島神宮行きに乗った。赤の気動車だった。何故、赤なのか。私は鹿島臨海鉄道の名で察知した。沿線に鹿島サッカースタジアムという、試合開催時だけ営業する臨時駅があり、そこを本拠地としている鹿島アントラーズのチームカラーだからだ。
そうだな。臨海鉄道と出ているから、鹿島灘が眺めながら、黄昏を迎えたいな。と、乗車時に車掌に海側の位置を確かめた後の一言が、表情を暗くさせた。
「臨海鉄道と出ていますけど、海は見えませんよ。」
車内はセミロングシートと、セミクロスシートの混合。私は迷わず、セミクロスシートに座った。セミロングシートは東京の電車で座り飽きているし、難無く景色が望めるからだ。
JRとホームを共有していて、JR鹿島線にも乗り入れしている鹿島臨海鉄道。果たして、黄昏を迎える時に何が待っているのか。しかし、私はさっきの車掌の言葉が、引っ掛かってしょうがなかった。海が見えないのに、なぜ「臨海」と名付けたのか。妙な疑問に苦笑しながら、水戸を発った。
鹿島臨海鉄道。常陸の大都会水戸と、常陸一宮こと鹿島神宮を結ぶローカル線。
車内は、水戸から鹿島方面へ帰る若者や年配者で、だいたい80%の乗車率。
列車は水戸市街を右に逸れて、田園地帯に入った。その中にコンクリート製の高架線は随分浮いた存在だ。水戸の1つ隣の東水戸は、田園地帯にポツリとある小さな駅。しかも、駅は本当に素っ気なく、コンクリートの鈍い灰色が、何処か貨物駅の無骨さを醸し出している。
そういえば、この鹿島臨海鉄道には、鹿島サッカースタジアムから岐れ、鹿島港に向かう路線がある。途中に神栖(かみす)駅があるが、神栖市民にとっては何とも不便な鉄道だ。そう、貨物路線なのだ。昔は、旅客営業もしていたが、昭和58年に旅客営業を廃止し、現在に至るのだ。今は、地球環境の観点で鉄道輸送が見直されているので、いい加減、神栖も旅客営業を復活させては如何かな。大阪では、城東貨物線の一部が「JR東おおさか線」と称し、旅客営業を始めているではないか。此処でもやるべきだ。少子高齢化には、モータリーゼーションは余り効果が無いからだ。
途中から、帰宅途中の学生が乗車してきた。車内は少し賑やかになった。しかし、東京のように携帯やメール等でモラルを軽んじる騒がしい賑やかさではなく、掠り傷や汚れが幾分目立つスポーツバッグや結び目が緩んでいる制服のネクタイを見れば、高校生活を精一杯娯しんでいる様子が感じられる賑やかさだった。どうやら部活動の帰りのようだが、車内に入ると一気に此処が勉強室に早変わり。友達と一緒にやれば、能率が上がるのかな?
私もほんの15年前は、あれと同じ高校生だった。そして、今は三十路男になってしまった。15年間って長いような短いような時間だったな。まぁ、悔いの無い高校生活を送り給え。
と、未来の三十路予備軍に、無言でエールを送って景色を眺めているが、肝心の鹿島灘が全く見えなかった。それ所か、休耕地や小さな民家、そして、それを繋ぐ細い道路に隧道、更には森に囲まれた田起こし前の田圃の近くに細い道があり、それが森に消えていくが、その森の向こう側には街の明かりがチラチラ点っていて、街は近いけど、この細い道がある景色を眺めている限りは、森に消えてしまうのもあって、遠くに感じてしまう。徐々に周りは暗くなってきた。停車する駅も水戸以外は小さくて待合室がある以外は、駅名標しかないシンプルな駅が大半だった。如何にも地方のローカル線の零細さが、駅を通じてよく判る。黄昏の鹿島灘を眺めながら、ペットボトルの紅茶を啜ろうと浪漫を過ぎらせていたが、八王子近辺でも難無く見られる田園風景にガックリ。あの車掌の言葉は本当だったな。
此処で一首。
鹿島灘水戸で憧れ乗る列車遥なる灘黄昏の帰路
新鉾田に着いた。かつてこの近くに鹿島鉄道の鉾田駅があったが、2007年に廃止になっている。鉄道会社はあれこれ手を尽くしたと聞いているが、私としては、新鉾田駅まで延伸させれば、廃止にはならなかったと思う。「灯台下暗し」と言う理がピッタリ合うな。今は代行バスが走っているそうだが、この少子高齢化には合わない対策だな、コリャ。絶対、新鉾田まで延伸させて復活して欲しいと思う。
此処で一首。
黄昏れて山間貫く一本道街は近けど歩けば遥か
荒野台はまなす公園前駅を通過した。はまなすか……。真っ先に思い付くのは森繁久彌氏の『知床慕情』だ。歌詞の一節に「はまなすの咲く頃」と出ている。なのに、鹿島でも咲くのか、はまなすが。大抵植物には自生出来る北限があるが、逆に南限もあると聞いた。丁度、この辺りがはまなすの南限なのかな?
鹿島サッカースタジアム駅は、臨時駅とあって、ホームには屋根が無い、本当にシンプル。しかし、駅と反対側にあるサッカースタジアムが近未来的な建物なので苦笑した。此処も昔は「北鹿島」と名乗って旅客営業をしていたそうだが、此処も一工夫施せば、普通の駅に昇格出来そうだ。駅に屋根を架し、周囲に住宅地造成、商業誘致をすれば、JRも考えてくれるだろう。何しろ、此処はJR鹿島線の本当の終着地なのだから。今のままでは人口流出も致し方ないだろう。
さて、此処からポイントを通過する。そのポイントは先述の神栖と鹿島神宮だ。昭和58年までは旅客営業を廃止になってからは、鹿島サッカースタジアムとの往復の貨物営業だけになってしまった。此処も旅客営業の再開を望む所だ。
上は水戸駅西口にある水戸黄門像。
中は鹿島臨海鉄道車内。
下は無骨な高架を走る鹿島臨海鉄道。 |
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鹿島神宮駅に着いた。去年の9月に鹿島神宮参詣に利用したが、本当に何にも無い駅だ。ホームに自販機はあるものの、階段を下りた改札口には売店すら無いのだ。おまけに駅の様相も、少々汚れている淡いグレー基調のタイルの壁がズラッと続いている所を見ると相当古いし、此処に自動改札機を置いたら、物凄いギャップに大苦笑間違いなし! だけど、東京から僅か2時間程の場所に、このような駅があるとは、売店や立ち食いそば、駅ナカグルメが持て囃されている都会の駅に見慣れている私にとっては、鹿島神宮駅は必要最低限の施設しか設置されていないだけではなく、開設当時のままの様相を今でも保っている所に、懐かしさも感じられる。
18時45分鹿島神宮を発ち、すっかり闇に隠れた北浦と、シーズンオフで静まり返っている潮来を眺め、取り損ねた十二橋駅を撮して、19時6分佐原到着。確か、此処で駅舎を撮って、天ぷらそばを啜って、銚子に向かったな。そして、夜の佐原に降り立つと、改札前にスイカの読み取りが出来る自動改札の設置工事が行われていた。段々都会化が進んでいくな。(駅舎を取る為に、特別に途中下車を赦して貰えた)融通が利いた有人改札は、どんどん無くなっていき、もはやレトロの仲間入りをしようとしている。同じ小江戸でも、川越は都市との混在なので、自動改札機の設置は赦せるが、此処は駅舎も町並みも、川越よりも小江戸情緒満載なので、全く味気ない自動改札機の設置は、まさに大苦笑だ! 鹿島神宮駅に引き続き、2回目の大苦笑だ。
19時16分、佐原から新型車両の成田線に乗って、成田迄向かった。そして、20時20分の総武快速線直通成田線に乗って、東京迄向かう。時間まで少しあるので、途中下車した。
成田駅周辺は、土産物屋に「新勝寺」の文字が書かれている提灯、仏壇屋が並んでいる成田山新勝寺の門前町の雰囲気が強い。この町が国際空港も持っているとは、本当に一見だけでは判らないのが都市なのだ。しかし、20時になれば、賑やかさは無くなり、この門前町全体が眠りについているのが、下ろされているシャッターで判る。東京よりも遥かに早く夜を迎えているのだ。それでいいのだ。これで此処が心安らぐ田園都市だと言う事がよく判る。
それにしても、腹減ったな。近くにファーストフードの店があるので、何か買ってグリーン車で抓もうかと思ったが、鞄にはダブルチョコレートのビスケットがまだ4枚もあるではないか。これで凌ぐとしよう。私の燃料タンクは低燃費だから、東京に着くまでの約1時間、絶対に持つよ。
成田駅のニューデイズでほうじ茶を買って駅を彷徨くと、何故か偕楽園の事を思い出した。試供品の梅のお茶が口に合わず、温かい甘酒を嗜んだり、水戸黄門ご一行と記念写真を撮ったりと変化に富んだ行程だったな。だけど、好文亭でゾロゾロ歩きの観光には参ったな。こういう観光名所は静かに娯しむのがベストだけど。幾ら旅先でも、ゾロゾロ歩きの観光は本当に真っ平御免だな。
あっ、思い出した。成田出身の女流歌人、三橋鷹女(みつはしたかじょ)だ。彼女の俳句にこう言うのがあった。
「夏痩せて嫌いなものは嫌いなり」
確かにその通りだ。幾ら、身体に良い物とは言え、本人の口に合わなければ、逆効果だ。その俳句が、今回の好文亭のゾロゾロ歩きにも繋がっているように思える。思わず苦笑。これで3回目。苦笑続きだな。
さぁ、20時20分の総武快速線直通成田線は、もうすぐ着く。東京に着くのが21時31分。所要時間1時間11分。順調に進めば、八王子到着が22時35分だ。それまで、ダブルチョコレートのビスケット4枚とほうじ茶で空腹を凌ぐのだ。
明日は日曜日。グッスリ休むとしよう。
上はJR鹿島神宮駅の改札口。
下はJR十二橋駅。 |
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