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ゴールデンウィークに帰省した。母方の実家三重県熊野市紀和町だ。しかし、ただ単に目的地(熊野市)に向かうのは、ハッキリ言って単調な行程になり、寄り道好きな私には、とてもじゃないが耐え難い。帰省でもれっきとした旅だから、存分に娯しみたい。
そこで乗ったのは、高尾6時14分発の列車だ。そう。去年名古屋大須で開催された大須大道町人祭に出掛けた時に使った列車だ。もう、東海道本線は何度も利用していて、飽きてきたので、また中央本線経由で向かう事になった。それも、滅多に乗らない高尾以西の中央本線だ。
これに「寄り道」というスパイスを満遍なくパラパラ振り掛ければ、滅多に行けない中央本線が一段と面白くなってくる。判り易く言えば、東京〜名古屋のもう一つの顔が見えてくると言う事だ。海側で大都会を貫通する東海道本線ならば、中央本線は山側で小さな集落を貫通しながらも、果樹園やら広大な田畑やら、はたまた湖の辺やら変化に富んでいる。どんなのかは、此処で綴ったら興醒めしてしまうので、後で。まだ高尾を発っていないから。こんな所で、急かせるのは止め給え! 使い慣れた懐中時計を開いて、出発時間の6時14分を待つ。
前回は当日出発で、イベント初日だったので、沿線での寄り道は出来なかったが、今回は2日も余裕を取って、寄り道する事にした。明日は伊勢神宮参詣に充てて、今日は中央本線沿線で寄り道する事にした。
そう思いながら、列車は「松本」という方向幕を出して、高尾を発った。此処で私は「上諏訪」の方向幕を出した。
上諏訪。諏訪湖の辺に位置する駅で、諏訪湖観光の玄関口として知られているが、10年前にも訪れた事があるのだ。確か、諏訪北澤美術館と諏訪湖、銘酒「真澄」の醸造元、高島城を訪れたが、昨年(2008年)上諏訪を素通りした時、諏訪湖が見えなかったので、遊覧船「すわん」丸の安否や、塩尻駅で見掛けた銘酒「真澄」の事もあって、もう一度上諏訪に立ち寄りたいと考えたのだ。
上諏訪に到着する前に、中央東線モンタージュを自作の和歌と一緒に紹介するとしよう。
高尾山に向かって左に曲がっていく京王高尾線を見送って、集落があって駅を設置しても良さそうな小仏峠の隧道を通過すると、相模湖だ。一気に駅周辺が、横浜銀行やら神奈川中央交通のバスがあって神奈川色になる。僅か9.5キロ離れただけで、こんなに変わるとはね。国境を越えた雰囲気がある。水筒に入れたアップルティーを一啜り。
藤野駅は、駅から見える山に大きなラブレターがあるので印象深い。
そんな藤野駅に、名前に相応しい藤棚が置かれてあった。余り咲いていなかった。花札では藤は4月になっているが、ずれてしまっているのかな……。でも、晴天だ。不便極まりない折り畳み傘を使わずに済みそうだな、コリャ。
此処で一首。
藤野駅名に相応しき藤棚の晴れし青空似るや藤色
笹子は甲州街道の難所笹子峠が控えている駅。笹子峠では山道を整備してハイキングコースが設けられているが、幾ら至便になっている平成の世でも、容易に越せない難所に変わりはない。そんな旅人の空腹を満たす名物が、よもぎ餅の「笹子餅」だ。これは、お伊勢詣りと同じ道理だ。つまり、遠路遥々伊勢神宮に参詣した参詣者の空腹をすぐに満たす為に、様々な餅菓子が多く作られた。甲州街道の難所笹子峠に臨む旅人に腹持ちのいい餅菓子をと出されたのだろう。しかし、何処で売られているかは判らず、勝手に「上諏訪」の方向幕を変えられないので、鞄から葛餅を取り出して抓んだ。これも餅だ。それにしても、笹子隧道の長さには些か(いささか)驚いたなぁ。これで難所笹子峠が越えられるのだから。何て列車は便利な乗り物なんだろう。
此処で一首。
列車にて菓子の餅食う笹子かな山道嶮しき苦労は余裕 |
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上諏訪に着いた。もう、此処に降り立つのは10年振りとなる。かつてNHK教育番組で1984年から8年間放送されていた或る商店の配達係のチョーさんが活躍した小学3年生社会科番組「たんけん ぼくのまち」の舞台で、実に25年振りと比べるとまだまだだが、10年の年月の長さと短さに驚かされる。「長さと短さ」では相反するのだが、「再びこの地に足を踏み入れた年月の間、色々な事があった」の長さと、「20代の若者になりたてから、何時の間にか三十路に入った自分」の短さを察して欲しい。何せ、此処に初めて足を踏み入れたのは、親戚と一緒に旅行した10歳の時。2回目は21歳の時。あの時は、大して自分の歳を気にしていなかったけど、3度目になると、そうは行かなくなってしまった。歳を取った証拠なのかな……。
さて、チョーさんの25年振りではないが、10年振りに上諏訪駅に降り立つと、すぐに目に付くのが上りホームにある上諏訪温泉だ。確か、此処に温泉があって、一っ風呂浴びて、松本に向かったな。今回もお世話になるとするか。
さて、駅を出ると商店が建ち並び、タクシープールには数台タクシーが停まっている、10年前と何ら変わりない光景が広がっていた。
今回は、行程上約1時間しか上諏訪観光が出来ないので、高島城、諏訪湖と観光名所をそぞろ歩きするとしよう。
まずは高島城。途中に何があるかは憶えているが、道順が並木道に入る踏切を渡った事は判っているだけで、どうも覚束無い。きちんと憶えているつもりでも、いざ辿ってみると判らない事があるものだ。そこで、駅の脇にある観光案内所に入り、道を調べた。
高島城に向かう道は並木が続いていて、所々に昔の洋風建築が並んでいる何とも風情がある。それを抜けると民家に入るが、左には味噌や酒を醸造する木造の倉がズラッと続いている。しかも、倉は長年の風雨に晒されて薄汚れているが、反対側の民家は新しい家が数軒あり、そのギャップに驚く。確か此処で、銘酒「真澄」を買ったな。日本酒のブランドに疎い私は、ちょっとした土産が出来たなと思っただけだが、後日その日本酒が日本に名だたるブランドと知り驚いた。「真澄」は美味しく頂いたので、今回も買っていこうかなと思ったが、これでも帰省の途中故、下手に荷物を増やしたくないので控えた。
倉を過ぎると、高島城にぶつかる。チョーさんでは桜満開だったが、今は葉桜になっている。確か、天守閣からの諏訪湖の眺望は素晴らしかったな。しかも、思っていたよりも大きかったなぁ。しかも、此処を統治していた高島藩は、一度も一揆を起こさせるような暴政は一切無かった事実を知ったので尚更だった。
私は一旦、高島城を素通りしたが、時間を見るとそんなに経っていないので、寄る事にした。
城内には藤棚があったが、藤の花は僅かに咲いていただけだった。
上はJR上諏訪駅。
下は高島城。 |
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諏訪湖。それは、あの「暴れ天竜」こと天竜川の源流の湖であり、諏訪大社で祀られている女神が男神を訪ねた跡とされている「御神渡り」で有名な湖。
最初は諏訪湖の辺にある間欠泉が魅力的だったが、温泉大国長野県では、そんな光景はありふれていそうなので、徐々に諏訪湖に対しての魅力が高くなってきた。諏訪市のど真ん中にドッカと位置しているので、邪魔かなと思っていたが、諏訪湖には川魚が豊富にあるので、手軽に魚類の蛋白質が補え、遊覧船や水上花火大会のイベントが開催されるので、わざわざ海に出掛けなくても、此処でも海の雰囲気が味わえるのだ。見給え。此処から下諏訪、岡谷の街の存分に眺められるではないか。海好きの私にとっては、近くにありそうな錯覚に囚われる。何処見ても山ばかりなので、より一層諏訪湖が素晴らしく見える。
10年前を回想して一首。
諏訪の街温泉が湧きて湖の雄々しき姿に旅人立ち寄る
諏訪湖の周辺には遊歩道が設けられていて、その周辺には瀟洒なホテルが建っている。そういえば、駅から左側の道を歩いて、諏訪湖に向かった時にもホテルがあったが、眺望の点にしては、こっちの方が勝っているね。街の夜景は、東京でも眺められるし、山に囲まれた長野県では、やはり滅多に見られない水の景色が恋しいだろう。しかも、客室を見ると、湖側に向けられている。上手いねぇ〜。差し詰め、宿泊客は湖側の部屋を取るのだろう。門司港ホテルの海峡側のようにね。
或るホテルでは「朝食バイキング」の看板が掲げられていた。一気に空腹を憶えた。そういえば、5時50分に八王子を発ってから、飲み物しか頂いていないからな。それでも、平気で歩けるとは、私の胃袋は本当に低燃費だな!
此処で一首。
湖の開きし春に鴨泳ぐ諏訪湖の辺の幼き姉妹
暫く歩くと、人が多くなってきた。なにやら人の歓声が上がっている。スポーツウェアの人もいて、何かイベントをやっているのかと、諏訪湖の方を見ると、「S−1グランプリ」と書かれている幕があった。何のグランプリかと興味津々、立ち止まって拝見。
すると、白鳥の足漕ぎボートが、何艘も諏訪湖の上を走っている。さっきの人の歓声はこれなのか。近くの乗り場には或る場所に万国旗がぶら下がっていたので、おそらくあれがゴールなのだろう。もう、レースは佳境なのか、歓声が次第に大きくなっていく。ボート毎に番号が書かれているのも、興奮を昂ぶらせてくれる。競艇のようにスピード感は無いが、あのボートは逃げ切れるのか、あのボートは抜けきれるのか、そう思わずにはいられない。何せ、動力は人間の脚力だけ。しかし、今日は風が吹いているので、思うように進まず、必死に漕いで汗だくになっている表情が、このレースに花を添えているようで愉快だ。そう思いながら、フィルムをセットする。
少し歩くと、諏訪北澤美術館にぶつかった。確か、この近くに間欠泉とすわん丸があったな。まぁ、間欠泉は閉まらないけど、昨年の10月、中央本線経由で名古屋に向かった時、心残りがあった。あのすわん丸が今でも運航しているかだった。今は、何処も彼処も遊園地やテーマパークが閉園してしまうから、もしかしたらと心配していた……。
すわん丸は無事運航していた。しかも、船体は些か綺麗だった。よかった。心残りがスッと消えた。残念ながら、乗る時間は工面出来ないが、今でも運航していると判ればそれでよい。下手に深追いはしない。これも、いろはの道理なのかな。「あさきゆめみし ゑひもせす」か……。近くの中学校が演奏する吹奏楽を聴きながら。
10年前を回想して一首。
遊覧船景色に飽きてあやとりの糸を引っ張る幼児の心
上は諏訪湖。
下は開催されていた「S−1グランプリ」 |
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それでは、上諏訪駅に戻るとするか。
その前に、もう一つ寄りたい場所がある。
片倉館だ。昔、紡績で財を成した片倉財閥が建設した施設だ(諏訪地方ではかつて、紡績業が盛んだった事を聞いた事がある)。しかし、私は余りいいイメージを持っていなかった。何でも、此処にある千人風呂は働いていた女工が、スムースに入浴出来るように深めに造っていると知り(立って入浴出来るように)、労働者を闇雲に搾取する「女工哀史」がふと過ぎった。だから、片倉財閥もその一員かと思っていた。
片倉館は今、入浴施設になっている。建物は当時のまま残されていて、今でも片倉氏関係の会社が経営しているそうだ。周りは常緑樹に囲まれていて、入口には花壇が設けられている。広さも相当あって、片倉財閥の財の大きさが忌憚なく証明されている。
しかし、私は逆に「一族だけいい思いをしている」という卑しさが鼻に付いて、もうそろそろ上諏訪駅に戻ろうとした時、入口近くにある案内板で、その悪いイメージは一気に一掃された。
これは、片倉一族だけの施設ではなく、周辺住民や労働者達の為に造られた施設なのだ。言うなれば、「紡績で成した財を、紡績業が盛んな地に還元する」。つまり、地元への恩返しと言う事だ。これに思わず拍手! 昨今は、定額給付金云々という姑息で子供騙しの政策が蔓延る(はびこる)中、労働者が多く犇めく(ひしめく)場所に、このような大きな建物や幾つのも入浴施設を造り、それも地元に還元することは、まさに奇特だ。財閥と出ているから、恐らく戦後のGHQに目を付けられたかと思うが、きっと地元への還元が認められて、接収は免れたのだろう。此処でも、時間上外観だけの見学になってしまったが、機会があれば、お世話になりたい場所だ。
写真は片倉館。 |
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(2009年4月29日) 峠の釜めしと上諏訪温泉の足湯 |
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上諏訪駅に戻ったら、意外な物に出会った。
鉄道ファンの聖地、信越本線横川駅名物の「峠の釜めし」だった。こういう物は、現地で頂くのが道理だが、どうやら上諏訪に支店を構えていて、空腹なので買ってしまった。900円也。
それをホームで頂いた。旨いわ! また、横川駅に行きたくなってきたな。丁度、鉄道ファンの心をくすぐる碓氷峠鉄道文化むらがあるから。時折デパートで開催する駅弁祭りが馬鹿馬鹿しく感じる。何が「わざわざ出掛けなくても、食べられる」だ。戯言ほざくなっ。駅弁というのは、売られている駅で食すのが道理なのだ。そんな道理を弁えていない人に、旅に出る資格は無い。ずっと「都会」という檻に閉じ込められて、平和ボケに罹って、他人から判らぬ嗤笑を受けて一生を送るんだな、ヘッ!
懐中時計を見たら、予定の出発時間の10時20分が近付いている。しかし、私は敢えて時計を仕舞い、峠の釜めしを頂く事に没頭した。東京のように時間に追われる行為は、此処では嘲笑の的になるからだ。しかも、此処は上諏訪だ。それを充分に弁え給え。10時20分の列車を、鼻歌を歌いながら見送った。松本には、大した用が無いから。一段と峠の釜めしが旨くなったわ、コリャ。
峠の釜めしをペロッと平らげ、容器を売店に返すと、今度は温泉だ。
すると、「足湯」の表示に首を傾げた。あれ、1999年当時は確か此処は温泉だった筈だったけど? 疑問を抱えて中に入ると、やはり足湯だった(2009年)。やはり、問題があるのだろう。ホーム内に入浴施設は。でも、まだあるだけでも充分だ。
早速、靴下を脱いで、浴槽に浸かると、熱っ! いきなり、引いてしまった。熱い湯が苦手なので。近くには、「温泉が熱い場合、駅員にお知らせ下さい」の貼り紙があったが、周りには私一人しかいなく、わざわざ一人の為に泉温を下げるのは、自分でも馬鹿馬鹿しいので止めた。此処はしっかり掛け湯をしながら入るとしよう。鈍行に2時間半以上揺られて、少々気怠くなってきたので、此処で暫く休憩。読者も少し休んだら如何かな……。
上は1999年当時、上諏訪駅ホームにあった露天風呂。
下2枚は足湯になった露天風呂。 |
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11時56分の臨時特急「はまかいじ」で松本に向かった。「はまかいじ」はその通り、横浜と甲府を横浜線経由で結ぶ、土休日に運行する特急なのだが、何で、甲斐路ではない松本迄走るのだ。解せん……。
この私も、チョーさんみたいに懐かしむ事が出来た。次は何時になるのかな? 去りゆく上諏訪の街にゆっくりアップルティーを傾ける。
自由席を見るとガラガラ。ゴールデンウィークにしては、随分珍しい光景だこと。29日に出掛ける人は少ないのか、それとも、高速道路の料金が(ETC設置に限り)一律1000円になった影響なのか、列車を利用する人が少なくなったのか。まぁ、この大不況だ。少しでも出費を抑えたい気持ちは、私でもよく判るのだが、闇雲に便利な方を取る現代人の哀しき性に苦笑する。希少価値が無くなるし、面白くないし、ドッと来れば渋滞が延々と続いてしまうではないか。もう少し、そこの所を考えて貰いたい物だ。JRの方も、ゴールデンウィーク限定で使える(青春18きっぷのような)フリー切符を発売すればいいのでは。こんな思想を脳裏で浮かべながら、松本に向かう。
11時22分、松本到着。
しかし、私はどうも松本到着のアナウンスが気に入らない。10年前、随分気が抜けた声で「まつもとぉ〜、まつもとぉ〜」と喚んでいて、一気に疲れがのし掛かってきた記憶が蘇ってきた。
今回もそうだ。気が抜けた声で「まつもとぉ〜、まつもとぉ〜」だってさ。遠路遥々松本にやってきた人達に失礼だろっ! それが、鈍行に揺られている旅人となれば、尚更だ。テープで流しているとなれば、私が代わって吹き込みたい。
松本駅は、近未来的な建物に生まれ変わっていた。でも、10年前はどんな駅だったか写真が残っていないから、「東京でも見掛ける陳腐な建物だ」とは批判出来ない。此処でも、10年の年月の長さと短さに驚かされる。
写真はJR松本駅。 |
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松本。東京からの交通(アクセス)が便利なので、大手の会社が此処に支店を構えるが、観光都市としても人気がある。松本城に旧開智学校、最近では「男装の麗人」として歴史的にも有名な川島芳子が暮らしていた街として、注目を浴びている。
松本城に向かう途中に、女鳥羽(めとば)川がある。かつて、この辺りが広告塔にアセチレンランプが点る夜店が並び、老若男女が行き交い、時折カジカガエルが鳴くという風流な繁華街だった。しかし、時の流れと共に寂れてしまったが、最近新たな商店街が出来て、かつての繁華街の活気が垣間見られるのだ。
なわて通りだ。しかも、当時の繁華街の雰囲気を知って貰う為に、商店街の家屋の造りも当時のまま。昭和中期の木造で軒が低く、木枠の硝子戸や石膏で塗られた白壁が、何処か懐かしさを感じさせる。並んでいる品物も陶磁器にブリキのオモチャにランプやブラウン管テレビ等の古道具、食べ物もたい焼きやラムネ、かき氷と雰囲気に合って懐かしさを感じさせる物ばかりだ。今静かなブームとなっている昭和レトロだ。となると、年号も平成から昭和に戻さなくてはいけないな。平成21年は昭和に直すと何年になるんだ……。63+21で、昭和84年になるのか。此処で、昭和84年のカレンダーが売られていたら、KOパンチレベルの土産物になるな、コリャ。
通りすがりの人は、大抵昭和生まれだが、中には平成生まれで、昭和の事なんか視聴覚で知る術しかない人もいたが、全く無情に素通りせず、瓶のラムネを飲みながら、ブラウン管テレビを触ったり、見慣れない赤電話と格闘したりと、未知なる昭和の世界に思いを馳せていた。ケイタイやら液晶テレビやら、昭和生まれは至便至極の平成の暮らしにドップリと安住しがちだが、平成生まれはそんな生活に飽きているのだ。全く逆の考えになっているのだ。これがあった時代は、一体どんな暮らしをしていたのだろう。この思いから昭和レトロへの憧れが始まる。これこそ、ワンダーランドと言えるだろう。
この通りはある動物がメインとなっている。そう、先述したカエルだ。この通りの至る所にマスコットのカエルがいる。此処が寂れたと同時に環境が悪くなり、カジカガエルがいなくなってしまったのだが、女鳥羽川を眺めると、何とも綺麗な水が流れている。此処も、高度経済成長前の昭和の景色に戻っているかのようだ。サラサラと音が絶え間なくするのも心地好い。昔の人はこの川のせせらぎを聞きながら、夜店を冷やかして時間を過ごして、疲れを癒していたのだろうね。こういう涼しそうな所にオープンカフェやビヤガーデンを開いたら、観光客ならず、地元の人にも歓迎されそうだな。最近は、何処も彼処も自然保護や回復に努めているから、此処にカジカガエルが戻ってくるのも、そう遠くない話だな。
上はなわて通り。
下はなわて通り近くの女鳥羽川。 |
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このなわて通りから歩く事7〜8分。国宝松本城が見えてくる。10年前に来た時は、城の堀を囲む如く観光客で賑わっていた。今回も賑わいを見せていたが、3〜4割程度で10年前程ではなかった。おまけに土産物屋も片手で数える程だった。特急「はまかいじ」のガラガラの自由席とい、この松本城とい、何か今日は変だな。今日は4月29日で、休日でゴールデンウィーク。観光するにもってこいの日なのに、どうも解せんな。入場料600円だったが、様々な天守閣に登城した事がある私には、妙な考えが付き纏っていて、登城するのは止めた。実は、展示品もどの城も大同小異な物ばかりなのだ。早い話が、どれも同じなのだ。違うのは歴史と眺望だけ。まぁ、戦国武将にゆかりのある小田原城や駿府城、岐阜城ならばそこで繰り広げられた人間模様が垣間見られて面白いのだが、そうでもなく、割と新しい江戸時代に造営された城となると、天下太平の世の中と言う事もあり、展示品も城に関係のある物ばかり展示されている(但し、松江城や大垣城のように、城下の歴史や今昔の松江の街並みを再現した模型、松江の歴史を描いた屏風、実戦で使われた刀剣、槍、鎧兜、中には柄が途中から折られている槍もあって、なかなか興味深かった)。それでもって、資料館とのセットで600円とは、余り合点が行かない。と言う事で、10年前の行程を此処では取らず、天守閣に向かって合掌して去った。
駅に戻る途中、面白い物を見付けた。
湧き水だった。説明板を見ると、城下町時代からある湧き水だそうだ。しかも、湧き水は此処1箇所だけではなく、町の至る所で湧いているそうだ。そんな訳で、此処松本は城下町の他に「水の都」の異名を持っているのだ。へぇ、内陸地なのに珍しいね。そういえば、2006年6月に訪れた大垣もそうだったな。此処では2回程湧き水を飲んだし、その内の1箇所は公園から湧き出ていて興味深かったな。これも何かの縁だな。一杯頂くか。
上は松本城。
下は街中の湧き水。 |
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中央本線。東京から甲府、塩尻、中津川を経由し、名古屋を結ぶ大動脈だが、途中の塩尻で、2つに岐れる。JR東日本管轄の中央東線とJR東海管轄の中央西線だ。私は中央東線は何度も旅行したが、中央西線は素通りしただけ。しかも、特急列車の座った場所と、名所の位置する場所が正反対だった為、物凄い悔しい思いをした。
しかし、今回はその悔しい思いが少し晴れる。木曽路の宿場町として名高い奈良井宿に行ける都合が付けられたからだ。本当はもう一つの宿場町木曽福島宿にも行く筈だったが、事前の週間予報で、急遽、奈良井宿だけになったのだ。
ホテルで一旦荷物を預け、駅に隣接しているそば屋で豪快に鴨せいろを平らげ(1460円也)、珍しい0番線に停車中の列車に乗った。
13時29分発の木曽福島行き。2つの異なるJR管轄を運行する。塩尻から先はワンマン運転。都会では滅多にお目に掛かれないシステムだ。そのシステムは、停車中の松本で話すのは何だから、塩尻の次の駅洗馬(せば)で話すとしよう。
塩尻に着くと車掌が降りる。ホームはワインの広告が目立ち、葡萄(ぶどう)棚があるホームもある。しかし、まだ時期ではないので、寒そうに見える。
中央西線に入った。一気に街の様相から山間の村に変わる。まさに種も仕掛けもないマジックだ。
洗馬から先は、決まったドアしか開かない。整理券箱が置かれているドアから乗り、運転席近くのドアから降りる。運賃は乗車した駅と照らし合わせて、運賃箱に入れる。判り易く言えば、一般のバスと同じシステムなのだ。だから、ドアが開かないだの、整理券云々とまごつかないように。此処では都会のシステムは全く通用しないのだ。
奈良井。奈良井千軒と称される程、木曽路では大いに賑わった宿場町。今でもその町並みが残されていて、訪れた人を一気に江戸時代の宿場町に誘ってくれる。川越の蔵造りの町並み同様重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。それも、私が生まれる9日前の昭和53年5月31日に指定されたから、何処か因縁めいている。 |
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そんな奈良井に降り立ったのは、僅か3〜4人。駅は無人駅かと思っていたが、木造の駅舎に年配の駅員が一人いた。しかも、切符の手配も出来るから、木曽地方の特急通過駅にしては、意外に設備が整っているな。
駅を降りるといきなり、バックで入ってくるダンプカーに出会った。雰囲気ぶち毀しだ! どうやら、坂を登る為にバックしたようだが、ノンビリした宿場町に平成の雰囲気が入ってくるなんて、極めて忌々しい。
しかし、そんな忌々しさも少し歩くとスッキリする。
幅2〜3メートルの道路の両脇に、格子窓に琺瑯看板、木製看板が付いた木造の家がズラッと並んでいる。家毎に宿場町時代の屋号もあって、それが普通の民家の場合ならば興味深い。車の往来も殆ど無いので、道路の真ん中を堂々と歩ける。電線も全く無く(地中に埋設されているのだろう)、宿場町時代同様の光景が広がっている。店内を覗いてみても、何処かの観光都市のように忙しく動く光景は何処にも見当たらないし、店内も柱時計が現役でコチコチ動いているし、都会では滅多に見られない煙草屋には、珍しい銘柄の煙草が置かれていた。そこにはルパン三世の銭形警部が愛用している煙草「しんせい」もあった。名物のまげわっぱや、お六の頭痛を治した謂われがあるお六櫛もあるが、客寄せの声が少しもしなかったので、先程のダンプカーみたいに興醒めする事はない。こういう宿場町は、威勢のいい声は似合わない。ただ静かな時を呈するだけで充分なのだから。
一気に時は、平成から宿場町時代に遡った(さかのぼった)。此処は大らかに行こうではないか! 天気もいいし、体調も万全だ。ふと懐中時計を見たら、秒針が忙しそうに動いているので、此処は敢えて出発時間を決めて、極力時計は見ない事にしよう。これで、時間に追われる愚行は避けられるが、各党のポスターが、此処に来てはカラフルに見えて、目障りで仕方がない。駅近くに高札があったから、そこに掲示して貰いたいね! 支持を集めたい気持ちが、景観破壊の罪を背負っている。
平成時代に戻りそうなので、話題を変えようか。
そう、水場だ。奈良井宿では至る所から水が滾々と湧いているのだ。それは水道が引かれている昨今でも、奈良井宿の人々や訪れた観光客の咽喉を潤しているのだ(但し、煮沸して飲用するのが望ましい)。そういえば、母方の故郷の熊野市紀和町もそうだったな。水道が引かれているものの、使用するのは食器を洗ったり洗濯に使ったりするだけで、料理は全て湧き水を使っている。嗚呼、なんて贅沢な話だろう。東京では水道水の浄化方法を変え「東京水」と銘打って、旨い水をアピールしているが、まだまだ浄水器を設置して料理に用いたり、ミネラルウォーターをわざわざ購入する家庭は多いだろう。しかし、此処ではそんなものは必要ない。水道水は有料だが、ミネラルウォーターはタダ。浴びる程飲めるのだ。医食同源の理通り、清冽な湧き水で健康でいられるのだ。「長生きしたければ、此処に来い」と言う事なのかな? で、湧き水を持って帰ろうとしたが、空いているペットボトルが無かったので断念した。
これで、宿場町の奈良井に戻った。ふと見上げる青空。雨の気配無い空だこと。素直に感心出来るよ。忙しい光景が何処にも無く、ただゆったりとした時間が流れる宿場町に身を置いているから出来る事だ。今日は祝日なのに、時間に追われる団体旅行の影が無かったのも一因だろう。
鼻歌を歌おうとした所、ツバメがピューッと飛んできた。……そうか、ツバメの季節になったのか。これも素直に感心出来る。今は子育ての真っ最中だろう。時折見掛ける庇の裏にあるツバメの巣。そこから親ツバメがピューと飛んでいき、餌を見付けている。これも、何処か忙しそうには見えなかった。やはり宿場町だからかな。飛脚のように素早く飛んでいるように見えた。
此処で一句。
奈良井宿飛脚の如く燕かな
上はJR奈良井駅。
中2枚は奈良井宿の街並み。
下は街並みの一角にある湧き水。 |
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この静かな奈良井宿で、思わぬ発見を見付けた。
それは、奈良井駅から宿場町に入って、かなり奥に位置する上問屋資料館にある。
中は、優に10畳は超える広い広間や炉端等、問屋の暮らしを見せているのだが、何と此処には、明治天皇の行在所が現存されているのだ。しかも、明治天皇と皇后の肖像写真も展示されている。明治天皇は太い眉毛を持ち、立派な髭を生やして精悍な表情で座っていて、皇后は、スラッとした身体にドレスを纏い、上品に立っていた。床の間には神棚と、「明治天皇」と掛かれた掛け軸が掲げられている。明治天皇と皇后はこの地で、川魚や蔬菜等地元の食材を使った料理を召し上がったそうだ(詳しい料理は、行在所の隣の紙できちんと説明してある)。
今日は4月29日、昭和の日だ。かつての明治節の11月3日ではないが、何処か因縁めいている。
行在所を取ろうとシャッターを構えたが、いきなり、野太い男声で私を呼ぶ声がした。
「待て、その方。一体、何をしているのだ?」声は、前から聞こえた。まさか、正体は明治天皇なのか?
「あ、はい。奈良井宿で、行在所を見付けましたので、記念に写真を撮る所でした。」
「写真だと?」肖像写真の表情が、急に厳つくなってきた。明治天皇は写真嫌いだったというから、尚更だ。
「はい。もし、お気に障りましたなら、速やかに退座させて頂きますが……。」下手して不敬罪になりたくない。
「退座しなくても宜しい。折角、奈良井に来たのだから、此処で暫く休み給え。」
「はい。有り難う御座います。」ゆっくり正座した。所が、
「気を遣って正座している必要はない。気を楽にし給え。写真を撮りたいのだろ。」
「はい。撮らせて頂きます。皇后様もご一緒で宜しいですか?」
「はい。お願いしますよ。」綺麗な女声が聞こえた。皇后だろう。許可が下りたので、一礼した後、胡座になりシャッターを切った。
「その方、一体何処の何方だ。」
「東京八王子の旅の者です。」
「東京か……。それで、これからどうするのだ?」
「明日、伊勢神宮に参詣し、母方の故郷、紀州熊野の紀和に帰省します。」
「何と、伊勢神宮に参詣して、帰省するのですか……。それは、大変な行程ですね。それに、肉親達を慈しむ気持ちをお持ちとは、何とも素晴らしい事ですね。」皇后からお褒めの言葉を頂いた気がする。
「それでは、余の方からも伊勢神宮にお願いをしておこう。『無事に帰省出来、無事に帰れるように』とな。気をつけて帰省するのだぞ。」
「有り難う御座います。」
傍目から見れば、行在所の前で胡座を掻いている旅人だが、何だか明治天皇と皇后と直接会話している気がする。
写真はその行在所。 |
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奈良井宿。それは、時の流れがとてもゆったりとしている宿場町。店を覗いても、忙しい光景は見当たらない。それだから、気分もゆったり出来る。その理由はこれだ。
歩き疲れたので、立ち寄った民家を改装した黒を基調とした和風カフェに入った。所が満席だった。東京だったら、忌々しそうに舌打ちをして、出て行くのが筋書きだが、此処奈良井ではこんな事をしたら、「そそっかしい旅人だ」と冷笑されて、とんだ大顰蹙を買うだろう。此処で、少し待つとしよう。特に急いでいる訳でもないし、ちょっと疲れたから休みたいだけの事だ。席が空くまで待つか。と、店員は調理をしているカウンターの席を充てた。臨機応変が利いてて嬉しいね。
早速品書きを見たが、何と席が空いたので、店員の勧めもあって、そこに座る事にした。丁度格子窓から静かな宿場町が見える席だったから、雰囲気は上々だ。此処で、炭焼珈琲を傾けながら、チーズケーキを抓もうではないか。都会では何ら変哲も無い炭焼珈琲とチーズケーキが、此処に来ればハイカラな食べ物になる。そのハイカラな食べ物を頂きながら、ゆっくり時を過ごす。奈良井宿みたいな時間がノンビリ流れる場所だから、感じられるのだ。これも贅沢だ。闇雲に金銭を叩かずに済む贅沢が、奈良井宿にあるとは……。
一服した後は、線路を越えた所にある奈良井川に架かる木曽の大橋を渡った。その途中に、清冽な水が物凄い勢いで流れている水路を見付けた。町中でも至る所から水が湧いているが、こんな清冽な水が大量に流れているとは、これも贅沢な話だ。しかし、流れる勢いが強いのと、水路の幅がやや広かったので、足を滑らせたら一溜まりもない。
木曽の大橋付近は小さな公園になっていて、木製の遊具が置かれている。中央西線の上松(あげまつ)駅の脇には伐り出した木曽桧が山積みにされているし、此処奈良井もその範疇だろう。近くの大きな看板に「中山道奈良井宿」と出ているが、これも木製だ。木曽桧の産地を忌憚なく表しているいい例だ。「看板に偽りなし」だな。
橋は階段状になっていて、足を滑らせる心配はない。それにしても、木製の橋がこんなに丈夫だとは。こういう建造物は一切釘を使わず、精巧な填め込み式で造ると聞いた。それ故、釘が錆びてガタが来ることはない。あの法隆寺も東大寺も建立から何百年経っているが、少しも崩れたりはしていないではないか。
橋の上から奈良井川を眺めたら、さっきの水路と同様清冽な流れがあったが、勢いが緩やかからだろう、何処か懐かしさを感じる流れだった。幼少時によく遊んだあの穏やかな流れを湛えた川によく似ている。宿場町によく似合う。
そんな川の流れを眺めながら、夕日を背に受けていた。何時の間にか日が傾いていたのか……。時計を見たら、15時30分近くを指していた。こんな時間になったのか……。夢中になっていると、時間の進み具合も違ってくるな。
鞄から水筒を取り出して、まだ温かいアップルティーを啜りながら、奈良井川を眺めた。
高尾を発ったのは6時14分だったから、9時間も経ったな。それにしても、あちこち回ったので、傍目から見れば、忙しない行程に見えるが、その中身は本当に充実していた。上諏訪では10年前に訪れた光景と変わらない光景で出迎えてくれて、ふと懐かしいチョーさんを思い出してしまった。松本では、(外観だが)松本城を訪れる途中に、昭和の香りが漂うなわて通りに立ち寄って、今は無き昭和時代を懐かしんだ。しかも、松本が内陸地にありながら湧き水が出ていて、松本が「水の都」でもある事も知った。奈良井では、秒針が要らないゆったりとした時間が過ごせたりと、東京では手に入らない収穫があった。帰省の途中ながら、実に有意義な一日だった。
奈良井駅に戻ると、名古屋に向かう快速「ナイスホリデー木曽路」が発車していた。明日伊勢に向かう行程だが、伊勢での時間を多く確保する為、この列車に乗って、名古屋に向かうのが道理だが、実は松本で桜鍋(馬肉と長葱を用いた鍋料理)と馬刺しを頂く予定がある。それも、多少の(松本〜名古屋の特急料金の)金銭を叩いても頂く価値がある。まぁ、これは時期になると運転されるので、次回に乗るとしよう。チラッと見たら、クロスシートの席だった。
写真は木曽の大橋。 |
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(2009年4月30日) 伊勢に残された昭和の遺跡 |
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朝早く松本を発ち、名古屋へ向かった。そして、快速「みえ」に飛び乗った。当日購入した指定券を握り締めて。車内は混んでいて、自由席にあぶれた乗客が、指定席の所へ踏み出していた。
混雑している快速「みえ」1号は、定刻通り伊勢市に到着した。伊勢神宮鎮座の地と伊勢志摩観光の中心地と言う事もあって、降車客も多かった。そして、通る改札も同じ。そう、あのJRと近鉄の切符売り場と売店しかない素っ気ない改札口だ。
駅前は全く変わっていない。閉店した百貨店は野晒しにされたままで、眼前の空き地には防音壁が設けられているが、何も手を付けられて無さそうだ。
この時は、志向を変えようと思い、何時も通る常夜灯のある道路ではなく、脇の道を通った。小さな食堂や土産物屋が並んでいる何処か昭和の香りがする通りだ。宿泊施設もあるが、駅を挟んで点在するシティーホテルのように現代的ではなく、瓦屋根で木造建築、塗料も何処か日焼けしていて余り映えていないが、それが却って長い事此処で営業していると判る旅館だ。しかも、近くの土産物屋も年季が入っている。これもかなり日焼けした布を張った看板に、英文で何やら綴られている。「伊勢志摩観光土産」と読めるが、「SHIMA」が「SIMA」とヘボン式になっていなかったり、「SIGHTSEEING」が「KANKO」となっていたりと、一昔の様式のままだった。でも、これが伊勢志摩観光や伊勢神宮参詣が延々と続いている事がよく判る。店構えは多少変えた方がいいのだが、看板は幾ら日焼けしても、これは取り替えない方がいいかも知れないな。
上は外宮側から見た伊勢市駅へ繋がる通り。
下は昭和の色濃く残す旅館。 |
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伊勢神宮。四季問わず多くの参詣者で賑わっている。この私も四季問わず参詣しているが、やはり春夏秋冬色々な表情が見えて面白い。
特に感激したのは、そう、4月30日に外宮を参詣した時だ。
参詣を終え、内宮に向かう途中、ふと顔を上げると、外宮の常緑樹が茂っていた。そろそろ若葉が生えてくる時期だから、淡い葉が目立っている。その葉が日光に当たって、より一層淡くなり、スッと青空に溶け込んでいきそうだ。それも1箇所だけではなく、至る所で見られる。その葉々の合間を潜る木漏れ日が、心地好い暖かさを醸し出していく。もう、肌寒い時期は過ぎ去って、心地好い暖かさがやってきたのだ。最近は会社との往復が多いから、素直に季節の移ろいが判らなかった。私の暦がずれてきた証にも見える。
だけど、この木漏れ日は何て心地好いのだろう……。時折吹く風も心地よく、まるで私を出迎えているかのようだ。私はこの場に暫く立って、春の温かさの嬉しさをしっかりと噛み締めていた。
此処で一句。
新緑や木漏れ日愛でる外宮かな
上と中は勾玉池近くにあった藤棚。
下は若葉萌える参道。 |
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(2009年4月30日) 平成の娯しき直会(なおらい)(2) |
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食後の一時。都会では時間に追われてしまって、ノンビリと食後の一時を過ごす事は出来ないが、此処おかげ通りでは、時間の赦す限り食後の一時が娯しめるのだ。時計を見る回数が減るのは、どうって事は無さそうだが、よく考えてみると、何とも貴重で贅沢な時間なのだ。
五十鈴茶屋では、綺麗な畳の部屋に客が座る位置に藍色の毛氈(もうせん)が引かれていて、床の間には掛け軸と一輪挿しが置かれている。そんな風情溢れる茶屋でお手前が頂けるのだ。但し、座り方は正座でも胡座でもご自由にどうぞ。
その風情にドップリ浸り切った私は、五十鈴川の涼風に吹かれて青空を泳ぐ鯉のぼりを見ながら、くずきりを頂いた。しかし、庭園の躑躅(つつじ)が咲いていなかった。勿体ないな。折角晴れているのだから、此処で鮮やかな濃い桃色の躑躅が見たかったな。それでなくとも、敷いている白石に植木の鮮やかな緑、碧い空に時折飛んでくる燕の黒があるだけで、充分に寛げる。
乗合自動車内宮前駅(バス乗り場の事だよ)に戻る途中、五十鈴茶屋に負けない風情があるカフェを見付けた。
そのカフェをよく見てみると、分煙を取っていて、窓側の席から五十鈴川がよく見えるではないか。しかも、木肌が年季が入っているように濃く、木枠の硝子窓と五十鈴川がよく見える場所に敷かれている畳が何ともレトロだ。これは、期待できそうだな。
くずきりを頂いた後だが、もう一杯位飲めそうなので、立ち寄った。
所が、レジで注文する前に、店員から「只今、大変混み合っておりまして、時間を頂きますが、宜しいですか」と聞かれた。まぁ、いいでしょう。このようなレトロな場所で休憩できるのならば、多少時間を頂いてもいい。況してや、此処は伊勢神宮門前のおかげ通りだ。時間に追われる都会のカフェ同様の態度を取っていては、嗤笑の的だ。場所を弁えて、時間のメリハリを付けるのも旅人の資格なのだ。
私は深煎りブレンドの珈琲を頼んで、五十鈴川が見える席を探したが、肝心の畳の席は家族連れが取っていた。美味しい所を取るなぁ……。此処は、家族連れに譲るとして、その近くのテーブル席に座った。しかも、掘り炬燵みたいになっているので、楽に靴が脱げる。
おっ、五十鈴川がよく見えるわ。今日は天気がいいから、参詣者や観光客が五十鈴川の辺を歩いて、涼を取っている。中には、清涼飲料水を飲みながら歩く人や五十鈴川に足を浸して、一休みする人や、ただ五十鈴川の清冽な流れに感動したのか、座って眺めている人もいた。五十鈴川は東京の川とは全く違って透明度が高い。だから、歩いているだけでも涼しさが感じるのだ。そういえば、対岸の木も若葉が生えていて、清々しい時季を演出している。こんな素晴らしい光景を眺めながら珈琲が頂けるなんて、さっきの五十鈴茶屋と比較しても「甲乙付け難し」だな。
そして、注文した深煎りブレンドが来たら、砂糖少なめのクリーム多めで、欄干に肘を突き深煎りブレンドを啜れば、都会では味わえない至福の一時が心身を包み込む。余り金銭を叩かなくても、景色と味覚を一挙両得出来る素晴らしい至福の一時が味わえるとは。これが贅沢という物か……。しかも、伊勢でしか味わえない贅沢だ。
嗚呼、江戸時代のお伊勢参りは、一生に一度出来るか否かの大イベントで、伊勢に到着すると、御師の邸宅で滅多に頂けない山海の御馳走が頂けたのだが、平成の世でもそれは変わらない。何処彼処でも頂ける御馳走でも、何処かレトロや高級感を感じずにはいられない。これは、どう解釈すればいいのか判らないが、日本人たる者の遺伝子がそう感じているのだろう……。
此処で一首。
青葉映えせせらぎ麗し五十鈴川飲みし深煎り苦みも貴し
上は鯉幟が泳ぐ五十鈴茶屋の庭園。
中は五十鈴川が見えるカフェでの一枚。
下はおかげ横丁で泳ぐ鯉幟。 |
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5月1日から4日まで帰省し、その帰路の途中に名古屋に立ち寄った。しかし、天気が良くない。紀和で見た週間予報は(現地での)4日は曇りと雨のマークがあったが、名古屋は曇りと出ていた。うーむ、雨に降られなければいいけども。
特急「ワイドビュー南紀」4号で名古屋に着いたのは、12時34分。何とも気持ちがいい時分だが、熊野市を9時33分に発ったから、その所要時間約3時間に驚く。
向こう(熊野市駅)でも食事を摂ったが、此処に来て空いてきた(そういえば、懐中時計を見ながら摂ったので、店員から「東京の人かい?」とからかわれた。反省反省)。
と、向かったのはホームにあるきしめん屋。そういえば、松本から朝早く名古屋に向かった時も、此処で食事を摂ったな。確か、エビ天きしめんだったな。大抵の立ち食いそば屋は、天ぷらは作り置きしているが、此処名古屋駅のきしめん屋は、作り置きの天ぷらが何処にも見当たらない。事実、八王子にも店はあるが、作り置きなのだ。此処では注文を受けてから天ぷらを作るから、歯応えがいいし、アツアツだから、余計きしめんが進む。その証拠に、壁に貼ってある雑誌の切り取りを見給え。これで、ただのきしめん屋と思う事はないだろう。
大抵多くの客はきしめんを注文する。それは間違いなく、名古屋人のプライドと名古屋グルメの馴れ初めでもある。それでは私も、この間注文したエビ天きしめんを頂こうと……、売り切れていた。そりゃ、エビ天きしめんのエビ天は本当にプリッとしていて、やや大振りだったから、大人気メニューなのだろう。そこで、昨年の大須大道町人祭の際に頂いた、豚しゃぶきしめんでも頂くか。これもイチオシメニューなのだから。
よぉし、名古屋観光に精進するか!
きしめんを頂きながら一首。
時計見て忙しく啜るかけそばの様みて笑う熊野の朝かな
時計を見ると、もう13時近く。さて、何処に行こうか……。幾ら、観光名所が一杯ある名古屋でも、13時開始となると、範囲が狭まる。20時28分の新幹線で帰るから、猶予は7時間。長いようだが、観光時間となると、休憩時間や食事時間を差し引くと、5時間も行かないだろう。
本題に戻して。名古屋城、ノリタケの森、名古屋テレビ塔、大須観音、熱田神宮……。めぼしい所は概ね行ったから、行っていない所がいい。となると、名古屋港が浮かんできた。名古屋テレビ塔で、名古屋港方面を見ながら、思いを馳せたな。ヨシ、名古屋港にするか。
名古屋港に向かう前の一首。
名古屋駅コインロッカー空きは無し大型連休勢いを知る
名古屋港。文字通り名古屋の港だが、その周辺には色々な観光名所が点在している。
その最寄り駅、名港線名古屋港駅だが、地下鉄は大抵終点近くには地上に出るのだが、此処は地下のまま。何だか、最果ての雰囲気が強い(蛇足だが、名古屋港駅は元々環状線の名城線の駅だったが、環状線が出来た為、金山〜名古屋港は名港線と改称した経緯がある)。
地上に出てみると、多くの人が往来し、近くには観覧車や展望塔があり、通る車も乗用車で、観光地化しているのがよく判る。関東に例えると、横浜港によく似ている。千葉港のように、至る所に工業地帯が挟まれているようでは無さそうだ。
実は此処に、鉄道遺産があるという。四日市港にある末広橋梁のような跳上橋だ。私が生まれた2年後の昭和55年まで名古屋港の堀川沿いにあった堀川口貨物駅に繋がっていて、その跳上橋は珍しいと言う事で保存されている。しかも、跳ね上げを象徴するかのように、片方が跳ね上げられているままに保存されている。しかし、それだけ見に行くのは味気ないので、名古屋港に向かう事にした。
写真は名古屋駅ホームで頂けるきしめん。 |
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まずは、南極観測船「ふじ」。現役を終えた後、此処名古屋港に係留保存されているのだ。
周辺には家族連れで賑わっていたが、南極観測船「ふじ」に乗り込む子供の表情が何故か光り輝いていた。それは、未知なる南極の世界に飛び込む嬉しさや戸惑い、憧れ等が複雑に絡まり合っているからだ。ゲームでは全く味わえない世界があるからだ。此処は、ゲームのように「1+1=2」が難無く通じる世界ではないのだ。ゲーム機を仕舞って、中に入り給え。
私が一番驚いたのは、この船内には様々な店や設備が揃っている事だ。まさに、「動く町」だ。しかし、5月4日だ。家族連れがゾロゾロと列を成して、移動していた。また、神経性の頭痛がしてきた。家族連れがゾロゾロ歩く様は遠足みたいで、旅を好む私には耐え難い。でも、紀和で唱題したのと、久し振りの中京の大都会名古屋散策なのか、神経性の頭痛は意外に軽く済んだ。頭痛が酷くなる前に入るとしよう。
まず、入口に入ってすぐに食堂に入る。見た所、パイプ椅子に固定されたテーブルが置かれているちょっと安っぽそうな食堂だ。まぁ、「ふじ」は観光用ではないから致し方ないが、厨房に入ると、実際に出された(と思う)食事が準備をする乗組員の蝋人形と共に展示されていた。フライにナポリタン、スライスキュウリに千切りキャベツと至って極普通な食事だ。小林多喜二の『蟹工船』のような酷い食事では無さそうだ。その他に魚焼き器に炊飯器、そしてパン焼き器と厨房は色々な調理器具が揃っているが、此処には、意外な物が置かれていたのだ。それは何だろう。ヒントは前述にある。フライやナポリタンは冷凍でも通じるが、キュウリとキャベツとなれば、冷蔵してもそんなに持たない。
何と、「もやし栽培器」なのだ。もやしはご存じの通り、大豆や緑豆の発芽して間もない状態の野菜だが、手軽に栽培できるので、この南極観測船に置かれているのだ。もやしは何処か頼りなさそうな野菜だが、ビタミンCが豊富なので、長旅となる南極観測隊員の壊血病の予防に役立つ。そういえば、あの世界一周を試みたマゼランも、もやし栽培の技術を習得していれば、太平洋を何ヶ月も航海した時に、多くの船員を壊血病で亡くさなくても済んだだろう。
上は南極観測船「ふじ」。
中は船員達の食堂。
下2枚は調理の光景。 |
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此処には観測隊員の生活が垣間見られる。将棋を指す隊員や漫画を見ながらその対局をチラチラ見る隊員、珈琲を飲みながら、残してきた家族を思う隊員。厳しい南極観測の間の束の間の憩いの一時だ。下手に酒を呷って寝転ぶ隊員は見られなかった(まぁ、見せられない光景は、展示されていないけど)。
そして、「動く町」の光景が至る所にある。
まずは酒保(しゅほ)。「酒保」は軍隊用語だが、判り易く言えば「売店」。日用品を中心に売られていたようだが、営業時間は就寝時間前の1時間だけという。しかも、シャッターが閉まった状態だったので、雰囲気ゼロ! もうちょっと、その辺を考えて欲しいね。
次に医務室。隊員の病院だ。丁度、蝋人形で検診している光景が再現されている。写真に収めたが、フィルムの感度不足で撮れていなかった。
次に散髪屋。しっかりと入口には、赤・青・白のクルクル回る看板が出ている。判り易いね。そう、隊員は長旅だから、髪の毛やら髭は伸び放題。伸びたまま仕事しては、ちょっと迷惑だからね。
そして、蚕棚のような簡素な一般隊員のベッド。テレビは無いが、割とスペースがあって、就寝時間前に何か興じていたのかな?
デッキに出ると、観光地の名古屋港が見えた。どれどれ……。下には小さな船舶が碇泊している波止場があった。恐らく、巡視船だろう。この辺は千葉港と似ている。しかし、その周辺を取り囲むかのように、観覧車に水族館、更には大型休憩所やフードコートもあって、水族館のショープールでは、頻りに歓声が沸いていた。この辺になると、スッカリ横浜港の感じだけど、昭和55年に廃線になったあの堀川口貨物駅から見ると、この辺はかつて工業地帯だったのだろう。だから、今のような観光地になったのは、そんなに昔からではない筈だ。あの千葉港も、最近は色々な商業施設が入ってきているが、出来る事なら、ゴチャゴチャ入り組んだ訳の判らない場所に仕立てるのは止めて貰いたい!
ブリッジは、家族連れで賑わっていた。子供たちは舵を握り、南極観測船の雰囲気を味わっていた。ゲームでは最もありふれていて味気ないが、此処では本物の舵が握れるから、目が輝いている。今の子供はデジタルに慣れ親しんでいるから、余計アナログの世界に憧れるのだ。流石に景色は停泊保存している名古屋港だが、子供たちは未知なる南極航路に思いを馳せて、舵を握っていた。
上2枚は船員達の生活の一コマ。
中は船員達の寝室。
下はブリッジで見た名古屋港。 |
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JRの貨物線。最近は大阪で浪速貨物駅や梅田貨物駅、関西本線八尾駅と阪和線杉本町駅を結ぶ阪和貨物線、九州で外浜貨物駅が相次いで廃線されたり、関東で西湘貨物駅が信号所に変更されたりして、余り明るいニュースは無いが、此処に来て、二酸化炭素が余り出ない貨物列車が注目を集めている。更に、大阪の城東貨物線の一部が、「おおさか東線」として、名古屋から名古屋貨物ターミナルに繋がる貨物線を金城ふ頭迄延伸し、「名古屋臨海高速鉄道」として、先述の外浜貨物駅が新たに「やまぎんレトロライン」と称し、関門橋がある和布刈(めかり)まで旅客営業を始めている。しかし、廃線になった貨物線の鉄道施設が残されている所は余りない。
今回私が名古屋港に来た訳は、昭和55年まで名古屋港の堀川沿いにあった堀川口貨物駅の遺構、跳上橋が保存されているというので、やってきた。ご丁寧に、案内板までもあるから。
観光地名古屋港から一歩外れれば、一気に工業地名古屋港に変わる。或る橋を渡らず右折したが、その橋に思わずギョッとなった。何だか、普通の橋ではないような気がする。橋が架けられているとなれば、その下は川が普通なのだが、その川が無ければ陸橋であるが、陸橋にしては橋脚が低過ぎるし、陸橋と陸橋との間はアーチ状になっているのだが、どうも取って付けたような塀で埋められていた。おまけに、その下の広場も怪しい感じがする。港近くだから、そう思う。もしかしたら、此処はかつて川だったのでは……。
そんな疑いを持って、スタスタ歩くと、また橋にぶつかった。今度は普通の橋だな。下に川があるから……。と振り向くと、その川は途中から寸断されていたのだ。やはり! 旅人の予想は見事当たった。さっきの広場は、埋め立てられてこさえた物だったのだ。あの橋も元は、川を跨ぐ橋だったのだ。味気ない事するな、コリャ。
今度は反対側を見ると、右側が上を向いている橋を見付けた。あれが、堀川口に繋がる跳上橋だ。四日市港の末広橋梁と同様、橋桁は低く架線も引かれていない。
遠くから見ては何だから、もっと近くに来てみるとするか。
その橋の袂は運送会社だった。防波堤の向こうに跳上橋があるのだが、何とご親切に、梯子まで設置されていた。あの運送会社が置いて下さったのだろう。余程、鉄道に興味のある運送会社なのだろうね。跳上橋の進行方向に、ドッカと運送会社があるのも、何処かしら愛嬌があるな、コリャ。
無名の親切の梯子を登ると、やっとご対面だ。堀川口貨物駅に繋がる跳上橋だ。枕木は廃線になってから30年近く経っているので、至る所で朽ち掛けていたが、レールは表面に錆が付いていただけで橋自体しっかりしていた。此処で、橋の真ん中にドッカと立って、写真を撮ろうかと橋の下を覗いたが、お生憎な事に、下りる梯子が掛けられていなかった。最も海の近く故、跨いでいる川が深そうで、橋も鉄骨が組み込まれている物で、水泳が苦手な私には足が竦んで(すくんで)しまうのだが。いい具合に手入れしていれば、あの四日市の末広橋梁みたいに現役復帰できそうだが、進行方向を見ると、工場にぶつかってしまうので、無理みたいだ。例の堀川口貨物駅の方を見ても、さっきの運送会社にぶつかってしまうので、これ以上堀川口貨物駅の軌跡を辿るのは聊か(いささか)無理だ。まぁ、あの運送会社が、平成の堀川口貨物駅なのだろう。ただ、貨物列車は使わず、トラックで運送するけどね。
これで、昭和55年から平成21年の年月の長さがよく判る。
此処で一首。
堀川口橋を通る貨物無し廃り知らずに跳ね上げて待つ
上は何とも怪しい橋。
下2枚は堀川口跳上橋。 |
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