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昨年(2013年)の12月17日から、仕事を休んでいる。最初は腰痛が酷かっただけだったが、無理に出勤した心労が祟ったのか、鬱を再発してしまい、折角貰った18日の有給休暇がパー。会社と相談の結果、2013年の出勤は見合わせて、以後は医者との相談で決定することになった。朝の決まった時間に目が覚めるが、何をすることなく(それ以前に何かする気力が無い)、そのまま寝てしまい、気が付けば昼になっていたことはザラで、酷い時は午後2時の時報を訊きながら、仮眠していたこともあった。このままでは、駄目になりそうだ。
そこで、リハビリと銘打って、青函を旅した。余り人には会いたくないが、何時までもカーテンを閉めたまま昼過ぎまで寝ていては、鬱が余計酷くなると警告されたのだ。折角の連休だし、此処は奮起して旅に出るとするか。何度も計画を立てていながら、実現していなかった旅だから。
前日に買った3連休パスを自動改札に通し、中央線の一番電車で東京へ向かった。自動改札を通ったら、そんな気分は全然湧かない。逆に通勤途中を思い出してしまい、胸の痞えを憶えた。医者から貰った精神安定剤はあるが、空腹では飲めない。此処は、強力ミントの飴で凌ぐしかない。そして、電車に乗るなり大事を取る為、一眠りした。
東京で朝餉を買って上野に向かうと、何時も殷賑を極めている上野駅の閑散とした姿があり、此処で1枚撮った。本当に珍しかったのだ。更に、石川啄木の「ふるさとの訛りなつかし……」の有名な歌碑も撮った。多くの地方の若者が夢を抱いて、上野駅に降り立ったのだが、昨今は東京には無い物を求めて旅立つ若者も増えている。東京での北への「旅」のスタート地点と言っても良いだろう。
東北新幹線はやぶさ1号で、一気に新青森へ向かった。車内は全車指定ながら割と埋まっていた。一体、何処へ向かうのだろう。仙台か、盛岡か、もしかしたら終点新青森か?
大宮を過ぎてから、温かいミルクティーを啜り始めた。そして、頃合いを見て東京駅で買った赤飯にぎりを頬張り、精神安定剤を飲んだ。
新幹線は何かとしら便利な乗り物だが、上野〜新青森での出来事を綴るとなれば、どうも抽象的なことしか綴れない。短時間で到着できるのだが、裏を返せば沿線のことをジックリ見定める時間は与えられない。新白河付近で雪がチラホラあったり、仙台到着前で見た川は『青葉城恋歌』で歌われている広瀬川だと判ったり、盛岡に向かう途中で段々雪が目立っていくようになったり、盛岡到着前に湯煙か何だか立っていて、温泉郷を思い起こさせたり、八戸では僅かな晴れ間に出会って、稀少価値が高いレッドトレイン(車体が暗い朱色の列車のこと)に出会ったり、青森駅近くの青森ベイブリッジを発見し、終点間近だなと感じたりと色々あった。
新青森到着前の光景で一句。
余所者の物見冷たし氷柱かな
写真は東北新幹線から撮った青森ベイブリッジ。 |
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そして9時47分、新青森に到着。北日本は福島までしか旅していなかったが、今回は一気に青森まで来た。何だか、ドキドキしてきた。嫌な胸の痞えを憶えそうになったので、また強力ミントの飴で紛らわせた。
新幹線から降りて改札に向かった。割と涼しいなぁ、と思っていたら、一気に青森の寒さが私を襲ってきた。しかも、マフラーや手袋を付けていなかったので、凍え始めた。新幹線の中の暖房に甘えた結果だ。「温々している東京の若者が、こんな酷寒の青森に何の用だ?」と因縁を付けられたみたいだ。どうやら、青森の雪女はリンゴみたいに甘くはないな。バツ悪そうに、マフラーを締めた。
ホームの先端から向こう側を見ると、線路が敷かれていて、融雪用のスプリンクラーが絶え間なく働いていた。これが、北海道新幹線になる路線か……。2015年には新函館北斗まで開通するそうだが、その新函館北斗になるという駅は、渡島大野という小さな駅なのだ。開通したら渡島大野はどんな発展を遂げるのだろうか。そして、蚊帳の外の函館市はどうなるのか、話題が尽きない。
新青森では約30分時間がある。ホームを降りると、「歓迎 よぐ来たねし 青森」の東北弁の歓迎を受けて、土産コーナーに入った。此処ではリンゴや地酒等、青森の名産品が置かれているが、此処で惜しいことがあった。2014年3月で寝台特急「あけぼの」が廃止になる情報を手に入れたのだ。人伝で廃止になるという情報はあったが、廃止の知らせはなかなか出なかった。却って安心していたのだが、今年(2014年)の3月に廃止になるとは。本当はその寝台特急で青森に向かう行程を立てていたのだが、お目当ての個室A寝台は埋まっていて、断念した。予算オーバーでも乗りたかった。高速バス利用者の増加に伴う利用客の減少や車体老朽化だと思うが、夜発って朝着く列車の旅は時代遅れなのかな? その「あけぼの」のサボを籠に入れると、今度はねぶたまつりの絵葉書を見付けた。青森はねぶたまつりで有名だからね。更に3Dポストカードを見付けた。これらを青森土産に充てた。
土産コーナーから出ると、また寒さがやってきた。気に食わないのか。マフラーを締め直した。昨年(2013年)、只見を旅した時は、雪の芸術品を腹一杯になるまで見せられたのだが、此処の雪女は冷たいだけに感じる。オイオイ、折角来たのだ。「よぐ来たねし」と歓迎してくれよ! と、立ち食いそば屋に入り、かけそばで暖を摂った。暖を摂り易いように七味唐辛子を一杯振り掛けて啜ったら、その七味唐辛子が喉に掛かって咽せ込んでしまった。
在来線ホームに降りると、特急「スーパー白鳥」が停車していた。雪はしんしんと降り続いていて、反射材を付けた警備員が、乗客が転倒しないかどうか見張っていた。転倒しなくても、時折吹く北風が余所者には殊の外きつく、手袋を付けていても寒さが伝わってくる。特急の出入口はビショ濡れで、車内の通路も至る所が濡れていた。ホームで転倒しなくても、車内で転倒してしまうから、着席するまでは全く気が抜けない。難を逃れているのは防雪・防風板で仕切られている箇所だが、路面凍結している箇所が結構広いので、此処でも全く気が抜けない。先程のかけそばで摂った暖を、此処で費やしたくはない。
上は東北弁での出迎え。
下は特急「スーパー白鳥」。 |
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特急「スーパー白鳥」は青函を往復する特急だが、中はJR北海道色一色になっていた。座席のラックに差し込まれていた情報誌は、ハスカップにジンギスカン、夕張メロンに乳製品等、北海道の情報が詰め込まれていて、初めての北海道である私には、気分が弾む感触だった。そして、その上には青函トンネルの構造や通過時刻が書かれていた。本州側のトンネル通過時刻、竜飛海底駅通過時刻、そして、北海道側のトンネル通過時刻と鉄道ファンの心を刺激するが、私には北海道側にある吉岡海底駅が出ていなかったのにはガッカリした。数年前から臨時駅に格下げされたのだが、竜飛海底も吉岡海底も見学専用の駅だから、運行上は何ら関係ないのだが、その2つの駅は先述の北海道新幹線の建設上、支障が出るという事で、今年3月で廃止になるというのだ。これも勿体ないことをした。竜飛海底駅だけは行きたいと思ったが、肝心の切符が取れなかった。責めて、津軽今別駅と知内駅で、その2つの駅が明記されている駅名標だけは撮りたいと思って、行程に入れた。
さて、出発時刻の10時16分。しかし、特急は発車する気配は無かった。アナウンスに因ると、奥羽本線の列車の到着が遅れているとのことで、到着し乗り換えが済んだのを見計らって出発するという事。車内は特に苛立った気配は無く、雪の影響だとサッと受け流していた。まぁ、私もそんなに急いでいるという訳ではないので、リクライニングシートに凭れて、出発を待つとしようか。
10時18分、遅れ2分。晴れ間が見えてきた。こういう雪の天気は、2001年の山陰旅行で勉強したから慣れている。雪との闘いになるが、こういう晴れ間も期待したい。
10時20分。定刻より4分遅れで出発した。逆方向で青森に向かい、JR津軽線に入った。これで、途中の蟹田まで向かうのだが、途中で雪が降ってしまった。見渡す限りの銀世界だが、車内はそんな天気や世界を構う気配は薄く、ラックに差し込まれていた情報誌を読んだり、スマートフォンを操作したりしていた。でも、私は吹雪にまみれたくないのだ。おまけにカートを転がしているから、屋根がある場所が無かったら、カートに積もった雪にも気を配らなくてはいけない。多少は持ち堪えてくれるが。蟹田でコインロッカーがあれば、預けるとするか。
蓬田(よもぎた)を出ると、右手に陸奥湾が見えてくる。運が良いことに、晴れ間も見えてきた。じゃ、陸奥湾でも撮しておくか。その向こう側には下北半島が見えるのだが、雪雲に隠れていて見えなかった。
見ると、人の足跡は何処にも無く、滑らかな曲線を描きながら、雪は積もっていた。所々に小さな山になっている所もあり、そこが何とも可愛く見える。上越のように大量に積もっていて、ミルクレープ状になっている場所は無かったので、何処か温かみのある雪の積もり方である。漸く、青森の雪女は私に対して、心を開いてくれたようだな。
途中の郷沢(ごうさわ)で一首。
津軽湾撮る手引っ張る大倉岳水墨の山に僅かな晴れ間
写真は雪に包まれた陸奥湾を望む。 |
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蟹田。JR津軽線内でも、(中小国から始まる)JR津軽海峡線内でも重要な駅である。実際、私が乗った特急「スーパー白鳥」は必ず停車し、起点である中小国を通過して、北海道木古内へ向かう。また、このJR津軽線は、蟹田を境に様相がガラッと変わる。青森〜蟹田は電化路線で、特急や貨物列車が往来し、ローカル線にしては賑やかな方である。そして、蟹田〜三厩(みんまや)になると非電化路線になり、ブォーンとディーゼル音を響かせて、雪原を疾走する音が寒さを癒やしてくれる。
定刻より2分遅れで、蟹田に到着した。私が降り立った時、大量の貨物を牽引している貨物列車が停車していた。電気機関車の位置から見ると、北海道から来たみたいだ。一体、行き先は何処なのだろう? この貨物の多さを見ると、相当遠い場所みたいだな。そうでなくても、貨物コンテナに積もった雪が、長旅を証明してくれるだろう。
さて、蟹田でコインロッカーを探したら、何処にも見当たらず、駅員に尋ねても「無い」との答え。しまった。これから向かう所は、屋根が付いていない駅だという可能性があるし、今は雪は降っていないが、到着時に降っていたら、それこそ、雪との闘いになる。中小国方面を向いたら、青みを帯びた曇天がゆっくり迫っていた。
11時21分の三厩行きまでまだあるから、駅構内でもぶらつくか。待合室は暖房が利いていて、木の目が美しいテーブルやベンチがあった。その一角に、名誉駅長としていた蟹のコーナーがあった。水槽には駅長室や駅を模した箱庭が置かれていて、写真が展示されていた。まぁ、蟹田だけに蟹が駅長になることは道理だが、その蟹は何処にもいなかった。近くには感謝状が置かれていたが、その蟹は亡くなったのだろう。蟹のレプリカが水槽に置かれていた。
蟹田駅のホームを歩くと、興味深い物があった。蟹田付近は北緯41°に位置し、丁度同緯に紐育(ニューヨーク)や羅馬(ローマ)が位置しているのだ。へぇ、面白いね。世界屈指の不夜城紐育と歴史遺産が詰まっている羅馬と同緯にあるとは。その裏面には、太宰治の代表作『津軽』の一節、「蟹田ってのは風の町だね」とあった。「風」の書体が上手く表現できている。2画目の右下払いの部分を見ると、左より長く書かれている。この書体を見ると、微風程度の心地好い風ではない。寒さが勝っている最果ての薫りが強い風に感じる。
寒くなってきたから、列車に乗るか。
地吹雪を見て一句。
津軽湾地吹雪抱く蟹田かな
上はJR蟹田駅。
中はニューヨークとローマと同緯度にある蟹田。
下は太宰治の代表作『津軽』の一節に読まれている蟹田。 |
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蟹田止まりの到着を見届けて、列車は蟹田を発った。到着した列車は、列車とは言い難いステンレス車両で、東京界隈を走っても違和感が無い。この蟹田を境に都会色は一気に消え、津軽半島の先端三厩(みんまや)を目指すローカル線になる。
蟹田を発ってすぐに雪が降った。おまけに景色は雪一色で、地平線も良く見えない。先程の特急列車で見た海の青がクッキリとしていて、ドカドカと積もっている箇所は少なかった、あの陸奥湾の光景が懐かしい。
中小国に到着。鉄道ファンならば、この駅がJR東日本とJR北海道の境界だと認識できるが、実際片側1面の小さな駅で、特急列車は嘲笑するかの如く通過していく。降車する人はいない。
寂しいJR管轄境界駅で一句。
評されぬ雪野の踊り子枯れ芒
暫く走ると、ポイントがあり、木古内側から貨物列車が颯爽と通過した。この路線はJR北海道管轄の津軽海峡線であり、特急列車や貨物列車はこの線路を走る。かたや、私が乗車しているJR東日本管轄の津軽線は、ディーゼル車両。華やかさは無いが、ブォーンとディーゼル音を響かせる音が、雪降る津軽の寒さを一掃するかの如く力強く聞こえる。そして、JR北海道の路線は右に逸れた。建設中の北海道新幹線も釣られるように。
ディーゼル車が雪原を走ること数分後、先程のJR北海道の路線が右側からやってくる。高台に架線が張られていて、特急列車や貨物列車が疾走する様を見ると、ディーゼル車しか走らない路線に乗っているので、疎外感が強くなってしまう。おまけに管轄が異なっているともなれば、一層深くなる。強力ミントの飴を口に放り込んだ。
上はJR東日本とJR北海道の管轄境界駅、中小国駅。
下は津軽海峡線を走る貨物列車。 |
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(2014年1月11日) 津軽二股から津軽今別に送る手紙 |
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津軽二股に到着した。車掌に3連休パスを見せたが、降車した人は私だけだ。
雪が降っていた。早い所、屋根がある所へ避難しないと。
と、津軽二股駅に隣接している建物があったので入った。自動ドアが開いたので早速入った。カートやコートに積もった雪を急いで払った後、靴底に詰まった雪を叩き落とした。いやぁ、建物があったので助かったよ。
傍のベンチに痩身を投げ出して、溜息を漏らした。八王子から何度も列車を乗り継いで此処津軽二股で下車した。デジタルカメラで時間を確かめると、7時間20分経過していた。この時間内でとんでもなく、天候と気温の差に翻弄されたな。体調が変にならなければいいが……。
東京駅で買ったヒレカツサンドと、傍の自販機で買ったミルクティーで昼餉を摂った。
その後、建物の中に入ろうとしたが、閉まっていた。季節営業なのかと思って、駅周辺をぶらついたら、何と北海道新幹線建設の影響で、平成28年まで休業だってさ。その近くには北海道新幹線のポスターが貼られていた。2015年度開業予定と出ているが、後1年だ。駅名が、「(仮)奥津軽いまべつ(今別)」となっていた。仮称が「奥津軽」と出ていたから、少しは所在地が判り易くて良いのだが、「今別」と出ている点に首を傾げるだろう。
此処は津軽二股だと思いがちだが、此処はJR北海道の津軽今別の駅でもあるのだ。先程の列車で見たあの高台にある駅だ。駅同士は隣接しているが、管轄が異なる為、違う駅名になっているということで有名な駅なのだ。それにしても、津軽二股が津軽今別が同じ場所にあるとは面白いな。しかし、漢字で「今別」と書けるのに、平仮名で「いまべつ」と称しているのは余り納得行かない。漢字で書ける箇所は、目障りではない限りそうして欲しい。「奥津軽今別」の方が判り易い気がするが……。
上は津軽今別駅から見た津軽二股。オレンジ色の建物で休んだ。
下は津軽二股駅と津軽今別駅。同位置にある所が面白い。 |
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(2014年3月11日) 津軽今別から津軽二股に送る手紙 |
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その津軽今別だが、高台に上がると上りホームと下りホームが相当離れていて、その真ん中で雪にまみれながら、北海道新幹線建設が進んでいた。此処に出来るのか、(仮)奥津軽いまべつは。でも、(失礼ながら)こんな僻地に新幹線の駅を設置してどうするのだろう。何か、JRは旧国鉄の後を引き摺っているように見える。旧国鉄はあちこちに(行き止まりになる路線のこと)盲腸線を造ったのが原因で、莫大な赤字を抱えてしまった結果、多くの路線が廃止に追い込まれたり、工事途中で中止になってしまったりした。JRはその赤字を今でも補填していると聞くが、その教訓が殆ど活かせていない。地元はどうするのだろう。先程の建物で読み散らした地元の広報には、北海道新幹線着工が大々的に報じられているが、経済効果があるかどうかは、地元次第だ。ただ新幹線の駅を造って経済効果を待つ他力本願か、此処今別をリゾート地にして経済効果を仕掛ける積極的な政策か。今別町の意気込みを見届けるとしよう。
2駅が立つ一首ができた。
雪寂し津軽二股振り向けば槌音響く津軽今別
津軽今別駅の駅名標を見ると、JR北海道形式になっている。本州で唯一のJR北海道管轄の駅だ。それなのに、「つがる」とあるのは滑稽に見えるし、下の津軽二股駅を見たら、疎外された気持ちが強くなってしまう。さっきは特急列車や貨物列車を疾走している津軽今別に反感を憶えていたが、今度は存在で疎外感を憶えてしまった。停車する列車は、特急2往復だけという寂しさ。周りを見渡しても人影は私だけなので、特急2往復の停車は判るが、利用客がいるのか判らない。
すると、警報機が鳴った。中小国方面から貨物列車が通過した。良い写真が撮れると思ったのに、遅かった。でも、路線は此処しかないので、竜飛海底方面から来る可能性はあるな。
その駅名標を撮ると、右側に竜飛海底とあった。行けなかった敵討ちを此処で果たせた。3月を過ぎると、「竜飛海底」の部分が「木古内」になってしまう。だから、永久保存版だ。
その出来栄えを確かめると、遠くから走行音が聞こえた。竜飛海底方面からだ。もしかして、私は付けていた手袋を外し、デジタルカメラを用意していると、貨物列車が来たのだ。また敵討ちが果たせたのだ。
地吹雪を受けて一首。
白妙の津軽今別雪降りし貨物列車の地吹雪に舞ふ
12時38分、特急「白鳥」で蟹田に向かった。しかも、津軽今別において中小国方面の始発で、駅名標にある中小国には停車しない。だから、中小国にはその表記が無かったのか。もどかしさが拭えないな。
中小国付近の光景で一句。
奥津軽凍えて啼かぬ冬鴉
上は北海道新幹線建設中(防音壁の向こう)の津軽今別駅。
中はJR北海道形式の津軽今別駅の駅名標。
下は津軽今別駅で撮った貨物列車。 |
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蟹田12時53分到着予定だったが、雪の影響で3分遅れで蟹田到着。恐らく、この後も雪の影響で遅れるのだろう。乗る列車には余裕を持たせているので、時間に大らかに行くとするか。
蟹田でも貨物列車に会った。あれ、この貨物列車何処かで見た気がするが……。機関車の番号を見ると、何と津軽今別駅で撮影した貨物列車だったのだ。そして、撮り終えるや否や貨物列車は蟹田を発った。思いも寄らぬ痛快劇だ。
特急「スーパー白鳥」で木古内に向かった。雲の隙間の青空を餞別として。
その餞別の一句。
地吹雪に舞へば青空蟹田かな
津軽今別を通過し、電光表示で青函トンネルに入ったことを知り、北海道に向かうに於いて、気持ちの整理を始めた。
いよいよ、齢35で初めての北海道か。何度も計画を立てていた青函旅行だが、様々な事情でご破算になってしまった。本当は、男はつらいよ『寅次郎相合い傘』みたいに青森で宿を取り、連絡船で行きたかったな。そして、到着した函館の屋台で塩ラーメンを啜っている最中に、寅さんと(どさ回りの歌手)リリーが再会する話だった。連絡船は再現できなかったが、宿泊地の函館でラーメンを啜る行程は再現したい。
青函トンネルを走ること十数分後、蛍光灯が目に入った。ピンと来た。竜飛海底駅だ。突然なので、シャッターは切れなかったが、ホームは本当に細かった。本当に見学専用駅だ。そして、もう一回同じ箇所があった。吉岡海底駅だ。臨時駅に格下げされているのに、灯りが点っていた。既に営業は終わっているのに、両駅共煌々と灯りが点っているとは。まだ、待っているのだろう。自分の命は今年3月で終わるというのに、最後の花道なのだろうか。
青函トンネルを抜け、知内(しりうち)を通過した。北海道に入ったのだ。正確には吉岡海底から北海道なのだが、隧道内はキチンとした境が無いから、実感が湧かない。
画一化された雪原が続き、少し眠気を催した。左側から高架が入ってくると、眠気が一掃された。北海道新幹線だ。外壁も出来上がっているとなると、2015年の開業もあながち嘘ではなさそうだ。昔は連絡船が往来する函館が北海道の玄関口となっていたのだが、今度は木古内が北海道の玄関口となるのか……。
上は蟹田駅停車中の津軽今別駅で撮った貨物列車。
下は青函トンネル通過中。 |
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木古内に到着した。駅名標の隣にまた北海道新幹線開業のポスターが貼られていて、歓迎ムード一色だ。しかし、その開業を待たずに廃線となる路線があるのだ。JR江差線の木古内〜江差だ。
木古内駅の待合室には、東京でも有名な北海道土産等が置かれている売店の他、ストーブも置かれていて、これだけでも北海道に来たという気持ちにさせられる。それにしても、混んでいるな。恐らく、江差行きの列車に乗る人達なのだろう。駅の時刻表等も入念に撮影していた。
切符売り場には長蛇の列があるが、普通の切符を求めているのではない。先述のJR江差線の記念切符を求めているのだ。JR時刻表で廃線になる情報や、記念切符販売の情報は入手しているが、通信販売はしていないのが難。どうしても欲しかったら、現地に赴いて購入してくれという、東京での便利至極主義は通用しない。此処は北海道だ。分を弁え給え。
並んでいるという事は、まだ売り切れていないという事だな。よし、私も並ぶとするか。中には1つの記念切符を複数買っていく人もいた。友達に頼まれたのなら良いが、ネットオークションで値段を吊り上げて売り捌く行為は止めて貰いたい。こんな金銭に卑しい輩は、鉄道ファンを名乗る資格は無い。
先頭に立った私は、専用記念台紙がセットになっている入場券セット、記念台紙付きの木古内→江差の普通乗車券、そして、北海道新幹線建設ルート経由駅記念入場券各1セットを買った。
ホームに降りると、既に江差行きの列車は停車していて、車内は乗客で一杯だった。生憎、進行方向の席は埋まっていて、反対側の席に座った。見た所、JR江差線廃止と聞いて乗車している鉄道ファンなのだろう。先程の窓口で買った記念切符を眺め、悦に入っている人を見掛けたから。そんな私も、先程の入場券を取り出して眺めたが、木古内駅が入っていた。新幹線の駅に相応しい大型で綺麗な駅舎だが、津軽今別同様、木古内町も新幹線駅設置に浮かれることなく、キチンとした振興策を講じなくてはいけない。
上はもう北海道新幹線の宣伝を謳っている木古内駅。
中は時刻表。右がJR江差線の時刻表。
下はJR江差線を走るディーゼル列車。 |
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14時44分、江差行きはたった1両で木古内を発った。早速私の周りでは、カメラを取り出して景色を撮ったり、廃止区間を走る光景を動画に収めたりしていた。年齢は区々で中には大きなリュックを棚に置き、長旅の疲れを微塵も見せない鉄道ファンがいたり、ドアの近くに凭れて何をすることもなく景色を眺めることに没頭したりする鉄道ファンもいた。鉄道ファンは年齢制限も無いし、身体を動かすことは結構あるので、健康的趣味とも言えよう。
景色は雪の白と山の黒で占められていて、単に眺めていると眠気を誘うが、そこに建物の一つさえあれば、思わず撮ってしまう。酪農を営んでいるのか。マンサード(屋根の部分が2つの傾斜になっている)の牛小屋があったので撮った。
渡島鶴岡に停車した。私が座っている方がホームだった。此処で駅名標でも撮るか。と、車内の鉄道ファンも一斉に駅名標を撮した。考えることは同じだね、コリャ。
吉堀を発つと、暫く駅は無い。雪に包まれた雑木林を通ったり、名も知らぬ川を通ったりしたが、目を奪う程の景色は無かった。どうしたのだろう。此処の雪女は人を魅了する程の芸術品は創れないのかな。周りの鉄道ファンの手も止まったままだ。25‰(パーミル 1‰=0.1%)を駆け上るディーゼル音が響くだけ。
吉堀を発って22分後、神明に到着した。一気に駅名標を撮る手が動いた。そして、私の反対側に座っていた人が此処で下車した。見た感じ荷物はそんなに多くなかったし、鉄道ファンではなさそうだな。この人は感じているのだろうか。もうすぐ廃線になる寂しさを。バス転換されるそうだが、この景色が見られるのは今の内だ。目に焼き付けてくれ給え。
湯ノ岱(ゆのたい)は沿線では立派な(?)駅舎があって、此処でも撮る手が動いた。
湯ノ岱を発つと、また川に出会った。岸は薄い雪のシャーベットに覆われて、暖かい車内にいても寒さが伝わってくる。嫌な胸の痞えを憶えそうになってきたので、木古内で買ったホットレモンティーを啜った。すぐに温さが身体を走った。よく川を見ると、シャーベット状になって流れている箇所があって、またホットレモンティーに手が伸びた。周りの鉄道ファンは出来栄えを確認していて、廃止される区間を細大漏らさずに撮ろうと余念は無い。
すると、反対側に何やら見えてきた。チラッと見たら駅名標だった。臨時駅なのか? 撮る手はいなかった。咄嗟に過ぎたから、駅名は判らない。時刻表等で調べてみたら、臨時駅設置の記述は無かった。一体、あれは何だ。折り返しは反対側の席に座るとしよう。
雪にまみれた中須田の駅名標を外し、上ノ国付近になると、防風柵が目立ってきた。日本海が近くにある証拠だ。そして、反対側に海が見えてきた。一気に撮る手が動いた。撮りたいけど、美味しい所はズームを伸ばさなくては撮れない。しかも、なかなか焦点が定まらず、ピンボケ写真が数枚撮れた。すぐに出来栄えが確認でき、すぐに消去できるデジタルカメラなので何ら心配ないが、撮るならば上手に撮りたい。
日本海は青みがかった鈍い灰色の海で、白く冷たい波が次々に波打ち際に叩き付けていた。全く穏やかな表情は無かった。海が機嫌が悪ければ、空模様も同じだ。灰色の雪雲が日本海を覆っていて、何かに対して怒りをぶつけているように見えた。江差に繋がる鉄道が廃止される怒りなのか、もしかしたら、昨今問題になっている「日本海」と「東海(トンへ)」の併記に対する怒りなのか? 結局美味しい所は撮れずに江差に到着した。
写真は屋根がマンサードになっている牛舎。 |
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江差。北海道によくある盲腸線の一つだが、有名な民謡『江差追分』の町。駅舎と隣接しているホーム1線の駅に、終点まで乗車した鉄道ファンの熱気に包まれた1両のディーゼル車両が到着した。乗客が順序良く吐き出された。運賃精算をチラッと見たら、私と同じ3連休パスを使っている人もいて、東北新幹線を利用して北海道に来たことが判る。何せ、東京〜新青森の往復で元が取れるのだから。そんな私も東京の八王子から4時35分に発って、此処に来たのだから。
江差駅のホームは、屋根がある場所でも雪に覆われていて、何度も踏まれて薄くて固くなっているから、滑らないように歩かなくてはいけないので余計神経が要る。私は靴底の溝がハッキリしている真新しい靴を履いているので滑らないと思うが、その溝に雪が入ってしまっては無神経に歩く訳には行かない。気が抜けないな。
江差に停車するディーゼル車を撮している所で、デジタルカメラのバッテリー切れが生じた。此処で昨年10月に買ったスペア(予備)が役に立つ。これで一日中持つのだ。
撮している途中、ホームで並んでいるのを見付けた。此処で鉄道ファンの勘が動いた。美味しい席を狙っているのだ。見た所、5〜6人しか並んでいなかった。もしかしたら、反対側の席に座れる確率が高いな。運転士の車内点検を終えて、ドアが開いた。すると、私の鉄道ファンの無知振りが証明された。狙っていた席にリュックやらカートやら置かれていて、既に席が取られていたのだ。早くしないと、次々に乗客がやってくるから、一刻の猶予は無い。進行方向と逆の席ながら、反対側の席を確保した。これで日本海も問題の駅も撮れるから、文句は無い。
荷物を座席に置いて、またホームに出た。駅構内は割と広く、東北の旅を宣伝するポスターが貼られていた。ストーブを取り囲む状態で椅子が置かれていたが、誰も座る人はなく、切符売り場に行列が出来ていた。駅舎は割と立派な建物で、駅舎から海が望めた。しかし、商店は無かった。駅舎を撮そうと雪の中に入ったが、ズボッと足が埋まった。道南の雪女からのご挨拶かな? 何も無さそうな場所が、意外性があると言えばいいのかな。だけど、この意外性は苦笑の種だ。足首まで積もっている雪に知らずに踏んでしまったので、靴に雪が入ってしまうかも知れないからだ。好いているのか嫌っているのか。
駅舎を撮して、ふと思った。鉄道が廃止されると、この駅舎はどうなるのかな。構内や駅前が広いから、バスターミナルの待合室として、再出発したらいいのだが。
駅舎に戻ると、切符売り場の行列がまだあった。木古内駅同様JR江差線の記念切符を販売している。木古内で買った記念切符を見ると、記念台紙付きの木古内→江差の普通乗車券はあるが、江差からの普通乗車券は江差駅限定なので、此処で買うとするか。私の前の人は下車印(途中下車する際に、その駅で押す印のこと)を3連休パスに押して貰うよう頼んでいた。江差駅に立ち寄ったという良い証明だ。私も押して貰おう。黒の印で丸の中に「江差」とあった。
上は「江差追分」で有名な江差。
中は江差駅の駅名標。
下はJR江差駅。 |
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(2014年1月11日) 去りし江差線に別れを告げて |
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16時16分、地吹雪を見ながら江差を発った。
その光景の一句。
地吹雪で乗客見送る江差かな
乗客は木古内と殆ど同じ。先述の日本海も美味しい所は撮れたし、往路で外した上ノ国、中須田の駅名標も上手く撮れた。後は、あの問題の駅だ。江差駅で貰った江差線沿線の見所パンフレットを開くと、それらしい記述があった。宮越〜湯ノ岱(ゆのたい)にあり駅名は「天ノ川」で、近くを流れている天の川から付けられたが、一般公開日は限定されている。出来れば、その駅に停車して駅名標を撮らせてくれたらいいけど。宮越到着までジッと待っていると、眠気が襲ってきた。強力ミントの飴で眠気を覚ました。今日は何度もお世話になっているな……。
宮越を発った。いよいよ天ノ川を撮る時が来たのだ。仕舞っていたデジタルカメラを取り出して、バッテリーを確かめた。あるな。これを逃したら、また撮りに行かなくてはいけない。そうなると、計画がおじゃんになるので、絶対に逃したくはない。
私の眼前に冷たい川が流れてきた。往路で見た岸がシャーベット状になっている川と較べると、少しは冷たさが緩んでいるが、川の色がどす黒く、真っ白な雪との色彩の差が著しい。これで、寒さが伝わってきた。温かい飲み物が欲しいな。江差駅で買っておけばよかったな。でも、天ノ川駅を撮りたいので、此処は忍耐あるのみ。だけど、今日はキチンとした食事は摂っていない。津軽二股駅でヒレカツサンドを抓んだだけだ。よく持つな。私の低燃費燃料タンクは。
空腹と闘いながら、天の川を撮影していたのだが、車内の照明が邪魔をして、綺麗に撮れない。良い景色が続いているのに、と愚痴を叩いていたら、ディーゼル音が止んだ。すると、駅名標がゆっくり通過した。天ノ川だ。しかも、座席と駅名標の位置も割と良く、ズームを定めてシャッターを切った。車内の照明で綺麗には撮れなかったが、駅名標の文字は何とか撮れた。停車して5秒後に発った。時刻表にも載っていない駅だ。しかも、この区間は廃止になるので、これも永久保存版になる。
これで一眠りできる。目が覚めたのは木古内到着数分前。空はすっかり暗くなっていた。
上は江差線からの日本海。
下は観光用臨時駅、天ノ川駅。 |
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17時22分、木古内着。此処でも鉄道ファンは列車や「江差」と書かれているサボ(差し込み式の方向幕)を撮っていた。何だか、鉄道ファンの為に木古内〜江差を往復しているように見えた。あの天ノ川停車もそう感じる。
駅構内に入ると、また切符売り場に行列が出来ていた。JR江差線の記念切符を求めている人だが、チラッと覗くと、知内(しりうち)駅記念切符があった。この知内も北海道新幹線建設上、支障が出るという事で廃止になるので、販売しているのだ。それならば、買うとするか。
時間があるので木古内駅を出て駅舎や、江差方面行きの案内を撮っていたが、此処でJR江差線で江差に向かっていた鉄道ファンは、特急で青森か函館に向かう。行程がバラバラなので、此処で解散になる。後は、自分の行程を存分に貫くだけだ。さよなら、鉄道ファン。今度は何処で再会するのだろう……。
停車中の江差線に送る一首。
江差線別れを告げし木古内で後ろ髪引く江差追分
18時10分発特急「スーパー白鳥」で函館に向かうのだが、自由席の位置は屋根が無く、粉雪を払いながら、待たなくてはいけない。でも、この粉雪が雰囲気を良くしてくれた。日が暮れて街灯の煌めきが増す時間の、広さを持て余し気味の木古内駅に、静かに粉雪が降る。街灯に照らされた粉雪の色なのか、全体的に青みを帯びている。万人受けしない行程を終え、これから宿へ赴く旅人。長旅を思わせてくれるカートに積もる粉雪。疲れが溜まっているのか、粉雪を払おうとはしなかったし、粉雪もその事を知っているのか、激しく降ることはなかった。そんな旅人の行程を慰めてくれるかのような、碧く優しい粉雪だった。道南の雪女の芸術品かな?
そんな道南の雪女の芸術に浸っていると、聞いてはいけないアナウンスを聞いてしまった。何と、雪の影響で特急列車が遅れているというのだ。何度も聞いたので、もう驚かないよ。1分1秒に執着する東京じゃないのだから。
特急列車は7分近く遅れて到着した。ドア付近や通路はビショ濡れ。もう慣れたよ。
席に痩身を投げ出して、終点函館を目指す。しかし、雪での遅れは何とも凄まじい。途中の矢不来(やぶらい)信号所で、擦れ違う特急列車が遅れている影響で相当待たされた。時計を見ると、18時45分近くを指していた。函館のホテルには19時到着を伝えているが、15分で函館に着く気配が無さそうだ。電話を入れたいが、隧道内だったので圏外。公衆電話を探そうと探したが、撤去済みとの答え。漸く、すれ違いの特急が通過して、隧道を出たので携帯電話を取り出したが、感度が良くない。参ったな。とんだ意外性に遭ったな。携帯の感度が良くなったのを見計らって、函館のホテルに連絡を入れた。
無事に連絡を入れ終わって、席で一息入れていると、豪華寝台特急として鉄道ファン以外でも名高い『トワイライトエクスプレス』が停車していた。何処の駅だったか、何故停車していたのかは判らないが、良い出会いだった。でも、車窓に水滴や雪が一杯付いていたので、写真に収められなかった。
上は雪にまみれたディーゼル列車(撮影は木古内駅)。
中はJR木古内駅。
下は木古内駅構内。 |
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19時7分、函館到着。予定より14分遅れた。雪が固まっているホームを歩いて駅を出た。雪は木古内同様粉雪だったが、歩道の殆どが雪に隠れていた。此処で道南の雪女に何をされるのか判らないから、脇目も振らずにホテルに向かった。
私の客室は、函館駅と函館港が良く見えた。良い景色だなぁ。此処で1枚撮りたいが、燃料タンク切れになった。
さて、夕餉でも摂るか。此処で、『寅次郎相合い傘』の一コマが浮かんだ。確か、函館名物塩ラーメンを啜っていたな。夕餉は塩ラーメンにするか。と、ホテルを出たのはいいが、塩ラーメンを出す店は何処なの? と、市電に沿っている大道を歩いていると、塩ラーメンが出ている店を見付けた。此処にするか。
品書きを見ると、例の塩ラーメンがあったよ。しかも、私の好きな塩チャーシュー麺もある。麺大盛りにして頼んだ。具材はチャーシューと刻み葱だけと簡素。チャーシューは脂身が多いバラ肉だったが、あっさりしたスープに絡んで、丁度良い味加減になっている。飽きの来ない味だ。道南の雪女は、こんなに美味い物が作れるなんて。
そんな訳で、函館名物塩ラーメンを瞬く間に平らげた。『寅次郎相合い傘』では、寅さんと一緒に旅をしている名優船越英二氏演じる兵頭謙次郎という人が、例の塩ラーメンを丁度頂き終えた所で、寅さんとリリーが再会するのだが、果たして、私も映画通りに再会できるのかな? 夕餉で大当たりを取ったから、そうなって欲しい。
昨夜は黒麦酒を啜りながら、函館駅と函館港を眺めていたが、半分も行かない所で微酔い(ほろよい)になってしまったので、大事を取って、日付が変わって間もなく布団に潜ってしまった。
そして、翌朝は何と5時前に起きてしまった。布団に潜りたいが、8時8分の特急で向かう所があるから、起きるとしよう。
それにしても、寒いな。「流石は北海道」と謳いたいが、昨日は殆ど雪に降られていないので、大きな口は叩けない。黙って暖房を付けて、湯槽に湯を貯め始めた。その間に函館駅を眺めると、まだ真っ暗だ。
30分後、もう一回函館駅を眺めると、丁度紫色の夜明けを迎えていた。夜の内は宝石の如くの煌めきを放っている街灯が、短くて珍しい紫色の夜明けに映えて幻想的に見える。夜の宝石よりも値打ちがある。そして、30分も経たない内に雪に覆われた函館駅があるだけ……。ほんの一瞬だ。
函館駅と函館港を眺めて一首。
ほうほうと旧き函館霧笛鳴り汽笛になれど振り向く港
温かい風呂に浸かって、朝の紅茶を啜って、8時8分の特急に乗った。北海道限定の珈琲グラッドを窓際に置いて。
来た時は夜で、全く見えなかったのだが、反対側に海が見え始め、それに沿って特急は走っていた。席を移動して撮したが、見えてきた島は何処なのだろう。地図で調べると、島ではなく函館の郊外のようだ。今日は函館観光が入っているので、調べるとするか。
上はホテルから撮った夜の函館駅。
下は紫色の夜明けを迎えた函館駅。 |
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北海道新幹線の高架が控えている木古内を発って、知内(しりうち)に停車した。面白かったのは、後ろ1両がホームに停まらないので、ドアが開かないというのだ。ホームに降りると、本当に停まっていなかった。面白い光景だな。此処で数人が降りたのだが、写真を撮り続けているのを見ると、鉄道ファンなのかと訝しんだ。
そう、知内も3月で廃止されるのだ。昨日のJR江差線とい、私が立てた行程は、誰かの鉄道ファンと同じのように感じる。駅名標を撮ると、右側に吉岡海底と出ていた。これでまた敵討ちが果たせた。3月を過ぎると、この駅は廃止になる上、木古内の駅名標の「知内」の部分が、「津軽今別」になるのだ。
この知内駅は、元々は新湯の里信号所から駅に昇格したのだが、津軽今別駅同様、特急2往復しか停車しない。しかも、ホームも鉄骨を組み立てただけの粗末な造りで、連絡橋も無造作に置かれているように見える上、駅舎も仮設と見紛う程の粗末な造りだった。特急2往復しか停車しないならばその道理は判るが、この知内駅は昭和63年に廃止になったJR松前線の重内(おもない)と湯の里の中間地点に造られた駅で、言うなれば代替駅という事だが、松前方面へは函館・木古内からのバスが往来しているので、存在感は薄い。
廃止される知内駅構内を撮っていたが、駅舎と隣接している道の駅しりうちに入ると、私は或る事実に驚いた。知内の産物が並んでいたが、大物演歌歌手北島三郎氏のポスターが貼られていたのだ。レジの上には北島ファミリーのカレンダーが、額縁に入れられて飾られていた。そう言えば、氏は北海道出身だと聞いていたが、故郷の誇りなのかと思って、このポスターの訳を聞いてみたら、知内駅を訪れた価値がグンと高まった。知内は氏の故郷だったのだ。知内の漁師の子として生まれた大野穣(おおのみのる)が、大物演歌歌手北島三郎氏として大出世したのだ。かなり歩くが、氏の生家もあるそうだ。訪れたいのだが、9時38分の特急に乗って函館に戻らなくてはいけないのだ。時計を見たら、9時10分を指していた。連絡橋の中で待って、9時30分を過ぎてからホームを降りた。しかし、38分になっても特急は来なかった。雪の影響だと思うが、もう、雪の影響云々は聞き慣れたよ。
知内の光景で一句。
知内や雪掻きの人に降りし雪
上は知内駅の駅名標。
中はJR知内駅。
下は応急処置みたいに簡素な知内駅ホーム。 |
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10時40分頃に函館に戻った私は、宿泊しているホテルに近い函館朝市に向かった。でも、朝市の類は休日に訪れる所ではないね。10時45分近く回った時点で開店している店は、片手で数えられる程度だったからだ。
じゃ、何処に行きましょうかと、私の足が向かったのは、青函連絡船記念館摩周丸だった。
摩周丸。青函連絡船を利用した方ならば、懐かしい響きだ。単に、青森と函館を結んでいた連絡船ではなく、お互いの未知なる世界へ誘う玄関口でもあったのだ。1996年12月に東京お台場にあった船の科学館・羊蹄丸で、当時の青森を再現したコーナーを見てから、青函連絡船とはどんなものだったのか興味を持って幾星霜、青函を旅する機会を窺っていたのだが、真逆リハビリがてらの旅に訪れるとは。
まず迎えたのは銅鑼(どら)と碇、連絡船の煙突に付けられていたJNRとJRマークだった。銅鑼は出港だと知らせる為に叩く道具。ほら、岡晴夫の『憧れのハワイ航路』の一節に「船の出船の 銅鑼の音楽し」とあるから。しかも、叩き方に特徴があって、最初は弱く叩いて段々強く叩く。これで出航することを知らせているのだ。霧笛の「ボォー」じゃなかったのか。初めて知った。JNRは若い方はご存じないかと思うが、旧国鉄のこと。この青函連絡船は旧国鉄が運営していた航路だったのだ。そして、JRマークは民営化後に付け替えられた物。JR北海道の管轄という事で黄緑色。民営化され新しい気持ちで臨んだものの、一年足らずの昭和63年3月13日に廃止された。青函トンネルに本州と北海道を繋ぐ大役を託しながら。
中にはポスターが展示されているが、よく見ればどうだろう。何処か別れの雰囲気を漂わせる文章ばかり連なっている。「秋が、波間に消えていきます」、「最後の夏の、霧笛が響きます」、そして「花道に雪が降る」とある。またポスターを見ると、JRの文字が出ている。これは、JRになった後の廃止になる前年に作られた青函連絡船のポスターなのだ。きっと、青函トンネルが完成し、役目を終えそうになったJRが、長年の労苦をねぎらう為に作成したのかも知れない。今更だと思うが、乗りたかったな、青函連絡船に。廃止当時、まだ9歳だったから、一人で乗る訳には行かなかったが、『寅次郎相合い傘』の行程を再現したかったな。中間管理職の狭間と冷え切った家庭から逃げ出す為に旅に出た兵頭謙次郎が、こんな一言を発していたのを憶えている。
「僕は死ぬ為に旅に出たのではなくて、自由を求める為に旅に出たのですから。」
その「自由」とは一体何なのだろうか。一般人から見ても、判る由はない。勿論、この私にも判る由はない。
上は青函連絡船摩周丸。
下は青函連絡船の煙突に付けられていたJNRマークとJRマーク。 |
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(2014年1月12日) 未知なる青函連絡船の世界 |
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明治41年から昭和63年まで活躍していた青函連絡船。その活躍の断片が至る所に残されている。存分に探し給え。此処では、私なりの断片を紹介する。
まずは青函連絡船の切符。切符には「青森←→函館」とあり、どちらでも使えるようになっているが、寝台券や入浴券もあったのだ。片道約4時間掛かるので仮眠を取ったり、風呂に入ったりしてリラックスできるようになっている。勿論、食堂もあったので、風呂に入ったら食堂で一杯やりながら、津軽海峡を望んでいた人がいただろう。いいねぇ、こういう船旅は。
窓側には青函連絡船の座席があって、座って函館港が眺められる。座席は2種類あって、2連になっている青い席が普通席。1席毎に肘掛けがあって、引き出せば小さなテーブルが出てくる。また、後ろにはライトが付けられている赤い席がグリーン席だ。先程見た切符の中に自由席グリーン券1000円があったけど、その席になる。とは言っても、背凭れにあるリネンは同じで、リクライニングも出来る。ただ違うのは、1席毎に仕切られている他は、引き出し式のテーブルと後ろのライトがあるだけ。それで1000円も違うなんて、随分がめついな。幾ら旧国鉄が莫大な赤字を抱えていても、ほんの飾り程度の設備が付くだけで、これだけ料金を取られるなんて。もし、今でも青函連絡船が運航していても利用しないだろう。
そのグリーン席に座って、雪景色を眺めた。雪が舞う函館港があった。船の向きから見たら、青森へ発つようだな。『寅次郎相合い傘』とは逆方向だ。
摩周丸には青函航路に就航した船の写真が展示されている。その中で、最も大きく取り上げられていたのは洞爺丸だ。一見、普通の連絡船に聞こえるが、これには台風で被った最大の悲劇が詰まっている。
昭和22年、物資不足の中で復興のシンボルとして就航した洞爺丸。豪華な客室の設備を搭載したこの船は、昭和20年の空襲で全滅した連絡船の跡を継ぎ、前途洋々の航路が待っている筈だった。所が、就航してから7年後の昭和29年9月26日に、多くの乗客と共に「沈没」という運命を共にしたのだ。一番驚いたのは、函館港寄港中に沈没したことだ。この時、他の連絡船を合わせて5隻寄港していた。しかし、暴風雨に翻弄され、船の沈没を危ぶんだ船長の指示で、碇は下ろしたものの、ある船は衝突した際、船体が割れ沈没したり、ある船は高波に押されてバランスを崩し沈没したりして、死者行方不明者を合わせると1430人も犠牲になった未曽有の被害となった。中には、乗客全員死亡した船もあり、当時の新聞を読むと、水没した連絡船を見付けたり、水膨れした犠牲者を見付けたりして、疲労困憊(こんぱい)になっている潜水夫の写真や、慟哭する遺族の痛々しい姿が瞼に焼き付けられる。当時の気象図もあって、何だか怖い話になるが、最後まで聞くこと見ること。
怖い話は、そこまでにして。ほら、多少晴れ間が見えてきたよ。
無線通信室は意外に面白かった。今はデジタル方式で通信しているが、昔はモールス信号という通信システムを使っていた。モールス信号は長(ツー)短(ツ)2種類の線を使って、ボタンを使って交信する信号のことだが、もっと判り易く言えば、電車で運転士や車掌が駅の発車時に、ボタンを押して行う手動式の信号だ。その通信室の机には、判り易く通信できるように、長短の組み合わせのリズムに合わせた語呂合わせが書かれていた。この語呂合わせを見ると、実に面白い組み合わせがあって、間違いが無いようにするのは勿論だが、ちょっとした遊び心もあっていいね。
操舵室で写真を撮っていたら、また雪が降ってきた。もう、驚かなくなってきた。仮に東京で函館同様の雪が降っても、ドライに見過ごすことも出来そうだ。
さて、デッキに出ようとドアを見たら、積雪時は閉鎖だってさ。さっきの函館朝市とい、冬の連休に来るのは間違っていたのかな? いや、廃止されるJR江差線(木古内〜江差)や知内(しりうち)駅を撮る最後のチャンスと言える連休だ。心身共々良好な時期を見計らって、もう一度来るとしよう。
(レプリカながら)普通座席とされている場所に来た。と言っても、椅子ではなくゴロ寝が出来るようになっているカーペットが敷かれている場所だ。4畳半程の広さに区切られていて、物が仕舞える棚が区切りの役をしている。運航時はそんなに変な個人主義が蔓延って(はびこって)いなかったので、此処で様々な人間模様が描かれたに違いない。愛人と共に都会から逃げ出して、新天地でスタートを切ろうとする男女。親元から巣立ち、都会での生活を思い描き始めている若者。そして、全てから逃げ出し、自分だけの自由を求めている人。『寅次郎相合い傘』になるな。
その一角に興味深い物を見付けた。「613駅のホームドラマ」と書かれている、JR北海道のポスターだ。そのポスターにはJR北海道発足当時、柱に掲げられている駅名標が撮されていて、中には廃線になった路線や廃駅になったのもあって、鉄道ファンには興味深い一品だ。JR松前線、JR幌内線、JR歌志内線、JR深名(しんめい)線、JR名寄本線等、過去になった駅名標を見て、その雄姿を脳裏で自由自在に想像した。今度はJR江差線(木古内〜江差)が加わるのだ。駅名標は独特のゴシック体で書かれているが、中には(JR標津線の)「けねべつ(計根別)」や「しゅんべつ(春別)」等、毛筆で書かれているのもあって、一字一字に古めかしさがある。中には、普通の駅名標が載っている駅もあった。
上は臙脂色がグリーン席、後ろの青色が普通席。
中は無線通信室、操舵室。
下は普通座席。その奥に、JR北海道発足時のポスターがある。 |
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(2014年1月12日) 函館で受けた温かきおもてなし |
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平成26年の青函連絡船から下船した私は、函館朝市と隣接しているどんぶり横丁市場に向かった。此処では、津軽海峡の豊かな海の幸がいい値段で頂ける。蟹、イクラ、雲丹(うに)……、魚好きには堪らない場所だ。特に、蟹は頂く価値はありそうだ。どうしてかって。冷凍にすると水っぽくなり味が落ちるから、現地で頂いた方がいいと2001年の山陰旅行で勉強したからだよ。何軒か店を覗いたが、好きな蟹や雲丹が盛られた丼が青函価格で出されているが、余り頂けないイクラが載っているのが嫌だった。じゃ、どうする?
と、或る店で立ち止まった。ジンギスカン丼だって。タレに付けたラム肉やマトンを野菜と一緒に焼く北海道の郷土料理だ。そうだね。昨夜は函館名物塩ラーメンを頂いたから、昼餉も北海道名物と洒落込むか。しかも、ワンコイン(500円)ときたもんだ。此処にするか。
品書きを見ると、味噌汁と小鉢が付いている定食の類の中にジンギスカン丼があるが、もう一品欲しいな。これから、雪と格闘しながら函館観光するから、燃費が良い物がいいな。
ジンギスカン丼(単品)と焼ホタテを注文した。此処で、何と店員から嬉しい一言が出た。
「それじゃ、定食にしましょう。」と、味噌汁と小鉢を付けた定食にしてくれたのだ。これはいいね。雪の中での函館観光を応援してくれているような励みを受けた気がする。
その間に、函館観光を考えた。エースの函館山は黄昏時に行くとして、他にあるかな。外を見たら雪が積もっていて、道路はグシャグシャだから、なるべく歩かない所が良い。ホテルのプランで貰った市電1日乗車券に付いている市街地図を広げた。なるべく歩かない場所と来たら……。五稜郭や湯ノ川は消えそうだな。
熱いお茶を啜りながら、行程を立てること約10分、ジンギスカン丼がきた。ラム肉かマトンかよく判らないが、焼肉と一緒に焼いた玉葱が丼飯の上に盛られていて、炒めたほうれん草がアクセントを決めている。噛み応えがある肉が良い食欲を掻き立ててくれる。ベースは醤油だな。小鉢は鮭を使った煮凝りが出てきた。程良い鮭の味がイケた。焼ホタテは貝殻毎出てきた。雰囲気の良さを目で娯しんだ後に一口抓んだ。軟らかかったよ。普段は噛み応えある茹でたホタテしか頂いていないから、この軟らかさは感動物だ。道南の雪女は、料理が得意なんだね。
食後にゆっくり緑茶を啜った。思い掛けない親切を受けて、美味い昼餉を頂いたのだ。函館観光も成功させなくては。どんな雪も、私の旅路を堰き止められないのだ。リハビリの快復以上に気力が沸き立った。
上は函館朝市に隣接しているどんぶり横丁市場。
下は北海道名物ジンギスカンをどんぶりに盛った昼餉、ジンギスカン丼。 |
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函館市電の函館駅前に向かった。道路の真ん中を走る鉄道の類は東京界隈には殆ど無いので、市電が走る様は異様に感じた。すると、駅が目に入った所で、左側から市電が入ってきた。急がなければ……、と思うが、道路が溶けた雪でグチャグチャでは迂闊に走ることは出来ない。暫く待つのかと思ったら、運が良いことに市電乗り場に渡れた。
函館市電は1両編成で、床は何と木の板というレトロ色豊か。そんな所に電光掲示の運賃表は何とも滑稽に見えた。函館観光の一翼を担って潤っているのか?
空席に身を投げたが、折り畳み傘は仕舞わずに、邪魔にならない所へ置いた。乗客に対しては迷惑だが、それ以上に木の床はビショ濡れだった。ビショ濡れに耐えて、今日に至るまで現役なのだ。
昼餉時に考えた函館観光。まず最初は、赤レンガ倉庫へ向かうことにした。駅で貰った函館観光のパンフレットを広げたら、最寄り駅は十字街前となっている。
降りる時は、バスのようにボタンで知らせる。電車とバスが一緒になっているようで、何か面白かった。
十字街前に降りた。函館駅前よりも雪が強くなってきた。折り畳み傘を広げて、向こう側に渡った。もう、雪は慣れてしまった。今冬、東京で雪が降っても、驚かなくなるだろう。
此処で意外な人に出会った。
向こう側に、銅像が建っていた。見ると、何と坂本龍馬だったのだ。函館に龍馬の像があるのは、首を傾げる方もいらっしゃるが、歴史を繙く(ひもとく)と何処となく納得するだろう。明治維新の礎を築いた一人だったので、当時松前・江差界隈しか拓かれていなかった北海道に思いを馳せるのは当然だったと思う。もし、京都で暗殺されていなかったら、明治時代には夢を抱いて渡ってきて、ロシア等の北国と貿易を営みたかったのかも知れない。右手の人差し指で天を指しているのだから。北海道の慣れない雪に辟易している苦労を隠しつつ。
龍馬さんをいたわる一首。
龍馬さん函館の雪に耐え続け想ふは何処土佐か函館か
上は函館市電。
下は函館で出会った坂本龍馬像。 |
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何度も踏まれて薄くなっている雪を踏みながら、赤レンガ倉庫に向かった。
赤レンガ倉庫はその名の通り、函館港で卸していた品々を保管していたの倉庫だが、商業施設に改装して函館観光に融け込んでいる。中には色々な店が並んでいて、外気の雪を忘れさせてくれる。此処で、折り畳み傘を畳んだ。函館土産でも買うとするか。折角、北海道に来たのだから限定品がいい。
そう思い、北海道限定品が並ぶ店で、赤肉メロンを使ったグミや乳製品を土産に充てた。なかなか東京では味わえない一品だ。味わって頂こう。
赤レンガ倉庫内をブラブラし、港に出た。此処で畳んだ折り畳み傘の出番が来た。昨日は津軽今別駅撮影時にしか使わなかったのだが、今日は出番がありそうだな。港にはイカを寄せる照明が付けられているイカ釣り船が停泊していたので、1枚撮った。しっかり撮る為に、雪に踏み込んだが、いきなりズボッと足首が埋まってしまった。道南の雪女の悪戯だな。
さて、何処へ行くか。まだ、13時30分。函館山は夜景を見る為に取っておく。雪は思ったよりも酷くないし、暫く街中を歩くか。観光案内の地図を広げて、八幡坂を上った。此処では段差の低い階段が設置されていて、そこだけが雪が薄くなっている。その部分を歩いて、函館観光だ。先程の足首まで雪が浸かったことはないが、滑り易くなっている。歩くことさえ余計気を遣う。
上は赤レンガ倉庫。
下は停泊中のイカ釣り船。 |
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此処函館は、意外と基督(キリスト)教の教会が多いのだ。その中の一つを紹介したい。
路面がグシャグシャになっている坂道と格闘して、点在している教会を撮していたら、手が悴んできた。おまけに靴底も雪に埋まって滑り易くなっていて、手足が冷え切っていた。何処か休める場所が無いかと、立ち寄ったのがカトリック元町教会だ。偶々、門戸が開いていたので、入った。別にカトリック信者ではないが、お許し下され。雨宿りならぬ雪宿りに立ち寄ったまでのことだ。尚、教会内での撮影はご遠慮なので、想像を膨らましてくれ給え。
入口で靴を叩き、溝に埋まっていた雪を払って、中に入った。一歩踏み入れた瞬間から、そこは俗世の煩雑さが無視され、一切の騒音を立てることが許されない神聖なる場所だった。カチャッとドアが開く音が自棄に大きく聞こえた。
パイプオルガンの深い音色と伸びのあるテノールの讃美歌が流れている教会だった。そして、艶のある木製の長椅子が横向きに奥まで置かれていて、中央には祭壇がある。此処で神父が聖書を読んだり、神の祝福を執り行ったりする場所なのだ。
祭壇の前で立ち止まって、周囲を見渡した。祭壇に施されている十字架の多さや、日曜学校の折に読まれる旧約聖書の箇所が示されたボード、そして、普段は聞き慣れないパイプオルガンの深い音色が、異教徒である私を別次元の世界へ誘ってくれる。そう簡単には出して貰えない荘厳さが私の視聴覚を刺激する。その理由は、訪れた人達にも平等に与えられる神の祝福があるから。雪宿りに来たという理由で入ってきたのにも拘わらずだ。
両側の壁にはキリストの一生が、木造で紹介されている。キリストの一生は、異教徒の私でも概ね把握している。エルサレムの馬小屋で生まれて、様々な奇跡を起こし、周囲を驚かせた。一番面白いのは、悪魔との問答。「お前が神の子なら、この石をパンに変えられる筈だ。」と悪魔は言い放ったが、此処でキリストは、痛烈な一言で切り返している。「人はパンのみで生きるのではない。」よく判る。でも、金子に目が眩んだユダの裏切りを経て、周囲から中傷を受けながら刑場へ赴き、十字架に掛けられたことは判るが、その後は出てなかったのが嫌だった。何だか、裏切られて死んでいったしか思えない。処刑3日後に蘇って、暫く弟子達と共に過ごし、昇天していったことも紹介してくれよ。
一番後ろの長椅子に座って、暫し休憩した。慣れない雪道を歩き続けて、疲労が何時も以上に募った。重苦しい吐息が漏れた。嫌な胸の痞えは感じられなかった。旅に集中している所為なのか、もしかしたら、ご本尊様のご加護が、神のお恵みとして授けられているのか。
パイプオルガンとテノールが奏でる讃美歌を聴きながら、私は長椅子に身を沈め、ゆっくり休息を取っている。飲食はご遠慮なので、ペンと紙を取り出して、何かを書き始めた。異教徒でも全く追い出す雰囲気が無い、このカトリック元町教会に感謝した和歌だった。
その一首。
雪宿り讃美歌響きし教会の異教徒なれど沁みる愛かな
充分に疲れが取れた所で教会を出て、市電末広町に向かった。
その末広町で、心がフッと和む物を見付けた。誰が作ったのか、小さな雪だるまだった。雪に馴染みがない私にとっては、何とも温かみがある雪だるまに見えた。雪の中で市電を待つ人達の気を和ませようと、作ったのだろうね。
心温まりそうな一首。
雪まみれ駅の片隅雪だるま小さな物でも大きな安らぎ
上は雪宿りしたカトリック元町教会。
下は函館市電末広町駅にあった小さな雪だるま。 |
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市電で函館駅前に戻った。時刻は14時30分近く。
ホテルに戻り、デジタルカメラのバッテリー補充をした。バッテリー2個持って正解だ。スペアのバッテリーを差し込んで、外へ出た。
空腹になったので、駅で何かを抓もうと入った。今朝見掛けた立ち食いそばで腹拵えと、ホームに入ったが、何と14時30分閉店とあった。ついさっきだ。でも、14時30分で閉店時間とは。日本の時刻は統一されているが、人々の習慣に根付いている時間は統一されていない。れっきとした函館時間だな、コリャ。
と、頂いたのは、全くピントズレした札幌が本場の味噌ラーメン。まだ踏んでいない札幌を思いつつ啜った。こうなったら、醤油ラーメンの本場旭川に足を伸ばしてもいいな。最近は釧路ラーメンも有名になっていると聞いているから。嗚呼、ラーメンばかり浮かんでくる。と、夕餉も塩ラーメンにするか。初めての北海道でラーメン尽くしだ。
もう一回市電に乗って、函館山の最寄り駅十字街へ向かった。まだ、雪が降っていたので、折り畳み傘を広げて向かった。もう、1日半で雪に慣れたし、折り畳み傘に対する不便さを看過できるようになった。
函館山ロープウェーへは、坂を登った所にあるが、坂道だから下手に歩くと、転んでしまうので、余計神経を使う。見た所、車道に雪が無くて歩き易そうに見えるが、雪に濡れているので滑り易い。だとしたら、多くの足跡で作った雪の中の歩道か、足下がうんと冷える覚悟を決めて、雪を踏んでいくか、雪に慣れていない旅人は、どの道が最適か思案しながら、ロープウェー乗り場へ向かった。その途中で、頻りに啼く鴉に出会った。人を襲う気配は無いが、雪が積もっている木に止まって、寒さを怺える為に頻りにカーカー啼いていた。
ロープウェー乗り場へ到着し、往復乗車券を買って中に入ると、乗り場の入口が閉められた。時計を見ると、発車時間5分前を指していて、この時間に達すると、閉めるのだそうだ。しかしまぁ、目の前で閉められるとは、自分が除け者にされている気分で、妙に罰が悪いな、コリャ。
次の発車時間まで時間があるので、脇の売店で買い物。メロンやハスカップを使ったデザートや函館山からの夜景の葉書まで結構あるな。と、メロンゼリーに目が行った。北海道はメロンの名産地としても知られているからな。現地でしか売られていない物があったり、メロンの果肉の含有量が多いのかも。見たら、2個しか無かった。まぁ、函館山には一杯あるだろう。
次の便の改札を受けて、ロープウェーに乗った。此処では進行方向に対して後ろに立った。こんな寒い時期だ。そんなに客は居ないのかと思ったが、ロープウェー一杯に乗客が居たのだ。「北海道は冬が敢えてお勧め」と人から聞いたことがあるが、聞こえてくる中国語に少々唖然とした。日本観光してくる中国人は年々増加しているが、函館にも現れると言うことは、寒いのを我慢していく価値がある都市だと言うことになる。日本くんだりで東京観光に現を抜かすだけが、日本観光とは言えない。 |
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多くの観光客を乗せたロープウェーが、函館山に向けて出発した。
函館山からの夜景か……、テレビで何度も見たけど、いよいよこの目で見られるという日が来たのだ。その感動を噛み締めながら、出発してすぐに、見えてくる函館の眺望にシャッターを押し続けた。雪が降っている最中なので、眺望はクッキリはしていないが。
最初は津軽海峡が撮れた。鈍い灰色の海と白い雪が境界線を作っていたので難無く判った。暫くすると、函館港が見えてきた。昼訪れた青函連絡船摩周丸の灯りは見えるかな? 段々、多くの街灯やテレビで見た地形が出てきた。これならば、函館山で夜景が見えそうだが、津軽海峡側は雪に掻き消されて、見難くなってきている。目を凝らせば幾分か見えるが、夜景を撮る際、津軽海峡が見えなかったら中途半端になる。初めての北海道だ。余所者を歓迎してくれるといいけど。一抹の不安を抱えて、ロープウェーは登る。
函館山に到着。多くの人が順序よく吐き出され、売店やカフェ等が併設された展望台へ吸い込まれた。誘導こそ無いが、函館くんだりでゾロゾロ歩かされるのは真っ平なので、隙間を見付けて、縫うように先に進んだ。
観光客は函館の街並みが望める窓硝子に釘付けで、立て続けに写真を撮っていた。私がロープウェーから降りたのはかなり後なので、美味しい所は取られていた。日本語や中国語が飛び交う中で、人の隙間からその眺望を確かめたが、成程、ロープウェーのロープが邪魔していないのと、高度が違うから、遠くまで眺められるのか。肝心の眺望は、雪雲に遮られていないようだな。
すると、人一人分空いたので、すかさずその場を取って、眺望を撮った。函館港や街並みは撮れたが、肝心の津軽海峡は雪雲に被われていて、前よりも見難くなっていた。時間を見ると、憧れの夜景までもう少しだ。
気が楽になったので、近くの売店に向かった。菓子類やキーホルダー等には目もくれず、絵はがきを探していたら、何と面白い一品を見付けた。函館の夜景が写っているが、光の部分に蛍光塗料が塗ってあり、数分間明るい所に出しておいて、暗所に持って行くとその部分が光り、あたかも函館の夜景みたいに感じるという一品。それと、乗り場で見付けたメロンゼリーだ。此処には一杯あるかなと店内をグルグル回ってみた所、無かった。じゃ、あの2個を買うしかないか。2個だと売り切れる可能性が高いから、買っておけばよかったな。嫌な不安ができたわ。
外を見たら、早い冬の夕闇が空を黒くしていた。さて、夜景でも見るか。待ちに待っていた函館の夜景。はやる気持ちを抑えて、展望台へ向かった。
そして、その夜景は私を出迎えた。
嗚呼、これが日本三大夜景の一つに数えられている函館の夜景か……。雪の影響でクッキリとは見えないが、ずっと待ち焦がれていた函館の夜景を目にして、次々にシャッターを切った。『寅次郎相合い傘』で見た大まかな地形は同じだ。あの時は、夜景云々は観光資源になると思っていなかったので、街灯が少なく静かな函館の夜に見えたが、平成の世に見ると、賑やかな道南の都会函館を印象付ける物になっている。ただ、「街灯が宝石のようになっている」や「夜の函館の秘宝」と言うには、ちょっと展望台が賑やかで観光地化し過ぎている気がする。それでも、東京や大阪の不夜城の如くゴチャゴチャした夜景より、函館の夜景は魅力的なのだ。一体、その魅力は何処にあるのか? 余計な飾りが無い所か、街灯一つ一つがキチンとした存在感がある所か、夜の空間と街灯の比率が一番良く整っている所か。
そんな疑問を抱えつつ、私は函館の夜景を眺めていた。
あのオレンジの街灯は市電が走っている大道だろう。その大道から直線に伸びている淡い黄色の街灯は坂道だろう。そして、そこから離れた星屑の如く鏤め(ちりばめ)られている白い街灯は普通の街灯で、その奥には各々の日常生活の営みが繰り広げられているのだろう。どんな生活を送っているのだろう。遠い思いがふと過ぎる。そして、余り目立たない街灯を目で追っていくと、気にしていた津軽海峡の位置が判った。函館港と比べると、目立った街灯は少なく、観光地化されていない函館の街を思わせてくれる。こんな所の街灯でも、キチンと函館の夜景の一員になっているのだ。
その中に一際目立つ赤や青の街灯。何処から灯っているのだろう。そして、今日行った函館朝市、青函連絡船摩周丸、赤レンガ倉庫、元町カトリック教会は何処にあるのだろう……。ただ単に「街灯が綺麗」と言うことではなく、函館の街の光景を思い浮かべながら夜景を眺めると一味違う気がする。向こうはどんな夜なのかな。
先述の通り、雪の影響でクッキリとは見えなかったが、函館の夜景を10枚程写真に収めた。この位撮れば、どれか1〜2枚は当たっているだろう。
上はロープウェーからみた函館市街。
下は展望台からみた函館市街。 |
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函館山からの夜景に感動した後、ロープウェーで麓に戻った。乗り場には、私の時と同じ長蛇の列があった。耳を傾けると、中国語が飛び交っていた。マナー良く夜景を眺めてくれ給え。
売店に入り、例のメロンゼリーを探したら、あったよ。しかも、誰も買っていなかったのだ。手刀切ってこのメロンゼリーを頂こう。幸運に恵まれたな。責めて、仕事中にもこういう幸運に巡り会いたいよ。
雪降る夜の函館を歩いた。雪宿りで立ち寄ったカトリック元町教会も、ライトアップしていた。入口付近はは青紫になっていて、教会の荘厳さや神聖さが加わって、この世の物とは思えない神秘なる世界を創り上げていた。
八幡坂に立つと、これも先程の二十間坂同様ライトアップしているのだが、雪が降り始めていた。枝に絡ませたライトアップが実り豊かな木の実を連想させ、遠くになるに連れ、灯りが集まって煌めきを備えた温かい一時があった。寒さを和らげてくれるので、雰囲気が一層引き立った。
雪に濡れた八幡坂と格闘しながら、末広町駅に向かったが、何と向かっている最中に市電は発ってしまった。あの市電は49分発で、次の市電まで約15分ある。15分か……。晴天ならば此処で待っても支障は無いが、雪が降っているとなると、凍えとの闘いになる。函館山からの眺望を堪能し、二十間坂や八幡坂のライトアップに酔いしれた後の酔い醒めか……。何処か雪宿り出来る場所は無いかなと、開いていそうな場所に入った。
折り畳み傘に積もった雪を払ったら、聞き慣れた男声が耳に入ってきた。中から、スーツを着た人がやってきて、唐突なことを聞いてきた。
「ショップをご利用ですか?」ショップ? 何かの店かと中を覗いたら、何と知内で見た北島三郎氏の記念館の売店だったのだ。特に立ち寄りたいという訳では無いが、知内(しりうち)で見たならば、これも何かのご縁だ。立ち寄るとするか。
「えぇ、一応。」
「6時までですので。」6時までか……。充分だ。と、売店に入った。
それにしても凄いな。志村けん氏の「志村魂」の売店も彼が演じるキャラクターの個性がしっかりしている商品が並んでいて、見ているだけでも圧倒されるが、一人の歌手の記念館や商品を専門に扱っている(常設されている)場所はそんなに無い。思わず、合掌してその偉功に敬意を評した。何を買えばいいのか。首を傾げていたら、クリアファイルがあったので買った。300円也。
6時の閉館と同時に外に出た。後3〜4分で市電が来る。雪宿りの為に入ったのだが、真逆、こんな出会いが待っていたとは。知内に立ち寄ったお礼と言ったら良いだろうね。機会があったら、生家を訪れるとしよう。
雪宿りのつもりでしたが、真逆こんな形で出会うとは、思ってもみませんでした。
上はライトアップされている二十間坂。
下は雪が幻想的な八幡坂。 |
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最終日。予定としては、青森駅に程近い青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸を訪れるのだが、時間や天候が許す限り、青森市街を歩いてみたい。新幹線の時間を考慮して、約3時間しか取れないが、内容の濃い行程にしたい。
カーテンを開けると、驚く眺望に出会った。
この日は朝から晴れていたので、遠くの眺望が良く見えるのだ。住宅やビルが犇めいて(ひしめいて)いる函館市街の向こう側には、雪を被った嶺が北から西へ連なっていて、函館港の海面からは靄(もや)のような煙が立ち籠めていた。気温と海水温の差の大きさで、水蒸気が沸き立つ気嵐(けあらし)という現象だ。海面を綺麗に覆う姿は、此処から別の雲が生まれていくかのような幻想的な景色だった。空には雲が余り無いのに、海面には雲(らしい靄)がある。天地がひっくり返ったかのようで珍しい朝の眺望だった。
珍しかったので、一首詠んだ。
気嵐と遠くの嶺々頂きて別れの函館冬の朝かな
出発時間まで相当あるので、キチンとした朝餉を頂こうと、ホテルの会場へ向かったが、値段を見るなり引っ込んだ。10000円札はあることはあるが、リハビリを兼ねた旅なので、無駄にはしたくない。と、向かったのは函館駅の立ち食いそば屋だ。昨日、雪と格闘しながらの函館観光の中休みで戻って、昼餉に立ち寄ろうとしたが、14時30分閉店だったので訪れた。此処でかけそばを頂いた。250円也。此処も青函価格の上、口頭で注文する一昔のシステムで、付き物の刻み葱も自由に盛ることが出来る。丁度良い加減に刻み葱を持って、七味を多めに振り掛けて啜った。
駅を出て、北海道土産を買い込んで、部屋で一服した後、10時17分の特急で青森へ向かった。
と、まだ出発まで20分程あるので、また朝餉を摂った立ち食いそば屋に入って、はこだて海鮮かき揚げそばを頂いた。500円也。かき揚げの中に海老、烏賊、ホタテを使った贅沢品で、1日限定20色というプレミア(?)商品だ。衣が多少ふやけているが、海産物の感触を噛み締めることができた。
往路で逃した、電灯が点ったままの竜飛海底駅を撮影したり、隅田川貨物駅から発った貨物列車と擦れ違ったりして青森に到着した。所要時間は約2時間。青函連絡船の約4時間と較べると半分だが、津軽海峡を渡った実感が無いのが難。海峡を隔てて位置している青函だ。本当に津軽海峡を越えたのか?
写真は気嵐が立っている函館港。 |
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(2014年1月13日) 八甲田丸での遥かなる再会 |
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12時7分、青森到着。駅構内からチラッと外を覗くと、雪は降っていないが、道路はグチャグチャだ。これじゃ、市街を回るにも余計時間が要りそうだな。と、駅ビルでコインロッカーにカートを預けて、八甲田丸へ向かった。
青森港に繋留保存している八甲田丸。これも青函連絡船を利用した方は懐かしい響きだ。青森駅と乗り場が直接繋がっていて、名高い演歌『津軽海峡冬景色』の一節に、雪の中の青森駅から直接青函連絡船に乗る描写がある。
そして、平成26年。その八甲田丸に近付く。船尾には連絡船に直接乗り入れられる橋がある。その橋にはキチンと線路が敷かれている。本州を駆けた貨物列車は、青森で暫し船旅に進路を取る。その長旅の浪漫の断片が詰まっている船尾に立ったが、線路は雪に埋まっていて、ただ長い青森駅のホームが雪を被っていながらも、青函連絡船の在りし日の栄光を伝えていただけ。
中に入ると、昭和30年代の青森市の風景が再現されていた。最初はリンゴ売りに迎えられた。順路に従うと、夫婦で営んでいる魚屋があったり、野菜や卵を商っている行商があったり、当時使われた日用品に駅の備品があったりして、平成生まれの人には強烈なカルチャーショックが味わえる。映像でしか紹介できない物が、実際に目の前にあるのだから。色々、想像が膨らむだろう。ゲームでもスマートフォンでも創れない物があるのだから。
木箱のラジオや練炭、ボロ切れを売る店もある。見たことのある光景が広がっていた。
あれ、何処だろう……。このリンゴ売りとい、夫婦で営んでいる魚屋とい、野菜や卵を商っている行商とい。思い出せないな。展示物を撮り続けていたら判るだろうと思っていたが、思い出させる証拠は無かった。でも、何処かで見た筈だ……。
入口付近の案内を見たら、「東京・台場船の科学館」で展示したとあって、過去のフィルムにそれらしい物があった。そうだ。今から18年前だ(1996年)。まだ開発が進んでいない人通りが寂しい台場に、繋留保存されていた青函連絡船羊蹄丸にあった品々なのだ。2011年9月に船の科学館が閉館した後、四国新居浜で展示されていたが、破棄することを聞いた青森の市民団体が引き取って、此処八甲田丸で展示しているのだ。(羊蹄丸で見た)当時の青森市街を再現したというセットの写真は無い(撮っていたのかも知れないが、感度不足で見るに堪えない出来で、破棄していたのかも)。それらのフィルムも色褪せていて、どんなセット配置だったのかはもう判らない。出来ることなら、売店も市場も駅もキチンとした配置で見せて欲しかった。「当時の雰囲気を掴め」と、これで言われても、「陳列」に近い味気ない配置だ。最終便を飾った羊蹄丸が解体された今日、青函連絡船の栄光と功績が見られるのは、青函のみだ。故郷に帰れたのだ。その嬉しさを「配置」という物に変えて貰いたいよ。
写真は青函連絡船八甲田丸。 |
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(2014年1月13日) 「八甲田丸」というタイムカプセル |
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八甲田丸には、函館の摩周丸には無かった船の設備等が見られる。
まずは切符。摩周丸とは違った切符がある。2002年まで青森〜函館で運行していた快速「海峡」のサボや、快速「海峡」の指定席券があった。しかも、指定席券の1枚には、知内(しりうち)の文字があった。そう、特急列車2往復しか停車しないあの駅だ。時刻を見ると、10時台だった。利用客がいた証拠だ。今は特急列車しか運行していないJR津軽海峡線だが、快速が走っていた証拠があるのが面白かった。
その他に面白かった切符が2枚ある。一枚は、JR移管後の青函連絡船の切符。日付は昭和63年2月となっていて、同年3月13日に廃止されたので、廃止間近の貴重な切符。最後の一枚は、「函館→函館」になっている、切符としては奇妙な一枚。日付欄や経由欄を見ると、その奇妙さに納得できる。昭和63年3月13日有効の切符。青函連絡船廃止と青函トンネル開通同時の日だ。「青函・海峡線」と出ていると。連絡船とJR津軽海峡線両方を使うという新旧共々の交通手段が折り混ざった貴重な一枚なのだ。オークションに出たら、鉄道ファンががっと噛み付いてくるだろう。
鉄道に余り興味が無い方は、寝室は如何だろう。夜遅く出航する便に使われた個室型寝室で、2段ベッド形式になっている(私が見たのは4人1組の部屋だった)。JNR(旧国鉄のこと)ロゴが入った浴衣もある。毛布の畳み方に特徴があって、様々な畳み方が展示されている。崩すのは勿体ないな。テーブルやソファもあり、麦酒片手に寛げそうだ。片道約4時間だ。売店で買った麦酒を飲みながら、酒肴(しゅこう)を抓んでいたのだろう。ただ、窓が無いから爽快感には欠ける。それでなくとも、窓から見えるのは雪が降っている寒そうな青森港が見えるだけ。
ブリッジや無線通信室を見た後、車両を乗り入れる場所に下りた。此処は、青森駅から直接連絡線へ乗り入れる線路がある。先程、船尾で見た橋がそれだ。雪に埋まっていて線路は見えなかったが、あれは此処に繋がっているのだ。長い本州の旅を経た貨物列車は橋を渡って、この連絡線に乗り入れて、函館へ向かうのだ。
此処には、全国で特急車両として活躍していた気動車キハ82系がある。この車体は、見たことがある。私が初めて(母方の実家)紀和に帰省した時、名古屋で特急「南紀」に乗車したが、この車両だったのだ。座席がリクライニングできずに、ずっと同じ姿勢で景色を見たり寝たりしていたことや、下にマットを敷いて少しでも寛げるようにしていたことも憶えている。また、此処には郵便貨車がある。行き先と同じ郵便物を仕分けしたり、消印を押したりしていた列車で、大分前に廃止になったことは聞いていたが、ちゃんと残っていたのだ。タイムカプセルみたいだ。
上は連絡船内の客室。
中は連絡船の乗り入れ時の線路跡、特急気動車キハ82系。
下は郵便貨車。 |
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時計を見たら、14時を指していた。昼餉の時間を考えると、昼餉を摂ってこのままお暇になりそうだ。約2時間掛けての青森観光は八甲田丸だけだが、極めて有意義な時間が過ごせた。今度は時期を改めて青函を旅しよう。2泊3日の旅では、青函の魅力は知り尽くせない。
昼餉は駅に隣接している和食処で頂いた。しかも、ICカードが使える店だ。此処で、青森名物ホタテ丼を頂いた。プリッとしているホタテを玉葱と一緒に卵で閉じた丼だ。いやぁ、何時も頂くホタテは固めだが、このホタテは初めてだな。やはり、現地で頂かなければ、本物は味わえないことなのか。
ホタテ丼を干して、精神安定剤を服用した。ホゥと溜息を漏らした。
この旅も後、新青森へ向かい、15時42分の新幹線で上野に帰るだけだ。でも、八王子に着くまでが旅だから、気は抜けない。「家に到着するまでが、修学旅行だ」と高校時代の修学旅行の冊子にあったが、その通りだ。
青森駅構内をぶらつくと、意外なことに気付いた。
青函連絡船の遺構が見られたのだ。それは何かって。不自然に長いホームと海まで続いている線路だ。こんな長いホームがあるのに、列車が到着する部分は僅かだ。首を傾げていたが、八甲田丸でその謎が解けた。この長いホームは、青函連絡船乗り場に連絡する通路に繋がっていたのだ。そして、線路も連絡船に繋がっていたのだ。
屋根がありながら、雪が積もっている箇所を掻き分けて、ホームの先端に向かった。誰も歩いた跡が無く、駅名標も時刻表も掲示されていない。でも、此処は青森駅だ。昔は、夜行列車を降りた乗客が、此処を歩いて青函連絡船に向かっていたのだ。何時の間にか、私は平成26年の青函連絡船利用客になっている。連絡船は来ないのに。
そして、ロープが張られている場所まで来た。通路跡は全く判らない。海がもう目の前にあるだけ。ホームは此処からすぐ終わるが、線路はまだ続いていた。線路が雪で覆われている為、架線でその後を追っていくと、線路は右に逸れていき、岸壁の手前で停まっていた。その線路上に、置き忘れたかのように黒い車掌車が、ポツンとあった。八甲田丸でもチラッと見たが、デジタルカメラでよく見ると、「盛」の文字があったので、盛岡機関区所属の車掌車なのか。此処にも連絡船が停泊していたことを証明する重要証拠だ。本当に岸壁近くまで線路があるのだから驚く。当時の人は、これを眺めて何を思ったのだろう。これから赴く函館の殷賑か、日本鉄道史上最大の計画とも言える青函トンネルの完成か。雪に覆われている上、時間がもう無いので、この問題は次回に持ち越しとなる。今度は何時再訪できるかな……。
写真は岸壁まで延びている線路と先端付近。 |
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15時26分の奥羽本線で、新青森へ向かった。往路と同じ通路と改札で、新幹線ホームに入った。ほんの一昨日まで、初めての青函に赴く旅人が此処にいたのだ。鬱という嫌な荷物を抱えながら、此処まで来た。今は、その荷が少し軽くなってきた。此処の時間は僅か10分。往路で青森土産を買い込んで良かった。
そして、15時42分のはやて40号で、一路上野へ。東京迄でもいいが、上野にすると200円得するのだ。ちょいとした裏技だ。それに、上野には飲食店が多いので、夕餉も楽に摂れる。
新青森駅で買った無糖紅茶を啜った後、ゆっくり仮眠を取った。
2泊3日、泊まり掛けの旅としては普通の長さだが、収穫できた物はそれ以上だ。デジタルカメラで撮った写真の枚数は、(選んだ)現像だけでも250枚以上になる。しかし、デジタルカメラで撮った写真で、行程を確かめなくても、私の脳裏には2泊3日の青函旅行が色濃く残っている。
通勤を思い出してしまい、胸の痞えを憶えながら乗った始発電車。初めて乗車したE5系で新青森駅まで向かった途中で見た、次第に雪国の色が濃くなってきた景色。新青森駅で見た北海道新幹線の線路。雪降る津軽二股駅で見た津軽今別駅と北海道新幹線建設の槌音。初めて青函トンネルを通過した感激。木古内駅で見た北海道新幹線の期待。去りゆくJR江差線を名残惜しむ鉄道ファン達。静かに粉雪が降る夜の木古内駅。本場函館の塩ラーメンを頂き、ふと『寅次郎相合い傘』を連想したこと。廃止になる知内(しりうち)駅を撮影した時、大物演歌歌手の故郷を知った驚き。函館人の温かさに触れた函館朝市での昼餉。雪宿りに入ったカトリック教会の荘厳さ。初めて見た函館市街の夜景への感動。落ち着いたホテルのバーで、真の大人の世界を味わった一時。函館港と青森港の青函連絡船に詰まっていた、私の知らない青函連絡船の世界……。
目を覚ますと、小山を通過して大宮へ向かっていた時だった。すっかり夜の帳が降りて、街の灯りが絶え間なく続いていた。函館の夜景の方がいいね。余計な灯りが無いから、一つ一つの灯りが綺麗に見えるからだ。新宿のような不夜城の灯りは、毒々しく見えそうだ。
19時2分、上野到着。此処から、万世橋の行き付けのレストランに向かい、夕餉を摂ることにした。新幹線で仮眠を取った所為なのか、疲れは殆ど感じられない。こうなってくると、この旅の続きを創りたくてならないのだ。八王子の自宅に帰るのは、途中の行程にして、また泊まり掛けの旅へ出掛ける。場所が違っていても、旅の定義は変わらない。私の目で確かめて、私の感覚で感想を伝える。それがある限り、私は頃合いを見て、旅に出るのだ。
万世橋の行き付けのレストランで、夕餉を摂って、八王子へ向かった。
そして、21時21分到着。 |
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