2013年4月29〜30日 帰省の寄り道は難波から

(2013年4月29日) 初めての大阪は、なんばウォーク




 めての大阪は、なんばウォークだ。松阪から近鉄特急に約2時間揺られて、大阪にやってきたが、何か東京でもありそうな地下街だ。まぁ、「なんば」を見れば大阪だと判るのだが。大阪と言えば、大阪城に道頓堀、造幣局に四天王寺、住吉大社に通天閣色々あるが、此処ではそんな実感は湧かない。本当に大阪に来たの? そう感じる。
 初は通天閣。スカイツリーが反響を呼んでいる余波が、通天閣にも及んで、来場者数が多くなっているという事だ。日本橋から地下鉄堺筋線に乗って、1つ目の恵美須町で降りた。
 大阪か……。東京をライバル視、それ以上に敵視している街だ。何かと東京と較べられ、プライドを何度も傷付けられ、それを見返す為に様々な努力をしているそうだが、東京崇拝の勢いは殆ど衰えていないのが現状で、日本人の他力本願振りが垣間見られる。さぞかし、敵愾心を抱いていることだろう。仮に私の素性が判れば、地元の不良から「東京人云々」と因縁付けられても、文句は叩けなさそうだ。でも、私の母親が大阪寄りの熊野で、関西弁も幾らか飛び交っているので、そこを大目に見てくれ給え。
 て、恵美須町に着いて通天閣の案内通りに進むと、新世界という街に着いた。寅さんファンなら、「浪花の恋の寅次郎」で、寅さんが宿を取った場所としても有名である。確か、宿の主は故芦屋雁之助だった。両側には疎らに開いている商店街があった。すると、新世界の空にスラッと聳えているのは通天閣じゃないか。おぉ、これで「大阪に来た」という実感がやっと湧いてきたぞ! とにかく、大阪は初めての東京人です。関西弁も多少は話せる若造ですので、何卒宜しうお願い致します!
 新世界は商店街なのだが、余り人通りは多くない。あれ? 通天閣の来場者数は多くなっているというのに、近くの新世界界隈はその恩恵に与っていないのか? 途中で見付けた新世界市場に入ってみると、目を疑う光景が広がっていた。細い道に沿って店が続いているのだが、開店している店は片手で数えられる程度なのだ。シャッターが閉まっている店には、広告やらポスターやらベタベタと……。スカイツリーお膝元の商店街の閑散と一緒だ。時間は10時近くなのだが、時間帯が悪かったのかな。そんなひっそりとした空間にあるのが、キン肉マンとテリーマンの等身大フィギュアだ。日本漫画界では名作と言われ、根強いファンが一杯いる「キン肉マン」が何故新世界に。ひっそりとしている場所にあるとは、彼の神通力が通じないようにも見え、苦笑が出た。
 よいよ通天閣。その近くには、また素晴らしい物があった。日本将棋界では伝説と謳われているかの坂田三吉氏を讃える碑があるのだ。貧困の為、文字の読み書きが出来ないハンディを乗り越え、最愛の妻と共に将棋一筋に打ち込んだ生涯は、誰もが感動する(因みに彼が初めて書いた字は、将棋に関係する「馬」だったそうだ)。碑は王将の駒だから、氏の偉業の大きさが感じられる。そして、その碑の近くにはNHK連続テレビ小説「ふたりっこ」の舞台に使われた演芸場がある。話に因ると、6月末で閉館するという事だが、好評だったテレビ小説だと聞くので、何かしら碑を造ってみては如何だろう。小江戸川越の「つばさ」同様に。
 さて、通天閣だが、入口には長蛇の列。そして、此処でも「キン肉マン」のキャラクター、ロビンマスクが出迎えている。いやぁ、スカイツリー効果は本当なのだが、中に入れるには20分程掛かるのかな。最後尾に並んで待ち続ける。
 ……このまま待っているのは退屈なので、簡単なクイズでもしよか。この通天閣は、歴史が極めて古い。さて、何年前に建てられたか。ヒントは、東京タワーよりも名古屋テレビ塔よりも先輩だ。入口に辿り着くまで仰山時間はあるで。ジックリ考えてな。
 と、10分も経たずに入口に着いた。中に入るか。さっきの答えは、中でも判るから。

 上はなんばウォーク。
 中は通天閣と新世界市場。
 下は坂田三吉の碑。



(2013年4月29日) 通天閣でオーサカの休日

 レベーターで入場券売り場に向かう途中、かつての市電の車内が出迎え、そして入場券売り場には有名な映画の看板があるが、よく見ると、洒落が効いている作品になっている。一番面白かったのは休日に新世界に行き、串カツを食べて、通天閣へ行くストーリーの「オーサカの休日」だ。ベースは大変有名な映画なので言わないが、これも「お笑いのメッカ」の大阪ならではだな。
 入場券を買うと、いきなり渋滞に遭った。あの長蛇の列だから混雑は覚悟していたが、いきなり渋滞とは……。渋滞の先頭をチラッと見ると、何と係員が来場者に記念写真を撮っていたのだ。東京タワーと同じだ。さて、今回は如何な物だろうか。今朝髭を剃ったから、醜い顔にはなっていない筈だが。ツルツルした顎を撫で始めた。
 念写真を撮り終えると、新世界で見たキン肉マンが展示されていた。原画に特殊な砂で造られたオブジェ等があり、ファンには見逃せないコーナーだ。へぇ〜、何でだろう。読んでいない私には、首を傾げるばかり。展示品を見ていたのは三十路、四十路の観光客だけではない。アニメのキン肉マンを見たことが無さそうな幼児もいて、「キン肉マン」が世代を超えて愛されている名作だと証してくれる。
 その中に新世界で串カツを頂く作品もあった。キン肉マン2世が串カツ屋に入ろうとすると、かつてキン肉マンと戦った超人が(名前は忘れたが)、零落れた(おちぶれた)姿になっていて串カツを抓む流れになっていた。戦う気は毛頭無く黙々と抓んでいて、キャベツが添えられている訳や、ソースの二度付け禁止も盛り込まれていて、大阪文化をキン肉マンの世界を交えて紹介されている作品だった。そして、何故此処にキン肉マンなのかは、このコーナーで判った。作者が大阪育ちだったからだ。しかも、新世界では外せない通天閣で展示されて、いい所で故郷凱旋が出来て本当に幸せ者だ!
 その隣にはビリケングッズが置かれたお土産コーナー。ビリケン? とんがり頭に、吊り上がった目が印象的な厳つさの中に優しさがある。東京では余り見たことがないし、何だろう。大阪生まれのゆるキャラなのかな?

 写真は通天閣で見た「オーサカの休日」。



(2013年4月29日) 絶景なり?! 通天閣




 レベーターで展望台に向かうと、そこにもビリケンがいた。どうして? 丁度いいや。お神籖を売っているビリケンに理由を聞いてみるか。眺望は後にして。
 ビリケンはずっと通天閣と新世界の今昔を見つめてきたのだ。日本の歴代総理の愛称にも「ビリケン首相」があると聞いたが、そんなに歴史があるのか。
 それで、入口で出したクイズなのだが、2013年で101年目を迎える。そう1912年に建てられたのだ。東京タワーよりも先輩なのだ。当時は「ルナパーク」という遊園地に似た公園と一緒に造られたのだが、何と造られて間もなくルナパークは潰れてしまい、通天閣だけが残ったというトホホ的な話があった。そして、ビリケンとの出会いがあった。1908年米国で生まれたキャラクターで、世界的大ヒットとなった。そして、此処新世界で通天閣の守り神として鎮座(?)され、現在に至っているのだ。途中、戦争に遭って敵視されなかったのだろうか? 米国からの贈り物として多くの青い眼の人形が、次々に焼却されたり、破壊されたり、または壊すのには忍びなく密かに隠したりしていた話は有名だが、ビリケンさん、その時は如何でしたか? この笑みには人には言えない辛さ哀しさが秘められているのだ。
 此処で一句。
 ビリケンに幸福託す浪速人老いも若きも通天閣かな

 て、通天閣からの眺望はどうかな。ビリケンさん、いい眺望を期待しておりますので、東京人の私ですが、宜しくお願いします。
 通天閣からの眺望だが、まずは天王寺側だ。駅周辺は新しく出来たショッピングセンターやホテル等が犇めいて(ひしめいて)いて、この辺は品川駅界隈と同じだな(天王寺駅は関西本線と阪和線の接続駅で、相当賑わっているそうなので)。その眼下には緑地が広がっている。パンフレットを見ると、天王寺動物園だ。駅から近く都会のオアシスをも担っている点は上野動物園と似ているが、通天閣に行った後に天王寺動物園に楽に行けるというデートコースが組める。先程の「オーサカの休日」が実現できるのだ。「天王寺と言うことで、寺も近くにあるのか?」という声が聞こえた。そう、あるのだ。近くに四天王寺が。確か、上から降るお札を取り合う「どやどや」が有名だ。
 は新今宮側だ。丁度、天王寺側から大阪環状線が走っていたので、目で追うと新今宮に着く。通天閣から近そうだから、道頓堀に向かう際に利用するか。
 大阪環状線が新今宮駅に停車した。駅の造りは鉄骨が出ている箇所があって、何処か簡素だ。駅近くの空き地が何か気になって仕方がない。そして、赤い「大隅」の文字も気になる。よく見ると、「大隅」の上にアパートと出ていた。住宅関係の会社なのかな。それを証す如く一戸一戸型に填められた画一的なマンションが続いていた。天王寺駅で見掛けるホテルやショッピングセンターは見掛けないな。集合住宅地一帯だ。でもまぁ、驚いたな。商業地帯の天王寺と集合住宅地地帯の新今宮、僅か1キロでこんなにガラッと雰囲気が変わるとは。東京の山手線でもこんな極端に変わる場所は無いな。
 今宮側から西に視線を向けると、おぉ、大阪ドームがあった。かつての大阪近鉄の本拠地だった場所だ。そして、今はオリックスバファローズの本拠地になっている。大阪近鉄の遺産(?)「いてまえ打線」は健在だが、神戸時代の名残は「オリックス」の名しかないのが哀しい。此処大阪にはかつて近鉄バッファローズ(大阪府藤井寺市)と南海ホークスという球団もあったが、ダイエー、ソフトバンクと親会社が変わって博多に移転した。阪神タイガースは大阪の雰囲気が極めて強いが、実際は兵庫西宮が本拠地だ。れっきとした大阪に本拠地を置く球団は、オリックスバファローズだけになってしまった。やはり、大阪経済の地盤沈下の影が及んでいるのだろうか。これもまた東京一極集中の大罪に繋がると言っても極論ではない。
 此処の眺望だけ山が見える。神戸界隈だ。見えるのは六甲山か。その麓には平清盛が拓いた港町神戸が広がっている(当時は「福原」という地名だった)。神戸を歌った曲を口ずさみながら、まだ旅してない神戸に暫し思いを馳せる。『そして神戸』、『昔の名前で出ています』、『恋の街神戸』……。どれも良い曲だ。
 次に向かう道頓堀は全く見えず、大阪城がある北北東を眺めた。……大阪城は何処? 眼鏡を掛け直してもう一度探してみたら、あれかな……。天守閣らしい建物を見付けたが、目立たないな。何? 此処大阪は大阪城はちっぽけな存在なのか。大阪を興した豊臣秀吉公と、大阪を再建した徳川家康公のお二方にお聞きしたい。如何ですか、あの大阪城は? えっ、此処からじゃ判り難いから、実際に来てみて感じて頂戴、……だってさ。まぁ、此処からでは見え難いからな。東京には江戸城が無いから、大阪のシンボルでもある大阪城へ行ってみるとするか。
 して、足下の新世界だ。店が犇めいていて、多くの人が右往左往している。注意して見てみると、見た目に派手な飲食店が多いな。関西人は派手好きと聞いているが、全くその通りだな。丁度昼餉時間になってきたから、新世界で摂るとするか。もうちょっと見ると、飲食店の他に綺麗な絵看板が並んでいて賑やかそうな劇場に、「スパワールド」という天然温泉を謳った入浴施設がある。そして、近くに空き地も。東京タワーからでは、こんな空き地は見られなかったな。
 望台から降り、帰省の土産を買った。ビリケングッズが所狭しと置かれている一角に、有名菓子メーカーの特大版がドカンと山積みされていた。メーカーが此処大阪に本社が置かれているから、人が集まり易い通天閣に置かれているのだ。これは、幾ら東京でも置かれてなさそうだな。アーモンド入りのチョコレートを1箱買った。大きさはどの位かって。縦10センチの横40センチ位だったかな。その中に、通常版の商品が4箱分入っている。これは、帰省の折に美味しく頂きましたよ!

 上は天王寺駅方面。一番高いビルは建設中のあべのハルカス。
 中は新今宮方面(左側にJR新今宮駅がある)と難波方面。
 下は堺方面。



(2013年4月29日) いざ、道頓堀へ……


 は、大阪の光景としてよく紹介される道頓堀だ。
 先程の展望台で、新今宮が殊の外近そうだったので、此処から行くとしよう。新今宮側の新世界は飲食店が犇めいて(ひしめいて)いる賑やかな場所で、恵美須町側の新世界市場の閑散が嘘のようだ。要約すると、新世界の明暗が間近に見られたという事だ。得したというか、何とやら。
 時計を見ると、12時近く。この辺で昼餉となるな。さて、何があるか。やはり串カツの店が多いな。チラッと中を覗いたら良い混み様だ。通天閣を出た時の近くの串カツ屋も長い行列があって、凄かったけど。大阪名物串カツは頂いたことは無いが、ソースの二度付け禁止やキャベツは手で千切って頂く礼儀は弁えている。此処で昼餉を摂っても、「東京人か?」と因縁付けられる心配は無いな。でも、この混み様は頂けないな。有り付けるまでに時間が掛かりそうだ。道頓堀、大阪城、奈良の東大寺と寄る所が結構あるからだ。
 局、新世界では何も頂かず、新今宮駅に向かった。すると、オレンジ色の車体の大阪環状線が発った。おぉ、関東ではかつての中央線快速ではないか。そして、乗った関西本線JR難波行きも緑色の車体だった。かつての山手線だ。後は青と黄色だ。さて、何処で見られるかな。
 宮は関西本線の駅だが、平成9年に大阪環状線の乗り入れを始めた駅。それまでは、平然と通過する大阪環状線を恨めしく見つめる駅だった。周辺は倉庫や工場が建ち並んでいる。
 今宮を過ぎると、右に大きくカーブし、地下に入る。そして、暫く走って、関西本線の終点JR難波に到着する。これで、関西本線の西側の発着地に着いた。
 R難波で客が吐き出されると、私は先頭に立った。鉄道ファン以外は、先に改札を抜けて待っててくれ。
 此処JR難波は今は終着駅になっているが、予定では、此処から大阪方面の延伸があるのだ。その為、線路がホームを過ぎても長く敷かれているのだ。此処から先は「なにわ筋線」として開業する予定だそうだが、何時になることやら。
 あっ、そうだ。一つトリビアを思い出したので、道頓堀に向かう途中に教えて上げよう。
 この大阪には大阪環状線内で、行き止まりになっている駅が2つあった。一つは先述のJR難波駅。そして、もう一つが京橋駅の西側にあった片町という駅だ。そう、片町線の「片町」だ。此処もJR難波同様片町と福知山を結ぶ「片福線」の延伸予定があったが、旧国鉄の財政難でご破算。そして、JRになってその予定が実行に移され、JR東西線として開業した。しかし、片町駅は京橋駅とはほんの500メートルしか離れていないこともあって、呆気なく廃止となった。そして、その近くにある大阪北詰駅は、片町駅の2代目として機能しているのだ。
 R難波駅はビジネスビルのように立派だ。それもその筈、JR難波駅は大阪シティーエアターミナル(なんばOCAT)という長距離バス乗り場も兼ねているのだ。
 さて、JR難波駅周辺は高架の高速道路が空を遮り、高い建物が爽快感を失わせる。通天閣の方が良かったな。余り高い建物が無く、細々としているが賑やかで、商都大阪を証すにはピッタリだったのに。しかも、赤信号で足止めを食らうわ。扇子を取り出し、忌々しげに扇ぎ始めた。
 すると、「なんばウォーク」という文字を見付けた。何処かで見たな、これは。あっ、近鉄日本橋だ。結構長いんだな、なんばウォークって。東京には無い気がするな。
 そうだ。なんばウォークで移動すれば、スンナリ道頓堀へ行けるかも知れない。
 信号を渡り、なんばウォークに入った。やはり凄いな。店の多さや人の往来が凄い。だけど、周りの景色が見えないので、慣れていないと、方向感覚が鈍り、道に迷ってしまう。途中に案内板があるが、現在位置やら目的地やらよく確かめないと。えぇと、道頓堀は……。あった。出入口番号を頭に入れて暫く進むと、近鉄と阪神難波両駅の改札があり、多くの人を捌いていた。相互運転でかなり賑わっていると聞いたが、新宿駅さながらの光景だな。でも、この辺は工事中なのか、暗色のコンクリートが如何に機械的に物事が動く都会だなと思わせてくれる。

 上は賑わう新世界と通天閣。
 下はJR難波駅のホーム端。



(2013年4月29日) 道頓堀を歩いて




 入口番号に従って、なんばウォークを出た。この辺が道頓堀か。でも、良く紹介される光景は何処なのか。足を止めて、目を動かした。えっ、何か目印になる物はないかって。あれば、スンナリ行けるよ。イメージとしては浮かぶけど……。確か、川があるんだよ。道頓堀川という川が。
 あったよ。私は橋の真ん中で立ち止まって、その光景を探したら、あったよ。通天閣で見たグリコで判った。いやぁ、こんな近くにあるとは。通天閣に鎮座しているビリケンに感謝しないと。もしかして、今何処其処の放送局が中継しているのかと考えを浮かばせながら、戎(えびす)橋に立った。テレビで何度も見たこの光景に、今私がいるとは。大阪に来たんだなと、素直に感じる。後ろの心斎橋筋と前の戎橋筋の賑やかな声を聞くだけで、何か抑制されていた何かが蘇る気力が湧いてくる。大阪の並々ならぬ情熱なのか、商売が巧みに為せる大阪の商魂なのか。大阪人に組み込まれた明るく生きられるDNAなのか。余所者の私は、どう説明しようか?
 と、欄干に凭れて、その謎を解き明かそうとした。
 此処で熱烈な阪神ファンが「道頓堀ダイブ」と称して、道頓堀川に飛び込む。当局は危険だから禁止しているが、優勝できた嬉しさを身体で見事表現できる阪神ファンは、千葉ロッテファンの私でも拍手を送りたくなる。「大阪人は感情的だ」と言われるが、感情を抑制しながら生きている東京人と較べて、打ち解け易いのは大阪のように感じる。
 橋では、グリコのポーズを撮って記念写真を撮る人の多いこと。
 お前さん、余所者やろ。何で? 大阪人はこんなグリコの看板を仰山見ているから、記念写真を撮るのは大抵余所者や。お前さん、どこから来なすったん? ほぉ、東京の八王子か……。よう知らんが、わてが見た所、お前さん東京人やな。見た所……、冷やかしではなさそうやな。どや、この賑わいは心斎橋筋を見ても、反対側の戎橋筋を見ても、めっちゃ賑わっとるやろ。折角来たんやから、ゆっくりしてな。そうそう、大阪だけしかない物を見付けて、土産にするんやな……。
 そんな東京人の一首。
 道頓堀来てみてはしゃぐ東京人心境語るグリコの看板

 て、何を土産にするかな。そうだ、昼餉を土産にしよう。此処大阪は(小麦粉や米粉等の)粉物系名物が沢山あるのが魅力的。東京ではもんじゃ焼き程度だが、大阪では焼きそばにたこ焼き、お好み焼きと昼餉にピッタリな名物が目白押し。
 こで、本場のたこ焼きを頂こうと、道頓堀の袂にあるテラスがあるたこ焼き屋に入った。テラスがあるのか。道頓堀川を眺めながら、たこ焼きを抓む、か……。大阪ならではの贅沢だな、コリャ。この雰囲気を土産にしようと思ったが、生憎、テラス席は埋まっていて、仕方なく店内に席を取った。10個で600円也。店先ではたこ焼きをドンドン焼いて、客に捌いているが、一番面白かったのは、壁に書かれてある感謝の寄せ書きの多さだった。余所者が本場のたこ焼きを頂き、その旨さに感動したのだ。観光で訪れた人、部活動の大会で訪れた人、地元で偶然立ち寄った人。期待できそうだ。
 さて、そのたこ焼きだが、1人なのに串は2本出てきた。私一人しかいませんよ、と言いたかったが、串1本無駄になる。1本の串でたこ焼きを刺して持ち上げようとしたが、あれ? たこ焼きが崩れそうになった。東京のように丸ごと持ち上がらないのか? そこでもう1本の串でたこ焼きを刺して、何とか崩さないように頂いた。熱い! すかさず、烏龍茶を流し込んだ。熱が穏やかになって、大阪のたこ焼きを味わい始めた。東京のと較べて外はかなりフワフワしている。こんなにフワフワしていては、中は生焼けかと思いきや、中もしっかり火が通っていて、トロリとしている。現代風に言えば、ふわトロだな。イケるわ。2回目はもう一度、1本の串で試してみたが、途中で破けて中が崩れるわ、やっと持ち上げられたと思ったら、すぐに崩れてしまうわ。そして、崩れる前に急いで口に運んだら滅茶熱いわで、落ち着かせてくれない。周りは1本の串で流暢に刺して頂いたり、2本の串を巧みに使って頂いたりしているが、私はたこ焼きを頂くことに集中しているので、知る由もなく、1本の串でふわトロたこ焼きと格闘している。一発で余所者と判る行動だ。でも、「東京人か?」と因縁付けられることはなかった。
 食後の一首。
 昼餉時ふわトロたこ焼き格闘す東京人(よそもの)隠す道頓堀かな

 上は大阪のシンボルの一つ道頓堀。
 中は心斎橋筋と戎橋筋。
 下はふわトロのたこ焼き。



(2013年4月29日) 晴天の法善寺


 いふわトロたこ焼きを昼餉にして、戎(えびす)橋筋に入った。「筋」か……。大阪にはこの「筋」と付く通りが多いな。この戎橋筋、心斎橋筋、御堂筋、そして、JR難波のなんば筋。東京で言えば「〜通り」と同じなのだろう。そう言えば、京都の住所にも、「筋」がよくある気がしたな。
 戎橋筋は賑わっている。店の品揃えも東京と同じ物で、渋谷か原宿にいるのかと錯覚してしまいそうだが、店先に置かれているラックの広告を見たり、時折見掛ける飲食店の品書きを見れば、「此処は関西だ」と判る上、アーケードに提げられているプラカードの案内を見れば、東京と全く違うので判る。そして、後ろには先程の道頓堀川と戎橋があるから、東京に戻った嫌な錯覚を覚え始めたら、すかさず後ろを見ることが良いだろう。そして、本場のたこ焼きを抓めば、もう言うことはない。「此処は大阪だ」と心身共々認めるだろう。
 特別買いたい物が無いので、戎橋筋を漫ろ歩きする。次第に、東京人から大阪人に染まっていく。それも通天閣に立ち寄って、大阪の街を眺めただけという即席大阪人だ。それでも、大阪の街は私を歓迎してくれるかのように、良い天気で賑やかだ。通天閣も道頓堀も成功と言えるので、次の大阪城も期待するとしよう。
 く歩くと、法善寺の案内があった。法善寺か……。立ち寄るか。
 法善寺。文学に詳しい人は、戦後まもない流行作家織田作之助の代表作『夫婦善哉(めおとぜんざい)』の舞台となった場所だ。有名な演歌『月の法善寺横丁』も此処なのかな?
 静かな門前に入って、すぐに法善寺があった。此処にもまた串カツの店があった。結構あるんだな。東京人の私は何度も「串カツ」の4文字に踊らされた。たこ焼きにも劣らない大阪のソウルフードと言ってもいいよ。境内には2つで一対という「夫婦善哉」を売る店もあって、あの作品が大変有名だという事が判る。
 此処でお神籖を引いたが、何と珍しく凶を引いた。全く、罰当たりな結果だ。通天閣のビリケンは中吉を知らせたが、何とも後味が悪いわ。ビリケンさん、この凶はどう致しましょうか? 忘れてもいいですか。はい。近くにある井戸で洗い流せば、宜しいですね。
 んばウォークでJR難波駅に向かう途中、タイムサービスの鰻重を見付けた。上鰻重が1200円か。昨今稚魚の不漁で「白いダイヤ」と崇(あが)められつつある鰻が、旅先でこんな安価で巡り会えるとは。法善寺の井戸で洗い流した効果が出たのだ。ふわトロたこ焼きだけでは中途半端なので、買おうか。そうね、大阪城公園で頂くとするか。
 JR難波駅の案内を境に、店はパタッと無くなってしまい、寂しい通路が続く。行き止まりのJR難波駅みたいだ。

 写真は法善寺と寺の井戸。



(2013年4月29日) 法善寺の知らせは、大阪城で判る?


 西本線王寺行きに乗って、途中の天王寺で乗り換えて大阪城公園に向かう。
 天王寺で思わぬ出会いがあった。阪和線ホームに鳳(おおとり)行きが停車していたが、車体はステンレスで、青い帯があった。かつての京浜東北線ではないか。違うのは行き先と編成だ。京浜東北線では10両だが、阪和線では4両だ。そして、私がいる9番線は降車専用ホーム。大都会に降車専用ホームがあるとは、(JRに限定するが)東京にも新宿にも無い。贅沢だねぇ。
 天王寺から大阪環状線で、大阪城公園へ向かった。到着したのは、ボックスシートだけの電車だ。何時も見掛ける赤い車体ではない。ドア上の路線案内を見ると、法隆寺や奈良の文字があった。もしかしたら、関西本線直通の大阪環状線ではないだろうか。もし、大阪城公園でこの電車に乗れたら、手間が省けそうだ。
 細々とした町工場や住宅を縫いながら、大阪城公園に到着。駅名の通り、駅を出て5分もしない内に大阪城公園に到着する。尤も(もっとも)、此処からだと大阪城ホールや水上バス乗り場に近いのだが。
 阪城ホール近くの噴水で、なんばウォークで買った上鰻重を頂いた。さて、どの位の大きさかと思いきや、20センチ四方の入れ物にご飯が盛っているが、鰻は10センチ程。店先のサンプルでは15センチ位あった気がするが、考えてみれば、大きい鰻がこんな安価で頂けるのは明らかに了見違いだな、コリャ。山椒を振り掛けて頂いた。
 噴水は規則正しく水を噴いて、その縁では子供が娯しそうに水遊びをしている。薄曇りだが雨が降る心配はなく、陽気を扇子で癒したり、近くの露店で食べ物を買って、ベンチに腰掛けて旨そうに頂いていたりと、憩いの場となっている。また、近くの水上バスから客が吐き出され、ガイドブックを開いて、大阪城へ向かったり、休むがてら、滅多に見られない都会の大空を扇いでいたりしていた。その一角に上鰻重を頂く余所者が一人いた。しかし、鰻の脂が少ししつこく、啜る烏龍茶が止まらなかった。(昨年の)下呂温泉で買った2500円の上鰻丼の方がパリッとしていて、あっさりとして旨かったな。1200円と2500円の値段の差が味覚で判った気がする。
 駿府で出会ったことがある大道芸人の人波を後目にし、大阪城へ入った。さて、豊臣秀吉公が眺めた大阪の街は如何な物だろうか?
 入った途端、人の波に揉まれた。神経性頭痛がしてきた。そうだ。昨年(2012年)の名古屋城で勉強したな。大型連休の折は、こういう大都会の観光地に行かないのが良いんだよね。録に展示物が見られず、要らないゾロゾロ歩きを強要されるのだ。運良く見られたとしても、大坂の陣に関係する事柄がメインだったのがガッカリした。長時間立ち止まることは許されず、そのゾロゾロ歩きは最上階まで続き、この鬱陶しさを眺望で静めようと思ったのだが、金網に遮られて、此処も録にシャッターを押せない。それでなくても、余りいい眺望じゃないね。閉じ込められている錯覚が強くて。しかも、天守閣より高い建物が続いているとなれば、息苦しさが付き纏い、東京に逆戻りしたのかと首を傾げてしまう。それでもシャッターを切っている人に聞きたい。「金網に遮られている眺望は如何な物か」と。秀吉さん、此処からの眺望は金網に遮られて、全く面白くありません。通天閣、道頓堀と2つ続けて成功したのに、大阪城で見事外した。法善寺で引いた「凶」は、この事なのか?

 上は天王寺駅で見た阪和線。
 下は大阪城。



(2013年4月29日) 関西本線で商都から南都へ



 阪城公園で運良く関西本線直通奈良行きに乗れ、一路奈良へ向かった。大阪環状線を左回りに向かう。途中の大阪駅ではふと、紀伊半島一周旅行の帰り、今は無き夜行寝台急行「銀河」に乗って東京へ帰ったことを思い出した。板チョコ程度の窓で夜景を見たこと、劈く(つんざく)程のアナウンスに閉口したことも序でに出てきた。その前にも、大阪〜名古屋〜長野を結んでいた夜行急行「ちくま」も見た。両方共廃止になった夜行列車なので、撮った写真は宝物だ。
 それから福島、西九条、弁天町、大正、新今宮、天王寺と停車し、関西本線に入った。
 部市場前。駅らしくない駅名だ。「市場」と出ているから、何か青果や鮮魚等の集積所があるのかと思ったら、発ってすぐに百済(くだら)貨物駅があった。コンテナの数も相当な所。大阪も東京同様貨物取扱が少なくなってきたと聞く。大正駅から延びていた浪速貨物駅も、これから向かう八尾付近から阪和線我孫子町に延びていた阪和貨物線も過去になった。
 美と新加美は何とも滑稽だった。2駅が目と鼻の先の距離に位置していたからだ。しかも、路線上の関係で、新加美は大阪市内の駅としては見なされていないから、何かとしら不便だ。
 工場や民家が混ざり合ったつまらない近郊の景色を眺めている内に、徐々にウトウトし始め、眠気が覚めたのは郡山を発った時だった。周辺は何時の間にか、田畑に民家が混ざり合っている郊外になっていた。
 良。高架駅だが、此処はかつて「南都(なんと)」と呼ばれた。古い寺社や点在している古都だが、駅舎を見てもどうも此処が古都だという事は判らない。精々、都会に新設された路線の駅に見える。果たして、熟考して造られたのだろうか。此処には東大寺や興福寺等がある古都なのに。センスの無さだけが光る駅舎だ。その隣には旧駅舎があり、中は観光案内所になっているが、いいねぇ。古都独特の古さの中に近代的なレトロな雰囲気が混ざっていて、「南都」として繁栄した奈良の町だという事がよく判る。或る本に書かれていたが「大きな町の駅舎は利便性だけを求め、その街に合った雰囲気を残すことは皆無に等しい」とあったが、奈良駅は筆頭だな、コリャ。
 バスで東大寺へ向かう。中は日本人だけではない。アメリカ人もいれば、中国人もいる。私は多少の英会話は出来るので、何か聞かれたら助けて上げよう。

 上は百済貨物駅。
 中は新装されたJR奈良駅駅舎。
 下は旧JR奈良駅駅舎。



(2013年4月29日) 想ひ出東大寺


 大寺に着いたら、人が凄いね。観光客だけではない。修学旅行生も大勢。そりゃ、奈良観光のエースだから。その序でに近くにある春日大社に向かうのかな? 大勢観光客がいるのにも拘わらず、神経性頭痛はしなかった。境内が広いので大勢いる割には余裕で歩けそうだし、ゾロゾロ歩きもなかった。ゆっくり漫ろ歩きと行くか。
 修学旅行生が露店の人とあれこれ遣り取りしていたり、鹿に鹿煎餅を上げたり、買い込んだ土産を自慢し合ったり、他校の生徒を見ては、制服のセンスや行動を逐一チェックしていたり……。嗚呼、丁度20年前になる。中学校の修学旅行で東大寺を訪れた時は。皆、盧舎那仏の大きさに驚いていたり、鹿に鹿煎餅を上げて歓声を上げたりと、無邪気な子供に戻っていたな。20年経っても、変わりは無いな。変わったのは、外国人観光客が多くなったことだな。憶えたての日本語で問い掛け、片言の英語で応対する。やはり、変わったな。
 て、盧舎那仏だが、改めてその大きさに驚く。20年前の修学旅行の時も、(名古屋〜奈良の急行「かすが」が廃止された折に立ち寄った)2006年も、やはり大きいと素直に感じる。容量の大きさだけではなく、奈良時代から今日まで日本の栄枯盛衰を見つめてきた歴史の重みも加わっている。その大きさに驚いて写真に収めても、容量の大きさしか取れないので、ジックリとその重みを両目に焼き付けていく。
 聖武天皇の勅命で建立された時は、金で覆われていたのだが、平重衡の南都攻めや戦国時代の兵火で灰燼に帰し、その都度造り直されても、暗色の銅が時代の重みを感じる。そして、盧舎那仏が置かれている本殿でも同じだ。世界で一番大きな木造建築物と言われているが、塗装が剥がれ掛かっている箇所を見ても、風雨に晒されながらも、キチンと本殿の役割を果たしているのだから素晴らしい。木材を嵌め込んで建物を造る日本独特の建築技術は、何百年の耐久性を持っているのだから。柱に触れても、当時のままの美しさではなく、長年に亘って付けられた傷の数が時代の重みを感じる。そっと触れても、何かが私に語り掛けているような気がする。何だろう。20年前の修学旅行では感じられなかった何かか。それとも、今となっては感じられなくなった何かか。左側の虚空蔵菩薩に尋ねてみるか?
 その裏には、屋根の形や大きさ、更に造りまでもが違う建立当時と鎌倉時代の東大寺の模型や、隠れたスポットとして有名な盧舎那仏の鼻の大きさの穴がある。一本の柱を刳り貫いて造られた穴だが、此処を潜ってその様を写真に収めている光景が見られた。思い出した。修学旅行で此処を潜る代表を選んで、その様を撮られて、一躍人気者になった同級生がいたな。さて、三十路が挑戦したらどう見える? 「無邪気だな」と感じるか、「馬鹿らしい」と感じるか。
 遅撒きながら2006年3月の光景を詠む。
 鼻の穴潜るを笑い写真撮る「撮るな撮るな」と表情も笑み

 た来た道を通った。修学旅行生が娯しそうに露店や土産物屋で買い物をしていた。彼等の歳だと限られた予算で、「此処に来た」という証明になる土産を買えれば点数が稼げるのだが、三十路辺りになると、限られた予算でいい土産が買えるか腕の見せ所になってしまったな。鞄に付けるぬいぐるみや菓子類、キーホルダー等買っていたが、流石に絵葉書は買っていないだろう。ドライにメールで済ませられるから。絵葉書も此処に来た証明にもなるのだが。思わず本殿で買った絵葉書を取り出した。手紙でも出そうかな。宛ては無いけど。

 写真は東大寺と大仏殿。



(2013年4月30日) 旅先の雨

 先の雨は余り遭ったことはないが、遭ってしまったら気が鬱いでしまうし、行動範囲が限られてしまう。そして、その雨に遭ってしまった。さて、どうすればいいかな? 事前の計画では何ら行程を組んでいないから……。 そうだ。自由に行程が組めるのだ。何と、嬉しい話ではないか!
 さて、何処にしようか。と、乗ったのが名古屋行きの快速「みえ」。平日なので、通勤通学客が多いこと。ドアに凭れて車内を見渡すと、各々友達と会話したり、スマートフォンを操作したり、今日の授業の予習をしたりしていて、車内を賑わせている。スマートフォン以外は私の時と変わりはない。懐かしいなぁ。もう、17年位前だ。今でも鮮明に思い出せるし、高校の制服を見ているだけでも、何か若さをお裾分けされているみたいで元気付けられる。もう一回高校生活が送れたら、何をしようかな。一生に一度の高校生活だ。悔いの無いよう過ごせよ。三十路半ばの元高校生からの一言。
 さて、何処へ行こうかな。名古屋はぶらついたし……。周辺を探っても、行きたい場所が見当たらない。関西本線沿線や東海道本線沿線の候補を綴るが、これと言った場所が無い。
 そうだ。関西本線だ。関西本線でもぶらつくか。と言っても、JR西日本管轄の方だ。
 津で亀山行きに乗り換えると、快速「みえ」に乗っていた高校生とこの列車に乗っていた高校生が合流。カーキ色のブレザーが車内を賑わせていた。そして、高田本山がある一身田で降りていった。車内は僅か2〜3人。賑わせてくれる人は無く、口を閉ざしたまま亀山到着を待っているだけだった。今頃車内を賑わせてくれたあの高校生は、通学路でも賑わせているのかな。
 此処で一首。
 忘れ物手摺りに掛けしこの傘の露に濡れつつ我は旅路か

 山は鉄道上重要な基点となっている駅で、JR東海とJR西日本の管轄の境界をも担っている。5番線もあり構内も広いが、賑やかな雰囲気は極めて薄く、到着した列車が暇そうに出発時間を待っている。JR東海の関西本線は、ステンレスの車体にオレンジの帯が掛かっている近代的なデザインの電車で、「名古屋」の方向幕を出していて、都会の雰囲気があるが、かたやJR西日本の関西本線は青紫色に塗装されたディーゼル車両で、「加茂」の方向幕を出していた。行き先はともかく、ディーゼル車両だけで田舎の雰囲気が一杯だ。お互い亀山から先に行くことは無く、ただ広い亀山駅で、お互いの存在をアピールしているようだ。そのアピールも「電化路線の関西本線」と「非電化路線の関西本線」と言った、何処か角突き合わせているようで、心地の良い物ではなかった。
 その非電化路線の関西本線に乗って、西へ向かった。暫くすると、左側に車庫があり、そこで電車とディーゼル車両が仲良く休んでいた。それも、管轄は無関係で。



(2013年4月30日) 関西本線モンタージュ(亀山〜島ヶ原)



 宿場町として有名な関を越えると、次第に山間を走る。私がよく見る水郷や田園地帯、工業地帯を走る関西本線ではない。滅多に見られない山間の関西本線だ。私は雨で曇る車窓を指で拭いて、或る程度の視界を確保しながら、迫る青い山やその麓を走る名阪国道、ポツポツ点在する民家に視界を移した。此処から名古屋に向かうとなると、悠に2時間は掛かりそうだ。同じ三重県内と関西本線なのに、管轄が違うとこうも変わるのか。
 (かぶと)に着いた。駅舎はホームと隣接していて、中を覗くと自動販売機とベンチが置かれている簡素な造りだ。切符売り場は無かったが、それらしい跡はあった。何処かって? シャッターを見れば、何処と無くお判りだろう。断言は出来ないが、此処で切符が売られていたのだろう。一杯セロテープの跡もあるから、旧国鉄時代にだろう。
 このような簡素な造りの駅構内は、JR東海管轄の関西本線でも見られるが、印象が全然違って感じるので面白い。都会近郊だと簡素な造りが珍しく、自然に懐かしさを漂わせているが、加太駅のような山間のローカル線となると、簡素な造りがしっくり来るのと、民家同様風雨が防げるという事もあり、温かみも感じられる。
 太を発ち、暫くすると線路が左右に岐かれていて、列車は右側を通った。すると、後ろの方も線路が左右に岐かれている。この辺は単線区間なので、逆N字の配置になっている。岐かれた線路を見ると信号があるが、鉄道ファン以外は一体何だろうと思うが、これは信号所と言って、単線区間で(駅以外で)列車の行き違い等に利用する場所なのだ。判り易く言えば、「列車同士の待ち合わせ」と言えばお判りかな? 中在家(なかざいけ)信号所という。2006年まで使われたそうだが、このままほったらかすのは勿体ない。いっその事、新駅を此処に設置したらどうだろう。伊賀盆地に掲げられている「新駅設置云々」を叶える為にも。周りを見たら民家が無いが、駅が設置されたら解決するだろう。
 (つげ)に着いた。JR草津線との分岐点だ。駅構内は流石に広いが、下車した人は数える程。これと言った印象が無いが、機会があれば、途中下車して何かあるか探してみるか。そうすれば、思い掛けぬ良いことに出会えそうだ。桑名の三八の市のように。
 堂、佐那具は伊賀盆地の端を走る。線路がずっと向こうまで見渡せて、先程の山間を走っているよりも爽快感が幾分かあるのだが、天候は本当に思わしくないし肌寒い。4月30日の伊賀はこんなに寒いのか。そうだ。3月中旬に此処を旅した時、思わぬ寒さに閉口して、伊賀上野駅で温かいミルクティーを啜ったことを思い出したな。と、亀山で買ったミルクティーを啜ったら、温くなり掛けていた。
 その時の一首。
 春薄き伊賀の上野の朝霧のホットミルクティー温き息吐く

 那具では、満開の八重桜が咲いていた。位置が悪かったので、シャッターは押せなかったが、帰路にでも撮るか。天候が良ければ暖かく見えたのに。
 此処で一句。
 八重桜散りて降る雨佐那具かな

 賀上野で多少の乗客を吐き、島ヶ原、月ヶ瀬口に向かうと、もう山間を走ってしまう。特に、山肌を貫き左右から山が迫ってくるような場所を走ると、都会を繋ぐJR東海管轄の関西本線に乗り慣れている私には、「この辺に民家があって、本当に列車を利用する人がいるのか」と考えてしまう。もしいるなら、この力強いディーゼル音を聞かせて、霧に包まれた伊賀を走るこの列車を褒めて欲しい。
 嗚呼、晴れる気配が無いし肌寒いし、霧が掛かっている。合間に啜るミルクティーは冷たいか温いかの境目になっている。傘差して旅行すると思うと、先程の爽快感が消えて、気が鬱いでしまいそうだ。
 駄目だ。旅先でこんな気持ちになっては行けない。何か話題を変えないと。
 この辺では何度も隧道を通っているが、出口が見えても、向こうは霧が凄く掛かっていて、全く見えない。一体、どんな景色が待っているのかな。それは、隧道を出てからのお楽しみ。滅多に行かないから、娯しみだな。
 そんな一首。
 隧道の対はお伽か深霧の大河原抜け笠置の花かな

 の娯しみは島ヶ原から始まった。木津川に沿って関西本線が走っているのだ。木津川に沿って走る区間が好きなのだ。亀山から始まった山の景色が、この辺になってくると冗漫になり、大した感想を持たなくなる。そんな所に、木津川が入ってきた。変化が出てきたので、カメラを取り出した。木津川に沿って走る鉄路しか写らないが、良い1枚が撮れればいいな。

 上は列車から見た加太駅構内。
 中は中在家信号所。
 下は佐那具駅ホームの八重桜。



(2013年4月30日) 関西本線モンタージュ(月ヶ瀬口〜加茂)


 て、この関西本線は三重県を出たら、何処に入るかお判りだろうか。大抵の人は停車駅を見て、その中で「奈良」を見付けて、奈良県に入るのかと思うのだが、実は、三重県と京都府の僅かな境を通って、京都府に入るのだ。これから向かう加茂も、京都府木津川市に位置するのだ。そして、平城山(ならやま)から奈良県に入るのだ。簡単にピンと来る人はそういないだろう。県境の標識がある高速道路とは違うから、トリックに嵌っているかのようで、スリルが味わえる。
 都府に入って最初の駅、月ヶ瀬口は月ヶ瀬梅林で有名な場所。その様は『鉄道唱歌』にも「影もおぼろの月ヶ瀬に 梅みる人の数おおし」と歌われている。その為、ホームも長目に造られているが、シーズンオフとなれば、ただひたすら梅の咲く時季を待つだけだ。佐那具で咲いていた八重桜は、此処月ヶ瀬梅林から春のバトンを受けて咲いているのだ。
 河原を過ぎ、立派な鉄橋を越えると(此処も『鉄道唱歌』に歌われている)、木津川の存在が大きくなっていく。民家も見当たるようになっていくが、まだまだといった所だ。
 置。此処も月ヶ瀬同様花の名所でもあり、後醍醐天皇が京都を脱出し、鎌倉幕府打倒の狼煙(のろし)を上げた地として有名だ。ホームは月ヶ瀬口同様長く造られているが、到着した車両は僅か1両。何と説明すればいいのかな。(臨時列車の停車駅や急行列車の臨時停車等の)笠置のかつての繁栄と言えばいいのか、花の名所としての認知度の高さと言えばいいのか……。ホームから桜が見えると旅行誌に出ていたが、残念ながら桜は一輪も残っていなかった。何処かに咲いていないかな。と、加茂から伊賀上野に戻る時に見付けた。屋根に造花が飾られていたのだ。近く笠置界隈で花に関係する何らかのイベントが行われるというのだが。造花では華やかな雰囲気が出ないので、撮らなかった。
 笠置を出ても、木津川に沿って関西本線は続く。立て続けにシャッターを切った。途中、シェルターらしい建物を見付けたり、河原から伸びている木の枝が列車に迫ったりと、ベストショットスポットではないが、割と娯しめる場所だ。特に亀山から乗車した時は、山間の景色に飽きてくる頃だから。
 茂に着いた。白が目立つ駅構内は、エレベーターや売店がある都会の造りで、電光掲示の行き先表示で、大阪、天王寺、JR難波と出ていて、大阪に近付いていることが判る。亀山発の列車の殆どが加茂行きで、此処から電車で奈良、天王寺、JR難波へと向かう。
 だけど、加茂行きは本当に中途半端だ。路線図を見たら、JR片町線とJR奈良線の連絡駅木津があり、加茂は木津から1つ東に位置しているからだ。これでは、大阪方面にスムースに行けないからだ。例の2路線に乗るとなると、加茂と木津で乗り換えを連続しては、鬱陶しいだろう。
 加茂から折り返して、伊賀上野に向かった。それにしても、加茂と笠置は或る意味極端だ。加茂は先述通り都会の造りだが、1つ向こうの笠置になると、自動改札や売店が無く、ホームに屋根の無い箇所もある、一気に田舎の駅になってしまうからだ。そのギャップを理解できるかが、今後生きる上で大切なことだろう。大河原では加茂以遠から乗車してきた客が、イコカ(JR西日本のICカード)が使えずまごついていて、運転手から精算券を手渡され、バツ悪そうに下車した光景があったからだ。
 その光景を見て一首。
 大河原ICカード使えずに都会の知識使えずも良し

 写真は木津川沿いに走る関西本線。



(2013年4月30日) 4回目の伊賀上野



 賀上野は忍者や松尾芭蕉ゆかりの町として有名だが、伊賀上野駅周辺は町外れなので、伊賀鉄道に乗り換えて市街地へ向かう。かつては近鉄伊賀線だったが、近鉄養老線(現 養老鉄道)と同様分離独立して営業している。それでも、筆頭株主は近鉄なので、何処か笑える。
 伊賀鉄道は忍者の顔が描かれた列車が走るが、何処かで見た画風だ。さて、誰だろう。そう、日本アニメの名作として名高い「銀河鉄道999」、「宇宙戦艦ヤマト」の作者松本零士氏の作画だ。近鉄時代にもあったが、伊賀鉄道になってもこの忍者は引き継がれているのだ。
 そんな伊賀鉄道に揺られること10分足らず。列車の行き違い施設がある上野市に到着する。伊賀上野発の列車の殆どが此処が終着駅になっていて、此処で伊賀神戸(かんべ)行きの列車に乗り換える。
 伊賀上野だが、今回訪れるのは4回目だ。1回目は2000年8月、2回目は2006年3月、3回目は同年8月。三重県内でも余り訪れることがない。向かうにしても、時間が掛かるからだ。
 野市駅から出ると、いきなり声を失った。駅前が変わっていたからだ。草臥れ(くたびれ)掛けていたバスターミナルが綺麗なショッピングセンターになっていたり、脇にある瓜の漬け物の養肝漬や伊賀焼等の名産品の紹介のウィンドーが、埃を被って空っぽになっていたりしていた。そして、駅舎の中も変わっている。地元のサッカークラブチームのポスターや、伊賀鉄道オリジナル絵葉書や携帯ストラップ等も置かれていた。大手私鉄から移管して、伊賀市市内を走るローカル路線になったから、ノンビリしていられない。地元住民の大切な足になるよう、観光客に印象付けられる鉄道になるよう。
 野市駅周辺を歩くと、交通量が多い道の脇に大きなウィンドウがある店や、ATMが置かれている銀行等近代的な町があり、時間を掛けて向かった苦労が不意にされそうだが、一歩裏通りに入ると、そこには伊賀上野の素顔の街並みが待っている。此処からは極力時計を見ないで回って欲しい。
 昭和時代に造られたと思う軒先の低い瓦屋根の街並み、埋設工事が施されていないが整然と張られている電線、手書きの値札に素朴な和菓子が並んでいる時代に迎合しない和菓子屋があって、殆ど変わっていない。周辺には昭和時代に販売されていたジュースを出してくれる店や、昭和中期の家電製品が置かれている店もあり、昭和世代に生まれた人達には暦が昭和に戻り、古き良き時代に思いを馳せたり懐かしんだり、素の自分に戻れる空間が広がっている。この私も昭和53年生まれながら、昭和世代の商品を見ていると懐かしく感じる。小江戸川越同様、古き良き時代をキチンと残しながら、伊賀地方の都会の役割を担っているのだ。そんな裏通りに秘められている「昭和」と言う古き良き時代の玉手箱を開け続けると、折り畳み傘を広げて小雨の中を歩く鬱陶しさが消える。先程の近代的な街並みは、都会のシステムをそのまま切り取って貼り付けたような継ぎ接ぎみたいに感じられる。下手すると、無味乾燥な都市になるので注意が必要だ。

 上は忍者が描かれた伊勢鉄道(写真は近鉄伊賀線時代)。
 中は上野市駅構内。
 下は伊賀上野の街並み。



(2013年4月30日) 伊賀上野の洋食屋



 んな伊賀上野の街中に、至る所に忍者がいるのだ。勿論人形だが、これが全く侮れない存在なのだ。壁に隠れてコッソリ斥候する(せっこう 敵状視察と同じ)忍者がいれば、大手証券会社の近くの街灯に登り、証券取引をしようか迷っているように見える忍者もいる。更には息抜きとしてカエルと遊ぶ忍者もいて面白い。
 て、時計を見たら昼餉時だ。何処で頂くとするか。私の脳裏に浮かんだのは2つの店だ。それも、地元でも大変有名な店だ。一つは伊賀上野で初めての洋食店で、オススメはタンシチュー。もう一つは、伊賀牛を取り扱っている高級店で、オススメはすき焼き。両方共一度訪れているが、どっちにしようかと迷っているのだ。まずは伊賀牛の高級店に向かった。2000年8月に訪れたきりなので、朧気の記憶を何とか繋いで店に向かったが、定休日だった。此処で2階の床の間を背負って、6000円もするすき焼きを頂いた。女中が肉を焼くのを手伝ったり、頂き方を教えたりして親切な印象がある。此処では、砂糖を多めに入れる関西風の作りだ。
 そして、前者の洋食屋に入った。店の造りも洋風ながら風情のある木造で、淡い山吹色の柔らかい照明が何とも温かい雰囲気で満ちている。中はテーブルが僅か3卓という小さな洋食屋だ(奥には個室らしい席がある)。品書きを見るとメインディッシュの値が、4桁台が殆どで、ビーフステーキは7350円もする一品だ(伊賀牛を扱っている可能性大)。ファミレスにしか行ったことがない人には財布の重さが気に掛かるが、味の方は三重県内でもトップクラスだ。
 此処でハンバーグコースセットを頂いた。2600円也。コースだから最初に前菜が出て、その次にサラダ。そして、メインのハンバーグが出る。前菜は肉のマスタード和え。拍子木切りした焼き豚に粒入りマスタードを和えた一品で、殆ど辛くなくスンナリ頂ける。
 サラダを少し頂いた後はメインのハンバーグ。これが何と職人技が噛み締められる一品だ。ナイフを入れたらカリカリと音がし、如何にナイフを使っている感触が娯しめるのだ。力任せに切るのとは違う。程良く肉汁が出ているハンバーグを頬張れば、外はカリッとしていて中はフワッとなっている。肉の旨さを外のカリッとしている部分で閉じ込め、中のフワッとしているハンバーグを口中で存分に噛み締める。内外のギャップの激しさが意外と調和していて、そんじょそこらのハンバーグとは全く違う一品なのだ。ハンバーグはどちらかというと子供向けの印象が強いが、これは大人向けのハンバーグだ。付け出しの野菜のソテーを合間に抓んで。そして、〆はデザートのケーキと珈琲。酸味が利いている珈琲を啜って、満足な一品の余韻に浸った。
 外は何時しか小雨は止み、それを知らずしてゆっくり珈琲を啜る一時。
 食後の一首。
 伊賀上野洋食屋でのハンバーグ雨止み嬉し一杯の珈琲

 上は壁に寄り掛かり斥候する忍者。
 中は証券会社に居る忍者。
 下はカエルと遊ぶ忍者。



(2013年4月30日) 狭霧の伊賀上野城


 足一色の昼餉を摂り、小雨が降っていないことを確かめ、折り畳み傘を仕舞いながら、伊賀上野城へ向かった。伊賀上野城は忍者博物館や松尾芭蕉の頭巾を象った俳聖殿もあり、伊賀上野を知るには良い場所である。
 その中で、伊賀上野城を訪れた。此処を訪れるのは、2000年8月以来2回目だ。
 賀上野城。世渡り上手として有名な戦国武将藤堂高虎公が建てた城だが、天守閣完成間近暴風雨に遭い崩壊し、再建せずに太平の世を迎えた。城下町ながら天守閣無しの伊賀上野城が続いていたが、明治時代地元の有力者川崎克(かわさきかつ)氏に因って、漸く天守閣が出来たのだ(先述の俳聖殿も彼の私財で建築されている)。その時は伊賀上野城ではなく、「伊賀文化産業城」という商業色が濃い名前だった。そりゃ、城下町ならば、天守閣の遺構やら本丸御殿やら無ければ、城下町としては迫力不足になるだろう。
 天守閣独特の急な階段を登って、最上階の展望台で写真を撮った。見えるのは、城下町伊賀上野の街並みだが、天気が悪いので霧が掛かっていて遠くが見えなかった。それを我慢して、眺めようではないか。
 案内に従ってJR伊賀上野駅方面を撮った。濃霧の向こうには山が迫っていて、伊賀市に拓けた盆地の端がよく判る。そして、その盆地に産業地帯が集結していて、それを取り囲むかの如く田畑が続いている。田圃では青い苗が植えられているが、これも濃霧の所為で色がよく判らない。雨は止んだが、霧は晴れない。そんな霧が夏に近付き始めている卯月の晦日を、巧く隠しているみたいだ。まだ、此処は夏に近付き始めるのは早いとばかり、季節の暦が遅れている忍者が、煙玉を焚いているのかな?
 さて、JR伊賀上野駅は何処なのだ? 町の北側に位置していることは案内で判るが、見当たらない。青紫の車体の関西本線や伊賀鉄道が走っていれば多少判るのだが、時間帯が悪く判らず終い。
 今度は伊賀鉄道上野市駅方面を撮った。今度は盆地と細々とした建物が地平線まで続いていた。あの辺は名張かな(「名張」の由来も忍者に関係している)? 上野市駅は……。あった、あれだ。あの急な屋根がある場所だ。その上には新しいショッピングセンターがあるから、ジックリ見ればお判りになるだろう。眺望をぶち毀すような高層マンションは無いし、伊賀地方の都会ながら田舎の風景の色合いが濃く、何時の間にか秒針が取れて、気分が落ち着いて、そのまま見入ってしまうそんな眺望だった。
 真を撮り終えて、直に座って一服した。
 振り返ってみると、最上階にいるのは私一人。静かな空間が広がっていた。
 ふと思い出す昨日の大阪城。大混雑の城内を前へ倣えの如くゾロゾロ歩き、天守閣の展望台は金網に囲まれて、閉塞感を助長する物だったな。仮に金網が無くても、天守閣より高い建物が偉そうに幅を利かせていたり、次から次へとやってくる来訪者に気を遣いながら眺望を娯しんだり、神経性の頭痛がしたりして本当に参ったわ! だけど、此処は大阪城と真逆だ。人がいない分、自分が見たい所を許す限り見られて、移動も誰に指図されずに行ける。自分の行程が遺憾なく貫けて、本当に旅している実感が掴めるからだ。やはり、当初予定していた京都ではなく伊賀上野にして良かったわ。
 して、天守閣から出た時、ふとカレンダーを見たら、今日は平日だった。嗚呼、すっかり忘れていたよ……。今日は何曜日なのかを忘れて旅していたのだ。何とも贅沢な話だ。
 知らぬ贅沢に浸っていた私は、足取り軽く上野市駅へ向かっていた。すると、伊賀焼直販所の看板を見付け、ふと立ち止まった。そうだ。何か買っていくとするか。
 と、直販所へ入った。此処には伊賀市界隈に在住して、伊賀焼を制作している作家の作品が手頃な値段で販売されている。
 伊賀焼は優雅さよりも、全体的に渋めの色が特徴で、華やかな花を生けたら、その華やかさが一際目立ったり、大人の男が周囲の俗世と隔離して、優雅な一時を過ごす時に相応しい魅力がある。珈琲茶碗の類が欲しいな。ホテルには胴が短い湯飲みしか置かれていないので。捜す事数分、格好の良い湯飲み茶碗を発見した。コリャいいなと思い値段を見たら、5桁……。長財布の中身を覗いてみたら、10000円札はあるが、ちょっと帰省中の財布には痛いな。まだ往路で、ペシャンコにはしたくないので。長財布を大事そうに懐に仕舞って、探し直した。オッ、高さ12センチ程のビヤマグがあった。大きさも手頃だし、値段は2000円也。これは良い買い物だ。思い掛けない物に出会えるのも旅の魅力だ。
 この後は、バスでJR伊賀上野駅に向かい、鈍行で宿泊地の松阪へ戻った。列車に乗っている時間が大半を占めていて鉄道ファンではない方には、退屈な一日だったろうが、あの伊賀上野で充分に点数を稼いだ。そう思いたい。

 上は伊賀上野城から見たJR伊賀上野駅方面。
 下は伊賀上野城から見た名張方面。





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