2011年10月17〜18日 導かれた桶狭間と18年ぶりの京都

(2011年10月17日) 平日の有松を訪れて


 日に気侭に旅をする。社会人にとっては、この上ない贅沢な話だ。何処に行くか予定が立てていなければ、もう文句はない。
 心待ちにしていた大須大道町人祭が無事に終わり、平日の月曜日。私は名鉄名古屋本線の有松駅に降り立った。そう、有松絞の産地で有名な町。降り立ったのは、10人前後。時間は午後1時頃。
 この日は、何の予定は無かった。名古屋競馬場に立ち寄り、(3着以内に入る馬番を当てる)複勝で3連勝し、昼餉に牛すじどて煮とカツが厚くボリューム満点のカツカレーを頂いた後、全く予定が無く、どうしようかと考えていた。そこで、名古屋市街観光か(丁)、有松の街並みを見るか(半)を、賽の目で決めた(時代劇でよく見る「丁か半か」の博打)。結果は2−1で半になったので、有松に向かう事にした。賽の目で行程を決めるなんて、随分いい加減に見えてしまうが、その分起伏に富む行程が期待出来る。予定に縛られるパックツアーなんか、チンケな物に感じてしまう。
 松。有松絞を商う店で賑わっていた東海道の宿場町で、今でも、昔の街並みが残されていると聞いている。
 さて、駅から出てみると、踵(きびす)が停まった。桶狭間と近いのだ。そう、織田信長が今川義元を討ち取った有名な合戦場だ。序でに行くか。この後、桶狭間で思いも寄らぬ出来事に出会う。どんな事かは、最後まで付き合って頂戴な。
 その宿場町は意外に駅から近く、南側から出て、すぐにあった。一気に平成から江戸時代へタイムスリップだ。
 建物の軒が低く、土蔵があり、濃褐色に変色した板塀、周辺に上手く溶け込んでいるように造られている郵便局。そして何より、電線が無いから空が余計広く見えるから、思わず空を見上げて、「ほぅ」と溜息が漏れるのだ。車が通っていないので、道路のど真ん中で暫く停まり、シャッターを切った。蔵造りの町が残っている小江戸川越に長年住んでいたので、素直に電線が無い事で、空が大きく見える感動がより強いのだ。
 考えてみれば、此処も名古屋市(緑区)なのだ。そう言えば、(中区)大須でも、(同区)栄でも、(名古屋競馬場がある港区)泰明町でも空を見る時間はそう無かったな。空を見るより色々夢中になっていたのと、電線が無い事を素直に喜べる昔の街並みや、賑やかな大通りが無かった事等、大きく見えるような要因が無かったからだ。
 ……此処で、秒針を外すとしようか。すると、東海道の殷賑が見えてきた。丁度此処はそうだから。有松絞を捌く地元商人の張りのある声、有松の殷賑を横目にし、いそいそと便りを運ぶ飛脚、熱田宿を目指し、施行(当時、お伊勢参りする人達は、関所を難無く通過出来た他、行く先々の宿場町で色々金銭や食事等の施しを受けながら、伊勢を目指した)を受け取りながら歩くお伊勢参りの一行。賑やかだな……。今は中京の大都会名古屋市の外れに位置する住宅地になっているが、江戸時代の殷賑の断片を残してくれただけでも、良かった。
 れでは、その殷賑を感じながら歩こうか。至る所にハンカチや財布の有松絞が並んでいる。近くに鳴海があるので、鳴海絞と同じなのかな? そう言えば、名古屋城で見掛けた鳴海絞の財布が、3000円位したのを憶えている。私の財布には結構あるが、大都会の中にある秒針が忌憚なく外せる貴重な場所だ。例え有松絞の財布が買えても、有松に残されている東海道の街並みや当時の殷賑の様は、3000円程度で買えるチンケな物ではない。敢えて、買わない事にしよう。
 桶狭間に立ち寄ったその帰り、カフェで一服したが、見てはいけない物を見てしまった。
 何と、昔の街並みの上から、大型ショッピングセンターが昔の街並みを飲み込むかのように建っていた。随分ナメられたな、この有松も。利便性を偏重し、昔の街並みを区画整備云々の大義名分で持ってぶち毀した日本の都市計画のレベルの低さに、忌々しさを感じる。少しは敬意を見せてくれよ! 一発で秒針が戻ってしまった。頼んだ珈琲を一気に呷った。
 その後は、気分を静めたい為に、熱田神宮に立ち寄った。

 写真は有松宿。



(2011年10月17日) 導かれし桶狭間



 狭間は有松に近い場所にある。日本史に通じている人ならば、知っておきたい地名だ。
 有松の街並みからちょっと外れた交差点に、桶狭間の標識がある。この辺か。と言っても、それらしい遺構は無いな。歩くとするか。
 桶狭間交差点周辺は静かな住宅街で、栄や大須の殷賑を記憶している私には、此処が名古屋市だとは思えなかった。しかし、此処にはもう一つの名古屋市が見られるとなると、嬉しさが込み上げてきた。静かな名古屋市だ。今日は、名古屋競馬場周辺の往来の多さ、名古屋駅の煩雑振り、そして、有松桶狭間の閑静な住宅地。様々な角度で名古屋を知る事になる一日になりそうだ。見付けたバス停の時刻表が、かなり閑散としている。やはり、此処に来て正解だな。
 団地、小規模商店、高台の住宅地、バスを待つ老人、遊水池、そして、時折通る自動車。どれを取っても、名古屋市郊外の日常が垣間見られる。しかも、平日となると、日常の行程を全て無視出来るので、あの家では今何をしているのか、バス停で見掛けたあの人は何処へ向かおうとしているのか、通り過ぎた車は仕事中なのかと、「この時間帯は、誰が何をしているのか」を知るスリルも娯しめる。普段は仕事の時間帯だが、漸く貰えた有給休暇を使い、ノビノビと旅を娯しんでいる。見上げる青空も、秋の暖かい日差しも、ちょっと乾いている空気も、私の五感で感じる光景は、全て貴重なる日常の世界。旅人よ、この貴重なる日常の世界を大いに貴び給え。
 此処で一首。
 日常の生活断片各々の非日常の我が娯しむ

 て、どの位歩いたのか。ホームセンター脇に「桶狭間合戦場跡」の看板が出ていた。見付けた。
 見ると、住宅地に囲まれていて、何処でも見掛ける普通の公園。これが、そうなのか。思わず、首を傾げてしまった。1560年5月19日、この地で今川軍25000の兵と織田軍2000の兵が繰り広げた戦いで、戦国時代の新たな時代の幕開けが始まったと言ってもいいだろう。それなのに、極普通の公園だったので、歴史の重みが感じられない。
 桶狭間合戦場跡は、遊具やベンチがある広い公園だが、奥には、桶狭間合戦場の様子を伝える庭園になっていた。これで納得行った。今川義元戦死の地の碑、織田信長・今川義元両公の銅像。更に、当時の居城跡や河川の位置を再現し、それを象った庭園がある。周りが住宅地なので、目を伏せても、油断しきっている今川軍に突撃する織田軍の雄々しさは感じられない。だけど、この戦いがあったから、中部の弱小大名だった織田信長が、一気に有力大名に躍り出たし、松平元康は徳川家康に改名出来、長年今川家の搾取に苦しめられてきた三河武士や松平家を助けた。
 しかし、今川家にとっては凋落(ちょうらく)の始まりだった。跡を継いだ氏真は公家かぶれで録に父の弔い合戦が出来ず、武田・徳川両軍に挟み撃ちにされてしまい、呆気なく滅亡してしまった。
 一つの戦いから、固定化されていた時代が動き出し、それが、一人の人間の人生を大きく変える事があるのだ。桶狭間の静かな住宅地の一角の公園で、ふと自分を顧みた。
 これはどういう事なのか。
 −一つの出来事が、周囲の人間の運命を変え、そして人生を大きく変える事があるのだ。織田信長は激動波乱の人生を送った事で、彼に拘わった武将や敵対した戦国大名、名も知らぬ女性達の運命を激動波乱に変えていったのだ。織田信長から「行動を起こせ」と言っているようだ。一昨日と昨日、彼にゆかりのある大須万松寺(ばんしょうじ)に立ち寄ったのも、それを裏付けているかのようだ。「桶狭間へ行った」のではなく「桶狭間へ導かれた」と言えばいい。
 賽の目で決めた行程だが、全くハズレでは無かった。有松という時間がゆっくり流れる宿場町を見たり、桶狭間に向かう途中静かな住宅街を見て、名古屋市のもう一つの顔と、非日常の旅の行程から、日常の光景を眺めて、平日に旅している特権に酔いしれたり、桶狭間で思わぬ暗示を受けたりしたりと、変化に富んでいた。このまま名古屋市外観光に出掛けたら、月曜日で殆どの観光施設が休館しているので、詰まらなさそうに栄や大須を彷徨いていたのかも知れないな。

 上は桶狭間古戦場跡。
 中は今川義元戦死の碑。
 下は織田信長・今川義元両公の銅像。



(2011年10月18日) 18年振りの京都




 都。世界に名だたる観光都市。私にとって憧れの地でありながら、東京とは違って高貴で伝統を守り抜く意気込みが東京より強めで、行く踏ん切りが付き難かったが(早い話が、地方出身者が「憧れの東京」と言っているのと同じ道理)、今回は時間や金銭の都合が付いたので、行ってみる事にした。
 実は、京都を旅するのは、初めてではない。中学校の修学旅行で訪れた事があるのだ。忘れもしない、1993年2月13〜15日。公私共々大変充実していた中学2年だった。1日目は奈良の薬師寺、法隆寺、東大寺を回って、2日目は京都市街観光。それも、班別観光。班毎に厚い京都のバスの時刻表を開いて、各々観光ルートを模索していたな。今の中学生には、出来るだろうか? そして、最終日は知恩院と清水寺を回って、東京に帰った。清水坂では思い思いに買い物をしたのを憶えている。
 れから18年。大いにはしゃぎ回った中学2年生は、三十路に入ってしまった。そして、2011年10月18日、18年振りに京都に降り立った。『鉄道唱歌』では、「東寺の塔を左にて……」と謳っているが、近鉄特急を使っても、全く同じだ。進行方向から見て、その塔が聳え立っていた。『鉄道唱歌』では8番も使って、京都を紹介しているが。果たして、18年振りの京都再訪では、どんな事が待ち受けているのか。
 しかし、降り立った途端、私は余りにも様変わりした京都駅構内に驚き、外へ出るのを忘れ、あちこち歩き回っていた。京都駅が大きく様変わりした事はニュースで知っていたのだが、こんなに様変わりしていたとは、予想を超える物だった。
 18年前の京都駅はどんな物だったのかな。記憶のフィルムを18年前に巻き戻しても、京都駅の印象は出てこなかった。娯しかった班別観光しか浮かんでこない。しょうがない。様変わりした京都駅構内でも歩き回るか。
 と黒を基調とした京都駅は、デパートが入居した駅ビルが併設されていて、駅ビル側の屋上には展望台が設けられている。流石、世界に名だたる観光都市。何かテーマパークみたいに娯しそうで、簡単に外には出させては貰えないな。それでは、その眺望を堪能しようではないか。京都には余り似合わないエスカレーターを使って。
 展望台は若竹が植えられているコンパクトな庭園が併設されている。硝子越しに見た京都市街の感想は……、ほんの10秒程見て、ハイ、お仕舞い。余り面白くなかったからだ。その景色は、仮に写真に収めて、「東京中心部」と法螺吹いても、通じそうな景色だったのだ。広い敷地の寺院は見当たらず、何処にもありそうなビルが狭苦しそうに建っていた。五重塔も見えたが、どうもねぇ。色は良い朽ち加減だが、東京をよく知らない人にしては、浅草寺の五重塔にも見えてしまう。一体、東京が京都の寺院仏閣を模写しているのか、京都が東京の都市構成を模写しているのか、判別が付けられない。そんな中、京都駅は日陰に入りそうな低さにあった。そのちっぽけさに鼻で嗤うしかなかった。

 上3枚はJR京都駅構内。
 下は京都駅展望台の若竹。



(2011年11月18日) 古都京都で18年間の変化を思う

 度は、京都駅中央口のど真ん中にある京都タワーを見てきた。展望台らしい箇所は赤く、白く塗られたタワーは何とも飾り気が無く、今のような硝子張りではないので、一昔前の雰囲気を色濃く残している。その下はホテルやらショッピングセンター等の複合施設だが、その建物も造りを見ると、何処か細々としていて、煩雑さが拭えず、やはり一昔前の雰囲気だ。確か、此処に家族連れ相手の展望レストランがあった筈だが、その字は見当たらず、18年の年月の長さを実感してしまった。
 に併設されている観光案内所へ入った。此処で18年前の修学旅行で培った京都旅行の知識が活かされている。京都観光にはバスが不可欠だが、そのバス路線は殊の外複雑で、同じバス停が2〜3箇所あったり、行き先が同じであっても経由が違っていたりと、観光者泣かせ。今思うと、厚い京都のバスの時刻表と格闘している私の世代は、本当に頭脳を駆使して、班別観光をしていたんだな。苦労した分、班別旅行の娯しさは倍加していくのだ。良い教育を受けていたんだな。
 さて、係員に京都観光の計画を話した。当初の目的は、18年前の行程の再現をしたいのだが、大津観光が入っているので、二条城と金閣寺だけを回る事にした。
「時間の方は、どの位ですか?」大津観光が入っているから、1時30分頃戻れるようにしたい。
「大津を訪れる予定があるので、出来れば、午後1時頃を目安にしたいんですけど。極力、二条城と金閣寺だけは回りたいんです。」18年前の班別観光で訪れた場所だ。何としてでも、行きたい場所だ。所が、返ってきた答えは、計画変更を迫られる物だった。係員はバスの路線図を広げて説明を始めた。
「それじゃ、二条城と金閣寺は難しいですね。金閣寺は此処から、バスで行くとしても、最低50分は見ておかないと、難しいですね。」往復で約100分。1時間40分。今の時刻は10時30分。バスの時間で塞がれるな。それじゃ、駅から金閣寺より近い二条城にしようか。
「二条城だけなら、そんなに時間は取りませんか。」
「そうですね。15分もあれば行けますよ。」二条城だけは確保出来た。でも、二条城だけじゃ、京都観光としては決め手に欠ける。他に行ける場所は無いか。此処でもう一度、18年前のフィルムを巻き戻した。あった。清水寺だ。清水の舞台もあるし、武蔵坊弁慶が身に付けていたと言われている鉄の下駄や錫杖があるし、門前には土産物屋がズラリと並んでいて、修学旅行最終日とあって、思い思いに買い物した場所だ。
「清水寺はどうでしょうか。」
「清水寺ならば、二条城から近い堀川丸太町から、バスに乗れば行けますよ。」やった。僅か3時間の京都観光ながら、良いコースが見付かったな、コリャ。
 統が多過ぎる京都市街のバスだが、しっかり系統毎の行き先を把握していれば、そんなに怖がる事はない。東京の地下鉄と同じだ。二条城に向かうバスの系統は結構あるので、ビギナーでも行ける。
 しかし、私が乗ったバスは、路地を走る系統で、路上駐車している車をいちいち除けながら運転するという、時間のロスを覚悟する必要がある物だった。バスの路線図を見ると、広い道路を通る系統がよく判るので、今度来る時は時間と一緒に道路事情と相談しよう。18年前は、効率良いルートと良き想い出を求めるだけで良かったのだ。中学2年の私にあって、三十路の私に無い物、何となく判りそうな気がする。電池を入れ替えて、コチコチ動いている懐中時計を見ながら、路地を走っているバスに乗っている私。賢明な方なら、もうお判りだろう。懐中時計を仕舞う他無い。

 写真は京都タワー。



(2011年10月18日) 懐かしき二条城



 川通りに出ると、一気に走行がスムースになった。左側に堀と城壁が見えればもう二条城だ。
 京都市街にある二条城は、京都観光のオススメスポットの一つ。降りると、黄色い帽子を被った小学生や飾り気の無い制服を着た中学生が多かった。時期を見ると修学旅行かな。
 又、18年前のフィルムを巻き戻した。私たちの班が、班別観光で最初に向かったのは、二条城だった。歴史が好きだった私が提案したのだ。その時降りたのが、今降りたバス停の1つ後の堀川丸太町だった。
 入場料600円也。あれ、確か18年前は500円だったな。100円の値上がりは、世間情勢に倣ってなのか。
 まぁ、いい。二条城に行けたから、100円は容赦して。
 は玉砂利の敷地で、先程の小中学生が、パンフレットを貰いながら、あちこち動いている。どの顔を見ても、疲れた表情は一つもしていない。憧れと初めての京都に興奮を隠せないようだな。嗚呼、存分に娯しみ給え。時計の針は元に戻らないのだ。私もそうだった。18年前、パンフレットを貰って、ウキウキしてたな。そして、三十路の旅人に成り果てた私。この中に、18年前の私がいるような気がする、嗚呼。
 の二条城は徳川家康が造った事で有名になっているが、歴史を繙く(ひもとく)と、それ以前に二条城は存在していたのだ。京都を制圧し、14代将軍足利義栄(よしひで)を阿波に追放し、13代将軍足利義輝(よしてる)の実弟義昭(よしあき)を15代将軍に擁立した織田信長が、その義昭の住まいに造ったのが二条城だったのだ。室町幕府15代将軍とは言え織田信長の傀儡(かいらい)だったので、今よりもそんなに豪華絢爛ではなかったと思うが、義昭も将軍家から何のゆかりの無い他人から将軍職を譲られるとは、この時点で気付けば、織田信長に因る室町幕府滅亡も遅れていただろうし、そうしたら、歴史も変わっていただろう。
 この二条城で見逃せないのが、二ノ丸御殿。此処で、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行った曰く付きの場所。入口の唐門を見ると、徳川家康が建てたに相応しい豪華絢爛な門。日光東照宮や久能山東照宮の写真があったら、較べて欲しい。全く違和感が無い。莫大な資金を使った事がよく判る。でも、ど派手な色を使っていない所が、日本の城らしい。
 右隣には菊を展示する台が置かれていた。菊か……。秋が深くなってきてるんだ。時期ではなかったので、大輪の菊は1つも無かった。
 二ノ丸御殿で写真を撮った。天守閣が落雷で焼失した為、此処が天守閣代わりにしていた。観光客の大半は、此処二ノ丸御殿を訪れる。いい証拠が唐門を潜った後で見られる。記念撮影を撮ってくれる写真屋だ。18年振りに訪れたのだから、この私も1枚でもと思っていたが、見本を見ると集団で写っているのが殆どなので、しがない旅烏がポツンと写るのは、嫌な意味で目立つので止めた。
 此処で一句。
 突かれて項払いし松葉かな

 ると、至る所で綻びがある。写真を撮った後でも、その綻びを見て、深い溜息を漏らした。一般の天守閣のように漆喰で塗り固められた壁ではなく、木材が剥き出しになっている箇所があるので、風雨に晒されて傷みが激しいからだ。幾ら世界遺産に登録されていても、こんな様じゃ、観光客は落胆する。成程、100円の値上がりを、この修繕に充てるという事か。原材料高騰の煽りで値上げせざるを得ない事と較べれば、素直に納得出来よう。

 上は二条城の入口。
 中は二ノ丸御殿に繋がる唐門。
 下は二ノ丸御殿。



(2011年10月18日) 面白き二条城

 ノ丸御殿は、襖絵等の保護の理由で撮影が禁じられているので、此処は私の両眼で見た事を素直に綴る。
 一言で言うと、豪華絢爛。詳しく言うと、徳川将軍家の粋を集め、その権威を轟かすような造り。しかも、此処で平成の世に蔓延り(はびこり)つつある格差社会が赤裸々にされている。それは、親藩、譜代、外様大名毎に待機する部屋が異なっていたからだ。酷い物だ。枠にキッチリと填っていなければ行けない江戸時代、言われもない因縁を将軍家から叩き付けられ、外様はずっと外様でなければ行けなかったのだ。薩摩大隅の島津家や、阿波徳島の蜂須賀家はその外様だ。石高は多けれど、京や江戸から離れた場所に置かれ、次に向かった式台の間では、余程珍しい献上品を差し出し、ご機嫌取りをしていたのだろう。反吐が出そうな、忌々しさだ! しかし、島津家は倒幕の一員として将軍家に刃向かい、本懐を遂げたのは、その因縁が爆発したと言ってもいいだろうね。
 一番面白かったのは、将軍が座る場所の一の間の横の扉。そこには万が一、将軍が暗殺されそうな時、此処から護衛の武士が10人程待機していたのだ。又、廊下にも仕掛けがあるのだ。二ノ丸御殿には行って歩くと、床が軋む(きしむ)音がするだろう。これは「ウグイス張りの廊下」と言い、床板に付けられている鎹(かすがい)が動いて音がするのだ(そう言えば、山口市に毛利家13代〜15代当主の墓があり、その前に「ウグイス張りの石畳」があって、手拍子をすると、音が反射するのがあったな)。決して、床板が腐っている訳ではないのだ。まさに、完璧と言えるが、(余談になるが)実際将軍家が狙われたのは、薩摩、土佐、長州(長門)の大名や、坂本龍馬や西郷隆盛等の藩士の倒幕への熱意だった。その結果が、この一の間で行われた大政奉還だ。
 ると、豪華絢爛の絵が描かれている襖(障壁画)等は素晴らしいが、酷く綻んでいるのが殆どで、光が殆ど当たっていないので、お化け屋敷みたいな不気味だった。修繕の必要があるな。幾ら、世界遺産に登録されていても、こんな様じゃユネスコは呆れるだろう。パンフレットを見ると、襖絵の修繕や二条城の本格修繕の協力が出ていた。しかも、当時の画法や技術を用いて、更には天然の材料で彩色して修繕すると言うから、恐れ入る。同時に技術の継承、保存に一役買っている。名古屋城も本丸御殿の復元事業に乗り出しているから、是非とも修繕して欲しい。川越も本丸御殿の修復が終わったからね。
 憩所に入ると、先程の小中学生が休憩していた。黄色い帽子が目立っているので、小学生の修学旅行なのか。皆リュックサックから学習帳らしいのを取り出し、各々記入している。二条城の感想を書いていそうだな。こうなると、21年前の小学6年の修学旅行を思い出す。日光東照宮に行ったな。まさに徳川将軍家繋がりだ。何を意味してるのだろう。小学6年の修学旅行で日光東照宮を訪れ、中学2年の修学旅行で二条城を訪れるとは。そうだ。昨日訪れた桶狭間も徳川家康に関係ある場所だったし。因縁って怖いね。二条城の絵はがきを買いながら、首を傾げた。
 此処で一首。
 二条城修学旅行とすれ違い18年前のその我と会う

 18年前は、徳川家康が造った城であり、豪華絢爛に心身陶酔していたのだが、今となると、国内にその権力を見せ付ける為に、豪華絢爛な二条城を造っていたとなると、忌々しい。でも、その権力を此処で還した(大政奉還)のは、権力を持ち過ぎたツケに見えて、大いに笑える。



(2011年10月18日) 清水寺で「さいなら」



 川丸太町のバス停に着くと、小学生の群れが一杯いた。嫌な予感が過ぎった。真逆、小学生達に揉まれながら、清水寺に向かうのか? でも、別の系統のバスに乗るかも知れないから、それに懸けた。時間も良い具合だし。
 バス到着。清水寺に向かうバスだ。と、小学生がドッと乗り始めた。嫌な予感が的中した。
 バスはこれで満員。しかも、私は立ちんぼだ。出来れば、スンナリ着いて欲しい物だ。
 途中で座れて、祇園に到着。流石、小学生で祇園は年齢的にも精神的にも早い気がする。その通り、小学生は此処で降りなかった。もしかして、次の清水道か?
 して、清水寺の入口、清水道に到着。小学生がドッと降りた。やはり、此処か。特に驚かなかった。此処に来る訳は、18年のご無沙汰があってもよく判る。清水寺の舞台からの京都市街の眺望と、門前の土産物屋が目当てだからだ。
 清水寺の前には急な坂が控えている。そう言えば、二年坂や産寧坂もこの辺にあったな。産寧坂は三年坂とも言って、此処で転ぶと三年後に逝くという都市伝説があったな。中学2年の修学旅行で此処で転んで、夭折した級友がいたと聞いた。出来れば、産寧坂は避けたい所だ。
 さて、その坂の途中から土産物屋が建ち並ぶ。そして、修学旅行生で大いに賑わい、ガラガラだった道が一気に埋まる。生八つ橋や千枚漬け、ソフトクリームやご当地キティが並ぶ。
 18年前も此処で買い物をしたのだ。午前中だったから、今程混雑していなかった気がする。娯しかった京都を去るその前、ここで京都土産を買い込んだ。どんな物を買ったのかはもう朧気だが、此処で私は班別観光の班長の任務を無事遂行した快感に浸っていたのは憶えている。分厚い時刻表と格闘し、何ら事故も無く班別観光が出来たからだ。
 そして、18年後。日程と予算の都合が付いたという理由で、京都を再訪した。此処でも、当時の私が振り返られる光景が至る所で見られた。二条城同様、良き想い出が造れればいいのだ。
 私は小学生で賑わう土産物屋に入り、掻き分けながら生八つ橋を土産に充てた。店員はただ、「ありがとうございました」等の事務的挨拶だけではなく、「気を付けてね」や「落とさないでね」などの心遣いを見せてくれる挨拶が出来るのだ。これぞ観光都市の常識だ。観光客を迎える心意義が出来ている証拠だ。旅人はこのような温かい言葉程、心が解れる事はない。そうすると、「又来よう」と決心が生まれて、又私のように再訪するのだ。例え、私のように再訪に18年も掛かってもだ。
 一つの店で土産を買って、別の土産物屋をチラッと覗く。何処も彼処も修学旅行生で賑わっている。私のような普通の観光客は数える程。あれ、此処は修学旅行生専用の観光名所なのか?
 水寺はやはり、小中学生の修学旅行で混んでいた。二条城と並ぶ京都のオススメスポットの一つ。此処の舞台からの眺望は格別だし、武蔵坊弁慶が使ったとされている鉄製の下駄や錫杖があるし、近くには金運、学業、開運(だったかな?)を叶える3種類の滝がある。とにかく、行きたいスポットが多いのが特徴。時期が早くて、紅葉は期待出来ないが、此処で京都市街でも眺めるとしようか。時計を見ると、次のバスに乗るのに余り時間が無いが、5分の猶予で眺望ならばいいだろう。
 しかし、期待外れだった。清水の舞台の一部は修築中だったし、武蔵坊弁慶の鉄下駄と錫杖は、某展示に貸出中だってさ。嫌な鼻息が出た。折角300円支払ったのに、不意にされた気分だ。
 足早にバス停に向かう私。それを不思議そうに見ながら、京都散策の案を練ったり、何やら書き込んでいたりする修学旅行生達。誤解するな。時間に追われている訳ではない。時間が無いだけだ。そんな三十路の旅人から君達に、一言餞別を差し上げよう。
「この1分1秒を大いに貴び給え。そして、友情、絆、時間、今でしか手に入らない宝物を見付け給え。」 

 上は観光客で賑わう清水坂。
 中は清水寺。
 下は清水寺からの京都市街。





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