2016年8月13日 夏の旅風は西に吹く

(2016年8月13日) 久し振りの日帰り旅は相模湖から

 い休職期間を経て、私は何とか仕事にありつけた。8月1日から働き始めている。試用期間が2ヶ月と長いが、此処まではしっかり仕事できる自信がある。
 そんな中、夏休みがやってきた。
 何処かへ旅に出たいのだが、旅費が捻出できる余裕は余りない。だから、2年前(2014年)のように夏休みを返上して働ければいいのだが、自宅と職場の往復ばかりでは、何時鬱を再発するか判らないので、此処はささやかながらの日帰り旅を2回程取ることにした。
 さが湧き上がり始める9時30分に発った。特に場所を決めていないから、何処へ行こうと私のわがままが利く。一人旅で培った沿線情報をペラペラと捲ると、いい場所があったよ。
 相模湖だ。
 久し振りに買った時刻表を開くと、9時47分の高尾発の松本行きがあった。これに乗っていこう。もし、間に合わなそうだったら、バスで行く手がある。神奈川中央交通の相模湖駅行きが9時47分にあるから、それに乗っていけばいいのだから。
 時計を見ると、9時40分。間に合うかギリギリだ。飛び乗ったのは高尾行きの電車。9時47分の松本行きに乗れればいいのだが、高尾到着は何と1分前。車内は立ちんぼが多少いたが、ロングシートは殆ど埋まっていた。それでも、お好みの場所が見つけられたのは幸いだ。
 国人観光客に人気のスポット高尾山に繋がる高架線を過ぎると、一気に様相が変わっていく。山が迫ってきて、マンションが殆どなくなり、僅かな田畑に囲まれた一軒家が続いた。此処でも、れっきとした東京都だ。新宿の雑踏や渋谷のセンター街しか連想できない、狭隘(きょうあい)な視野しかない人から見れば、恐らく認めないだろう。
 さて、進行方向右側を見ると、高架の中央道が見えてくる。この中央道は私個人としては、大変懐かしい高速道路である。小学5年生の時、親友に誘われて関西へ旅行した折に使った高速道路なのだ。真夜中のパーキングエリアは、まさにワンダーランドそのもので、人気がいない売店をウロウロしながら買い物をしたり、自販機で売られているハンバーガーに舌鼓を打ったりして、今回想しても本当に面白かった旅行だった。
 そんな中央道の高架に見取れていると、隧道に入った。やたら長い隧道。そう、この上に甲州街道随一の難所小仏峠があるのだ。この小仏峠が武蔵と相模を隔てる境を為しているのだ。しかし、隧道の中だから、何処からか相模か全く判らないのがもどかしい。特に、この区間の列車に殆ど乗っていない私は、そのもどかしさと格闘しながら、境の小仏峠に思いを馳せているのだ。
 長い隧道を抜けると左側に沢が見えるが、その流れが進行方向に沿っていれば、小仏峠を越えた証拠だ。目的地の相模湖はもうすぐだ。
 時56分、相模湖到着。文字通り相模湖最寄りの駅だが、降りた客は20人足らず。この列車に乗っている人は、恐らく大月で富士急行線に乗り換えて、富士山か河口湖へ向かう人達なのだろう。相模湖も河口湖も同じ湖の類いなのに、こんなに人気がクッキリしているとは……。



(2016年8月13日) 相模湖で1年振りの再会



 を出ると、小さなバスターミナルがあるだけ。右側には相模湖歓迎の看板がデンと掲げられていたが、降りた客が20人足らずでは、空宣伝に見える。それでも、駅前商店街はあるのだが、土産物屋の類いは見た所1軒しかない。相模湖の最寄り駅なのに、殆ど観光地化されていない。山間の少し賑わいがある町と言えばいいだろう。此処にも、相模湖と河口湖の差がある。
 駅から相模湖迄は意外と近く、駅からまっすぐ歩き、右カーブを曲がらず、階段を降りてそのまま歩くと、相模湖が見えてくるのだ。そこから左へ向かうと、相模湖公園に行ける。
 廃墟になっているパチンコ屋と営業しているか判らない民宿を抜けると、相模湖公園に到着する。
 此処で、私は思わず立ち止まった。
「嗚呼、また来たか……。」
 実は、此処に来たのは2回目なのだ。初めて来たのは、去年(2015年)の4月15日だった。職場の上司との反りが余り合わず、何度も怒鳴られたり脅されたりしたので、鬱を再発させてしまった。それで、当日休みを入れて此処に来たのだ。そのときは、件のバスで来たのだが、その時は小仏峠の南に位置する大垂水(おおたるみ)峠を越えた。その時は、枝垂れ桜が咲いている時だったので、久し振りに笑みが出たことは覚えている。この時点で仕事に対する熱意は殆どなかったから、平日に此処に来た後ろめたさは全くなかったし、紀和の祖母に電話してあれこれ意見されても、全く気休めにならなかった。
 辺のベンチで一休みしても、人影は殆どなく、近くのゲームセンターやボート屋、飲食店や土産物屋は暇を持て余していた。近くには、遊園地があるのに、何処か時代に取り残された印象が強い湖だった。
 して、今回は夏にやってきた。すると、人影がそこそこあった。湖上にはスワンボートを浮かべて遊んでいたり、ボートを借りて釣り糸を垂らしていたり、そして、近隣の大学のボート部だろうか、ボートセーリングの練習をしていたりして、意外と賑やかだった。蝉時雨が時折聞こえるが、此処はもう秋支度をしていた。多くの蜻蛉が飛び交っていたからだ。その光景が珍しいのか、しっかりした望遠レンズを装着したカメラで、飛び交う蜻蛉を撮り続けている人がいた。もう、東京都心では見られない光景が、ほんの1時間余りの此処相模湖では健在なのだ。皮肉にも、此処は闇雲に観光地化されていない何とも心身安らぐ場所だ。
 蜻蛉を撮って二句。
 巣立つ雛与瀬の空行く蜻蛉かな
 蜻蛉や相模湖の湖風涼み舞ふ

 景だけではなく、それらを取り巻く相模湖周辺は静かで、商店は1箇所に纏まっていて、闇雲に観光地されていない感じである。辺にある土産物屋等を覗けば、何処彼処も鄙びた(ひなびた)雰囲気が強く、ボート乗り場にあるゲームセンターは色褪せたり、20年前のゲームが現役を務めていたりして、益々観光地されていないことが赤裸々にされている。それでも、こうして今でも現役で動いているとは、日本の機械の長寿命に感心するよりも、都心では無くなったコンピューターゲームに出会えることに嬉しさを感じる。昭和レトロが詰まっている場所だ。また、スワンボートは塗装し直したのか、妙にピカピカだった。このスワンボートも東京都心ではなかなかお目に掛かれないだろう。上野公園や井の頭公園にはあるかと思うが、相模湖程自然は多くなく湖も小さいから、存分にボートを娯しむことはできないだろう。

 上は相模湖駅の駅前広場。
 中は相模湖公園からの相模湖。
 下は相模湖周辺の商店街。鄙びた雰囲気がよく似合う。



(2016年8月13日) 相模湖の遊覧船で一服




 の形をした遊覧船が到着し、30人前後の客が吐き出された。遊覧船があるのか……。時間があれば乗りたいけど、まだ予定があるから。と、件の商店近くに向かうと、
「遊覧船に乗っていきますか?」と聞かれた。見ると、此処も遊覧船乗り場になっていた。別の会社の遊覧船だが、出港まで後10分と迫っていて、1周25分で回るという。そうだな。こうやって日帰り旅ができたのだから、何かのご縁だろう。乗っていくか。
 800円也。小さなゲームセンターを抜けると、乗り場へ着く。乗り場も観光地化されていない。足場は簀の子で、簡素な管理小屋に丸いテーブル1膳に椅子4脚。自販機の類いは無い。でも、観光船は綺麗な白鳥の形をしている。今は給油中だが、ドラム缶からの給油とは、此処も観光地化されていない。
 その間に、相模湖でも眺めているか……。
 辺に建つホテルの類いは片手で数えられる程で、それと離れて民家が点在している。左側には勝瀬橋という大きな橋があるが、全く景観をぶち毀していないシンプルな橋。此処にも、観光地化されていないことが判る。周辺は何と緑豊かな山間の里。此処に別荘でも建てたら、結構良さそうだな。観光地化されていないから、軽井沢よりも安く建てられるだろう。
 乗客は私を含めて4人。それも、2階の野外席。ベンチの下に救命道具が備え付けられている簡素な造り。近くには、相模湖の造営で地底に沈んだ旧日連(ひづれ)村勝瀬集落の在りし日の写真が飾られていた(蛇足だが、日連の地名は相模原市緑区日連に残されている)。鯨の遊覧船が30人前後で、白鳥の遊覧船がたった4人とは。気兼ねせずに眺望が娯しめるが、燃料費の元が取れるのか、そんな相反する思考を脳裏に過ぎらせながら、遊覧船は出発した。
 発するや否や、スワンボートに乗っている家族連れに出会った。スワンボートは足で漕ぐから疲れるだろうから、遊覧船に乗ればいいのに。遊覧船はそんな無言の冷やかしを投げて、進路を180度回転させて航路を走った。
 湖だから、大して揺れが無い。窓框(まどかまち)に頬杖をして、暫く相模湖からの眺望を娯しもうではないか。
 側に「御供岩(おともいわ)」という、何やら縁起がいい岩が見えてくる。それもその筈、此処で漁をしていた漁師の兄弟が、此処で金色に輝くご神体を見付け場所が此処なのだ。近くの森に祀っていたが、界隈で疫病が流行ってしまった。そのことを古老に相談した所、「祀っている場所が悪いから、近くの神社に祀りなさい」との答え。早速、神社に祀り直した所、疫病はピタリと止んだという伝説がある。そして、この神社は江戸時代の甲州街道与瀬(よせ)宿で、必ず参拝するという与瀬神社である。この私が仕事にありつけたのも、この岩に誘われたという因縁を感じる。
 覧船は入り江のような入り組んだ場所を走り始めた。此処では、相模湖の様相が異なってくる。スワンボートから釣り舟である。遊覧船が近付いてきたことを知らずに、ゆっくり釣り糸を垂らして獲物を狙っている。絶え間なく聞こえる蝉時雨を聴きながら。鮒とかブラックバスとか釣れるのかな。
 相模湖の涼しい湖風を受けて一句。
 釣り糸や湖風に戦ぐ蝉時雨

 線を上にすると、高台に別荘みたいな大きな家があったり、「中国料理」云々と掲げられたネオンがある突飛に高いホテルがあったり、そして、中央道の高架が見えたりしていた。ちょうどそこには、相模湖インターチェンジの標識が出ていた。確か、下り線に相模湖東という出口専用のインターチェンジがあったな。入口とか増設しないのかな?
 模湖の西端迄行くと、黄色いブイがあって、何やらブクブク気泡が上がっている。遊覧船だけの特別サービスなのか。そうだとしたら、迫力不足だ。実はこれ、相模湖に酸素を送っている設備がある場所なのだ。こういうダム湖は水の流れがスムースではなく、アオコ等の藻が発生し易いのだ(いわゆる「富栄養化」)。そこで、定期的に酸素を送り込み、水を浄化させているのだ。大規模ではないが、日本の環境保全対策は世界でもトップクラスだというので、侮る勿かれ。こういう努力があるから、先程の釣り人が難無く釣りができるということだ。
 観と強度を兼ね備えている日本の技術の粋を集めている(といえば過言か?)勝瀬橋を過ぎて、暫く走ると、先程の中央道が見えてきた。見ると、速度が余りないので渋滞しているようだ。渋滞で苛々しているドライバーには申し訳ないが、こっちはゆったりとした相模湖で、悠々と夏の旅を娯しんでいるよ。おまけに、湖から風が何とも涼しい。思わずベンチに凭れて、大きく深呼吸をした。柔らかい水の薫りが、痩身に染み渡った。800円払ってこんな贅沢な時間が過ごせるとは……。
 バーが掛けられている舟を横目にすると、雑木林に囲まれた別荘らしい建物が見えてくる。シャッターが閉められているので無人かと思うが、こういう光景は何処かで感じたことがあるな。そうだ。金田一耕助シリーズの名作『犬神家の一族』だ。舞台は湖に近い場所だったし、こうしてポツンとある状況も、何かしらあるのではないかと思わせてくれる。『犬神家の一族』の出演者に聞いてみても、納得すると思う。
 『犬神家の一族』を脳裏に過ぎらせていると、注連縄(しめなわ)が現れた。解説に因ると、今流行のパワースポットだそうで、ご神体は何と相模湖の湖底にあるそうだ。もしかしたら、相模湖に沈んだ旧日連村の神社があった場所ではないのだろうか。
 かつては与瀬宿の一部として賑わい、明治時代は金融業や問屋業等の多角経営で大いに潤った。それも、この村に誰一人貧困者がいなかったという最強の理想郷だった。しかし、昭和初期の相模ダムの建設で、村民は相模原、日野、八王子等に離散し、村の歴史は永遠に相模湖の下に沈んだ。時々、渇水でダムに沈んだ集落の名残が見えてきたというニュースを聞く。日本の近代化には、こういう犠牲を伴っていたと言うことを、しっかり胸に刻んでおかなければならないのだ。ただ単に、ダム湖で遊覧船に乗って優雅な一時を過ごした、空梅雨でダムの貯水率が50%を切ったと一喜一憂する前にだ。

 上は相模湖を遊覧する、ニュースワン丸。
 中は金色のご神体が上がった謂われのある「御供岩」。
 下は廃墟になっている別荘と、注連縄が掛けられているパワースポット。



(2016年8月13日) グラタンの湯気を浴びながら

 覧船は相模湖大橋や嵐山洞門を右にして、水力発電所の装置がオブジェとして置かれている相模湖公園を過ぎて、遊覧船乗り場へ戻った。
 また、鄙びた(ひなびた)ゲームセンターを抜けて、土産物屋へ入った。しかし、いい意味での観光地化されていない所を今まで見てきたのだが、此処で見たのは悪い意味での観光地化されていない現状だった。
 絵はがきを買おうとして、1軒目の店に入ったが、照明がない所為か、ガラスケース越しに置かれている土産物が古びて見えた。更にその土産物も、かなり年季が入っているもので、手に取ることはなかった。2軒目は照明が入っていて、多少期待できるかと思ったが、相模湖らしい土産物は無く、鄙びた民芸品が並んでいた。その中に、私が探していた絵はがきがあったので買おうとしたら、
「その絵はがきはかなり古いので、もし宜しかったら差し上げますよ。」とのこと。出費は避けられたが、私にしては何処か後味が悪かった。絵はがきの需要が少ないことは承知だが、人が余り来ないから、奮起する気力が無いのか。こうやって訪れる人がいる以上、河口湖のような観光名所にしろとは言わないが、精一杯迎えて気分良く発てる努力をして貰わないと、本当に人が来なくなって仕舞い兼ねない。遊覧船乗り場で貰ったパンフレットも真新しいというのに……。
 模湖駅に戻ると、もう11時を過ぎていた。相模湖をぷらっとして発つ予定だったが、遊覧船に乗ったので2時間も経ってしまった。
 そういえば、朝から紅茶1杯しか頂いていないから、何か頂くか。予定では甲府でほうとうを昼餉にしたかったが、相模湖から甲府迄1時間以上掛かり、持ちそうもないので、繋ぎにしよう。
 と、向かったのは相模湖駅近くのレストラン。しかし、そのレストランの名前を見た途端、吹き出してしまった。店名は言えないが、ヒントとすれば「ザ・ドリフターズ」だな。それを知っていれば、本当に吹き出しそうなので、相模湖に来た折は乞うご期待!
 11時で昼餉時間には早いので、店内は空いていた。テレビは丁度リオデジャネイロ五輪をやっていたのでチラチラ見ながら、品書きを読んだ。品書きにはカツ丼やカツカレー、ハンバーグステーキにとんかつ等、大都会のファミレスと遜色ない品揃えだが、繋ぎにしてはちょっと重い感じがする。グラタンがあるので注文した。エビグラタン、680円也。東京だと800円位するので、相模湖価格だ。
 時刻表を開くと、11時44分の小淵沢行きがあり、時計を見たら後20分程だが、折角観光地化されていない相模湖に感動したのだから、ゆっくり味わいたい。次は12時20分あるのでこれにしよう。
 ホワイトソースとチーズに隠れているペンネとエビをフォークで追い回しながら、ゆっくり頂いた。
 窓から見える中央道を見ながら一首。
 高見する高速の渋滞昼餉かな熱さ厭わぬグラタンの湯気

 うしている内に、成田エクスプレスの車両が駅を通過した。これは大月から富士急行線に乗り入れて、河口湖迄行くのだ。成田に降り立った外国人観光客を、有名観光地河口湖や富士山に誘う為の延長運転だが、特急車両は闇雲に観光地化されていない相模湖を、無視するかの如く通過していった。



(2016年8月13日) 城跡とスイッチバック


 12時20分、甲府行きに乗った。帰省の時期でそんなに混んでいないなと思ったら、意外と混んでいた。大きな荷物が無いから、帰省ではなさそうだ。察するに、大月で富士急行線に乗り換えて、河口湖か富士急ハイランドへ向かうのだろう。しかし、私は遊園地は嫌いだし、観光地化していない相模湖に行ったばかりだから無視した。
 中央本線の見所は、高尾以西に一杯あると思う。橋脚がアーチ状になっている橋や、黄色くなり始めている田んぼが並んでいる所に桂川がある景色があるので、つい写真を撮ってしまうだろう。そんな中、ドアに凭れながら、周囲の異様な視線を気にせずに車窓からの景色を撮り続けている光景は、明らかに「私は余所者だ」と赤裸々にしている。
 車内を見渡して一句。
 山遊び夏の宴の午睡かな

 田家の武将の一人、小山田家ゆかりの岩殿城跡が見えたら、大月に到着する。すると、車内は潮が引いた如く乗客はいなくなる。そして、一様に富士急行線乗り場へ向かう。恵比寿や南青山、西麻布ではあるまいし、有名観光地だからとばかり、何ら疑いもなく行ってしまうなんて。流行に遅れたくないのか、馬鹿馬鹿しい。こんな人種に相模湖を紹介しても、時流に乗らない魅力が理解できず、「静かすぎてつまらない」と愚痴を零すのがオチだろう。
 此処からは、鉄道ファンにとって見逃せない場所が目白押しだ。
 初狩、笹子。これでピンときたら、鉄道ファンだ。
 初狩に到着したら、列車が右に傾いている感じがする。これだけでかなり面白いのだが、右側を見ると暫く線路が続いている。実はこの駅は、昔(方向を変えながら高度を稼ぐ)スイッチバック駅で、傾斜がかなりある此処初狩駅では、昔の機関車では今のような路線図では行けなかったので、傾斜が緩い右側の線路に列車を入線させていたのだ。そして、後ろの緩い坂にバックして、本線を走るというわけだ。
 そして、次の笹子も同様だ。笹子の場合は本線の後ろにあった。入線は初狩と逆の方法。列車を緩い坂に入線させて、バックしてホームに入れたのだ。現在はJR東日本の研修用として、第二の人生を歩んでいる。

 上はスイッチバック時代の初狩駅跡。
 下はスイッチバック時代の笹子駅跡。



(2016年8月13日) ノンビリ行こう夏の甲斐路



 い笹子隧道を抜けると、列車は甲斐大和へ到着した(旧名は初鹿野(はじかの))。武田勝頼公終焉の地、天目山の最寄り駅で、案内板にも出ている。
 列車の通過待ち合わせで6分程停車する。ホームには喫煙所があるので、愛煙家は此処ぞとばかりホームに出て、紫煙を広げていた。ホームは甲州鞍馬石という茶色い石の灯籠があるので、冷えたミルクティーを啜りながら一服。ノンビリしている乗客を後目に、特急列車が「先に甲府へ行ってるね」と、嘲笑うが如く通過していった。そんなに急いで、何になるのだ?
 の勝沼ぶどう郷もスイッチバック駅だったが、その名残は線路ではなく当時を再現したホームのみ。車窓から見ると、葡萄の葉が葉月の日差しを受けながら生長していた。葡萄狩りシーズンまであと少しだ。シーズンだと結構賑わうだろうな。21年前に此処を訪れたことがあるが、シーズンオフの冬だったので、葡萄には縁が無かった。
 山からは甲府盆地を走り始める。此処でも延々と葡萄畑が続く。駅に着き、乗客がドアのボタンを押すと、盆地独特の蒸し暑さが厚顔無恥に車内に入ってくる。だとすると、向かう甲府は結構暑いだろうな。東京界隈でも、甲府の予想気温の高さは驚くばかりだから。
 左手から単線のJR身延線が入り、金手(かねんて)駅を通過すると(金手駅はJR身延線の駅)、甲府に到着する。13時44分着。
 コンコースでは、巨峰や黄金桃という、甲州ならではの土産物を売り捌いていた。改札を出るといきなりだから、此処で財布の紐が緩んでしまう。黄金桃なんて、八王子でも見掛けないからな。土産に買っていくとするか。箱入りの黄金桃、4つで1200円也。
 ……そうだ。昼餉を摂らなくては。相模湖でエビグラタンを頂いただけでは、充分ではない。
 香り高い黄金桃を抱いて一句。
 夏の甲斐葡萄と桃を愛でる旅

 上は甲斐大和駅ホームにある甲州鞍馬石の灯籠。
 中は葡萄が葉が生い茂る勝沼のぶどうの丘。
 下は甲府盆地が広がり始める塩山付近。



(2016年8月13日) 甲府の昼餉はほうとうで、食後の散歩は時の鐘



 かったのは、ほうとうの店。最後に行ったのは3年前(2013年)の8月。確か、買ったばかりのデジタルカメラの撮影の練習がてらに行ったな。
 途中で、山梨県の大英雄、武田信玄公の銅像で1枚撮った。こんな暑い中でも、銅像を撮っていく観光客の多いこと。甲冑を纏い、右手に軍配を持ち、ドッシリとした体格は如何にも総大将の雰囲気が濃い。もし、10年も長く生きていたら、天下を取っていたかもしれないし、彼が取った善政や度重なる水害から領地を守る為に建設した信玄堤、3つの村に平等に水を供給するように工夫した「三分一湧水」、そして、徳川幕府が制定した「両・分・朱・文」の4進法の貨幣制度を最初に制定したのは、彼だと言われている。
 に入ると、昼餉の時間としては遅めだが、客の入りは結構あった。此処にはほうとうの他に丼物や山梨産のワインや地酒が置かれているが、注文するのは暑い時期にも拘わらずほうとうが多い。「うまいもんだよ、カボチャのほうとう」と言われている位だから。
 此処で、歯応えがある馬モツ煮と鴨肉ほうとうを頂いた。
 ほうとうは平たく厚みのある麺を味噌で煮込んだ、武田信玄公の陣中食として広まった郷土料理だが、中は意外とてんこ盛りだ。人参、馬鈴薯(じゃがいも)、里芋、白菜、南瓜(かぼちゃ)、さやえんどう、蕨、椎茸が入っている何ともヘルシーな食べ物である。その中に鴨肉がいい具合に入っている。
 鉄鍋の出来たてが運ばれていくので、最初は別の椀に盛って頂く。そして、頃合いを見て、鉄鍋のままで頂く。ほうとう1人前で結構お腹一杯になる。今回も、美味しく頂きました。
 府駅の北側には、武田神社があり、かつて武田家が本拠地として構えていた躑躅ヶ崎(つつじがさき)館があった場所である。此処は甲府観光の目玉であるが、最近になって同じ甲府駅北口に新しい観光施設ができたそうなので、行ってみた。これから武田神社に向かうのだが、まだ時間があるので、ブラリと。
 歩くと、石造りや黒い煉瓦造りの建物が続き、建物の様相から見ると、大正浪漫溢れていて、タイムスリップした錯覚に囚われる。「大正浪漫夢通り」と言う通りが、川越にもあるな。そこには美味しいカフェや石窯で焼いたピザ屋、そして、行列必至のうなぎ屋もあって、観光客を引き寄せている。此処にも、ピザ屋やうなぎ屋とかあるのかな。カフェはありそうな感じだから。見ると、やはりカフェの類いはありそうだ。
 すると、鐘の音が鳴った。ゴーンと。聴いた音色だな。そうだ。川越の蔵造りの街並みにある時の鐘だ。此処甲府にもあるのか。見たら、煉瓦色をした鐘楼があった。色から見て西洋風だ。川越の時の鐘とは外見は違うが、近くの説明を見ると、甲府城下に時を知らせていたそうである。因みに名称も「時の鐘」。川越と同じだ。
 間になったので、バス乗り場へ戻ると、10人前後の客が待っていた。この人たちも、武田神社へ向かうのか?
 しかし、時間になってもバスは来なかった。モワッとした盆地独特の暑さに、流石に山の麓の八王子の住人の私でもウンザリ。植木からはミストが出るようになっているのだが、バス乗り場まで届かない。その涼しげなミストを見ていたら暑さは倍加し、鬱陶しさを紛らわす為に、鞄から扇子を取り出し、忌々しげに扇いだ。甲府も首都圏と近いながら地方都市の一つで、道路はそんなに混んでいないと思っていたけど、此処でも遅れるのかな?
 南甲府駅を経由してきた、ガラ空きのバスがやってきた。武田神社行きだ。待っていた10人前後の客がこのバスに乗り、一路武田神社へ向かった。

 上は甲州の郷土料理、ほうとう(一例)。
 中は甲府駅北口にある「甲州夢小路」。
 下は甲州夢小路にある時の鐘。



(2016年8月13日) 真夏の武田節



 府駅から武田神社への道程は、直線に進むだけ。途中下車する客は誰一人無いまま、終点武田神社へ進んだ。一、二を争う憧れの戦国武将のゆかりの神社だ。今流行のパワースポットになっているのだろう。だからといって、スマートホンゲームで屯するのは、彼に対する侮辱の他ないだろう。
 田神社はやはり、老若男女の観光客で賑わっていた。勿論、近くの土産物屋も繁盛していた。繁盛しているのに、土産物屋は僅か1軒。もう少しあればいいのにと思うのだが、住宅地が迫っているから難しい話だ。
 武田神社の歴史は意外と新しく、大正8年に創建された。当時の宮内省(現在の宮内庁)は、武田信玄公の功績を讃え、その子孫を表彰しようと(従三位を授与された)、ゆかりの人物を探していた。その人物は信玄公の次男坊の子孫で、織田の軍勢に滅ぼされて後は、息を潜めて暮らしていたが、徳川家光公の13回忌の恩赦に因り漸く日の光を浴びられた。更に幕臣の柳沢吉保の推薦で、500石の表高家として復興したのだ。その子孫が脈絡と続き、大正8年の武田神社創建に繋がったのだ。神社としては新しいが、参拝者は多い。
 朱塗りの太鼓橋を渡ると、右近の橘と左近の桜が出迎えてくれる。両方共、時期ではないので花は咲いていないし、実を生らしていない。その代わり、右近の橘には花を咲かせる前の百合が図々しそうに茎を伸ばして、3つの蕾を垂らしていた。百合の花は可憐でいいのだが、こうやって野生化して、剪定されないまま茎を伸ばしたり、必要以上の蕾を付けていたりすると、品が悪くなる。こういう所にも気を配って欲しいものだ。
 石垣の高台に神社があり、灯籠には武田菱の透かし彫り、本殿の両脇には同じ武田菱がある漆塗りの大きな杯が奉納されていて、信玄ファンにはまさに聖地だ。境内は参拝客で賑わっていて、今流行のスマートホンゲームで屯している馬鹿はいないようだ。信玄公のご偉功にあやかりたいのか、本殿では1分程しっかり合掌している参拝客がいたり、御朱印が貰える場所に行列ができていたりと、平成時代でも脈々と信玄公のご偉功が続いているいい証拠だ。
 日帰りながら旅ができたことに5円玉で感謝した。
 内を歩くと、水琴窟と「姫の井戸」という湧き水がある。
 水琴窟は岩との狭間の隙間に水滴が落ちる音が聴ける場所で、竹筒で聴いていた。先客が去ったので、聴いてみた。でも、水滴が落ちるタイミングが掴めないので、聴けるかどうかはその日の運次第。折角旅ができて、相模湖で幸運を掴んだ感じがしたから、聴けるだろう。
 静音が広がっている空間。「ゴー」という外気の音が聞こえている中、ほんの一瞬聴けた。人心を覚醒させ俗世を矯正するかの如く、鋭く高い鐘が「ピン」と短く響いた音色だった。初めて聴いた水琴窟だが、何ともいい音色だった。おまけに何時でも聴ける物ではないので、偶然聴けて嬉しかった。
 「姫の井戸」は信玄公の姫の産湯として使われたり、勝頼公が京からの使者を茶の湯でもてなした時の水として使われたりした曰く付きの井戸である。今でも、滾々と湧き出ていて、参拝者たちのちょっとした土産や喉を潤している。社務所近くには、その水を取るペットボトルが売られている。350ミリリットル位入って、100円也。しかし、神仏のご加護に大いに与りたいとばかり、ポリタンクに曰く付きの水を入れるがめつい輩がいるのも事実だ。「100円払って、僅か350ミリしか入れられないなんて、チンケ過ぎる。ご加護があるならば、存分に頂かないと。」とばかりにだ。信玄公の怒りに触れるのも、量次第という所だ。私は単に、喉を潤したいだけなので、柄杓でその水を汲んで、ゆっくり飲み干した。円やかな喉越しだった。
 今夏を無事に乗り切れますように。

 上2枚は武田神社と本殿。
 下は神社の境内にある姫の井戸。





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