2016年10月13・14日 秋旅は夜から始まる

(2016年10月13日) カフェにいる痩身の旅人

 、一人の男がいた。
 或る日に気を病んで幾星霜、それと闘いながら仕事に精を出していた。
 しかし、夏が終わろうとしていた或る日、鎮まっていた鬱が再発してしまい、精神科から、「治療は長期的に見た方がいい」と言われ、折角手に入れた仕事を手放さざるを得なかった。この痩身に用は無くなったのだ。
 手渡しで給料を頂き、その帰り道にその給料袋を見ながら、これからどうしようかと考えてばかりで、帰り道を大きく逸れてしまった。八王子に戻っても、行き付けのカフェにこもって、痩身に装置されている頭脳を駆使したが、何ら解決は見付からず、時間だけが過ぎて深い溜息が漏れた。
 そんな時、一つの思いが浮かんだ。
 武蔵境で働いていた時も、高尾で働いていた時も、嫌なことがあった時、ふと呟いていたことがあった。
「伊勢志摩へ行って、気晴らししたいなぁ……。」伊勢志摩は何度も行ったことがあるが、嫌なことがあって即座に行ったことはなかった。酷い話、今回の職場では、仕事自体は大してきつくはなかったが、人間関係が余りよくなかった所為か、気晴らし云々と考える余裕は無かった。
 して、数日後。また行き付けのカフェに私がいた。時間は夜だ。
 普段はリハビリと銘打って、カフェにいることが多いが、今回だけは夜だ。傍らには私の相棒がいた。黒い鞄にカート。そして、私の旅の詳細を記録してくれるデジタルカメラだ。
 暫く、夜のカフェで、出発時間までノンビリするとしよう。眼前に見えるまだ青い銀杏を時折眺めて。
 夜のカフェだけではなく、夜から旅が始まる滅多に無い行程なので、気鬱である私の心身も久し振りに明るくなった。その一条の光が、私のペンを軽くさせてくれた。白地の紙に次々と和歌が綴られた。五七五で終わる俳句だと、上手く私の心情が伝わり難いので、七七を加えた短歌が多く綴られるようになった。見ると、鬱再発で重苦で陰気になっていた短歌が、この時は明るくなっていた。折角の職は失わざるを得なかったが、今年の残りの3ヶ月は決して無駄にせず、無理をせず、自分に向き合って過ごしたい。
 その余興として数首を綴りたい。
 夜のカフェ碧き銀杏(いちょう)見届けて気鬱を晴らす漲る秋旅
 アイスティーガムシロップを入れた筈甘く感じぬ苦き道なら
  旅鴉カフェで寛ぐ女子校生綺麗な制服若さ微笑む

 っと、特急列車の時間まで後10分。出立するとするか。底に溜まっていた薄いアイスティーを啜って、カフェを出た。



(2016年10月13日) 深夜の八重洲を歩けば……


 急列車で東京駅へ向かった。向かったのは、東京駅9・10番線ホーム、ではなく、八重洲口高速バス乗り場だった。
 この10年、私の旅事情は大きく変化した。昔、伊勢志摩へは、「ムーンライトながら」という夜行列車に乗って、名古屋へ向かう行程を取ったので、旅費がかなり浮いたのだが、その夜行が臨時列車に格下げされた。一時は、夜行高速バスで上手く旅費を浮かして、深夜のサービスエリアを巡りながら、異次元空間を一人娯しんでいた。所が、2011年8月の帰省に乗車した時、久し振りにバス酔いしてしまい、その尾を引きながら旅路に就いた苦い経験から、早朝の新横浜始発の新幹線に乗らなくてはいけなくなった。始発だから、難無く自由席に座れて、少しは金銭節約ができるのだが、体調と金銭節約は相反するものなのか?
 今回の旅は、予算が多く捻出できないので、快適な行程を捜していたら、当たったのは夜行バス。それも、3列シートの快適な夜行バスだ。値段も、3900円とお得なので利用することにした。夜行バスを利用するのは、もう5年振りになる。
 ……と、そんなことを脳裏に巡らせつつ、夜の東京駅周辺を写真に収めた。見た所、いきなり高層ビルが威圧的に建っていなかったので、八王子駅周辺と余り変わりない気がする。下手に法螺吹いても、通じるだろう。
 出発の22時50分までまだ時間があるので、ちょっと寄り道を。順風満帆の人生を送っていても、巧く寄り道できたら人生に華が添えられる。例え、鬱に蝕まれている私でも。
 「重洲」の語源となった、ヤン・ヨーステンの像を撮り、私が向かったのは、立ち食いそば屋だった。店名は私にとっては、非常に懐かしいもので、(私的になるが)親戚と一緒に後楽園ゆうえんちに併設されている、場外馬券売り場に立ち寄り、その帰路に立ち寄ったそば屋だからだ。そこにあったそば屋は既に閉店しているが、その店の近くに地下鉄の駅や坂道らしい道があったことや多くの客で賑わっていたこと、50〜60代のおばちゃんが懸命に働いていたことは憶えている。
 そんな色褪せている記憶のフィルムを巻き戻しつつ、その店を捜していたら、閉店時間を過ぎていた。それじゃ、何処にしようか。
 見付けたのは、近くにあるラーメン屋。何と、北海道色が詰まっているラーメン屋だった。おぉ、懐かしいなぁ。今冬に行ったな。長万部で蟹を頂いたり、本場の札幌味噌ラーメンに感動したり、夜歩いた札幌のイルミネーションに感動したりして、娯し過ぎた旅行だった。
 注文したのは、旭川醤油ラーメンだった。塩・味噌もあったが、この二つは函館と札幌で制覇したので、残りは旭川の醤油ラーメンだ。東京も醤油系だが、その違いはよく判らない。まぁ、難しいことを考えると気鬱再発に繋がってしまいそうなので、腹拵えだ。
 後は、イタリア・フィレンツェにある「幸運の仔豚」像を見付けた。何でも、鼻先を撫でると幸運に巡り会える伝説があるそうだ。その伝説通り、鼻先が綺麗な青銅色を放っていた。幸先の良い出発前だな、コリャ。そうだ。この私も鬱で痩身を削られて、職も失って、景気付けの伊勢志摩への旅になるから、一杯撫でておこう。
 先述のヤン・ヨーステンの像と幸運の仔豚像が何処にあるのかは、自分で捜してくれ給え。自分の足で捜して見付ける快感は、気持ちがいいものだ!

 上は「八重洲」の語源となったヤン・ヨーステンの像。
 下は幸運の仔豚像。



(2016年10月13日) 十三夜の月と高速バス

 22時50分の名古屋駅行きの高速バスに乗ると、木曜日なのに、結構乗車率が高かった。見た所、出張帰りのサラリーマンや東京での用を済ませて帰路に就く人が多そうで、私の如く旅の往路に赴く人は……、私だけみたい。目一杯リクライニングを掛けて、アイマスクを付けてグッスリ寝ますか。あのバス酔いの二の舞は真平御免だからだ。
 ……はり、眠れない。アイマスクを外し、ゆっくり目を開けると、夜行バスは東名高速を疾走していた。此処でも、過去の思ひ出のフィルムを巻き戻した。小学生の時、友達の家族と一緒に関西へ旅行した時、高速道路を通った夜が殊の外印象に残っていて、インターチェンジを通過した時間を明記したり、夜のサービスエリアでちょっとした買い物をしたりしたことがある。自販機で売られているハンバーガーは忘れられない存在だ。今でも、あるのかな?
 そのフィルムを見終わると、もう一度、アイマスクを付けて一眠り。
 スは足柄サービスエリアに入って、トイレ休憩を取った。時間は20分。どういった訳なのか、こういうトイレ休憩の時だけは、しっかり目が覚めるのだ。グッスリ寝ている人には申し訳ないけど、深夜のサービスエリアを娯しませて頂きますよ!
 トイレ休憩なので、時間は20分と限られているが、これをどうやって過ごすかが腕の見せ所なのだ。先にバスの停車位置を確認して、トイレ休憩を済ませてから、自分の用を済ませるのだ。サービスエリアでは、深夜でも開いている売店やファーストフード店があるので、残った時間はそこで使うのだ。昼間は混雑する売店も、深夜になると思うがままに買い物ができるのだ。テレビでは昼間の混雑と繁盛が紙一重のサービスエリアを紹介しているが、私は痩身が楽に動かせて、頂きたい物が難無く頂ける深夜派。とは言っても、巧く捻出した旅費を浪費する訳には行かない。此処は、富士山の絵はがきを買って終わりにした。
 その途中の駐車場で、月を仰いだ。十三夜の月だ(正確には昨夜だが)。満月ではないが、何とも綺麗な月だ。十五夜、十六夜(いざよい)と「名月」と謳われる月が、旅の往路を照らしてくれるのだ。その月に軽く挨拶を交わし、バスへ戻った。
 名月に一首。
 足柄の真夜(まよ)の宴の十三夜寝付けぬ我への贈り物かな

 イマスクを付けて一眠り。今度こそはグッスリかと思ったら、2回目のトイレ休憩で目が覚めた。おいおい、私の睡眠はとんでもなく浅いな。周囲の人達同様グッスリ眠れるようにしてくれよ!
 所は、蜜柑で有名な三ヶ日。浜松市北区だ。高速道路のサービスエリアかと思ったら、農協が経営している特産センターだった。深夜帯なので、店は閉まっている。東名高速には確か、浜名湖の近くにサービスエリアがあった筈だ。そこがトイレ休憩の場所だったら、いきなりメロン製品が買えただろうに。何ともつまらないトイレ休憩だった。
 度目が覚めると、刈谷付近を走行していた。バスは名古屋市営地下鉄鶴舞線沿線の八事、杁中(いりなか)に停車し、乗客を降ろしながら、名古屋駅太閤通口へ停車した。時間は6時丁度。

 写真は足柄サービスエリアで見た十三夜の月。



(2016年10月14日) 久し振りの亀山行き


 スから降りて、ゆっくり背伸びを繰り返した。気分の方は然程悪くなかった。あの二の舞は避けられたのだ。だけど、小刻みの睡眠は、四十路近くの身体には重かった。こんなことで、年を取った証にはしたくないね。人生80年。まだ折り返し地点には着いてないよ。こうやって、早朝から元気に行動できるだけでも、大いに若さを謳える証なのだ。若い家族連れよ、ざまぁみやがれ!
 カートをコインロッカーに預けた。此処で苦笑。何と、預けた番号は、今までカートを預けた番号と同じだったのだ。こういうのは偶然なのか? もしかしたら、何度も旅している伊勢志摩だが、予期せぬことに出会えるのか!?
 何時もの行程は、快速「みえ」で一路向かえるのだが、快速「みえ」1号の発車が8時35分で、2時間以上も此処で足止めを食う訳には行かない。今回は、亀山経由の鈍行で向かうことにした。
 山行きに乗ると、座席はスンナリと埋まった。途中に桑名や四日市があるので、そこへ通勤するのだろう。
 通勤か……。私もほんの前までは、電車に乗ってドアに軽く凭れて、景色を眺めながら通勤していたが……、ヤメ。今はそんなことを考える場合ではないのだ。鬱を沈静し、次の仕事探しに精進する気力を貯める為の旅なのだ。
 曽三川を越え桑名に入り、桑名ではナローゲージ(2本の線路の間隔が狭い路線)で有名な三岐鉄道北勢線に出会い、富田では貨物ヤードの一部として使われているホームを撮ろうとしたが、丁度停車しているタンク車に遮られた。四日市ではコンテナを運んでいるフォークリフトを撮り、南四日市にはコンテナ車を牽引する水色のディーゼル機関車が何時も停まっているが、いい位置に停車したので撮った。
 さて、河原田から様相が変わる。進路を南西に向け、列車は亀山へと進む。
 44キロのキロポストが見える場所に停車した。河原田には多くの高校生が乗車してきた。時間は丁度通学時間帯。どんな高校生活を送っているのかな。まだ初心さが残っている所が眩しい。いい高校生活を送れよ。
 (かわの)からは、鈴鹿山脈がよく見える。そうだ。一昨年(2014年)旅した湯ノ山はあの辺りだな。確か、ロープウェーから見た紅葉が見事だと謳っているが、高所恐怖症には聊か(いささか)きつい。そう、私だよ!
 佐登に向かう途中に、左手に鈴鹿川が見えてきた。稲刈りを終えた田圃を通過し、外来種らしい黄色の花弁を付けた雑草が生えている空き地を過ぎると、向こう側から鉄橋が見えてくるだろう。それが紀勢本線だ。
 山に到着し、全ての乗客を吐き出し、電光表示の方向幕は「名古屋」を示した。河原田から乗車してきた高校生や、名古屋から乗車してきた人は一様に改札へ向かっていった。
 此処から紀勢本線に乗り換えて、伊勢市へ向かうのだが、紀勢本線乗り場の5番線や柘植、伊賀上野方面へ向かう3番線に繋がる跨線橋に向かった人は少数だった。

 上は河曲駅から見た鈴鹿山脈。
 下は河曲〜加佐登の鈴鹿川。



(2016年10月14日) 亀山駅慕情



 山は関西本線と紀勢本線の中継駅として重要な駅であり、JR東海とJR西日本の管轄の境でもあるのだ。関西本線はまだ続いているが、名古屋から発着するオレンジ色のラインが入ったステンレス車両は、全て亀山まで。この先の柘植、伊賀上野へ向かうなら、3番線に停車している紺色のディーゼル車に乗り換えだ。同じ路線でありながら管轄云々が違うと、雰囲気が違ってくるし、異国へ向かう錯覚すら生じてくる。
 山駅は前述の通り、二大本線の中継駅として重要な駅で、構内も結構広いのだが、駅構内を見渡すと、ホームには自販機とベンチ、待合室しか無く、ただ長いホームは1〜3両の列車を停車させるのに持て余し気味だ。かつて、蒸気機関車が驀進していた時、この駅は名古屋、大阪の大都市、津、松阪等の地方都市を結ぶ駅として、殷賑を極めていたことは知っているが、今見たら、その殷賑振りが読み取れそうか?
 私は久し振りに亀山駅を訪れるから、この際、駅構内をくまなく散策することにした。
 そうしようとしていると、名古屋行きの関西本線が発った。実質停車時間僅か5分。都会の忙しさが、新しいステンレス車全体に伝染していた。悪いけど、そんな忙しさは亀山駅には要らないから、さっさと行って頂戴な。
 の亀山駅には、(路線のキロ数を示す)キロポストが2つある。関西本線の60キロと紀勢本線の0キロのキロポストだ。しかし、関西本線では、亀山駅は59.9キロの位置にあるので、60キロのキロポストは飾りに見えてしまう。そして、紀勢本線の0キロのキロポストは我々鉄道ファンから見れば、不思議な物に見える。都会在住ならよく判るが、0キロは大抵都心から近い駅に置かれるのが普通だが、紀勢本線ではその常識は通じない。田舎の駅の亀山が0キロで、南海の大都会和歌山が380.9キロのキロポストを立てているのだ(正確には和歌山市駅の384.2キロ)。此処から和歌山の殷賑が偲べるには難いだろう。
 和歌山か……。訪れたのはもう12年前(2004年)だ。あの時は一生懸命働けて、一日一日が張り合いがあったなぁ。小鯛雀寿司という小さな鯛を握った寿司やコクがあって幾らでも頂ける豚骨醤油がニクい和歌山ラーメンを頂いたな。和歌山の近くの大阪まで行けたけど、予算や時間が都合が付かず足が伸ばせなかったな。
 ホームに立って一句。
 蜻蛉や骸(むくろ)をさらす朝光

 10年以上前の旅を回想していると、ブォーンとディーゼル音が響いた。加茂行きの関西本線が発つのだ。亀山を発つディーゼル車を撮り終えると、この亀山駅は本当に広いホームを持て余し始めた。これも不思議な物だ。この亀山駅は1〜5番までホームがあるが、どの番線にも列車が停まっていないとは、都会の住人は納得できないだろう。何ら支障なくロケができそうだけど、どんなロケになるのだろう……。
 さて、参宮線直通伊勢市行きが到着。来たのは何と、新型のロングシートの列車。おい、ロングシート導入しなくても、充分に乗客は捌けるだろう。ボックスシートに座って、景色を眺めるのが旅の特典の一つだろうに。
 上は広い構内を持て余し気味の亀山駅。
 中は亀山駅関西本線ホームにある60キロポスト。
 下は紀勢本線が発着する5番線にある0キロポスト。



(2016年10月14日) 鈍行の伊勢市行きに乗って


 山を発って、下庄を発つと、車内はカーキ色のブレザーを着た高校生で多少賑わう。そして、左手に学校と立派な寺院が見えたら、そこである。浄土真宗高田派の総本山、専修寺である。そして、その付属の学校なのだ。唱題している私には相反する宗派だが、いい高校生活が送れるように祈っておくとしよう。但し、「南無阿弥陀仏」ではなく「南無妙法蓮華経」になるけど、許せよ。
 の最寄り駅一身田は、完全に郊外の田園地帯だが、その次の津になると、一気に都会の様相になってしまう。
 漕、高茶屋は近くに大きい国道が走っている所為か、都会の雰囲気を引き摺りながら、田園地帯を成している。その高茶屋で特急「ワイドビュー南紀」の通過待ち合わせの時、駅舎に目が行った。先程の阿漕駅も、こんな味のある駅舎だったな。木造の駅舎で何時か撮りたいと思っていたが、私がデジタルカメラを持っているのが嫌なのか、撮ろうと意気込んでいた時には取り壊され、本当に味気ないコンパクトな駅舎になっていたな。この高茶屋も、取り壊されてコンパクトな駅舎になることは充分にあり得るから、今の内に撮っておくか。阿漕駅の敵討ちではないけど。
 阿漕付近のもう一つの光景を短歌で綴った。
 庭先で今年も生らす柑橘を饐(すえ)を待つ実の狐狸の邸宅

 上は木造駅舎が取り壊され、コンパクトになって味気なくなった阿漕駅。
 下は鄙びた雰囲気が残っている高茶屋駅。



(2016年10月14日) 月夜見宮と月見草

 勢市に着いた。何時もは外宮から参詣するが、今回は景気付けの伊勢志摩の旅だから、思考を変えて外宮の別宮月夜見宮(つきよみのみや)に参詣することにした。
 その途中に、デパートがあった場所に新しいホテルが建てられていた。何でも、天然温泉付きで11月から営業が始まるそうだ。機会があったら、泊まるかな。
 夜見宮は参道を外れて、静かな市街地にある。そんな訳で、参詣者は疎らだが、此処でもちゃんと遷宮は行われているのだ。遷宮された正殿はまだ新しさがあるが、参詣者が疎らとなると、この新しさが空振りに感じてしまう。まるで、遷宮されたことを知らないかの如く。或る道で言えば「月見草」同様の存在だ。「王・長島がひまわりなら、俺はひっそり咲く月見草」と名言で有名な野村克也氏だ。この月夜見宮もしかり。
 『古事記』や『日本書紀』に因ると、黄泉の国から帰ってきた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が禊ぎをした時、左目から天照大神が生まれたと出ているが、右目から月夜見尊という天照大神の弟が生まれたのだ。所が、どちらかが高天原(たかまのはら)を治めるか姉弟喧嘩になって、伊弉諾尊が姉の天照大神に高天原を治めさせ、弟の月夜見尊には夜之食国(よるのおすくに)を治めさせるように仲裁したとある。昼夜が交互に訪れるのはその為ともある。
 まさに、月見草みたいな外宮別宮である。

 写真は月夜見宮。



(2016年10月14日) 外宮の高貴なる偶然

 た外宮に繋がる道に出て、外宮に向かった。何時もの通り、御手洗場で浄めて、大鳥居を潜ると、異様な物が目に付いた。
 参道脇に漆黒の車が停まっていたのだ。それも、車内はレースで飾られていて品格ある車だった。此処で私の鋭い勘が光った。要人が参詣しているのだ。そして、参道を歩くと、黒い制服を纏った皇宮警察官が警備に当たっていた。間違いない。要人だ。粗相の無いようにしよう。シャツの一番上のボタンを止めた。
 また参道を歩くと、また皇宮警察官と出会った。いよいよそうだ。一体、何方様がご参詣されているのかと尋ねてみると、天皇陛下のご親戚だという(名は、事情で明かせない)。いきなり、息を呑んだ。何度も、伊勢神宮に参詣しているが、初めて天皇陛下のご親戚の参詣に出会ったのは初めてだ。
 どうしようか……。写真撮影は不敬罪に当たるのか、恐る恐る訪ねてみたら、フラッシュを焚かなければ大丈夫だということ。何と、心のお広い。
 して、前後に護衛が付き、極めて上品な薄いベージュ色の絹の(光沢を見れば恐らく)服を纏い、フワフワしている白い帽子を被ったおばあさんが正殿から、参道へ歩かれた。あのおばあさんがそうだろう。お年はかなり召されていらっしゃるが、足取りは確かで一歩一歩踏み締めながら、参道をお歩きになっていた。
 参道の道が空けられ、ゆっくりとした足取りで、参道をお歩きになっているそのお姿は、朱鷺の如く高貴で、お姿を拝見するにも呼吸をするにも、重厚な空気が流れている。今、一般参詣者と天皇家のゆかりの方が、分け隔てなく此処外宮にいらっしゃるという稀有なことに、景気付けの旅ということを忘れてしまい、この稀有なことと皇族に対する敬意を持って、ビシッと敬礼をした。そして、徐にデジタルカメラを取り出し、そのお姿を撮影した。
 何故、皇族がご参詣されている旨を、皇宮警察官に問うと、神嘗祭(かんなめさい)という今年収穫した穀物を、天照大神に献上する儀式を行うので、皇族の方がご参詣されているということだ。神嘗祭は確か、内宮近くの五十鈴川で川に入りながら、献上する初穂を運ぶ所を見たことがある。……ということは、内宮にもご参詣される可能性が極めて濃い。もしかしたら、内宮でも上手く行けば、再びお会いできるのではないか。そう計算しながら、外宮の正殿に向かった。
 突然の皇族との出会いに感激して、これを綴る。
 皇族と縁ある方とご一緒に参詣の好機偶然畏(おそ)れる
 皇族殿不躾(ぶしつけ)ながら共致す神嘗祭(かんなめさい)に桜芽吹きし

 気付けながら、お伊勢参りができた感謝を伝えて、参道を早歩きした。内宮でお会いできる好機を密かに狙いながら。その結果、普段は立ち寄る外宮別宮への参詣は今回は省略した。またの機会に……。
 皇宮警察官の誘導で、参宮をゆっくり歩き、お車が発った旨が入ると協力の礼として深々と礼をした。礼がしたいのは、私の方だ。皇族の方と何の境もなくお会いできることなんか、殆ど無いからだ。
 宮を出て、内宮行きのバスがある向こう側へ渡ろうとしたら、生憎赤信号。周囲では、皇族の乗せた車が何時出るのかと、囁かれた。私も聞かれたが、すぐに答えた。参道脇に車が停まっていることなんか滅多に無いから、つい目が行ってしまって、そのナンバープレートを覚えてしまったのだ。細かいことが気になる『相棒』の杉下右京警部だな、コリャ。だとしたら、肝心の相棒は誰になるのかな。
 そんな知らぬ私の相棒を模索していると、見覚えのあるナンバープレートの車が走ってきた。窓にはレースも付いているので、間違いない、あれだ。私と近くの人たちは手を振ったが、私は皇族ゆかりの者と出会えた感激から、思わず敬礼をした。チラッと見たら、参詣者の方をご覧になっていた。私の敬礼をご覧になっていたのかも知れない。気鬱に蝕まれていた私の痩身に、一条の光が当たった如く、足取り軽くバス乗り場へ向かった。
 瞬時ながら、これを綴る。
 背後から皇族方をお見送り捧ぐる敬礼漲る心身



(2016年10月14日) 痩身に幸福(猿田彦神社)

 宮へ向かうバスの中で、私は再びお会いできる時間の計算した。いきなり、参詣してはあの皇宮警察官の誘導で足止めを食らい、もしお会いできても、かなり時間が掛かる可能性が高い。時間稼ぎが必要になる。
 は猿田彦神社前で下車し、猿田彦神社に参詣した。時間稼ぎという卑しい理由からではなく、天照大神を伊勢に案内して下さった神が祀られているのだ。此処には、見所が結構あるので、紙面の許す限り紹介しよう。
 鳥居脇にある子宝池。手を叩くと寄ってくるので、餌を上げなくても充分に娯しめる上、錦鯉がとても綺麗。私が立ち寄って手を叩くと、錦鯉たちが一斉に私の許へ寄ってきた。赤、黒、金、銀に彩られた錦鯉は、私の眼前で舞を舞い、気鬱に蝕まれている痩身を潤いをもたらしてくれた。その中に、黄色に近い金色の鯉が寄ってきた。嬉しくなった。鬱の再発で職を失い、明日をも知れぬ痩身にでも、分け隔てなく舞を舞ってくれるのだから。
 次は、子宝池とは正反対にある「たから石」。何でも、宝船に蛇が乗っているように見えて縁起がいいそうだ。よく見ると、宝船やら蛇の頭やら見えてきそうだが、大いに想像を膨らませて、見て欲しい。
 そして、5月5日に田植えの行事で使用される「御神田(おみた)」。何でも、恵比寿天と大黒天が描かれている団扇が出てきて、行事の最後にその団扇を破るのだが、その破片を大事にすると、幸運に巡り会えるのだそうだ。今年の5月5日に、その御神田に行ったが、これだけでは幸運に巡り会えないのか?



(2016年10月14日) 内宮の高貴なる必然

 日でも殷賑を誇っているおかげ通りを抜け、宇治橋を渡り、あのお方と再会したいとばかり、速めに参道を歩いていると、例の車を見付けた。ナンバープレートを見ると、間違いない。ご到着されたのだ。近くにも、皇宮警察官がいて、木陰には供物を供えた棚が置かれていた。此処で神事を取るのかと、近くの皇宮警察官に問い合わせたら、例のお方は正殿をご参詣中との答えが出た。上手く行けば、外宮同様正殿に向かう途中にお会いできるのかも知れない。確率は格段に高くなった。
 そして、正殿へ向かう参道に、長い行列ができていた。此処で、私の感が閃いた。ご参詣中なのだ。その証拠に皇宮警察官が何人もいて、参詣客を注意を促していた。確率は100%になった。
 人の皇宮警察官を前にして、静かに参道をお歩きになっていた。雰囲気は間近で朱鷺か鶴に会ったかの如く、何とも高貴であられた。呼吸一つすら重厚に感じられる。特に、三種の神器の一つ「八咫鏡(やたのかがみ)」が祀られていることもあって(蛇足だが、三種の神器の残りの草薙剣は熱田神宮に、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は天皇家が所持している)、外宮以上に濃厚で、吸った空気が鼓動を昂ぶらせて、遂に此処が特別の地であることを再認識させてくれる。私が俗世で鬱に因って蝕まれ穢されても、此処に来れば自然に浄めて下さる。三重県にゆかりがあり、且つ旅に開眼している私の身上に深く感謝しなければ……。
 外宮に続き、内宮でもお会いできるとは恐悦至極。此処でもフラッシュを焚かずに、写真を撮り、静かに敬礼を交わした。皇族への敬意もあるが、任務を全うに果たす皇宮警察官にも。何度もお伊勢詣りをしているが、一人では決して為し得ない。
 献上物代わりの二首。
 我は今鬱に罹りし暗き身て皇族拝謁一条の光
 皇族に献上物は無かれけど鬱と闘う熱意捧ぐる



(2016年10月14日) 夢から醒めた昼餉

 集殿という休憩所の近くに池があり、此処にも鯉がいるが、私を出迎えてくれたのは、金色一色の鯉と白金色の鯉だった。祝されているのかな。昨今、金も白金(プラチナ)も取引価格が高騰しているから、余計嬉しかった。
 餉はおかげ横丁で、文明開化の味牛鍋を頂いた。景気付けにノンアルコールビールも頂いた。ビール特有の苦さが痩身に走った。それにしても、ノンアルコールビールは店によって値段も区々だし、瓶が二回りも小さいのが欠点だ。本当はジョッキでグイッと飲み干したいのだが、この小さい瓶だと2本分は必要だ。値段が倍掛かる。普通のビールよりも製造工程が複雑なのか?
 そして、贅沢な牛鍋を頂いた。値段は多少張るが、参詣後の直会(なおらい 参詣後に頂く食事)には遜色ない。すき焼きと混同されることが多いが、牛鍋は牛肉と野菜、豆腐にしらたきを一気に載せて、割り下を入れて火に掛ける料理で、牛肉の旨みが豆腐やしらたき等の脇役にも染みこんでいるのが特徴。
 そんな蘊蓄(うんちく)を垂れながら、至福(?)の昼餉は終わった。此処で、鞄から医師から処方された精神安定剤を含んだ。一気に俗世の穢れを覚えた。何時になったら、精神安定剤無しの生活が送れるのだろうか。服用数は僅か1錠だが、深い溜息を漏らした。
 服用して一首。
 牛鍋を旅路の昼餉その食後服薬の義務夢から醒めし

 写真は昼餉の牛鍋。何処で出されているかは、ご自分でお探しを。



(2016年10月14日) 二見に招かれた旅人




 十鈴茶屋で一服した後、向かったのは二見だった。この二見もご無沙汰だ。前回に立ち寄ったのは何時だろうか……。そうバスに揺られると、忍び足の如く睡魔が襲ってきた。夜行高速バスでそんなに寝てなかったから。あの高速バスには、私より年上の人が利用していて、上手く寝ている様相だったが、久し振りに利用したものの四十路近くの私には少々きつかった気がする。名古屋駅に到着する前は、気分が少し悪かったな。年の所為にはしたくないよ、コリャ。
 スは夫婦岩東口という、水族館の二見シーパラダイスと土産物屋が入っている二見プラザが近くにあるバス停で降りた。シーパラダイスでは、何かショーをやっているのか歓声が飛んできたが、それを聞きながら二見プラザへ入った。
 此処に入ったのは、ある目的がある。
 二見プラザの2階に、二見の海が存分に見られるレストランがある。3回程立ち寄ったが、閉店時間がやたら早く、2回連続で閉店の看板を拝んだ。これ以上拝むのは真平御免なので、今度は早く二見に来たので、入れるのではと期待したのだ。
 そのレストランを覗いたが、今回は入れたようだ。チラッと営業時間を見たが、何と15時に閉店すると出ていて、驚いた。
 此処で軽くホットケーキを頂いた。その間、二見の海でも望んでいるか。
 しかし、二見の海よりも、このレストランの閉店時間の早さが気になった。一体、何故こうも閉店時間が早いのか? 大都会でこんなに早く閉店時間を迎えるレストランなんて殆ど無い。まぁ、日本全国同じ時間帯で同じ形態を取るなんて無いからね。
 ットケーキを頂いた後、1階の土産物コーナーに降りた。土産物屋は結構あるが、人通りは閑散としていて、伊勢志摩の裏通りみたいだ。品揃えもおかげ通りとさほど変わっていなかったし、観光バスも多く停車していなかったから、納得行く。シーパラダイスと二見プラザ、夫婦岩と二見興玉神社だけでは観光客は呼べないのかな?
 さぁ、夫婦岩と二見興玉神社は、二見プラザに程近く、途中に小さな砂浜があって、波打ち際で子供連れがじゃれ合っていた。江戸時代、此処で禊ぎをして伊勢神宮へ参詣していたそうだが、流石に此処で禊ぎをする人は見掛けなかった。
 婦岩は二見のシンボルだが、その大きさは驚く程コンパクトだ。初めて来た2002年5月だが、その小ささに驚いたな。写真でしか見たことがなかったから。どのくらい小さいかは、実際に来た方がいい。
 鳥居から見える夫婦岩を撮って、二見興玉神社に向かった。この神社は2013年の伊勢神宮遷宮の折に、神事を執り行ったので、多少名はご存じだろう。そして、この神社には或る動物が方々に飾られているのだ。手水場(ちょうずば)に行けば、すぐに判る。
 カエルだ。手水場でカエルがお出迎えしてくれるのだ。よく見ると、カエルが3匹いるが、3匹のカエルで「三蛙(さかえる)」と解釈するのだ。序でに6匹の場所もあるが、これは「六蛙(むかえる)」と解釈し、幸福や開運を迎えるということである。この私も気鬱で、何かしら幸運に与りたいので、お神籖を引いた。開いてみたら、ふぅと溜息を漏らした。結果は「小吉」で、他の項目は余り明るくなかった。小吉なのに、随分ケチ付けられたな。
 景気付けに一首。
 職失くし我に告げるは三蛙(栄える)か華六蛙(迎える)か二見のカエル

 れ掛かっている鳥居を潜ると、もう一つの砂浜に出た。とはいっても、護岸の為に造成された砂浜であるが、江戸時代のお伊勢詣りは此処で禊ぎをして、伊勢に向かったそうである。確か、2010年10月に立ち寄った時は、造成したばかりで仕切られていたが、今は、この土地に上手く馴染んでいるようである。至る所に背の低い雑草が生えていたから。あの時は、大須大道町人祭の翌日だったな。昨夜帰ってもよかったのだが、そのまま帰ったら気持ちの切り替えの時間が少なく、鬱を再発するのではと思い、敢えて時間を取った。
 そして、道路を挟んだ向こう側には、木造土産物屋や旅館が建ち並んでいた。中には鉄筋コンクリート製の旅館もあるが、派手な内装はされてなく、何処か鄙びた(ひなびた)和風ホテルに見える。もう一つ、二見の思ひ出が蘇った。
 2007年2月に立ち寄った時、このような旅館の玄関を見たら、お茶が振る舞われていた。張り紙を見ると、少々塩気があるお茶で、銅色のお茶だという。見た目は薄めの紅茶かルイボスティーで、そのまま飲んだら丸みのある塩っぱさだったのを憶えている。
 そうすると、南紀白浜の三段壁のことも出てきた。そこに湧き水が出ていて、海の近くにあるので塩っぱいのだが、胃腸病に効果覿面(てきめん)だと出ていたな。この時は、胃腸の内面強化ということで、クッと呷ったな……。
 そんなこんなで、二見での思ひ出を脳裏に巡らせていると、左手に風格満点の木造旅館が見えた。
 賓日館(ひんじつかん)だ。
 此処はかつて、皇室ゆかりの旅館だった。そうだ。伊勢神宮で皇族とお会いできたのだから、その縁として立ち寄ろう。最初に訪れたのは2007年2月だから、もう9年振りになる。
 此処で寄り道として、2007年2月に立ち寄ったことを綴らせて頂く。
 その前に、今日の行程と再来した賓日館を織り交ぜた短歌を綴る。
 皇族に拝謁後の賓日館(ひんじつかん)(かたじけな)くも絢爛与(あずか)

 上2枚は二見興玉神社での一枚。鳥居から見た夫婦岩と二見興玉神社。
 中は手水場にいるカエル。カエル3匹で「さかえる(栄える)」。
 下は造成された砂浜に沿う旅館街。



(2007年2月23日) 賓日館(前)


 阪の街をぶらっと散策した後、時刻表を見たら、まだ時間がありそうなので、快速「みえ」に乗って、伊勢方面に向かった。向かった先は、そう、伊勢と鳥羽は訪れたばかりだから……、中を取って二見浦にするか!
 16時9分、二見浦に到着。昼に蔓延って(はびこって)いた曇天が一気に薄れ、碧い空がチラチラと見えてきた。もう、折り畳み傘の出番はないな……。
 夫婦岩をモチーフとしている駅舎を撮した後、向かった先は二見浦である。此処二見は駅周辺は殆ど賑やかではないが、夫婦岩と正反対に、テーマパークの安土桃山文化村があるから、そう簡単に判断は出来ない。
 16時か……。もう、この辺になると博物館等の施設は、閉館の支度をしている時間だな。となると、行けるのは夫婦岩と二見興玉神社位だな。丁度、ノルマとしていた「1日に1回以上寺社に参詣する」に該当するから。
 夫婦岩に続く道の両脇には、海産物を取り扱う店が点在している。伊勢や鳥羽と較べて大した観光スポットが無い所為か、店構えも雑然としていて、海の男の荒っぽさが鼻に衝くが、それでも「美し国 伊勢」を象徴するには相応しい光景だ。都会では贅沢な物が、此処では極普通に売られているのだから。
 こうして歩く事10分。二見の旅館街に入る。その一角に二見浦がある。
 前述の通り、時間が余りないので、夫婦岩を見て二見興玉神社に参詣して帰る予定を立てていたのだが、海岸線の道を歩いていると右側に、風格のいい木造旅館があり、ふと目を奪われた。門柱を見たら「賓日館(ひんじつかん)」とあった。何処かで聞いた名前だなぁ、賓日館って。私は、賓日館の前に立ち止まり、目で旅館を観賞しながら、賓日館の存在を探していた。何処だろう……。立ち止まって思案しても何だから、中に入ってみるとするか。石畳を渡って中に入った。
 時計を見ると、16時15分。しかも、入場は16時30分までだったのだ、ギリギリセーフだ。
 口に入って右には、カウンターがあり旅館のようになっていた。カウンターには鐘が置かれていた。早速、その鐘の柄を持って軽く振ると、鋭い金属音が探していた賓日館の存在を教えてくれた。この名はガイドブックに出ていたな。しかも、宿泊スポットとして。確か、皇族も利用していたと出ていたな。となると、この鐘は係員を呼ぶ為の鐘だな。しかし、滅多に振った事が無いから、鋭い金属音にゾッとしたな。
 日館は、昔はれっきとした二見を代表する旅館だったが、21世紀を迎える前の1999年に役目を終えた。しかし、旅館各所の日本独特のデザインや、細かな作業を要する職人技、なおかつ明治から平成まで脈絡と続いてきた和風レトロが凝縮されている事から、4年の沈黙の後、資料館として第二の人生を歩んだのだ。
 まず、目に飛び込んだのは客間。「さつき」という客間だった。和室の6畳一間の客間だが、入口と同じ方向に障子があるので、障子を開けると、二見の海が見える特典付き。新鮮な魚介類を酒肴(しゅこう)にして、二見の海を眺める、か……。何とも贅沢な一時だ。しかし今回は、ひな人形の展示のイベントを催されていたので、(ひな人形が展示されていたので)旅館時代の面影は薄かったし、障子は開いてなかった。折角、入ってすぐの客間だ。此処だけは空けて貰いたい。旅館時代の賓日館の断片を知る為に。
 1階は、客間がさっきの「さつき」を始め、「ことぶき」、「さくら」、「うめ」、「まつ」、「つる」、「もみじ」、「うぐいす」と8つの客間がある。何れも嬉しい事に、資料館と再出発するに当たって、客室を改造した箇所が無い。キチンと清掃されていて、旅館としての機能を終わらせたのは、単なる建前だと思わせてくれる。だから、余計旅館時代の賓日館が味わえる。となると、私は2007年の旅館賓日館の宿泊客だな。今夜はどの客室に泊まるのかな……。
 中を歩くと、フロアの案内板や照明、木製の窓枠、敷かれているカーペットにスノコ等に至るまで、旅館時代の面影が色濃く遺されている。メンテナンスを丁重に施せば、現役復帰できそうだし、現にお手洗いもメンテナンスを施して、現役バリバリだったし。また、昭和中期を舞台にした映画も撮れそうだ。但し、家族連れは遠慮の旅館だな。仮初めにも皇族御用達の二見の旅館だ。子供が廊下を駆け回っては、値打ちが下がり兼ねない。

 上は賓日館。
 下は旅館の名残が詰まっている館内。



(2007年2月23日) 賓日館(後)



 階は皇族御用達の旅館に変わってしまう。壁にはご宿泊された皇族達の名がズラズラあり、1階でノンビリしていた気持ちが急に引き締まってきた。恐らく、皇族がお泊まりになった時は、此処は立ち入り禁止だったのかも知れないな。皇族と同じ空気を今吸っているのか……。何とも尊い物だが、これがアイドルとなれば、まさに「籠の中の小鳥」の惨めさに成り下がる。侘びしい。
 此処では、「御殿の間」を覗いてみる。その名の通り、皇族が最もご利用されていた客間だ。バルコニーからは二見の海が見えるのだが、果たして海を見ながら、何を為されたのだろうか。ただ海を眺めるだけでは1階でも出来るし、こんなテーブルや椅子は要らない。と、ゆっくり椅子に座って、二見の海を眺める。日本の平和をお喜びになっていたのか、それとも、往来する国民の明るさに頬を綻びていらしたのか、ゆっくりお茶飲みをされていたのか……。まさか、私達の様にトランプゲームに興ずる事はないだろう。トランプゲームに興ずるには、丁度いいテーブルなのだが。
 に、大広間を見た。面白かったのは、和室でありながら、照明は洋風のシャンデリアであった事だった。そのシャンデリアも年季が入っている物で、見事和洋折衷の美しさを出している。二見にピッタリだ。大広間には舞台もあって、此処で何かの余興が披露されていたに違いない。しかも、後ろには松と竹が描かれてあって、一層美しさが倍加する(写真では松と竹だが、もしかしたら梅も描かれているのでは)。能か舞を演じていたのだろう……。鼓や琴の音が聞こえてきそうだ。此処でコントや音楽のライブが催されたら……、それだけで門前払いされそうな高貴さだ。つい拝んでしまった。
 翁の間は大広間よりも2回りも3回りも狭い広間だが、それでも広さは悠に20畳は超える。此処は先程のひな人形の展示同様、展示室として利用出来るのだが、かんできたのは、雑魚寝する修学旅行の光景だった。息苦しくなってきたので、引き返すとしよう。
 りに、又あの鐘を振って、チェックアウトいや、賓日館に相応しい、そう……、出立する事を告げた。此処では、少し強めに鐘を振った。カラ〜ン、カラ〜ン、カラ〜ン。鋭い金属音が、閉館した賓日館と黄昏近き二見に響き渡った。
 賓日館。旅館から資料館に生まれ変わった二見の名所。しかし、資料館と言っては失礼だろう。和風レトロが凝縮され、平成の時計を瞬時に止める旅館の形を施したタイムカプセルと言った方がいいかな……。

 上と中は大広間。
 下は翁の間。



(2016年10月14日) 2016年の賓日館の宿泊者




 て、2回目の宿泊は如何なるものか……。
 まず、気が付いたのは、フロント近くにある螺旋状の階段の手すりに、カエルの彫り物があるのだ。3匹いたから、「三蛙(栄える)」だな。「此処の宿泊者は栄える」といった、小粋な演出だ。
 その階段を上ると、後ろに翁の間がある。そこには紹介用のテレビや椅子があって、前回来た修学旅行生が雑魚寝する光景は薄らいでいる。しかし、翁の間に入って、左を向くと、此処が雑魚寝するには極めて勿体ない、扁額と床の間の掛け軸があったからだ。掛け軸には解り易いように修正された解釈があったが、難読漢字が多く出ていたので、全く判らなかった。二見浦にあって「海」、「鮮」、「浦」と出ていたので、海に関係する漢詩だろう。扁額も「日上紅波浮翠A」と書かれていて、一番左の「A」は解釈できないが、「朝日が昇り、紅色に彩られた波が押し寄せてくる」という意味だろうか? それに「翠A」とはどういう意味なのだろうか。「翠」は綺麗な緑を指す字で、「A」は山偏があるから、山に関係がある事柄だろう。となると、「綺麗な山々がある」と言うことになり、「朝日が昇り、紅色に彩られた波が、綺麗な山々が連なっている(二見に)押し寄せてくる」ということになるだろう。
 窓際にはソファとテーブルがあって、此処に座ると、二見の海が望めるのだ。立派な漢詩と扁額を左にして、二見の海を眺めるとするか。
 松の狭間に二見の海が見えるだけで、豪快に見えることはなかった。丁度、門が見えるので、ゆっくり紅茶を傾けて、二見の海を眺めての優雅な一時を過ごしていると、遅れてやってきた同行者が、門を抜けた所を見て、「先に飲んでたぞ」と、カップを挿頭(かざ)していたのだろうか。
 この賓日館の特徴は、旅館時代の面影が極めて濃く、歩くだけでも充分に宿泊客の気分になれることだ。だからって、浴衣を着てダラダラ歩くことは控えて欲しい。翁の間の反対側にある御殿の間の鴨居には、宿泊された皇族の名が記されていて、今年(2016年)薨去(こうきょ)した三笠宮崇仁親王の名前があった。合掌して、冥福を祈った。
 して、御殿の間。皇族を迎える時のみに使用された場所だ。やはり、皇族を迎えるというからには、襖にしろ床の間の掛け軸にしろ、そして、点されている行灯にしろ、あれこれ格式張った所があるな。見方を変えると、京都御所の一部分を移築したかに見える。現役時代は皇族のみがこの間をご利用なったということだから、一般大衆には全く知らない皇宮の歴史が刻まれているということになる。例え、窓側に置かれているテーブルや椅子にしろ。
 気鬱が溜まっていた所為だろうか、椅子に座って暫し休息を取った。
 この二見を訪れたのは、先程訪れた二見プラザ内のレストランに入りたかっただけのことだったが、真逆、二見興玉神社や賓日館を再訪するとは。今まで、伊勢神宮や鳥羽等の伊勢志摩旅行のゴールデンルート(?)を辿っていたのだが、こういう鄙びた場所を知ることも重要である。何故ならば、賑やかな場所が無い分、生活の匂いが直に感じられるからだ。ゴールデンルートでは、この直に感じる生活の匂いは無い。
 そうだ。伊勢神宮でも皇族とお会いしたのだから、今回は自然に招かれたのかも知れない。もしかしたら、薨去された三笠宮さまが今日の行程をご覧になって、招いたのかも知れない。そのことを、二見プラザ内のレストランに託けて(かこつけて)
 は、和風客室ながら洋風のシャンデリアがいい風格を醸し出している大広間だ。大広間には松と竹が描かれた舞台もあり、これもまたいい風格なのだ。此処でどんな舞台が催されたのだろうか……。舞台に触れてじっと考える。何かしらのご挨拶に使われていたことは間違いないだろうが、音楽ライブやしゃべりがましい漫才、仕掛けが付いたコントの類いではないだろう。となると、歌舞伎か能の堅苦しいものなのか。真逆、此処にカラオケセットがあって、酔客達がマイクの取り合いの醜態を繰り広げていたとなると、全く笑えない失態だ。舞台に上がれば、何か判るかと思ったら、床板が傷むことなのでご遠慮だった。
 び、1階に降りて、一般客室を覗いた。この辺は旅館時代の薫りが十二分に漂っていて、客室に入ると、本当に泊まりたくなってきそうなのだ。まず、一人客や小さな子供を連れている家族連れは無理そうだが。
 鶴の掛け軸が掛かっている客室へ入って、座布団に座って暫し考えた。二見の海で捕れた新鮮な魚介類が卓を飾り、差し向かいでの食事に華を添えたのだろう。私だったら、まだ見ぬ花嫁といった所かな。卓に食事があることを見做して、まだ見ぬ花嫁に乾杯の仕草を取った。
 客室の廊下に立ちゆっくり目を伏せると、賑やかな旅館の面影が蘇ってきそうだ。食事を運ぶ仲居、布団を敷く仲居、そして、時折聞こえる宴会の賑やかな声、風呂へ向かう宿泊客……。
 私も、あの賑やかな旅館の中に入りたい。賓日館の宿泊客になりたい。
 と、目を開けると、その残影は瞬時に消え去り、客室だけが残っている賓日館があるだけ……。また、深い溜息を漏らした。泊まれる縁がもう無いから、どうすることができないから一層深かった。旅館時代からずっと貼られている、「寝たばこは固くお断りします」の警告があった。これだけでも瞬時に旅館時代に戻れるのだが、客室の廊下をチラッと見ただけでも、もう終わりだ。
 私は躊躇いもなく、フロントに行き、出立する旨の鐘を強めに鳴らした。

 Aは山偏に獻。
 上は階段手すりにあるカエル。此処も3匹で、「さかえる(栄える)」。
 中は翁の間にある立派な扁額と掛け軸。
 その下は皇族がお泊まりになった御殿の間。
 下は旅館時代の残滓。「寝たばこお断り」の張り紙。



(2016年10月14日) 黄昏が奏でる風流


 見浦駅に向かう途中、何度も足が止まった。そう、木造旅館が数軒あったからだ。時折、ホテルも見掛けたが、余り威圧的ではない大きさなのでよかった。罷り間違っても、大手ホテルチェーンのホテルが建てられたら、伊勢志摩でも珍しい静かな空間がぶち毀される。
 そぞろ歩きで一首。
 潮風と木造旅館カエル達二見の駅も直(じき)黄昏れる

 婦岩を象っている駅舎は、外見はモダンだが、中は近隣の土産物の展示や周辺の観光案内があるだけで、かつて此処で窓口営業をしていた名残が、虚しく残されていた。
 駅構内もベンチがあるだけの簡素な造り。その割にはホームが長く、停車した快速「みえ」はたったの2両で、無駄に長いホームに苦笑する。
 間は丁度黄昏時で、私は方向と時間を考慮して、進行方向から左側の席に座った。
 此処からいい黄昏が撮れるのだ。それを狙うとするか。
 鏡面を湛えた五十鈴川を渡ったが、まだ時間が早かった。
 伊勢市を発って、宮川辺りでいい一枚が撮れた。雲が多少あるが、その間からオレンジ色の黄昏が見える何ともいい一枚だ。角度がよくなかったのか、川面にその黄昏は反射されなかった。
 多気を発って渡った櫛田川では、これもまたいい一枚を撮った。鏡面を湛えた櫛田川には、黄昏空がそっくりそのまま映し出されていて、この中にこの世界と同じ世界が広がっているのかと思わせてくれる。都会と違って、遮る物が無いから、存分にその景色が娯しめる。風流の薫りがするな。

 上は黄昏の宮川。
 下は黄昏の櫛田川。



(2016年10月14日) 「月に叢雲」の松阪


 中、松阪で下車し、松阪牛ホルモン焼肉を夕餉にした。筋が無く噛み応えがあるから、一度頂いたら、都会のチェーン店の焼肉は頂けなくなる。何十回も立ち寄っている私だから、保証するよ。だけど、きちんと松阪牛が頂けることを拝みながら頂き給え。「量より質」だが、私が立ち寄った店は良質共良心的だから、ご安心あれ。嗚呼、気鬱で痩身を散々削られても、松阪牛の旨さは変わらないな、コリャ。
 餉後、何気なく空を仰ぐと、十三夜後の月が丁度雲に隠れようとしていた。そうだ。「月に叢雲、花に風」という、好事には必ず妨害する物があるという諺があるけど、その「月に叢雲」がそこにあったのだ。実際に見てみると、存分に月を見たい気持ちがあっても、雲が邪魔をしてなかなか果たせない焦れったさがある。時間も余りないから、丸い月を拝みたいものだ。此処でも、風流の薫りを味わった。
 此処で一首。
 松阪で月に叢雲(むらくも)風流なれ風流語れば焼肉の煙

 阪駅構内は意外と小さいが、売店や立ち食いそば屋、そしてJR・近鉄両窓口があって機能的だ。その駅舎の隅に、燕の巣があるのだ。私が気付いたのは一昨年(2014年)だけど、去年も今年もあの巣で雛が生まれたな。もしかしたら、今年雛を育てた親は此処で生まれた雛なのかな。とすると、今年巣立った雛は何代目になるのかな?
 そして、松阪駅ホームに立つと、見たかった月が出てきた。間違いなく、叢雲に隠れる心配は無いな。その月を無言で眺めて、名古屋へ向かった。
 日は、名古屋大須で開催された「大須大道町人祭」に出掛けて、大好きな大道芸に囲まれて、気鬱に蝕まれていた痩身を癒した。

 上は松阪駅で見た月。叢雲に隠れている。
 下は松阪駅ホームで見た月。叢雲が去って、綺麗な光を放っている。





トップへ
戻る



Produced by Special Mission Officer