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平日の何もない日に、行きたい場所が漠然と浮かんできて、時間も気にせず列車に揺られながら、その場所に向かい、そして、現地でぶらりと旅行するのは、滅多に無い。旅行というのは普段、細大漏らさず旅行すべくガイドブックを開き、事前にネタを仕込んで旅行するのだが、偶にはガイドブックに縛られない旅行もオツな物と思う。今夏は、何処にも遠出出来なかったから、近場の温泉でも入るとするかと、肌着とバスタオルを用意して、駅に向かった。まだ残暑が厳しい。自転車のペダルを漕いでも汗が出てくる。
八王子から特急かいじ104号に乗り、東京に向かった。久し振りの旅行だから、いきなり贅沢してもいいと思ってね。
東京に着くや否や、私の脚は東海道本線ホームに向かった。すると、東京10時23分発の伊東行きが目に入った。伊東か……。伊東も温泉地で有名だから、最初に伊東に行って、温泉に浸かって、汗を流すとするか。と、グリーン券券売機に立ったが、そこに「熱海」の欄に引っ掛かった。熱海か……。前にも訪れた事があるけど、もう6年も経つのか。この不況のお陰で熱海の湯煙は、薄くなってしまったが、まだ健在の湯煙があるに違いない。折角温泉に入るのだから、少しは寄り道もしたい。熱海から程近い三島でも寄るか……。そんな思案を巡らせて、私は陣中見舞いと言う事も兼ねて、熱海までのグリーン券を買った。東京発の普通列車は、殆どが熱海止まりで、三島に向かう列車は朝と夕方しかないので、熱海までのグリーン券だ。三島・沼津の欄が出ていたが、昼日中では単なる隙間を埋める箇所に過ぎない。
売店で燃料を調達していると、長針は20分を指していた。まずい。此処はスイカを使ってスムースに済ませて、グリーン車に飛び乗った。間に合った。
暫く乗ると、検札が始まった。私は熱海までのグリーン券を差し出すと、車掌から、
「熱海は後からの快速『アクティ』が早く着きますよ。」と言われた。早めに着きたいので、次の品川で乗り換える事にした。
品川で降りた。工事しているホームが目に付いた。何時になったら、落ち着きが取り戻せるのかと眉を顰めるが、最も眉を顰めたのは、この電光掲示板だ。
「早川駅で人身事故がありました関係で、列車が遅れています。」東京駅では見掛けなかった知らせに、一気に旅行ムードがブチ毀された。しょっちゅう使っている中央線も人身事故がよく起きるので、ウンザリする程慣れてはいるが、旅行の途中で人身事故の影響を受けるとは、私は電光掲示板をダラダラ流れる人身事故の知らせに舌打ちしながら、早く運転再開出来ないかと、ぼやき始めた。そんな事しても、列車が速く来る訳でもないしね……。
何分か経つと、快速「アクティ」到着のアナウンスが入ってきた。来たか……。来たのは新型車両。コリャいいな。新型車両のグリーン車は乗った事が無いから、熱海まで充分に娯しめるな。やはり品川で乗り換えて正解だったな。
品川から熱海まで約1時間20分。グリーン車でノンビリするとしようか。東京駅で買ったシュウマイを徐に抓んで。
横浜を発って保土ヶ谷に向かった。東海道五十三次の一つとして有名だが、此処が横浜市とは思えない程、閑静な住宅街が広がっていた。しかも、至る所に清流や、深い森があったりと、落ち着ける街だった。此処なら、子供達のいい遊び場になる。
此処で一句。
暑き街清流麗し外の森 |
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大船、藤沢と列車が一歩一歩熱海に向かっている。茅ヶ崎を過ぎると大河を渡る。相模川だ。海が近い事があってか、ジェットスキーや、小型クルーザーが繋留されていた。今夏は此処から相模湾を回遊した人もいるだろう。しかし、幾ら8月が過ぎたとはいえ、楽に「夏が過ぎた」と言っては気が早い。見給え。相模川で一隻のクルーザーに牽引されて、水上スキーを娯しんでいる若者の姿を。9月に入っても、自分なりに夏を追い求めている姿は格好いい。私もああいう若者になりたいのだ(27歳ながら……)。
此処で一首。
相模川九月の炎天身に受けて水上スキーの軌跡を辿る
平塚、国府津(こうづ)、小田原。小田原を出ると、徐々に山地が目立ってきて、隧道を通るのも頻繁になってくる。隧道を出ると、左側には大きく相模灘が開けて、その灘に沿って国道1号線が連なっていて、小さな民家や畑が見えてくる。東京の近郊と言っても、このような田舎でも該当するなんて、何処か腑に落ちない。「東京」の方向幕を付けた列車と擦れ違ったが、此処と東京のギャップに大きく驚くがいい。
早川に停車した。此処か。人身事故が起きた場所は。もう、処理は済んでしまっただろうが、一つの人身事故で、とんだ側杖を食わされた乗客が1人2人ではない事を知って貰いたい物だ。
そんな愚痴を口に出さずにぼやいていると、開いているドアから蝉の鳴き声が漏れてきた。もうそろそろ暑さが過ぎる時だ。同時に蝉の生涯を閉じる時でもある。7年近く幼虫のまま地中に潜んでいて、いざ成虫となって、大いに鳴ける時はほんの1週間程度だと聞いている。苦労した末は、ほんの一握りの栄光か……。誰もなりたくない運命だが、蝉だけはどうにでも逃げられない運命だ。しかし、その運命でも、斃れるその時まで、栄光を極めたい気持ちが鳴き声で伝わってくる。
此処で一首。
グリーン車で優雅に涼めば蝉の声斃れるときまで栄華極めん
約1時間20分、快適なグリーン車に揺られて、熱海に着いたのは12時7分頃だった。降りて目に飛び込んできたのは、9分発の静岡行きの列車だった。発車時刻まであるのかなと思っていたら、発車の音楽が鳴り始めた。近くにいた駅員に、スイカで乗車した旨を告げると、
「そのまま乗って下さい。」と言われたので、そのまま乗った。
熱海駅で静岡行きの列車にギリギリで乗れた嬉しさの次は、とんだ出費だった。列車内の清算でスイカが使えず(熱海以西は管轄外なので)、全額支払わされた。横浜線経由八王子〜三島2210円也(後で調べたが、熱海で降りて、新たに三島までの切符を買えば、安上がりになるそうだ。八王子〜熱海1450円。熱海〜三島320円。合計1770円。その差は440円也。とんだ損をした!)。
熱海を過ぎて、左手に伊東線の来宮駅を見て、昭和9年に完成した丹那隧道に突入する。と此処まで書けば、至って丹那隧道は単なる隧道だと言い切れそうだが、実を言うと、現在の東海道本線があるのは、この丹那隧道があるお陰だと言ってもいいかも知れない。熱海〜函南は険しい山地で、この山地に鉄道を敷くのは難しいので、隧道を掘る事にした。しかし、距離が長い上に、何度も落盤事故があったお陰で、完成は昭和9年と東海道本線の歴史から見ると若い時期になってしまった(因みに、現在の御殿場線は、昔の東海道本線を担っていて、熱海は行き止まりだった)。
それにしても、丹那隧道は長い。漸く隧道を出たのは8分も掛かった。同時に函南に到着。駅名表示がJR東海の物になった。平仮名で大きく「かんなみ」と書かれていた。
目的地の三島は、函南の1つ隣にある。
伊豆三島。『ノーエ節』では、「富士の白雪は三島に注ぐ……、三島女郎衆はお化粧が長い……」と詠っているが、一体どういう所なのか。
駅を出て、先ずは駅舎を撮した。何処か仏閣を模している駅舎だった。見覚えがあるな、このような駅舎。和歌山の那智駅は、那智大社を模した駅舎だし、島根の出雲市駅は、出雲大社を模した駅舎だった。とすると、此処三島も有名な大社があるに違いない。駅前の案内板を見ると案の定、有名な大社が広域を有していた。三嶋大社だった。オッ、駅から程近くに、楽寿園がある。一体どういう所なのか。早速行ってみるとしようか。
それにしても、グリーン車で小一時間程涼んだ所為なのか、暑いなぁ……。扇子で扇ぎながら、観光案内所へ入った。涼むがてらに。
観光案内所では、そんなに涼めず、楽寿園と三嶋大社のパンフレットを貰って、早速楽寿園に向かった。
上は小田原〜熱海の相模湾が見える光景。
下は仏閣を模した駅舎のJR三島駅。 |
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楽寿園は、三島駅と程近くにある名所だが、この時、宮家ゆかりの地だとは、思いもよらず、ただお偉い様が住んでいた所と(不謹慎ながら)軽く見て、中に入ったのだ。
300円の入場料を払って、まず目に付いたのは小規模の遊園地だった。平日なので、近隣の母子が買い物の序でに立ち寄っているだけだが、こんな敷地に遊園地とは、ますます私はそのお偉い様に対する威厳が薄れてきた。
園内には鳴き声に混じって、蝉の亡骸が目立っていた。数匹の黒蟻が、蝉の翅(はね)をせっせと運んでいた。蝉の翅も蟻にとってはいい栄養源なのかも知れないが、サワザワ鳴いている蝉も、何時かは蟻の命を繋ぐ餌になるのだ。
此処で一句。
いそいそと黒蟻蝉の翅運ぶ
園内を散策していると、森に囲まれた遊歩道や、綺麗な滝や池があったりして、駅前にありながら騒々しさを忘れさせられる静かな空間がある事に、頬が緩んだ。SLに乗れるそうだが、手入れが余りされていないようなので、控えた。
SLの隣に三島市郷土資料館があるが、丁度面白い展示物があったので、入ってみた。富士・沼津・三島3市共同企画の、「子どもの風景 教育の今昔」と言うテーマだった。9月4日まで三島で開かれているが、今日は9月2日。ギリギリセーフだ。
中に入ってみると、一瞬にして、私を小学生の頃に戻してくれた。展示物を見て、その頃が鮮明に思い出されたからである(私が小学生だった時期は昭和60年〜平成2年だから、展示物が何なのかよく判るのが強み)。国語コーナーは歴史の本を開けば、見掛ける教科書が色々あったが、算数コーナーは小学1年生時に配布された物差しや数字カード、プラスチック製おはじき、手動時計、木製サイコロ、プラスチック製貨幣等が詰まった「さんすうセット」が懐かしかった。これを使って授業を受けたかは朧気だが、プラスチック製貨幣を使う出番が無く、何時使うのかなと首を傾げた事もあった。
理科コーナーは、実験道具や上皿天秤が懐かしかった。
社会コーナーは、地球儀、日本地図、世界地図等展示されていて、社会科が好きな私は、釘付けで見ていた。しかし、授業で使った憶えはない。そういえば、小学5〜6年の掃除の時間で資料室の掃除を担当していた時、こういう資料に頻りに触っていたので、掃除時間の思い出が蘇った。社会科の資料は10年も経てば、立派な歴史資料物となる。
その他にも、給食の変遷や休み時間、放課後の楽しみ等、ノスタルジックを掻き立てる展示物で、暫し気分を和ませた。私の小学生の思い出は、幸せに満ち足りていたが、出来れば、もう一度あの時に戻りたい。漸く出来た友人と空き地で野球をやった事、友人を家に招き、ファミコンに夢中になった事、土曜日の午後に約束していた友人と一緒にプールに行った事。本当に懐かしい展示物の写真を撮りたかったが、このような思い出は、胸の奥に仕舞っておくのが一番いいなと思い、敢えて撮らなかった。
上は楽寿園入口。
中は園内の滝。
下は園内のSL。 |
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郷土資料館を出ると、楽寿園に入った時から。気になっていた楽寿館に足を向けた。楽寿館に繋がる道は森に囲まれていて、陽差しが遮られている分涼しかった。それでも、蝉時雨は頻繁に鳴いていた。此処にも蝉の亡骸が転がっていた。
楽寿館は、小松宮ゆかりの別邸として有名だが、お偉い様の別邸という事もあって、門戸を開放して、一般公開している訳ではない。老朽化等の問題で、一般公開は午前は10時30分、午後は1時30分と1日に2回しかない。
時間はもうそろそろ午後1時30分。午後の一般公開の時間だ。平日なのに、7〜8人が傍のベンチに腰を掛けて、時間になるのを待っていた。
午後1時30分、中からスタッフが出てきた。早速、来訪者を愛想良く中に入れて、案内を始めた。そして、「一般公開終了しました」の看板を、格子戸の傍らに置いて。
楽寿館に入って、最初に目に付いたのは、宮家の肖像画だった。それも、額縁1つにコンパクトに収められている。有栖川宮、東久邇宮、小松宮、高松宮等々。そして、この楽寿館にゆかりのある小松宮は、宮家では波乱に満ちた生涯であった。明治維新がなければ、彼は仁和寺の門跡として一生涯を送る筈だったが、倒幕のリーダーとして、鳥羽伏見の戦いに挑んだ。面白い事に、幕府軍は彼が掲げた錦の御旗で、朝敵・賊軍と見なされ、戦意を失ったそうである。この事があって大勝し、大阪城に入城した。私を含めた来訪者達は、スタッフが勧めてくれた団扇で扇ぎながら、説明を聞いていた。
幕末に出来た行進曲で「宮さん宮さん お馬の前に ヒラヒラするのは なんじゃいな……」のモデルとなったのは、紛れも無くこの小松宮なのだ。
所が、時間に遅れてやってきた翁が、格子戸で立ち往生していた。傍の看板に気付いて、踵(きびす)を返そうとした時、それを見掛けたスタッフが、急いで格子戸を開けて、翁を中へ入れた。臨機応変が利くスタッフだ。翁も同じく団扇で扇ぎながら、説明を聞き始めた。
最初に案内されたのは、木目が綺麗な杉板に書かれた2匹の鶴の絵だった(「双鶴図(そうかくのず)」)。杉板の美しい木目を残し、薄く仕上げている。元々は襖に充てられていたそうだ。
次に案内されたのは、茶室「柏葉の間」。襖に銀箔を張り付け、宮家の別邸と思わせる趣が伺える。しかも、床柱は九州から取り寄せた山躑躅で、「これ程立派に生長した山躑躅は珍しいので、是非我が別邸の床柱に。」と選んだそうである。此処でお点前をしたら、気分は上々だろう……。
次に案内されたのは、同じ茶室の「不老の間」。こちらは銀箔を貼られていない分、わびさびの雰囲気が強い。床柱は梛木で、円の底辺を切り取り、十五夜の次の月の呼び名を採用した「十六夜窓(いざよいまど)」や、蝙蝠(こうもり)を透かし彫りされている箇所があり、日の入り具合で、どの壁にも蝙蝠が飛ぶ影が出来上がるそうである(中国では蝙蝠は、幸せの象徴とされてきた)。
最初から宮家の高貴な雰囲気に触れられて、いい気分になったのだが、1つ残念な所があった。楽寿館から見える小浜池の水が殆ど無かった事だ。昔は満面にあったのだが、高度経済成長の折、地下水の汲み上げで水位が低下し、現在では夏から秋の数ヶ月だけ、水が湛えてある状況である。高度経済成長で犠牲になったのは、義理人情だけではない。このような優雅な光景も踏みにじられているのだ。三島市では対策を検討しているそうだが、その成果に期待したい。東京だって隅田川も東京湾も綺麗になった事だし。
一番の見所は、次の間と主室からなる「楽寿の間」。広さは18畳もある広い部屋だが、次の間と主室の部屋の印象がかなり違うのだ。
最初に案内されたのは次の間。天井には様々な草花が枠毎に小さく描かれていて、襖には池で泳ぐ鯉の絵が連続して描かれている(「池中鯉魚図(ちちゅうりぎょのず)」)。
さて、主室に入ってみると、その様相は一変する。天井に描かれてある草花は同じだが、枠一杯に描かれているし、襖絵も千鳥が飛び立つ様が描かれている(「千羽千鳥図(せんばちどりのず)」)。しかし、これをよく見てみると、歩いている千鳥が群れを成して飛び立ち、そして、空の彼方へ消えていく様子で締め括っている。しかも、私が最も驚いたのは、床の間に吊されている、「鵞(がちょう)」の掛け軸(古来中国では、貴族だけが飼える高貴な鳥とされてきた。故に、宮家としては相応しい鳥とも言える)。太く大胆に書かれているので豪快に見えるが、紙面一杯に書かれているので、威圧的にも見える。係員の話だと、最初は次の間に案内するが、不用意に長居をしている客人に対しては、主室に案内されるそうだ。そして、天井画の大きさや飛び立つ千鳥、そして、威圧的な「鵞」の掛け軸に圧倒されて、そそくさと引き取るそうなのだ。案外心理戦を用いたようだな、コリャ。
この楽寿館には、杉板をカンバスにして多くの日本画が描かれている。先程取り上げた「双鶴図」の他に、「蘆雁図(ろがんのず)」、「梅樹鴛鴦図(ばいじゅえんおうのず)」、「雪汀鴨図(せきていかものず)」、「柳鷺図(やなぎにさぎのず)」、「松五位鷺図(まつにごいさぎのず)」、そして、主室にもあった鵞をテーマとした「鵞鳥図(がちょうのず)」。残念ながら、楽寿館館内は写真撮影ご遠慮なので、三島に立ち寄った際は見て欲しい。
さて、「鵞鳥図」を見終わった時、1つの通路があった。よく見てみると、楽寿園の和風から掛け離れている西洋的な造りになっている。係員はその通路を案内した。そして着いたのは、ホームバーがあったり、違い棚がある和洋折衷のホールだった。実は、この楽寿園は小松宮だけが利用していただけではなかったのだ。明治36年に小松宮が一代で絶えて、明治44年に李氏朝鮮から留学の名で人質にさせられた垠(ぎん)殿下の別邸となったのだ。その時に、このホールが増築されたのだ。当時は遊戯室として使われたが、戦後はアメリカの駐留軍のダンスホールとして利用された。その時に、ド派手なペンキでアメリカンスタイルに施されたそうだが、床の間と違い棚は外されず、今日まで残っている。日本文化を垣間見たいアメリカ人の気持ちが伺える。
この楽寿館には色々なドラマが秘められている。小松宮が一目で気に入り、造営されたものの、一代で断絶した後は、朝鮮から留学の名で人質にされた李王世子垠殿下と方子(まさこ)妃の別邸として利用した。今度は昭和2年に、世界一周旅行の費用捻出の為に競売に掛けられ、当時の三島町にはその余裕が無く、緒明圭造(おあきけいぞう)という人が購入した。そして、戦後はアメリカの駐留軍のダンスホールと利用されたりと……。そして、地元三島市に手渡ったのは昭和27年の事。
写真は楽寿館。 |
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さて、前記の通り、JR三島駅の駅舎は仏閣を模して造られているが、そのモデルとなったのは、これから行く三嶋大社である。結構領域が広く、さぞ有名な大社で、何かがあるかなと思い、最後に取っておいたのだ。娯しみは最後に取っておく性なので……。
小松宮ゆかりの楽寿館を見学した後、蝉の亡骸が転がっている森に囲まれた遊歩道を抜けると、或る出入口に出た。見ると、「楽寿館」と楽寿園の経緯が記された石碑や、バス停等がある。一旦振り返ってみると、私が入った駅前と比べると、相当厳かな雰囲気があるな。パンフレットを見ると、此処が正門だそうだ。道理で趣が違うと思ったよ。すぐに入ったら遊園地が見えてきたから、軽く見ていた。
さて、三嶋大社は何処かしら。道標が右を指していたので、従って進んだ。
鄙びた(ひなびた)商店街を歩くと、今度は左を指した。すると、木々に囲まれた白滝公園があって、その一角に淡いメロディーと一緒に、木製のポンプで水を汲んでいる2体の人形を見付けた。竹筒からは、無色透明な冷たそうな水が滾々と流れていた。傍らの説明を見ると、「めぐみの子」と出ていた。「めぐみ」という女の子の言い伝えなのかと思ったら、富士山の雪解け水を汲んでいると出ていた。そういえば、『ノーエ節』で「富士の白雪は三島に注ぐ……」と出ていたからね。やはり、歌と同じだ。此処三島は、富士山の恵みを受けているのだな。先程の楽寿館の小浜池も同じだ。
この私も富士山のめぐみを頂くとしようかな……。何十年も地層で濾過し地中のミネラルを含んだ如何にも身体に良さそうな水だ。手で掬って一口啜った。キーンと冷えていなかったが、まろやかで澄んだ喉越しが、手付かずの雪解け水を連想させる。
木々に囲まれた白滝公園は、湧き水が綺麗な事もあって、とても涼しそうだ。中では学校が退けた子供達が、外気の暑さを気にせず、悠々と遊んでいた。
白滝公園から湧き出ていた水は、三嶋大社に続く道に沿っている水辺に続いている。幅も広いので、小舟が浮かべられそうだ。魚釣りまではいかないが、優雅な一時が過ごせそうだ。そして、その水辺に沿って、様々な三島ゆかりの作家達の文学碑が並んでいた。此処三島は、宮家だけではなく、作家達をも魅了した所なのだ。何れも、富士の白雪が滾々と注ぐ三島を褒め讃える箇所があるのも頷ける。もしかしたら、小松宮もこの綺麗な水も気に入って、楽寿園を造営したのかも知れない。
パンフレットを見ると、高度経済成長を経て、地元の尽力に因って、綺麗な水が取り戻せたと出ている。「富士の白雪は三島に注ぐ……」と出ている以上、名前負けしては三島の名が泣く。
それにしても、本当に綺麗な水だ。川底の水草が良く見えるし、鴨がスイスイと泳いでいた。
三嶋大社に進むに連れ、水辺は狭くなってきた。そして、三嶋大社の鳥居が見えた所で、地下に潜っていった。
上は白滝公園の「めぐみの子」。
下は三島大社に続く水辺。 |
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白滝公園から続いている水辺が地下に潜った所から、三嶋大社の鳥居が見えてきたが、見た所、何処に出もありそうな変哲も無い神社だった。楽寿園の件から見てみると、恐らく大鳥居は別の所にありそうだな。
手を清めて中に入ると、ひっそりとした玉砂利の境内が広がっていた。やはり、脇から潜ったのだ、そう確信した。その確信を持って、中に進んでいくと、本殿に入る総門の手前にある神池の左脇に出た。やはり私の予想は的中していた。
暑さが苦手な私は、涼みたい一心で売店を覗いたが、欲しい物が無く、冷房も扇風機が無造作に動いているだけ。残暑が残る昼下がりで、参詣者も疎らだったので、暇を持て余している店員達が世間話をしていた。
本殿に参詣しに出た。
今年は余りにも内憂外患の気が強いので、本殿で気が軽くなるように祈った。(私事だが)何でも、今年は運気停滞で、何事も上手く事は運ばないと(寺社にある)暦に書かれていた。
何だか、嫌な現実を深掘りしてしまったようで、気が曇ってしまった。折角旅行しているのだから、詰まらぬ浮世は忘れたい。ブラブラと本殿の近くを歩き、舞殿の近くまで歩くと、金木犀の木を見付けた。いい香りがするんだよね、金木犀って。私の通勤道にもあるのだが、この金木犀は樹齢1200年もする大木で、9月から10月上旬に掛けて、2回花が咲くそうである。何でもその香りは2里(約8キロ)にまで伝わるそうである。今回は花が咲いておらず、2里まで伝わる香りは微かにしか嗅げなかった。
参詣を終えても、残暑は収まる気配は無く、涼を求めて、先程入った境内の売店に入った。緋毛氈が敷かれてあるちょっと上品な売店だ。すると、何やら銘菓の看板が立っていた。「福太郎」と出ている餅菓子だった。何と縁起がいい名前だ。
「福太郎」は此処三嶋大社で売られている、よもぎ餅に烏帽子に象った甘さ控え目の餡を添えた餅菓子で、かの安藤広重にゆかりがある。その店で、涼が簡単に取れるかき氷を頂いた。考えてみたら、これが今年で最初で最後に頂くかき氷なのかも知れない。
一服して一句。
炎天下詣りに旨しかき氷
上は三島大社。
中は三島大社本殿。
下は本殿の近くの金木犀。 |
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三嶋大社から歩いて、JR三島駅に戻った。
東海道本線ホームに立つと、熱海行きは時間がもう少しある。すると、立ち食いソバ所を見付けた。東京界隈はしっかりと仕切られていて、椅子もテーブルも備えられていて、冷暖房が利いている所が殆どだが、此処は旅人には懐かしい(?)仕切りなし、カウンターのみの店だった。滅多に見られないので、立ち食いソバを頂いた。かけそば250円。東京と比べると少し割安だが、なると3切れも入れてくれた点を見ると、かなり割安だ。かけそばなのにも拘わらず、なると3切れも入れてくれたサービスは嬉しいが、なるとは余り好きではないので、申し訳ないが、なるとだけ残してしまった。今度来たら、キチンと頂きますよ!
15時19分の熱海行きに乗って、熱海まで向かった。熱海温泉に入る為だ。結構歩いて汗ばんだからね。それにしても、車内は混んでいて、座れなかった。それでも、乗務員室が覗ける所が取れたのでいいとして。手摺りに掴まって、乗務員室を覗きながら、去り行く三島に別れを告げた。
函南を発つと、車掌が手動で方向幕を直していた。「島田」と出していたな。その瞬間、丹那隧道に入った。いよいよJR東日本の管轄に入る訳だ。
ゴーゴー。列車は丹那隧道をひたすら走っている。まだ、函南側の出入口は見える。等間隔で電灯や青信号がしっかり点灯していた。上は鉄道が敷けない山地だ。
ゴーゴー。列車は丹那隧道をひたすら走っている。まだ、函南側の出入口は見える。突然、貨物列車が通過した。一体行き先は何処なのか……、コンテナが多いから静岡の西浜松か、大阪の梅田か。石油輸送がメインの四日市の塩浜や、大阪の安治川口には行かないだろう。まだ、日が沈んでないぞ。普通列車にその勇姿を披露し給え。多くの貨物を力強く運んでいる様を!
ゴーゴー。列車は丹那隧道をひたすら走っている。まだ、函南側の出入口は見えるが、かなり小さくなっている。肉眼ではぼやけていて見えないが、眼鏡で直せばまだ見える。本当に眼鏡が手放せなくなったな。自分の惨めさ(?)に呆れる。
ゴーゴー。列車は丹那隧道をひたすら走っている。まだ、函南側の出入口は見えるが、眼鏡で見ても小さくなっている。うっかり見落とすと、消えてしまいそうだ。
ゴーゴー。列車は丹那隧道をひたすら走っている。等間隔で電灯や青信号がしっかり点灯している中で、函南側の出入口は見えなくなった。ちょっと寂しさが広がった。JR東海の東海道本線はもう終わった。今度は、JR東日本の東海道本線が始まるのだ。
そうしんみりしていると、徐々に隧道に光が漏れ始めて、ガァーッ。熱海に出た。そして、熱海に到着したのは、15時34分。駅数から見ると、函南、熱海と2つだが、所要時間は15分も掛かるなんて、いやはや、改めて丹那隧道の長さに驚く。 |
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熱海温泉。不況幾星霜で、かつての賑わいは潜めてしまったが、まだ東京から手軽に行ける温泉地として名高く、地元住民が盛り返しを図って、試行錯誤を繰り返しているそうなので、陣中見舞いとして立ち寄った。10年前にも、6年前にも訪れたことがあるが、一体どの位変わっているのか。「お宮の松」がある海岸通りは大分変わっているだろう。6年前には、閉鎖されたホテルがかなりあったから。
駅舎を撮したが、ハッと驚くような変化はなかった。まぁ、いきなり様相がガラリと変わって、「此処が熱海温泉なのか?」と疑うよりはいいだろう。
さて、日帰り温泉は何処なのだ。ネットで調べた住所を元に、歩き出した。何でも「駅前」と出ていたから、駅から近い事は確かだ。
住所をチラチラ見ながら、海岸通りに繋がる坂道を降り始めた時、右側に「駅前温泉」と出ている看板があった。本当に駅前だな、と感心していたら、かなり年季が入っている雑居ビルみたいな建物だった。入る事自体躊躇ってしまいそうだ。
狭い出入口から入るや否や、看板娘(?)のお婆さんがやってきて、広さ1畳程度の狭い受付に入って私と対応した。入湯料500円。受付の周りを見ると、日帰り入浴所には欠かせない石鹸とタオルの自販機が備えられていたが、お婆さんからこんな事を聞かれた。
「タオルは持ってきているのかい?」
「えぇ、持ってきてますよ。」
「身体は洗うのかい、石鹸は100円だけど。」
「ただ、入るだけですから……。」そう、汗を流す為に入るのだ。何も100円ぽっちの金銭をケチっている訳ではないので……。
「あら、そうかい。ごゆっくりね。」
中に入ると、本当に狭い。湯上がりに寛げるサロンも、そして、男湯の脱衣所にあった壊れたままのサウナも。まぁ、昔と較べて客足が遠退いた訳もあるだろうが、それでも清潔に保たれている点はお見事だ。何しろ、駅から程近い日帰り温泉だ。注目度は高いから。
さて、温泉の方は……。ガラガラ。アルミサッシの引き戸を開けると、タイル貼りの温泉があった。湯槽の傍の剥き出しになっている錆び付いているパイプや、シャワーが無く、取れたタイルの跡を見ると、これも一昔の雰囲気があるな。
いきなりザブンと湯槽に入る訳には行かないので、脚に少々お湯を掛けたが、やはり熱かった。熱い湯が苦手な私は、頻りに両脚にお湯を掛けて慣らし、頃合いを見て湯槽に両脚を浸けた。そこから、腰まで浸かって熱さを慣らして、そして、首までドッと浸かった。汗ばんだ肌が洗われた。気分良いわぁ。ホォーッと溜息を一つ。顔に出た汗をそのまま手で拭いた所、妙な味がした。しょっぱいな……。その味覚を確かめる為に、何度も顔を拭いて、その湯の味を確かめたが、やはりしょっぱいな。10年前に家族旅行で来た時は、温泉に入った記憶は無いが、そんなにしょっぱいのか、熱海温泉って。何だか、現在の熱海温泉の状況を味わっているみたいだ。繁栄していた昔の甘い夢は終わって、現在の不況幾星霜の世知辛さ。それでも、良いお湯だ。暫く浸かっていよう。
すると、引き戸が開いた。反射的に引き戸の方を向くと、先程のお婆さんが立っていて、私を呼んでいたのだ。一体何なのだ。不手際でもあったのか?
「この石鹸、小さいけど使ってね。」と使用途中の小さな石鹸を差し出した。嬉しかった。きっと、汗ばんでいたのを見て、サービスのつもりで差し出したのだろう。有難く受け取ろう。
そのサービスに心打たれた私は、湯槽を出て身体を洗い始めた。折角(使用途中だが)石鹸をサービスされたのだから、使わないと義理が立たない。しかし、タオルが無いので、手で泡立てて洗う他無い。しかし、此処でも一昔の雰囲気に浸る事になる。ボルトを捻って出すのではなく、ボタンを押して出す蛇口だった。しかも、ボタンを強く押さないと出てこない。此処までは慣れているので、どうにでもなるのだが、水量の自由が全く利かず、ボタンの抵抗が強かったので、いきなり強く、手のひらでドンと押した所、ドバッと出てきて、水圧で洗面器が動いてしまい、殆ど洗面器に入らなかった。周りにいた数人の年配客は慣れた手付きで、お湯を入れているが、この時点で常連客か余所者なのか一目瞭然だろう。それでも何とか、身体を洗う事は出来た。ただ、掛けたお湯は何とも温い湯だったが。
もう一度、湯槽に浸かった。塩分たっぷりの温泉だ。効能は抜群だろう。より長く使って、効能を染み込ませようっと。
15分程度で切り上げて、サロンでスポーツドリンクを啜りながら涼んでいたが、上にある扇風機1台だけでは足りないよ。テーブルにあった団扇で頻りに扇いでいた。女湯の隣にあった細長い従業員専用の休憩室では、無愛想な三十路の男性が、何の表情の変化も無くテレビを見ていた。笑うポイントが来ても、ウンともスンとも笑わない。どんな生活を送っているの?
帰る時、余程若者の客が珍しかったのだろう、お婆さんから、
「もう少し、ノンビリすればいいのに。」と頻りに引き止められた。でも、まだ昼餉も摂っていないし、時間云々が決まっていないぶらり旅だから、申し訳ないと思いつつ、丁重に断って出た。こんな若造でも、引き止められる内が華かしら。
上は2005年当時のJR熱海駅。
中は1999年当時のJR熱海駅。
下は熱海駅前にある日帰り温泉施設。 |
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塩分たっぷりの温泉で汗を流した後は、熱海海岸に向かった。しかし、6年前の記憶を頼りに歩き始めたが、どうも道筋がよく判らなかった。目印になるホテルがあればいいのだが、この6年間で閉鎖されたホテルが多く、記憶に無い店が多かった。
先ずは、駅前温泉から海岸方面のすぐにある交差点を左折した所、開けた海が見えてきた。もしかしたらと思い、坂道を降りた所、記憶が朧気になってしまった。この道じゃないなと、引き返そうとしたら、いい所に眺めが良い駐車場があったよ。その駐車場に立ち入ったら、熱海海岸がよく見えた。海岸沿いに公園があって、あの緑が集中している所は「お宮の松」に違いない。しかし、その反対側には、取り壊されたホテルの残骸があって、剥き出しになっているコンクリートの壁が、熱海温泉の転換期の犠牲を物語っていた。
すると、私の脳に過ぎっていた微かな記憶がクッキリ写った。此処ではないな……。私が熱海海岸に降り立ったのは、もっと向こうの筈だ。取り壊されたホテルに近かった……。こうなったら、こっちの物だ。また来た道を急いで引き返した。
今度は、左折した交差点を真っ直ぐ歩いてみた。歩くとすぐに坂道になっていて、その両脇には魚屋に八百屋、はたまた日帰り入浴OKの木造旅館が建ち並んでいる。その中にも閉鎖されたホテルが1〜2軒あったな。それでも、熱海海岸への道はどうも判らなかった。そこで比較的新しい煎餅屋に入ってみた。
「熱海海岸ねぇ。この坂を下っていって、交差点を……(省略)。」
「いや私ね、10年前にね、此処に宿泊した事があるんですよ、家族で。」
「何というホテルなの?」
「××ホテルなんですけど。このホテルが判れば、何とかなるんですけど。」どういった訳なのか、こういう詰まらない事だけは憶えている。
「××ホテル。そうしたら……(省略)。」
道を教えてくれたお礼に壊れ煎餅を2袋買って、海岸を目指した。それにしても、坂道が続いているな……。と言う事は、帰りは坂道を上がってくるのか。聞いただけでも汗を掻きそうだ。折角汗を流したのに……。
或る路地に入ると、6年前の記憶が浮かんできた。確か、古びた空き家の脇にある石段を下りて、海岸に向かったな。それにしても、あの空き家は印象に残ったな。何だか、現代に取り残された熱海温泉の現状を見ているようで。そう思い出して、坂になっている路地を歩くと、左手に石段を見付けた。間違いないな。
その石段を下りると、熱海海岸に着く筈だ。というものの、石の隙間から雑草が生い茂っている石段を下りるのは、躊躇いを隠せない。まだ再開発の手が行き届いていない証拠でもある。印象に残った空き家もまだあった。 |
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やっと、石段を下りると海岸沿いの大道に出た。此処まで来たら、私の物だ。海岸通り沿いにあった名高いホテルはすっかり瓦礫に帰し、新しい熱海海岸を造ろうとしている。だからって、分譲マンションを無造作に建てる事は止めて貰いたい。熱海温泉再興の道から逃げているようだ。それでも、小綺麗なホテルがあるのだから。
さてと、昼餉は熱海海岸で頂くか……。しかし、家から持ってきた水筒の飲み物は少し温くなっていて、食欲を盛り立てる物では無いので、新しいホテルに備えられている自販機で調達した。宿泊料金を見たら、お一人様6000円前後と出ていた。ネット予約が出来るのかな……。
さて、熱海海岸で昼餉だ。時間は午後4時45分。何とも遅い昼餉だが、黄昏れる熱海海岸を見ながらの昼餉だ。食が進みそうだ。右に見える小島は初島だ。
海岸では海水浴を娯しんでいる家族連れや若いカップルが数組いた。中には、ビーチバレーを娯しんでいる若い連中もいた。思ったよりも若者の姿が多かったのには、少々驚いたな。初島から発った連絡船が入港してきた。
此処で一首。
夏過ぎて熱海海岸黄昏れてビーチバレーの歓喜明るし
昼餉を摂りながら、徐に冷たい飲み物に手を伸ばす。今年になって食事が満足に頂ける程、体調が思わしくない。風邪を引き易くなったし、仕事も上手くいかないし、刺身にも当たったりもしたりと、踏んだり蹴ったりの年だ。それでも、体調が良い時を見て、旅行をしているが……。
暗くなってきたので、話を戻す。
海岸では、海水浴を娯しんでいる家族連れや若いカップルが数組いた。娯しそうに会話をしながら、海岸から引き揚げる若いカップルを見ながら、副食を抓む。波打ち際で、数人でじゃれ合う若者がいた。
時期だと思うが、今でも東京から手軽に行ける温泉地に変わりはないが、ひょっとしたら、さっき立ち寄ったホテルは恐らく、若者をターゲットにしたホテルなのかも知れない。外観は瀟洒(しょうしゃ)で、料金を見たら、手軽に泊まれそうだった。この私も明日仕事がなければ、泊まりたいと思ったよ。そういえば、熱海温泉はかつては新婚旅行のメッカとして一世を風靡した地。(此処からは私の推論になる)それに乗じて、様々なホテルが建ち、新婚旅行のメッカと言う事で、何時しか料金も高騰した。所が、時代の流れや不況幾星霜の所為で、新婚旅行は海外に出るカップルが増え、舵が取れないホテルは次々に閉鎖され、熱海の湯煙は薄らいでしまった。しかし、熱海の湯煙を死守するべく、新たに瀟洒なホテルを建設したり、一泊10000円以上する宿泊料金を、お手軽価格にする等、創意工夫を凝らして現在に至った訳だ。その結果が私が見た光景に違いない。これで、客足は戻ったと聞かれれば、私が歩いた所から見れば、「否」だ。蒔いた種が実を結ぶには、数年掛かるから。1〜2年で結果を出せと言うのは、余りにも無謀だ。
30分で頂かなくてはいけない昼餉だが、今日は50分も掛けて頂けた。そのお陰で体調の方は何とか維持出来た。
上は1999年当時の熱海海岸通り。
下は2005年当時の熱海サンビーチ。 |
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