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(現在の「ムーンライトながら」の運転日や指定席の設定は、一部異なります。本文は2006年8月15日当時の設定です。ご了承下さい)
JR飯田線の朝は、東京の朝と較べて約2時間も遅い。何しろ始発が、豊橋発6時丁度なのだから。その発着地点となっている豊橋は4時22分の始発で(快速「ムーンライトながら」)朝を迎えるのだが、6時まで1時間少々もあるので、皆ベンチに横たわって仮眠を取っている。昼日中なら明らかに白目で見られる行為も、早朝だと極当然に見えてしまうから面白い。
この私も、何時か天竜峡やレールパークがある中部天竜に行きたいと思っていたのだが、行程上や距離上、そして時間上の問題が絡んで、なかなか果たせないでいた。そして、今回の旅行で、行程上の目途が立って、初めて南信(長野の南側)に入ることが出来る。それも、始発列車で。
この行程も或る意味ハードスケジュールといってもいいだろう。東京23時43分発のムーンライトながらに乗車し、電気が煌々と点いている車内で寝て、4時22分に豊橋に着き、6時の始発列車天竜峡行きに乗って天竜峡まで向かう。睡眠時間は3時間も取れればいい方で、下手すると睡眠不足のままで、旅行に臨んで仕舞い兼ねないから。それを踏まえて、今回は何も食事を摂らずに、検札が終わるや否や寝たから。体調の方は至って万全だ。それでも、体調を考慮して、木製のベンチで仮眠を取ったが、枕になった鞄がゴロゴロしてなかなか寝付けず、CDを聴いて過ごした。結局、睡眠時間はムーンライトながらで取った約3時間。それでも、体調は万全なのだから、まだ若い証なのかも知れない、28歳ながら。ヘッヘッヘッ。
徐々に明るくなる豊橋の街並みを見ながら、昨夜の(正確には早朝の)ムーンライトながらの事を頻りに思い出していた。本当に印象的な出来事にあったからね……。
ムーンライトながらで僅か3席しかない1人座席の指定券を、オークションで偶然手に入れて、何の気兼ねせずに座れて心が躍ったり、掛川当たりで目覚めたら、空席を狙う人で通路が埋まっていて、ふと引き揚げ船を彷彿させたり、ちっとも寝られないので、CDを聴いたのだが、45分程度のアルバムですぐ終わってしまい、余計目が冴えてしまったりと色々あった。寝ようと思ったが、車内が眩しくどうにもならない。冬ならマフラーでアイマスクの代用が利いたのだが、今は夏だ。もう一枚のシャツを頭から被り、僅かな遮光を頼りに寝た。しかし、グッスリ寝られた程ではなく、浜松到着時になると、ホームで準備運動を取り、寝るのを諦めた。
まぁ、そんなこんなで豊橋に着いたという訳だ。目的地の天竜峡まで鈍行で3時間掛かる。その途中で寝てしまえば、体調は万全だな。
昨夜のムーンライトながらの混雑振りを和歌にした。
一人席座れる嬉しさ殿様か
夏の夜行通路を埋めし人集り引揚船にも然も似たりけり
天竜峡。弘化4年に岡山の漢学者阪谷朗盧(さかたにろうろ)により名付けられた、諏訪湖を水源とする天竜川にある風光明媚な峡だ。季節を問わず、観光客で賑わっているのだが、如何せんその道程が不便なのが欠点だ。高速道路なら、中央道のインターチェンジが近くにあるからいいとして、問題は鉄道だ。愛知の豊橋と長野の辰野を結ぶJR飯田線があり、豊橋側なら特急「ワイドビュー伊那路」で楽に行けるのだが、辰野側は鈍行に揺られる他ないのだ。しかもその特急も2往復しか運行していないので、上手く時間の設定をしなければ、行けない所なのだ。しかし、楽に行けない所だこそ、お待ちかねの風景が広がっていたり、思い掛けない良い出来事に出会えたりするのだ。そんな出来事に出会える事を信じて、JR飯田線の1番列車に乗った。豊橋6時丁度発、天竜峡行き。 |
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船町、下地と名鉄線と線路を共有している極小さな駅を通過したら、いよいよJR飯田線の始まりだ。
まず最初の大きな駅は豊川だ。そう、あの豊川稲荷の最寄り駅だが、意地悪そうに名鉄線が左側から進入する様は、如何に豊川稲荷が三河でも有名な寺社であることを証している。しかし、駅舎は通路を兼ねている近代的な駅舎であり、豊川稲荷の最寄り駅らしい雰囲気は柱の赤位だ。
三河一宮を過ぎると、徐々に山が増えていき、東新町(ひがししんまち)位になると、もうローカル線が走りそうな山間の駅になってくる。
本長篠での夏の一コマ。
一株の桃色紫陽花長篠の朝の涼しさシャンと引き立つ
それにしても、随分小さな駅が続くな。資料に因ると、このJR飯田線は4つの私鉄が合わさって出来た路線であり、駅と駅との距離が意外に短いことで有名なのだ。幾ら、私鉄の駅を継続しているとはいえ、駅に続く道が無く、本当に乗客がいるのかなと疑い兼ねない駅があったり、風光明媚な所にポツンと駅があったりして、興味は尽きないが、採算が取れているのかと首を傾げてしまう。本長篠や中部天竜等、みどりの窓口がある駅は、幾分が採算があるからいいのだが、他の駅となると、採算の話になると本当に罪悪感が拭えない。
此処で一句。
朝蝉や車内に響きし奥三河
中部天竜は、JR飯田線でも大きな駅だが、平成の市町村合併で此処は磐田郡佐久間町ではなく、浜松市佐久間町になった。しかし、此処が浜松市だとは、どうも腑に落ちない。新幹線の駅や浜松城、砂丘等がある遠州の大都会浜松が、此処も遠州の大都会浜松だとは。どう見えても、大都会の浜松には見えない。駅名板にしっかりと「静岡県浜松市」と出ているが、納得できる人はいるだろうか? 駅には「佐久間レールパーク」が併設されている。天竜峡の次の目的地だ。
皇太子妃雅子様ゆかりの小和田(こわだ)に到着した。此処には皇太子ご成婚を機に、来訪者が増えた話は鉄道ファンでは有名だ。木造の駅舎に来訪者ノートが備えられているが、呑気にノートに旅の思い出を綴る訳には行かず、手でドアを開け、ホームを撮しただけで発った。次発の列車が何時間後になるかが判らないので。
伊那小沢で、列車擦れ違いの為少々停車した。乗客は手でドアを開け、軽く伸びをしたり、滅多に見られない景色に見取れていた。この私も座り続けて、足が痛くなってきたので、外に出ることにする。
伊那小沢駅は山間の小さな対面式ホームの駅だ。ホームには小さな待合室があるだけだが、いや風景もいい駅だ。駅のホームから、天竜川に架かる水神橋が見えるのだ。周りは葉を茂らせた木に囲まれていて、暑い夏故、流れ行く天竜川が何とも涼しそうな音を奏でていた。サラサラサラサラ……、都会の川には無いこの川の寝に聞き惚れて、6時から乗った列車の長旅の疲れを癒した。かれこれ2時間半は乗ったから。
目的地の天竜峡まで、後1時間位ある。このまま景色を見ながら、天竜峡に向かいたいが、何時の間にかウトウトし、気付けば天竜ライン下りの終着地の唐笠だった。
上は本長篠駅で見付けた紫陽花。
中は一時期話題となった小和田駅。
下は伊那小沢駅で見た天竜川。 |
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天竜峡に着いた。時刻は9時14分。かれこれ3時間近く列車に揺られたことになる。少し寝た所為なのか、体調は豊橋到着時より少し良くなっている。いいぞ。ひょっとしたら此処天竜峡で、一大イベントに出会える可能性があると見た。とは言うものの、夏の暑さを一気に涼しく出来る事はどうにも出来ない。まだ8月の中旬。残暑が厳しい時期だ。新しい職場で、熱中症で倒れることもしばしばなので、天竜ライン下り近くの自販機でスポーツドリンクを買って、万が一に備えた。但し、キンキンに冷えていなかったのが悔しいが……。
その途中の観光案内所で、スタンプラリーを兼ねたパンフレットを貰い、天竜峡散策を練った。最初はライン下りだけで済まそうかと思ったのだが、録に身体を動かさず、いきなり舟に乗るのは如何な物かと思い、運動を兼ねて歩くことにした。
天竜峡には遊歩道があり、天竜峡の見所「十勝」が見られる。この「十勝」は明治15年に書道家の日下部鳴鶴(くさかべめいかく)が此処天竜峡を訪れた時に、名付けられたそうであるが、何とその場所に彼の直筆の文字が刻まれているのである。しかも、ライン下りの最中に殆どが見えるそうではないか。こうなれば、乗る価値は充分にあるのだが、此処は体調を考慮して遊歩道を歩くことにする。
まずは、天竜峡に掛かる姑射(こや)橋の袂にある芸者歌手として名高かった市丸の歌碑を見つつ橋を渡り、右の遊歩道に入る。此処からあの暑苦しい夏の空間は中断され、木陰に囲まれた涼しい森が始まる。
最初の天竜峡十勝は「浴鶴厳(よくかくがん)」。その名の通り、(水面で)鶴が水浴びをさせている様から命名された。如何にも風格がありそうな名前だが、書道に長けていない私から見れば、木陰に囲まれた天竜峡の石の一部にしか見えなかった。鶴の水浴びか……。どんな様なのかは、見たことがないから何とも言えないが、いきなり天竜峡十勝に出会した驚きは隠せなかった。此処でスポーツドリンクを一飲み。
この遊歩道は割と整備されているし、至る所に天竜峡の眺望があり、飽きを来させないが、木陰から出た直射日光の暑さはどうにもならない。暑さが苦手な私には、熱中症に罹らないかの不安に駆られ始める時だ。下手して熱中症に罹ってしまったら、今日の旅行はパーに成り兼ねない。頻りに鞄のスポーツドリンクに手が伸びる。
日向と日陰の境を何の躊躇いもなく歩き、合間に飲むスポーツドリンク。しかし、そのスポーツドリンクもキンキンに冷えている訳ではなく、鞄の中に入れても徐々に温くなり始めている。こうなったら、景色云々を堪能する余裕は無くなり、冷たい物を飲みたい願望が出始める。何の為に、天竜峡遊歩道に来たのか。
と思っていた矢先、りんご園の看板を見付けた。しかも、リンゴ狩りが出来ると出ていた。あれ、リンゴ狩りの時期って9月下旬からだと思っていたのだが、こんな暑い時期から出来るのか。そもそもリンゴは暑さには弱い筈なのだが。そんな疑いを以て、看板の前で立ち止まっていたのだが、私の目はリンゴ狩りではなくリンゴジュースに向いていた。持っているスポーツドリンクは温くなり始めていて、このまま飲んでも爽快感が無いからだ。
そして、私の足はりんご園に向いた。石段を登り終えると、左側にはりんご園が広がっていて、右側には、簡素な白壁の一軒家があった。その中に入ると、テーブルに冷蔵庫、テレビ等があるが、一段上がった畳には、籠に入ったリンゴジュースが縦に置かれていた。此処でリンゴジュースが頂けるのか? 家の中やりんご園を見渡しても、人一人いない。何処にいるのだ。あちこち見渡してみると、壁にベルがあり、「御用の方は、このベルを押して下さい」の張り紙があった。リンゴジュースを飲む用があるので、ベルを押した。ジリリリリ……。大きなベル音に驚き、すぐに手を離してしまった。……反応無し。もう一回押すとしよう。ジリリリリ……。今度は長目に押したので、反応が来るだろう。りんご園を見ると、まだ青いリンゴが8月の暑い日光に照らされて木からぶら下がっていた。何だか固そうで、上手く囓れそうにもないな。8月でリンゴ狩りというイベントは通じるのかな……。と、8月のリンゴ狩りの存在に首を傾げていた所、りんご園から一人の男性が駆け付けてきた。まだ若い男性だ。私と同年齢だ。
此処でリンゴジュースを1杯頼んだ。200円也。量は普通のコップの7〜8分。割高な気がするが、此処のりんご園の特製だ。しかもストレートというから、濃縮果汁還元している市販のジュースよりかはお得だろう。遠い記憶を辿ると、小諸のりんご園で買ったリンゴジュースは甘くて酸味が利いてた気がするが、果たして、天竜峡のりんご園の特製リンゴジュースの味は如何に……。
その味は、酸味が無くて甘い。故にスイスイ飲める。こんなにスイスイ飲めてしまうなら、普通のコップの7〜8分の量は余りにも少なすぎる。ジョッキでグッといきたいのだが、1杯200円だ。いきなり散財する訳には行かない。
リンゴジュースを半分くらいまで干し、此処で質問を投げ掛けた。
「8月でもリンゴ狩りが出来るんですか?」その答えは、
「出来ますよ。」の答え。待っている序でに頂いたパンフレットを見ると、8月中旬から早生種が採れると出ている。へぇ〜。聊か(いささか)邪道な気がするが、8月中旬から季節の早取りと称してリンゴ狩りなんて、洒落ているかも知れない。夏秋の天竜峡を巡ってリンゴ狩り。観光商品としてはいいかもね。
と、またコップを傾けるともう1〜2分しかない。こんなに甘くて美味しいリンゴジュースは量を気にせずに飲みたい。此処で1リットル入りリンゴジュースを1籠(2本)買った。1000円也。
上はJR天竜峡駅。
中は駅近くにある姑射(こや)橋。
下はつつじ橋から撮った天竜峡。 |
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龍閣峯の展望台で、写真を撮った後、「つつじ橋」という橋を渡った。橋の袂に降りると、「なるべく中央をお渡り下さい」と看板が立っていた。老朽化が酷いのか? そうだとしたら、わざわざ此処を遊歩道にしないだろう。まぁ、見た感じは天竜峡を見渡せる橋だなと軽く見て、渡ってみた所、異様に橋が揺れた。重量オーバーなのか(体重57キロだけど)。とよく見てみたら、何と吊り橋だったのだ。見ると欄干と橋の隙間には天竜川が高く見え、そして、一歩一歩渡る毎に吊り橋が微妙に揺れるではないか。高所が苦手な私は、漸く端を渡る危険を知り、極力前を見ながら中央を渡ることにした。足を踏み外してしまったら、一溜まりもない。甘いリンゴジュースの次は心拍数アップの吊り橋か……。甘い夢は続かない物だな、コリャ。
すると、吊り橋の床がボコンと鳴った。私の身体に冷水が走った。もしや、壊れ掛かっているのかなと見た所、床が少し反り上がっている所をうっかり踏んでしまったのだ。質の悪い悪戯だよ。そう信じつつ、何度もその部分を踏み続けた。ボコン、ボコン。冷水が走ることはないが、高所が苦手な私には、何とも質の悪い悪戯だ。
こうして、心拍数を上げて吊り橋を渡り終えると、そこに待っていたのは「昇龍泉」という湧き水だった。嗚呼、ありがたや。ホッと出来る所だ。早速、その湧き水を味わうとしようと寄った所、湧き水を汲んでいる観光客がいた。それも、市販のペットボトルや水筒で湧き水を汲んでいた。それでも、余所者が水を飲みたいと頼むと、素直に空けてくれる。吊り橋を無事に渡った記念だ。一掬い頂くとするか。
ホゥと軽い溜息を漏らすと、左にある鐘を3回鳴らした。何でも、来訪者の平安を祈る鐘だ。1回目は自分自身への平安を、2回目は天竜峡を訪れた観光客への平安を、そして、3回目は世界の人々への平安を祈った。特に3回目は、世界に届くように強めに鳴らした。カーンッ! 鋭い金属音が天竜峡に響いた。
吊り橋で対岸に渡ると、先程歩いた龍閣峯(りゅうかくほう)が見えてきた。傍の看板にはタレントの峰竜太の芸名の経緯が出ていた。そういえば、彼はこの近くの下條村の出身と聞いていたが、彼はこの天竜峡の眺望に感動しただけではなく、天竜峡十勝の名を借りて、芸能界デビューを果たした訳だ。そして現在、故郷下條村を有名にした功労者として、町興しの一環として貴ばれている芸能人になった。東京で暮らしているとは思うが、天竜峡十勝の名を借りてデビューした以上、絶対天竜峡は忘れてはいけない存在だろう。
遊歩道を終え、下はアスファルト歩道になり、天竜峡巡りの雰囲気は無くなったが、此処でも驚くべき事実を知ることになったのだ。「氷」の幟(のぼり)が僅かな風に吹かれている観光客相手のカフェが建ち並ぶ道で、3つの歌碑を見付けた。1つ目はこの地方の民謡伊那節の一節、2つ目はやはり民謡の飯田節、そして、3つ目は渡辺はま子の持ち歌としても知られ、戦後日本に大ヒットを醸した『あゝ、モンテンルパの夜は更けて』の全歌詞だった。作詞者は代田銀太郎だが、彼は何と此処飯田市出身の元軍人で、戦後フィリピンのモンテンルパ刑務所に囚われている時に作詞した曲だった(その後、減刑され帰国を果たした)。傍には日比友好のレリーフがあり、二度と惨禍を繰り返さない誓いが読み取れる。
上はつつじ橋と橋を渡った所にある昇龍泉。
中は峰竜太氏の芸名の源になった龍閣峯。
下は『あゝ、モンテンルパの夜は更けて』の歌碑。 |
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遊歩道を1周すると、観光案内所の近くの路地に着いた。スタンプを全て押したパンフレットを観光案内所に渡すと記念品が貰えると聞いたが、その商品はタオル1本。ちょっと拍子抜けしているが、この近くには日帰り入浴が出来る旅館やホテルがあるからな。その為のタオルだろう。残念ながら、温泉に入る計画が無いから。そうだねぇ、汗を拭くタオルに充てるとしよう。
次はお待ちかねのライン下りだ。料金は大人2900円とちょいと高いが、此処で2900円以上の出来事に遇うことなんか、この時は予想だにしなかった。
乗船券を買い待合室に入ると、高校野球を放送されているテレビを真剣な目付きで見る客や、天竜峡のガイドブックを覗くカップル、そして、救命道具の実物を見て、あれこれ喋ったりする家族連れがいた。その中に、都会の喧噪を離れ、ゆっくりと骨休みを堪能する旅人が一人いた。次第に客が増えてきた時、時計を見ると出発時刻5分前になったので、舟乗り場に向かった。
外は蝉時雨が絶え間なく響く炎天下。木陰に入って、天竜川の流れを見ていると、何とも緩やかな流れをしているではないか。かつて、大雨の時には激流と化し、近隣の村々に水害の恐怖をもたらしたあの『暴れ天竜』の面影は無かった。もし、今日も『暴れ天竜』だとしたら、こんなライン下りは営めないだろう。近付くだけでも譴責を食らうのがオチだ。
時間も近いので、乗り場に向かうとしようか……。
見ると、数隻の舟が繋留されていて、男女の船頭達が準備に追われていた。観光客の多くは、簾で囲んでいる待合室で、陽差しを避けていた。私のように、炎天下で舟や天竜川を眺めているのは、数人だった。下手すると、奇人変人扱いされてしまいそうだ。
いよいよ、女船頭の合図が出た。
最初に舟に乗ったのは私だった。一番乗りで気分もノリノリかと思いきや、何と、船尾から座らされた。先頭に立って、天竜川の流れに酔いしれたいと思ったのだが、一番乗りは船尾だとは、一杯食わされたな、コリャ。……と思ったら、女船頭が嬉しい知らせを届けた。
「船尾の方が、より舟下りが娯しめますよ。」ヘッヘッヘッ。天竜峡を初めて訪れた旅人には何とも嬉しい知らせではないか。一緒に船尾に座った2人のおじさんも上機嫌だ。まさに、3人だけの特等席だ。舟に続々と観光客が乗り込んでいく。次第に足を伸ばす隙間が無くなった所で定員を迎えた。30人前後だ。その後の舟も30人前後乗ったから、1回のライン下りで相当稼げるだろう。この天竜峡は四季問わず、観光シーズンだから、心身共に解放される夏こそいい稼ぎ時だろう。
舟下り(ライン下り)の経験は、長瀞の川下りがあるだけで、後は観光船位だ。千葉港観光船、鳥羽湾観光船、関門海峡観光船、宍道湖観光船、瀞峡巡り等々。果たして、天竜ライン下りで待ち受ける出来事とは……。 |
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船頭の竿が川面を差し、舟を動かした。そして、川の流れに舟を乗せて、いよいよライン下りが始まる。一番興奮するのはこの時だ。特に初めてライン下りに乗る観光客は尚更だ。見給え。その興奮の乗じるかのように、六十路のおじさんが豪快に麦酒を飲んで、天竜峡の眺望を堪能しているではないか。この私も、まだ三十路に入っていない若造だ。負けないように堪能するか。
女船頭の解説が入り始めた。最初に印象的だったのは、穏やかではない解説だった。姑射(こや)橋を潜ってすぐの、上の崖に建っているホテルを指した。その途中に(川から7分程)従業員階段があったのだが、1週間前の台風ではあの位置まで増水したそうだ。……いやぁ、幾ら穏やかなる天竜川を手に入れても、台風時の増水の恐怖からは逃げられない。全く、東京の増水とは一味も二味も、いや、何もかも違う天竜川の増水。やはり、『暴れ天竜』の名残はキチンと残されていたのだ。この後も、『暴れ天竜』の威力を見せ付けられる箇所があった。どんな箇所かって。その前にライン下りでも娯しもうではないか。
生い茂る木のざわめきと蝉時雨の隧道を舟は走る。何とも穏やかな流れだ。天竜峡に着いてすぐに乗っても、酔いは来ないな。それにしても、天竜峡十勝の説明が入り、「道理で」と頷けることはそうだが、何だか印象が弱い気がする。特徴ある岩なんて、長瀞にも瀞峡にもある。何だか損したな。おまけに所々、モーターで舟を動かしていたのは興醒めだ。昔はモーターが無かったから、その当時を再現して貰わないと、2900円の料金が馬鹿高く感じる。
普通の舟下りと何ら変わらないなと、一人で白けていた時、川面に漣が立ち始めた箇所に着いた。女船頭が、救命道具を舟の縁に抑えるよう指示した。飛沫がバシャッと来るからそうだ。嗚呼、此処からかつての『暴れ天竜』の名残が始まるのか。胸を高鳴らせながら、救命道具を舟の縁に押し付けた。同時に川の流れが速くなり、舟が少し揺れ始めた。女船頭が遂に、
「いよいよ波が来ますよ。」と興奮付けた。観光客の興奮は最高潮だ。さぁ、準備万端。ドンと来い。
ザバーン。
甲高い歓声が舟に響いた。所が、飛沫は何と私の所だけ飛んできたのだ。何という災難だ。よりにもよって、準備万端の私の所だけに飛んでくるとは。これでズボンと靴下が濡れてしまい、周りの観光客は、その有様に大笑い。しかし、左隣の2人のおじさんは、笑いながらも悔しがっていたな。美味しい所を独り占めされたからね。その証拠に、
「これでいい男になれるな。」とエール(?)を送ったのだから。そりゃそうだよ。何でも「水も滴る美男子」と言うからね。しかも、飛沫を受けたのは私だから、視線は一気に私に向いた。ヘッヘッヘッ。唯一『暴れ天竜』の飛沫を受けた旅人でござんす。これでイケメンになれるのですから、文句はございませんよ!
女船頭から、2枚のタオルを借り、濡れた部分を拭いたのだが、シャツとズボンは何とかなりそうだが、靴下だけはしっとりと濡れていて、この陽気でも完全に乾くことは無さそうだ。
龍閣峯(りゅうかくほう)の下に位置する鳥居に着いた。此処で観光客は賽銭を投げる。私も賽銭でも投げようか。そうだな。1ヶ月後に受ける国内旅行業務取扱管理者に合格できるように祈るとしよう。天に昇る龍のように、大ブレイクを果たした峰竜太氏のように、この私も合格できるように祈るとしよう。余裕があれば、この舟に乗っている観光客の旅路での無事をも祈ってくれ……。
此処からちょっとしたイベントがあった。竿を差していた船頭が、下から投網を取り出し、昔行われていた投網漁を披露するそうだ。上手くいけば鮎が捕れると言うから、いい写真が撮れそうだな、コリャ。カメラを持っていた観光客は一斉に準備をし、シャッターチャンスを狙っていた。
それっ。船頭が投網を投げた瞬間、フラッシュが焚かれた。この私も旅行のお供として使って6年にもなるアナログカメラのフラッシュを焚いた。さて、結果は? 視線は川面に集まる。船頭が引き揚げたが、掛かっていなかった。落胆の溜息が舟を包んだ。女船頭曰く。
「朝の内がよく捕れますけど、昼になると、余り捕れないんですよ。」今は昼に近い。そう簡単には捕れないな。
上は龍閣峯下にある鳥居。
下は投網。 |
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舟は流暢な女船頭の説明と共に、天竜川を流れている。すると、川下の方に鉄橋があった。嗚呼JR飯田線の橋梁だ。そういえば、途中から天竜川に会ったな。列車擦れ違いをした伊那小沢駅で、ホームに降りた時に見た川も天竜川だったな。天竜川と一緒に走っているんだな。と感心していると、橋梁と柱の境に何やら積もっている。よく見てみると、塊のようだが、所々垂れ下がっている。材木か?
此処で女船頭の説明が入った。予想はピタリと当たった。台風で流された木だったのだ。何でも、1週間前の台風では、あの位置まで増水し、川の両岸に咲く筈だったヤマユリまでもが流されてしまったそうだ。勿体ないなぁ。咲き誇っていれば、その眺望に酒でも傾けて……、駄目だ。録に飲めない癖に、不安定な舟で飲んでしまっては、下手に酔ってしまうからだ。土産用に買ってきたリンゴジュースならいいだろう。しかし、リンゴジュースが甘かったら、眺望もそれなりの眺望が欲しい物だ。しかし、幾ら瞬きしても、見えるのは台風一過の無惨な姿だけ。途中、飲食物の販売があったが、幾ら台風一過の無惨な姿が、飲食物の味に因って変わるようなお伽話を信じる程、子供ではないので控えた。
その鉄橋を過ぎると、何やら面白い雲を船尾から見付けた。縦に細長い雲だった。ウーム。龍閣峯(りゅうかくほう)に因んで、『昇龍雲(しょうりゅううん)』とでも名付けておこう。
さて、舟は川の流れに順って、悠々と走っている。女船頭は『天竜小唄』、『天竜下れば』という民謡を歌って、雰囲気を盛り立てているが、一方私の方は、ズボンや靴下を何とか唐笠に着く迄に乾かそうと必死だった。ズボンは部分的に濡れているので乾きが早いが、靴下はもろに濡れてしまったので、乾くのに時間が掛かる。靴下を脱いで、勢いよく振り回したりしたが、やや厚手の靴下には余り効果が無かった。仕方なく、靴下を脱いで旅行するとしよう。なぁに、豊橋までの辛抱だ。中部天竜もそんなに歩く方ではないので。
此処で女船頭が、説明の区切りで、先程の飛沫で濡れた私に話し掛けた。
「今回はどちらから、いらっしゃいましたか?」
「東京の八王子です。」
「アラ、随分遠いところから、いらっしゃいましたねぇ。」
「夜行で豊橋に行って、始発で天竜峡に来ました。」
「始発でですか。そりゃ、大変でしたでしょう。」
「いやぁ、そんなことよりも、まだ乾かないんですよ。こんな陽気なのに……。」
「大変でしたねぇ。お客さんだけだったでしょ、濡れたの。」
「いやぁ〜、『水も滴る美男子』を言うじゃないですか。これで男に磨きが掛かって、ホッとしました!」笑いが取れた。前にも後ろにも、一対一で、会話を取ったのも私だけだった。私の独壇場だ。夜行列車の疲れなんざ、何のその。こうやって天竜川ライン下りを娯しんでいるではないか。丈夫に育ててくれた親に感謝。旅に出会わせた数々の経緯に感謝!
と船頭がもう一度投網を投げた。3回目は上手く行くか(2回目は空振り)? シャッターを押す観光客も固唾を呑んで見守る。何としてでも、鮎を捕りたい。引き揚げると、女船頭が歓声を上げた。網の底に1匹ながら鮎がいた。船頭の顔に笑みが出た。観光客の拍手が沸き立ち、面目躍如だ。これでライン下りの醍醐味の元は取れたな。
上は台風一過の傷痕(線路と橋の間に注目)。
下は私が勝手に名付けた『昇龍雲』。 |
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(2006年8月15日) 天竜峡ライン下りのトップ賞 |
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そして、50分のライン下りが終わろうとしている。思ったよりも短かったな。50分は長いようで短いな。特に、今のような出来事があると尚更だ。岸上を見ると、一軒家があり、その近くに駅があった。唐笠駅だ。無事ライン下りが終わった祝福だろう、一軒家のベランダから、爆竹が鳴らされた。ババババン! 天竜峡に似合わぬ派手な祝福だな……。
唐笠港に着いた。先ず驚いたのは、アヒルの群だった。どうやらこの家で飼われているそうだが、ライン下りで頂いた笠を象った煎餅をやると、旨そうに啄む。その光景に家族連れが集まった。無邪気にアヒルに煎餅を与える子供達。アヒルを声であやす親達。その光景を暖かく見付ける老夫婦。都会では滅多に見られない家族の暖かい光景が此処で見られた。
此処で一首。
唐笠港舟を迎えるアヒルたち日陰で餌やる家族連れかな
一軒家に続く階段を上がると、簡素な売店があった。まぁ、一軒家をそのまま改造した売店だ。白壁が薄汚れていて、粗末さが拭えない。先ず私は現地で売られている松茸茶を御馳走になった。松茸の欠片が1片ある茶碗一杯の松茸茶をクッと飲んだ。温くて吐き出しそうになったが、クッと喉に押した。松茸の味がして旨かったのだが、どうせなら到着時間を見て、淹れて欲しかったな。後、柿のムースを土産に買った。地元の柿を使ったムースで、春夏秋冬問わず売られていると思うが、やはり、秋が近付いているこの時期に売られているのが一番いい。その他、山菜の漬け物や山葵茶漬け等、山地の名産品が並んでいたが、ジュークボックスが2台あったのには驚いたな。勿論、収録曲は昭和40〜50年の懐かしい歌謡曲だ。しかし、こんな薄汚れている所で、洒落たジュークボックスがあるとは拍子抜けしているが、どうせ置くのならキチンと修繕して聴ける状態にして欲しいよ。家の隅に置いていては、埃を被るだけで何の役に立たない。
港を出ると、踏切があり、待合室と片側ホームの唐笠駅が傍に控えていた。近くで見ると、何ともコンパクトなので、豪邸の一角でも置けそうだ。
その近くに、ライン下りの送迎バスが待っていた。ライン下りの乗客を押し込んで、バスは発った。
何とも良い気分だよ。何せ、2900円以上の出来事に出会えたもの。今回のライン下りの美味しい所は、この私が独り占めしたようなものだからな。(私だけ)水飛沫を受けた事も、女船頭から直に、天竜峡に来た経緯を聞かれたし。今回のトップ賞は私だろうね。特に賞品は無いけどね……。
上は唐笠港のアヒル。
下はJR唐笠駅。 |
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(2006年8月15日) 山間の中部天竜から中京の大都会名古屋へ |
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送迎バスで、天竜峡のライン下り乗り場に戻った私は時計を見た。12時5分を差していた。12時15分に到着すると出ていたが、スムースに行けたのが良かったな。
もう、昼を過ぎているのか。此処に来たのは9時頃だった。もう3時間も経ったのか。昼餉でも摂ろうか。といっても、中部天竜に向かう計画を立てているので、12時30分までには駅に戻らなくてはいけない。何にするか。25分で楽に頂ける物といえば……、と乗り場近くのそば屋に目が行き、そこの暖簾を潜った。どうやら家族経営の店だ。時間が余りない旨を告げると、店員曰く、
「ならば、ざるそばがいいでしょう。」それにして下さいな。600円也。「信州信濃の新蕎麦」と言うからね。
出てきたざるそばは、東京のと較べると6割の量。それでも、蕎麦の比率は高いだろうから600円の値段と見ると、この位が妥当なのかも知れない。それでも、28歳の若造の胃袋にはちょっと物足りなかったのと、時間を気にしながらの昼餉だった。それでも、信州信濃の蕎麦の味はキチンと噛み締めましたよ。
その後、佐久間レールパークがある中部天竜に向かったが、余り心躍る展示物は無かった。しかも、特急「ワイドビュー伊那路」2号を目の前にして発たれてしまい、数時間も往生を食うことになってしまった。駅近くの食堂で、また昼餉を摂った。ざるそばと五平餅を頂いたが、味は良かったが、思わぬチョンボが食欲を削いだのか、五平餅を少し残してしまった。
改めて、中部天竜駅周辺を歩いた。特急停車駅であるのにも拘わらず、タクシーなんか1台も止まってなく、本当に山間にある設備が整った駅だ。
おいおい、いい加減にしてくれよ。何が浜松市佐久間町だよ。此処が遠州の大都会浜松だってさ。嗤わせないでくれよ。いっそのこと、磐田郡佐久間町で押し通しても、いいと思うよ。何せ、浜松市の一部でありながら、浜松駅に向かうバスなんか出ていないから、隔離されている気がするな。そんなぼやきを何度も繰り返しながら、駅舎の特急列車の座席を再利用した椅子に腰を掛けていた。
すると、1匹の蜻蛉が駅舎の中に入ってきた。嗚呼、秋の気配がもう訪れているのか……。すると、暑い夏がそろそろ終わる時期に入ろうとしているのか。そういえば、今年の夏は夏らしい夏はなかった気がするな。おまけに、熱中症で倒れたりして、夏を満喫していない気がするな。そう思っていると、先程の蜻蛉は改札を受けず、ホームに飛んでいった。一体何処に向かう気なのかな。飛べるから何処へ行くにしても楽に行けそうだが、寿命は近いぞ。たった1回しかない夏だ。斃れるその日迄、存分に残り少ない夏を満喫し給え。
蜻蛉に送る一首。
改札を受けずに通る蜻蛉の気儘な旅よ時を気にせず
こうやって、残り少なくなりつつある夏を惜しんでいると、時計は16時30分を過ぎた。併設されている佐久間レールパークも閉園し、中部天竜は山間の特急停車駅に変わった。
「ワイドビュー伊那路」4号が到着した。青春18きっぷが使えないので、窓口で購入した乗車券と自由席特急券を持って、乗車した。目的は勿論、窓側の席だ。何と、一発で窓側の空席を見付け、座った。これで、車窓の景色が娯しめる。と一人でいい気分になったのだが、通路側の席に座っている五十路のおじさんの方が私よりも娯しんでいそうだ。その原因は何と、一番前の景色が見られるからだ。
この「ワイドビュー伊那路」で採用されているJR東海373系は、ワイドビューの名の通り、眺望を多く娯しませる為、窓が大きく設置されているのが特徴で、勿論先頭部分にも大きな窓が設置されて、運転手が見ている景色を乗客でも娯しめる。これが何と鉄道ファン以外の乗客にも大ウケで、空席に目もくれず、通路に立ってその景色を見ている乗客が数人いた。畜生! あすこが特等席だったのか。生憎、その特等席の美味しい所は既に取られていたので、渋々窓側の席に座ることにした。しかし、直に睡魔が襲い、漸く覚めたのは豊川に停車しようとした時だった。
瞬く間に豊橋に着き、コインロッカーに預けていたカートを出し、その場で荷物を整えると、瞬く間に名古屋に向かう東海道本線に乗った。忙しい移動だな……。
写真は黄昏の蒲郡付近。 |
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その夜は、名古屋駅太閤口から徒歩僅か1分のホテルで旅装を解き、名古屋駅構内の馴染みの食事処で夕餉を済ませた。そして、残りの時間を国内旅行業務取扱管理者の勉強に費やして、その日を終わらせた。
翌朝、真っ先にテレビの天気予報に注目した。その瞬間、私の顔に険が表れた。台風の影響が徐々に忍び寄っている証拠だ。紀伊半島は崩れ気味で、その他も余り晴天に期待できない。となると、17日に開催される熊野大花火大会は、絶対に中止だな。こうなれば、予定を変更せざるを得ないな、コリャ。
カートをコインロッカーに預け、東海道本線ホームに立った。見た感じでは雨が降る気配は薄いが、台風が近付いている事実は拭えない。自然現象は都合良く進路変更できる訳でもないから、責めて雨に降られないように祈るだけにしよう。今日の天気が持ちますように。
此処で一首。
迫り来る台風の猛威目前の晴れ間に娯しむ鈍行の旅
最初の目的地は美濃赤坂だ。前回は時間が無くて、駅周辺しか散策できなかったが、かつての中山道の宿場町と知って、もう一度訪れることにした。果たして、行き止まりの駅にある宿場町とは……。
名古屋発8時39分の特別快速大垣行き。尾張一宮、岐阜と停車し、岐阜から終点大垣迄は各駅停車する電車だ。
目的地の美濃赤坂は、大垣から岐れている支線だが、西濃鉄道の貨物列車も走っているので、旅客運輸の雰囲気は薄い。9時9分に大垣に着き、9時18分の美濃赤坂行きに改めて乗ってみると、途中の荒尾迄はローカル線の印象が強いのだが、途中から西濃鉄道の線路が入り込んできて(この路線は昼飯(ひるい)線と呼ばれていたが、06年4月に廃止された)、美濃赤坂に着くと、西濃鉄道の広いヤードが偉そうに幅を利かせている。こんな所が宿場町なのか、そう疑っても無理はない。
私の目的は2つ。赤坂宿の散策と西濃鉄道の路線巡りだ。どうしても、果て迄この目で見たいと思ったからだ。前回は駅近くの踏切で思いを馳せただけ。中途半端は一番嫌なので、どうしても、終着地の南市橋迄見たいのだ。
駅でレンタサイクルを借りようとしたら、妙な質問をされた。
「次の列車に乗るのかな?」勿論そうだが、どうも穏やかではないな。無料と出ているから、やはり盗まれてしまうことが多いのかな。念の為にと、記帳された。事務所を見渡すと、やはり西濃鉄道の貨物を扱っている雰囲気が強い。貨物到着時間を記した黒板や、運行状況を記した地図等、もうJR色無し。それでも、JR美濃赤坂駅の時刻表が備えられていたが。次の10時39分の電車まで、後1時間ちょっとある。自転車で充分散策できよう。その代わり、かなり使い古したママチャリだが……。合間に、熱中症防止のスポーツドリンクを一啜り。
駅から真っ直ぐに伸びている道を走ること約2分。貨物駅の雰囲気は瞬時に消える。木造の倉庫が道の両側に建っているからだ。そして、細い道に細々とした商店が並ぶ一角に、赤坂宿の碑が立っていた。傍の灯籠には、「右たにくみ」と記されていた。そうだ。札所にもなっている谷汲の華厳寺が、大垣から出ている樽見鉄道沿線にあったな。此処から華厳寺に向かったのだろう。今は、樽見鉄道に取って代われ、昔の栄華を偲ばせてくれるだけ。
上は赤坂宿の名残がある街並み。
下は赤坂宿の碑。 |
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私は、街角で出ている近辺を記した地図を頼りに、散策を続けていた。すると、踏切があって、その脇には何やら石碑が建っていた。赤坂本町駅跡と記されていた。駅があったのか……。周辺には駅らしい跡は無かった。ネットで調べたのだが、この西濃鉄道はかつて旅客営業もしていたそうだが、程なく廃止され、貨物営業一本になったのだが、その貨物営業もトラックに押され、1日2〜3往復の零細営業に零落れた(おちぶれた)そうである。道理で、途中の昼飯(ひるい)線が廃止になる訳だよ。
それにしても、赤坂宿本陣は何処にあるんだ。地図上ではこの辺にある筈なのだが。と走らせていると、川にぶつかった。見ると、常夜灯があって、何と、近くには「芭蕉元禄の街」と書かれているバス停も見付けた。松尾芭蕉が此処を訪れたのか……。そういえば、結びの地の大垣とは目と鼻の先の距離だし、バス停には「赤坂港跡」と出ているから、この川を下れば、大垣の住吉港に出るのかも知れない。
早速、自転車から降りて、港跡を散策する。付近まで住宅が迫っていることもあり、安全面を考慮して護岸開発されたのだろう、川底はかなり浅く、舟を浮かべられる余裕は無さそうだ。それでも、付近には噴水があったが、責めて舟でも浮かべて欲しかったな。スポーツドリンクを何度も啜りながらぼやいた。近くには、赤坂宿の歴史を展示するレトロな風情の展示館があったが、何と土曜日のみ(だったかな?)の開館で、此処でもぼやきが沸き立った。どうにも出来ない現実への苛立ちを、一気に冷たいスポーツドリンクで押し流す他なく、また自転車に跨り、赤坂宿本陣に向かった。
何と、赤坂宿本陣は先程通った道の途中にあった。何かがあるかと中に入ったが、それらしい物は何も無く、若侍の銅像とお手洗いがあるだけの簡素な公園だった。呆れた。中山道赤坂宿でありながら、その扱いは何とも冷淡で且つ軽薄だ。全く、何の為に美濃赤坂に行ったのか、判らなくなってきた。
散髪して間もない短い髪を、鬱陶しそうに掻き毟りながら、自転車に乗ろうとすると、入口に何やら見付けた。近くに石碑には何と「和宮」と記されていたので、早速何かと調べた。何と、驚く事に、此処赤坂宿は徳川14代将軍家茂(いえもち)公の元に嫁いだ皇女和宮(かずのみや)が立ち寄った所だったのだ。歴史の教科書に書かれていない重要な事実だ。この事実を収めたいとカメラを取り出したが、前に停まっている車が邪魔で、いい写真が撮れなかった。
此処で一首。
蝉時雨木許に転がる亡骸の短き栄えを哀れむ赤坂
さて、西濃鉄道散策と行くか、途中の踏切に、線路に沿って続く細い道があるので、そこを走るとしよう。かつての旅客営業を執った西濃鉄道はどんな物なのかな。
線路に沿って走ると、山の麓に大きな工場が見えてきた。恐らく高度経済成長の折に造られた工場だろう。すると、線路は左に折れ、道が途絶えた。しまった。此処で終わらせる訳にはいかない。他の道を走るしかないな。と、他の道を走り、左折を繰り返すと、西濃鉄道の踏切を見付けて、線路に沿って走り出した。まだ、貨物駅らしい建物には到着していない。
暫くすると、先程見た工場の近くに着いた。時々砂利を運搬したダンプが往来し、宿場町の雰囲気は全く無し。線路はこの工場を貫いているようだが、沿って続いている道は無い。近くの道を走っていると、工場の入口に差し掛かった。そこには「○○工業(株)乙女坂工場」と出ていた。此処か……、乙女坂って。最初の西濃鉄道の貨物駅が此処なのか。ちっとも名にそぐわないな。どんな経緯で「乙女坂」と名付けたのかは判らないが、これ以上西濃鉄道貨物線散策を続ける気力は無くなった。時間もそんなに無いので、また来た道を引き返して、駅に戻った。
上は西濃鉄道赤坂本町駅跡。
中2枚は赤坂港跡と常夜灯。
下は赤坂宿本陣。 |
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自転車を用いて、1時間弱の赤坂宿散策を終え、2両編成の大垣行きに乗った。それにしても、工業地帯と宿場町が背中合わせだとは、随分不釣り合いだな。そんな思いを巡らせて美濃赤坂を発ち、天守閣がある水の都大垣に向かった。
そして、大垣で新たに6両が加わり、名古屋に向かった。此処に来ると、空席が目立つローカル色が強かった車内が、立ちんぼが多くいる大都市に向かう賑やかな車内に変わった。
名古屋に着いたのは11時25分。此処で私は降りた。名古屋市内散策に充てる事にした。実際、何度も駅を利用していながら、実際には中継点に過ぎず、市内にある名所は一度も訪れていなかったからである。この機会にでも、散策したいなと思ったからである。でも、何があるんだ? 思い立つのは名古屋城だけで、何も候補が挙がらない。まぁ、為せば成るさ。駅の一角にある案内板と睨めっこして、名古屋散策を練った。
ノリタケ。これを聞いて、有名陶磁器と判る人はどの位いるのだろうか。そう、欧米の著名人が虜になったあの「オールドノリタケ」の事だ。さて、そのノリタケの発祥の地は何処だろうか? 国際貿易港で鳴らした横浜か、神戸か、長崎か。いや、文化の中心の東京か。いやいや、全く違うよ。何と此処名古屋が、ノリタケ発祥の地なのだ。案内板を見た途端、スッと血の気が引いた錯覚に襲われたよ。名古屋駅近くにノリタケの森という観光スポットがあるからだ。
太閤口と正反対の桜通口から、歩いて、ほんの10分程度にあるから、まずはそこに向かうとしよう。鞄から裏が多少綻んでいながら、要はしっかりしている扇子を取り出し、頻りに仰ぎながら。
東京と何ら変わらない駅中心街を歩く。すると、交差点の右側に何やら、レトロ感溢れる建物を見付けた。交差点を渡り、その正体を調べると、何と「Noritake」と書かれているではないか。此処か……。それにしても、門は閉まっているな。昨日宿泊したホテルのフロントで頂いたパンフレットを見ると、定休日は今日ではないし、入口も何処かにある筈だ。少し歩くと、青々した芝生と煉瓦の建物が見えてきた。人の気配がする。此処だ。ノリタケの森と出ている。
実は、ノリタケに直に鑑賞したのは、今回が初めてではない。実は、門司港を旅行した時、オールドノリタケに出会ったのが最初であった。
とにかく私の頭にはオールドノリタケへの憧れと、疑問を併せ持っている。そして、今回、その憧れを膨らませられると同時に、疑問が掻き消される瞬間でもある。
ノリタケの森は、大都市名古屋の中の小さなレトロ空間。オールドノリタケを焼いた煉瓦製の窯や、煙突のオブジェ。水辺にはベンチもあり(水辺に敷かれている石は、素焼きの陶器の欠片で、浄化作用があるそうだ)、ノリタケの事を知らなくても、充分に寛げる。更には、ノリタケを扱うレストランや、製作現場も有料ながら拝見できる。また、自分で製作も出来るそうだ。自分であの高級食器ノリタケが作れるとは、オールドノリタケには及ばないが、感激物だ。
さて、疑問から解くとしよう。
「ノリタケ」はどういう経緯で付けられたのか。門司港では人名かと思っていたが、パンフレットを見た途端。妙な事に気付いた。ノリタケの森の所在地が名古屋市中村区則武なのだ。「則武」は恐らく、「ノリタケ」と読むのだろう。もしかしたら、此処の地名から名付けられたのか。パンフレットを見ても、創作者のハッキリとした名前はなく、名古屋で誕生した陶磁器と出ていたから、地名が有力だろう。何しろ、ノリタケの森がある位だから……。
それでは、憧れを膨らませるとしよう。
このノリタケの森では、キチンとノリタケが買えるのだ。ノリタケが買えるショップに入った。
一歩入った途端、俗世から隔離された高級感漂う世界。平成の世に生まれたノリタケの食器やコーヒーカップ、更には、和風を織り込んだ湯飲みまでもあった。コリャ、凄いな。こんな食器で食事でも摂ったら、体調が悪い時を除けば、結構食が進むのではないかな。載せる料理は高級仏蘭西料理でもなくてもいい。鯖の味噌煮やロールキャベツ等の家庭料理でも充分に通じる。しかし、洗う時は慎重に扱いたい。割ってしまったら、パーだからね。
さて、どれを買うとしようか。金子はかなり余裕があるので、選びたい放題だ。私としては、門司港で出会った金縁の瑠璃色のコーヒーカップが欲しいのだが。まぁ、取り敢えず、店内をぐるりと回って探すとしよう。
黒壁の部屋に陳列されているノリタケを見定める。しかし、ノリタケの繊細さに惹かれていても、なかなか私の心に留まる物が見付からない。普通の食器は家にあるし、かといって花瓶を買うのも飾る場所や機会が無いので、何処か拍子抜けしている。となると、コーヒーカップになるな。と、コーヒーカップコーナーに入る。どれにしようか。値段も2000円からとお手軽だ。やった。余り財布に響かないぞ。そう知った私は、一気にノリタケを見定める目に力が入った。量が多く入ってお得なノリタケがいいな。出来る事なら、門司港で出会った金縁の瑠璃色のコーヒーカップが……、無いよ。そんな高級感溢れるオールドノリタケなんて。あったとしても、こんな所には置いてないよ。見えるのは、白を基調としたカップばかり。それでも、ノリタケに出会えたのだから、1客でも買っておきたいよ。すると、2つのカップに目が止まった。薄青のコーヒーカップで税込2100円と、薄緑のコーヒーカップで税込2625円。大きさも形もさほど変わりはないが、値段違っているし、後者のカップの胴の長さが少し長かった。ウーム。どちらも甲乙付け難いな。2つのカップの間を行ったり来たり、腕を組み始めて、唸りながら思案する事、数分。早く決めないと、名古屋市街散策時間が削られる。遂に、値段が決め手になった。
私は薄青のコーヒーカップを買った。やった。金縁の瑠璃色のコーヒーカップは買えなかったが、ノリタケが買えた達成感に満ち溢れた買い物だった。そのまま、持ち帰る訳には行かないので、宅配を頼んだ。よぉし、これで紅茶でもクィッと行くか。
写真はノリタケの森。 |
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さて、次は何処にするかな。と、汗を拭きながらパンフレットを開く。名古屋城と行くか。と、お誂え向きに視線を下にすると、何と、テレビ塔がある。そうだ。此処も有名だっけ。テレビ塔にするか。と、私の足は名古屋駅から此処まで歩いた道を歩き始めた。
此処からテレビ塔まで歩くのは、こんな暑苦しい中を歩くのは鬱陶しいのでヤメ。地下鉄で楽に移動するとしよう。テレビ塔の最寄り駅は、繁華街として有名な栄駅か。ノリタケの森の最寄り駅は地下鉄東山線の亀島駅だから、一本で行けるか。と、交差点で曲がらず、真っ直ぐ歩いた。途中で、則武新町の交差点を写真に収めて。
亀島駅に着いた。そのまま普通に切符を買おうと思ったが、前述の通り、暑苦しい中を歩くのは鬱陶しいので、名古屋地下鉄フリーきっぷを買った。740円也。ウーム。移動は地下鉄がメインになりそうだな。何せ、元を取らないと気が済まない質なので。
ホームに降りると、頻りに扇子が動いた。良い具合に冷房が利いているのかと思ったら、違っていた。まぁ、車内に入れば、冷房が利いていると思うが。
東京と何ら変わりない名古屋地下鉄東山線に乗って、約10分で栄に着く。
栄。名古屋を舞台とした歌でも、大方出てくる名古屋有数の繁華街。しかし、繁華街だけではなく、これから向かうテレビ塔や名古屋城にも程近い、何とも便利至極な場所だ。
地上に出てみると、やっぱり偽り無しの繁華街だ。時間も丁度お昼時だ。家族連れが方々で昼餉を摂っているし、若いアベックがベンチに座って、娯しい一時を過ごしていた。いいねぇ。こういう所で休日を過ごすなんて……。と、見たら、銀色のタワーが見えてきた。あれが名古屋テレビ塔だ。
名古屋テレビ塔。それは、名古屋有数の繁華街栄に位置する、名古屋観光スポットの一つ。タワーの足許にはオープンカフェがズラズラ並んでいる。今日は雲が多いながら良い天気だからな、食欲が出るだろう。そういえば、まだ昼餉摂ってなかったな。此処栄で頂くとしよう。
早速、テレビ塔の展望室へ上がった。途中、3階のスカイターミナルで乗り換えて、600円というちょっと高い入場料を支払って、4階の展望室に上がった。1階に設置すればいいのを。何でも、この階は展示コーナーが設けられているそうだ。まぁ、後で行くとしよう。
さて、尾張もとい中京の大都会名古屋の眺望を堪能するとしよう。
やはり違うな。東京では地平線が排気ガスの所為で、地平線の途中でぼやけてしまって、何処が地平線が判らず、嫌な焦れったさがあるが、名古屋では山地が東京より迫っている事もあって、綺麗な空気が都会にまで流れている。それでも、地平線がクッキリとは行かないが、まあ良く見える。街並みはやはり綺麗だよ。東京のように、曲線ばかりの高架線が走っている所は無いし、ゴチャゴチャしている街並みも少ない。気持ちよさそうだな……。
嗚呼、やはり(都下ながら)東京に住んでいる人にとって、地方の大都市は、憧れを掻き立ててくれる物だ。玉石混淆(ぎょくせきこんこう)の情報が混沌と滞留している東京から逃げ出し、東京とは違った心の安らぎが籠もっている都市に身を投げる。失う物も多いが、得る物も多い。もしかしたら、求めていた人が此処にいるのかも知れない……。そんな遠い事も考えられる。
名古屋城の方を見ると、何やらビルの上に天守閣らしい建物を見付けた。一体何だ。よく見ると、左に森があるが、あの辺が名古屋城なのかも知れない。距離にしてみれば、手が届きそうだな。
今度は名古屋城と反対の方を向こうか。森に囲まれた煉瓦造りのセントラルパークが眼下に見えるが、それが終わっても延々と並木と公園が続いている。此処でも憧れを掻き立ててくれる物だ。確か、ずっと向こうは名古屋港だな。海は見えるかな、と地平線に目を凝らしてみたが、見えなかった。距離にしてもそんなに無い筈だが。ネットで見たら、東京にも劣らないスポットがあると聞いているが、時間の関係上行く事が出来ない。それまでは遠い存在だ。
すると、タワーの袂に何やら面白そうな建物を見付けた。いいねぇ、街中に展望プールがあるじゃないか。水泳の合間に市街を眺めるとは、何とも贅沢な志向ではないか。東京にも無いぞ。と思って、パンフレットを見たら、とんだ勘違いをしていた。「オアシス21」という新しい公園だったのだ。何かプールみたいな物があったから、贅沢だなと思っていたが。それでも、空中散歩と銘打って、名古屋市街を高い所から眺めるのも、贅沢だろう。
よし、名古屋城に行くか。でも、この暑い中を歩くのは嫌なので、地下鉄を使うとするか。栄から2つ目の駅、市役所だけどね(元を取りたいので……)。
3階は、この名古屋テレビ塔と歩んだ名古屋市の紹介や、建設までの経緯が映像で紹介されていた。何でも、この名古屋テレビ塔はあの東京タワーよりも先輩で、戦後名古屋の復興の印として、日本の電波塔第一号として建てられたそうである。此処で面白いのは、完成途中なのに、市民が訪れた事である。こういうタワーは完成して、展望台に上るのが第一の醍醐味であるのだが、初の電波塔という事もあり、関心が高かったのだ。そして、開業当日は長蛇の列。今も長蛇の列とは行かないが、名古屋の観光スポットとして愛されている。一番苦労したのは、電波の発信。最初は、NHKとCBCの2局だけだったが、徐々にテレビ局の数が増えていき、電波を発信するスペースが少なくなってしまった。それでも、テレビ4社5波を発信している。もう、50年近くも経つが、市民としては憩いの場、観光客としては良き観光スポットとして愛されている。
一番驚いたのは、名古屋テレビ塔と並んで紹介されたブームコーナー。一番驚いたのは、ブームの中に「ボビーマジック」が混じっていた事だ。此処は中日ドラゴンズのお膝元、名古屋だ。昨今は他球団と熾烈な首位争いを繰り広げられているが、それなのに、千葉ロッテマリーンズの事が出ているとは、ファンとしては、人気が全国区になった嬉しさが読めるが、中日ファンとしては、何とも複雑怪奇だ。それ程、強烈な印象を残したのだ。
さて、昼餉は何処で摂るとしよう……。このタワーにもレストランがあって、先程の眺望も肴に出来るのだが、レストランの入口のコースの値段を見た途端、身を退いた。幾らなんだって、5000円のフルコースは聊か(いささか)贅沢過ぎる。しかも、幾ら高級料理でも、満足できる量でないと、どうも損した気分になってしまうので、肴にするのは止めて、下に降りた。
上は名古屋テレビ塔。
中は名古屋城方面の眺望。
下は名古屋港方面の眺望。 |
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昼餉はテレビ塔の近くのウェスタン色が一杯のレストランで、ボリューム満点のハンバーグを頂いた。1000円で50円のお釣りが来たし、キチンと鉄板で出てきたのは何とも嬉しい。我ながら、賢い昼餉だな……。
そして、名古屋城。栄から程近いのだが、地下鉄で多少涼みたいので、2区間ながら利用した。
市役所駅。名前は味気ないが、地下鉄入口は……、何とも凝っている。何気なく降りてみたら、瓦屋根が付いていて、よく見ると、天守閣の門を象っているではないか。しかも、毛筆でしっかりと「市役所駅」と書かれている。ウーム、決まっているな。流石、名古屋城の最寄り駅だけのことあるな。と感心していると、先程見たビルの上に天守閣らしい建物を見付けた。あれが市役所なんだな。これも凝っているよ。煉瓦造りに天守閣とは、随分レトロ感溢れている事! 名古屋城が近くにある事もあるが、下手に近未来な建物を造って、威張り散らしている東京とは大違い。思わず拍手を送って、写真を撮ってしまった。市役所を撮影するなんて、滅多に無いから。
名古屋城。徳川家康公が築いた城だが、その費用は外様大名から徴収した曰く付きがある。その理由は至って明快。徳川家に刃向かうようにしないようにだ。実際、大名の生活は贅沢でも、予算では相当苦労を強いられたそうだが、家康公から苦労を強いられていたとは……。まぁ、関ヶ原の戦いで西軍に付いた所為もあるが。
城内に入ると、夏祭りだろうか、提灯が一杯吊られていて、露店が仕込みに追われていた。定期的イベントなのか。名古屋に来る娯しみが増えそうだ。偶然であったイベントで、その街が好きになる事もあるからな。
それにしても、暑いな……。地下鉄で存分に涼んだが、外気の熱気に触れたら、10分も経たない内に扇子が動いてしまう。涼む一心で、城内の茶店で一服した。お点前を頂いたが、こんな暑い時に熱い抹茶は頂けないよ。冷たい抹茶を頂いた。上手く身体が冷えてくれればいいのだが、暑がりなので、数分も持たないだろうな……。
自分の暑がりに閉口していると、ショーウィンドーに鳴海絞りの財布を見付けた。鉄道唱歌にもあったな。「鳴海絞の産地なる 鳴海に近き大高を……」と。当然、名古屋と鳴海は近いのだが、まさか今でも鳴海絞が作られていたとは。人から、「『ノリタケ』と『鳴海絞』は高価な品だ」と言われたが、本当にその通りだな。3000円未満の品は一つも見当たらなかった。鳴海絞の財布か……。旅路での財布にしては、聊か(いささか)贅沢品だ。
さて、名古屋城散策に出よう。
一番興味をそそられたのは、積み上げられる石垣一つ一つに、担当する大名のマーク(家紋ではない)を入れていたのだ。しかも、それを先導していたのは、熊本城でお馴染み(?)の、加藤清正公。扇で堂々と先導している銅像があったが、何と石垣を担当していたのは黒田長政公なので、彼を讃える作り話だ。彼が名古屋城の建設を手掛けたのは、見た所大きな所では無さそうだ。最も、東軍に属していたので、費用の負担は余り無かったと思うが……。しかし、天守閣脇の本丸御殿の再建に負担はやはり、市民達のご厚意なのか。太平洋戦争の空襲で灰燼に帰した本丸御殿だ。何せ、名古屋開府400年の節の一大プロジェクトだ。その跡地がしっかり残されているので、何としてでも再建して貰いたい。中には、天守閣を再建しようとも、跡地が住宅地になって出来ない所もあるので。私の故郷川越は、天守閣が無くて、本丸御殿があるという、名古屋城と正反対の状況なので。
さぁ、「尾張名古屋は金の鯱」と誉れ高い名古屋城とのご対面だ。雲一杯の晴天の許に、デンと控えている天守閣の頂点に金の鯱が控えている。やはり、名古屋城だ。実際、自分の肉眼で見られる方が感動的だ。写真ではどうも物足りなさが残る。名所は自分の足で出掛け、自分の目で見た方が感動する。
さて、この名古屋城だが、実際歴史の舞台に出てきたのは、徳川家康公が名古屋城を築いた時からである。前にも、名古屋の地名はあったことはあったが、その名は今の名古屋ではなく「那古野」という、読みだけがそのままの地名だったそうだ。名古屋城には、那古野城の石垣の跡があるので、興味のある方はどうぞ。しかも、此処を統治していた織田家が、名古屋から北北西の清洲に清洲城を建設し、そこを本拠地にすると、一気にその名は歴史上から消されてしまったのである。そういえば、織田信長公が桶狭間の戦いに出陣した時の本拠地は清洲だったな。そして、徳川統治の時代になり、再び名古屋の名が歴史上に登場する。しかも、清洲で発展していた機能を、そっくりそのまま名古屋に移転してしまったので、今度は清洲が寂れてしまったのである(余談だが、清洲では近年清洲城を再建し、町興しを図っているそうだ)。やはり、一方が栄えると、もう一方は寂れる物だな……。諸行無常、盛者必衰の理なのか……。
上は名古屋市営地下鉄市役所前駅。
中は名古屋城。
下は那古野城の石垣の跡。 |
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名古屋城で一番面白かったのは、色々あったな。その中でイチオシの物を幾つか紹介する。
まずは、城に入ってすぐにある古井戸。名古屋城が出来て間もない時、井戸を掘ったものの、濁った水しか出てこなかった。たまりかねた城主が祈祷師に祈祷したが、それも効果無し。そこで、金の延べ棒を底に敷いた所、忽ち、水は澄んできたそうだ。その名も「黄金の井戸」。何処か嫌味な名前だが、金を敷いたのが浄化作用を生んだのかも知れないね。
次に、名古屋城内にあった施設の中で、当時の台所が印象に残った。大名の食事は大変贅沢だと思いきや、何と、台所との距離が一番離れていたので、なかなか温かい食事を頂くことは出来なかったそうである。今は、電子レンジがあって便利だが、幾ら贅を尽くした料理でも、温かい内に頂けないとは、とんだトホホだな、コリャ。
名古屋城建設時に使用した石曳き体験も、イチオシの一つだ。何でも、自分の牽引力がその場で判るメーターが付いているので、男なら試してみる価値はあるだろう。多くの来訪者に囲まれて、若い男が石曳きを体験した。結果は19キロ。ウーム、19キロか……。私はそれくらいかそれ以上行かないと、とんだ恥を晒してしまう。よぉし、私の出番が来たな。靴と靴下を脱いで、しっかりした足場で曳いてみるとしようか。よし、足場はしっかり構えたぞ。それっ、エンヤコ〜ラッ! ……結果は19キロだ。嬉しいのか、悔しいのか判らなかった。まぁ、それなりの体力があると言うことだな。28歳ながら、感心するな。
最後のイチオシは、江戸時代の街並みを再現したコーナーだ。それも、昼夜の雰囲気を再現しているから、店毎の雰囲気が異なるのがミソだ。一般の民家や簡素な飲食店、御書物処(現代風に言えば本屋)、中には当時と現代の定め書きがあるのには面白かったな。しかも、現代の定め書きでも、キチンと江戸時代の書式を用いているのだ。「即刻所払を命ずる」は、明らかに江戸時代だからね。
そして、最上階は土産物屋と展望室。名古屋城下が見えるのだが、多くの観光客が良い所を占めていたし、さっきのテレビ塔で見たから、土産でも買っていくとしよう。此処で絵葉書とテレカを買った。それにしても、旅先で絵葉書を買い続けて何年になるだろう。最初は付け出しレベルでの土産だったのが、いつの間にかテレカと並ぶメイン土産になってしまった。果たして、どの位集まったのだろう。もう菓子類や名物品の嵩張る土産は買わなくなってきたな。金銭に余裕があるのにも拘わらず、年を食ってしまった証なのか。
上は黄金の井戸。
中は城内の台所。
下2枚は江戸時代の城下町を再現した街並み。御書物処と定め書き。 |
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日本三大観音と言えば、東京の浅草、三重の津、そして、此処名古屋の大須を指す。東京浅草は門前の仲見世の賑わいが魅力で、三重の津は大都市の中に取り残されたうら寂しい寺、さて、これから向かう大須は、浅草の賑やかさの類か、津のうら寂しさの類か。本で見掛けたが、浅草並みの賑やかさがある門前商店街があると出たのだが、実際私の目で見ないと、どうも納得行かないので、名古屋城の次は大須観音に決定した。
それにしても、名古屋には歴史的に有名な寺社が、京都程ではないがあるな。「宮宿」こと熱田神宮、そしてこの大須観音。
市役所駅から上前津まで来て、鶴舞線に乗り換えて1つ目が大須観音だ。
外に出ると、大道の両脇にビルが建っている都会の街並みが広がっていて、大須観音があるゆったりとした雰囲気は何処にも無い。ちとばかり、視線を左にずらしてみると、すぐに大須観音の赤い山門が見えてくる。そして、中には多くの参拝客がいる。ウーム、津観音のような置いてけぼりではなさそうだな。賑やかだ。きしめんやういろうが有名だと言うこともあるが、なかなかどうして、その2品以外にも名物がズラズラありそうだ。開けてビックリの玉手箱と言った所か。
その前に、大須観音に参拝したい。玉手箱は後のお娯しみにしよう。
本堂で参拝して、1ヶ月後に受ける国内旅行業務取扱管理者合格を祈った。今年の4月から勉強し始めたので、5ヶ月の勉強期間は無謀だが、旅好きとなれば受験する価値は大いにあるのだ。願わくば、この受験に合格して、我が道を謳歌したい、嗚呼……。
参拝後、門前商店街に入った。すると、一気に賑やかな商店街が私を迎えてくれた。閑散とした商店街を鬱陶しい程見ている私には、何とも心安らぐ場所だ。商店街はこうでないといけないな! 地元の人は行き易い商店街に見えるし、余所者には「ようこそ大須へ」と歓迎されているみたいだ。よぉし、東京八王子から来た旅人です。大いに大須の賑やかさを堪能させて頂きますよ!
此処で一首。
台風に気持ちあらば好天に明日の天気を大須の大吉
大須観音に直接続いている商店街は、大須観音通り。そのまま大須観音に行けることもあり、一番人通りが多い。
まず、目に付いたのは射撃練習場。射撃か……。ふと夜店の射的を思い出すが、此処では、本物ではないが(そうだとしたら怖いよ……)、射撃が娯しめるのだ。入口に貼られている張り紙を見て、一気に躊躇った。「景品無し」だってさ。呆れた。射撃の的には商品が充てられているが、一体何の為なのだ……。
いきなり肩すかしを食わされて、気が滅入りそうだったので、視線を左右に動かしながら、大須の賑やかさを堪能し始めた。見た所、新しく出来た店が多いな。ウーム、やはり大須観音参拝後は、伊勢神宮同様腹拵えする習慣だろう、飲食店が多い。明らかに違うのは、伊勢神宮は和食の店が多く、洋食はあってもハイカラテイストで、財布に痛そうな感じだが、此処大須では和食と洋食の比率が均等で、老若男女に対応出来る店が多い事だ。そばうどん処や寿司屋、トルコアイスに揚げパン、ハワイのロコモコ等、東京でも見掛ける店が多いが、しかし、よく見給え。東京には無い店や味の種類がメニューに入っている。味噌カツ屋にひつまぶし、八丁味噌や名古屋コーチンを使用していたりと、確実に名古屋に適応している。流石に東京では、八丁味噌を使う店はあっても、コーチンは贅沢品とされているので、使えないわ!
つい飲食店を見ると、雰囲気が良ければ入りたくなるが、栄で昼餉を摂ったばかりなので、小腹しか空いていない。折角大須に来たから、大須土産のういろうときしめんを……、駄目だ。最終日なら気楽に買える物だが、まだ娯しい行程が残っているので、余計な荷物となってしまい、買えないよ。やはり、テレカと絵葉書だ。確実に此処を訪れた証拠になる土産だからね。……土産物屋がなかなか無いな。どう見えても、大須界隈の日用品を捌いている店も多いよ。それもお洒落な店よりも、昔から大須で商売に携わっている(失礼ながら)細々としている店が幅を利かせている。チェーン店らしい物は殆ど無い。この大須観音界隈に広がっている賑やかな通りは、東京で言うと、上野のアメ横に類似する。「新しく店を出すには、度胸が要るよ」と言い聞かせている。大きな店は片手で数える位だけど、それでも賑やかだよ。アーケードになっているから、雨天でも楽に歩ける。
さて、肝心の土産物屋だが、なかなか見付からず、何時の間にか大須観音通りを過ぎ、万松寺通りに入ったが、何処にも見付からない。おいおい、大須観音って、名古屋を代表する名所の一つなのに、土産物屋がなかなか見付からないとは、なんたる事だ。嗚呼、大須観音の土産は絵葉書、テレカに非ず。この賑やかな商店街から湧き起こる大須界隈の熱気也、か……。まぁ、来て損は無いが、土産が賑やかさと熱気と言った、形になっていない物とは、拍子抜けだな。
上は大須観音。
下は大須観音通り。 |
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万松寺(ばんしょうじ)通りの途中の十字路を左折して、新天地通りに入った。此処も細々とした店が並んでいて、賑やかなのだが、相変わらず土産物屋は見当たらない。まぁ、いきなり様相が変わってしまうのも興醒めだけど……。
すると、どこからともなく賑やかな神楽が流れてきて、往来が止まった。一体何があるのかと、周りを見たら、私の足は立ち止まった。見ると、アミューズメントパーク(パチスロ屋)の鴨居にからくり人形が動いていた。口上のからくり人形が何とも流暢な語り口で、これから上演する「白雪稲荷」の物語を語り始めた。
筋でも綴っておくとするか。印象に残ったので。
或る一軒の甘酒屋が舞台のこのお話。夫婦共々一生懸命働いている所に、千年も前から此処に棲んでいた白狐が、一人の尼僧に化けて、大量の甘酒を買い求めた。商売がやや左前だった所の大量注文に、夫は勢い付いてしまい、ありたけの甘酒を尼僧に捌いた。所が、支払いが出来ずに妻に怒られてしまい、それを見た白狐は悪い事をしてしまったと、再び尼僧に化け、甘酒屋を訪ね、この店を大繁盛させてあげる約束を交わした。それを機に甘酒屋は商売繁盛し、夫婦の仲も元通りになったそうだ……。
約10分のからくり人形劇が終わり、往来はまた行き来が始まった。しかし、私はすぐに立ち去ろうとはせず、からくり人形劇の始終を思い返していた。最後の所が印象的だったな。怒った妻が、ゆっくりと(からくり人形だから、表情云々は赦すとして)万歳を繰り返したり、尼僧が出てきて、驚く仕草をしたりする夫。狐には人に危害を与え、最終的には射止められ、殺生石になった謂われがある「九尾の狐」で、いいイメージが少ないが、この狐は汗水働く人達の努力をしっかり認め、功徳を与えて下さるのだな。これで、狐のイメージが少し好転した。
振り向くと、何やら寺があった。一見すると、繁華街の何気ない寺だが、しかし、「身代不動明王」の字が目に付くと、私の眉は驚きを見せた。
身代(みがわり)不動明王。何とも縁起がよい寺だが、こんな繁華街に縁起がいい寺があるとは。考え難いのだが、この後、意外な事実に驚いた。どんな事だって? 此処で飲み物を飲んで、休みながら話すとしよう。暑くてしょうがないよ。
何故、「身代」なのか。悪い事に対して身代わりになって下さるのか。とパンフレットを見たら、何とあの織田信長公ゆかりの寺なのだ。こんな賑やかな所に、織田信長公ゆかりの寺があるとは、3月に参詣した熱田神宮もゆかりがあるけど、こちらの場合は、桶狭間の闘いの勝利のお礼として、築地塀を寄進した。今回の身代不動明王は、どんなゆかりがあるのか。「身代」と出ているから、何かしら身代わりになったのかと、閃いた方は実に鋭い。それが、上手く織田信長公の生涯に繋げられたら、当にお見事だ。
1570年、越前の朝倉氏を攻略した帰り道、鉄砲の名手に狙い撃ちにされたそうだ。まさに、信長大ピンチ。何と、負った傷は僅かな掠り傷だけ。何とも悪運が強いと感心させられるが、実は、信長公は此処万松寺の和尚から頂いた兵糧の干餅を、懐に持っていたのが功を奏したのだ。織田信長公と言えば、比叡山延暦寺を焼き討ちしたり、長島の一向宗を惨殺したりと、仏教の敵と当時は罵られたが、意外にも万松寺の不動明王は、篤く信仰していたのだ。一体、仏教の敵なのか味方なのか、よく判らないね。そして、多くの参拝者から、「身代不動明王のお陰で、軽い怪我で済んだ。」とか、「胃潰瘍を患ったが、手術もその後の経過も順調に行っている。」等、霊験灼かのお返事が来るようになり、参詣者が絶えない名古屋でも有名な寺として発展している。地図を見ると、先程からくり人形劇を見たビルは何と、万松寺ビルと言うそうだ。ホェ〜。寺って、そんなに繁盛するものなのか? まぁ、霊験灼かの寺だから、このビルか建ったのも、霊験灼かなのだろう。
では、この私も参詣するとしよう。どんな身代わりになるかは判らないが、何としてでも、国内旅行業務取扱管理者だけは合格して欲しい物だ。と、後ろを振り向いたら、土産物屋を見付けた。残念ながら、大須観音関係の絵葉書やテレカは捌いてないが、開運グッズを取り揃えている、万松寺に相応しい土産物屋だった。此処で、飛沫を上げて渚を走る馬の開運アートを買った。何でも、家の中に向けて飾るといいらしい。
上は「白雪稲荷」の物語のからくり人形(現在は撤去されている)。
下は身代わり不動明王(左側)と万松寺(右側)。 |
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キチンとしたコーヒーショップやカフェで、珈琲や紅茶を飲む。この行為を取る事は、或る意味大人になった証でもある。そんじょそこらのファーストフードでも飲めるのだが、この年になると、騒音が殆ど無く、落ち着ける場所で飲みたい気持ちが強くなる。この私も今年で28歳になるが、もうファーストフードを嗜む機会は殆ど無くなってしまった。況してや、子供達がいる所で一服するなんて、余計疲れてしまう。
歩き疲れたから、一服するとしよう。それも、立ちんぼではなく、座って一服したい。しかし、座るのは、キチンとした椅子でないと、冷視を受けてしまう。れっきとした大人なのだから。
私は涼むがてら一軒のカフェに入った。中には直にコーヒーを碾いて(ひいて)、ドリップで淹れる(いれる)スペースや、輸入雑貨を取り扱うスペースもあり、全体的に木目を基調とした、雰囲気的にはいいカフェだ。此処にするか……。うるさい子供達もいないことだし、大人のカフェだ。
おしぼりで手と顔を拭いて、メニューを読んだが、大好きな紅茶の欄が無かった。嗚呼、そうだ。ドリップが出ていたから、珈琲がメインなのか。珈琲ねぇ……。モカやキリマンジャロ、ブルーマウンテン等のメジャーなものしか知らないから。そのメジャー品種は出ているが、折角珈琲を飲むとするならば、特別な物を頂きたい。紅茶愛好家の私には、どれが特別なものなのか判らず、メニューの上から下を目で読んで、どれにするか思案するしかなかった。下手に店員を待たせたくないし、此処は店員に尋ねるしかないな。
店員と相談した結果、「クラシックブレンド」という紅茶愛好家にも嗜み易いブランドを頂いた。砂糖も普通のスティックの砂糖と粗目砂糖を固めた角砂糖が出てきたが、此処では角砂糖を入れるとしようか。しかも、砂糖少な目のクリーム多目で。甘いのが苦手なので……。
それにしても、珈琲を口にするのは、何ヶ月振りになるのだろう。しかも、カフェで珈琲を飲むなんて……。きっと5年前(2001年)の豊岡駅のカフェ以来だろう。あの時は炭焼珈琲の苦さに感動(?)したのだが、インスタント珈琲は飲む気がしなくて、最近では淹れ易い紅茶かルイボスティーになってしまった。だから、珈琲特有の苦さすら感動を覚える。これは、大人の飲み物だと。そう認める私の和歌。
スーッ。1杯目の少し温めのクラシックブレンドが尽きた。認めていた和歌が、上手く出来そうにもないので、もう一杯頂こう。そうすれば、捗る(はかどる)だろう。実はこのカフェでは、同じ品種の珈琲の2杯目の料金は、1杯目の半額になるのだ。判り易く言えば、私が飲んでいるクラシックブレンドは380円だが、2杯目はその半額の190円になるのだ。今時、200円以下で珈琲1杯が飲めるカフェはざらにないだろう。得したな、コリャ!
2杯目の珈琲を飲みながら、また和歌の制作に入った。今度は、砂糖無しのクリームだけで頂こうか……。ほろ苦さが先走った。まるで私の人生のようだ。砂糖を入れられるかは、私次第だ。来年は砂糖入りの珈琲が大いに飲めますように。
それにしても、小腹が空いたところでの珈琲2杯は胃に来るな。何か珈琲の肴になるものはないかな。と、店を見渡したら、ショーウィンドーにチーズケーキがあった。これにしよう。普通のケーキは8分の1ヶで嫌になるが、チーズケーキは半分でも行ける。甘さが少ないからね。これも、私の人生に似ている。
珈琲を飲みながら二首。
一人旅大須の門前珈琲と独り身の苦さ誰に語らん
夏の日に飲みし珈琲この苦さ苦さ変わらぬ私の人生 |
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