1997年3月31日 一人旅で飾った高校生最後の日

(1997年3月31日) 成田空港へ……

 月31日。卒業式は3月5日に行われたが、正式には31日までは高校生だ。今日は高校生最後の日だ。この日は思い出深い所に行きたいな。それも、高校生活で思い出深い所だ。それなら、稲毛海岸と千葉みなとはどうか……。此処はこの時期に行ったから、別の所にしよう。高校生活最大のイベント修学旅行で立ち寄った所……。そうだ、成田空港だ。「成田」と聞いたら、空港を使った事がなかったので遠い存在に思えたが、修学旅行で少し距離が縮まったので、もう一度行ってみるか……。
 田空港へはJRか京成で行けるが、今回はJRで行く事にした。それも、豪快にグリーン車で……。
 成田空港に向かう列車としては、JRの「成田エクスプレス」と京成の「スカイライナー」があるが、全席指定で好きな所には座れず、おまけに余計料金が掛かってしまう。そこで、総武快速線の「エアポート成田」を使っていくと割安になる。東京から成田空港まで約2時間。ずっとグリーン車に乗ったままで、成田空港に向かった。「成田エクスプレス」だと、運賃の他に1660円の指定料金が掛かるが、「エアポート成田」だとグリーン車が自由席なので、(成田空港まで)グリーン料金950円で済む。その差は710円也。軽い土産の1つは買える値段だ。しかも、グリーン車は今は無き1階造りのグリーン車。特急車両並みの空間をご堪能あれ!
 いやぁ、流石グリーン車! 普通車両では混んでいるのに、此処はゆったりとしている。そのゆったり感が、週刊誌を読む様が余計贅沢に見える。その贅沢に酔いしれながら、買ってきた牛肉弁当でも抓むとしよう。
 此処で一首。
 グリーン車にサラリーマンが腰下ろし週刊誌読む朝の贅沢

 「アポート成田」は、その冠が付いているとはいえ、東京〜千葉の停車駅に変わりは無いのだ。ただ、行き先が成田空港だけの話なのだ(ちょっと入り込めば、「成田エクスプレス」の緩行便)。
 途中の津田沼で、大学が見えてきた。嗚呼、明日からは、れっきとした大学生か。もう少し、高校生でいたい気持ちはあるが、某有名新聞社提携のコンピューター関係の専門学校進学で一件落着したのだ。コンピューター知識を得たい気持ちがあるからね。れっきとした進学だ。胸を張って行き給え!
 此処で一首。
 間もあらず誇る白梅散々に二度と逢えざる我が友達

 「アポート成田」は千葉を発ち、都賀、四街道、佐倉、成田と停車する(今は、これに物井、酒々井(しすい)が加わる)。しかし、東千葉を過ぎると、一気に田園色が強くなってくる。そういえば、4日前に外房線に乗った時もそうだったな。鎌取付近になると、本当に田園地帯だったな。しかも、此処も千葉市だとは……。念願だった鴨川シーワールドにも行けて、本当に娯しかった旅だったなぁ。
 そんな4日前の旅を思い返していると、すっかり田園地帯になっていた。まだ、田起こしはしていないらしく、冬の間北風に晒された藁が寒そうに、春の訪れを待っていた。明日からは4月というのに……。でも、この光景を見たら、そんな暗さは消え去った。
 此処で一首。
 車窓から藁に覆われし田園を貫く細道走る女生徒

 写真は(角度は悪いが)佐倉駅での1階建てグリーン車車体。



(1997年3月31日) エアポートエレジー(成田空港)

(掲載されている写真は、2001年現在のデッキです。当時のデッキは既に取り壊されていますので、ご了承下さい)
 田駅周辺は、国際空港があるのにも拘わらず、それに相応しい賑やかさは無く、成田山新勝寺の門前町の雰囲気が強い。成田空港までは隧道が多く、国際空港故、別世界に繋がる道に見えた。
 成田空港駅を出ると検問所があって、此処で荷物チェックを受けなくてはいけない。デッキ見学の時も、身分証明書を提示しなくてはいけないが、私はその事を知らず、そのまま入ってきたので、身分証明書の一つも無かったが、所持品に何らかの異常が無かったお陰で、何とか入れた。テロ対策が厳しい昨今では、常識外れに見える……。
 はデッキに上がり、飛び立つ飛行機を見ようとカメラを構えたが、時間帯が悪かったのか、飛び立つ飛行機は1機も見当たらなかった。
 しかし、この旅から7年、このデッキから色々なドラマが生まれた。成田空港ばかり見ているので、成田山新勝寺を参拝するがてらに立ち寄ったり、友人が英国に留学するので、その見送りに行ったり(今でも、その友人とは親交がある)。そういえば、高校の修学旅行の時もロサンゼルスに向かう為に、此処から出発したっけな……。もう、高校2年の話だ……。
 ッキのフェンスには落書きが一杯あって、美観が損なわれているが、その落書きの殆どが惜別や再会を誓う文だった。きっと、飛び立つ飛行機を眺めて、涙ぐみながら書いたのだろうか。別れ際に此処で書いたのだろうか。そこら辺の下劣極まりない落書きと較べたら、胸にグッと来る。
 空港では、出会いがあれば別れもある。常に出会いと別れは背中合わせ。出会いがある以上、何時か別れが来るのだ。その別れがあるから、また別の出会いがあるのだ。こうして、私がデッキに佇んでいる時でも、成田空港の何処かで出会いと別れがある……。
 此処で二首。
 空港は出会いと別れの鉢合わせデッキの落書き出会いと別れ
 異国へと旅立つ男の再会に女が残した誓いの落書き

 ッキを出た私は、舶来品を取り揃えてある店に入った。世界各地の名産品が陳列されているが、チョコレートコーナーの余りの広さに閉口した。その所為で、チョコレートを手にしたものの、元に戻してしまった。
 20分近く考えた末、私はエジプトのパピルス製のしおり、オーストラリアの木製ブーメラン、アメリカのケネディ大統領の切手とコイン(50セント)のセットを買った。その他に、ゴルフボールや牛肉の薫製、香水、水差し等あったが、家にある物や趣が無い物なので買わなかった。
 デッキに隣接している食堂で、メロンソーダを飲んで一休み。それにしても、値段の割には量が多い事! 大盤振る舞いだな、コリャ。
 そんな時、幼稚園の遠足らしい幼児がゾロゾロと中に入ってきた。俄に騒がしくなってきた。幼児達は窓越しに見える飛行機や飛び立つ飛行機を見て、頻りに歓声を上げていた。絵本では感じ取れない飛行機の迫力と魅力が、今目の前に現れて、その活躍振りが実感できる。
 また一機、また一機と、大空に向かって、異国へ旅発つ飛行機……。
 そういえば、去年の秋(高校2年生)、希望と不安と言う隠し切れない荷物を携えて、級友と共に、アメリカ西海岸へ旅立ったなぁ……。今は、進路が決まって希望が大きくなり、不安が小さくなってきた。いい気分だ。でも、あの娯しい想い出は二度と戻ってこないから、少し寂しさがある。だからといって、大盤振る舞いのメロンソーダで流し去る事はしたくない。そうだ。その時の自分にこう忠告したい。
「お前が又、この空港に来た時は、この気持ちは良き想い出になって、その想い出を懐かしんで、娯しい雰囲気は消え失せるだろう……。」でも、そう素直に受け取らないだろうな。娯しさ一杯の自分に、こんな忌々し過ぎる忠告は、少しも聞かないだろう。まぁ、今の私が幾分か成長した証でもあるな。
 嗚呼、帰らざる娯しき日々……。飲み残したメロンソーダが、無情にも語り掛けてくる。
 また一機、飛行機が飛び立った。
 此処で一首。
 今日は高校生の最後の日飛び立つ飛行機還らぬあの日



(1997年3月31日) 青堀までの小話

 田空港から富津岬に向かう1時間以上の途中で、結構印象深い事があったので、2編の小話を綴らせて頂く。
 ずは千葉に向かっていた時の事だ。私は普通車両に乗っていたが、途中の酒々井(しすい)からお婆さん達の団体に出会ったが、私は特に気にしないので、相席となった。その車内で、私とお婆さんはあれこれおしゃべりをして、詰まらない時間を潰していた。一人旅で相席となると、どうしても話をしたくなってしまうのだ。それも、相手から相席を頼まれたとなると、いいコミュニケーションが取れるチャンスだ。そこで、私はお婆さん達と会話を交わしながら、有意義な時間を過ごした。私はお婆さん子だったから、何処かホッと出来るのだ。ひょっとしたら、2年前に亡くなった父方の祖母が導いてくれたのかも知れない。すっかり意気投合した印に、お茶まで御馳走された。嬉しかったなぁ……。ジャムパンも御馳走されたが、お茶だけで嬉しかったので、丁重に遠慮した。
 そのお婆さん達は四街道で降りた。
 お別れの一首。
 一人旅隠し切れない寂しさを晴らしてくれた一杯のお茶

 葉に着いた。時間は正午。小腹が空いてきたので、何か摂ろう。或る小冊子で書かれてあった千葉駅名物とんかつ弁当を買った。これが高校生活最後の昼食となるのか。この時間帯は学校でも昼食の時間帯だったから、学校をずる休みして旅をしているようで、得した気分だった。
 とんかつ弁当を抓みながら、富津岬の最寄り駅の青堀駅に向かった。内房の日差しは暖かかった。陽差しがこんなに暖かかったのか。受験勉強で忘れ掛けていたな。もう春に近いのか……。しかし、私の春は何時来るのだろうか……。(今となっては苦笑の種だが)卒業式で校長に、
「私の道を歩いて参ります。」と深く誓ったのにも拘わらず、その道自体漠然としているので、何処を歩けばよいのか見当が付かなかった。この後、苦し紛れの格好で、某有名新聞社提携のコンピューター関係の専門学校に向かう事になるのだが(今になって、行って良かったなと思う事が多い。悪運が強いというのか、「残り物には福がある」とでも言えばいいのか……)。
 話を戻そう。
 津に着いた。青堀は此処から1つ目の駅なのだが、君津までは本数が多くて便利なのだが、君津から館山方面へは本線が少ない。しかも、乗った列車が君津行きだったので、君津で降りて30分程度待たされた。
 そんな時だった。
 自動販売機で飲み物を買おうとしていたお婆さんが、小銭を落としてしまったのだ。私は咄嗟に拾って、お婆さんに手渡したが、険のある顔に一瞬ヒヤッと来たが、
「ありがとね。そんなら110円やるから、何か好きなのを飲みなよ。」と落とした小銭の中から110円を私に手渡したのだ。私は遠慮したが、お婆さんが「どうぞ」と勧めるから、此処は厚意を真摯に受け止めて、ホットのレモンティーを買った。飲むのが惜しかった(因みに飲んだのは、帰路の青堀駅だった)。
 そのレモンティーの缶を両手で握ってみた。とても温かかった。それも普段と違う温かさだ。ただ、レモンティーの温度の「温かい」だけではない。親切のお返しとなると、自らの所業の善良さが別の温かさを醸し出していく。私は暫くその缶を握り締めて、親切が認められ、その恩がレモンティーになった事に心を温めていた。
 此処で一首。
 金届けお礼にくれた110円買いし紅茶の温きに綻ぶ

 写真は君津駅ホーム。



(1997年3月31日) 目指すは、富津岬


 津岬の最寄り駅青堀駅から、バスに揺られて富津公園に向かった。しかし、停留所は公園入口までであって、岬や展望台へは徒歩で行かなくてはならなかった。これには苦笑したが、受験勉強で鈍った足に喝を入れるのにはもってこいだから、いいとして……。
 周辺には、土産屋がズラッと軒を並べているかと思いきや、土産屋は殆ど無く、郷土料理屋が2、3軒あるだけで、意外と静かだった。(3月に来たので)シーズンオフだったのか……。いや、違うような……。
 生園のど真ん中に道が1本が貫かれていて、その道に粛々と歩く旅人一人……。
 まだ着かぬ。眼前には植生園を貫いてある道があるだけ。10分位経ったのか、いや20分位か。いやいや30分位か。いよいよ私の足の疲労は、峠に差し掛かろうとしていた。
 私の足は遂に止まった。張っている足を揉み始めた。その内に思わぬ別方向に向かっているのかと、不安が脳裏を過ぎった。冗談じゃない。こんな張った足を引き摺って帰るとなれば、また30分位の地獄を食う事になる。それに、挫折して富津岬に行く目的が果たせないとなれば、後悔が尾を引いて、「あの時我慢すれば……」となってしまうのも癪なので、適度の伸脚運動を施して、歩き始めた。
 パートナーがいない一人旅で頼れるのは、自分だけだ。全ては、自分の丈夫な身体と旅行で得た経験、そして、旅を好む心が一人旅においてのパートナーでもあり、最強の武器でもあるのだ。
 自分を信じて歩くのだ。此処で、疲れを癒すべく、歌を歌い始めた。どの歌がいいのかな。この際、元気が出て歩き易い歌がいい。
 歩調を整え、足取りを軽くして、自然と体力が湧いてくる歌を小声で歌った。行進曲だった。川越から旅に赴く男の行進曲に聞こえた。皆の衆、宜しく声援を頼むぞ!
 見よ東海の空あけて……。本当は集団で行進しながら歌うのだが、私の前後には誰もいない。たった一人だけの行進だ。しかも、歓呼の声を上げているのは、周辺の植生園にある植物や春風だけ。声ではないが、私には富津岬到着を応援しているように聞こえた。確かな足取りで歩いている。
 我が日本の誇りなれ……。歌い終わって、暫く沈黙が流れた。すると、潜んでいた疲れがぶり返しそうになってきた。嗚呼、ダメだ! もう1回歌おう!
 端、私の耳に何かが聞こえた。
 波、波の音だ。近いのか。近いのだ。よく聞こえる……。
 私の口は笑みで綻び、今までの不安と疲労が波の音で消され、希望が生まれた。
 植生園が終わった時、右には海と砂浜が見えた、着いたのだ。それにしても、長かったな……。
 は駆け足で砂浜を走り、岬に着いた達成感を得、諦めないで行けたからか、有頂天になった。吹く潮風も、私の苦労を褒めているかのようで、胸一杯に吸った。
 私の歩調は何時しかスキップになり、五葉松を象った展望台に向かって歩いた。
 頂の展望台から見えるのは春の海。前から吹く潮風の強さに髪が乱れて、荷物が飛ばされないように、身を屈めた。
 春の海か……。冬の寂しい海はもう終わり、春を告げる世界を地上に投げ掛けている。吹く風は対の久里浜から来たのか。そうか、久里浜もそろそろ春なのか……。
 展望台から降りて防潮堤を歩けば、釣り人や、砂浜で遊んでいる子供連れで少し賑わっていた(シーズンオフだから、そんなに人はいなかった)。まだ静かな富津岬に、子供達のはしゃぐ声が谺していて、平和だという事を自然に感じる。
 かつて、大伴家持(おおとものやかもち)が「海ゆかば 水漬く屍……」と戦争で物騒だった世を詠んだ時とは、想像が付かないだろう……。
 此処で二首。
 富津岬展望台から見渡せば久里浜からの春の潮騒
 海見れば幸せ判る今日は水漬く屍の昔を想う

 上は富津岬から見た房総半島。
 下は富津岬の展望台。



(1997年3月31日) 高校生活最後の旅にレモンティー


 た、あの長い道を歩き始めて、公園入口のバス停に戻った。
 しかし、此処からは帰路になるのだ。今、目に見えている植生園や清々しい青空、歩いている道路さえ、帰路を演出している。幾ら晴れていても、暖かくても帰路にある物は、旅を終わらせる寂しさや、この旅の懐かしさだけで、その所為で何処か寂しく見え、遠離る(とおざかる)富津岬がほんの数分前なのに、無性に懐かしく感じる。
 ふと立ち止まって、振り向いて見えるのは、一体何か? 展望台に乗って、対の久里浜を望んでいる自分か、それとも、防潮堤から波打ち際を眺めている自分か。何れにせよ、この光景は今の私には、帰路独特の寂しさが勝っているので、微塵も感じられないだろう……。
 でも、明日(4月1日)から、新しい学生生活が待っているのだ。きっと、いい事が一杯あるさ。胸を張っていこうよ!
 園入口のバス停に着き、近くの郷土料理屋で、アオヤギの炊き込みご飯を平らげ、この旅の想い出をしっかり仕舞い込んで、バスに乗り込んだ。
 堀駅に着いたら、或る物に気付いた。
 君津駅で、お婆さんがご馳走してくれたレモンティーだった。缶を触ってみたら、すっかり冷えていた。しかし、厚意でご馳走してくれたレモンティーだ。たくても、「厚意」という旨味が詰まっているから、美味しい筈だ。
 簡素な待合室があるだけのホームでゆっくり啜った。やはり冷たかったが、この旅の想い出が一気に蘇ってきた。
 −グリーン車に座って、牛肉弁当頂いて贅沢を味わった「エアポート成田」。デッキに書かれた落書きの中身や、高校2年の修学旅行の懐かしさに打ち惹かれた成田空港。お婆さん達と会話を交わした総武本線。とんかつ弁当を抓んで君津に向かった事も懐かしい。そこで、お婆さんが落としたお金を拾ったら、110円のレモンティーをご馳走してくれた君津駅。最後まで諦めず向かった富津岬……。みんな、このカメラにも、詠んだ和歌にも、そして、私の思い出にもしっかりと刻み込まれている。

 上は青堀駅。
 下は青堀駅ホーム。





トップへ
戻る



Produced by Special Mission Officer