1998年2月14日 夜行列車が誘う初めての伊勢志摩


(1998年2月14日) 初めての伊勢志摩旅行は夜行列車で

(何度も乗車していますが、此処では、初めて乗車した時の感想を綴りました)
 と伊勢志摩との関係は、きっと私が三重県と関係無かったら、これ程、訪れはしないだろう。母親が三重県出身で、何度も帰省していたが、和歌山県と程近い熊野市だったので、伊勢志摩とは縁が無く、学校の行き帰りに、ガイドブックを開きながら、「何時かは、訪れたい」と思っていた。実際、名古屋駅新幹線コンコースで売られていた伊勢名物「赤福」を見ながら、まだ見ぬ伊勢に思いを馳せた物である。
 何としても、この目で伊勢志摩を見たい、この足で伊勢志摩に行きたい……。その思いは、日に日に募るばかり。毎月の小遣いを遣り繰りしても、どうにもならない。その為に初めてアルバイトをして、資金を稼いだ。初めてだったので、朝早く家を出たり、夜遅く帰る日もあったりして、つらい所はあったが、憧れの伊勢志摩の為を思って必死に働き、夢を実現させた。
 そして、なかなか取れなかった夜行列車「ムーンライトながら」の指定券を手にした感激は、今でもしっかり覚えている。前日に旅行資金7万円を下ろした時、感極まって拝んでしまった。
 1998年2月13日の午後9時に、伊勢志摩の旅行に出掛けた。川越から東上線で池袋に出て、山手線で東京に向かった。
 しかし、こんな夜遅くに東上線に乗るのは初めてで、今夜は特別な夜である事を走行中に知った。
 此処で一首。
 見ゆる月接吻交わす冬の夜旅立つ男暫しの別れ

 宿では、華やかなスキーウェアを纏った若者が夜行列車を待っていた(後で知るのだが、「ムーンライトえちご」を待つ人だった。夜行で夜を明かして、朝に滑るのか)。
 此処で一首。
 スキー場へ向かう若人雑談を交わし今宵の寒さ紛らす

 京に着いた。普段は新幹線ホームに立つのだが、今回は在来線ホームに立った。東海道本線9・10番線ホーム。いよいよ特別な夜がやってきた。電光掲示板には、寝台急行「銀河」大阪行きが出ていたし、隣のホームからは、国府津行きやら小田原行きやら頻繁に発っていた。それに引き換え、このホームには余り列車が入ってこない。上を見ると、在来線特急や寝台特急の乗車口が表示されていて、このホームにやってくる列車は、特別な列車である事を知った。勿論、これから乗る「ムーンライトながら」の乗車口も出ていた。「ながら」なので、長良川の鵜飼いが描かれていた。行き先は岐阜の大垣。まぁ、近いな。
 それにしても、早く来てしまったなぁ。時計を見ても23時を回ったばかりだ。初めて夜行列車に乗る事もあって、既に興奮が高まってきた。こんな状況が後40分も続くのか。暫く、ホームをぶらついて気を静めよう。周りを見ると、大きな荷物を抱えた人が多く見受けられた。明らかに、長距離に向かう人だ。「ムーンライトながら」に乗る人だろうな。果たして、何処に向かうのだろう。名古屋か、それとも、終点の大垣か……。
 もう、かれこれ待って、分針が8に来た時、神田寄りから、回送列車が入線してきた。すると、ヘッドには、「ムーンライトながら」が出ている。これか……。東京近辺では見ない列車だ。恐らくJR東海の列車なのか。これだけでも、興奮が高まってくる。
 「ーンライトながら」に乗った。赤ワイン色の座席が、左右2席に分かれている。私の席は窓側だ。夜景を見ながら、果実酒を啜りたいからだ。しかし、座席の背凭れのマジックテープが気になった。ナプキンか何か敷かれるのだろう。この列車は快速扱いなので、リネン云々は最低限に抑えてしまうのだろう。座席をゆっくりリクライニングにして、頭を背凭れに倒した。これで、名古屋に向かう訳だ。ホームの方は、列車内で抓む菓子や飲み物を買い込む人達が、少し早歩きで売店に入っていた。夜行列車だ。娯しみは夜景を見る他殆ど無い。ケイタイのメールにしても、深夜帯でやりとりする人はいないだろう。だから、嗜好品で紛らわそうとしているのだろう。



(1998年2月14日) ムーンライトながら

 23時43分、静かに東京駅を発った。停車駅は、品川、横浜、大船、平塚、国府津(こうづ)、小田原、熱海、三島、沼津、富士、静岡、浜松、豊橋とあるが、豊橋以遠は三河塩津と尾頭橋を除く駅に停車する。時刻表を開くと、三島から浜松は深夜帯になっていて、利用客はいるのかと首を傾げてしまう。
 その事に苦笑しながら、夜景を見ていた。品川では、林立する高層ホテルのルームライトの煌びやかさに心を奪われ、横浜では午前0時を過ぎても、多くの人が往来する様に驚き、保土ヶ谷、東戸塚、戸塚では、どの駅も人は疎らで、同じ横浜市内の駅でも、早めに眠りに就くのかと首を傾げた。夜行列車では、普段はなかなか見られない情景が目の当たりに出来て、得した気分になった。となると、向かう伊勢志摩も大当たりなのだろう。張り切って参りたい。
 さて、この辺で果実酒でも啜るか。と、家で冷やした果実酒を取り出して、プルタブを開けた。酒精度は4%程度だが、飲んでもいいのか。そんなに酒精は強くない故、慎重に行きたい。テーブルは何処か。肘掛けが上に開き、その中にテーブルが設置されていた。上に引き出し、座席側に倒すとテーブルになる。前の座席に付いているテーブルしか体験していないので、少々戸惑った。果実酒をチュッチュッと啜りながら、夜景を見た。
  周りはどうなのか? 席から立ち上がって周りを見ると、アイマスクを掛けて、すぐさま寝る人もいれば、夜食を抓みながら景色を見る人、そして、デッキに出て、小声でお喋りする人もいたりして、他人様に迷惑にならない程度で、各々の夜行列車の過ごし方を披露している。何も、すぐに寝る必要はないのだな。夜行列車初心者の私は、是非とも自分なりの過ごし方を貫く決心を固めた。果実酒をチュッチュッと啜りながら、熱海到着迄起きているとするか……。
 此処で二首。
 粛々と暗中走るながら号寒風背きて街道走る
  様々な一時過ごす夜行かな如月寒けど寒さ忘れる

 船を発つと、次第に夜景も黒一色に灯りがポツリポツリとなり、次第に飽きが来て、眠気も催した。すると、貨物列車が汽笛を鳴らして、通過した。それも、多くのコンテナを牽引しながら。旅客列車が終わると、貨物列車の出番になるが、私達はその出番を見ずして、床に就いてしまう。その活躍を目の当たりに出来るのは、列車内にいる限りは、稀である。寂しい気がするな。東海道本線のような大動脈路線を、大手を振って走行出来る機会はあることはあるが、その時間は寝静まった深夜帯とは……。
 そんな深夜帯のヒーローの寂し過ぎる活躍に、果実酒を啜っていた。友達は、堂々と疾走する我の姿のみか……。
 すると、自分自身がこんな真夜中に、一人で旅行していることに気付いた。隣席には誰も座らず、おまけに私と同行する人も何処にもいない。ただ、夜景を見ながらチュッチュッと果実酒を啜っているだけよ。半分まで干した果実酒だが、変わり映えのしない夜景を見るのも嫌になってきたし、今度はどうするか……。
 此処で一首。
 盃を交わす友達此処に無し窓に映りし我と交わせし

 海に到着した。時刻は既に午前1時を過ぎていた。これ以上夜景を期待するのは飽きてきたので、一眠りしよう。
 此処で印象的な出来事があったので、綴るとしよう。
 或るおじさんが、席をあちこち移動していたのだ。深夜帯なので、忍び足で移動していたのだが、夜行列車初体験の私には、どうも不審者と思わざるを得ない行動だった。
 しかし、おじさんのこの一言が、印象を大きく変えた。
「ラジオを聞きたいのですけど、電波が届く所が見付からないんですよ。いい所はありますか。」ケイタイの電波ならまだしも、ラジオの電波と来たら首を傾げてしまう。現に車掌も、
「そうですねぇ。走行中ですから、探すのは難しいでしょう……。」と匙を投げた答えを返していた。
「そうでしょうねぇ。」とおじさんも落胆を顔に出していた。何と、このおじさん、ラジオが上手く聞き取れず、電波が届きそうな所を模索していたのだ。こんな真夜中に、ゴソゴソしていて、怪しい雰囲気を漂わせていたのだが、これで雰囲気が払拭出来た。しかし、電波が上手く届きそうな所は無く、仕方なしにデッキに出て、聞き取り難そうにラジオを聞いていた。自分勝手な注文が蔓延る(はびこる)昨今、電波等スケールが大きい質問をする人は珍しい。おまけに、ラジオは全国ネットではないから、余計だ。
 夜景を見ながら二首。
 夜汽車から外を眺めて何想ふ甘き恋路と我の行く末
 東京(みやこ)から離るる夜汽車闇の中離るる勿れ男女の心



(1998年2月14日) 微睡み(まどろみ)の浜松駅と夜明けの豊橋

 呼、どの位寝たのか、どの位進んだのか、当の私には判らない。気付けば、静岡を過ぎて、安定した速度を保ちながら、悠然と走っているではないか。揺れは殆どない。時折、この列車の存在を嘲るかのように、貨物列車が猛スピードで対向側から走り抜けていった。貨物を多く抱えているのが自慢なのか、夜でも頑張る様を見せたいのか……。真夜中の寂しいヒーローに活躍に、私は目を伏せて見送った。
 て、どの位寝たのか。或る駅に到着していた。時計を見ると午前3時を過ぎていた。あれから2時間程寝たのか。
 一体、此処は何処なんだ。ホームに出て一服するとするか……。
 駅名表を見ると、「はままつ」と出ていた。浜松か……。
 ホームでは、数人が喫煙したり、自販機で飲み物を買ったりとしていたが、車内ではまだ寝ている人がいたりして、各々の過ごし方をしていた。しかし、終夜電気が煌々と灯っているのは、何とも苦痛だ。アイマスクを付けて平然と寝ている人が、何とも羨ましい。
 寂一色の浜松駅に、突如アナウンスが入った。貨物列車の通過だった。此処でも貨物列車は、遠くから汽笛を上げながら、名古屋に向かって通過した。多くの荷物を長時間牽引するのだから、その魅力や存在は私でも判るが、休む気配を見せなかった。こういう時だな。貨物列車の良き桧舞台は……。
 長時間座って気怠くなってきたので、ホームに降り立ち、背伸びを一つ。
 此処浜松には、東京とは違う夜明け前の情景が娯しめた。時刻は4時を過ぎているが、目を覚ましている人が数人いた。夜行列車の珍しさに興奮しているのか、寝付けないので仕方なく起きているのか、眠りの浅さに苦笑した。しかし、これを書いている私もその一人だ。一眠りした位では、まだ興奮が収まっていない証だ。若いねぇ……。
 大衆の朝は訪れていない。もう少し、待つとするかな……。
 此処で一首。
 浅き夢覚めし外は浜松の朝風代わりの貨物列車

 て、浜松を過ぎて、浜名湖でも観ようと窓を観たが、タイミングが遅かったのか、認識が無かったのか、浜名湖は出てこなかった(それでも、最寄り駅の弁天島駅に、電灯が点っていた)。貨物駅の西浜松駅は確認出来たが……。
 刻を調べている内に、二川を過ぎて豊橋に着いた。
 此処でも、大衆の朝は無かった。停車してある列車の方向幕は、昨夜の余韻を残していて、「豊橋」の表示だった。着くや否や帰って寝てしまったのだろう。「回送」と直す暇を惜しんで。
 此処でも、2、3人がホームに出て、背伸びしたり、飲み物を買ったり、散歩したりして、大衆より早い朝を味わっていた。大衆はその事を知らずに眠りに浸っていた。両方とも気兼ねせずに、各々の快感を楽しめるからな。私もそうだ。ホームに降りて構内を歩いたり、名鉄線のホームで路線図を見たりした。
 東海道本線のホームには早朝に備えて、電光掲示板が行き先を表示していた。行き先には岐阜やら興津やら出ていた。でも、見るのは地元の人ではない私だけだった。
 橋を出ると、5時を過ぎる。そして、空の方も徐々に明るくなっていく。車窓からは夜明けの東海が見えてくるが、通過する建物の中にポツリポツリと明かりが点っている所がある。住宅なら朝早い一日の始まりに頬が綻ぶが、会社や工場なら、電気の消し忘れに苦笑するか、この時間でも働いている労働者に感謝したい。

 写真は、浜松駅で撮影した快速「ムーンライトながら」号。



(1998年2月14日) 早朝の名古屋駅で駅弁を食す

 松ですっかり目が覚め、豊橋からずっと景色を眺めていた私は、無事名古屋に到着した。6時5分だ。まだ布団の中だな、何時もなら……。それにしても、体調の方は頗る良好だ。
 此処から、目的地の伊勢志摩には、関西線で亀山迄行き、紀勢本線に乗り換えて行くか、快速「みえ」に乗るかどちらかだが、今日は土曜日なので、7時50分に快速「みえ」51号が運行しているので、これに乗るとしよう。実際、すぐに出発する6時40分の鈍行に乗って、亀山で乗り換えたとしても、こちらの快速の方が早く伊勢志摩に到着するのだ。
 刻はまだ6時30分にもなっていないが、名古屋駅構内に出るとするか。今までは、中継地点として利用しているだけで、一歩も構内に出ていなかったから。
 古屋駅構内に出た。真っ先に思い付くのは、金の鯱で有名な名古屋城だが、それを抜きにすると、中京の大都会に降り立った爽快感が勝っている。此処は日本の大都会東京ではない、中京の大都会名古屋だ。
 名古屋駅は、太閤通口と桜通口に岐れているが、目的の列車に乗る時間は、1時間以上あるので、朝餉でも調達しておこうか。と、両入口を見渡したら、太閤通口に踵(きびす)が動いた。駅弁コーナーが見えたからだ。
 普段は混み合う名古屋駅も、早朝となれば広い通りだって、大手を振って歩ける。混雑した駅で揉まれている人達には、いい気分になれる。それに、見慣れない空いた名古屋駅が見られるのだから、地元の人以外にとっては、夜行列車に乗って一夜を明かした人だけの特権だ。
 さて、何にするかな? 名古屋コーチンや八丁味噌が使われている駅弁が並んでいて、名古屋色豊かな物だ。そして、私は一つの駅弁を手に取った。それは何と、東京でも売られているうなぎ弁当だった。今となっては、(自分でも)鼻で嘲笑しそうな事だが、何せ初めて伊勢志摩を旅行する嬉しさから、つい好物の鰻に手が伸びてしまったのだ。しかも、朝から豪快に鰻を抓む事は、滅多に無いからね。憧れの伊勢志摩を旅行出来るのだ。贅沢に振る舞いたい。1050円也。
 て、何処で頂くか……。生憎、近くにベンチが無く、直に座って食したりすると、明らかに冷視の対象になる事請け合い。かといって、立ち食いも格好良くないし、駅周辺にベンチが置かれている所は見当たらなかった。参ったなぁ……。
 途方に暮れそうな時、買ったばかりのうなぎ弁当を見詰めたら、突然、3年前に覚醒した旅行のDNAが蠢いた(うごめいた)。そのDNAは私を改札内に入らせ、快速「みえ」が発着する関西本線ホームに導き、傍にあったベンチに座らせた。しかも、近くには普通列車と特急列車の2種類の時刻表が掲示されていた。特急列車の時刻表を見た時、瞬時にそのDNAが何を伝えたかったのかよく判った。
 「(ワイドビュー)ひだ」高山行き
 「しらさぎ」和倉温泉行き
 「(ワイドビュー)南紀」紀伊勝浦行き
 何れもまだ足を踏み入れていない場所だ。それだから、余計その地に対して好奇心が生まれる。その地には何があるのか、その地の名物は何か……。幾ら都会の物産展で、名物を知っていても、その地に赴かなくては気が済まない。旅好きならば、そう思わざるを得ないだろう。つまり、この地の特産物や名物を手近に知るには、それらがふんだんに織り込まれている駅弁が一番である。そして、それを頂くのは、駅に関係する所で食すのが一番なのだ、と……。
 「駅弁は、駅で食せ。」か……。漸く、答えが判った。鉄道旅行ファンならではの行動だ。
 速、旅先の朝餉を、関西本線ホームで頂いた。
 開けてみると、面積の半分位の鰻が乗っていた。時間を見ると、ついさっき作られた弁当だ。出来立てか……。その角には漬物があった。
  先ずは鰻を頬張って、漬物を少し齧った。ん……、酒粕の匂いがする……。奈良漬か……。遠慮が沸いて、隅に置いた(今は難無く頂けるが、これが守口大根の漬け物だと判ったのは後の事)。時折、走り去るディーゼル牽引車を見ながら、次々に鰻を頬張る。飲み残したレモンティーを啜りながら。
 後ろから亀山行きが発った。走行音を聴いていたら、一瞬、鬱陶しかった夜行列車の事が、鮮明に浮かんだ。寝たのは熱海到着時の午前1時24分で、目が覚めたのは浜松到着時の3時38分だから、睡眠時間は僅かに2時間だ。煌々と照らされた車内で、就寝したのは初めてだから、なかなか眠れずに難儀した。それでも、体調は良好なのだが、夜行列車を思い出すと、朝から疲れが出てきそうだ。
 そんなことを考えている内に、鰻が半分に減ってしまった。奈良漬はどうしよう……。口中に鰻が詰まっている内に、奈良漬を放り込んだ。よし、これならいけそう。そんなこんなで、全部平らげた。
  包装紙は記念に持ち帰ろう……。



(1998年2月14日) 一路、鳥羽へ……

 速「みえ」で、一路鳥羽へ向かった。天候は曇り。天気予報では雨のマークは付いていなかったものの、やはり晴れて欲しい……。
 その途端、急に気分が悪くなってきた。冗談じゃない。折角計画した旅だ。初っ端から台無しにするわけにはいかない。ここは一眠りして、気分回復を図るとしよう……。
 私が目を覚ますと、既に四日市を越え、伊勢鉄道内を走っていた。気分は絶好調になっていた。やはり、夜行列車明けは少し寝るべきだな。
 見える光景は田園風景だった。田畑の中にポツリポツリと民家が……。厚い薄い雲の下に。気分は良くなったが、問題は天気だ。晴れればいいが。
 此処で一首。
 雨予報晴れ間嬉しき伊勢鉄道バレンタインの淡い差し入れ

  鹿を通過した。幾ら有名な市名が駅名になっても、こうやって、1本の快速が通過するとなれば、通過した駅の周りが長閑(のどか)に見える。実際にそうだった。田畑だらけで、遠くに国道が悠々と連なっていた。
 気分も良くなったので、お気に入りのCDを聴いた。両足を向こうの座席に乗せて。
  心地良い旋律に気分が踊り始めた。いい旅になりそうだ……。
 、松阪と停車し、多気に差し掛かった。あぁ、此処が別れ道なのか……。しかし、哀しい別れ道ではない。来たければ、何時でも来れるから……。男と女の別れとは違って。
  嗚呼、右には紀勢、左には参宮……。熊野には右に行け……。しかし、私の足は右には赴かない。左の鳥羽に足を向けるのだ。列車から下りずに、故郷に思いを馳せる私に別れを告げて……。
  そんな、停車時のささやかな悲話……。
  詰まらん悲話は捨てて、外を見た。晴れ間はウッスラと見えている。いいぞ。もっと晴れろ。私の旅路に曇りは必要ない。
 此処で一首。
 この晴れ間長く続けとおてんとに何度も拝む些やかな夢

 に、参宮という未知の世界に入った。三重出身の癖に、伊勢志摩に行ったことが無かった私にとって、少しも見逃さずに此の旅路を味わいたい。20年間夢見た旅が、現実になる瞬間を……。
  嗚呼、晴れ間が雲の割れ目から漏れ出し、辺りを色彩々に彩っている。この貴重な日を忘れる勿れ……。
  此処で一首。
 雨は嘘雲一杯の晴れなれど見ゆる景色色彩々

 写真は鳥羽駅で撮影した快速「みえ」。



(1998年2月14日) ミキモト真珠島(前)


 ず最初に向かったのは、鳥羽だった。初めて旅行する伊勢志摩だから、とにかくJRの行き止まりまで向かう事にしたのだ。
 鳥羽駅。JRに取っては最果ての駅だ。駅名表示板を見ると、臨時駅である「池の浦シーサイド」と書かれてあった。
 線路を見ると、行き止まり(車止め)が錆びていた。最果てを知らせる符号だ。
 改札口で、ミキモト真珠島と鳥羽水族館の共通券の広告が掛かっていたので、自分の財布と相談した。鳥羽に行くのは初めてなので、結果、買うことにした。3600円也。まぁ、水族館2400円、真珠島1500円だから、それと較べたら総計3900円で、300円お得だ。安上がりかな……。
 (JR側の)鳥羽駅は客待ちのタクシーと、片側に海の幸を売る商店街があるだけで、都会に毒されていない素朴で簡素だ。すぐ目の前には海が開けている。
 処には、世界のファッション史に残る偉業を達した所があると聞いたので、行ってみる事にした。その偉業とは真珠養殖である。初めて真珠養殖に成功した所が、此処鳥羽である。
 国道42号線を跨ると、通路で繋がっている島が見える。そこが真珠養殖に成功した島である。ミキモト真珠島である(正式名称 相島 おじま)。
 早速中に入って、御木本幸吉氏とご対面。実際、御木本幸吉氏の銅像は威厳があった。私は思わず脱帽して、一礼した。何しろ、真珠の養殖に成功した男だ。これは日本のファッション史に、いや、世界の真珠界に大きな新風を吹かせたことだ。私も、何時か幸吉の様な、立派な男になりたいものだ。
 ず最初に、真珠博物館に入った。此処では、真珠の核入れ作業と選別が間近に見られる。一見簡単そうな核入れ作業だが、結構神経が要る。アコヤ貝の外套膜をメスで切って、真珠質が分泌される所に肉厚の貝で作った核を入れる。そして、最後に外套膜の肉片を付けるのだが、上手く付けないと真珠が出来ないのだ。
 さて、これで真珠が出来ると思いきや、なんと、真珠は思ったよりも養殖出来ない物だったのだ!
  核を入れた真珠100%中、半数が核入れ時のショックや赤潮等の被害で死んでしまう事実に、立ち止まった。20〜25%は真珠としては確立されているが、状態悪質の為、薬品等に加工されてしまう。事実、展示されていたその真珠の形は悪かった。15〜25%は形が良く一般的に製品化されるのが此処のランク。5〜10%はその中で特に光沢があって、完璧な球状を形成されている真珠だという(「花珠」と言う)。綺麗だった。うっすらと桃色をしていて、甘そうな感覚が舌に伝わった。価格も普通のよりも3〜5倍するという。養殖が確立されても、なかなかいい物は出来難い。当に、海の宝石だ。

 上はミキモト真珠島。
 下は御木本幸吉像。



(1998年2月14日) ミキモト真珠島(後)



 キモト真珠島には『姫路城』、『軍配扇』、『平和の鐘』等、真珠を使った美術品が数多く展示されていて、来訪者の目を娯しませている。それにしても、真珠養殖を成功させ、こんな息を呑む真珠の美術品が創れるなんて、日本は大した国だよ。
 その中でも、イチオシの美術品がこれだ。
 真珠を鏤めた(ちりばめた)『夢殿』だ。そう、法隆寺にある夢殿だ。静寂な場所に置かれた『夢殿』は本当に夢殿だ。真珠という真珠をふんだんに使っているし、その周りに誕生石を持っている干支がある。周りが静かな事もあって、その高貴や優雅さは俗世を圧倒し、真珠と誕生石が織り成す夢幻の世界に誘ってくれる。
 此処で一首。
 静寂な室内展示夢殿は真珠の輝き尚静寂に

 後に訪れたのは、御木本幸吉氏の生涯を紹介した「御木本幸吉記念館」だ。
 中に入ると、生家のうどん屋の構えがある。幼少の時から、鳥羽で指折りのお金持ちになりたいと、青物の行商を始めたそうである。一番驚いたのは、鳥羽沖に碇泊したイギリスの測量船に多くの商人が売り込みに行ったそうだが、なかなか相手にされず諦めて帰った。此処で、吉松(御木本幸吉氏の幼名)は密かに見て覚えた足芸を披露した所、大ウケしてただ一人の出入り商人として、認められたそうである。
 東京へ出て、真珠と出会い、故郷で真珠養殖を試みるが、決して平坦な道程ではなかった。何しろ、欧米の科学者が試みても失敗したのだから。養殖用の海の確保や、養殖費用に充てる為、様々な仕事を手広く始めたり、挙げ句の果てには、周りの人達から「無理だ」、「山師」と罵られながらも、決して諦めることなく、養殖を試みた意気込みは、訪れる人を惹き付ける。
 しかし、そんな苦労をぶち壊すかのように襲った赤潮で、養殖していた5000個の貝が全滅。最後の望みを賭した所が、此処相島(現在の真珠島)である。そして、出来上がったのが、5粒の半円真珠である。欧米の科学でも為し得なかった真珠養殖が、成功した瞬間である。
 此処で一首。
 人工の真珠生まれし珠五粒幸吉の涙成功の色

 も感心したのは、養殖成功後に最愛の妻を亡くした以来、再婚もせずに生涯を全うしたということだ。どんな美女にも振り向かず、生涯を渡れる困難なことは、私には出来そうにもない。ずっと、亡くなった妻を慕って生きていたに違いない。何処か、感慨深い。
 そして最後には、御木本幸吉氏が買い集めた安価な恵比寿像、尊敬した人物の紹介、在りし日の御木本幸吉氏を偲ぶ映像が流れる。
 此処で二句。
 冬の鳥凍えを恐れる真珠かな
 浜風に細身を揺らす冬の松
(これは、2000年2月12日に訪れた時の二句ですが、時期と重複している為、掲載致しました)

 上は『夢殿』。
 中は『姫路城』。
 下は『軍配扇』。



(1998年2月14日) 憧れの伊勢神宮へ参詣




(毎年訪れていますが、此処では、初めて訪れた時の感想を綴りました)
 羽からJRで伊勢市に引き返して、伊勢神宮を参詣した。
 聞いた話では、外宮を参拝してから内宮に参るのが習わしというから、最初は外宮に向かった。
 此処から近いと地図にはあったので、歩いて行った。常夜灯が道路沿いに並んでいて、外宮への道標を成していた。
 流石、伊勢神宮がある事だけある。駅から外宮を一直線に伸びている道路は広く、交通量も多い。今も昔も、『お伊勢参り』の活気は変わらない。
 路を真っ直ぐ歩き、左のカーブにぶつかる所に外宮がある。結構華やかで商店も軒を並べているのかなぁと、勝手な期待を膨らませて行った所、どうだ。周辺は騒々しい通りから隔離された所にあって、商店らしい店は無かった。料亭の駐車場がすぐ傍にあった電柱には、津の銘菓『平治煎餅』の広告が掲げられてあった。
 中に入ると、静かだった。車のクラクションが掻き消される程に。此の静かさに納得が行かない……。寂れているのか……。
 時々見掛ける境内の大木が印象に残った。印象に残ったものの、参拝者は疎らだ。
 意外にも外宮を訪れる参詣者は、いないのかも知れない。
 宮から内宮までは、バスを使った方がいい。
 バスに乗った私は、内宮の賑やかな様を想像し始めた。門前町があると聞いたが、どんな雰囲気なのだろう……。そして、江戸時代から憧れの的であった『お伊勢詣り』の終点はどのようなものなのか……。
  バスは順調に進んでいた。起伏が目立つ県道を抜け、猿田彦神社を右折すると、国道23号線(御幸街道)に入る。内宮が終点だ。
  御幸街道を通った。此処でも常夜灯が、内宮まで案内してくれる。
 さて、常夜灯に沿いそのまま行くと、左にはおかげ横丁が見えてくる。でも、此処から行くなんて味気ない。横丁で盛り上がって、その盛り上がりを神域に持って行ってしまえば、迷惑至極。物見遊山の観光になってしまう。神妙に詣りたい。
  乗合自動車内宮前驛に到着した。売店のおばさんに荷物を預けると、身を軽くして内宮に向かった。客を待つタクシーや、観光バスが並んでいた。
 大鳥居を潜り、宇治橋を渡った。下には五十鈴川が流れているが、此処が神域と俗世の境なのだろう。四季問わず、流れ行く五十鈴川が本当に綺麗だ。此処が『お伊勢詣り』の終点なのか……。きっと昔の旅人も、この綺麗な流れを見ながら、心を洗ったに違いないだろう。
  五十鈴川の水で両腕を濡らした。化学物質に冒されていない水が涼を誘う。序でに、今まで溜め込んできた穢れを、此処で浄めようか。
  神樂殿から流れる雅楽を耳にし、大木に囲まれた砂利道を漫ろ歩きし、内宮で賽銭を投げ入れ、自らの幸せを祈った。
 た宇治橋を渡り、おかげ通りに入った。名物の赤福を頂く為だ。
 赤福は私にとっては、随分遠い存在の銘菓だったが、此処に来て、漸く身近な銘菓になりそうだ。名古屋駅の新幹線の待合室にあった赤福は、どうも馴染めなかった。遠い所にあって、届きそうにもなかった存在がしていた。今迄伊勢に行っていなかった所為もあっただろう……。
  しかし、その赤福が今日頂けるのだ。嬉しさに早まることなく、ゆっくり茶を啜って赤福を頬張る。嗚呼、待望の銘菓の味は、何ともあっさりとした甘さが上品だ。旅人のささやかな憩いだ。私は甘い物が好きではないが、あっさり系の甘さは進む。
  此処で赤福を買おうとしたが、鳥羽で買ってしまったので、必要が無くなった。最も、名物品は地元で買うのが道理というものかも知れない。
  そんな小難しい事は端に置いて、赤福の味を堪能しよう。周りは賑やかだった。中年サラリーマンの仲間、或いは親しいマダム達、チラチラと若者の姿も見受けられた。時折、漂う磯の香りも微笑ましかった。殻付きさざえを売る店や、駄菓子を売っている店もあった。東京には無い門前の魅力や活気が詰まっている。秒針の進み具合が違う。
  食べ終わった後でも、暫く休む事にした。少し歩き疲れた。
 此処で一首。
 内宮を詣りし後に一休み赤福の旨さ門前の活気

 上は伊勢神宮外宮。
 中は乗合自動車内宮前駅と伊勢神宮内宮。
 下はおかげ通り。



(1998年2月14日) 伊勢市駅までの小話

 りのバスに乗った。
 途中、道路の脇に和田金の看板が出ていた。確か、松阪にある店なのだが、此処伊勢でも有名な店なのか? 天下の松阪牛と謳われて幾星霜、松阪牛を扱う店は東京にもあるが、地元ではない所に看板が出ているとなると、さほど有名な店に違いない。そういえば、鳥羽駅構内で見た牛銀の看板も、その類だろう。急所は、「金」と「銀」が付いている。普通の店だと、何処か高飛車で気障(きざ)な雰囲気があって頂き難いが、松阪牛等の高級品を扱っているとなると、「道理だ」と頷ける。
 ウ〜ム、夕餉は松阪で頂くのだが、ガイドブックで見たら、予算も5000円以上とかなり行く店が目立ち、先程の2店だと10000円は軽く超す。旅費の方に余裕はあるが、まだ旅行する場所があるので節約したい。何処で頂くかは、松阪に着いてから話そう。
 路は案外空いていた。途中昭和初期に建設され、当時のレトロな雰囲気が色濃く残る宇治山田駅に寄り、伊勢市駅に行った。2駅を較べると、伊勢市駅は建物も極普通で、構内も切符売り場に売店、そば屋があって、これも極普通。本当にコンパクトな駅だ。
 それにしても、運転手は親切に曲がる際や停車時には、
「曲がりますよ。」
「足元に気を付けてお降り下さい。」と一声を掛けていて、注意深い運転手に好感が持てた。口調も穏やかで、地元を旅行する人達を歓迎している運転手だ。そういえば、稲毛海浜公園に行く途中に乗ったバスの運転手も親切だったな。旅先となると、ホッと気が和む。疲れが暫し和らいだ。
 下りる際、私は運転手に、
「親切な運転で、有り難うございます。」と礼を言うと、運転手はそれに応えるかのように、
「気を付けて行きなさいよ!」と激励を送ってくれた。片手で礼を言うと、運転手も同じように私に礼を言った。
 いい別れだ。何だか、これからの行程も気が入りそうだ。
 次は松阪で夕餉だ。
 此処で一首。
 親切と褒めし我に運転手挨拶交わし外宮に去り行く



(1998年2月14日) 松阪での夕餉

 本で、高級和牛として挙げられる一つが松阪牛だ。それもその通り、松阪駅の駅弁も立ち食いそば屋も松阪牛を使っているし、魚町(牛銀がある場所)や中町(和田金がある場所)界隈には老舗の店が軒を並べている。
 しかし、松阪の顔は牛肉だけではない。江戸時代の国学者本居宣長は此処松阪の出身、三越の創業者三井高利(みついたかとし)も此処松阪の出身、果ては、織田信長公に魅入られ出世した蒲生氏郷(がもううじさと)公ゆかりの地も此処松阪。ポスターには「松阪の三英雄」と出ていて、観光アピールをしているので、松阪に来たら、是非訪れてみたい。
 回、私が訪れたのは、夕餉を摂る為だ。先程紹介した和田金や牛銀で夕餉を摂るのもいいのだが、予算が5000円以上するのでは、学生の財布にはちょっと痛い。だからって、松阪牛を諦めるのは早い。
 魚町・中町と正反対に位置する京町一区。地元では、此処を「ホルモン街」と呼んでいる。その名の通り、ホルモン焼肉が多く点在して、店毎にタレの味や鮮度、値段を競っている。そうなのだ。幾ら、松阪牛とはいえ、ホルモンもちゃんとした松阪牛に変わりはないのだ。此処に目を付けて欲しい。
 はガイドブックでも地元でも「松阪牛の牙城」と呼ばれている店に入った。
 中に入ると、フォ〜ッと溜息を漏らした。その名の通り、私が来た5時頃でも、全席満員の状態で、若い店員達が手際良く客の注文を受け、動いている。炭火焼で立ち篭める煙を、強力な換気扇で忙しそうに放出していた。匂いだけで充分に食欲をそそる。早く頂きたいのだが、全席満員だったので、暫く待たされた。
 待たされている間にも、数人の客が私の隣に座ってきた。私は自分にしか知らない秘密を他人に知られるのが怖くなってきた。隣の人達は、見た所地元の人だ。私は関東から来た余所者だ。座り方にしろ、食べ方にしろ、何処か関東とは違って見えたし、客の一人一人の視線が怪しく見えた。目を合わせないように上に向いても、視線が私に当たっては、どうも落ち着かない。こうなると、幾ら地元の人を装っても、知らぬミスで余所者と判ってしまい、店から摘み出されるかも知れない。
 漸く私の出番が回ってきた。30分近くも待たされた。
 は牛タンとキモを頼んだ。普通にカルビとかあったが、脂っこいのは苦手なので、この2品にした。それにしても、色々種類があるな。ロース、ミノ、ハツ、ヨボ、センマイ等のホルモン焼肉や、ユッケ、クッパ、ビビンバ、チヂミ等の韓国料理、飲み物も普通の麦酒や日本酒の他に、赤ワインや韓国焼酎もあり、ちょっとした韓国が味わえる場所だ。
 オッ、きたきた。これでも、れっきとした松阪牛だ。思わず、拝んでしまった。
 キモはタレに漬け込んでいて、山盛りに出された(ざっと見た所、300グラムか)。タンは厚めに切っているので、お得感がある。1枚でも充分に頂ける。これを炭火で焼いて、ペロッと頂くのだから、焼肉好きにはたまらない一時だ。又、焼肉を頂くのは久し振りだし、炭火で焼くのも初めてだから、この夕餉も成功させたい気分になった。
 味の方は、肉は軟らかくて食べ易かったし、タレは少々辛目なのも良きアクセントだ(因みに私は辛い方が好きなので、この位が適している)。夕餉代も1750円と安く済んだ。「超」が付く程の大成功だ。
 後に、毎年欠かさずにお伊勢詣りをするのだが、必ず宿泊地は此処松阪にしている。勿論夕餉はこの店で頂くのだが、あの日と何ら変わりなく迎え入れて、そして、味も落とさずに営業しているのが何とも心強い。
 此処で一首。
 京町の夜の賑わい立ち篭める焼肉の煙と娯しき語らい



(1998年2月14日) 夜の亀山駅

 19時24分、亀山到着。松阪〜亀山で約40分も掛かった。路線図では、松阪から亀山迄7駅あり、さほど遠くないと思ったら、駅での列車擦れ違いに時間が掛かった所為で、こんなに時間を食ってしまった。でも、名古屋には23時までに到着すればいいのだから。
 の亀山駅は人気が無く、電灯が独りでに灯っていた。外は何も見えず、昼の観光地が掻き消された。これが、紀伊半島を海岸線沿いに走る紀勢本線の発着地点とは、到底思えない。下りの終着地和歌山は都会だろうが、周りを見ても明らかに亀山は田舎だ。それでも、関西本線と紀勢本線の分岐駅だから、バカには出来ない。紀勢本線の0キロのキロポストが、閑散としている駅に発破を掛けているようだった。
 田川から関西本線の快速列車が来た。乗客は居たかも知れないが、記憶だと誰もいなかった。自棄に車内の電灯が眩しかった。周りがより暗いから、停車した回送列車の明かりが、不自然に感じる。誰もいないホームに、「乗れよ、乗れよ」と誘い込んでいるようだった。回送されるというのに……。
 アナウンスが入った。電車が来るって。だけど、此処には私以外誰もいない。周りも真っ暗だから、余計アナウンスの突然の存在に驚く。声も尖ってそうに聞こえ、心臓に良くないアナウンスだった。最後に、「ご注意ください」と流れたが、そんな必要はないだろう。誰もいないから……。
 その列車が来た。時刻表では、19時55分発の熊野市行きで、多気以遠の小さな駅では、早くも終電となる。随分早い終電だな。亀山〜熊野市は結構距離があるから、向こうに着くのは23時18分……。もう夜中だな。
 此処で一首。
 アナウンスの声だけホームに響けども聴く者何処夜の亀山

 で暇で、どうしようも無かったので、ホームをぶらついた。
 階段を上がった途端、広告を見つけた。何処かで見た画風かと思ったら、富永一朗先生の作品が常時展示されているかめやま美術館の広告だった。伊賀に近いから、忍者の絵だった。
「おぉ、富永一朗の絵だ。忍者が書かれている。」私は嬉しさの余り、声を出してしまった。誰もいないのに。それでも、懐かしそうに見ていた。そういえば、中京テレビで「お笑い漫画道場」という番組があったから、尚更だ。よく或る先生をおちょくった漫画を描いていた記憶がある。懐かしいなぁ……。

 写真はその夜に撮った亀山駅の駅名標。



(1998年2月14日) 夜の関西本線(亀山〜名古屋)

 内の電灯が自棄に明るい列車に乗り込んだ。名古屋行きだ。
 乗客は私達の他には誰もいない。だから、少しの奇行は許される場所だ。酒でも啜ろうか……。
 外は真っ暗。電灯で照らされた僅かの外気が見えるだけ。人気は感じない。寂しい。孤独だ。自然に、抑え切れない殺意が漂ってきた。この真っ暗な所で、何かが……。嗚呼、薄い紙切れで、独りでに腹を斬られるような苛立った錯覚。電灯が灯っていて明るい列車が何よりの頼りだ。所がこの列車は何という寂しさ。電灯だけが明るくて、その一両一両の車両には、人という人がいない。後ろから前から誰かが、私を襲うこともあり得る。背凭れに凭れているのにも拘わらず、銃で射抜かれる錯覚を覚えた。落ち着かない……。聞き慣れたディーゼルの騒音が、毛布のように柔らかかった。
 此処で一首。
 一両目広き車両に蛍光灯乗客僅かに我一人

 橋を渡った。轟音が聞こえた。私は乗客が疎らな車両にいながら、轟音のようなつまらない騒音でも、楽音として聴くことが出来た。外が真っ暗で、電灯の明かるさが際立っている無人車両、この二つが揃えば、誰でもなれる。
 揖斐川を越え、長良川、木曽川と渡り続けた。此処も真っ暗で、容貌が余り見えなかった。黒く塗り潰された水が、伊勢湾に流れて行く感触が判った。どんな冷たさを持っているのだろう……。
 富に着いた。相変わらず真っ暗。乗降客は僅かに見られた。
 時の流れが遅い所では、夜の訪れが都会より早い。夜の存在を忘れた東京人はこの有り様に、首を傾げるだろう。本当の夜が此処で見られる。そうだよ、この有り様だ。
 此処で一首。
 前方の青いシグナル闇に点き北風寒し寂しき駅舎

 江に着いた。私は頬杖をして、夜の暗さで曖昧になった景色を見ていた。不思議にも、眠気は催さなかった。初めて伊勢志摩へ旅行した興奮が収まっていないのか。それとも、今日も特別な夜だから、緊張しているのか。



(1998年2月14日) 夜の名古屋駅

 古屋に着いた。一挙に夜が返上され、眠らない街に変わった。名鉄百貨店のロゴマークが緑や青に光っていて、自然に賑やかさを感じる。見たことのない名古屋の一部の夜景に酔いしれた。
 21時28分到着。亀山から1時間位掛かった。松阪で満たされた胃袋が半分以上も消化された。
 駅ビルの商店は殆ど閉まっていて、買い物するにも不便だった。此処に東京の夜と名古屋の夜の違いが見られる。
 桜通口のコインロッカーで荷物を出して、夜行で食べる夜食を買うことにした。商店は閉まっていたが、売店は開いていた。
 今朝ういろうを買った売店で、店員に勧められてイチゴ大福(3ヶ入り、540円)を買った。
「実は今日、伊勢志摩に行って来たんですよ。」
「へぇ、良かったですねぇ。」愛想のある返事だった。
「私ね、三重出身の癖に、行った事がなかったんですよ。今日になって、やっと行けるように。」
「そうですかぁ。三重の出ですか。」
「えぇ。これから、夜行に乗って、千葉の銚子に行く所なんですよ。」
「千葉の銚子に……。いいですねぇ。お一人で。」
「えぇ。まだ、旅の中盤にいますからね。」旅行でのこんな会話でも、印象に残る。いい私の旅の糧での脇役だ。買ったイチゴ大福も、何だか食べるのが勿体無い……。
 み物が欲しくなり、桜通口の正反対、今朝駅弁を買った太閤通口から出た。コンビニがあるかどうか調べた。それよりも、深夜に近い名古屋の夜が何処か耽美的だった。夜空を彩るネオンサインにしろ、客待ちのタクシーにしろ、居酒屋から帰るサラリーマンにしろ、東京から離れた此処名古屋で迎える夜にしろ、東京の外気が通用しない此処名古屋の夜は、慣れない地元の夜の鋭気に心を奪われていく。次第に余所者の自分が、地元に帰化されていく。出来立ての名古屋人の夜の外套を身に纏い。増して、一人で歩いていると、いよいよ私は一人の旅人ではなくなる。れっきとした名古屋人だ……。
 閉店するパチスロ屋、明かりが消えた大手進学塾、疎らな明かりが窓から漏れているシティーホテル。何処か違う……。初めて足を踏み入れる所為なのか、「余所者通すべからず」の匂いが嫌でも漂ってくる。
 コンビニで飲み物を買って駅に戻ると、名古屋駅の明かりが、此処から夜行に乗って、銚子に行く私にエールを送っているかのように、夜の空間を壮大に灯っていた。不思議にも、力が沸いてくる。熱く燃える男の夜のエナジー。
 此処で一句。
 手を擦り温みて待つ身の夜汽車かな





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