1999年12月26日 元川越人が訪れる観光都市川越

(1999年12月26日) 育ち故郷の川越への帰省

 まれも育ちも同一の地という人は、私にとって見れば、何とも羨ましい話である。私は今、都下の大都会八王子に住んでいるが、生まれは母方の故郷三重県熊野市で、育ちは埼玉県川越市。その川越市内でも、(知っている範囲で)2回程引っ越しをした。よく父と伯父に連れられて、東京ドームシティに行った(しかし、後楽園ゆうえんちには、一度も足を踏み入れていないのが悔しい)。そして、八王子に住んでいる親戚の家に遊びに行くこともあった。その為、埼玉住まいでありながら、東京文化を或る程度知っている人間になった。そして今、東京都八王子市に住んでいる。本当に複雑な環境で、今日まで生きてきたのだ。
 その中でも、私の人生の大半を過ごしてきた川越は、私の第二の故郷だ。
 越。浦和、大宮と比較すると、重要幹線から外れていて、都会とは言い難く、しかも、さいたま新都心の開発が注目される中、開発云々の注目度も極めて低い。しかし、それが観光都市としての魅力を格段に上げ、且つ大型開発されていない分、懐かしい物が至る所に残されている故、郷愁心をそそらせ、一部では「昭和レトロ」と評されている。そして、10月中旬に開かれる「川越まつり」は関東三大祭として、多くの観光客を集める大イベントなのだ。一年中観光客が絶えない都市として、都心のみならず、関東中から注目されている都市なのだ。
 しかし、住人はその魅力に疎く、「こんな都市の何処が良いの?」と観光客を見る度に、首を傾げざるを得ないのが殆ど。この私も例外ではない。川越に住んでいた時は、様々な見所があるのは判っていたが、どうも訪れてみたい気は起こらず、漸く起きたのは、八王子に引っ越して1年近く経った時だ。
 1998年11月。私は20年近く住んできた川越に別れを告げて、八王子に引っ越してきたのだ。その日の出来事は今でも良く憶えているが、私情があって今でも話せない。特別な事情があるので……。
 それはさておき、川越を離れて1年経った1999年12月26日。母に内緒で川越に向かった。それは、或る意味母への冒涜に近かった。此処でどういう経緯で八王子に引っ越した訳が察知出来た人は、本当に賢い。だけど、敢えて言わないで貰いたい。今でも、胃が痛む原因になるから。
 ルートは八王子の親戚に向かうルートの逆を取った。本川越から西武新宿線で東村山に行き、西武国分寺線に乗り換えて、国分寺へ。そしてJR中央線で八王子に向かった訳だが、今回はその逆だ。八王子から川越線直通の八高線で行ける事は行けるのだが、前者のルートの方が思い出深いし、短時間で到着出来るのだ。



(1999年12月26日) 故郷川越から観光都市川越へ……

 分寺で降りて、西武線の券売機で本川越迄の切符を買って、西武国分寺線のホームに立った。此処は発着駅であるのにも拘わらず、当時と同じ片側ホームだけ。何時になったら、島式両側ホームになるのだろう……。
 北風に逆らう如く、東村山迄北上した。西武国分寺沿線は、都下の田園地帯を走るので、四季の様相がクッキリ判るのが特長。今は冬真っ盛りだ。休閑中の田畑や北風に身を任せた枯れ草が、寒さを倍加させる。例え、他線と接続出来る駅(此処では、小川と東村山)に着いても、賑やかさと言うよりは本数が少ない分北風が吹き抜けて、コートの襟を余計絞めてしまう、ただ駅構内が広いだけの駅に見えてしまう。それでも、池袋や新宿に向かう電車が接続しているのだが。
 村山に着いた。この駅も愛着がある。連絡通路にある立ち食いそば屋だ。
 高校2年の冬休み、怠惰な生活を警告され、それを打破する為に勝沼を旅行した時、そこに立ち寄って、朝餉に天ぷらそばとたい焼きを頂いたのだ。久し振りに朝から動いたので、この体験は今でも新鮮だ。変化ある生活が朝からあるからだ。今回も、此処で腹拵えするとしよう。と、天ぷらそばの食券に手が届く。あれから4年経つのか……(当時から計算)。そうしみじみしながら、多目に振り掛ける七味唐辛子。
 本川越方面のホームに立った。後は本川越行きの電車に乗れば、懐かしき川越だ。しかし、このホームは余り良い思い出がない。八王子の親戚から帰る途中だ。どうしても、帰りたくなかったので、必死に駄々こねた事がある。今日はその逆だ。向かうのは川越で、帰るのは八王子だ。その代償はあの去年の11月の引っ越しだ。変に苦笑した。
 席し、車窓から景色を眺めた。所沢、狭山を経由し川越に向かうのだが、休閑中の田畑が見える、心が和む田園地帯を通る。そういえば、此処も全く変わっていないな。夏休み等の長期休日に八王子に出掛ける嬉しさと相俟って、その景色一つ一つが印象に残っている。田畑の中に立てられた看板の位置も、その合間を縫う細い道も、ポツンと佇む民家も。みんなこの景色に見送られて八王子に向かったし、別れた寂しさをこの景色で静めたのだ。八王子に行ける日を心待ちにしつつ。しかし、今日となっては、その真逆になってしまった。この景色は元川越人の私を歓迎し、八王子に発つ私を見送るのだ。
 此処で一首。
 川越の思ひ出懐かし我一人家族に内緒で思ひ出訪ねる



(1999年12月26日) 川越到着

 川越に着いた。自動改札の上には、「ようこそ 小江戸川越へ」と歓迎のプラカードが下げられている。流石、関東有数の観光都市という事はあるね。
 この駅も愛着がある駅だ。ほんの20年前は、こんな綺麗でデパートとホテルが併設されていなかったし、観光都市の玄関口という雰囲気は無かった。当時は櫛形のホームで、売店が1箇所あるだけの本当に田舎の駅だった。それが何と、商業施設と観光案内所が加わって、本川越駅は都市機能を凝縮した駅に変貌した。駅構内を見渡すと、徐々に嬉しさが込み上げてきた。川越が観光都市として認知されたからである。こんな感動は、地元住民だと、「本川越が発展した。便利になった。」と単に利便性を褒め讃え、余所から見た観光都市という魅力は全く判らないだろう。最も、よく判ってくるのは、元川越人という称号を頂いて、小江戸川越のポスターを見た時からだろう。
 て、まずは何処に寄るとするか。本川越駅で貰った観光地図を広げて思案する。
 元川越人の私の場合は、その名所の存在は知っているが、見た事や立ち寄った事が無い所が殆どで、例え立ち寄った所でも、その場所への道程が朧気で、地図無しで上手く行けるかどうか心配だ。川越時代に憶えた道や建物を隅から隅まで掘り起こして、これをパズルのように上手く繋いでいくしかない。時の鐘や蔵造りの街並みは、川越時代からその存在は知っているものの、その場所すら見当が付かない。20年近く住んでいながら、これだもの……。相当疎いな、コリャ。自然に髪を掻き毟ってしまう。
 時の鐘、蔵造りの街並み、菓子屋横丁、川越城本丸御殿、市立博物館、三芳野神社、連馨寺。徒歩圏内で行ける場所を赤ペンで記し、その道程をペン先で辿る。しかし、道程は容易い(たやすい)とはいえ、八王子人になって、初めて訪れる所が殆どなので、朧気な記憶とペンで辿った地図だけが頼りだ。川越で元川越人が道に迷ったら、普通の観光客はもとより、本当に自分だけ噴飯物なので。「何の為に、20年も川越に住んだんだ?」と自責してしまいそうだ。

 写真は1999年当時の本川越駅改札。



(1999年12月26日) 三芳野神社

 ずは、三芳野神社に向かった。本川越から東北東に位置し、近くに国道254号線が走り、市民球場がある所にある神社だ。私の記憶では、保育園時代の遠足に来たのだが、15年近くも経った今では、その真偽すら判らない。しかも、地図に頻りに覗きながら向かったので。
 芳野神社。あの有名な童謡「とうりゃんせ」のモデルとなった由緒(?)有る神社である。石段に落ち葉が溜まっていて、隣接している公園や、市民球場はひっそりとしている。それ故、近くの国道254号線から聞こえる車の走る音が、余計長閑(のどか)に聞こえる。
 私はコートの襟を少々きつく締めて、鳥居を潜って脇目も振らず参詣した。これは、『とうりゃんせ』の歌詞の意味が判っていたからの参詣である。一節に「行きはよいよい 帰りは怖い」とある。川越人時代の私には、箱根山中のように賊に襲われ易かった地帯だったのか、丹後宮津のように途中で寄り道をして、余りの楽しさに財布が空になったのかと思っていたが、八王子人になって、パンフレットを見たら、その仮説は一蹴された。
 この三芳野神社は、川越城内に鎮座していたので、参詣は幾分か容易かった(たやすかった)が、帰りはあれこれ取り調べされる事が多かったので、気が抜けなかったそうである。関所ではないが、神聖なる神社なので、何らか謀(はかりごと)の場所として使われていたのかも知れないな。罰当たりだな……。
 此処では、私の記憶が蘇る事なく、肩を落として鳥居を潜った。保育園時代の記憶は、此処三芳野神社に無かったのかな……。それは、川越時代の自分を否定する以外何も無い。

 写真は三芳野神社。



(1999年12月26日) 川越城本丸御殿


 越が城下町である事は、川越時代から知っている。確か17万石で、結構多い石高を誇っていた。しかし、明治時代になると、多くの城郭が瓦解され、この川越城も例外ではなかった。しかし、川越はその一部だけが今日遺されている。三芳野神社と程近い本丸御殿だ。
 此処で一首。
 静かなる思ひ出の街城下町漫ろ歩きを押す北風

 処は初めて入る所だな。さて、武州川越17万石の御殿だ。
 本丸御殿は、その名の通り本丸の御殿だが、此処で生活する人達もその名の通り、藩主・家老クラスの人達だ。貰ったパンフレットを見ても、思わず背筋が凍る。江戸幕府の役職で老中は当たり前、大老と大老格が1回づつ、低くても留守居役と奏者番だから、如何にも此処川越藩が重要な位置にあった事が判る。関東一円を見ても、川越藩程石高が高い藩は、他に見られないから尚更だ。今でも、埼玉県内でも(当時の)大宮、浦和に次ぐ第3の心臓として、都市を形成しているし、観光都市としても、佐原、栃木と共に小江戸を形成し、関東中にその名を轟かせているのだから。
 その身分の威厳に、吸う空気も重く感じる。その重さに拍車を掛けたのは、本川越駅で記念に買った、入場券に書かれた説明に、「三つ葉葵の御紋が入った鬼瓦が、川越藩の栄華を偲ばせてくれる。」とあったのだ。「三つ葉葵」は徳川将軍家の事に違いないが、役職でも老中職に何度も就いているとなれば、コリャ、将軍家でも一目置かれていた藩だったに違いない。そういえば、市内にある喜多院に、家光誕生の間が移築されたのも、それに違いないな。よぉし、大望を秘めている私には、もってこいの場所だ。うんと、此処の空気を吸って、その栄光にあやかろうではないか。
 廊下をゆっくり歩くだけでも、すっかり身分は藩主だ。平成時代の川越藩の藩主だ。
 −私は川越藩の藩政を担う男也。しかし、その男の住処は藩内に非ず。同じ武州とはいえ、聊か(いささか)広うて、若者が集う新宿、渋谷、池袋に非ず。お洒落な品川、代官山、横浜でも非ず。三多摩の大都会にて、正絹の産地として名高き八王子也……。
 と、私は一人で有頂天になったが、一瞬我に返ると、川越から八王子に引っ越した自分に気付き、もう私は川越人ではない事を痛感させられる。故に、徐々に川越に愛着心が芽生えて、八王子人となった今、訪れているのだ、嗚呼……。
 気に川越藩の藩主から、八王子人の一人に零落れた(おちぶれた)私は、庭園が見える縁側に腰を掛けて、惨めな思いを晴らした。飛び石に石灯籠、枯山水と極普通の庭園だが、江戸時代はもっと広くて華やかな庭園だったろう。いや、享保、寛政、天保の改革で贅沢を禁じられていたから、恐らく将軍家にも一目置かれていた川越藩でも例外では無かっただろう。しかも、庭園の向こうは学校なので、本丸としての威厳がぶち壊されているのは否めない。そんな威厳を盛り立てるべく、跡地に天守閣を建てようとしても、周りはすっかり住宅地に転化してしまったので無理があるな。最も、天守閣が現存していて、本丸御殿が戦禍で灰燼に帰し、市民の募金で再建しようと熱くなっている名古屋城とは正反対だ。

 上は川越城本丸御殿。
 下は本丸御殿の庭園。



(1999年12月26日) 菓子屋横丁(前)

 子屋横丁も、八王子人となって、初めて訪れる場所だ。
 その場所を地図で確かめると、大通りから離れている路地裏にあるので、さぞかし川越の観光スポットとしては、何とも静かな所かなと思って、足を運んでみた。歩き疲れたから、此処で漫ろ歩きしようか。
 と、呑気な事を思いつつ、地図を頼りに菓子屋横丁の出入口になっている路地に差し掛かると、幅2メートルにも満たない細い道に、駄菓子屋が軒を並べていて、人、人、人の波……。私の呑気な考えは、その波に押し出されてしまった。こんな路地裏でも、立派な観光スポットになり得るのか。何度も瞬きを繰り返して、目を凝らしてみても、人の波はやはり本物だった。近くでは地場の野菜や手作り飴を売り捌いていて、観光客は時間も気にせずに、手に取っている。
 は右側の店に入った。そこも6畳近くの店内には観光客で一杯で、グルグル回って品物を見定める訳にはいかなかった。幾ら川越出身でも、観光客に紛れてしまったら、観光客の一人に早変わりだ。仮にそうでなくとも、川越人だけ放縦な振る舞いが許される訳ではない。
 は硝子瓶に入れられている飴玉に気を取られて、一つ手に取った。透き通っている水色の飴玉だから、味はラムネかソーダだろう。こんな味の物は東京でも、山奥の雑貨屋でも売られているが、殆どが1個ずつ個別に包装されていて、こんな硝子瓶に直接入れられている飴玉は余り見ないな。しかも、エコロジーが常識となっている昨今、棄てるにも分別しなければいけないから、何とも無駄が多い品物だ。
 そんな現代の常識で、硝子瓶の飴玉を嘲笑していたが、時間が経つに連れ、その飴玉が幼少時に嗜んでいた事に気付き、思い出が蘇ってきた。そうだ、缶入りドロップだ。描かれていた彩色豊かなドロップに心を惹かれて、缶を振る毎に何色の飴が出てくるのかが楽しみだったな……。その上、ドロップが無くなれば、何時手に入るのかが判らなくて、ずっと心待ちにしていたな。硝子瓶を丁寧にくるくる回しながら、平成時代のレトロな硝子瓶の飴玉を懐かしんでいた。それに、飴玉が無くなれば、何かに使えそうな気がするな。無駄が多いようだが、使いようでは立派なエコロジーになり得るのか。徐々にその飴玉が、滅多に見られない高級品だと判った。八王子に戻っても、この手の品物には出会えないだろう……。それでは、500円もしない高級品の飴玉を買うとしよう。
 を出ても、先程の人の波は絶える事が無かった。人混みが嫌いな私は、途中で踵(きびす)を返そうかと思ったが、先程買った硝子瓶の飴玉が、逆方向に足を向けさせるのだ。何かあるだろう。もう少し、ノンビリするのだ。時折吹く北風も、そう言わんとばかりに背中を押すのだ。両脇の店も、元川越人の私を歓迎しているようにとても賑やかだ。ウーム、此処まで歓迎の意を表されたら、薄情に踵を返す訳にはいかないな。そうだよ、私は20年間此処川越に住んだのだから、色々思い出がある街だ。義理を重んじるべきだな、此処は。私はこの場に立ち止まり、菓子屋横丁で流れ行く人の波を眺めながら、故郷川越が観光都市として認知されている嬉しさを改めて噛み締めた。

 写真は菓子屋横丁の入口。



(1999年12月26日) 菓子屋横丁(中)

 る店に入った。此処も先程の店同様広くなく、所狭しに昭和時代の玩具や昭和30年代のテレビが置かれている。イチオシは、昭和のプロレス界の大スター力道山のポスターかな。近くで見たが、折り目で生じた綻びは許すとして、破れた所が殆ど無い。まさにお宝物だ。となると、テレビもブリキのプラモデルもいいお宝だ。まさに宝島ならぬ宝屋敷だ。
 歩き疲れたから、奥の休憩処で一服した。此処でラムネでも飲むか。
 敷きの部屋で、柔らかい照明が気持ちを落ち着かせる。此処で、普通の蛍光灯や水銀灯等を用いたら、日常生活に逆戻りで、観光気分はぶち壊される。考えてるね。
 此処もやはりお宝が展示されている。昭和時代に上映された映画のポスターや、市街地から南西に位置する旭町付近にあった川越競馬場のポスター(余談だが、旭町は私が住んでいた所だった)。特に川越競馬場は昭和初期に廃止されたので、現存数が少ないのだが、これも破れた所が殆ど無い。いやぁ、その保存状態に恐れ入るばかりだ。
 と、頼んだラムネが来た。すると、又私の脳裏に幼少時代の思い出が蘇ってきた。出されたラムネが、ビー玉で栓をしている瓶入りのラムネだったからだ。又、レトロに出会ったな。
 暫く、飲まずにその瓶をジッと眺めた。軽く振ると、中に落とされたビー玉がキリキリキリと軽い音を発したが、私に幼少時代の思い出が蘇ったのは、このビー玉があるからである。夏の盛りに買ってきたプラスチックの瓶のラムネ。そのラムネを飲み干すと、ビー玉が残った。私はそのビー玉がどうしても欲しかった。飲み口を外そうとしても固くて開かず、そうしたら、残りはプラスチックを切断した上で取るしかないと、鋏で胴体の細い部分を一生懸命に切断したが、途中で投げ出してしまったっけ。そして、嗜む飲み物が麦茶に変わって、そして、紅茶とルイボスティになり、ラムネを飲む機会は皆無になってしまった。
 嗚呼、思い出を思い起こしてくれて有り難う。と、感謝の気持ちで、ラムネを半分近くまで一気に呷った。入口にビー玉が引っ掛かった。舌先でビー玉を嘗め、チロチロとラムネを啜る。甘いラムネの中に、ビー玉が取れなかった苦い思い出が過ぎる。よし、このビー玉を持って帰るか。飲み干して、飲み口を力一杯捻ると、オッ、取れた。そして、滴るラムネを口で受け止めながら、ビー玉を左手に落とした。無色透明のビー玉。15年近くの年月を経て、漸く私の手に届いた。いい宝物が一つ出来たな。ただのビー玉と思う事勿れ!
 偶然見掛けた光景で一首。
 赤電話触りし子供のぎこちなさ置きし受話器の間違え可愛や

 写真はその時立ち寄った店内(現在、この店は閉店しています)。



(1999年12月26日) 菓子屋横丁(後)

 て、買い物でもするかな。すると、此処でも幼少時代の思い出が蘇ってきた。幅1メートルはあるか無いかの通路の左にはココアシガレットに、ソース煎餅。ニッキ水に笛ラムネ。一口のお菓子餅に粉ジュース。そして、ドロップにサイコロキャラメル、10円ガム。右にはスーパーボールに竹とんぼに水鉄砲、そして、パンチガム等の悪戯玩具の数々。此処も人が一杯だったが、思わぬ懐かしさに、厚顔無恥にも立ち止まってしまい、又幼少時代の思い出を過ぎらせた。
 −何の心配なしに暮らせたんだな、あの時は。保育園で、友達と楽しく遊んで勉強したっけ。普段行けない所を、散歩で歩いたのも懐かしいなぁ。その道は今でもしっかり憶えているし、何処かの小学校の校庭で、軽くお弁当を頂いた記憶も残っている。そして、一番先に迎えが来る方だから、余り放課後(?)は遊べなかったのが悔しかったな。その帰りに買い物をして、序でに菓子も買ったな。滅多に菓子は買わない家庭だったから、余計懐かしかった。眺めるだけでも、気分は踊ったし、親戚と一緒に買い物に出掛けた時に、余計多く買ったのはとても嬉しかったな。あれからもう15年近くも経ったのか……。何時の間にか、我が身は一人で家族に内緒で川越を訪れる身になってしまったのか。身分は川越人ではなく、八王子人になってしまった。此処川越は観光都市として見た以上は、此処にあるのは、私の色褪せない思い出の数々。掘れば掘る程、懐かしさに頬が綻ぶが、今現在と比較すると、我が身に苦笑し侮蔑する耐え難き屈辱! これ程の屈辱は、金輪際真っ平御免だ!
 付き纏う屈辱を首を横に強く振り、振り落とした。こんな屈辱を味わう為に、此処に来たのではないのだ。さぁ、買い物タイムだ!
 小さな籠を取って、宝の菓子を品定めした。サイコロキャラメルは、迷わず籠に入れた。何処其処のスーパーに置かれている菓子だが、此処で買うと懐かしさがおまけに付いてくる。粉ジュースも手が伸びた。一袋で120ミリリットル分しか作れないし、味云々よりも懐かしさだ。イチゴ、メロン、パイン、オレンジ、グレープ、クリームソーダ、コーラと7種2袋ずつ入れた。1袋入れただけでは物足りず、かといって1袋だけの種類があると、どうしても探したくなる。どうにも止まらない、買い物の手。これも宝屋敷の魅力だ。
 すると、一つの玩具に目が止まった。「ミサイル行軍」というゲームだった。中を見ると、「大将」、「スパイ」、「タンク」、「地雷」と、何処かで見た駒が出てきた。何処だろう。又その場で立ち止まって、幼少時代の記憶を辿った。
 ……そうだ。軍人将棋だ。伯父の家で見た記憶が浮かんできた。プレイした事は殆ど無いが、赤と黄色の将棋の駒で、「大将」、「スパイ」、「タンク」云々と書かれている、変わった将棋だと認識したな。まさか、菓子屋横丁で出会うとは。しかも、「ミサイル行軍」と名を変えているとは。その名の理由もすぐに判った。軍人将棋には無かった「ミサイル」と「(片仮名で)原爆」があったからだ。「ミサイル」はともかく、「原爆」なんて、被爆国である日本に対して失礼ではないか。まぁ、今回はルールで空中衝突があり、直接被害が及ばないとあるので、買っていくとしよう。
 りの観光客を見ても、商品を手に取る目付きは珍しさだけではない。懐かしさも備わっているのだ。昭和時代には健全だった物が、平成の世になっては、様々な経緯で淘汰された物が、此処では何でも揃っている。しかも、年齢層も中高年は疎か、若者の姿も多かった。滅多に見られない物を見る両目は、普段と違うキラキラ輝いている。此処で、もう一つの故郷が得られるのかも知れないな。つらい時は、何時でも戻っておいで……。
 菓子屋横丁はお世辞にも広いとは言えないし、華やかとは言えない。だからといって、軽くあしらってはとんでもない。そこには、平成時代に失った大事な宝物が、ビッシリ詰まっている場所だ。その宝物は各々違うが、その宝物を手に取った瞬間、自分の麗しき過去が思い出される魔法に掛かる。そして、明日に生きる糧を見付けるのだ。20代の若者でも、驚きと感動を覚えるのだから。



(1999年12月26日) 元川越人と時の鐘

 の鐘。川越のシンボルとして有名な観光スポットだ。しかも、蔵造りの街並みの一角に位置するので、観光客の足は絶える事がない。何故ならば、平成時代でもデジタル機動ながら、現役バリバリなのだから。
 の鐘。文字通り時刻を知らせる鐘楼だが、今の時代、ケイタイでも腕時計でもキチンと時刻が判るので、時代遅れの観光スポットだと、うっかり嘲笑しそうだが、観光都市として名を轟かせている川越人は、デジタルで知らせる時刻には満足しないのだ。殷々と響き渡る鐘の音が、川越の時刻を告げているのだ。そして、観光客に郷愁感をそそらせる。年配者は懐かしさに立ち止まり、若者は新しい刺激に打ち震えるのだ。この私も、その刺激に打ち震えたのだ。初めて時の鐘を直に見たのだから。20年も川越に住んでいながら、一度も訪れた事がない。
 この時の鐘は江戸時代に建てられ、城下の人々に時刻を知らせていた。明治時代になり、川越城は瓦解されたが、時の鐘は引き続き川越人に時刻を知らせ続けた。明治時代に起きた川越大火では被災してしまったが、昭和20年の川越空襲(太平洋戦争)では、戦火を逃れた。そして、高度経済成長を経、世の中はアナログからデジタルに移り変わっても、この時の鐘はしっかりと観光都市川越に時刻を知らせ続けているのだ。「ケイタイで知らせる時刻なんぞ、何処が珍しいのだ? こちとら、川越藩時代から、ずっと時刻を知らせてきたんだぞ。お前さんなんかと、年季が違うんだぞ。」と、格と器の違いを見せ付けているようだ。それは、将軍家も一目置いた城下町から、埼玉県内でも有数の商業都市に、そして、関東でも有名な観光都市に変貌した川越を見届けている揺るぎないプライドが滲み出ているようだった。
 −嗚呼、麗しき時の鐘よ。何卒お許し願いたい。某(それがし)は訳ありて、八王子人になりき。そして、今川越が関東でも名高き観光都市としてその名を馳せていると改めて知り、訪れた所存である……。
 人に知られない恥ずかしさに、思わず両目を伏せ、ゆっくり顔を上に向けた。ゆっくり目を開けると、高く聳える時の鐘が私を迎えてくれた。それは、私を元川越人と知っての事だろうか。それとも、観光で訪れた八王子人と見ての事だろうか。その答えは、私と時の鐘以外には全く察知出来ない。
 鐘楼という事あって、やはり高いなぁ。此処を訪れた以上は、是非とも鐘の音を聴きたいものだ。何時に鐘が鳴るのかな。事前に調べていれば、その時間に訪れて、鐘の音に酔いしれるのだが、フラッと訪れて偶然鐘の音を聴いた方が感動する。その感動は、何時来るの? 私は顔を上に向けたまま時の鐘に尋ねた。責めて、観光都市として川越の魅力を認識した、元川越人の願いを聞いて下さい! 私は祈るべく、ゆっくり両目を伏せた。
 しかし、私の両耳には大勢の観光客の足音と、賑やかな声が聞こえてきただけだった。私には、まだ観光都市川越の魅力を、十分に知り得ていないのか……。まだ、多くの観光客が集まり、観光都市として確立している低レベルな魅力しか知り得ていない証拠である。何せ、住人から観光客になって、まだ1年しか経っていないのだから。鐘が鳴る時間云々の容易い(たやすい)問題では無いのだ。これは、元川越人の由々しき悩みでもある。
 私は躊躇いも無く、踵(きびす)を帰路に向けた。

 写真は時の鐘。



(1999年12月26日) 連馨寺と焼き団子


 町の交差点を過ぎ、路線バスが行き交い、多くの観光客が漫ろ歩きする片側1車線の細々と道を歩くと、右手にお寺が見える。連馨寺だ。
 川越から引っ越すほんの2〜3年前から、私は市立図書館で本を借りた帰り道に、時々立ち寄った場所だからよく判る。確か、身体の痛む所を撫でると回復すると言うおびんづる様があるから、参拝客が絶えない。で、この私も……。いや、参拝していた訳ではないのだ。境内にある茶店が目当てだったのだ。此処の焼き団子が滅茶苦茶旨いのだ。
 馨寺境内に入ると、一気に観光都市の賑やかさから解放された。世間話をする年配者。無邪気に遊ぶ子供達。殆ど見掛けないノンビリとした光景と、雑踏を歩き続けた故に、物静かな場所に思わず安堵の溜息をホォ〜ッと漏らした。
 川越を離れて1年経つが、まだ営業しているのかな。と、右脇を見ると、シャッターが降りていないし、店の左で年季が入っている親爺さんが、団子を焼いていたのだ。又、懐かしさが蘇ってきた。
 中は、テーブル席と緋毛氈(ひもうせん)が敷かれている縁台と、飲み物が冷やされている冷蔵庫があるだけの簡素な造りで、手書きの品書きが鄙びた(ひなびた)雰囲気を醸し出している。寺院の境内の静かな所がよく似合う。此処は、緋毛氈の縁台に座るとしよう。滅多に見られなくなった瓶入りサイダーをチラチラ覗きながら。これもレトロの一つだ。
 焼き団子1本80円也。今回は5本注文しよう。ちゃんと緑茶1杯も添えられている。恐らく、狭山茶だろう。胴体の短い茶碗に注がれた緑茶をゆっくり啜った。歩き疲れたのかも知れない、渋味が先走った。ハァッと溜息を漏らして、出来立ての焼き団子を頬張った。歯応えのある団子と焦げた醤油の香りと苦さが、上手く調和している。日本の味だ。まさに、寺の境内の団子だ。
 此処で一首。
 一皿の団子と緑茶で一休み小江戸川越鐘が鳴るなり

 りは4本。味わって頂こう。川越人には馴染み深い焼き団子だが、八王子人には遠い記憶の焼き団子なのだから……。 

 上は蓮馨寺。
 下は境内の店の焼だんご。



(1999年12月26日) クレアモール


 路で、クレアモールに立ち寄った。クレアモールは、川越駅東口から本川越駅方面に延びていて、新旧の店が建ち並ぶ商店街で、何時も活気に溢れている。川越まつりとなると、両側に露店が隙間無く立ち並び、流れを横切るのは大変な程の賑わいを呈す。
 此処も懐かしい場所の一つだ。友達と川越まつりに出かけた時、必ず立ち寄った。夜なのに、観光客と一緒に大手を振って歩き、露店巡りを娯しんだし、くじの結果に大いに笑い、大いに悔やんだ。そして何より、母親と一緒に買い物した丸広百貨店があるからだ。それも、2ヶ月に1回行けるか行けないかだから、行ける日こそイベントだったのだ。買い物の後に、入口にあったファーストフードで土産を買って、家で思いっ切りパク付いたのが、至福の時だったな。まぁ、家が余り裕福ではなかったから、ファーストフード自体珍しかったのだ。そのお陰で、普通よりも健全な身体が出来上がったのだから、二親に感謝すべきだろう。
 日も、丸広百貨店に立ち寄った。赤紫色の大理石の玄関が厳かな雰囲気と川越の商業の心臓部に相応しい雰囲気を兼ね備えているが、幅3メートルにも満たないクレアモールの一角では、決してこの地を譲らず、10年後も20年後もこの地で商売をするプライドが見えている。クレアモールの親分的存在だ。
 れにしても、とても元気だなぁ。物心付いた時から今日に至るまで、この地にデンと控えて、川越人の買い物を賄っているのだから。しかも、今は殆ど見掛けない屋上遊園地が今でも健在だから。菓子屋横丁と並んで、懐かしさを売る場所なのだ。
 その一角に人集りがあった。何かイベントがあるのかと、その人集りの狭間を覗くと、テレビが競馬中継を報じていた。普通の競馬中継ならば、こんなに人は集まらない筈だし、わざわざテレビを出す程のレースなのか。すると、テレビで「有馬記念」の文字が出てきた。そうだ。日本競馬の暮れの大イベント有馬記念か。丁度、曜日も最後の日曜日。この日に有馬記念が開かれているのか。それで、集まっているのか。しかし、周りには馬券を持って、固唾を呑んでいる人はいなかった。どうして、有馬記念に釘付けになっている訳はよく判らないが、このレースが終わると、いよいよ年の瀬が近付いた気になるのだろう。1999年も後(今日を入れて)6日だ。
 此処で一句。
 買わずともふと立ち止まる有馬記念

 光都市川越。この町が観光都市として脚光を浴びたのは、極最近の事だ。平成の最初に、春日局をモデルにしたNHKの大河ドラマがヒットして、川越は城下町の雰囲気を残す観光地として注目されたのだ。そして市は、(宿場町であった)大宮や浦和に無い観光都市としての魅力をアピールする為、目抜き通りの電線の埋設や、時の鐘や本丸御殿等の観光スポットの整備、そして、小江戸の風情を色濃く残る城下町川越を、日本中に宣伝した。これが功を奏し、今の観光都市川越を形成しているのである。しかし、その城下町の雰囲気は、本川越駅周辺のあの細々した道に並ぶ街並みと、江戸時代から始まった川越まつりがあれば充分だろうが、それでも、満足しないのが川越人の長所である。言うなれば、現状維持を嫌うのだ。常に新しい観光スポットを発掘し、小江戸川越に融け込ませるのだ。だからといって、観光施設を新設するのではなく、ごく身近なスポットに焦点を当て、観光スポットになるか否かを判断するのだ。その審査員は、川越人ではなく、私達観光客なのだ。

 上は川越駅側のクレアモール。
 下は丸広百貨店全景。





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