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その旅人は、特急「ワイドビューしなの」を見送った後、徐にきしめんを啜り始めた。慣れた平麺が喉を通過した。名古屋を連想させる味だ。序でに揚げたてのえび天を囓り、徐につゆを啜った。鰹節が流れ込んできて、風味を倍加させた。
私はきしめんを頂くことに夢中になった。
前回は、新幹線ホームできしめんを啜った所為か、急ぎ目に啜って味すら判らぬ終いのチョンボを犯してしまったが、今回は大丈夫みたいだ。数分毎に来る新幹線に追われない分、きしめんを十分に味わえるのだ。2本目のえび天を囓り始め、つゆを啜る。
心療内科の常備薬を服用して、関西本線ホームに立った。
思わず、溜息が漏れた。その心療内科の常備薬だが、何時になったら手放せるのか。この三十路は鬱との闘いに痩身を窶したから。おまけに、心身のバランスが最近悪くなっているのが、手に取る様に判ってしまい、その窶れた身体で、仕事に臨んだ結果、呆気なく終わってしまった。今回の旅は、贅沢や道楽ではなく、心身のバランスを整え、また新しい職場に臨む気晴らしの様な旅だ。いい旅になるように神仏に祈った。
前回のリベンジとして一首。
リベンジできしめん啜る在来線時間に追われぬ心境勝る
乗る列車は快速「みえ」ではなく、単なる快速亀山行きだ。私はまた、進行方向左側の席に陣取って、デジタルカメラを動かした。
3月末に、伊勢神宮へ参詣した時の光景が映っているが、私のデジタルカメラは薄汚れた車窓越しにその光景を撮り続けていた。綺麗な車窓だったらよかったのに。
そんな嫌みを垂れながら、木曽三川を越えて桑名に入った。 |
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この快速は、途中の桑名から各駅停車になるので、快速「みえ」では速さに乗れずに逃してしまったショットを撮ることができるのだ。一番よかったのは、富田駅だ。
富田に到着すると、左側が大きく開けてきて、貨物列車が停車していることが多い。そして、ディーゼル機関車が停車している場所にはホームがあって、錆びた駅名標があって、朽ち掛けた乗り換え階段があって、鉄道ファンの一人としては見逃せない場所だ。
此処、富田は三岐鉄道が経営している貨物駅で、此処から東藤原というセメント工場と隣接している駅を往復している。1985年から旅客営業を近くにある近鉄富田に譲り、貨物駅として第二の人生を送っている。駅名標やホーム、乗り換え階段はその名残だ。確か、乗り換え階段には「ようこそ、藤原岳へ」という黄色い看板があったが、何時の間にか撤去されていた。
前回の快速「みえ」では、此処に停車しているディーゼル機関車を狙っていたが、今乗っている列車に遮られて撮れなかった。だから、此処もきしめん同様リベンジなのだ。
早速、列車から降りて、撮影開始! 発車時間は9時16分。現在、時間は9時11分。制限時間は5分だ。この5分で美味しい場所を見付けて撮影しよう。
まずは、乗り換え階段だ。幅が細くて、出入口が封鎖されている。撤去されていない所を見ると、ディーゼル機関車の運転手が使うのかな?
次はディーゼル機関車だ。序でに錆びた駅名標も入れてしまおう。駅名標を見ると、大矢知(おおやち)と出ていて、その下にはご丁寧に、「四日市市富田3丁目」と現住所が書かれてあった。駅名標の下には、大手電機メーカーのカラーテレビの広告があった。「カラーテレビ」の発音が、テレビを「液晶テレビ」と呼んでいる昨今では、何処か昔を彷彿してしまう。できれば、撤去しないで残して欲しい旅客駅時代の遺産だ。
その駅名標の近くには、貨物列車があった。見ると、東藤原駅常備の炭酸カルシウム専用のタンク車だった。これも撮っちゃうか。
一連の撮影が終わったら、奥から快速「みえ」が疾走していた。その高架の近鉄線には特急列車ビスタカーが走っていた。絵になりそうだから、一枚撮った。あのビスタカーが何処行きかは判らないが、同じ伊勢志摩方面だったら、どっち乗ってもいい。違う光景が待ち受けていて、興味が尽きないからだ。
上は富田駅に停車しているディーゼル機関車。
中は旅客駅時代を伝える駅名標と専用タンク。
下はビスタカーを上にして、富田を通過する快速「みえ」。 |
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四日市付近になると、火力発電所の煙突や電力を供給する鉄柱、工場の赤と白のツートンの煙突が目立つ。しかも、その下は田畑や住宅地というシュールな景色が続く。甚だしい差に思わず声が出ない。そして、石油を輸送するタンクや、赤紫色のコンテナに迎えられ、四日市に到着する。此処で、小学生低学年の遠足の団体と出くわした。随分懐かしい光景で、今の四十路突入寸前の年齢に苦笑するが、車内は一気に賑やかになった。
南四日市を出て、河原田へ向かう途中に席を譲った。小学生は嬉しそうに座った。まぁ、自分は幾分か若いし、此処は若者らしい行動を見せなければ、小学生に嗤われるからな(例え、四十路突入寸前でも)。だけど、立ちっぱなしは足にくるな。足の裏が痛くて、特に踵(かかと)の部分が磨り減りそうで重いのだ。気分が乗っている時は若いけど、足の痛さは歳の所為にしたくないね! 朝4時起きで、新横浜6時始発の新幹線に乗っても酔いはこないし、名古屋駅できしめんを啜る前には、横浜名物シュウマイを抓んだから。これで、「まだ若い」と言えるだろう。独り善がりみたいだけどさ。
つらい所を見せずに一首。
遠足の小学生に席譲る元若者の痩せ我慢かな
河曲(かわの)を発つと、左側には鈴鹿川が見え始める。
そして、小学生達は引率の先生に連れられて、加佐登(かさど)で降りた。それにしても、凄い賑やかな小学生達だこと。そりゃ、滅多に行けない場所に行ける嬉しさは、四十路突入寸前の私でも判るよ。それがやがて、いい思ひ出になり、十数年後に一人で訪れた時に、その思ひ出に浸って涙を流す……。
此処で或る俳句を思い出した。この光景を見る度に、つい思い出してしまう。
竹馬やいろはにほへとちりぢりに 作:久保田万太郎
大意は「竹馬で遊んだり、イロハを学んだりしていた友達が、年を経ると散り散りになってしまう。(此処からは、私の定義)そして、その時を懐かしむ大人がいる」。
時の流れは、極めて残酷だ。
その株を借りて一句詠む。
おともだち桜吹雪に逝る月日
写真は河曲から見え始める鈴鹿川。 |
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青々とした麦畑、鈴鹿川、田植えを終えた田圃、そして、紀勢本線の鉄橋を眺め、亀山に到着した。列車は奈良方面に接続しているJR西日本管轄の関西本線ホームが停車している3番線に隣接している2番線ホームに入線した。
そして、多くの乗客は歩道橋を使って、一番向こう側の4・5番線の紀勢本線ホームに向かう。ホームに残った客は、数える程。そして、今まで乗っていた列車の方向幕は、「回送」の表示を出して、信号待ちをしていた。そして、その信号が青になったら、関側にある車庫に向かって発車した。それを写真に収めた。
かつて、多くの蒸気機関車が往来し、名古屋、大阪、伊勢と方々からの客を捌いた亀山駅だが、今となっては5番線の広いホームを持て余し気味の様子である。それでも、此処はJR東海とJR西日本の管轄の境でもあるし、関側には転車台がある車庫がある重要な駅だから、一概には言えない。
今回は亀山駅周辺を歩くとするか。と、改札を抜けたら、寂れた駅前広場があり、マイクロバスみたいな小さな路線バスが、発車時刻を待っていた様だ。これも、亀山駅と同じだな。蒸気機関車が往来していた時は、此処に宿泊したり、時間待ちということで一杯引っ掛けたりしていた客もいただろうが、今は蒸気機関車の煤で汚れたのだろうか、黒ずんだ建物が似合わない明色の看板を掲げて、客を待っていた。地図を見ると、此処は亀山城がある宿場町だったそうだ。城下町と宿場町が合わさった場所だから、相当賑わった感じがあるが、今は完全に「兵どもが夢の跡」の感じだ。そんな夢の跡にある「リニア歓迎」の看板。残念ながら、このリニア計画は失敗に終わって欲しいと思う。路線の殆どが隧道で、車窓の景色は殆ど期待できないし、日本がロシアみたいな広大な領土を持っているならともかく、狭い国土をそんなに急いで移動する程、心の余裕は無いってことなの? 取り敢えず、リニア計画が見事失敗に終わり、そのしわ寄せが運賃増額に繋がらないことを切に願うだけだ。
ホームに戻ると、3番線に2両編成の加茂行きが到着していた。JR西日本の管轄だから車体は青紫色で、混雑状況も先程の列車とは比較できない程空いていた。山間部を往来する区間だから、広告も疎ら。その中でも、「忍者市」と謳っている伊賀市の広告は目を惹いた。
上は閑散としている亀山駅の駅前広場。
下はJR西日本管轄の関西本線。 |
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2両のディーゼル車は亀山を発った。此処からは滅多に行かない場所だから、少し緊張する。ホームを過ぎると、転車台があって、先程乗っていたJR東海の車両が留置されていた。一番奥にはJR西日本の車両が、清掃中なのだろうか。ドアが開いた状態で留置されていた。正確には、此処はJR西日本の亀山鉄道部の管轄で、JR東海の車両にとっては余り居心地が良くなさそうに感じる。
10時21分、亀山の隣の関に到着。東海道の関宿の最寄り駅だ。
それにしても妙だ。同じ三重県でありながら、異国に着いた雰囲気が強かった。関西本線は名古屋から続いてはいるが、駅名標が異なるだけでもこうも違うのか、JRの管轄境の所為なのか。撮った駅名標を見ると、漢字で「関」と書かれてあり、左下には平仮名で「かめやま」と書かれてあった。また、亀山駅で左下に平仮名で「せき」と書かれてあったな。何処か変だ。亀山ではJR東海の「せき」を知りたいし、関ではJR西日本の「かめやま」を知りたくなってくる。同じだと思うが、違っている。でも、管轄外ということでできないが、それだから余計知りたくなる。そこから互いの羨望が生まれてくる。しかも、同じ三重県でありながら、同じJRでありながら、管轄が変わるだけで、国境を越えた雰囲気が強い。まさに、マジックだ。
関宿は、国道1号線を横切った道に入り、道なりに歩くと到着する。地中に電線が埋設され、舗装はアスファルトではない。完全に宿場町を意識した町だ。
実は、此処を訪れたのは初めてではない。2001年11月に訪れたことがあって、亀山と関の中間地点にあるかめやま美術館を訪れた後に来た。此処に玉屋という当時の旅籠(はたご)を再現した博物館があったのを憶えている。一番、印象に残ったのは、離れにあった土蔵かな? その理由は、後で話すから、今は関宿の街並みを娯しむとするか。
上は関に到着した列車。左の駅名標の左に、「かめやま」と書かれている。
下は関宿を意識した駅舎、関駅。 |
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木造家屋が延々と続く関宿だが、時折燕が飛んでくるのが印象的だった。時期的にもそうだから、至る所で巣を作ったり、屋根に止まって一休みしたりしているのだろう。
道路の幅は2〜3メートル程で、普通の車が入ったら邪魔になりそうだが、此処から賑やかな宿場町を回想するとするか。
此処関は、(奈良寄りに)難所の加太(かぶと)が近くにあったので、多くの旅籠(はたご)が営業していたことで有名だ。此処でスタミナを付ける食事を摂ったり、難所の加太を越えて一息入れる為に、酒を啜ったりする光景が方々で見られただろう。また宿場町としてではなく、時代に闇雲に迎合しない町の息吹も見て取れる。琺瑯看板だ。肥料の名前だったり、今は現存か否かの店の看板もあったりして(書体で時代の流れが判る)、違う宿場町の娯しみ方もできる。此処で、時計をチラチラ見ることは控えて欲しい。今は、昔の殷賑を物語る宿場町の雰囲気を浸ろうではないか。
時折飛んでくる燕で一句。
旅籠から旅籠へ泊まる燕かな
そして、玉屋。此処は宿場町時代から営んでいる由緒ある旅籠で、その名声は東海道を旅する旅人の間でも、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」歌い継がれている程であった(因みにこの3軒の建物は現存している)。
さて、私は宿泊はしないが、どの程度繁盛しているか拝見しよう。「一見さん、お断り」の表記が無かったから、いいだろう。
まず玄関で目に付いたのは、何と縄。ただの縄ではなく、火縄銃に用いられる火縄だ。火縄銃を用いる各大名や各藩からのご用があったが、意外にも煙草を吸う旅人からもご用があって、結構繁盛していたのだ。しかし、明治に入り、火縄銃がお役御免となると、一気に衰退し、今は過去の遺物になっている。
その鴨居には、各地の頼母子講(たのもしこう)の看板が飾られていた。各々が金子を出し合い、旅費を工面していた頼母子講だが、こうやって宿泊する場所も決めていたのだ。先述の通り、関宿は旅籠が多く、何とか客を引き入れようとあれやこれやの作戦を立てていた。中には素通りしている旅人を強引に誘い込んだり、飯盛女郎を多く雇い入れ、夜の営みに華を添えたりしたので、頼母子講から「此処に泊まって安心ですよ」ということで、健全な旅籠に看板を掲げたのだ。やはり、江戸時代にもぼったくりの店はあったのだなぁ。
そして、中に入ると従業員達の憧れの場所、帳場が見える。残念ながら、此処には蝋人形が居座っていて、私は座れなかったが、有名な旅籠の帳場に座れるまでの苦労は計り知れないだろう。鬱で痩身を削っている私には無理だろうし、よしんばなったとしても、此処でずっと座って往来している旅人を見るのは、心理的疲労が溜まって、突然出奔してしまうだろう。そして、流れ流れの旅鴉になるだろう。
帳場の目の前には土間があって、竈や酒を入れた陶器が並んでいた。しかし、竈1基だけで賄えるのかな。有名な旅籠だよ。それを信じてふらっと宿泊する人達もいるだろうし、営業当時は相当右往左往していたのだろう。食事を待たされた旅人もいただろうし、その食事だって宿泊費込みで250〜270文もしたから(1文=50円として、250文(1朱)で12500円もした)、決して安くはなかった。それでも、旅人の胃袋を満足させようと奮闘する女中の姿が見えてきた。顔は相当汗だくで、髪の乱れを直す暇すら無かっただろう。
上は関宿の街並み。
中は旅籠玉屋に掲げられている頼母子講の看板。
下は竃と酒を入れた陶器。 |
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その土間を抜け、井戸端の向こうに例の土蔵がある。紅白の躑躅(つつじ)に出迎えを受けて。
その土蔵は、庭を隔てたかなり離れた場所にあるから、何かしらの情事に使われたのかと勘繰ってしまいそうだ。しかも、明治時代でも営業していたと聞いたから、もしかしたら、主人がお気に入りの女中や愛人と此処で逢い引きをしたりしたのかも。こういう流れは、金田一耕助シリーズや明智小五郎シリーズにも出てきそうだな。私なりに挙げてみると、
「此処での情事で妊った子が、不良と手を組んで、恨みを抱いていた正妻家族を一人残らず殺害し、この大店を乗っ取った。しかし……。」
「此処で逢い引きした女中が気に入り、許嫁(いいなずけ)を袖にして結婚した時点が、この事件の根っこだった」云々……。そう考えた人は、私以外にもいるかも知れないな、コリャ。縁があったら、此処でそのシリーズのロケに使って欲しいな。「逢い引きの場所」として。
武士達が泊まった掛け軸が掛けられている離れを撮影した後、2階へ上がった。
此処が普通の旅人の賑わいが見て取れる。
まずは、寝床。粗末な煎餅布団が敷かれていた。その隣には蚤除けの方法が展示されていて、薬草を枕元に置いたり、磨り潰した薬草を衣服に付けたり、中には煎じた薬草の湯を身体に掛けたりして色々な方法があった。
その向こうには、食事の席があった。1階の土間で必死になって作った料理が、急な階段を上って、此処に運ばれたのだ。徳利もあったから、そんなことを気にせずに料理に舌鼓を打ち、難所の加太(かぶと)を交えた喜怒哀楽の旅人の光景が目に浮かぶ。
そんな賑やかな旅籠を連想して一首。
容赦なき関所越えればお娯しみ夜まで続く旅籠の賑わい
上は金田一耕助シリーズや明智小五郎シリーズに出てきそうな土蔵。
中は2階の寝床。
下は食事風景。 |
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時間を見たら、いい時間だ。関駅に戻ろう。
関駅に戻ったら、次の列車まで7分。
そうだ。確か、亀山との中間地点にかめやま美術館があった気がしたけど、此処の案内には出ていなかったな。漏れているのかな。と、駅の隣にあった簡易食堂を兼ねている待合室で訪ねた。
「あの、此処から亀山寄りに、かめやま美術館がありましたよね。」
すると、衝撃的な事実が判明した。
「あぁ、かめやま美術館は閉館しましたよ。」
かめやま美術館は閉館してしまったのだ。しかも、その跡地にホテルが建てられたということだ。思い出した。此処を通った時、新しいホテルが見えた気がするが、真逆あれがそうだったのか?!
そんなことより、私はかめやま美術館で見た富永一朗氏の作品が気になった。「女忍譜(にょにんふ)」というタイトルで、女忍者が活躍している絵が一杯あった。タイトル名も絵を見れば、「成程!」と思わせてくれるものばかりで、本当に面白かった。しかも、幼少時から彼の名を知っているので、余計嬉しかったのを憶えているが、かめやま美術館の閉館の知らせは、余計嬉しかった分、余計落胆した。
しかし、そこに一条の光明が走った。
「でも、富永先生の作品は、此処の道の駅で展示していますよ。」「富永先生」とは間違いなく富永一朗氏のことだ。よかった。その光明に触れ、気が和らいだ。道の駅で展示しているのか。しかし、時計を見たら3分前。美術品を鑑賞するには、全く無意味な時間だ。再会はまたの機会に持ち越しになった。
ホームに出た。2001年11月の旅では、此処で黄昏(たそがれ)を迎えた。今の待合室で旅行記を綴っていたが、5時で閉館時間を迎えたので、吹き曝しのホームで綴っていたのを憶えている。あれから17年。周囲は何ら変わっていないな。
伊賀上野方面のホームに渡る跨線橋で、入線してくる2両編成の加茂行きを撮って、ダッシュで列車へ駆け込んだ。
写真は関に停車する加茂行きの列車。 |
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これから富永一朗氏の作品「女忍譜」のモチーフになった伊賀上野に向かう訳だが、清冽な川を横断したり、落石防止のシェルターを潜ったりして、関到着まで全く無かった光景を撮って、加太(かぶと)に停車した。
駅舎は関と違って簡素で、白系の塗装で統一されている。この列車はいよいよ難所の加太越えをするのだが、亀山駅同様、蒸気機関車時代には、先述の加太越えをする蒸気機関車を撮ろうと、多くの鉄道ファンが訪れた栄光がある。ホームの壁には、その栄光が飾られている。その難所にある隧道や鉄橋、更には2006年まで使用していた中在家(なかざいけ)信号所の説明がある。面白味があるが、僅かの停車時間でジックリ見る訳にはいかず、興味のある中在家信号所の説明を撮って、事を終えた。
その中在家信号所を撮ろうと、私は2両目の最後尾に陣取って、機会を窺った。その途中に見栄えの良さそうな川を通過して、悔しい思いをしたが、信号所を撮る為に、次回の機会に回した。さて、何時になるのやら……。
すると、左側に錆びたレールが現れた。此処で勘が働いた。
此処だ。中在家信号所は。
シャッターを押していくと、2箇所ポイントがあり、左側に細長いホームが現れた。運転手の為のホームだ。此処でポイントを切り替えて、行き止まりのレールに列車を入線させ、通過する列車の待ち合わせをするというシステム。これも、蒸気機関車時代の名残がある。この辺は勾配が急だった為、高度を稼ぐ為に造られたのだ。蒸気機関車時代は高度を稼ぐ為に、ディーゼル列車時代は列車同士の待ち合わせに、そして、2006年に役目を終えている。しかし、何らかの方法で再利用することを考えて欲しい。例えば、あの細長いホームに列車を停車させて、ホームに乗客を降ろして撮影会を催したり、信号の位置を直して、スイッチバックの再現ツアーを催したりして色々ある筈だ。民営化されたから、そんなこと位簡単だろう!
中在家信号所を撮り終えた私は、席に戻った。開放感に包まれた状態で車窓を眺めた。途中、湖かと見紛う程の川に出会って、シャッターを切った。
柘植(つげ)は三重県内で初めて造られた駅として有名で、此処からJR草津線が発着しているが、乗降客は数える程で、3番線まである広いホームは亀山駅同様ガラガラ。しかし、此処はかつての特急や急行停車駅だったので(2006年3月まで運転していた急行「かすが」の停車駅でもあった)、これも亀山駅同様の栄光があった。
此処に何と忍者がいて、伊賀上野への道を教えていたのには苦笑した。しかも、柱には手裏剣が刺さっていて(よく見なければ気付かない)、此処柘植が伊賀地方であることを証している。
先述の通り、此処柘植はJR草津線の発着駅だが、運良くその電車が停車していた。運転士に発車時間を確認して、ダッシュで跨線橋を渡って、草津線ホームへ滑り込んだ。それを写真に収めると、またダッシュで跨線橋を渡って、関西本線ホームへ滑り込んだ。いやぁ、四十路間近だというのに、いざとなったら若者顔負けの運動神経を発揮するからな。自分でも驚くよ。まだまだ若い証拠だな、コリャ。
上は細長いホームがある中在家信号所。
下は手裏剣が刺さっている柘植駅ホーム。 |
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11時59分、伊賀上野到着。伊賀地方では大きな駅だから、ホームは長いし、駅も広い。ただ、駅前には活気が無い。市の中心は此処から伊賀鉄道で行く上野市駅だ。その上野市行きは26分なので、暫く彷徨く(うろつく)とするか。
まずは駅舎。瓦葺きで一般の大きな一軒家でも通じそうだ。
伊賀鉄道が停車する1番線は行き止まりになっていて、改札も駅もJRの共同使用。この駅で上野市行きの切符を買ったが、此処関西も駅番号が振られていた。因みに、此処伊賀上野には振られていなかった。ただ、アルファベットの振り方は、JR東日本とちょっと違う。JR東日本は山手線は「Y」だから「JY」と記するが、JR東海や西日本は、利用頻度が高い順なのか、会社の規定なのか判らないが、東海道本線が「A」になっている。どっちがいいかは、どっちもどっちという所だな。
ホームも長く、かつて関西本線全線通しての特急・急行が停車していた名残だ。柘植駅で取り上げられた急行「かすが」の停車駅でもあった。そして、持て余し気味のホームを利用して、植え込みがされていて、丁度、鮮やかな桃色と薄い桃色の躑躅(つつじ)が咲いていた。
さて、伊賀鉄道でも乗るか。すると、意外なことに感心した。運賃表示器はデジタルだが、忍者は世界的人気を誇っている証を見付けた。行き先表示が日本語・英語・中国語・ハングルの4カ国語になっていた。しかし、どうやって此処へ来るのかな。名古屋と奈良から鈍行で伊賀上野に来て、この列車に乗ることは余り考えられないし、この伊賀鉄道の終着地伊賀神戸(いがかんべ)へ特急で来て、乗り換えで上野市へ行くことは十分考えられるな。
伊賀鉄道に乗ること10分足らずで、この列車の終点上野市に到着。右側には伊賀神戸に向かう列車が待機していて、駅舎へは構内踏切を渡る。
駅舎を出ると、大きなロータリーがあって、忍者と俳句の里を訪れる観光客を待っていた。向こう側にはコミュニティホールを兼ねたバス発着所があった。昔はあの場所には、草臥れた(くたびれた)ショッピングセンターがあって、寂れた地方都市を象徴していたが、高さもまあまあで、上野市駅への道標にもなっている。駅の左脇には、瓜の漬け物の養肝漬のサンプルを置いていたが、何時の間にか撤去され、埃を被っていたウィンドーがあったが、それも無くなっていた。全体的に、ジメジメした雰囲気だったが、今となってはスッキリとしている。
そのスッキリとした駅前にもう一つ、スッキリする物があった。
松本零士氏の代表作『銀河鉄道999』で有名な鉄郎とメーテルのブロンズ像だ。何故、此処伊賀上野に氏の代表作のキャラクターの像があるのか。初めて来た人は首を傾げるが、私は何度か来ているので、その理由は読めた。
伊賀鉄道に描かれている忍者のデザインが、氏の作品なのである。今回はその列車に会えなかったが、もし、伊賀上野か伊賀神戸で伊賀鉄道に乗る時、その忍者が描かれている列車に会えるかも知れないから、来た時のお娯しみに取っておき給え。
上はさして変わりは無いJR伊賀上野駅駅舎。
中は持て余しているホームに植えられている躑躅。
下は上野市駅間近にある『銀河鉄道999』のブロンズ像。 |
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時間を見ると、いい昼餉時だから、散歩がてら歩くとするか。
上野市駅周辺は往来がある道路に、瓦葺き屋根の銀行や本屋が建ち並んでいて、風情の中に都会のシステムが組み込まれているが、昭和中期に建てられた建物が現役で活躍している場所もある。景観をぶち毀しそうな目立った高い建物や近未来的な建物は1箇所も無い。そういえば、小江戸川越もそうだったな。こういう街並みを形成できるのは、市民の意識が高い証拠だ。東京みたいな街を造れば、逆にみっともなくなるし、東京みたいな煩雑でせせこましい街は、東京だけで十分だ。何故、若者は東京に憧れているのか。しかも、23区に集中している、その狭い認識を疑う。何? 随分きつい意見だと?! 当たり前じゃないか。都下ながら、東京に住んでいるから言えるんだよ。23区だけが東京じゃない。立川だって、八王子だって、町田だって、青梅だって、奥多摩だって、そして、あの伊豆諸島だって(それ以外にもあるけど、紙面が足りないから、これで勘弁して!)。
きつい意見は、此処までにして。
そして、その脇道に入ると、風情が一気に倍加する。軒の低い木造家屋で営んでいる鄙びた和菓子屋、漆喰が剥がれ掛かっている土塀、張り巡らされた電線、今は無きブランドマークを付けたアイスを入れる冷凍庫、色々昭和の断片が揃っている。(場所は特定できなかったが)昭和時代に売られたジュースが置かれている店や、今も現役で稼働している昭和中期の家電を展示している店もあるそうだ。それらを上手く合わせると、此処は昭和時代にタイムスリップしたかの如く、ノンビリ歩くことができる。いちいち時計を見る愚行は避けよう。
実は此処に、2〜3回通った洋食屋があって、時間帯昼餉は此処にしようと決めておいたのだ。名物はタンシチューで、伊賀牛を使ったステーキやサンドイッチもあり、わざわざこれを目当てに名古屋、大阪から来る観光客もいる程。伊賀牛を使ったサンドイッチか。ホームページで拝見したら、程良く揚げた伊賀牛だけが挟んであるという上品な一品。4000円もするけど、頂く価値はありそうだ。
所が、店の前に立ったら、休業日と出ていた。しかも、振替休業日だってさ(この店は8が付く日が休みで、翌28日が土曜日なので、その日は営業するらしい)。伊賀流忍者に一杯食わされた。
さて、どうしよう。昔ながらの街並みで大いに迷った。しかも、市街地の地図を貰っていないので、何処で昼餉を摂ろうか迷った。
すると、一つ候補が挙がった。私の踵は躊躇い(ためらい)なくその方向に進んだ。
写真は、伊賀上野の街並み。 |
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(2018年4月27日) 18年振りの伊賀牛のすき焼き |
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大通りを抜けてまた脇道に入った。昭和の薫りが漂う道を歩きながら、私はその場所への地図を脳裏で広げた。確か、神社があって、目的の店は神社の向こう側にある筈だ。
そして、神社に出た。上野天満宮という。素通りしようかと思ったら、また伊賀流忍者に足を寄せられた。此処でお神籖を引いた。何と、英語、中国語(簡体と繁体)、ハングル(チラッと見たので断言できない)の4カ国語のお神籖。忍者の魅力はこういうお神籖にも通じているのだな。結果は吉で、「旅行はよし」だった。
また、木造家屋がチラチラ目に付く昭和の町を歩いた。目的の店はこの辺だった。
見付けた。伊賀牛の店だ。2000年8月に初めて伊賀上野に来た時に立ち寄った伊賀牛の店だった。此処で、豪快にすき焼きを頂いた記憶がある。しかも、女中が付きっきりで肉や野菜を丁度いい具合に焼いてくれるので、美味しい所を存分に味わえるのだ。
1階は伊賀牛を売る売店で、2階が食事処になっている。でも、今回は余り予算が付かないので、幾らするかが不安だ。そこで恐る恐る訊いてみたら、10000円札でお釣りが来る値段なので、一発で決めた。此処にしよう!
2階は細長い廊下が続いていて、その上、木造旅館の味わいがあって、個室と大広間に分かれている。案内されたのは6畳程の和室で、床の間には「獅子吼」の草書と伊賀焼の壺があった。しかも、畳は青く、これだけで高級感がある。一人客なのに、いきなりVIP待遇を受けたみたいで、気分は高揚した。一気に私は旅人から粋人になった。思わず、扇子を取り出して徐に扇ぎ始めた。
品書きを開き、2000年8月に頂いたすき焼きとノンアルコールビールを注文した。いやぁ、18年振りだよ。伊賀牛のすき焼きなんて。思わぬ再会に、気分が躍った。
その再会を祝して一首。
図らずも旨い伊賀肉再会すすき焼きの湯気に涙溢れる
まずは、ノンアルコールビールで、渇いた喉を潤した。本当はコップで一気飲みしたいけど、出される量が少ないから、どうしても半分になってしまう。しかも、ノンアルコールビールは、店によって値段が区々というのも難だ。前回の松阪では値段が書いていなかったので幾らするかは不安だったが、此処ではキチンと書かれている。400円程だった。
そして、すき焼きの準備が始まった。割烹着を纏った女中が鍋を熱し、頃合いを見計らって、牛脂を塗り込ませた。
その間に、出された伊賀牛と野菜を見て、声を失った。
伊賀牛はB6位の大きさが3枚。野菜は玉葱、春菊、白菜、椎茸、青葱とてんこ盛り。そして、豆腐にしらたきがあった。妙なアンバランスだ。こんなに野菜がてんこ盛りなら、伊賀牛をもう少し増やしてもいいと思うけど……。だけど、此処はかの松阪牛や近江牛よりも上品な味わいが魅力の伊賀牛が、こんなに頂ける優越感に浸ろうではないか。
まず、女中は伊賀牛1枚を焼き始めた。砂糖をまぶして、割り下を垂らす関西風の味付け。そして、女中は程良く焼いた所で、私に伊賀牛を差し出した。まずは、伊賀牛1枚を平らげるのだ。いきなり贅沢だよ。よく「すき焼きは具材を煮込んでから、肉を入れる。そして、焼くようにして煮て頂く」と言われるが、此処ではいきなり肉を焼くことから始まるのだ。その伊賀牛を口に放り込むと、柔らかく牛脂の甘さがよく判る一品だ。これは、旨いわ! 江戸の「粋」とは全く違う「粋」がある。粋人に成り掛けた私は、ノンアルコールビールを徐に啜った。18年前はただただすき焼きが頂けるだけで嬉しかったが、今となってはいきなり伊賀牛を頂くという贅沢に「粋」を感じ、旅人から粋人になれるのだ。
女中は野菜を焼きながら、また砂糖と割り下を振り掛けた。そして、程良く焼けた所で、2枚目の伊賀牛を鍋に敷いた。その合間に野菜を抓んだ。葱は火を通すと甘くなるから暫く置いておいて、ひたひたになった青葱から抓んだ。続いて白菜の葉の部分を抓んだ。伊賀牛が煮えてくるのが待ち遠しい。まだ熱さが残っている豆腐を、口中で踊らせながら。
そして、2枚目が焼けて、私に差し出した。肉を抓むと、良い具合にばらけてきた。いいぞ。これで、野菜と一緒に頂けば、食品ロスは無くなる。頭使おうよ、食事位は。此処でしらたきを抓んだら、細長すぎるの何のって。何とか女中の手助けで抓んだけれど、卵と絡めて啜った時はそばのようだった。
柔らかく程良い甘さの伊賀牛に陶酔しながら、3月末の旅を思い出した。あの時は、新しい職場に臨む景気付けに伊勢を旅したが、昼餉に伊勢牛の牛鍋を頂き、夕餉は松阪牛の牛鍋を頂いたな。これだけでも贅沢だが、その1箇月後に松阪牛や近江牛を越える味わいの伊賀牛のすき焼きを頂くとは。贅沢の上に贅沢を重ねた様で、怖くなってきた。今、野菜を抓んでいるが、意図的に野菜を抓むことを優先し、肝心の伊賀牛は思い出した如く抓んでいた。苦手な白菜と玉葱を伊賀牛と一緒に抓んでいるが、完全に伊賀牛が勝っていて、また怖くなってきた。気を逸らす為に、ノンアルコールビールを啜った。肉の枚数は3枚と割高感があるが、B6位の大きさで十分だ。これ以上枚数が多くなったら、羽目を外しそうになりそうで怖い! こんな贅沢が、10000円札でお釣りが来るなんて。東京で頂いたら、10000円取ってもいいだろう……。注いで貰った緑茶を徐に啜りながら、注文したすき焼きの恐ろしさを感じ取った。気晴らしにこんな物が頂けるとは……。
陶酔で気が緩む前に一首。
伊勢牛と松阪牛と伊賀牛と食べ較べする贅を超す贅
食後に心療内科の常備薬を服用したら、溜息が漏れた。鬱で痩身を削られているだけではなく、心身のバランスが崩れ掛けている今日。それを思い出した。一気に、粋人から痩身の旅人へ戻った瞬間だ。
溜息交じりに一首。
その贅は心療内科の常備薬取り出す時こそ夢が醒めども
上は伊賀牛のすき焼き(イメージ)。まずは、伊賀牛を1枚焼き、割り下を掛ける関西風。
下はサシが入っていて美味しそうな伊賀牛。 |
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贅を凝らした昼餉を摂った後、時代に闇雲に迎合していない伊賀上野の街を散策した。至る所に古い建物があり、木造家屋が軒を連ねたり、更には時期ということで鯉幟を軒先で広げている所を見付けたりして、いい伊賀上野を見付けた。しかし、中には伊賀地方の経済の衰退の爪痕を残している所もあった。昔は大手スーパーが入っていたのだろう、3〜4階建ての白い建物があった。しかし、スーパーとして機能しているのは1階だけで、他の階は市役所の分署やNPO法人の事務所になっていた。客の出入りはあったが、スーパーは1階だけというのがちょっと寂しい。
そう歩いて行く内に、伊賀上野城に着いた。この城に入るのは2013年4月以来だな。あの時は小雨が降っていて、天守閣から霧に包まれたの城下を眺めた記憶がある。
そんな記憶を辿りながら向かったのは、高さが日本一といわれる石垣だ。注意書きを横目にその石垣の限界まで進んだが、高いこと高いこと! 特に、私のような高所恐怖症には心臓に悪く、足が竦みそうになったが、何とか堪えた。写真では、高さは判り難いが、実際に行ってみることだ。本当に高いから。
さて、5年振りに入城するか。
伊賀上野城。「戦国一の世渡り上手」として有名な藤堂高虎が築城したと有名だが、それ以前に城はあったのだ。戦国時代、筒井順慶の養子であった筒井定次が、この地を安堵され、築城したのが始まりである。しかし、関ヶ原後は失政を理由に改易され、そこに藤堂高虎が入り、定次の城を改修した。所が、完成間近に暴風雨に遭い、呆気なく倒壊。再建されぬまま、太平の世を迎えた。そして、時は流れて昭和10年、地元の有力者川崎克(かわさきかつ)氏が私財を擲って(なげうって)、漸く天守閣が出来たのだ(因みに近くにある俳聖殿も彼の私財で建築されている)。「攻防作戦の城は亡ぶる時あるも、産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」と根本として、「伊賀文化産業城」と命名したのである。そして、その天守閣は1985年3月に、伊賀市の有名文化財に指定されたのである。
上は日本一高い石垣。写真では判り難いので、実際行ってみること。
下は伊賀上野城。 |
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(2018年4月27日) 晴れ渡る伊賀上野を眺めて |
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天守閣独特の急な階段を登って、天守閣の最上階へ向かった。此処からの眺望がいいのだ。前回来た時は霧に包まれて、余りよく見えなかったが、今はいい具合の晴天だ。どんな眺望が待っているのだろうか。
最上階は誰もなく、静かな空間に飲み込まれた私は口を閉ざしたまま、天守閣からの眺望を娯しみ始めた。
北側は伊賀盆地の端がよく判り、そこに多くの商業地や工場、民家が密集している。案内に因ると、JR伊賀上野駅があるそうなのだが、全然判らない。前回は霧に包まれて判らなかったが、今回も判らなかった。駅周辺の建物は確認できたが、駅舎までは判らなかった。
今度は南側を見る。降りた上野市駅は確認できた。北側より栄えていて、多くの建物外が盆地の端を隠していた。遠くには山地が聳えていて、此処伊賀上野が貴重な都市の役割を果たしている(その他にも名張がある)。軒が低い昭和の薫りを残す木造家屋もよく見える。よく見てみると、大型ショッピングセンターがあるが、距離を保っているので、風情がぶち毀れる心配は無い。各々の伊賀上野を形成しているのだ。しかし、都会を過意識する余り、下手な区画整理を実施し、そこに近代的な街並みを造る地方都市もある。都会のシステムをそのまま切り取って貼り付けたような継ぎ接ぎみたいに感じられ、極めてみっともない。下手すると、無味乾燥な都市になり、益々人が流出する一因になるので、注意が必要だ。
西側は県立上野高校のグランドが真下に見え、それを取り囲むかの如く民家が広がっていた。そして、その向こうには田植えをする前の田圃が広がっていた。何だか、サークル状に高校を取り囲んでいる光景は面白い。しかし、私のような田舎育ちにとっては、気が安らぐ場所だ。川越在住時は、近くに小さな田圃があって、田植え、青く生長する稲、蛙の大合唱、稲刈り等、色々な季節の移ろいを目の当たりにしてきた。いいなぁ、こうやって季節の移ろいを目の当たりにできるなんて。将来はこういう所に住みたいなぁ。
東側は家老や家臣の詰所があった場所で、石垣だけが残されていた。周辺には若葉が萌え始めた木々があって、大きなサルノコシカケが生えている木もあった。
また壁には、使用済切手を用いて造られた伊賀上野城と俳聖殿の絵が展示されていた。切手にも造詣がある私はどの切手を用いられたのか、早速、絵に近づいて調査。全体的に見ると、高い使用済切手は見当たらないし、消印も丸い消印や縦に細長いローラー印、そして、料金別納郵便の代金として消費された波消しもあった。メインは普通切手だが、記念切手も多少使われている。その中で大量に使われているのは青色の菊15円だ。察するに、封書15円時代(1966〜1972)に作られたのではないだろうか。その他の切手を見ても、この時代以前の切手が使われていて、以降の切手は1枚も見当たらないから、間違いないな。旅人は此処で探偵になった。
更に、天井にはこの伊賀上野城を再建した川崎克氏と交流のあった著名人から贈られた絵画や書が展示されている。日本画の重鎮横山大観の月の絵や、公爵首相と名高い近衛文麿の「名積重新」、第16代徳川家当主徳川家達(いえさと)の「景星曜天」等、男女問わずある。
眺望だけではなく、こういう娯しみ方もあるのだ。前回来た時は、霧に包まれた眺望に気を取られていたけど、今回はよく見えたので、その他の展示物を見る余裕ができた。
上はJR伊賀上野駅方面。駅舎が全く見えない。
中は天守閣から見えた上野市駅。
下は西側に広がる田園地帯。 |
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名古屋で宿泊した私は、今日28日を娯しみにしていた。
よく行く大須観音で縁日が開催されているだけではなく、周辺の通りでも露店やコスプレパレードが開催されているのだ。此処大須で、世界コスプレサミットが開催されていることはつとに有名だが、実際この目でどんなものかを確かめてみたい。
でも、時刻は10時。まだ、縁日を開くには早い時間だ。何処かで時間を潰すか。と、飛び乗ったのは快速亀山行き。再び、亀山を越えて伊賀上野に行く訳ではない。
目的地は桑名。此処に、10年以上通っている朝市や、和洋折衷の豪邸がある。
その朝市だが、桑名駅から歩いて7〜8分程にある寺町通り商店街という所で開催されている「三八の市」である。一の位に「3」と「8」が付く日に開催される朝市のことで、商店街にある店だけではなく、近隣の店も露店を出している賑やかな朝市だ。
その朝市は、賑やかな声で客を呼ぶ青果店から始まったが、しかし、時間帯が遅かったのか、品揃えが何処か少なかった。朝市だからね。今、何時だ。時計を見たら10時40分。朝市にしては結構遅い方だ。(2014年9月)前回来た時は、9時頃だったな。失敗したなぁ。
でも、客の入りはまあいい方だ。削り節や手作りキムチ・漬け物を店を通り過ぎると、この時期には珍しい石焼き芋の店があった。その下にはあられや林檎が売られていた。この時期に林檎なんて採れるのか。しかも、この暖かい日なのに、石焼き芋なんて売れるのか。首を傾げざるを得ない。
この商店街には色々な店があって、売り方も様々だ。道路に直接ザルを置いて近隣で採れた野菜を売る店や、この朝市限定の品を売る店、しかも、仏壇店も朝市限定で1割引セールを行っていたのには苦笑した。30〜40万円する高級仏壇が1割引で買えるなんて、どうなんだろうね。
商店街の端まで歩いたが、財布が動かなかった。やはり、来るのが遅かったのだ。1時間早く来ていれば、さっきの青果店でいい果物を見定めて、自宅へ送ることができたのに。
もう一度、商店街に入って、何か無いか捜し始めた。
すると、左側に佃煮屋があって、焼き蛤を売っていた。そうだ。桑名と言えば、焼き蛤だな。抓んでいくか。丁度、野点に薄い桃色の躑躅(つつじ)が咲いていて、風情があるし。
その焼き蛤が汁に浸されていて、その汁を飲むと濃厚な蛤の風味が広がる。そして、焼き蛤を抓むと柔らかく、身からまた濃厚な汁が出てくる。ダブルパンチだな、コリャ。
焼き蛤で一首。
蛤を食わずに通れぬ桑名宿抓む野点に躑躅咲きたり
序でに近くにあった餅屋で売られている焼き団子1本を頬張った。団子5個付いて97円也。桑名価格だ。しかも、この店は度々マスコミにも採用されているから、焼き団子を焼く手が止まらないし、大口注文していく人もいるから、朝市が終わりに近づいたとはいえ大忙しだ。味の方はモッチリとして柔らかい。何時も、川越の蓮馨寺で頂く焼き団子の方が歯応えがあっていいのだが……。
朝市を発つ一首。
買う物も無くて漫ろで素通りすその脚止める焼き団子かな
写真は桑名名物蛤と、咲いている躑躅。 |
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次に向かったのは六華苑という、地元の発展に貢献した諸戸清六(もろとせいろく)氏の邸宅だ。近くには大河揖斐川が流れていて、長良川には河口堰がよく見える。此処まで来れば、ナガシマスパーランドはもう目の前だが、デジタルカメラでズームを伸ばしたが、名物の木製ジェットコースターが見えなかった。その代わり、辺にある住吉神社で我慢して頂戴(そういえば、揖斐川を遡上すれば、大垣に向かって、そこに『住吉の渡し』という船着き場があったな)。
六華苑。地元桑名の発展に貢献した諸戸清六氏の邸宅で、大正2年に造成された。若葉萌える並木道を歩くと、淡い水色のパステルカラーに彩られた建物が見えるが、それである。空は雲一つ無い青空なので、淡い水色の建物が吸い込まれていきそうだ。特徴は右側にある塔屋と、瓦葺き屋根の木造家屋。洋館なのに、何故和式の建物がある? そのアンバランスに今でも苦笑するが、実はこの和式の建物は使用人が出入りする場所で、諸戸清六一家は、先程の洋館の車寄せから入ったのだ。身分をハッキリさせていたのだ。今問題になっている正規雇用と非正規雇用と言えば、極論ではない筈だ。
では、その使用人専用の出入口から、中に入った。左側に向かうと、面白いものを見付けた。
2つの廊下があるが、一つは板張りの廊下、もう一つは畳張りの廊下。しかも、2つの廊下は障子で仕切られていて、畳張りの所にはご丁寧に行灯が置かれている。さて、どのような廊下だろうか。近くでモデル撮影している光景を横目にして。
実はこの2つの廊下は、使う人がクッキリと分けられていたのだ。板張りの廊下は使用人の廊下。畳張りの廊下は主人の廊下だったのだ。道理で、畳張りの廊下に行灯が置かれている訳だよ。此処でも、身分をハッキリさせていたのだ。
でも、板張りの廊下から見える庭園もなかなかのものだよ。青い紅葉が陽に当たって、淡い緑色になって、生長の春を窺わせるし、現にモデル撮影は、使用人が使っていた板張りの廊下で撮影していたし、畳張りの廊下じゃ、狭い和室と勘違いされるのかな? そんなことを勘繰りながら、横目でモデル撮影を見ていた。
畳張りの廊下を跨いで、座敷に入った。二の間だけで12畳半あった。それが(襖を隔てて)2部屋あったから、広さは相当なものだし、キチンと床の間もあった。
実はこの二の間がメインで、此処に客人招き入れたり、家族の憩いの場として使われたそうである。また、2代目清六氏の妻はここにベッドを置いて、療養生活を送っていた逸話もある。畳の部屋にベッドなんて、随分アンバランスな配置だな。絨毯でも敷いていたのかな?
どんなものかと、私は二の間に寝転んで、雰囲気を確かめた。チラッと庭園を眺めた。丁度、障子や連子窓が開いているから、存分に眺められる。丁度春の盛りだから、植木の緑の若葉が眩しいな。丁度、池もあるから鯉でも泳がせていたのかな。時折、ポチャンと飛び跳ねる鯉を期待しながら。療養生活はこのような庭園を見ながら、快復を待っていたのかな?
そして、客人を招き入れた時は、庭園を見ながら、珍しい山海の酒肴(しゅこう)に舌鼓を打っていたのだろう。松阪と鳥羽が近いから、松阪牛やあわび等を出されていたのかも。プライベートでは、庭園側の廊下に胡座を掻いて、酒肴に舌鼓を打ち、微酔い気分になっていたのだろう。激務の中のほんの少しの贅沢だ。
今度は、庭園側の廊下から、座敷を巡るとしようか。少し歩くと、曲がり角があり、その一角に風呂とお手洗いがあった。何でも、来客用だとか。来客の為の風呂とお手洗いがこさえてあるなんて、懐の豊かさを証してくれる。
上は六華苑。
中は板張りと畳張りの廊下。
下はメインだった二の間。 |
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いよいよ、例の洋館に入る。
臙脂(えんじ)色の絨毯が敷かれた玄関ホールがあった。此処からお手洗いに応接間、食堂、当時としては大変珍しい電話が設置されている電話室に繋がっている。そして、広い玄関が真正面に控えている。此処が諸戸清六一家の出入口だ。恐らく、このドアを開ければ、当時貴重な観音開きの国産車がお出迎えしていたのだろう。何とも、レトロ感溢れる光景で、大須の行き付けのメイドカフェのメイドが、此処で働いても違和感は無いが、肝心の洋館の出入口は鍵が掛かっていて、一気に雰囲気を崩してしまう。ロープを跨って、玄関に立っても、ドアは現代人の私を無視して、開いてもくれない。開いてくれれば、いい絵になりそうだが……。開き過ぎると、埃が入ってしまって、掃除が大変なのだろう。
それでも、この玄関ホールには、いい見所が隠されている。パンフレットには出ていないので、実際に訪れて探してみ給え。その中で印象に残った所を2つ紹介しよう。
まずは、玄関脇のサンルーム。四角と丸が合体した部屋で、外観の塔屋になっていた部分だ。下手に四角形の家具を置くと、邪魔になりそうだ。実際に置かれている物は、丸いテーブルと椅子のみ。これで充分だ。此処はプライベートルームで、軽くお茶を啜ったり、茶菓子を抓んでいたりしていたのだろう。窓は、円い箇所に設置されていて、曲げられた硝子が設置されている。この硝子は、六華苑建設時の日本には硝子を曲げる技術が無く、アメリカから輸入した物だそうだ。こんな所にも、懐の豊かさが垣間見られる。
次に前述した電話室。大正時代、東京や横浜の大都市ならばいざ知らず、桑名のような地方の小都市に電話なんて、想像は付かないだろう。よしんばあったとしても、「遠くの人と話せる」と現代風に解説しても、判って貰えないだろう。当時、電話を所持していた人も、政治家やお金持ちと一部に限られていたので、ただ珍しい物としか解釈出来ないだろう。
上は玄関ホール。
下はサンルーム。 |
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(2018年4月28日) 六華苑の2階に上がると…… |
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次は2階に上がるとするか。この六華苑は老朽化が進んでいるので、10人以上2階に上がるのはご遠慮と出ていた。入場料で上手く、修復費を賄えばいいのに。何をやっているのやら。螺旋状の階段を登りながら、呟いた。
2階は1階と同じように塔屋に部屋、諸戸清六氏の執務室と寝室、サンルーフがある。となると、2階の塔屋の部屋は、清六氏のプライベートルームだったような気がする。執務室が近いから、息抜きに舶来の紅茶を飲んだりしてたりしてたのかな。食事が終わったら、こっそり仕舞っている舶来のウィスキーを取り出して、一人で娯しんでいたのかも知れない。また、此処からの眺望もいいから、客が来るのを見ていた気がするな。気心が知れた友人が来ると、窓から身を乗り出して「よぅ」と挨拶して、わざわざ玄関まで迎えに来たのかも知れないし、色々想像が付く。
その後ろには、「立入禁止」の看板が立っていて、3階以上には入れない。何に使われていたのだろうか? 3〜4階は高いから、不審者が入らないように監視人が置かれていたのか、昨日の関宿の土蔵同様、極秘の逢い引きに使われていたのかも知れないし、これも色々想像が付く。少なくとも、清六氏はそんなことはしないと思うが。
階段近くの女中部屋に入った。広い応接間や和室を見た所為か、結構狭く感じた。一体、何人の女中(洋館だからメイドの方がいいかな)が働いて、此処へ住み込んだのだろう。布団3〜4枚敷いたらアップアップになってしまいそうだ。
近くの説明書を読むと、ご存じの通り六華苑は、和館と洋館に分かれていたが、働く場所も別々になっていて、互いの館に出入りする機会は、殆ど無かったそうだ。だから、和館で働いている人が何らかの理由で、洋館に入った時は、見るものが全部珍しく、まるで夢の世界に入り込んだ心地がしたのだろう。
そして、サンルーフ。六華苑の中でも、私が一番気に入っている場所だ。サンルーフの名の通り、陽の当たりが良いし、庭園が眺められる。近くに揺り椅子があるから、これもまた激務の合間を縫って、これに座ってリラックスしていたのだろう。丁度、若葉が萌える時期だから、書類ばかり目を通していて疲れている目を休ませるには丁度良い。私としては、ここに執務室のデスクを置いて、若葉を見たり、薫風を感じたりしてリラックスしながら執務した方が、心身のバランスが保てて効率が良さそうだけど。そうも行かないのかな? 尤も私は、執務室という狭い場所に常時机を置いて、仕事するのは極めて窮屈に感じるし、心身のバランスが崩れそうだ。
時計を見たら、12時10分。38分の名古屋行きに乗りたいから、この辺でお暇するか。
サンルーフで一句。
青空と若葉を纏うサンルーフ
最後に、庭園から六華苑全体を写真に収めた。よく見ると、和館と洋館がくっついているように見えて、何だかアンバランスな邸宅だが、当時としては極当たり前な造りだった。何を訴えているのか? 闇雲に洋式に流されて、日本人の心を忘れないようにする為なのか。和洋折衷で多趣味をアピールしたいのか。どの趣向の客にも対応できるように造られたのか。答えは、僅かな時間では出ないから、次回まで持ち越しだ。
上はどうも気になる「立入禁止」の向こう側。
中はサンルーフ。
下は和洋折衷の六華苑全体。 |
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(2018年4月28日) 「吉」を惹かせてよ、万松寺! |
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大須へ向かった。今回は、大須観音で縁日が開催されていて、混雑しているのではと思い、大須に程近い上前津から行くことにした。
大須商店街を当てもなく歩いていると、時刻に気が付いた。14時近くを指していた。そういえば、まだ昼餉も摂ってなかったんだっけ。焼き蛤と焼き団子1本でよく持ったな。低燃費の胃袋よ。
赤門通り近くのレストランで、煮込みハンバーグを頂き、また、大須商店街をぶらついた。そんなことをしている内に、万松寺(ばんしょうじ)に着いた。
織田信長公の父親信秀公の菩提寺で、信長が位牌に向かって香を投げ付けた謂われのある寺である。このことで信長は「大うつけ」と批評され、弟の信行を推す家臣が現れたが、一説には突然の父親の死に動揺し、どうにもできなかった悲しみを晴らす手段だったと言われている。また、この万松寺は信長公の命を救った寺でもある。越前の朝倉義景を攻めていた時、戦局が不利になり、岐阜に戻ろうとした時、鉄砲の名手に狙い撃ちされたのだが、何と、この万松寺で貰った干し餅に命中して、信長公は掠り傷だけ負ったという霊験灼かな寺である。
その万松寺がガラリと改装し、何とも豪華な寺になった。今日28日は、此処でその干し餅にあやかって縁日餅が搗かれる。去年は1個頂いた。だけど、余り戦局は変わらなかったな。相性が悪いのかな? 此処で引くお神籖も凶ばかりで、全く芳しくないし、今回もまた凶が出るのかと高を括ってお神籖を引いたが、案の定、凶だった。何回連続だろう。万松寺で凶のお神籖を引くのは。万松寺にこのことを訊いたら、「記録更新」云々と言われそうだな。いやなこった。一体、私の何処に非があるのだ。あるとすれば、心身のバランスが悪い所だな。そうぼやきながら、お神籖を利き手と逆の手で結んだ。万松寺曰く。「凶のお神籖を引いたら、利き腕と反対の手で結べば、『困難なことに取り組む』と言うことで、吉に転じる」。その心意義は判ったから、今度きた時は吉のお神籖を引かせてくれよ。今だって、つらい所なんだから。 |
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また、大須商店街をぶらついて、大須観音に着いた。境内では、縁日が開かれていて、昔懐かしい雑誌や高そうな抹茶茶碗、遊び終えたゲームソフトにポスター、中には切手古銭を売っている所もあるので、少し冷やかしてみることにした。こういう縁日は、掘り出し物が結構あると言うが、なかなか私が惹かれる掘り出し物は、滅多に見られないな。紙幣番号が「888888」の岩倉500円札があったが、値段は20000円也。予算が余り捻出できない状況なので、今回は見送った。何も大金を持てば、贅沢ができるやら、心の隙間が埋められるやら、そんなお伽噺は一切信用しない性だから。そんなことは、下らん漫画だけで十分だ。私はもう四十路突入する元若者なのだから。
時間を見たら、15時を指していた。丁度、近くの赤門通りで、車道を通行止めにして縁日が始まるとある。
その赤門通りへ向かった。道の両側には露店が出ているが、奥にはコスプレパレードに参加するコスプレイヤーが一杯いて、異次元の雰囲気を漂わせていた。この辺には昔懐かしいゲームソフトや同人誌を売る店が多くある。大須の意外な一面が見られる。
それにしても、結構いるなぁ。殆どがゲームのキャラクターを模したコスプレを施しているが、私には誰のコスプレなのか判らなかった。でも、こういうコスプレはそのキャラクターになったみたいで、気分が変わると言うからね。私の場合は、茶色の背広とカーキ色の帽子とトレンチコートで『ルパン三世』の銭形警部かな。それとも、普通の背広で顔を思い切り顰めた『相棒』の捜査一課の伊丹警部かな。
そこには、懐かしいキャラクターもいて、思わず頬が緩む。NHKの『できるかな』に出演していたゴン太くんがいて、常にシャッターを受けていた。これにノッポさんのコスプレがあったら完璧だな。
周辺には、カメラを持った見物人が多くいて、お気に入りのコスプレイヤーを撮っていた。見ると、かなりいいカメラを持っているではないか。高そうなレンズを装着し、コスプレイヤーを撮る格好はプロ顔負けだ。私のデジタルカメラも高性能だが、こんなカメラに囲まれていては、遊び半分で来ているようにも見える。誤解しないでくれ給え。撮る気持ちに卑しさは無いし、このコスプレイヤーに敬意を表しているのだから。
敬意として2首贈る。
華々しきコスプレ娘を撮るカメラ高性能で悄気るデジカメ
華々しきコスプレ娘撮る時は素人玄人変わらぬ華撮る
お気に入りのコスプレイヤーを2〜3名撮った後、パレードが始まった。賑やかな音楽は無いが、賑やかな雰囲気で始まった。それにしてもまぁ、結構なコスプレを施している人が多いこと。『スターウォーズ』のダースベイダー卿もいたし、尾張藩(名古屋)で結成された尾張藩警察もいて、結構笑わせてくれる。時折、銃や剣を持っているコスプレイヤーもいるが、此処では人を殺す悪い武器ではなく、雰囲気も盛り立てて人を傷付けないいい武器になっている。世界広しといえど、こんな風にコスプレパレードができるのは、日本位だろう。歴史問題を過度に掘り起こし、変な禁止事例を立てる国もあれば、銃での殺人事件が絶えず、銃撤廃のデモや集会が頻繁に起こっているが、一向に解決できない国、そして、異なる文化を認識できず、思わぬタブーを犯し、物議を醸す国。あ、日本の「女性は土俵から下りて下さい」と言う迷言で、欧米に物議を醸した日本も他人事ではないな。
気分直しに、一首詠む。
陽春のコスプレパレード世は平和銃も剣も盛り立てる武器 |
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このコスプレパレードを見終わり、行き付けのカフェで紅茶を啜って、一服した。
それにしても、今日は色々娯しいことが一杯だなぁ。万松寺での凶のお神籖を除けば。この旅は、気晴らしと言うこともあるが、(2017年)去年行けなかった大須大道町人祭の代用みたいな旅だ。この祭は至る所で大道芸が披露され、今同様娯しさ一杯である。
その後、OS☆Uのメンバーに贈る紅茶を買って、プレゼント包装して貰って、また赤門通りに向かった。
今度は無料で見る手相だ。
まずは、とんだ駄目出しだ。
鑑定士に「両手を差し出して」と言われて、両手を広げて差し出したら、金運が無くなってしまうと言われた。コリャ、まずいな。復興の途中なのに、金運が失せてしまうと言われたら、元も子もないからな。とにかく、目に見える目標を立てることを強く言われた。カレンダー等の見える所に書くと、意識改革に繋がるらしい。まずは、「心身のバランスを直す」からにしようか。
次に鑑定士は、掌(てのひら)を見た。すると、驚いた表情が出てきた。何だ、私の復興が順調に行くのか、未来の嫁さんが近いのか?
鑑定士曰く。「左手は生まれ持った線で、右は現在の状況を線で表している」。生命線が掌一杯まで伸びていて、且つ、遮る線が全く無いので、健康で長生きできる。四十路近くになると、成人病に見舞われやすいと言われるが、私には全くの音沙汰なし。いい点数を稼いだ。
次に、両手の頭脳線を見た。いい具合に薬指と小指の間まで長く続いているので、芸術面でのセンスが十分にある。ウ〜ム、旅行記は書けるけど、スラスラと書ける時は書けるけど、書けない時はサッパリで、好不調の波が激し過ぎるからな。心身のバランスが悪い証拠なのかな? でも、それはいい旅行記を書いて、共感を得たい気持ちがあるからだ。
次に、右手を見た。人差し指と中指の間と、薬指と小指の間の線が細かいので、結婚はまだ先らしいのだ。年下がいいのか、年上がいいのかは此処では判らなかったが(無料鑑定なので、簡単な判断しかできない)、好きな女性に上手くアピールすることが苦手だと言われた。つらい所だな……。
最後に左手を見た。親指の関節に二重に線があるので、先祖の霊に強く守られている証拠だと太鼓判を押してくれた。「先祖の霊に取り憑かれている」とは、全く違うもので、仕事が短期間で終わってしまったことも、この旅に行けたことも、先祖の霊が強く働いていると言われた。鑑定士曰く。「父方か母方の墓参りや供養をすれば、守られる力はドンドン強くなっていく」。
だけど、もしそのことが本当だとしたら、鬱とは全く無縁で、いい女性と結婚して、子供の1人や2人を抱えてもおかしくないと思うのだが。嗚呼、私の未来の嫁さんは何処にいるのやら……。先祖の霊が呼んでくれるのかな。とにかく、心身のバランスを取り戻して、健全に働けるようにしないと。 |
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そんな悲喜交々の結果を抱えて、行き付けのメイドカフェに立ち寄った。メイドカフェというと東京界隈だと秋葉原が有名で、「萌え萌えキュン」が目立つメイドカフェだが、私はそういう雰囲気は苦手で、何をすればいいのか躊躇って(ためらって)しまう。立ち寄ったのは英国風のメイドカフェ。此処なら落ち着く。
大人の扇子で顔を隠して、メイドからの挨拶が出たら、スッと扇子を外し、軽く挨拶を交わす。そんな粋人気取りで中に入った。
静かに一首詠む。
メイドカフェ大人の扇子で顔隠す粋人気取りの独身貴族
多くの客がラインやらツイッターをやっていて、メイド達の気を惹かせる。しかし、私はそういったものはやったことがないので、また大人の扇子を扇ぎながら、小江戸川越のパンフレットを読んで、気を紛らわせている。差し詰め、日本にキリスト教を弘めたザビエルかフロイスといった所か。
こういうパンフレットを見たメイド達は、名古屋では見られない川越まつりや川越の蔵造りで売られている、観光客に人気の甘藷(さつまいも)や狭山茶を用いた和菓子に興味を示してくれるが、大概は「東京に行きたい」という極平凡な答えが返ってくる。この返答に忌々しさを感じてしまう、東京の住人。東京で働けば、偉いと思っているの? 東京で住めば、格が上がると思ってるの? 東京で住めば、衣食住の全ては解決できると思ってるの? 私が伝えたいのは、東京に溢れる玉石混淆(ぎょくせきこんこう)の物、曖昧過ぎる善悪の区別、多過ぎる悪い誘惑ではなく、東京から気軽に行ける北西に約40キロ離れたワンダーランド、小江戸川越なのだ。小江戸川越には、東京では失った何かが健在で、年々観光客が多く訪れるのも頷けるのだ。それを名古屋のメイド達に理解して貰えるかが腕の見せ所だ。
何時もなら、発つ時を見計らって川越土産を差し出し、メイド達を喜ばせるのだが、今回は持ち合わせが無かったので、名所や売られている和洋菓子が載っている冊子で、勘弁して頂戴。これが、何時かの小江戸川越観光に繋がりますように。
その願いを込めて一首。
メイドへの川越土産手渡せず冊子残して旅立つ旅人 |
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次に、OS☆Uの握手会に行った。言っておくが、私はアイドルと握手して有頂天になる程、幼稚ではない。彼女たちの活躍を素直に認め、褒め称える為に来たのだ。
会場に向かうと、時間が早かったので、私のお目当てのメンバーは3〜4人待ちだった。そのメンバーの列に座って待つと、このユニットに出会った時が昨日の如く思い出せるのだ。
―このユニットは、2010年に結成されたローカルアイドルだが、私が初めて会ったのはこの年の大須大道町人祭だった。滅多に、アイドルのライブを見ることがないので、心が昂ぶった。そのときは、露店で買った1000円のベビーカステラを差し入れして、喜んで貰えたことやデビューシングルを買った時、運良くリーダーのサインが貰えた嬉しさはキチンと憶えている。
あれからもう8年。2014年のNHKが実施した「ご当地アイドルランキングバトル」で見事優勝し、もはや、名古屋界隈だけではなく、全国区に名が広がり、海外公演するまでに成長した。その一歩一歩が、我が子の成長みたいに嬉しかった。そして、2010年のデビュー当時のメンバーが、一人また一人卒業し、残るメンバーは1人となってしまった。今、私はそのメンバーの列に座っているのだ。彼女の卒業は7月頃らしいが、この痩身に何が起こるか判らないから、今のうちに餞別を渡したいのだ。
その成長を讃えて一首。
何時の間に愛したユニット成長し老若男女が集う大木
気が付くと、会場は人で一杯になっていた。みんな好きなアイドルが違っている所が面白い。私の列は相当長く、私は随分前の方になっていた。時間を計算すれば、賢く行動できるのだ。
握手会が始まった。此処でも、私は大人の扇子で顔を隠して、向こうからの反応を見て、扇子を外す粋人気取りで行くか。
そして、私の番になった。扇子で顔を隠して立った。
「扇子、取って下さいよぉ。」焦れた答えが出てきた。私は少しほくそ笑んで、扇子を下ろした。すぐさま、笑顔が出た。
「おぉっ、お久し振りですぅ!」お互いに挨拶が出た。
早速、サイン色紙と餞別の紅茶を差し出した。特に紅茶のプレゼントは喜んでくれた。気に入ってくれて、嬉しいわぃ!
これは、粋人らしい選び方をしているのだ。プレゼント包装は当たり前だが、紅茶の選別は店員に尋ねた上で、私が選んだのだ。女性に贈る紅茶がどれがオススメなのかを。オススメはロイヤルブレンド、アールグレイ、無難なダージリンの3品。この3品買えばいいのだが、予算の都合でロイヤルブレンドとアールグレイの2種類にして、プレゼント包装して貰ったのだ。私事になるが、2016年の大垣の右隣の穂積でイベントが行われた時、卒業間近のメンバーに、店員と相談して作った5000円の花束を贈ったことがある。今回も花束を贈ろうとしたが、余り気の利いた花屋が無く、紅茶に変更した訳。でも、気に入ってくれて嬉しいわぃ。
そして、私の番は終わった。他の所も盛況である。しかし、私の懐にはもう一枚サイン色紙があった。時間もあるし、他の所へ並ぼうかと思ったが、目的のメンバーのサインを頂いたから、用済みだ。用が済んだら、躊躇い(ためらい)なく帰る。それも、粋人らしい行動だ。
別れの二首。
君去りし名残を惜しむ餞別の誰と娯しむ来年の躑躅
あの日から出逢ひしユニット幾星霜最後の一人が巣立つ寂しさ |
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また、赤門通りの夜店を冷やかしながら歩いて行くと、何やらあった。机1台の前に、テレビカメラが置かれている。生放送の番組か? 見ると、スマートフォンもあるので、地上波でないことは確かだ。一体、見られる媒体は何だ。ネットか、スマートフォンか。まぁ、偶然立ち寄ったのだから、見ていくとしよう。すると、昼間のコスプレパレードに参加していたコスプレイヤーが、MCとして出演していた。見ると、撮りたかったコスプレイヤーだったので、もしかしてと思って、私は暫く、此処でその生放送を見ることにしよう。スタッフの「拍手や声援もお願いします」のお願いを受けて。そうですね。その願い、快くお引き受けしましょう! 陰の出演者ながら。
生放送が始まった。周辺には視聴者が続々現れて、中には昼間のコスプレパレードに参加したコスプレイヤーもいて賑やかになった。もしかして、「今日のコスプレパレードは、如何でしたか?」と質問する為に、呼ばれるかも知れない。自ずと身形を整える。また、この扇子で顔を隠して、粋人気取りで行くか。
放送の内容は、やはりコスプレ関係。作り方から予算まで、自分がそのキャラクターになりきるには、色々なアニメを見て勉強したり、それを想定して自分で裁縫してコスチュームを作ったりして、やはり平坦ではないのね。「関係ない」とばかり、生放送の横を横切る自転車や歩行者をチラチラ見ながら。
ゲストには、コスプレイヤーが呼ばれた。みんな、そのキャラクターに成り切って、出演していた。普段は普通だが、いざ、コスプレすると気分が変わり、もう一つの自分が見えてくる。魔法だね。私は扇子で扇ぎながら、その生放送を見続けた。
そして、生放送が終わった。私の出番は無かったが、貴重な生放送が見られて得をした。更に、MCを務めたコスプレイヤーから、何やらお土産を手渡された。市販の菓子だが、自分のコスプレが入った品だった。最後まで見てくれたお礼だ。私のその菓子を受け取り、デジタルカメラを構えたら、見事ポーズを決めてくれた。ありがとう。
此処で、私は何かが吹っ切れた。
ゲームセットだ。気晴らしの旅は此処で、ゲームセットを迎えた。振り切って東京へ帰ろう。余計な物は要らない。これも粋人気取りだ。
縁日が終わり、静まり返った大須観音で、末吉のお神籖を引き、それを高い所に結んで、静まりかえった境内で、高らかに叫んだ。
「ゲームセット!」 |
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