1997年3月28日 懐かしき春の外房

(1997年3月28日) 記念日に外房へ……(前)

 1995年3月28日、この日は私にとって大事な日だ。私が「旅行」に開眼した日でもあるし、人生を変えた日でもある。あれから2年後の今日に旅行したのも、それも、幼少時親戚と一緒に数回行った一宮や鴨川へ旅行したのも、やはり何か運命めいた気がする。
 さて、その鴨川だが、確か、首都高速で京葉道路に出る。そして、外房の一般道路をノンビリ走る事、2〜3時間。勝浦付近では隧道が多く、何度も数えたりと20年以上経っているが、道順は大方判っている。さて、これを鉄道に置き換えたら、霞ヶ関から東上線で池袋に出て、山手線で東京に出る事は慣れているが、総武快速線で千葉に行き、そこから外房線に乗り換えて(内房線でも行けるが、外房線の方が所要時間が少なくて済む)、安房鴨川迄行く所は、未知の世界になる。
 房線。その名の通り房総の外側(太平洋側)を走る路線で、路線には遠浅の九十九里浜があるお陰で、海水浴場が多く点在している。その上、黒潮の通り道故、魚介類が豊富に捕れる。そうだ、昼餉と土産は海産物にするか……。鴨川に行けば、幾らかあるに違いない。魚介類が好物である私には、行く前でも、期待が膨らむ。
 ヶ関から池袋、そして東京。これだけで悠に1時間は費やす。時間は掛かるが、その間に、何かが出来る。これが都市近郊の魅力ではないだろうか? 私は、一眠りに充てた。
 東京から総武快速船で千葉へ。この路線は途中の千葉迄、湾岸寄りの京葉線に沿って走る。しかし、沿って走るとはいえ、こんなに違いがあるのには驚いた。両国駅の先で地上に出て、予備校と相撲部屋を見ながら、錦糸町の繁華街に出る。小岩近辺では、繁華街と住宅地の狭間にある水路が面白かった。船は繋留されていなかったが、涼しさを売るにはもってこいだな。それに引き換え、肝心の空き地が余りなかった。遊ぶ所は相当限られて、家に引き籠もりがちな所もある。都会の住宅事情の悪さは、こんな所に悪影響が出てくる。
 江戸川を渡り、千葉に入る。まだ、住宅街が続いている。面白味が薄いな……。そうだ、本八幡駅近くの「天神」の看板は印象に残ったな。どでかい広告板に、どでかく書かれているから。
 途中の西船橋は、総武緩行線、地下鉄東西線、武蔵野線と交通の要所でありながら、総武快速線は通過という、失笑必至の駅だ。一番の失笑は、西船橋の方向幕を出していた総武緩行線が、ホームに滑り込んだ光景を見ながら、総武快速線が何の感心も無く通過した事だった。責めて、此処も停車駅にしてくれよ。それを全く認めていないという事は、何かしら影響が出てくる。若者の死語になりつつある努力、忍耐、我慢に繋がっていると言ったら、極論だろうか?
 それにしても、車窓から見た以上、本当につまらない路線だなぁ。見る景色は殆ど同じで、京葉線のように新木場、新浦安のように運河があり、荒川、旧江戸川、江戸川の河口を渡り、そして海が見える事に慣れてしまった所為もあるので、頻りに欠伸が出てきたもの。確か総武線は国道14号線沿いを走っていて、国道14号線は海岸線だったと稲毛記念館で知ったから。もし、東京湾の埋め立てが行われていなかったら、京葉線同様の景色が望めたに違いないが、その残像は総武線沿線では何処にも見当たらない。皮肉にも、埋め立てられた幕張や稲毛では、人工砂浜を造り、平成の市民の憩いの場になっているとは。ただ、残像が京葉線沿線に映って、現になったのだ。
 幕張本郷と幕張は住宅街に囲まれているが、遠くには幕張新都心、ポツポツ程度だが、畑が見えた。是非とも残して貰いたい。此処で住宅街一色になってしまっては、遠くの幕張新都心が、軒が低い住宅を遠くで見下しているようで、威張って見えるからだ。
 葉に着いた。此処から、内房、外房、成田、銚子に路線が延びているから、大いに賑わい、駅前も相当ごった返しているのが頷ける。
 しかし、しかしだ。房総方面だと、一気に変わってしまう。その事は、後で話すよ。霞ヶ関から千葉に着く迄、時間が掛かったから、一休みしたいので……。



(1997年3月28日) 記念日に外房へ……(中)

 戚と一緒に車で外房に行った事は数あれど、列車に揺られて外房に行くのは初めてである。しかも、一宮と鴨川しか知らないので、何処かに寄り道して鴨川に行きたい。何処に寄り道するかな。切符は安房鴨川迄のを買ってあるから、進行方向と同じならば、途中下車が出来るのも嬉しい。
 前述の通り、千葉駅界隈は大いに賑わいを呈していて、房総方面だと、一気に変わってしまうと綴ったが、この時は、そのギャップすら知らなかった。頭には鴨川での思い出しか浮かんでこなかった。確か、鴨川に親戚の墓があって、その墓参りだったような気がするな。近くにあった鴨川シーワールドなんか目もくれずに。行きたかったな。そして、その日がやってきた。何だか、父方の祖母が手招きしているように思える。「連れて行ってあげる」ってね。
 葉を発った外房線。千葉城が見える本千葉を過ぎると、蘇我に着く。此処も千葉同様交通の要所。しかし、周りを見ると、明らかに千葉と違う。貨物線(京葉臨海鉄道)のヤードが広がっていて、その向こうには京葉工業地域がある。反対側を見ると、商店があるが、高層ではなく、すぐ近くには民家や田畑がある事が読み取れる。
 そして、此処から内房と外房に岐(わか)れる。一緒だったのは、千葉〜蘇我の3.8キロ。全線の距離と比較すると、ほんの僅かだ。
 車は左に傾き房総半島を横断する。徐々に右に遠離る内房線。きっと、内房にもいい所があるに違いないな。行きたいけど、外房線に乗った以上は、その思いを仕舞っておく事しか出来ないから、何とももどかしい。車窓で、かじりつくように内房線を見、そして民家に隠れて見えなくなると、静かに目を伏せ、ゆっくり溜息を漏らした。でも、安房鴨川で会えるのだから、心配はない。
 此処で二首。
 さよならと別れを告げし春の日は誇る梅花も枝から別るる
 わかれ道辿る街は異なれどかの地で再び逢える約束

 て、外房線は房総半島を横断して、九十九里に出る進路を取っているが、見る景色は全て田園で、一体何処の街を走っているのか判らなくなってきた。整地された赤土の畑、牛小屋と畑に囲まれた雑木林、そして、遠くに見える周りからの景色で相当目立つショッピングセンター。明らかに千葉市とは思えない。
 所が、蘇我の次の駅鎌取に着いた時、私は新たな千葉市を知る事になった。
 まだ、千葉市内だったのだ。鎌取は千葉市緑区に位置していたのだ。じゃ、あの田園地帯は全て千葉市だったのか。ヘェ〜。京葉線沿線の海の街と、千葉駅界隈の賑やかさだけかと思っていたが、こんな長閑な田園地帯があったとは、しかも、政令指定都市だよ。いやぁ、色々な顔があって、興味が尽きないな、千葉市って……。
 誉田(ほんだ)で時間調整の為に2分程停車した。上りホームには多くの客がいた。恐らく千葉に買い物する人達だが、もう4月は目の前。装いも、春を感じさせる明るい色が目立つ。嗚呼、もう春は目の前か。こっちも何とか進学が決まってホッとしている。3月5日に卒業式だったが、その時は全く決まっていなかった所為もあって、気が晴れなかった。今は、ホッと出来る。
 此処で一首。
 身体が仄かに温む春陽差しローカル線の停まりし時こそ

 田を過ぎても、田園地帯が続いている。本当に千葉市なのか? 駅前だけが矢鱈に都会の様相を施している。そして、1分もしない内に、田園に変わってしまう。種も仕掛けもない手品だ。
 (とけ)を過ぎると、いよいよ政令指定都市の眺望ではなくなる。雑木林に囲まれた田畑が続き、高台に外房線が走る。これでも千葉市緑区なのだから、驚きは隠せない。そういえば、母方の故郷紀和もこんな光景があったな……。
 都会と田舎が背中合わせの街、千葉市。そして、隧道を抜けると、そこは大網白里になる。しかし、標識が無いので、何処までが千葉市か、何処からが大網白里町か判らない。それに因って、広がる田園地帯の印象が変わってくるからだ。そこが何とも面白いのだ。ましてや、千葉市の思い掛けない田園地帯という一面が覗けたのだから、驚きと納得の背中合わせだ。
 網に着いた。途中で線路が岐れて、東金線のホームがあるが、外房線のホームは高架にある。それも、右カーブの真ん中に造られている。カーブの内側の席に座っていた私は、右に傾いていることすら知らず、1編の詩を綴っていた。



(1997年3月28日) 記念日に外房へ……(後)

 総一ノ宮に着いた。千葉発の外房線の3〜4割は、手前の茂原とこの駅が終点だ。
 降りてみると、民家と工場は数える程の田園地帯が広がっていた。それでも駅は、両面ホームと片面ホームの3番線で構成されていて、片面ホームの3番線には、総武快速線が停まっていたりして、九十九里地方の交通の要所になっていた。正面の方向幕には、「横須賀線←→総武線」と出ていた。外房の上総一ノ宮から、東京湾をグルッと回って、浦賀水道の袂の久里浜に着く。九十九里の海と、浦賀水道の海の一挙両得と言った所か?
 総一ノ宮から安房鴨川行きに乗った。複線がポイントを通過して、単線になった。一気にローカル色が強まった。
 田圃の畔道に菜の花がズラッと咲いていた。冬の内は、受験受験で全く明るい色には出会えなかったので、余計菜の花の黄色が眩しかった。春は目の前なのだ。
 嗚呼……、戦争が終わって平和な春がやってきたのだ。荒んだ心を菜の花の黄色で癒すのだ。
 しかし、海はまだ見えない。ガイドブックを覗いても、もう海岸線とは近い所に来ているのだが……。
 浪見(とらみ)駅は本当に簡素な駅。枕木で柵が造られているホームはもとより駅舎が凄かった。何と、貨車を改造して造られているのだ。鉄道独特の廃物利用だ。
 東浪見を過ぎると、左方にウッスラと青が見えた。空の青さではないな。とすると、海なのか。走行中だが、立ち上がって、その青を凝視した。
 嗚呼、やはり海だった。九十九里海岸だ。確か、一宮から北に位置する長生に親戚の家があって、その近くには一松海岸があった。よく此処で、海水浴をしたものだ。やっと出会えたね。今は、行く機会が殆ど無いので、余計嬉しかった。
 此処で一首。
 素朴なる東浪見駅から背伸びせば田畑を越えて春の九十九里

 東で一人の若者が降りた。何とサーフボードを脇に抱えていたのだ。確か、九十九里は湘南と並ぶサーフィンのメッカと聞いている。サーフィンは夏のレジャーだと思っていたのだが、一年中出来るのか。何だか、夏を先取りするかのように表情も娯しげだった。
 此処で一首。
 冬の海過ぎて温かき春の海七色彩る夏の若者

 写真は上総一ノ宮駅ホーム。



(1997年3月28日) ロペス通り・月の沙漠記念館



 車は春便りの外房をゆらりゆらりと巡り、何時の間にか童謡「月の沙漠」の舞台、御宿(おんじゅく)に着いた。降りた客は私の他に1、2人位か、いや、私だけか……。
 駅から少し歩くと、「ロペス通り」と呼ばれている通りに入った。田舎風情が強い御宿でなんか違和感があるなと思ったら、電柱の傍に一基の石碑があった。そこには「ロペス通り」と書かれていて、その経緯が綿々と書かれていた。
 実は此処御宿とメキシコのアカプルコは姉妹都市なのである。その謂われは江戸時代に遡る。暴風雨で遭難したメキシコの乗組員を、(御宿から南東にある地域)岩和田の住民が総出で救出した由縁からだという。私が最も驚いたのは、海女達の素肌で冷えた遭難者を温めて蘇生した事であり、殆どの乗組員が助かったと出ている。昭和53年にメキシコの大統領が来日し、その功績を讃えたそうだ。そして、大統領の名前「ロペス」を拝借して、此処を「ロペス通り」と命名したのだ。
 私は歴史の教科書に書かれていない江戸時代の物語に感嘆し、海岸に向かった。
 御宿海岸に建てられた「月の沙漠記念像」は、周りの白砂と静かな海に見事に調合していて、私の耳に淡い音の「月の沙漠」が流れてきた。
 音色に酔いしれて一首。
 静かなる夜の海と白砂が面影創る月の沙漠

 上は御宿駅での歓迎。
 中はロペス通り。
 下は月の沙漠記念像。



(1997年3月28日) 鴨川シーワールド



 い記憶になるが、私の伯父が時々鴨川に連れて行った事がある。それも、数年に1回程度で、滅多に行けない鴨川の光景に、私は目を輝かせた記憶がある。勝浦付近で通り過ぎる隧道の数を数えたり、時々見掛ける「鴨川シーワールド」の看板に、「何時か行きたいな」と密かに思っていた。しかし、その機会がなかなか来なくて、18歳になって漸く機会が巡ってきた。今まで見られなかった鴨川をじっくり見て歩きたい。
 迎バスを使わず、徒歩で向かったが、バスで5分の距離は結構ある。送迎バスが駅から出ていると聞いたが、降りる所が違ったようだ(最寄りの安房鴨川駅には、東口と西口があって、バスが出ているのは西口の方。それも、帰りに送迎バスに乗って、駅に着いた時に気付いた)。てくてく歩く事15分。やっと、シーワールドのロゴが見えてきた。
 やっと、十数年の思いが現実になる……。そう思い、入場券を買って、中に入った(申し訳ないが、初めて入った記憶が朧気で、上手く書けないので、割愛する)。
 に入ってどの位経ったのか。脚の足は一方方向に向き始めた。親の手を引っ張っている子供達が、慌ただしく走っていた。特に行きたい場所がなかった私は、何かがあるのだろうと思い、誰から誘われた訳でもなく、その後を追った。
 プールの周りに、観客席がある所に辿り着いた。見ると、親子連れでごった返していた。何が始まるというのだろう……。アナウンスに因ると、これから「シャチショー」を披露するらしい。
 私の興味をそそる催しではなかったが、前記の通り何処にも行きたい所がなかったので、観客席の一席に座ってショーを見た。
 係員はシャチの背中に乗って、熟練したパフォーマンスを披露していた。シャチは潜ったかと思いきや、強烈な水飛沫を上げて顔を出した。新鮮な海水の飛沫がサイドに叩き付けられた。観客はパフォーマンスが成功する度、サイドに飛沫が飛んできた度に、拍手を沸かせたり、歓喜を上げたりしていた。事に子供達は、無邪気にパフォーマンスを披露する係員に憧れを持っているように見えた。自分もシャチと遊びたい……。そんな思いなのだろう……。その上、係員と共にパフォーマンスを披露しているシャチにも憧れているようだ。甲高い歓声が方々から飛んでくる。それが一層、ショーを盛り上げてくれる。
 気付けば、私も子供達と一緒に拍手をしたりして、盛り上げていた。夢中になっているようで、開演時間が短く思えた。それ程、このショーは娯しかったのかも知れない。
 此処で一句。
 子供達の娯しきアイドル海のシャチ

 上は鴨川シーワールド。
 中と下はシャチショーの一コマ。



(1997年3月28日) 帰りの特急列車

 りは特急「わかしお」で帰った。座る席は海側の窓側だ。鴨川に向かう時も、海側だったが、それでも、海側に座ると来たら、相当の海好きだな、私って。
 思えばこの旅は、父方の祖母が連れて行ってくれた気がする。3月28日、旅行に開眼した日。しかも、旅した所は、思い出深い外房と鴨川。何れも接点がある。もし、この日以外に此処以外の場所を旅したとなると、ただ「春が近いな」という、冗漫な感想しか持てなかっただろう……。
 中の安房小湊から、身なりの良い貴婦人と相席になった。私は何もする事が無かったので、その貴婦人と話をする事にした。
「どちらまでですか。」この一言が大事だ。
「東京ですよ。あなたも東京ですか?」
「ええ。そこから池袋に出て、川越に帰る途中なんですよ。」
「ヘェ、随分遠くから来たんですねぇ。」安房鴨川と川越の距離を知っているのか、驚きの声が出た。例え、この特急で東京に向かっても、あくまでも中継地なのだから。
「行きは、『月の沙漠』の御宿に行きまして、それから鴨川へ。」
「鴨川は、シーワールドに行ったんですか?」
「そうですよ。実はね、親戚のお墓が鴨川にあって、何度も行った事があるんですけど、肝心のシーワールドは今回が初めてなんですよ。」
「そうなんですかぁ。」貴婦人は鴨川をよく知っているのだろうか? 小湊と鴨川は近いので、情報が入り易いのだろう。
 普通のロングシートでは、こんな会話は絶対出てこない。このような特急列車やボックスシート、セミクロスだと、自分から積極的に会話をすると、いつの間にか、交流が生まれるのだ。たった一言から始まる付き合いもあるのだ。これが、自分の人生を大きく左右する事にも成り得るのだ。
 此処で一首。
 我が旅は列車の中の人々の一期一会の喜怒哀楽

  浦付近は隧道が多く点在し、その間から海が見える。私も、頑張って通過する隧道の数を数えていたな。もう、あれから10年近くも経つのか……。あの時は、何も心配せずに生活できたっけ。もう、隧道を数える事は無いが、改めて、此処に鉄道を敷いた先人に深く感謝したい。
 此処で一句。
 勝浦や山々狭間春の海

 ると、もう一つ私に懐かしさを呼び込ませる光景に出会った。
 向こう隣に座っている親子が、何と通過する隧道の数を数え始めたのだ。嗚呼、やはり子供だなぁ。小さな指で一つずつ一生懸命に数えている姿は、微笑ましい。
 此処で一首。
 隧道を数えし子供の指先は向こう隣の我が顔を指す





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