2003年3月7〜10日 寝台特急で山陰・関門の旅(1)

(2003年3月7日) サンライズエクスプレスに乗って山陰の旅へ

 番線に、「サンライズ出雲」と「サンライズ瀬戸」を連結させたサンライズエクスプレスが入線した。
 私は不敵な笑みを浮かべて、サンライズエクスプレスを迎えた。
 此処でサンライズエクスプレスの説明を簡単に致そう。このサンライズエクスプレスは前記の通り、「サンライズ出雲」と「サンライズ瀬戸」を連結させた14両編成の寝台特急である。前の1〜7両が「サンライズ瀬戸」で高松行き、後ろの8〜14両が「サンライズ出雲」で出雲市行きである。私が予約したシングルデラックスは12室しかなく、更に「瀬戸」と「出雲」に分かれている為、目的の出雲市まで向かうシングルデラックスは、たったの6室しかない。だから、予約する時は1ヶ月前からキッチリ予約しないと、取れない事もある。どうしても、「サンライズ出雲」のシングルデラックスに乗りたかった私は、1ヶ月前に早々と予約を取ったのだ。
 アが開いたのを見て、押さないで乗車した。「サンライズ出雲」の11号車のシングルデラックスの24番が私の所だ。此処11号車は2階建てになっていて、2階部分が私が予約したシングルデラックスだ。下見に行った時、結構設備が充実していて長旅にはピッタリと思った所と、2階からだといい景色が見られそうだと期待したのだ。
 此処で設備を説明致そう。広さはカーペット敷きの3〜4畳で、書斎に洗面台、NHK衛生放送が見られるテレビ、大きな窓際には手頃なベッドもある。言うなれば、動くシングルホテルだ。更に、ドアはボタンキーで開けられるので、セキュリティー面も充実している。終点出雲市まで乗る私にとっては、何とも贅沢な寝台だ。(寝台券と特急料金込みで)16500円も掛かるが、設備から見てもいい値段だろう……。
 書斎に荷物を置き、ベッドに身を投げ、発車時間を待つ。微かに聞こえるベルの音を聴きながら、これから向かう山陰路に思いを馳せる……。どんな出来事に会うのだろう。私の好きな旅行が朝から晩まで1週間近くも続くのだから、いい事があればいいな。
 しの別れだ、東京。私は一足先に春を娯しませて頂く……。悪く思うなよ!
 あっ、そうだ。もう一つあったんだ。出発3分前だから書かせて頂く。検札の時に頂いたサンライズセットだ。中身は石鹸にタオル、リンスインシャンプー、櫛等の日用品が入っている。これも列車での長旅に必要な物だ。おまけにシャワー券が無料で頂けるのだから、至れり尽くせりだ。出発前からこんなに豪勢とは、この旅行に期待が持てそうだ。一番高いシングルデラックスにしてよかったな……。
 「ンライズ出雲」は東京を発ち、最初の停車駅横浜に向かっている。早速、お好みのCDを聴きながら夜景を堪能しようか。丁度、ロゼワインもある事だしね。何をやっても、他人の視線を気にする事はないからね。優雅にいこうか!
 過ぎていく……。こんな夜遅くに電灯が点っている新橋・品川のオフィス街。しかし、こんな所で働くのは、集団行動が人一倍嫌いな私にとっては最も息苦しく、ねぎらいの言葉よりも「こんな所で働いて息苦しくないのか」と冷やかしの言葉が出そうだ。
 品川を過ぎ、大森・蒲田に入ると、マンションが林立している。この辺になると、「今この家で何をしているのかな」と、ふと思ってしまう。ひょっとしたら、テレビで見るアイドルや私が探し求めていた人がいたりして、同じ東京でも別の顔が存在する。東京に限らず、都会は一概には判らないものだ。こんな都会に生きる一人の人間の小ささに苦笑し、口に流し込む一杯のロゼワイン。余り冷たくなかった。冷蔵庫があればいいけどな。
 浜を過ぎ、戸塚、大船、藤沢と段々西に向かっている。窓が大きい上、書斎の椅子の位置の自由が利くので、進行方向と逆とどちらでも、景色が見られるので気分上々だ。その気分に浮かれてのロゼワインだが、すっかり常温になってしまって、甘みがだらしなくなっているのには閉口した。ボトル半分も行かずに終わってしまった。
 サンライズエクスプレスは騒音が殆ど無くて、CDを聴き終えてもガタゴト聞こえないから高級感がある。自然に眠気が出る所もグッド!
 此処で一首。
 根府川のホームを望みし相模灘暗き漣春は名ばかり

 海迄は1時間近く掛かったが、停車駅が少ない所為なのか、余計早く着いた気がした。
 熱海か……。家族旅行に一人旅に訪れた事があるのだが、夜景自体もネオンが生えていなかったし、湯煙もそんなに出ていなかった。昨今聞こえる凋落(ちょうらく)振りが読み取れる。此処にカジノを作る話が持ち上がっているが、私個人としては大賛成だ。やはり東京にない物を造るのが、地方都市の役割なのだ。これ以上地方軽視の念が進まない内に手を打つべきだ。「何を?」って。勿論、カジノ建設の話だよ。
 ンライズエクスプレスは熱海に到着し、いよいよJR東海の東海道本線を走った。静まり返っている伊東線の来宮駅を左にして、長い丹那隧道に入った。
 関東とは暫くお別れだな……。

 写真はサンライズエクスプレス。



(2003年3月7日) 闇を疾走するサンライズエクスプレス

 南、三島を通過して、沼津を発った。この辺に入ると眠くなり始め、うたた寝に委せて一睡する事が多いのだが、時刻もそんな夜中ではないので、静岡辺り迄起きて、夜景を見る事にした。
 沼津駅ホームから見た光景の二首。
 四つ半の沼津の傍のラーメン屋出でし客の胸元締める
 酔ひ回り頬杖の先のラーメン屋湯気温かし秋の真夜中

 台特急は駿河湾沿いを走っていた。小さな駅が次々と通過するが、駅自体が近未来的な造りをしていても、特急が停まらなければ、何処か滑稽に見える。立派な連絡通路しか見えず、駅名は断言出来ないが(これが清水駅と知ったのは、大分後の事)、速度を速めた寝台特急が暗闇を走り、此処は何処なのかと疑わせる。もう、駅名板も見えないから、小さな駅は明かりを消して眠りに就いている。私が何処かと探る気持ちを知らずして……。此処で一旦、寝るとするか……。
 を開けると、豊橋を通過していた。この辺でよく目が覚めるのだが、今回もそうだな。しかし、ほんの少ししか寝ていない気がする。酒精が薄かった所為なのか?
 しかし、部屋は熱かった。涼むべくミニサロンに行く事にした(3月なのに、涼むという表現は変だが)。序でに名古屋を通過する迄、起きていようか。
 ニサロンは、両側に大きな窓があり、カウンター席が片方4席、計8席もある。しかし、ドアの向こうにはツインがあり、下手に大声は出せない。静かな夜を娯しむ為にあるサロンだ。私は左側の窓の席に座り、夜景を眺めた。「ムーンライトながら」で見た夜明けの東海とは違って、静まり返った真夜中の東海が映っていた。良く見える景色も暗色のカンバスに叩き付けられて、見慣れた駅名も満足に読めず、初めて見るようでドキドキした。しかし、暗色ばかり目立っていて面白くなかった。
 ぎる、過ぎる、過ぎる……。大府を過ぎると高架線になって、名古屋市内に入る。此処で名古屋市街が眺められるが、前述通り暗色に染められて面白くもなかったので、旅行記を綴っていた。所が、その旅行記の捗りが滞ると、何することなくただ名古屋に到着するのを待っていた。右側では金山駅を通過した。尾頭橋駅を通過すると名古屋はもうすぐだ。私は妙な期待を持って、名古屋到着を待っていた。
 すると、徐々に速度が切れ、名古屋のネオンが目に入った。右には明治村とリトルワールドの文字が出てきた。見慣れた駅、名古屋駅だった。そして、東海道本線ホームに到着した。時刻表上では「通過」と出ているが、運転士交代の為の停車だ(運転停車という)。素人から見れば「停車なの?」と首を傾げるが、乗客はおろか、構内見回しても客一人いない。寝静まった名古屋駅だ。此処から向かう伊勢志摩も夢の中なのだろう……。列車に乗っている私にしては、遠い存在に感じた。
 時はぞろ目の午前2時22分だ。縁起がいい。
 さな枇杷島駅を通過すると、ミニサロンを後にし、寝台に戻り布団を被った。用が済んだから寝るとするか……。しかし、酒精の眠りは浅く、私はすぐに寝付けなかった。ボーッとしている内に岐阜駅を通過し、大垣駅に向かっていた。
 そうだ。「ムーンライトながら」の終点大垣を、この目で見届けようではないか。寝付けない理由をこれに充て、カーテンを開けて外を見た。外は住宅地やら商店やら連なっていたが、極普通の街並みでも初めて見る旅人にとっては羨望の的なのだ。活気の息吹は静まり返っていたので、これを同じ心境に浸るべく、部屋の明かりを全て切って、互いに暗闇の中を眺めた。夜に似合う洗礼されたCDを聴きながら。
 心を静めて夜景を眺めていると、大衆は眠りというメカニズム(構築)に浸されている時に、私は旅という世界に身を投じ、自身の気の向くままに時を過ごしている。大衆の時計なんぞ、私が知る余地もない。秒針が取れ掛かっていようとも、敢えて直さないし、時間が十数分進んでいたり遅れていても、敢えて気にしない。余計針を動かしたくなる……。
 て、JR西日本の境に位置する米原駅は、私の想像とは異なった様相だった。そりゃ、新幹線が停車するのだから、駅前はさぞかし賑やかで、構内も広いのかなと思っていたのだが、周りはいきなり山間から建物が林立する所に変わる訳はなく、駅前に数軒のホテルやビルが並んでいるだけで、列車が通過したホームも、速度が速かったのか短く感じた。新幹線のホームも見当たらず、駅名板がJR西日本と判った以上は、米原駅の全貌と認めるしかなかった。三河安城駅と同じだ。
 もう寝よう。明日は出雲大社だ。



(2003年3月8日) 粉雪と伯備線

 を覚ますと、岡山の手前だった。今度はよく寝られたようだな。
 もう、岡山か……。
 空を見ると、カラッとした晴天と伝えた天気予報とは違う、雲の隙間に所々に青空が見える晴天だった。山陽は晴れか。しかし、肝心の山陰の天気は山陽と同じとは限らない。もしかしたら、2年前と同様に雨と雪のオンパレードか? それだけは嫌だね。そんな無理に等しい道理を呟きながら、頬張る朝餉のシュウマイ。
 サンライズエクスプレスは、田圃が続く山陽本線を直走っていた。まだ田起こしをしていないようだ。此処には春の到来は無かった。
 此処で一首。
 朝ぼらけ晴れし山陽伏し拝む晴れを望みし対の山陰

 山に着いた。車内アナウンスが入り始めた。良い目覚ましになるよ。此処で1〜7号車の「瀬戸」と8〜14号車の「出雲」を切り離す。しかし、停車時間は僅か6分。売店は「瀬戸」の7号車の近くにあるが、買いたい物は何もなく、此処11号車から行くとなれば、時間は僅かに1〜2分の猶予しかない。
 敷を発って、中国山地を縦断する伯備線に入った。暫くしても、晴天は続いていた。丁度いいや。シュウマイも食べ飽きた所だ。CDを聴きながら、山間の備中路を娯しもうではないか。ホラ、新見到着時限定の売店で買った温かい緑茶もあるしね。
 所が、旨くも不味くもない緑茶を啜り始めた所、雲行きが徐々に怪しくなってきて、膨らみ掛けた娯しみが、徐々に萎えてきた。何とか晴れて貰いたいと、祈りの緑茶を啜った。雨と雪に降られるのを嫌がって。
 中高梁を過ぎた。片方だけだが、高梁の街並みが眺められた。此処が『口笛吹く寅次郎』の舞台とは(旅先)。確か、さくらの夫、博の父親の故郷だったな……。古い街並みと近代的な建物が違和感なく折り交ざっている街だった(通過駅の為、余り断言出来ない)。
 そんな情景に浸って、雨雪の憂いを解したのも束の間、雲行きは怪しくなるばかりだ。もしかしたら新見辺りで雪がちらつき始めて、日本海側の米子に着いたら本格的に……。そんな私の悪い勘が当たったのか、井倉を通過した時、とうとう雨混じりの雪が降ってきたのだ。「ちょっと待て」と怒鳴りたかった。雨具の用意は出来ているが、初日から傘を広げて旅行とは、冗談も程々にしてくれよ!
 (にいみ)に着くと、雪の量は増すばかり。庇が無いホームはもう雪にまみれていて、下手したら滑って転びそうだ。もしかしたら、出雲市も……。いや、悲観的になるな! 私の旅路は常に明るいのだから。向こうはきっと雪は降っていないに違いないよ。そう祈っている。しかし、隧道を抜ける度、雪の量は増える一方だ。止む気配は一向にない。こうなれば、歩く走るかの問題ではない。旅の脚すら鈍くなるし、暖房がほんのり利いている車内に、外気の寒さがひしひしと伝わってきそうだ。ひとりでに飲んでいる緑茶も温くなってきた。
 此処で一首。
 山見れば冬を隠せぬ伯備線山の頂雪は降りける

 かし、根雨(ねう)を過ぎると、灰色の空の切れ目が大きくなってきて、青空が見えるようになってきた。それも、また灰色に戻ることなく。私の微かな願いが通じたのかも知れない。
 早速、気合いの入るCDでも聴いて、鋭気を養おうではないか。米子は晴天だろう……。まずは、アントニオ猪木氏のBGM「INOKI-BOM-BA-YE」を数回聴いた。氏の力強い闘志振りが我が身に染み入り、これからの旅行を張り切っていこうとする気が高まっていく。次にディスコで有名な「ジンギスカン」をこれもまた数回聴いた。弾みのあるサウンドが興奮を誘い、晴れ間と相まって、今までの憂いを軽い物に変えていく。気分が良くなってきた。
 伯備線の終点、米子に着いた。やった。晴れている。鋭気満点だ! 思わず笑った。
 此処で東京では見られない気動車の特急列車を見付けた。少し得した気分だ。
 此処のホームにある立ち食いそば屋のお婆ちゃんに手を振った。お婆ちゃんが手を振って、乗客を見送っていたから、冗談半分に振ってみたら、何と私に返ってきたのだ。期待外の嬉しさだ!
 いい旅確定だ!



(2003年3月8日) 一畑電鉄で出雲大社へ……



 雲市に着いた。10時4分着だから、12時間位乗車した事になる。随分長かったなぁ。
 出雲市駅は大社を象った駅舎が印象的だ。かつて、出雲大社の最寄り駅はJR旧大社線の大社駅だったが、平成2年3月に廃線になって、JRでの最寄り駅は此処出雲市駅になってしまった。だから、普通の駅舎では素っ気ないので、印象的な駅舎にしたのだろう……。
 天候は雨は降っていないが、ドンヨリした曇りだ。油断出来ない。鞄の底に押されている折り畳み傘を上に引き抜いた。
 て、出雲大社に参詣するか……。バスの時刻を調べた。しかし、私は時刻云々よりも料金の方が気掛かりだった。480円也。ちょっと高めだな。それでは、隣の一畑電鉄で行くとするか。と、電鉄出雲市駅に入り、料金表を見ると、これも480円。同額ならば列車で行こう。私の脚は躊躇いもなく、一畑電鉄に向かった。定刻通りに行けるからね。
 電鉄出雲大社前までの切符を買った瞬間、出発時間が近い事に電光掲示板で気付き、急いで改札を通った。しかし、1分程余裕があるので、この事でも綴ろうか。
「大社ですね。急いで下さいね!」
「判りました!」
「でも、途中で乗り換えて下さいねっ。」
「川跡(かわと)ですねっ。」
「そうですっ。」足早に階段を駆け上がると、電車が待っていた。間に合った……。私の歩調は緩やかになった。切符を仕舞おうとした途端、発車のベルが鳴り響いた。不味い! 私は足早に電車に駆け込んだ。ドアの近くからの駆け込みだ。
 内は東京の電車とは余り変わらないが、沿線上には出雲大社の他に、一畑薬師、出雲ドーム、島根ワイナリー、宍道湖温泉と名所が京葉線なみにてんこ盛りだ。出雲大社に向かうだけに利用するのは、ちょいと勿体ないね。
 途中、川跡で乗り換えたが、山々が近い田園を眺めながら、東京から遠くに来た実感と、出雲大社に対する期待を過ぎらせていた。サンライズエクスプレスは、私を東京からこんな遠い山陰まで、送ってくれたのだから。
 て、川跡だが、すっかり田舎の駅になっている。踏切を兼ねた連絡通路や、線路の傍に生えている雑草が、都会人の私に見慣れない駅に仕立てている。そして、電鉄出雲大社前に向かう「出雲おろち号」も然り。都会で走っていた電車の払い下げのようで、会社印が入っているプレートが、それを証している。見た所、南海電鉄の文字があった。
 鉄出雲大社前に着いた。田舎の終着駅はホームと駅舎が直結していて、周辺が民家の畑だったり、庭だったりする。そして、駅長らしい五十路のおじさんが切符を回収している光景は、恐らく都会では見られないだろう……。駅構内も凝っている。暖房もエアコンではなくストーブを使っているし、それを取り囲む座布団付きのベンチは、見た目でも暖かそうだ。ドアにはステンドグラスを使っていて、駅舎自体も欧風の田舎の民家のようでオシャレだ。でも、駅舎と認識するには、見落としそうだ。

 上は出雲大社を象ったJR出雲市駅駅舎。
 中は一畑電鉄の「出雲大社」号。
 下は駅舎には見えない電鉄出雲大社前駅駅舎。



(2003年3月8日) JR旧大社駅




 的のJR旧大社駅は、電鉄出雲大社前駅から南に歩いて、600メートルの所にある。駅舎も線路も残されていて、大社町(現 出雲市大社町)の宝物となっているので、鉄道ファンの私はどうしても行きたい所だ。
 R旧大社駅は黒い瓦を敷き詰め、ガッシリとした天守閣の正門如き威風を保つ建物だ。駅前は広くなっていて、極最近まで(平成2年3月)、此処にJR大社線が走っていた事が判る。そして、その威風に圧倒されたのか、風雨は小雨になっていた。私は吸い寄せられる如く、駅舎に入った。
 このJR旧大社駅は、かつては東京・名古屋・大阪からの参詣者を運ぶ寝台特急や急行で栄えた駅で、構内には和洋折衷のシャンデリアや大社界隈の旅館を紹介する看板、出雲大社のポスターが(なんと、JR旧大社駅の構内を写したポスターもあった)廃線当時のままで保存されている。しかし、旅館紹介に載っている旅館やホテルは、もう数軒無くなっているのだろう。此処から十数年の時の流れを感じ取れる。切符売り場は各々の駅までの切符が区別されていて、自動化に流されていない昔ながらの硬券を利用されていた事が判る。
 改札を抜けると、そこには平成2年のJR大社駅があった。平成2年か……。私がまだ小学生の時だな。あれから十余年、何一つ変わらず、此処に在りし日のJR大社駅がある。出口の看板や駅名板も残されていて、この町の財宝である事が判る。線路の上を歩いてみた。かつてこの上に大都会からの直通列車が停まった所だ。屋根が無いプラットホームに降り立った参詣者は、構内のレトロな雰囲気に、長旅の疲れを癒したのだろう。
 そして、線路を辿ると、ホームの終わりと一緒に線路が切断されていた。平成2年のJR大社駅は此処で終わり。目で先を辿ると、平成15年の道路が連なっていた。恐らくあの道路が、JR旧大社線なのだろう……。時間があれば辿ってみたいが、レンタサイクルが無かったので、ただジッと道路を眺めて、栄光のJR旧大社線を思い浮かべていた。

 上は旧大社駅の駅舎。
 中は重厚な造りの駅構内。
 下はホームと旧大社線の軌跡。



(2003年3月8日) 出雲大社



 雲大社。伊勢神宮同等の由緒正しき神社だ。10月には、日本各地の氏神様が此処にお集まりになるらしい。それ故、出雲地方では10月は「神無月」ではなく、「神有月(かみありづき)」となっている。
 出雲大社か……。(関東から)距離上難無く行ける所ではないので、伊勢神宮に行けるようになっても、何時かは行きたいなと思っていた。
 玉砂利の道を歩いて、拝殿に向かった。拝殿の前には青銅製の鳥居があって、伊勢神宮とは違う荘厳さを醸し出していた。伊勢神宮はご神木(桧だったか?)で鳥居を造るのに対し、出雲大社は青銅で造っていたとは。やはり、「所変われば」だ。
 賽銭には「始終御縁」を祈って、45円を入れたかったのだが、10円玉が2枚しかなかったので、「何時までも御縁」のつもりで55円を入れた。もし過足なら、35円を入れた人に10円差し上げて頂戴な。拝殿には、供物が供えられていて、如何にも由緒ある出雲大社を証しているのだが、神は供物と知らず雀が米俵から零れた米粒を啄んでいた。
 此処で一句。
 雀来し供物の米に大社かな

 て、この出雲大社は天上の高天原から地上に降臨した、大国主の子供の健御雷神(たけみかづち)が、国を譲られた条件として、造られたそうだ。縁結びや福を呼ぶ神として篤い信仰がある。実は、健御雷神のお庭に入れる「おにわふみ」という儀式があるのだ。標識には「失礼の無い服装で、お願い致します」と出ていた。別に失礼な点が無いので、近くの神職に尋ねた所、
「正装でないと入れませんよ。」と答えが返ってきた。
「正装って、背広とか羽織袴とかですか?」私は正装の意味が判らない程馬鹿ではないが、一応尋ねてみた。
「ウ〜ン、羽織袴でなくてもいいんですけど、一応背広を着用しないと、入れませんね。」どうやら、若者が嗜む服では、案内出来ないようである。考えてみれば、そうだよな。仮初めにも、健御雷神のお庭だ。誰でも気楽に入れるなんて、とんだ了見違いだ。今度来る時は、ビシッと背広で参詣するとしようか……。
 此処で一首。
 恋実り大社訪ねる姿を見流れ流れの我が身を嗤う

 は、拝殿の左にある神楽殿を参詣した。此処には大きな注連縄(しめなわ)があって、その隙間や切れ目に小銭を投げて填める風習(?)があるのだ。出雲に親戚が居る元上司が教えてくれた。参詣者は小銭を投げて填めようとするが、これが上手くいかないのだ。チャリンと小銭の音が神楽殿に響いている。この音も神楽の一つなのだろうね。しかし、諦めずに投げている参詣者もいるので、御利益灼かに相違ない。私も(「御縁」を担ぐ意味で)5円玉でチャレンジ。しかし、藁に当たってなかなか填められなかった。1回で出来る人はそういない。2回目も失敗。そこで、3回目は利き腕の左腕で、下手投げで投げてみた。まるでアンダースローだ。それっ! 見事、切れ目に挟まった。思わず、ガッツポーズを取った。おまけに小雨は止み、晴れ間が見えている。
 此処で一句。
 注連縄に五円投ぐ音霰かな

 上から出雲大社の鳥居、拝殿、神楽殿。



(2003年3月8日) 島根ワイナリー


 外に知られていないが、島根県は中国地方で最も葡萄生産量が多い県なのだ。これから行く島根ワイナリーは、製造工程や貯蔵タンク、熟成樽が間近に見られる他、何と、此処で製造されるワインの試飲も無料で出来るから、飲兵衛にはたまらない所だ。
 を降りると、民家に細い路地が連なっていて、自然に島根ワイナリーへの道標を果たしていた。しかし、ワイナリーへの道順を細かく知らない私は、大社の農家の日常を目の当たりにしながら路地を歩いたり、厚顔無恥にも農道を通ったり、何を作っているのかなとビニールハウスの入口を覗いてみたりして、ワイナリーを目指した。その内、川の向こうにオレンジ色の屋根の建物が見えてきた。周りから見てもその存在感は、群を抜いている。あれだろう、きっと。私は川に沿って歩いてみると、2車線の道路に差し掛かった。ワイナリーは左にあった。看板もあるから、絶対あれだろう。看板が指し示す方向を歩いていると、周りは休閑中の葡萄畑で、民家は殆ど見掛けなかった。時折、観光バスが対向側からやってくるが、多分ワイナリーから発った人だろう。きっと美味しいワインを買っていたのだろう……。よぉし、私も負けるものか! 私は一つ土産が確保出来たなと確信し、ワイナリーに向かった。
 私はワイナリーの駐車場を横切って、ワイナリーに入った。それにしても、結構人がいるな。
 インの製造工程を見た後、次は無料試飲コーナーに入った。空は雨の気配すらない良い天気だ。杓でワインを掬って入れ、香りや口当たり、後味を娯しみながら、チビチビ啜る。辛口ワインは後から苦み走った酒精が来るので、1杯で終わりにした。フルーティーなのは無いかな。白もロゼも赤も7種類一通り飲もうではないか(試飲出来るのは、7種類のワイン)。
 (個人的意見だが)「葡萄神話」は神話の宝庫出雲に相応しい名前だが、口当たりはややきつめだ。酒に強くない私には、そう飲めそうにもない。顔が赤くなり始めた。葡萄ジュースで酒精を薄めて、今度は「島根わいん」を頂こう。「ワイン」を平仮名で「わいん」としている所が、何とも洒落ている。味の方はさっきのと比べて、口当たりがまろやかで飲み易い。此処で私は土産にワインを送ろうと思い付き、同じワインを何度も試飲したり、有料試飲カウンターで、「阿国の舞」という口当たりが軽く仄かに甘いワイン2本と、葡萄ジュース3本の宅配を頼んだ
 此処で一句と一首。
 黄昏れて紅葉彩り舞ふ風船
 黄昏に響く子供の喜々の声約束交わす帰路の訪れ
(同年11月3日に訪れた時の短歌です)

 上は島根ワイナリー。
 下はワインを醸造する木の樽。



(2003年3月9日) 旅先での松江城



 江郷土館「興雲閣」は、松江城内にある。明治天皇の御巡幸の為に建てられたロシア宮殿風の建物だが(日露戦争の為、御巡幸は果たせなかった)、松江に関する資料が展示されている。此処で興味深いものがあったので、此処で紹介させて頂こう。
 まずは松江城の写真だ。それも明治初期の写真だ。写真には松江城が写っているが、よく見ると城壁や壁の綻びが酷く、屋根瓦も崩れ掛けていて廃墟にも見える、或る意味おぞましい写真だ。
 次に書物だ。特に私が関心を持ったのは、『不求栄不招辱』だ。『不求栄不招辱』は要約すると「(余分な)栄光を求めなければ、屈辱を招かない」で、「見栄を張るな」という戒めだ。役に立ちそうだ。そして、松江の偉人コーナー。私は必ず、ラフカディオ=ハーンがあると薄々感付いていたのだが、やはりあった。此処ではもう外国人のラフカディオ=ハーンではなく、日本人の小泉八雲として扱われていた。
 天に5層6階の天守閣、松江城。本当は晴天の方が良かったのだが、天候が言う事を聞いてくれないので、渋々写真に収めた。実戦向きの城で、入口の奥には兵糧を備えておく為の石室や大井戸が残されている。城の中に井戸とは驚いたな。しかも移した遺物は無く、当時のままで残されているのが、歴史好きの私には嬉しかったな。
 2階に上がると、隅に面白い物を見付けた。幅広い穴があり、そこから下が覗けるのだ。これは「石落とし」と言って、石垣に近付く敵に石を落としたり、熱湯を流したりして侵入を防ぐ穴である。しかも、外部から見付け難いのもお見事。その他にも、今昔の松江の街並みを再現した模型、松江の歴史を描いた屏風、実戦で使われた刀剣、槍、鎧兜、中には柄が途中から折られている槍もあって、なかなか興味深かった。
 それから3階、4階と上に上がっていったのだが、それにしてもまぁ、天守閣の階段の急な事! 松本城の階段も急だけど、改めて登ってみると、手すりがどうも必要だね(特に降りる時は)。運動神経の良し悪しは別として。左肩に鞄を掛けているとしたらバランスは悪いし、おまけに照明も暗いし、足許に気を付けないと、滑って転げ落ちてしまう。急だから、痛そうだ!
 上階6階は、松江市街が一望出来る展望台になっていた。松江市街は勿論、宍道湖に松江温泉、山の彼方には出雲市や玉造温泉も見えそうだ。しかも、フェンスが無いから、開放感一杯だ。私の眼前には宍道湖が広がっていて、穏やかな湖水を湛えていた。でも、天気の方が雨がパラついていて、爽快感が満たなかったが、晴れていたら遠くまで眺められて、気持ちいいだろうなぁ……。
 松江城を出ると、雪が降っていた。しかも、雨混じりではないので、鬱陶しさはそんなに無かった。車の騒音もそんなに聞こえず、静かな松江城に知らずして雪が降るのは、騒々しさが無く、ハーンが讃した「神の都」に相応しい光景だ。
 此処で二首。
 紅と白塩見の土塀の梅の花不昧の城に雪は降りける
 雪降りし塩見縄手の梅の花知らば伝えよ桜の咲く頃

 上は興雲閣。
 中は松江城。
 下は松江城天守閣からの眺望。



(2003年3月9日) 塩見縄手を歩いて



 は使い慣れない折り畳み傘を広げて、松江城の北、武家屋敷が多く点在し、藩政時代の名残を残している塩見縄手(しおみなわて)を歩いた(因みに、ハーンが住んでいた家もこの近くにある)。城の堀には観光舟が静かな雪を愛でながら、ゆっくり進んでいた。しかし、使い慣れない折り畳み傘を差して歩くのは、鬱陶しさが先に立ち、逐一鞄に積もる雪を払いながら、松並木が続く塩見縄手を歩いていた。堀の舟の風流を羨む気力はなかった。その内、雪は霰(あられ)に変わったが、舟はそんな天候を当然のように受け止めながら、堀を進んでいた。気紛れに慣れているのか……。
 此処に武家屋敷が1軒あるので、入るとするか。松江藩の中老塩見家の屋敷だ。丁度、松江城で買った共通券もあるしね。霰は何時の間にか止んでいた。
 を潜って玄関に向かうと、端の盛られている砂に気を取られた。目の粗い砂で、大方掃除で掃き集められた砂かと思っていたが、実は急用で刀が要る時に、この砂に刀を突き刺して研いだそうである。しかし、天下太平の江戸時代、そんな刀が要る時はそんなに無かったと思う。戦国時代ならば判るのだが……。
 屋敷には松がある庭園や仏間、風呂にお手洗いが当時の姿で残っていた。或る部屋には、蝋人形で役人と打ち合わせをする塩見小兵衛の姿、丸鏡の鏡台、白粉(おしろい)、簪(かんざし)、又既婚の妻女が使うお歯黒等の奥方の道具も展示されている。又、塩見家の屋敷の右隣には、中間の部屋を成している長屋があって、武家屋敷が一種の共同体である事を改めて知った。私のような単独行動派には息苦しそうだが、広さも見た所、15人もいたら一杯になりそうだ。とても、私には住めそうにもない。最も、中間の身分も私には出来そうにもない。流れ流れの旅烏だからね……。
 処のお休み処で一服した。私は(名前は忘れたが)抹茶ゼリーにアイスクリームと粒餡と白玉団子が乗っているデザートを頂いた。そのデザートが届いた時、店員曰く。
「抹茶ゼリーは砂糖が入っていませんので、アイスクリームか餡をくるめて召し上がって下さい。」普通抹茶系のデザートは、苦みを逸らす為に砂糖を入れるのが多いのだが、本格的だね、コリャ。お手前のようだな。私は言われた通り、アイスクリームと抹茶ゼリーを絡めて頂いた。抹茶の苦みとアイスクリームの甘さが上手く調合して、上品な苦みを醸し出している。ゼリーはスポンジ感触で、軟らかくて軽かった。次に粒餡を絡めて頂いてみた。抹茶の苦みでは餡の強めの甘さを抑え切れず、却って餡の甘さに物足りなさを感じてしまった。まぁ、甘いものは好かない私にとっては嬉しいデザートだが……。そうだ。試しに抹茶ゼリーだけで頂いてみたが、無論苦かった。
 外は、何時の間にか晴れていた。
 処松江を「神の都」と讃し、日本文化を世界に紹介したラフカディオ=ハーンこと小泉八雲。日本文化の奇想天外の面白さに興味を持ち、39歳で来日し、地元の尋常中学校、師範学校の英語教師に就任した人物だ。しかし、松江の風情と人情が殊の外気に入り、此処で伴侶を得た事は深入りしないと判らないだろう。最も、松江に行って、この旧居を覗かなくては、納得しないだろう……。
 この旧居には、ハーンの面白いエピソードが詰まっている。布団で寝る事に慣れず、幾重にも重ねてベッドに仕立てたり、池の蛙が縁台の下の蛇に食べられては気の毒だと、食事の肉を蛇に分けたり、3つの庭が眺められる部屋がとても気に入って、好きな銘柄の煙草を吹かして客人を招いたとか、更には、松江の大雪や冬の寒さに耐え切れず、2年足らずで松江を去ってしまったとか(その後、神戸や熊本にも赴任したが、急激な近代化を図る都市に合わなかったエピソードもある)、苦笑混じりのエピソードがあって、ハーンの五感が感じられそうな雰囲気がある。しかし、この2年足らずの期間で、ハーンは日本文化の何を見いだそうとしていたのだろうか。残されている庭園から、「わびさび」の日本古来の伝統に心を奪われていたのかも知れないし、日本の昔話から、日本人に埋め込まれている不変のDNAを探ろうとしていたのかも知れない。

 上は塩見縄手。
 中は松江藩の中老塩見家の屋敷門。
 下は小泉八雲旧居。



(2003年3月9日) 宍道湖遊覧船




 は、雲一杯ながら隙間から青空が顔を出している。出雲に帰るまで続いて欲しいな。もう雪は勘弁して欲しい。
 船の到着を、懐中時計を見ながら待ち続けた。
 しかし、此処松江は本当に静かな都市だ。松江駅に近い遊覧船乗り場でも、車の騒音もさほど聞こえないし、東京新宿のようにけばけばしい店や雰囲気も無い。「神の都」に相応しい穏やかな都市だ。日曜という事もあるが、本当に穏やかな都市だ。
 そう感心した時、右側から白い遊覧船が見えてきた。やっと来たか。遊覧船は軽いエンジン音を発しながら、乗り場に接岸した。私はヒョイと遊覧船に飛び乗った。
 覧船の中は座敷になっていて、小さなカウンターもあり、飲食出来るようになっている。しかも、運転席は客室と一体になっていて、難無く360度眺望出来るし、親近感があるのもいい。どうやら、乗客は私一人らしいな。宍道湖の魅力を独り占めだ。そんな浮かれ気分になって遊覧船は出発した。本当は、麦酒を啜りながら、景色を堪能したい所だが、下手して船酔いしたくないので遠慮した。その代わり、窓を開けて直に魅力が判るようにした。
 覧船は水飛沫を揚げながら、松江大橋に向かっていた。この松江大橋の欄干は、江戸時代の造りの唐金の擬宝珠(ぎぼし)で飾られていて、神の都に相応しかった。しかし、この橋は大雨や洪水でよく流されたそうで、江戸時代に新たにこの橋を造ろうとしたのだ。所が、二度と災難で流されないように、人柱となる人を探していた(一種の生贄)。ある朝早く、橋を架ける所を偶々通り過ぎた源助という若者が選ばれ、一番流れが速い所に立てられる支柱の根本に埋められたそうである(近くに、源助を弔った「源助碑」がある)。一体、彼の心境はどうだったのかは判らないが、彼が人柱となり新しい橋が架けられた以後は、流されることなく、幾多の改修工事を経て現在に至っている。源助の神通力が今でも効いているのか、理不尽な死から来た呪いなのか……。
 次に印象に残っているのは、江戸時代に建てられた石製灯台だった。移築されたものの、江戸時代でも重要な産業を担ってきたのかがよく判る。
 そんな松江城下と宍道湖の切っても切れない魅力を写真に収めようとしたが、飛んでくる飛沫に驚いて、思わず窓を閉めてしまった。いい景色があるというのに……。
 道湖の周りには松江の街。遠くには玉造温泉があり、その奥には中国山地が雄大に聳えている。山地で暮らしている人達にとって、宍道湖は手軽に海の幸が味わえる貴重な存在だ。撮りたかったが、飛沫が飛んでくるから渋々控えた。窓から撮っても悪くはないが、窓が汚れていては台無しになるし、どうも仕切られていて、近くにある物が遠くに見えてしまう錯覚が出来てしまう。
 て腐れそうになった時、遊覧船は小島の近くを走った。嫁ヶ島だ。これも悲話が残っている。宍道湖の辺に住んでいた娘が、最愛の人がいたのにも拘わらず、松江城下の商家に嫁がされたのだ。しかし、その商家が左前になり、娘は次第に心労を募らせ、ある冬の晩、父母の許に帰りたいと決意した。氷の張った宍道湖を渡れば近いという事で、無謀にも氷の上を走って渡った。所が、氷の薄い所を踏んで、氷が割れてしまい、娘は溺死してしまったのだ。翌日(娘が嫁いだ所)袖師ヶ浦の住民は宍道湖に小島が浮かんでいるのに驚き、娘が帰りたい経緯を汲んで、「嫁ヶ島」と名付けたそうである。夕暮れの嫁ヶ島の眺望は絶景だそうだが、一度観てみたい物だ。
 て、遊覧船は松江温泉に向かって進んでいた。神の都のもう一つの顔だ。昭和46年に開設した松江温泉。勿論、ハーンが訪れた形跡は無いが、旅館やホテルが林立している。温泉に大した関心の無い私は、窓を開けて湖の向こうの温泉街を撮っていただけで、日帰り入浴しようかとも考えていなかった。しかし、翌日に思いも因らぬ事で、温泉に開眼してしまった事は知る由も無かった。

 上は松江大橋と石製灯台。
 中は嫁ヶ島。
 下は松江温泉郷。



(2003年3月9日) 恋路の八重垣神社


 「雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣造る その八重垣を」は歴史でも有名な和歌だ。そう、八岐大蛇を退治した素盞嗚尊(すさのおのみこと)が喜びを表した和歌である。何と生贄から救われた稲田姫命が彼の勇敢さに心惹かれて、新居として構えたのが、松江郊外にある八重垣神社である。本当に出雲は歴史考証が一杯ある。出雲大社、八重垣神社、風土記も完璧に残っているのも出雲だけである。歴史好きにはたまらない所だ。
 て、歴史好きの私は、八岐大蛇伝説を探るがてら、恋の行方も探る為、松江駅からバスに乗って八重垣神社に向かった。八重垣神社への道は東西ルートがあって、東ルートの方が近いのだが、料金は両ルートとも同じだ。今回は西ルートで回った。
 休閑中の畑を眺めていると、眼前に森が見えてきた。その手前にバスのロータリーがあって、回送の方向幕を出しているバスが1台停まっていた。「此処かな?」と思っていた矢先、アナウンスが八重垣神社と言った。歴史が深い割には、厳かな雰囲気は無い。近所の子供達の手軽な遊び場みたいだ。しかし、その子供達は此処が縁結びに絶大な効果がある神社だという事は知っているのだろうか? まぁ、恋愛に苦しむ時が来る事を知らない内が華だろう。彼女を作りたい願望が強い私にとっては試練の神社だ。鳥居を潜るにも妙な度胸が要る……。
 ずは本殿を参詣しようと真っ直ぐに進んだが、工事中の幕が本殿を覆っていた。全く似合わないね。しっとりした神社に白の工事中の幕程、ド派手に見える物はない。今年の9月に改修が終わると出ていたので、機会があれば来るとしようか。
 本殿右の仮本殿を参詣し、女性に人気のある「縁結びの占いの池」に浮かべる占い用紙を買った。石で押さえられている占い用紙に、ウッスラと白く文字が書かれてあったのだが、一番上のを取ったりすると、すぐに結果が見えてしまって、面白くない。お神籖でも、掻き回して取るのと同様、中から目を反らしながら、取るのが一番いいのだが、中が見えないようにして持たないと、興醒めしてしまう。知らない内が面白いからね。観光客の足跡を追いながら、本殿裏の鏡の池に向かった。此処にも出雲大社で売られている「縁結びの糸」があった。一体どちらが効果覿面(てきめん)なのかなぁ……。まぁ、物は試しだ。此処でも買っていくか。
 殿左には細い道が続いていて、石段を下りて砂利道を少し歩くと森に入る。さて、鏡の池は何処にあるのか。パラパラ続く参詣者と、自然に出来た森の道を通って、鏡の池に向かった。道を辿れば着く筈だ。これは多くの参詣者が訪れた証拠でもあり、多くの縁を結んだ灼かな証拠でもある。
 さて、私の紙には何が書かれているのだろう……。
 昼も尚暗い鬱蒼(うっそう)とした森の中に、底まで澄み切っている池があった。底には占い用紙と沈ませる為の10円玉や100円玉が溜まっている。此処が鏡の池だろう。鏡の言われ通り、本当に澄んでいる。見ているだけでも、咽喉を潤せそうだ。参詣者が次々に用紙に10円や100円を乗せて、浮かべている。それが夫婦だったり、若いアベックだったり、女性グループだったり、春を求める旅人だったりと占いの結果に悲喜交々ある。早く沈むと良縁に恵まれ、遅いと縁遠い。又、近くに沈むと身近な人と、遠くに沈むと遠方の人と結ばれるそうだ。
 早速私も10円玉を乗せて、池に浮かべた。すると濡れて透明になった用紙に、白い字がクッキリと出てきた。「開運の兆しあり 西と南吉」と浮かんできた。納得行くね。西と南は結構行くし、現にも東京の西と南の方を旅しているのだから。
 私が浮かべた用紙は、浮かべた所に留まったままだ。後は沈む時間だ。参詣者が次々と浮かべている中に、自分が浮かべた用紙をジッと眺めて、縁結びの行方を探っている旅人がいた。今年は何としてでも、目に見える幸福を掴みたい。出雲大社や八重垣神社を参詣したのだから、効果が現れればいいのだが……。しかし、現にその幸福が眼前にある事を知らずして、貪欲に幸福を探し求めているのだから、気苦労は絶えない。
 そう思いを過ぎらせていた時、私が浮かべていた用紙が沈んだ。時間は約9分。と言う事は、近場の人と良縁に恵まれているのか……。チャンスだな。
 私は占いの結果に軽快な鼻歌が出て、足取り軽く鏡の池を後にした。
 内の砂利道を歩いていたら、夕陽が沈み掛けていて、松江で過ごした一日が終わろうとしていた。しかし、今日一日が長く感じたな。何時も同じ動作の繰り返しで、時間があっという間に過ぎていき、家に帰っても何する事もなく、無駄に過ごしているだけの生活に慣れている所為であろう。今日は朝早く列車に乗って松江に行き、松江城の最上階で市街を眺めたり、小雪の中の塩見縄手を歩いたり、ハーンの足跡を辿りながら、我々日本人に失い掛けている「わびさび」の魅力を再認識したり、宍道湖遊覧船で宍道湖からの市街の眺望に感嘆したり、八重垣神社での縁結びの結果に心を躍らせたりして、同じ動作は殆ど無かった。こういう変化に富む時間が、少しでもいいから欲しいね。やはり「旅」は、五感と喜怒哀楽を奮起させるにはもってこいの文化的趣味だ。こんな趣味を得た私は実に幸福者なのかも知れない。その幸福があるからこそ、今日まで生き延びているのだろう。あの失望し掛けた高校生活を救ってくれたのは間違いなく「旅」だから。
 八重垣神社から松江駅へ、今度は東ルートでバスで戻った。運行ルートを見たら東ルートが近いのだが、料金が同じのを見ると、さほど距離の差は大きくないな。バス停が少ないのだろう、それだけに、松江駅に着いたのが、早く感じた。

 上は八重垣神社(写真は2003年当時の仮本殿)。
 下は縁結びの占いの池で見た、占いの結果。



(2003年3月9日) とんかつマーチ

 車で出雲市に戻った。進行方向が西だから、車窓から夕陽が差し込んできている。
 丁度、松江を発った時間が帰宅時間と同じだから、記憶された体内時計がこの旅行でも動いている。昼間の疲れがドッと来たのだ。私は窓框に頬杖を突きながら、出雲市到着を待っていた。しかし、宍道湖の夕陽は絶景を謳われていながら、私はうっかり、その絶景を車窓から見ずに行ってしまったのだ。松江での出来事が一杯あり過ぎて疲れてしまったのか。それとも、欲張らず次回の娯しみに取っておいたのか。いや、天気が晴れたり雪が降ったりして滅茶苦茶な天気に翻弄されたので、夕陽は不測の事態だったのか。何れにせよ、この松江での出来事は、計画変更したお陰で濃厚で有意義だったな。今度来る時は、松江で宿を取って、駅界隈のバーで一服して夜の松江を堪能したいね。ガイドブックにも結構シックなバーが点在していると出ていたが、宿泊地が出雲市だとそうはいかない。終電が早いからだ。そして、もう一つあるのだ。何を言いたいかは、この後で話そう。少し休ませてくれ給え。東京では珍しい裏白の切符を再三眺めながら。
 雲市に戻った私は、昨日見た駅周辺のグルメマップを広げて、何を頂くか検討した。今日はよく歩いたし、スタミナが付きそうな食べ物がいいな。そう思い、目で字を追っていると、「とんかつ」の欄に目が止まった。久しく頂いていないな。あるとすれば、カツ丼だろう。そう思い、私はコートを羽織ってフロントに行き、所在地を調べた。今回は何と、目と鼻の先の距離にあって、行き易い所だ。
 私は夕闇の中を歩いて、目的のトンカツ屋に入った。何でも、ボリューム満点で、千切りキャベツがサービスで出されるらしく、地元でも評判のいい店なのだが。どんな店なのかな? ホテルが自信持って勧めているのだから、余程旨い店と見た。
 を見付けた。格子戸を開けると、黒のタイルを敷き詰めた床に、木の温もりを伝えてくれる着色していない綺麗なカウンターと座敷が、上品さを醸し出している。座席は満席で、とんかつやフライを抓みながら談笑を交わしていた。10席程あるカウンター席も半分近く埋まっていて、カラリと揚がったとんかつを旨そうに頂いていた。チラッと見たら程良い厚さがある、期待度が上がる。
 私は空いているカウンター席に座った。丁度、私の眼前では、流暢にキャベツを千切りしている威勢のいい店主(かな?)がいて、厨房で働いている調理師達を指図しながら、応対していた。
 品書きを見て、(ご飯と味噌汁付きの)ロースカツセットと、イカバター焼きを頼んだ。イカバター焼きは、ロースカツができあがるまでのちょっとした酒肴として注文したのだ。
 ゆっくりお茶を啜りながら、出来上がりを待った。
 厚切りのロース肉に小麦粉をまぶして、卵黄に浸してパン粉をまぶして、熱した油でサッと揚げる。特に、小麦粉まぶしからパン粉まぶしまでの作業は見物だ。バレエの音楽が掛かっているかの流れる如く。また、店主の元気の良さが店員達にも伝わっていて、仕事自体を娯しんでいるかの如くだ。
 そんな娯しい店の雰囲気に浸っていた時、私の右隣に中高年夫婦が座った。男性はグレーの背広を着ていて、白髪混じりの髪だったが、店主から「先生」と呼ばれたり、品書きには無い刺身盛り合わせが出てきたりしていた。政治家なのかな? 妙な息苦しさに襲われた。上品に振る舞わなければ失礼だが、変に緊張してはとんかつの味が判らなくなるから、此処はお茶を啜りながら気を静めるとしよう。
 初に来たのは、酒肴とした頼んだイカバター焼きだ。胴を幅1.5センチに切り分け、バターでサッと焼き焦げを付けた一品だ。700円の割には少なめで、夜店で出される姿焼きの形で出された方が、若者には満足するのだが。しかし、バターとイカの仄かな甘さがイケていたので、一応満足だ。否、満足するには、この後にくるロースカツセットを頂いた後が適切だ。
 径25センチの大皿に、厚みあるロースカツと綺麗な千切りキャベツがどっかと載った一品が出てきた。お隣さんは、どんな目で見ているのかな? 「こんな厚いロースカツを頂くのか。若いっていいねぇ」と羨んでいるのかな。そうだとしたら、この旅烏が少し優位に立てたかな。まぁ、どうであれ、ホテルお勧めのとんかつ屋のロースカツを頂くとするか!
 頂く前に、もう一度ロースカツを見た。厚みあるロースカツに山盛り千切りキャベツ。お代わり自由の千切りキャベツだが、キャベツだけでも充分にご飯が頂けそうだ。
 満遍なくソースを掛け、いよいよ左端のカツから頂こう。
 サクッとした衣の中に、程良く柔らかさがあるジューシーなロース肉の旨さが来た。しかも、衣がすぐに剥がれず、二つの感触が味わえる。大当たりだ!
 今度は、千切りキャベツだ。これをソースに絡めて頂く。歯応えがよく、シャリシャリとした感触は食欲増進を促し、2口目のロースカツに箸が進む。そのロースカツが旨いから、また千切りキャベツに箸が進むのだ。最高の相乗効果だ。
 さて、此処で味噌汁でも頂くか。宍道湖の近くなので、蜆の味噌汁だった。箸で実を押さえて、徐にキューと啜った。凄いコクがあって、すぐさま五臓六腑に染み渡ったが、後味が口中にも喉にも残っていて、余韻でも娯しめる。もう一杯頂くか。お代わりを頼むと、大きい鍋から温かい味噌汁が汲み出され、私に差し出された。大きい鍋を見てしまうと、「無尽蔵に頂いて下さい」と言わんばかりだ。庶民の定番とんかつを頂きながら、贅沢が娯しめるとは……。
 ロースカツを一口頂き、千切りキャベツを多めに頂く行為を繰り返していると、ソース浸りの千切りキャベツが目立ってきた。すると、店主が新たに千切りキャベツを盛ってきた。頼まれてもいないのに、と思っていたら、ロースカツが多くあったので、バランスを見て盛ってきたのだ。この店は、そういう気遣いができるのか。味と同時に、客の様子を窺って、バランスよく頂けるように気遣いをしているのだ。拍手を送りたくなってきた。しかも、サービスだから、有り難く頂くとしよう。
 また、盛ってきた千切りキャベツにソースを絡めて頂く合間に、ロースカツを頂いた。そして、蜆の味噌汁をキューと啜る。満足感一杯の溜息を吐き出した。昨夜頂いたコシの強い出雲そばも旨かったけど、明日の活力付けには何とも贅沢な夕餉だった。



(2003年3月10日) アクアライナー



 を見れば、2日連続の曇天で、何時雪が降るか晴れるか判らない。責めて晴れて欲しい物だな。気紛れ天気に願っても叶えられるかどうかは、「?」だが。妙な鬱陶しさが胸中に広がっていく。曇天の所為だろうか? そんな鬱陶しさを拭うべく、駅に入る前に駅と併設されているパン屋で、カレーパンとフレンチトースト、そして豪快にフライドチキンを買って、ホームに立った。
 出雲市駅の高架ホームから遠くを眺めれば、所々に淡い青空があるが、私の所には来そうにもない。
 今日は石見の津和野に寄って、周防山口の湯田温泉に泊まる。津和野は芸術の薫りが町中に誇る山中の町だ。湯田温泉は詩人中原中也の故郷で、一目見ようとコースに入れたのだ。責めて、遠くの青空が此処にも来て欲しいなと、列車を待つがてらぼやいていた。
 そう思っていた途端、粉雪がホームの端に降ってきた。咄嗟に中に逃げたが、私の表情に険が浮かんだ。津和野は山間の町だが、大丈夫だろうか……。
 粉雪はすぐに止んだが、顔の険しさはなかなか消えなかった。
 クアライナーが来た。中は通学する中高生や通勤するサラリーマン達で混んでいた。出来れば座りながら、益田に向かいたい。空席の様はホームから見た以上見られなかった。しかし、ドアが開いた途端、中高生やサラリーマン達が続々と降りていって、空席が目立つようになってきた。やった。座れる。自然に顔の険しさが無くなり、降車客のキリのいい所を見計らって、乗車した。
 中は十数人の乗客だけで、殆どがお年寄りだった。この中で、私のような旅人は幾人いるのだろう……。
 クアライナーは、曇天の出雲を走り始めた。西出雲との間に、細長いサイクリングロードが大社の方に延びていた。あれが恐らくJR旧大社線なのだろう……。平成2年3月までは気動車が走っていたのだが、その面影は鉄道ファンか地元の人しか判らなくなっている。時間があれば、自転車であの道を辿り、出雲高松、荒茅(あらかや)そして、大社に行きたい。
 さて、景色を見ながら、長旅を堪能していたのだが、天気の方が気掛かりだ。こうなってしまっては、金銭や時間の事は二の次になってしまう。
 儀付近は日本海が間近に見られる。しかし、隧道一つ越えると、民家に遮られたり、山々に阻まれたりして、日本海は向こうへ遠離って(とおざかって)しまう。山陰本線は紀勢本線同様、僅かな平地を縫いながら走り抜けるのだ。もう一度、見たいと思っていても、列車は余所者と侮蔑しているのか、山中を平然と走っている。海好きな私には、鬱陶しさが広がるだけだ。
 その間に、朝餉のパンを頂くとするか。私は出雲市駅で買ったパンを頬張りながら、日本海が顔を出す時を窺っていた。カレーパンは私が嗜んでいるのとは少し違っていた。パン生地に白胡麻が入っているし、油で揚げているのではなく、オーブンで焼き上げているので、油こくなくヘルシーだ。フレンチトーストは黄身に浸した焼き上げたパンが、歯応え充分で食が進んだ。チョコレートソースもイケていた。そして、フライドチキンは油こくなくて、旨かった。やはり朝方頂くなんて贅沢だ。体調がよい事もあって。
 泉津(ゆのつ)に着いた。本当は此処に寄る筈だったが、時間の関係上ご破算になった。実は此処は、昭和49年の『寅次郎恋やつれ』の最初に出た町であって、私が生まれていない時にどんな光景があったか面影を辿りたい気持ちや、行程上寄れる事もあって、是非とも行きたいと計画を練ったが、松江から温泉津に向かうのは、時間が掛かり過ぎるので、ご破算になったのだ。見たのは昭和49年の温泉津だったが、30年近く経った今でも、田舎の鄙びた(ひなびた)駅舎に、駅の近くにある学校も当時の光景とは何ら変わっていなかった。車窓から見ただけで、映画に出ていた温泉街や窯元は見られなかったが、変わっていない光景はふと『恋やつれ』の一幕に出られたようで嬉しかった。此処も機会があれば、立ち寄りたい。天気はまだ曇っていた。
 田に着いた。車庫の壁には「サンライズエクスプレス」の看板があって、そのキャッチフレーズが「動くホテル」と出ていた。特に私が乗ったシングルデラックスは、シングルホテル並みの設備でゆったり出来るし、椅子に座って優雅に麦酒を飲んだり、洗面所で髭が剃れる。
 て浜田を出ると、海の近くを走ったり、隧道を抜けて山中を走ったり、山海の景色両方眺められた。小さな小学校では1時間目の授業光景が懐かしく思えた。あれから20年近く経つのだから、何と時が流れるのは早いものだ。
 手を越えてすぐの、海の近くの魚市場は競りが終わって、空っぽだった。ホームだけの駅では、定年を過ぎた老人が近くに行く為に、列車を待っていた。何時しか晴れていて、胸中に蔓延っていた鬱陶しさが消えた。これで安心して行けるな。
 時刻を見ると、10時近くを指していた。向こうでは仕事の時間だな。でも、今は旅という世界に身を投じ、ゆっくり旅を娯しむ時間だ。しかも平日だ。私は、仕事をしている時間帯の私と今の私を比較し、その甚だしい差に嘲笑しながら、益田到着を待っていた。
 雲市から列車に揺られる事2時間近く、アクアライナーの終点益田に着いた。単調な振動で眠気が差し、一眠りしたかった時に着いたから、分が悪い。10時22分、晴天なり。
 益田駅周辺は、鄙びた商店街が並んでいて、東京では中古台と扱われている機種に平然と「新台」の札が挿されているガラガラのパチンコ屋。センスが古い洋服屋では、色褪せたマネキンの目が不気味に余所者の私を凝視していた。目を合わせただけで呪われそうだ……。駅員曰く。
「駅出入口付近は、再開発地域なんですよ。」納得行くよ!
 両の山口線で津和野へ。
 津和野に着くと、凍みる風に驚いた。待ってくれよ。此処は東京よりも西の津和野なのに、まだ凍みる風が吹いているとは……。まだ、此処にも本格的な春はなかった。
 駅のすぐ目の前、観光客で有名な釜井という土産屋で荷物を預けて、レンタサイクルを拝借して、津和野巡りに行った。
 やはり寒い……。マフラーを締めているのに、北風はその隙間を見て、上着の中に入ってくる。
 吹かれながら一句。
 風寒し弥生も冬か津和野かな

 計を見ると丁度12時。そうだ。昼餉を頂いていなかったんだ。東京でも丁度昼餉時間だからな。頂くとするか……。目に付いたそば屋に入り、好物の天ぷらそばを頂いた。そばの色が黒かった。出雲そばだろう。出来立てだから、天ぷらのエビの熱い事。でも、プリッとしていて、750円はそう高くなかったな、コリャ。

 上は田儀付近の日本海。
 中は(場所は特定できないが)車窓からの日本海。
 下は鄙びた雰囲気があるJR益田駅。



(2003年3月10日) 津和野カトリック教会


 処津和野で有名なのは、森鴎外と西周の故郷、石州和紙、鷺舞と殿町通りの堀の鯉。ちょっと突っ込めば、『寅次郎恋やつれ』のロケ地。しかし、意外にも基督と関係深い地とは初めて知った。
 ンタサイクルを少し走らせて、観光客で賑わう殿町通り沿いにカトリック教会がある。教会は幼花園(幼稚園)と隣接していて、中は畳敷きの和洋折衷。宮津のハリストス教会によく似ている。私は切支丹ではないが、ここに入ったのもきっと神様のお導きに相違ない。余所者異教徒でも、大歓迎と聞こえる。私は十字架に跪き、十字を切って合掌した。こんな旅人でも宜しいのか……。此処で旅の途中で立ち寄った事と、これからの旅路が明るくなるように祈った。
 会の隣には、近くの乙女峠で殉教した切支丹の資料が展示されてあった。幕末に長崎浦上で捕らえられた切支丹が幽閉された乙女峠の説明があった。改宗を強要すべく人間心理に付け込んだ拷問を加えられても決して屈せず、信仰を突き通し殉教した人も大勢いた。しかし、私はそんな切支丹を慈しむ仏教徒の姿に感心した。盛岡という役人だが、拷問で弱り切っている切支丹を哀れに思い、拷問から捕らわれている家族の許に解放し、神の導きを受けた事を家族に告げて昇天したのである。この盛岡という役人は、信仰の自由を心から願っていたに違いない。明治の世になり信仰の自由が保障されると、
「色々な拷問を加えて、本当に申し訳なく思っている。しかし、あなた方は同志達の力を合わせて信仰を守ろうとし、そして、守り通した。私達武士よりも、見事な精神の持ち主です。」と褒め讃えたそうである。これが切支丹に通じた事や、(仮説だが)盛岡がこれに悔いて出家した事までは判らないが、盛岡は切支丹の絆の深さに、武士の荒廃の様を嘆いたに違いない。
 しかし、この資料館をぐるりと回ると、切支丹の篤き信仰が垣間見られる。拷問に耐え兼ね信仰を捨てた人がいたが、それは表向きで、夜中にコッソリと食物を差し入れたりしたそうだ。私が最も心を打たれたのは。モリという6歳の女の子の殉教の話だった。役人が子供の心理に付け込み、信仰を捨てる代わりに甘いお菓子を差し出したが、天国にはもっと甘いお菓子があるからいいと断り、信仰を貫いて衰弱死してしまった話だ。当に、仲間を守りいたわる絆の深さ、何事にも決して屈さない信念の太さに感心した。
 此処で一首。
 乙女とは名ばかり美し殉教の儚き命弔う粉雪

 上はは殿町通りの堀の鯉。
 下は津和野カトリック教会。



(2003年3月10日) 津和野の旧宅巡り




 女峠での切支丹の信仰の篤さで、感慨に浸った後は、レンタサイクルを走らせて、辺に津和野の伝統舞踊鷺舞の銅像がある橋を越えた所、ふと立ち止まった。
 確か、此処は『寅次郎恋やつれ』の舞台だったな(詳細は『寅次郎恋やつれ』を見る事)。あれは、晴れた5月頃だったかな。旅先の食堂で、昼食を頂いている寅さんの所に、町の図書館で働いている、寅さんが惚れた歌子が入ってくる。思わぬ再会に笑みが出る二人だったが、歌子は亭主と死に別れて、亭主の故郷の津和野の図書館で働いていた。その亭主との死に別れの経緯を語ったのは、川辺だった。津和野の川辺と言えば、今私がいる津和野川に違いないだろう……。今から約30年前、此処で寅さんと歌子が、亭主との死に別れの経緯を語ったのだ。そして、今日その作品を見た私が、当時を偲んで、此処に来たのだ……。感慨深い……。その間に、渥美清氏が亡くなって、『寅さん』シリーズは終わって、昭和時代を伝えるよき映画となっている。
 画の断片に触れた後、森鴎外旧宅へ向かった。この辺は観光客向けの石州和紙製作体験が出来る所が点在していて、観光バスが何台も停まっていた。しかし、私は観光バスであちこち移動して、ゾロゾロと移動しながらの観光は性には向いていないので苦笑だけして、森鴎外旧宅前にレンタサイクルを止めて、中に入った。
 目の前に森鴎外旧宅があった。瓦屋根だが、当時は茅葺きだったそうだ。職人がない様が浮き彫りだ。責めて教本でも残して欲しいよ。中は立ち入りご遠慮だったが、中には若き鴎外の写真とご両親らしい老夫婦の写真が掲げられていた。10歳頃まで此処で過ごしたそうだが、上京後は一度も帰郷出来ず生涯を終えている。遺書にも、
「石見の森林太郎(本名)として死にたい。」と綴られているから、その無念さ、故郷への憧憬が読み取れる。
 そんな感傷に浸っていた時、後ろからゾロゾロとバスガイドに連れられて観光客がドッと来た。私は観光客の波に呑まれるのは嫌なので、端に避けてシャッターを切ろうとしたが、邪魔が多過ぎてなかなか押せなかった。しかしまぁ、こんな人達に鴎外の心境を上手く知れる人達は何人いるのだろう……。ただ、『山椒大夫』、『舞姫』の作者と簡単に纏められるだけがオチなのだろう……。
 学者西周(にしあまね)旧居は民家の隣にあった。しかし、細い路地にあるので観光客も殆ど来ない。此処はキチッとした茅葺き屋根だ。特別有名ではないので、私としては立ち寄っただけだが、此処に一つの春を見付けたのだ。庭に淡い黄緑の蕗の薹があったのだ。春の訪れ此処にあり……。
 此処で一首。
 雄雌の鴨が集いし菜の花が咲けど風も水も冷たし

 上は津和野の伝統芸能鷺舞の像と津和野川。
 下は森鴎外旧宅と西周旧宅。



(2003年3月10日) 石州和紙作り体験

 州和紙が丈夫だという事は、ご存じだろうか。それは石見の凍る水で丹念に原料となる楮(こうぞ)や三椏(みつまた)の繊維を洗ったり、熟練した腕で叩いたり粘り気を出しているからである。伝統は熟知と丁寧さが命だ。和紙の色紙や葉書を見ると、どうしても作りたくなってくる事はあろう。此処津和野には和紙作り体験が出来る紙漉き場が一杯あるのだ。それ故パックツアーの人が必ずやるそうだ。しかし、こういう場合、時間が限られていて、完成品が出来上がるのを待たずして移動するのが殆ど。後日宅配された和紙は果たして自分で漉いた紙なのか、疑心を抱かざるを得ない。記念に木の葉を入れても、忘れてしまったら何の意味が無い。
 は観光ルートから少し離れた伝統工芸舎という所で、紙漉きをやった。それも、係員とのワンツーマンで。まずは漉き入れる木の葉を選ぶ所から始まる。選んだ木の葉を型に並べてデザインを考える。此処で芸術的に仕上げようとしたが、係員曰く。
「余り木の葉を入れますと、厚みで上手く漉けませんよ。」そうだったのか。和紙は基本的には薄いから、木の葉で厚みを作ると、そこの部分だけ上手く漉けないからな。とは言うものの、何を漉き入れようか迷ってしまう。森や家族をイメージした葉書が浮かんできた。
 次に、紙を漉く作業に入るが、テレビで見ているのと実際にやるのは、かなり違う。単調な作業に見える紙漉だが、上手く紙の繊維を均等に馴染ませないと、ムラのある和紙になってしまう。これは観光客にはコツが難しく、係員との付き添いが必要になる。私も例外ではなかった。試しに1回漉いてみたが、係員から均等に漉くよう言われた。それに、紙を漉く道具も思ったよりも重く、バランスを取るのが難しい。入れて漉いて、又入れて漉いて……。繰り返される事5〜6回。次第に紙の繊維が均等に馴染み、白くなってきた。そこに先程選んだ木の葉を型に並べた通りに敷くのだが、此処でもピッタリ敷かないと、気泡が出来てしまうから、上からゆっくり木の葉を敷いた。結構神経使うね、コリャ。
 そして、神経を程なく使う紙漉きを5〜6回繰り返して、ゆっくり型から剥がして、プレートで充分乾燥させて完成だ。待たされることなく、30分足らずで自作の石州和紙葉書が頂けた。6枚で800円也。やはり、客が私一人になると、何でもかんでも気楽になれるね。木の葉を選ぶにしろ、時間が存分に使えるし、他人の出来栄えに憂いを出す必要も無いし、漉いている時も、他人の目を憚らずに漉けるから。そうさ。これが旅の醍醐味よ!
 き終わって、乾燥しきるまで、舎内を回った。驚いたのは、石州和紙の値段だった。国産の楮と三椏を用いて、パルプを一切加えずに漉いた和紙が、一反で(だったかな?)1000円だった。機械の切断もなく、毛羽立った繊維が上品そうだった。これは立派な揮毫(きごう)だけしか用いてはいけない和紙だ。手の込んだ作業が絡んでいては、毛筆がそんなに達者ではない私には勿体ない一品だった。でも、便箋と封筒はペンでも使えそうなので買った。共750円也。
 乾燥が終わり、葉書サイズに切断しようとした時、係員が、
「カメラはお持ちですか?」と尋ねたのだ。私には理由が判らず尋ねてみると、出来上がった自作の和紙を持って記念撮影する観光客が多くいるそうなのだ。そりゃそうだな。世界に6枚しかない自作の石州和紙葉書だから、感慨無量だろう。私もそれに倣って、写真を撮って貰った。



(2003年3月10日) 観光地から温泉街へ

 州和紙に森鴎外、更には「寅次郎恋やつれ」と津和野の文化に浸った私は、又観光客で賑わう目抜き通りに出て、駅に戻った。時刻は17時近くを指していた。途中で小腹を満たす為に、津和野大橋の袂のファーストフードの店で、ソフトクリームと焼きそばを頂いた。此処津和野には、大手チェーンのファーストフードの店を見た事がない。街自体がしっとりと日本文化に染まっているので、ファーストフードの店自体ド派手に見えて、情緒を削いでしまうのだろう……。食べ物自体も、日本食でないと、情緒がぶち壊される。
 思えば、鱈腹頂いていなかったな。よくもまぁ、持ったと褒めてやりたい。朝はカレーパンにフレンチトーストに豪華にフライドチキンを頂いたが、昼は出来立ての天ぷらが乗ったそばだけ。これだけで、レンタサイクルをひたすら漕いでの津和野散策が出来たな。少し体脂肪が燃やせたかな……。
 また、殿町通りを通ったが、この時間での観光客の多さに驚いた。此処が宿泊地なら判るが、津和野のような日本文化が色濃く残っている所に、気の利いた繁華街があるとは思えない。
 駅前の釜井にレンタサイクルを返しに行き、土産の宅配を頼み、駅に向かおうとした時、店主のお爺さんが軽い土産にと私に、絵葉書や津和野の名所のパンフレットを持たせてくれた。成程、これで「もう一度津和野においで」と言っているに違いないね。日帰りで余り散策出来なかったと思ったに違いないね。
 ホームで特急「スーパーおき」を待っているがてら、山々に囲まれた黄昏の津和野を遠くから眺めていたが、風が寒いのなんのって。おまけに粉雪も降ってきた。春の訪れはまだまだ先だな、コリャ。マフラーと手袋が手放せない限りは。
 「ーパーおき」2号の窓側の自由席に乗って、今日の行程を思い返した。今日は島根を横断したような列車の旅だったな。8時17分に出雲市を発って、晴れゆく石見路を南下して、益田に着いたのは10時22分だった。そして、11時22分の山口線で津和野に向かって、到着したのは正午近く。合算すると4時間近く列車に揺られた事になるが、それでも此処が島根県だとは……。東京と島根の面積の違いだな、コリャ。私は沈みゆく夕陽を眺めながら、日本は意外に広いなと痛感した。
 倉を通過した。私は単調な揺れと変わり映えしない黄昏の景色を眺め、眠気が差してきたので、一眠りしようとしたが、「りんご園」の看板に目を奪われた。りんご……。此処は津軽か信州か。一瞬目を疑い、周りを見ると、ネットに覆われたりんご園が続いていて、山口に向かっている事が嘘に感じてしまう。こんな南国でもりんごは採れるのか……。記憶を辿ると、地図帳でりんご生産量欄を見たら、「山口」の欄に記録があった事を憶えている。それも微々たる量だった。一体どんな品種が採れるのだろう。此処で「つがる」が採れたら、顰蹙物だ!
 んご園が過ぎると、又変わり映えのしない黄昏の景色が入ってきた。私は差し込む夕日をカーテンで遮って、一眠りした。目的地の湯田温泉まで、30分以上あるからな。しかし、今日は結構移動したな……。
 一眠りしていた私は、不意に目が覚めた。前の電光掲示板には「次は 山口」と出ていた。山口の手前か……。寝過ごさずに済んだな。ゆっくり、荷物を纏めた。

 写真は乗車した特急「スーパーおき」。





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