2008年2月23日 梅と桜に彩られる冬の熱海

(2008年2月23日) 命日近くの墓参

 月20日は、私の父方の祖母の命日だ。しかし、今年(2008年)は平日だったので、命日に墓参りには行けなかった。だから、土曜日の23日に出掛けた。何しろ、私が何度もお世話になった肉親だし、旅に開眼してくれた恩人(?)なのだから、ぞんざいには出来ない。
 磨霊園の最寄り駅の武蔵小金井で降り、南口から歩いた。それにしても、親戚と一緒に出掛けた時と、随分様変わりした武蔵小金井界隈に苦笑した。高架工事で、ホームは近未来的な姿になったのにも拘わらず、南口は昭和の薫りを残しているこぢんまりとした瓦屋根なのだ。残しても良いけど、高架駅が浮いてしまうし、かといって毀してしまえば、町のシンボルが消えたという事でイチャモンが降ってしまう。難しい問題だな、コリャ。
 舎を出て、左には踏切があって、此処を通って多磨霊園に向かった事は、十数位年前ながらちゃんと憶えている。坂の途中に煎餅屋があったり(今は不動産屋)、霊園近くになると、墓石屋が立ち並んでいたり、所沢にあるレストランで腹拵えした後は、親戚の家で夕方まで遊んだりと、些細な事でも憶えている。墓参り自体、1ヶ月か1ヶ月半に1回のイベントだったから、常時開催されているイベントよりも印象深い。
 しかし、今となっては、平和だった時の回想でしかならない。あの時は、家族のゴタゴタなんか無かったから、親戚同士の確執や両親の離婚に巻き込まれて、その挙げ句の果てが、私と多磨霊園の距離を長くさせてしまったのだ。
 まぁ、昔の平和を掘り返しても戻る筈もないので、そのまま歩こう。
 年は十三回忌と一人で執り行った序でに、過食症のアイドルを助けて欲しいとお願いしに言ったのだが、今回は墓参りの後に熱海梅園に向かうのだ。これだけだと単なる旅に聞こえるのだが、父方の祖母の代わりに熱海梅園に向かうとなると、少しはイメージが変わるだろう。八王子や東京では春の便りがまだ来ないが、伊豆熱海にはもう春の便りが来ているので、東京人より一足早く、いや、祖母に今年の春が来たと言う事を知らせる為だ。何だか十三回忌を境に、私の旅が道楽と言うよりは、祖母の代理に思えてしまう。祖母が旅好きだったなら尚更だ。この隔世遺伝を大事にしたい。だからって、旅自体を「義務」と称しては面白くないから、「娯しみ」ながら「祖母の代理」という任務感を携えたい。襟を引き締めて旅したいものだし、いろはの「あさきゆめみし ゑひもせす」と言う理がこの歳になって、よく判った気がするのだ。解釈は「(叶わぬ)浅はかな夢は見ないし、闇雲に酔ったりしない」のだが、旅でもその通りだと思う。無理な行程は立てないし、余計な出費はしない。羽目を外したり、無駄遣いを慎みたい。若気の至りでの旅は20代で終わりにしたい。来る6月の逃れられぬ三十路を覚悟して。
 坂を下って、自動車教習所を左にし、住宅街を抜けると、墓石屋が左右に並ぶ。しかし、時計を見たら、まだ8時10分前。いきなり眉を顰めた。多磨霊園の開門時間は8時30分だからだ。だからって、時間が潰せる場所は見当たらないので、そのまま向かった。まぁ、何度も供花を買っている通門近くの墓石屋で一服すればいいかな。厚かましいけどな。
 磨霊園に着いた。門は何と開いていた。時間を見ると、8時10分前。私の時計が狂っているのか。懐から懐中時計とケイタイを取り出すと、懐中時計が少し進んでいたのだ。四六時中使っているケイタイよりも、レトロの仲間入りしつつある懐中時計を重用したい。と、懐中時計の時間を直すと、供花を買っている墓石屋を尋ねた。何と、此処も開いていたのだ。一体、私の時計が狂っているのか、世間の時計全体が狂っているのか見当が付かなかった。まさか、私だけが日本国民とは別の特別時間を用いているとは思えないが。
 その特別時間の錯覚は、店員の会話で解除された。
「あぁ、8時前後には開門しますよ。お墓参りも出来ますよ。」
「でも、冬場は8時30分に開門だった筈ですけど。」門の傍の看板にそう書かれてあったのだが。
「今は、夏でも冬でも関係がないみたいですよ。」すると、早めに着いた自体、得をした事になるな。
 朝8時で、墓参りが見られない中での供花は、一足早い春を演じているようで、華やかさだけが浮いていた。手桶と柄杓、箒と線香のセットで2000円也。その中で、一番華美なのを選んで中に入った。上辺だけだが、春の到来を教えたい為に。
 やはり、春の訪れは無かった。枯葉は清掃されているが、裸木が何とも寒そうで、晴れていながら、今は冬だという事を伝えてくれる。殺風景な冬の多磨霊園に、このような供花があれば、少しは華やぐだろう。墓域が枯れ草に囲まれた墓を後目に。肉親の繋がりが希薄になっている平成時代だ。哀しい嘲笑を振り撒いた。
 方の祖母が眠っている墓は、かなり入った所にあるが、道順は大方判っているので、両側にある墓をチロチロ見ながら歩いていける。今冬は寒さが際立っていたので、墓参りに来る人はそんなにいなかったのだろう。華やかな供花が手向けられているだけでも、寒さが和らぐ。
 車を停めていた場所の近くにある水汲み場で桶に水を足し、又歩いた。此処では、親戚と一緒に簡単な野球をしていた。墓参り自体がイベントと捉えていた時代、まさか20年後はこんな様になろうとは思っても見なかっただろう。タイムマシンがあったら、すぐさま、当時の私に警告したい。そして、平和な時を回想したい。



(2008年2月23日) 多磨霊園に春の訪れ

 方の祖母が眠っている墓は、傍に大きな松の木が1本あるので、或る程度歩いたら、その場所が判る。結構、幼少時の記憶はしっかりしているし、アテになり易い。
 又、参りました。鈴木家の孫でございます。ご迷惑をお掛け致しますが、ほんの辛抱でございます。周りの墓に軽く挨拶を交わして、墓に向かった。何処も鮮やかな供花は無かった。何時になったら墓参りに来るのだろう……。墓参りで、肉親の繋がりの希薄さが赤裸々にされる。
 て、墓前に立つと、一瞬、身体が止まった。供花が多少萎びているが、彩りが失われていなかった。1月にも墓参りに出掛けたから、その時の供花だ。となると、父方の親戚は墓参りに来ていない事になるな。命日がこの時期なのに、恥ずかしながら、私の方も肉親の繋がりが希薄になっているのか。おまけに手向けたペットのお茶もそのままだし、茶菓子は無くなっていた。管理人が整理したのなら良いのだが、まぁ、モラル低下が問題になっている昨今、他人様の供物をつまみ食いするバカタレがいたのか。周りの墓に訪ねたい。
 黙々と墓掃除をすると、ペットのお茶が手付かずだった。これで、何となく答えが判った気がする。ローモラルのバカタレはいなかったのだ。時折飛んでくる鳥達が抓んだのだろう。あの時は、草餅を手向けたのだが、草餅だけ頂くとは、喉が詰まってしまわないか? ちゃんとお茶もあるのに、どうやら、嘴(くちばし)が入らなかったか口に合わなかったようだな。何せ、濃いめのお茶だったからな。
 普通のペットのお茶、すあま2個、草餅4個、そして、線香を手向けた。これで、少しは映えたかな。自分のホットレモンティーを開けて、昨夜の残りのドーナツを抓んで、お茶飲みを始めた。
 の帰り道、ある墓に梅が咲いていたのを見付けた。綺麗な紅梅だったので、立ち止まった。来ていたのか……。しかし、周りの裸木がまだ冬だよと折角咲いている梅に威圧を掛けているようで、余計梅の紅が際立っていた。何だよ、待ち焦がれていた春だ。折角咲いた梅に何て事するんだ。鉈でもあれば、切り倒したいよ。
 ケッ、お前等には判らんと思うけどな、私はこれからな一足お先に、熱海で春を迎えるんだよ。熱海は今梅花で春爛漫なんだよ。こんな殺風景な冬なんか、何処にも無いんだよ。おまけに向こうには旨い魚があるし、綺麗な海もあって、飽きないんだよ。悔しかったらな、私と一緒に熱海にでも出掛けてみるかい。
 ……と、一人で高飛車になっていたが、見てみると、どのお墓も冬の装いだ。きっと、温かい春を待ち焦がれているに違いないな。御免よ。まだ熱海へ出掛けていないのに、ふざけた自慢話ばかりして、不愉快にさせて。それじゃ、あなた方の代わりに熱海へ出掛けて、春を先取りしてくるから。今の自慢話は、ナシにして下さいね……。
 こうして私は、多磨霊園に眠る人達全員の代理で、熱海梅園に向かう事になった。多磨霊園には有名人や偉人、文豪も眠っているので、なんか気が締まるな……。
 此処で一首。
 墓参り見付けし紅梅頬染める赴く熱海は梅花繚乱



(2008年2月23日) 春一番が誘う出湯の梅園

 京の奥座敷こと熱海。此処3年間。熱海を訪れた機会は何度あったのだろうか。2005年は三嶋大社の参詣の帰りに、2006年は難関試験に合格した凱旋に、2007年は勤めていた会社が嫌になって、ズル休みして此処に立ち寄った。かつての一大温泉地熱海から、東京から楽に行けるリゾート地へと脱皮し、観光客が戻ってきたのだ。私はその新しい熱海に感動したのだ。それ以来、私と熱海の距離がグッと近くなってきた。
 さて、その熱海で真っ先に連想するのは、何だろうか。温泉、金色夜叉、サンビーチ、芸妓衆、温泉饅頭、新鮮な魚介類……。まだまだ、熱海には見所があるものだ。1〜2月は東京では冬真っ盛りだが、此処熱海では既に春の準備を整えているのだ。それが、前述した熱海梅園である。
 蔵小金井から、中央線で東京に向かったが、車窓にはまだ春の到来は来てなかった。コリャ、チャンスだ。東京人より一足早く春に出会えるからだ。東京では、色々な物が手に入る便利至極な大都会だが、季節の到来となると、どんなに足掻いても、東京にはやってこない。その場所を訪ねなくては、出会えないのだ。だから、旅に出るのだ。殊に、新宿界隈となると、四季問わず全く同じ景色しか見えてこないのだ。仮に写真を撮って、季節を偽って展示しても通じそうだ。新宿を過ぎて、新宿御苑やお濠を通れば、季節を証してくれる花が咲き乱れるだろう。市ヶ谷付近のお濠はオープンカフェやボート乗り場があるが、この寒さで無理してくる人はいないだろう。チラッと見たが、閑散としていた。此処にも春の訪れは無い。尚、チャンスは大きくなる。お先に、春を迎えさせて頂きますよっと。東京から鈍行に乗ってほんの1時間40分で、春を迎えられるのですから。悪く思うなよ、ヘッヘッヘッ。
 茶ノ水を過ぎると、お濠にカルガモが泳いでいるのを見付けた。それも、暖かい日差しを受けながらノンビリと。東京にいながら、秒針が全く無いし、このカルガモ自体、春の訪れを静かに伝えているのだ。果たして、秒針に苦悶する東京人にどれ位判って貰えるのか……。恐らく、私の隣にいた冠婚葬祭の行き帰りの途中の夫婦には、判って貰えたようだ。「春が近くなったのかな……」と聞こえたから。
 此処で一首。
 カルガモや間近の春を愛でながらお濠を泳ぐ姿も温し



(2008年2月23日) 熱海に向かう旅の勝負師

 京から熱海迄は、東海道本線か新幹線を利用するのだが、東京からほんの100キロしか離れていない所まで、新幹線を使うのは、時間に追われているようで控えた。毎度お馴染みのグリーン車に乗った。今日は土休日なので、200円程安くなっている。東京〜熱海750円也。新幹線だと自由席でも1680円掛かる。その浮いたお金930円で、小腹を埋める物が買えるのだ。此処でカツサンドと、アイスレモンティーとジャスミンティーを買った。
 口馴染みのカツサンドを抓みながら、話を続けるとしよう。鈍行で向かうと、所要時間が約1時間40分なので、存分にグリーン車での優雅な(?)時間が過ごせたり、間近に沿線の景色が堪能出来たりするのだ。たかが新幹線ばかり都合良く便利になっているだけで、日本の技術云々と叫んでいる世間が馬鹿みたいだ。
 グリーン車はやはり始発の東京から混んでいた。やはり、行楽シーズンなのだろう。わざわざ横浜や大船に向かう為に、乗車する乗客は何処にもいない。仮に立ちんぼになってしまった場合は、デッキに立っているか、通路に立って空席を狙う他ない。酷い話、ずっと立っているままで目的地に向かってしまったら、グリーン料金はドブに棄てられてしまう。私の場合は、始発の東京から乗っているので、着席出来る確立は100%だが、途中の横浜、大船となると、着席率の方が100%になってしまう。
 昨今、小麦や原油の高騰で、庶民の財布の紐は堅くなる一方だが、こういう自分に対するご褒美もなくては、暮らしてはいけない。見給え。グリーン車に座って、旅行のパンフレットを片手に、旨そうに駅弁をパク付いている夫婦、熱海梅園の記事を読んで、熱海について語り合うカップル。フフフ、熱海に向かうなら、勝負だな。言っておくがな、熱海梅園の美味しい所は、私が貰ったぞ。誰にも渡さないぞ。密かにライバル心を燃やしながら、アイスレモンティーを徐に啜り、カツサンドを押し込んだ。カツに味が染み込んでいて旨いのだが、脂身が利いた。それを一気にアイスレモンティーで流し込んだ。
 船で、特急「踊り子」号との待ち合わせの為に、数分停まった。数分後、件の特急が停まったが、指定席も自由席も着席率は90%以上。こちらも、伊豆に向かう人が多いのだろう。見ると、娯しそうに駅弁を抓んだり、麦酒を飲んだり、ガイドブックを見たりして、あれこれ思案している。鈍行のグリーン車と同様の光景だったが、特急列車故、何処か豪華に見えてしまう。しかしねぇ、こちとら750円というお手軽な料金で、特急列車同様豪華な空間に身を置いているんだよ。しかも、2階建て車両よ。料金や快適さを較べれば、こっちの勝ちだ。悔しかったら、熱海で勝負だ。美味しい所を誰が多く取れるか、勝負だ。
 勝負に挑む一首。
 踊り子号函は行楽の賑やかさ鈍行グリーン車負けじと賑わう



(2008年2月23日) 春の合戦場 熱海駅

 海に着いた。やはり、人出が多いな。今は熱海梅まつりの最中だ。ホームの屋根には提灯がぶら下がっていたり、ポスターが飾られていたり、まさに梅盛り! その梅を堪能した後は、温泉に入ったり、新鮮な魚介類に舌鼓を打ったりと、選り取り見取りだ。東京では聊か(いささか)贅沢な行動が、熱海になると極普通になってくるから面白い。天然温泉はある、新鮮な魚介類は毎日届く……。多くの文人墨客に愛された道理も頷ける。
 処熱海は、三島・伊東方面の連絡駅でもあるので、往来はかなりある。到着したホームの向こう側には、浜松行きが停まっていた。恐らく、この列車にも梅まつりを訪れた観光客がいるのかも知れないな。まだ12時7分だ。私より春を見付けた人だ。こうなったら、急いで熱海梅園に向かいたい。熱海梅園の美味しい所を誰よりも早く貰いたい。と自然に早足になったが、混み合っている階段では焦れったい足踏みにしかならない。そんな焦れったさに両目が挙動不審に動いた。すると、東京方面のホームに目が行き、前は無かった室内の立ち食いそば屋が目に止まった。何だよ、随分旅情が無い事をしてくれるじゃないか。
 人の波は一定方向に向かっていたが、改札手前で二手に岐れる。熱海温泉に向かう観光客、そして、熱海梅園に向かう観光客だ。温泉か梅園か、これも右と左の泣き別れと言った所だな。何故かって? 熱海梅園の最寄り駅は、熱海からJR伊東線で一つ目の来宮駅だからだ。近くには伊豆國一宮の来宮神社があるので、梅園と神社の両方向かう観光客が多いのだ。その神社には、美味しい物や名所の楠の大木があるから、梅園に向かう前ながら、胸が躍ってしまう。そうだ。その胸が踊る神社から訪れるとしよう。
 区間ながら、伊東線を利用した。1番線に到着している列車に乗ったが、見てみると、伊豆急行の特急車両だ。海が良く見えるように、海側の座席が海に沿って設置されている。山側は普通のセミクロス。嗚呼、1つ目の来宮に向かうだけなのに何と贅沢な。予定変更して、伊東か下田に行こうかと旅心が踊ったが、時期である梅園を見逃す訳にはいかないので、悔しいながら乗車した。他人様に熱海梅園の美味しい所を取られて、どうやって春を知るのだ。日が長くなっただけじゃ、冬が過ぎ去って安堵するだけだし、かといって、ヒーターを付ける回数が減ったとなれば、人工的に春を知る事になり、味気ない。やはり、四季折々の景色が甚だ異なる日本だ。自然で知りたいよ、季節の変わり目は(問題視されている花粉症や黄砂は、御免被るわ)
 伊豆多賀、網代、伊東、河津、伊豆急下田と、海が綺麗で魚介類が美味しい場所が目白押しだ。此処に座れるのは、海好きや魚好きが一番だが、見た所、家族連れで占めていた。果たして、海や魚が好きな人は何人いるのか。ポケットゲームに現を抜かしているガキがいなかっただけでも幸いだな、コリャ。こういう列車に乗った時は、景色を見て旅行を娯しむのですよ。
 先頭車両は、ワイドビュー車両だった。運転席が客席より1段下がっているので、眺望の良さは抜群だ。此処でも、美味しい所は家族連れで埋まっている。恐らく、私のように来宮神社や熱海梅園に向かう人では無さそうだな。行き先は伊東か河津か、そして下田か……。何処も東京よりも一足早く春がやってきた所だ。存分に春と綺麗な海、そして、新鮮な魚介類を堪能するがいい。私は、熱海梅園で東京人よりも早く春を味わうとするか。
 それにしても、家族連れにも魅力がある所になったのか、熱海は。あの凋落(ちょうらく)振りはもう過去の物になりそうだな。
 此処では、中央通路に立った。おぉ、コリャ良い眺めだな。立っている自体は一番前の座席よりかは聊か負けるが、遮る物が何も無くていい。いよいよ、来宮に向かう自体勿体なくなってきた。
 そんな矢先、左隣の老人が私に空席を勧めた。ほんの一駅の来宮に向かうだけだが、折角の親切だ。勿体ないながらも座った。しかも、旨そうにおにぎりを頬張っているではないか。この老人も熱海梅園に向かうのではないな。一段と、来宮に向かう自体勿体なくなってきた。東京人よりも一足早く春の訪れを堪能したい。その為に、来宮の梅園に向かうのだが、伊東や下田の海や河津の桜が頻りに、私を誘っているのだ。嗚呼……、両得したいが時が赦してくれぬし、かといって、極限まで迷ってしまっては、時間が徒に流れ、春を堪能する事が難くなる……。
 春を堪能する為の旅が、そんな苦悩を抱えながら、熱海を発った。来宮は熱海から1.2キロに位置する。時間にすると、僅か2〜3分。その間に、この苦悩を晴らしたい。ワイドビューの眺望をも忘れて。

 写真は伊豆急行線のリゾート21。



(2008年2月23日) 旅人よ、春を先取れ!

 宮駅は、東海道本線と並行している。しかし、ホームは伊東線のみ。向こうは管轄が違うJR東海の東海道本線。見た目は同じなのに、何処か異国の雰囲気がある。その雰囲気が最大になるのが、目前にある丹那隧道だ。この隧道を越えると、もうJR東海の駅だ。
 やはり、「大きな駅の隣の駅は、小さい駅だ」の理は道理だな。
 宮駅は、JR東日本の東海道本線の車両が置かれている車庫の近くにある。周りは民家があるが静かだし、あの賑やかな熱海からほんの1.2キロ進んだだけでも、こんなに違うとは。小さな島式ホームに庇が付いていて、そこから「熱海梅園」と書かれている提灯がぶら下がっていた。う〜む、最寄り駅だから提灯をぶら下げる意味は判るが、往来が絶えない熱海駅で見た後だから、寂しさが先行する。此処に水戸の偕楽園、越生梅林と並ぶ、関東三大梅園と名高い熱海梅園がある事自体疑わしくなってきた。そんな疑いも、この改札口で混み合う人の波で掻き消される。小さな改札口に何十人いるのだろう。温泉宿の旗もあって、立ち直れた温泉地熱海を証しているが、温泉よりもまずは、来宮神社と熱海梅園と言った所か。熱海梅園のポスターを見ながら、あれこれ話し声が漏れている。駅員も大忙しだ。スイカの読み取り機があるが、此処をタッチする観光客は殆どいなかった。東京では普及率が高いスイカも、此処に来れば単なる電子マネーの塊に過ぎないのか。此処で、「何、そのカード?」と質問されたら、失笑してしまうな。
 算口で精算して、改札を抜けた。鞄から、修理に出したカメラを取り出した。日付が壊れていたので、この日がお披露目だ。やはり、日付が入っていないと真実味が薄れてしまうからね。
 所が、来宮駅を撮影した所、表情が曇った。写真は撮れたのだが、気の抜けたフィルムを巻く音が、気に食わなかったのだ。電池の交換だな。幾ら、修理で日付が直ったとはいえ、電池が切れていたら、単なる精密機械になる。そうしたら、折角の一足早い春が台無しになってしまう。顔に付いている両目のカメラでは、本人しか判らないし、何かと不便だ。
 コンビニでもあれば良いのだが、置かれていない事もあるので、100%の信頼は無い。それでも、コンビニを目で探していると、何と、駅の近くに写真屋があったのだ。スンナリ済んだ。上手い。タイムリーだ。嗚呼、墓参りはする物だな。
 此処でカメラ用の電池650円を買った。準備万端だ。さぁ、電池は満タン、日付は入る。一足早い春を堪能しようではないか!

 写真はJR来宮駅。



(2008年2月23日) 来宮神社(前)


 宮神社は、楠の大木で有名な神社で、車窓からでも良く見える位置にある。しかし、来宮駅自体小さな駅なので、ターミナルの熱海の名所だと解釈しがちだ。あくまでも、此処は来宮なので、ご理解下されよ。とはいえ、その道の途中に熱海駅の標識があるのは、何処か皮肉だ。
 道の跨線橋を潜ると、ハイ、来宮神社に到着だ。理由は簡単だ。すぐ目の前に鳥居があるからだ。所要時間1〜2分也。お手軽な来宮の名所だが、此処はれっきとした伊豆國一宮だから。
 居を潜り、御手洗場で浄めると、近くに子供向けに御手洗場での浄め方が、イラスト付きであった。しかし、そこには柄杓の水を左手で受け止めて、口を浄めるまでしか記されていなかった。後の再度左手を浄めたり、柄杓を洗ったりする事も書いておけばいいのに。何度も神社に参詣している私には、何とも中途半端な説明だった。
 中途半端な説明を後目に歩き、本殿で早速参拝。
 −東京人より一足早く春を迎える為に、やってきました。この私は、酒は余り飲まず、茶類はガブガブ飲みますので、酒難除けならぬ、「茶難除け」でお願い致します。
 あっ、そうだ。この来宮神社の特徴は、前述の楠の大木以外に幾つかあるのだ。その一つが酒難除けである。昔、此処の神様が酒を飲み過ぎて、禍(わざわい)に罹ってしまったので、一定期間酒を断ったという謂われがあるそうだ。だから、この神社は酒を断とうとする人がよく参詣するのだ。と言う事は、此処に御神酒が無いって事だな。本殿を見ても、御神酒らしい樽は無かった。道理に適っているね。もしあったとしたら、此処の神様の逆鱗に触れてしまうからね。下手に酒難に罹ってしまいたくないから。酒を余り飲まない私だが、一度だけ自棄酒を呷って二日酔いになってしまったので、その思いは強い。これも、いろはの「あさきゆめみし ゑひもせす」の一つだろう(闇雲に酔ったりしない事)。処に参詣した自体、大人びてくる三十路へのカウントダウンにも思える。20代はあれこれあったが、私の人生の中でも華やかな方に入る。もう一度、華やかな時を過ごしたいと思うのは、もう無理なのかな。30歳は若者の範疇に入るとは言い難いし、風の便りに同級生が家庭を持った話も聞くので、独身貴族を継続している私には少々焦りがあるが、昨年鬱に蝕まれて、2〜3ヶ月リハビリした事で、その焦りはフゥ〜ンと消えた。三十路の独身貴族でも、良いじゃないか。私の人生は鈍行列車なのだ。良い時に結婚すればいいよ。さて、私の未来の花嫁は何処にいるのかな……。
 その未来を占うべく、お神籖を引いた。マイラッキーナンバーの5番のを引き、気分が踊ったが、内容はそれとは対照的な内容だった。小吉で物事が余り順調に行かないが、じっくり時を待てば、快調に進むと出ていた。東京人より一足早く春を迎えたい私には、何とも耳の痛い話だ。

 上は来宮神社の鳥居。
 下は来宮神社本殿。



(2008年2月23日) 来宮神社(後)


 いたお神籖を結び付けて、後ろを振り向くと大きな楠があった。あれが、来宮神社の名所なのだ。この楠の周りを1周すると、自分の寿命が1年長くなるし、願い事を復唱すると、必ず成就すると言われている。しかも、天然記念物という霊験灼かな楠なのだ。
 実際その楠の大木の前に立つと、その大きさに驚いてしまう。大木の下は瘤のように膨らんでいて、そこから太い幹が2〜3本分かれている。中は空洞になっていて、何百年もこの地にいる事が判る。この楠の霊験で、一体何人の参詣者の寿命を長くさせたのだろう……。多磨霊園に眠っている人に訊けば判りそうだが、私はまだ30歳になってなく、まだこれからも生きたい意志が強いので、黙っている事にした。
 それじゃ、回るとするか……。私自身や私の家族、親戚、縁者全てひっくるめて寿命が延びるようにお願いするか。と、大木の周りにある道を歩き始めた。起伏が余り無い道だったので、余裕で10周は出来そうだ。しかし、そんなにがめつく願を掛けても、ドカンと御利益が与れる訳でもないので、ましてや、いろはの道理が身に沁みる程熟知した年代だから、自分の身に合った願掛けが一番良いのだ。と言う事で1〜2周した。
 そして、もう1周した。昨年の暮れに、自費出版で紀行文を出して、旅行作家の片隅にいられるようになったのだが、何としてでもその夢を大きくしたい。その大望を復唱しながら、回った。自費出版で又紀行文が出せるのかは何時か判らないが、その機会があれば進んで参加したい。
 大望を復唱したのか、去年の鬱の残りがあったのか、楠の大木の霊験なのか、気分がスッとした。
 先に此処に来て良かったな。熱海梅園だけで済ませてしまうと、単に東京人より春を迎えて浮かれ気分で、熱海を発って仕舞い兼ねないから。そうなったら、罰が当たっても文句は叩けないから。
 宮神社には酒難除け、楠の大木とあるのだが、意外にも茶店で頂けるそばやうどんも見逃せないのだ(これも季刊誌で知った)。
 由比名物桜エビのかき揚げが入っているそばとうどんなのだ。成程、地産地消の道理だな。各500円也。茶店に入っていち早く気付いたのは、そのそばやうどんの鉢が多かった事だ。季刊誌を読んで知ったのか、熱海では有名なのかとなれば、熱海梅園同様美味しい所を頂こうではないか。
 此処でそばを頼んだ。参詣記念と言った所だ。そう、此処には定番の絵葉書やテレカが見当たらなかったのだ。絵葉書は需要がありそうだが、テレカはもはや骨董品になっているからね。こっちの方は美味しい所とは行かなかったな、コリャ。
 さて、その名物のそばは、桜エビのかき揚げの他に輪切りのネギにワカメ、そして細かく切り刻んだ柚子の皮が乗っていた。これで500円は由比名物桜エビとなれば妥当だが、東京となると100円前後上乗せされそうだ。私はワカメが嫌いだが、出された以上は少しは抓まなくては。何時もより少な目に七味を掛けて啜った。
 詣の帰りに、御手洗場の近くに楠の大木二世を名乗っている楠があった。二世か……。と言う事は、あの大木が枯死したら、今度はこっちが来宮神社の名所を担うのか。少なくとも、駿府公園にある銀座の柳二世のように、悠々自適な隠居生活とは無縁だな。そして、霊水汲み場があった。これも又、霊験灼かな楠の大木が傍にあるお陰で、その御利益は高そうだが、何でも本殿でお浄め(だったかな?)しておかないと、ただの湧き水になってしまうのだ。いやぁ、楠の大木の御利益は参詣者に平等に与れるのだが、こっちの霊水の御利益に与れるのは、そう簡単にはいかないな。がめつく御利益に与りたい輩に対して、アカンベーしているようで、何とも面白かった。
 此処で一首。
 来宮に春一番が吹き付けば新幹線の騒音娯し

 上は来宮神社の大楠。
 下は大楠裏の清流。



(2008年2月23日) いざ、梅園へ!

 海梅園は、来宮神社とは正反対の位置にある。神社の手前にある交差点を左折して、歩く事7〜8分で、東京よりいち早く到来した春に出会える。近くには、熱海梅園の幟(のぼり)が立ち並んでいるが、何と民家近くにも幟が立っている光景に吹き出した。勿論、幟も紅梅色だった。
 を登ると熱海の海やホテル群、来宮駅が良く見えた。熱海〜来宮が僅か1.2キロなので、熱海の賑やかさが此処にも伝わってくる。しかし、来宮界隈は住宅地や梅園があるので、繁華街での酒精に弄ばれた(もてあそばれた)奇声は真っ平御免だ。おまけに酒難除けで有名な来宮神社があるのだから、千鳥足でこの坂で転げ落ちても、来宮神社の罰という事で嗤われるのがオチだ。
 こうして、熱海を見てみると、本当に近そうなので、帰路は歩いて熱海に戻るとするか。
 此処で一首。
 梅園の途中の坂の柑橘をもぐ術叶わず眺む悔しき

 宅地に入り込む路線バスを後目に、坂を上がっていくと、観光バスが目立つようになる。それと比例して、観光客目当ての店が右側に並んでいる。熱海梅園は一年中開園しているが、梅まつりの今の時期は、一番美味しい稼ぎ時だろう。並んでいる品も梅関係が多かった。その手前にあるコンビニは、何とも惨めな存在だ。東京と何ら変わりない商品が並んでいるのは、東京の情報を知るにはもってこいなのだが、梅関係の品が置かれていない以上、単なる引き立て役に過ぎないのだ(チラッと見たが、無かったな)。
 あと少しで、春と対面できる嬉しさで一杯だったが、突然「丹那神社」の目が向いた。丹那……、あの丹那隧道の事だろうが、どういう神社なのだ。鉄道ファンである私には、見逃せないな。
 それでは、一足早い春は、後の娯しみに取っておいて、先に丹那神社に向かった。では、失敬!



(2008年2月23日) 丹那神社



 や急な下り坂を下ると、その神社があった。まずは、眼下を走る東海道本線と伊東線を眺めるとしよう。とは言うものの、生憎列車は通っていなかった。
 やはり丹那神社は、丹那隧道に関係ある神社だった。ご存じの通り、昭和9年に行き止まりだった国府津〜熱海(当時は熱海線の名称)を沼津に繋ぎ、東海道本線の大動脈の仲間入りを果たした長い隧道だ。と言うと、工事中に殉職した工員達を祀っているのかな。
 これも、やはりだった。近くに殉職碑が建てられていた。しかも、手前にベンチが2脚あったのは、何処か変だった。殉職碑はあくまでも弔いの意を示す物であって、厚顔無恥にドッカと座って一休みする場所ではないのだ。碑の前に供花が備えられた点は、有難いのだが……。丹那隧道の経緯を知る鉄道ファンならば、そう思うのだが、読者は如何だろうか?
 その殉職碑は、工事中の落盤や出水で殉職した工員達の名前が、銅板で刻まれていた。見てみると、何と韓国国籍の人も数人含まれていた。当時は日本の植民地であったので、日本に出稼ぎに来ていたのかも知れないが、当然ハングルは使えないし、日本人の習慣に合わせられた屈辱等、見えない偏見や差別に耐えながら仕事をしていただろう。そして、此処で殉職したのは、当時の日本の人権状況を知る以上、やり切れない憤りが見え隠れする。
 両側には掘削機や鑿(のみ)で隧道を掘る工員が描かれている。勿論、手間や時間が掛かる大工事だ。途中で事故があっても不思議ではない。しかし、事前の出来事が事故から免れた事もあった。
 それが救命石だ。殉職碑から更に奥に入った神社の右脇にある石だ。これを、単なる石と思う事勿れ。文字通り、工員達を救った霊験灼か(?)な石なのだから。
 大正10年の隧道工事の折、残土を漏斗で篩って(ふるって)いた時、この石が漏斗に引っ掛かったのだ。このままでは漏斗が使えないので、別の場所に移して、取り外す事になった時、大地震が起きたのだ。落盤で作業していた人は奥に閉じ込められたが、技師の冷静沈着な対応で、数日後に救出されたのだ。残念ながら、殉職者が出てしまったが、説明板にはこの石が漏斗に引っ掛からなかったら、そのまま作業を続けてしまい、先程の地震の落盤で、工員全員殉職していたと出ている。還者が出ただけでも、この救命石の価値がある。
 救命石か……。何処かしら縁起が良いな。昨年(2007年)はまさに大厄の年だったから、今年は良い年になれる暗示なのかな。ゆっくり合掌した。これも、墓参りの効果と言えば、言い過ぎだろうか?
 気なく、後ろを振り向くと、ギョッとなった。
 丹那隧道があったのだ。となると、さっきの殉職碑は何と、丹那隧道の真上にあったのだ。何て言う他人思いだろう。此処ならば、安らかに眠れると思ったのだろう。丹那隧道の開通を見届けることなく殉職した工員達の心残りは、丹那隧道の開通と東海道本線で繁栄する熱海を見届けたかったのだろうね。そして、その思いが通じたのか、開通と同時に、熱海は関東を代表する温泉街に、東海道本線は日本有数の大動脈として繁栄したのだ。そして、向こう側の三島も繁栄したのだが、東海道本線を名乗っていた駿河小山、御殿場経由は御殿場線に改称したものの、これを機に衰退し始めたのは何処か皮肉だ。今日でも、御殿場線は往年の賑やかさが戻らず、幹線扱いながら関東近辺のローカル線のままだ。しかも、管轄がJR東海だ。それもこれも、全て丹那隧道の所為としてしまっては、殉職者に対して侮辱になるので、此処で控えよう。この殉職碑は或る意味、繁栄していた駿河小山や御殿場が、衰退し始めた事に対する鎮魂碑にも見えてしまった。

 上は丹那隧道上にある殉職碑。
 中は救命石。
 下は丹那隧道。



(2008年2月23日) 熱海梅園


 ぁ、お待ちかねの熱海梅園だ。
 あの列車に乗っている人達は、恐らく伊東か下田辺りで春を見付けようとしているが、此処でもキチンと春が見付けられますよ。
 程の道に戻り、梅まつりの観光客相手の店を後目に歩いた。中でも、目を引いたのは柑橘類を売っている露店だった。それも、バイクの荷台に載せただけの簡易な売り方だ。農家の人だろう。
 柑橘類と言うと、冬の味覚だと思いがちだが、こういう時期となると、春の到来を知らせる果物にもなる。丁度、梅まつりの開催時期だ。甘酸っぱさも春の味だと納得できよう。
 一際目を引いたのが、皮が黄色でテニスボールの大きさの柑橘だ。名前は忘れたが、これは熱海近辺でしか栽培されていない柑橘類だったな。去年の1月に熱海へ出掛けた時、熱海駅前の平和通り商店街にあるスーパーでこれを買った記憶がある。確か、レモンと交配して出来た新しい品種だった気がする。すっぱそうだが、甘さが癖になる柑橘だ。1袋12個入って値段が1000円と出ていた。帰路に買おうとしよう。
 次第に乗用車や観光バスの往来が多くなり、右側に熱海梅園の入口に着く。おぉ、出ていた。「熱海梅まつり」と。今年は64回目。これも、熱海の栄枯盛衰を見届けているイベントだ。最近は東京から手軽に行ける温泉リゾートとして、再び脚光を浴びているから、人出も相当の物だろう。
 口では、梅まつりの看板をバックに写真を撮っている人達で賑わっていたが、もう一方で賑わっている所があった。覗いてみたら、煙草の自販機で使う電子カード(タスポ)の促進イベントだった。おい、開催する場所が違うんじゃないか。こういうのは、駅前でも充分に出来るだろうし、何で梅まつりの賑やかさを拝借して、お門違いのイベントを開催するんだ。煙草を全く吸わない私には、全く解せない。何だ、煙草をスパスパ噴かしながら、梅を愛でるのが格好いいのか。それとも、大人を証明するパスポートなのか?
 内は、やはり梅の花盛りだ。目を奪う程の満開とは行かなかったが、充分に梅まつりとしての機能はある。そして、人の波が続いていた。一足早い春を愛でている何とも羨ましい人達だ。私もその一人になるべく、園内に入った。東京で寒い思いをしている人達よ、熱海に来て一足早い春を愛で給え。しかし、美味しい所は、他人様には渡したくないから、覚悟しておき給え。
 梅花と言っても色々種類がある。メジャーな白梅や紅梅は勿論、萼(がく)が青みがかった白梅や、赤紫色の梅等もあって目を娯しませてくれる。例え、梅の品種を知らなくても、目に飛び込んでくる赤や白の春の装いが、一気に心身共々温もりが感じられるのだ。その温もりを待ち焦がれていた人達は、その場に立ち止まり、待望の春の訪れを愛でているのだ。値上げラッシュやら厳冬やらで笑みが出ることがめっきり減ってしまった昨今、明るい笑顔が多かった。もう、内憂外患な冬は終わりにしたい。今冬は東京でも3度位雪が降ったし、プライベートでも心臓検査に出掛けたり、財布の中身が寂しかったりと厳冬だったが、此処に来て春がやってきた気がするな。それは、梅花や気温等の自然だけではなく、纏まった収入がやってきた身上にもあるな。幾ら温かい春が来ても、財布の中身が寂しかったら、どうにもならないからね……。
 バックに写真を撮る人や道から外れて人の波にもまれずにジッと梅花を眺めている人、愛で方は人様々だ。無造作に人の波に流されるように、連動的に梅花を愛でるのは控えたい。熱海梅園に何しに来ているんだ。歩きに来てるのかと、そう問いたい。下手すると、旅が遠足に成り下がってしまう。折角、東京より一足早い春を愛でているではないか。時間や行動に縛られる事は止し給え。一般大衆と同じ行動を取る事に抵抗がある私は時折止まって、紅白に色付いている梅園を眺めて、東京駅で買ったジャスミンティーを一啜り。その内、流れ行く観光客に目を留める。やはり、熱海は立ち直れたのだ。熟年夫婦や若いグループにカップル、家族連れが訪れていた。老若男女に愛される街こそ、観光都市としての真骨頂なのだ(私の故郷である川越もそうだな……)。
 く歩くと、梅製品を扱っている露店を見付けた。何でも、サービスエリアや駅の売店には置かず、地元の土産物屋でしか置かれていない梅茶だった。数人の観光客を相手に、四十路のおばさんが声を張り上げて、梅茶を勧めている。まぁ、私は梅はそんなに好きではないが、素通りするのも冷たいから、1杯だけ御馳走になった。おばさんはポットのお湯で梅茶を淹れて差し出した。口に運んでみると、眉間にしわが寄った。自棄に温かった。おまけにこの梅茶は塩味が配合されているので、飲み忘れたのをやっと思い出し、口に運んで温くなって味が落ちた味噌汁みたいだった。塩味が口中を駆け回って、2口目がなかなか切り出せない。切り出した所での2杯目もやはりきつかった。地元の土産物屋でしか手に入らない梅茶を試飲出来る所は褒めてあげたいが、淹れた梅茶の温度にも気を配って欲しかった。半分も行かない内に、切り上げた。口直しにジャスミンティーを一啜り。いや、二啜りした。
 今度は茶店を見付けた。この茶店はテレビでも紹介されていて、土曜日ということもあって、満席だった。品書きはそばにうどん、味噌田楽に梅製品を使った料理、甘酒等だが、こんなゴチャゴチャしている所で、食事は摂りたくないし、品書きと不釣り合いな値段には苦笑せざるを得なかった。かけそばが800円とは、食糧自給率がこのまま低下してしまった時の値段を予測させる。余計熱海駅での250円のかけそばや、来宮神社の500円の桜エビのそばが恋しくなる。
 さて、梅園を歩き続けたら、突如雨が降ってきた。雲行きは全く怪しくないが、天気雨のようだ。しかし、事前ににわか雨が降ると天気予報で知っていたので、鞄の中から折り畳み傘を広げた。そんなに強くない雨だけど、折角咲いている梅は散らさないでくれ。春を愛でている最中なのだから……。
 此処で一句。
 梅園や紅白色付く小雨かな

 写真は熱海梅園の光景。



(2008年2月23日) 中山晋平記念館

 の熱海梅園は、ただ単に梅があるわけではない。時期によって開花する花もあるし、関東で最も遅く紅葉が見られるスポットとしても有名だ。又、美術館もあるし、偉大な作曲家の記念館もある。更には韓国ゆかりの庭園もあるので、春夏秋冬問わず訪れられる場所だ。その中でも、記念館と韓国庭園の2つを綴る。
 海は文人墨客に愛された温泉地として有名である。その中でも、この熱海をこよなく愛した作曲家がいた。数々の童謡や歌謡曲を作曲した中山晋平である。そうだ。此処で雨宿りするか。
 入口は異様に混んでいた。ハハァ、恐らく私と同じ雨宿りするつもりだろう。折角だから、此処で中山晋平の足跡を知って貰いたいね。紅白の梅だけでは、飽きるだろう?
 下駄箱が置かれていないので、スーパーの袋に靴を入れて上がった。安っぽさが先走った。
 ずは、入って左側の部屋にある作曲に使ったピアノを見た。和室だが、部屋の方は意外と狭く、私の部屋の4畳半よりも狭かった。3畳位の広さしかなかった。それでも、ピアノはかなり使い込んでいるようで、至る所に塗料が剥げている所があったり、鍵盤が黒ずんでいたりと、長年このピアノで、多くの作品が生み出した足跡が刻まれているのだ。童謡や歌謡曲等、多くのレパートリーを持っていたから、老若男女の心に残る名曲を送り出したのだ。熱海とよく似ている。しかし、都市は違う魅力を同居させるのは容易い(たやすい)が、童謡と歌謡曲という分野が違うとなれば、作る雰囲気を合わせなければ、そう良い曲は作れないだろう。中山晋平はその切り替えが上手だったから、作れたのだろうね。1999年に訪れた福島の古関裕而記念館では、机の各々の面に違う曲の楽譜を置いて作曲したので、全て切り替えられるかがミソだな。現代でも充分に通じる切り替えだ。
 1階には彼の年譜と、レコードと歌詞カードが展示されているが(確か童謡歌手の平井英子だった)、本人が作曲した書斎が何処にも見当たらなかった。もしかしたら、さっきピアノがあったあの狭い部屋が書斎だったのか……。もし、そうだとしたら、畏れ入ったの一言だ。4畳半で寝起きしている私も、負けてはいられないな。
 階に上がると、彼の足跡を紹介しているDVDが流れていた。そこも和室で、洋室は見た限り何処にも無かった。畳の健康効果が再評価されている昨今、何とも健康的な住居だろう。
 彼の曲を多少知っている私は、胡座を掻いて部屋を見ることにした。そこには、大正・昭和初期に作曲した名曲も流れていたし、熱海を舞台にした曲も作られた。どんな曲かは聴けなかったが、当時の熱海では欠かせない曲だったなら、芸妓衆の必須曲だったのだろう。中山晋平の作曲と言うだけではない。観光客が多く訪れるので、いち早く流行を押さえておく必要があったと考える。もしそうだとしたら、今でも歌われている筈だ。機会があれば、尋ねるとするか。ただ、風光明媚な熱海に感動し、住居を移しただけではなかったのだ。
 小学生の時、音楽室に貼られていた音楽家の肖像画で、中山晋平を知ったのだが、その時は童謡の作曲者として確立していた。しかし、高校の時から懐メロを聴き始めた所為なのか、佐藤千夜子の「東京行進曲」、松井須磨子の「ゴンドラの歌」等の歌謡曲を多く作曲した中山晋平は確立出来たのだが(それでなくても、小唄勝太郎の「東京音頭」は、誰しも聴いた事があると思う。そう、東京ヤクルトの応援歌としても有名な曲だ)、「しゃぼん玉」、「黄金虫」等の童謡を多く作曲した中山晋平は確立出来なかった。もう一度小学校に戻って、肖像画を見直せば、少しは確立出来るのだが、もう出来ぬ話だ。こうなったら、歌謡曲の中山晋平として確立する術しかない。
 外は何時の間にか、晴れていた。出るとするか……。
 に降りてみたら、一瞬動作が止まった。銀座の柳二世を見付けたのだ。そう言えば、駿府城でも見たな。晩秋なのに、青い葉をサラサラ風に吹かれていて、気持ちよさそうな柳だったな。しかし、柳とは似ても似つかぬただの枯れ木にしか見えなかった。葉が枯れ落ちたのかどうかは判らないが、幾ら二世とはいえ、華やかな余生が送れるとは限らないな。駿府は大道芸の花が咲き、熱海は観光地としての花が咲いているとはいえ。

 写真は中山晋平記念館。



(2008年2月23日) 韓国庭園



 いては韓国庭園だ。中山晋平記念館から歩いてすぐにある。近くには足湯があるが、梅まつりの最中で、多くの観光客が使っている所為か、濁っていた。余計汚れそうだ。
 しかしまぁ、梅園の熱海にいきなり韓国とは興醒めしそうだが、これにはちゃんとした経緯があるのだ。「白ける云々と」言う前に、この話を聞き給え。
 国庭園の前に何やら碑があるが、そこにはこの韓国庭園が造営された深い経緯が綴られている。
 この韓国庭園は、若き女性パイロットの悲劇が詰まっている。
 そのパイロットの名は、朴敬元(パク・キョンウォン)。勿論韓国生まれの女性だ。彼女はパイロットになるために当時の宗主国であった日本に留学し、昭和3年に見事韓国人初の女性パイロットになったのだ。しかし、留学とはいえ、様々な仕事をして学費を稼いだのだから、どんな苦労かは察知出来よう。食費や生活費を切り詰めるという現代的労苦ではない。丹那隧道の殉職碑で見た韓国国籍の工員が浮かんできたら実に賢い。そう、当時韓国は日本の植民地であったので、彼女に対する差別や偏見は、想像出来ない物があったに違いない。パイロットの夢を平気で侮辱した人、植民地からやってきたという理由で、事実無根な言い掛かりを付けてきた人、そして、大日本帝国が強いた同化政策で、ハングルが使えなかったり、日本国籍をやむを得ず名乗らされたり……。日本史を学んだなら、概ね判ると思うが、それでも、彼女は韓国のプライドを胸に秘めて、同化政策の屈辱に圧迫された韓国人に夢と希望を与えようと、夢を実現させたのだ。
 そして、念願の処女飛行。朝鮮では、幸せを運ぶとして縁起が良い「青燕(せいえん)」を名付けられた飛行機に乗って、羽田から飛び立った。
 所が、縁起が良い筈だった「青燕」は、僅か1時間で、濃霧と言う悪魔で儚く散ったのだ。熱海と程近い伊豆多賀で墜落したのだ。彼女は、操縦席で息を引き取っていた。時間は午前11時25分30秒。彼女の鮮血で染まり果てた懐中時計が物語っている。青燕は日本の空では飛べなかったのか……。韓国では初の女性パイロットとして、日本では珍しい女性パイロットとしてデビューしたとなると、彼女の死は何ともやり切れない気持ちで一杯だ。
 この惨劇は新聞にも大きく取り上げられ、両国の涙を誘った。現場だった熱海では、決して風化させないように慰霊碑を建て、彼女の墜落死に対する地元の活動を長く記憶に留めたのだ。差別や偏見が飛び交い、輝かしい功績をも風化させてしまう都会とは違い、例え異国の人でも、その労苦を認める姿勢が実に素晴らしい。その素晴らしい姿勢が、平成の世に高く評価されて造営されたのが、此処韓国庭園なのだ。韓国でも、彼女をモデルとした映画も作られ、日本でも上映され高い評価を得た。タイトルは「青燕」。このタイトルは、韓国のプライドだけではない。彼女が果たせなかった夢と希望を代わりに果たそうとする制作者の思いが読み取れる。DVDが出ているならば、レンタルしてみるとするか。
 の朴敬元の思いが詰まっている韓国庭園は、日本で大ブレイクした「冬のソナタ」の世界ではない。同じく大ブレイクした「チャングムの誓い」の世界だ。李氏朝鮮時代の雰囲気が詰まった庭園で、台所も甕も見事に再現している。面白いのは甕で、甕の大きさや多さで家柄の裕福度が判ったそうだ。基準は判らないが、大きな甕が多かったので、裕福な家と読んだ。その世界に梅が入るとは、日韓折衷の景色なら納得出来るが、「チャングムの誓い」となれば疑問がある。韓国国花の木槿(むくげ)があるならばいいのだが、生憎無かった。私の見当違いならばいいのだが、彼女を思うのならば、出身国である花を植えるのが道理だと思う。

 上は韓国庭園の門。
 中は韓国伝統の家屋。
 下は家の裕福度が判った甕の数々。



(2008年2月23日) 熱海の桜ブギウギ

 海梅園で、東京より一足早く春を迎えた後は、歩いて熱海へ向かった。実際、来宮神社近くの交差点で見掛けた熱海駅への標識の通りに進むと、(熱海駅と近い)何度も通っている咲見町に出る。此処には旨い店や土産物屋が並んでいる。途中で口慣れた肉まんを買って、坂を下って熱海海岸に向かった。ただ、此処にも熱海海岸への標識があるが、今回は友楽町(中央町)を経由して向かう事にした。実は此処にも春を先取れる物があるのだ。何と桜なのだ。2月下旬なのに桜とは、何と贅沢だ。梅を愛でた後は、桜なのだから。一気に暦は2月から4月へ飛んでしまう。かといって、エイプリルフールではないのだ。実際に咲いているのだ。つべこべ言わずに、友楽町へ向かうとしようか。
 楽町こと中央町。咲見町から坂を下って途中に橋が架かっていて、糸川が流れている場所が中央町なのだ。此処も旨い店が並んでいる熱海の観光スポットだが、今日はそんな賑やかさは嘘のように静かだ。殆どの店の開店時間が夕方からであるからだ。しかし、寂しくはない。そう、桜なのだ。名前はアタミザクラ。しかし、まだ満開を迎えていなかったのか、散り気味だったのか、パッと映える所は無かった。しかし、2月下旬に桜が咲いている事を証明する為に、シャッターを押した。ほら、エイプリルフールではないだろう。梅と桜を両得出来る街なんて、日本全国見渡しても、そう無いと思う。その上、新鮮な魚介類と温泉、そして綺麗な砂浜があれば、言う事は無い。東京には全く無い魅力が、所狭しと詰まっているのだ。それが熱海なのだ。
 ち寄った珈琲院で一服した。去年9月に開催されたイベントの折に立ち寄ったのだが、今回もBGMは掛かっていなかったし、頼んだ物は前回と同じアールグレイティー。珈琲院で紅茶とはホントにピントズレしてるな。珈琲を飲んだ旅先と言えば、山陰本線豊岡駅のカフェと名古屋大須の門前商店街のカフェしかない。それも、砂糖少な目のクリーム多目というほろ苦さが先走る珈琲だ。何時か砂糖多目の珈琲を飲みたいと思っていても、そう簡単には飲める機会はやってこない。砂糖が近くにあるか否かの問題ではない。公私共々充実した時に飲もうと自分自身で約束したのだが、なかなか充実できる日はやってこない。今だってそうだな。やっと、貯金の方の目途も立ったばかりだ。幾ら、春を先取りする旅行とは言え、羽目を外す事は出来ない。ましてや、父方の祖母の代理と来れば尚更だ。
 砂糖を半匙だけ入れたアールグレイティーの香味が、いつもより際立っていた。

 写真は満開のアタミザクラ。



(2008年2月23日) 花見の〆の熱海海岸

 海海岸こと熱海サンビーチ。夜はライトアップされて、幻想的な雰囲気を醸し出し、季節問わず開催される花火大会のメイン会場として広く知られている。それでなくても、地元でも観光客でも休憩場所として賑わっている。シーズンオフでも、賑やかな海岸はそう無いだろう。2月下旬でも、人はかなりいる。梅園帰りの観光客や、ビーチバレーを娯しむ若いグループ、波打ち際でじゃれ合うカップル。これも又、復興した熱海を物語っている。
 楽町で一服した後、此処に来た。一体、何回目になるだろうか。1回目は小田原城に立ち寄った次に、2回目は三嶋大社の参詣帰りに、3回目は難しい国家試験合格の凱旋に、今回で4回目だ。さて、何を綴ろうか……。
 隣接している親水公園で肉まんを抓み、晴れ渡っている空を眺めれば、気分は最高だ。墓参りに向かった冬の寒さが、嘘のように温かい。そうだ。今日は2月23日で、3月は目の前だ。3月になれば、温かい春の訪れがやってくるのだ。今羽織っているコートももうそろそろ長期休暇に入ってもいいだろう。もう10年以上も着込んでいる。色合いも変わってきたが、様々な冬を私と一緒に体験したパートナーだ。
 浜では、子供達が砂遊びをしていた。都会の砂場では殆ど見られない光景に思わず、目を留めた。子供達は砂山の周りに池を作って、隧道を掘っていた。そう言えば、私も外房の一松海岸に遊びに来た時、こんな山と池を作ったな。時折来る波に崩されて、おかしそうに落胆したな。あれからもう20数年も経ったのだ……。無邪気に砂遊びをしていた幼児は、すっかり三十路予備軍になり、その光景を見て、平和だった幼少時を回想しているのだから。時の流れは本当に残酷だ。そして、理不尽が罷り通る大人の世界に、嫌でも身を投じなくてはいけないのだ。折角作った砂山も池も、隧道も全て破壊されても、文句は叩けないのだ。勝ち組で成り上がった連中も、一つのチョンボで奈落の底に叩き付けられる昨今、自分の身だけでビクビクする小さい人間がウジャウジャいる。責めて、君だけはこの和歌を反面教師にして、強い人間になり給え。
 そんな一首。
 砂浜で子供の無邪気な砂遊び知らぬが華か砂上の楼閣

 写真は熱海サンビーチ。





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