2002年5月25〜27日 お伊勢詣りに咲く躑躅

(2002年5月25日) 勾玉池の花菖蒲(伊勢神宮 外宮)

 治山田駅で降りて、外宮に向かった。距離は伊勢市から行くのと同じだが、20分近く歩かされて、この暑さも相まって遠く感じた。合間にアイスティーを啜ったが、もうアイスと言うよりは常温だった。
 扇子を扇ぎながら、歩き続けてやっと外宮に着いた。5月か……。花札では菖蒲が描かれているが、外宮の勾玉池の菖蒲が咲き頃と列車の広告にもあったし、見に行こうか。
 玉池は池の形が勾玉に似ている事から付けられた池だが、その池に時期には菖蒲が2000本咲き誇るそうだ。私が行った時は時期遅れという事で、池に満開に咲き誇っていた事はなかったが、紫や白の菖蒲が美しかった。しかも、全体に満遍無くではなく、一極集中で咲いていたのがよかった。写真に上手く収まるからね。
 外宮周辺には土産物屋も無く、国道23号線が傍らにあるだけにも拘わらず、参詣者が一杯いた。今日が土曜日という事もあるだろうが、今でも素直に人の多さを認めるには難い。参詣者は年配者が多かったが、チラホラと若者もいた。脈絡と続くお伊勢詣りの習慣は、世代を超えて受け継がれているのだ。
 宮の大鳥居を潜って、大木が成した鬱蒼とした木陰に入ると、一気に暑さが掻き消され、涼しい風に気分が良くなってきた。此処にも参詣者が一杯いた。大概はパックツアーの人が殆どだ。バスガイドの旗が方々で見られた。しかし旅好きの私には、小学生の遠足みたいに幼稚に見えた。よくもまぁ、大勢でゾロゾロ歩いて、観光する気があるなぁ。時間に縛られるのがそんなに好きなのか。思う存分娯しむのが、旅の醍醐味ではないのか? 時間に縛られるのが嫌いな私には、自分自身をナメきっているように見えた。
 その光景を後目にし、参詣した。私はこの旅が出来たお礼と願い事を託した。

 写真は伊勢神宮外宮の勾玉池に咲く菖蒲。



(2002年5月25日) 旅人よ、雅楽に浮かれよ(伊勢神宮 内宮)

 治橋の下には、濁りない清らかな五十鈴川が流れている。両岸の青々しい木の葉が、間近に迫ってきた成長(生長)の夏を示している。秋には綺麗な紅葉が、五十鈴川と共に伊勢の秋を告げ、春には若い芽が生えだして、黄緑の若葉が生え揃っていたら、春の到来を告げるのだ。都会の汚れた川とは雲泥の差だ。四季折々の情緒を誇大装飾する事なく、参詣者に見せているのが、この五十鈴川だ。
 いので、扇子で扇いで宇治橋を渡った私は、五十鈴川のせせらぎだけでは、充分な涼は取れなかった。濃いたまり醤油の伊勢うどんを頂いた後に、冷たい飲み物を飲んでいなかったので、異常に咽喉が渇いていた。昼餉を頂いた時、温いお茶を飲んでいたので、中途半端な気分が蔓延っていた(飲み物はやはり季節を問わず、冷たいのがいい)。御手洗場の水を飲もうとしたが、なんと私は、両手と口を清めて、水を飲みたい願望を振り捨てて、しきたり通り吐き出してしまったのだ。ちょっと「しまった!」と思ったが、後々考えると、御手洗場の水をゴックンと飲んでしまう程、幼稚な旅人ではないと自覚していれば、どうでもない。
 域に入ると、周囲の桧の大木が暑い日光を遮り、涼しい空間を参詣者に提供して下さった。お伊勢詣りの最中に、暑さでへこたれている参詣者をねぎらう天照大神の御心なのだろう。嗚呼、何て有難い……。それは初めて参詣する人でも、私のように何度も参詣している人でも、平等に分け与えて下さるのだ。最も、この日に開催されていた「夏まちまつり」ばかり娯しんでいた軽挙妄動な私でも、平等に分け与えて下さるのだから、有り難さは一入だ……。粗末には出来ない。
 内宮は全国各地からの参詣者で一杯だった。
 そんな中、去年は雅楽が流れていた雅樂殿を通ったが、今回も何と流れていたのだ。聞き慣れない雅楽に足を浮かれさせて、参詣するのも一興だな。
 此処で二句。
 五月晴れ雅楽に浮かれる旅の脚
 躑躅散る哀れを悼む雅楽かな

 宮前の大きな石段を一歩一歩確実に登り、正宮に着いた。此処がお伊勢詣りの終着地だ。外宮から内宮迄の道程は区々だが、どんな道程があっても、最終地点は此処内宮の正宮に違いはない。昔から日本人の憧れの地であり、心の拠り所とされてきた聖地伊勢神宮だ。賽銭を入れるにしても、血と汗で稼いだお金を入れなければ、罰が当たりそうだ。
 宮参詣後、正宮近くで鹿を見付けた。子供連れの参詣者が、立ち止まって鹿を見ていたが、どうも姿を見せてくれない。私もカメラのシャッターを押そうと機会を窺ったが、どうも鹿は少ししか姿を見せてくれない。「立ち入りご遠慮」の所にはみ出して(「立入禁止」ではなかった)、機会を窺っても、鹿はその事を知らずしてか、後ろ姿しか見せてくれなかった。「足、はみ出ているぞ」と窘めて(たしなめて)いるかのように……。
 前回の旅行で初めて参詣した荒祭宮に向かった。荒祭宮は正宮の平穏さとは対照的な活発さを求める為の宮である。順路とは離れているので、参詣者は疎らだ。「踏まぬ石」を踏まずに下りて、参詣した。順路に戻る途中、7〜8人の若い男女がいたが、この人達も今後の活躍を祈っていたのだろうか?
 帰り道に、ふと気にしていた事が1つ浮かんだ。前回の旅行で会えなかった神馬の事だったが、今回も会えなかった。もう高齢だから(昭和55年生まれだから、人間の年に換算すると80を越えていそうだな……)、体調が優れないのかも知れないな。このまま、亡くなってしまうのかな……。寂しさが抑え切れなかった。
 その近くの休憩所に入って、咽喉を潤そうかと、お茶コーナーへ向かったが、茶碗が全部使用済だった。呆れた。更に呆れたのは、係員の姿が何処にも無く、参詣者をねぎらう気持ちが薄過ぎる様だった。参詣者をナメている気がした。
 結局、咽喉を潤せずに俗世へ還った。



(2002年5月25日) 躑躅咲く庭園で一服 (五十鈴茶屋)

 い天気だ。絶好のまつり日和だ。と思っていたら、お腹が空いてきた。まだ1時間も経っていないのに……。伊勢うどんは消化が良いのか、頂いた量が少なかったのか。
 こで私は五十鈴茶屋に入って、赤福と抹茶を正座で頂いた。此処に来てから名物の赤福を頂いていなかったので、この時に頂いた。赤福のあっさりした甘さはもとより、茶屋の庭に植えられている躑躅(つつじ)が満開で、濃い桃色の躑躅が周りの葉の緑と相まって、その容姿が映えていた。周りは至って静かで、近くの五十鈴川のせせらぎもよく聴こえた。東京には無いね、こんな心身共々安らぐ所って。時折飛んでくる燕も此処に来れば、夏が近付いてきたと無邪気に思えるのだ。
 私はこんな静かな場所で、赤福と抹茶を頂いて良い気分になった途端、正座し慣れていない私の足が痺れてきた。膝立ちで足の血行を促していたが、又正座すると痺れがぶり返してくる。容易に立てなくなってきた。うっかりすると、後ろに倒れそうだ。まぁ、後ろの襖が盾になってくれるのでいいのだが、体重58キロに耐えられるかが問題だな。下手したら、コントみたいに襖と諸共に後ろに倒れてしまう。そうだとしたら、笑えないな、コリャ……。
 痺れる足を慣れている胡座に直し、冷茶を啜った。こっちの方がゆったり出来る。暫く此処で休んでいようか……。充分に休めるよ。躑躅も満開だし、五十鈴川のせせらぎも聴けるし。私は脚を伸ばして、初夏の陽気を娯しんだ。
 此処で二首。
 庭園の植木の緑も鮮やかに周りに映ゆる躑躅の紅
 白い石躑躅の紅に葉の緑黒も彩る燕の親か

 写真は躑躅咲く五十鈴茶屋の庭園。



(2002年5月27日) 二見浦とカエル


 見浦は慣れ親しんだ伊勢と鳥羽の中間に位置する。伊勢と鳥羽なら何度も訪れているが、此処二見浦は今回が初めてだ。
 ホームに降りると、車掌が降りてきて、切符を回収していた。二見浦駅の駅員は、窓口で客を待っていた。それも委嘱らしいおばさんがいただけ。
 駅前は白亜の大鳥居が立っていて、両脇には民家が連なっていて、夫婦岩への道を開いていた。それにしても、周りは閑散としているが、駅舎は半円をモチーフにした建物で、美術館並みに綺麗だった。一体何をモデルにしているのかと考えたが、夫婦岩ではないだろうか。大小の半円が夫婦岩と同じ位置にあるのだから……。町随一の駅と言う事もあって(当時は二見町だった)、名所のアピールする町の意気込みが聞こえてきそうだ。
 駅前に停まっているタクシーを拾って、二見浦に向かった。都合が良いな。二見浦に向かおうとした矢先のたった1台のタクシーだ。見事な当たりくじだ。野球で打席に立てば、初球を打ってタイムリーって所かな。
 て、今回が初めての二見浦、何があるのかな。先程挙げた夫婦岩の他にだよ。え、思い付かない……。どうしても、「二見浦=夫婦岩」が定例になっているが、(今は無いが)海水浴場が此処二見にある事や、カエルが有名である事は知らないだろう。初めての私でも、「二見浦にカエル」は首を傾げるが。そんな疑問を過ぎらせて、タクシーは夫婦岩に向かっていた。タクシーを使っていくと便利と言われたのだが、ほんの8分位で到着した。信号が青だからスンナリ行けたのもあるが。それでもメーターは1つ上がったが……(600円前後だったかな)。
 見の海は、濁り澱みの無い海だった。こういう海は豊富な海の幸を民に提供して下さるのだ。それが、黒潮の通り道だったり、親潮とぶつかる所ならば尚更だ。差詰め、千葉の銚子か……。しかし、二見は漁業で有名な所でもないが、此処が海水浴場に選定されたのは充分に頷ける。こんな静かで綺麗な海だ。心身癒されただろうね。
 此処二見は、お伊勢詣りと深い縁がある地でもあるのだ。伊勢神宮参詣の際、二見浦を禊ぎの浜として賑わいを見せた。此処で禊ぎをして、船で二軒茶屋に来て、外宮、内宮と参詣したそうだ。そういえば、伊勢河崎に二見浦の海水を沸かした「汐湯」をやっている銭湯があるのを聞いた。今でも伊勢と二見は、深い繋がりがあるのだな。
 そう認識した私は、防波堤の上を歩いた。しかし、この防波堤は防波と言うよりは、護岸の役割が大きいと思うのだが。大波の予感が無い二見浦に防波堤とは、この先の二見興玉神社を守る他にはないだろう。此処に海水浴場があったとは、首を傾げてしまう。荒そうな波が何度も来て、飛沫を上げていた。
 夫婦岩は二見興玉神社と隣接していた。写真やテレビでは何度も見ているが、大衆の間では、此処からの初日の出は別格らしいそうだが。現に私が見た夫婦岩は、初日の出ではなく、雲が多くなり掛けている二見の空だった。実際、夫婦岩を見てみると、思ったよりも大きくなかったな。しかも、興玉神社のすぐ近くにあるので、以外にも小さくて驚いた。持ち帰れそうだな。女岩なんか、高さ1メートルにも満たなかった。それと対照的な3メートル位の高さの男岩と注連縄(しめなわ)で結わえている様は、夫婦の絆の強さでも言えばいいのか、共存共栄の勧めを謳っているのか、力強くて勇ましかった。
 あっ、そうだ。カエルの話は、次に話すとするか……。

 上は夫婦岩を象った駅舎のJR二見浦駅。
 下は夫婦岩。



(2002年5月27日) 二見興玉神社(1)


 くの二見興玉神社は、感想を一言で言うとカエル神社。御手洗場にも、絵馬にも、正宮にもカエルが一杯だ。このカエルは縁起物で、「無事カエル」、「(カエルが3匹で)栄える」、「(カエルが6匹で)幸福を迎える」と願を掛けているのだ。そういえば、5月25日におかげ横丁・通りで開かれた「夏まちまつり」で、ガマの油売りを見たのも何かの縁に違いない。参詣するとするか。
 海岸沿いの土産物屋で、コンパクトな陶製のカエルの置物を買った。大きいカエルの背に小さなカエルが1匹乗っていた。親子ガエルなのかな。考えた末に買ったのだが、一体何を暗示しているのか? 「無事カエル」なら判るのだが、大小のカエルはどういう意味なのか……。夫婦岩に例えたら、大きいのは私で、小さいのは未来の彼女か花嫁か? 妙な暗示に苦笑した。
 さな砂浜の脇を過ぎて、二見シーパラダイスに併設されているカフェで一服した。二見の海が一望出来て、一休みには好条件だったが、色付きの硝子窓だったので、海と空は夕暮れを指していた。自棄に分針が速くなった錯覚がする。嫌な話だね……。
 此処にいたら、何時の間にか夜になってしまうので、アイスティーを飲み終えてすぐに出て、土産物屋をあちこち見た。伊勢神宮参詣の印として愛用された刃物を作る店を覗いてみた。魔除けの短刀でも買っていこうかと、自分のお好みの匕首(あいくち 鍔のない短刀)を探した。和鋏に爪切り、ペーパーナイフに刀の鍔等が並んでいて、その中に匕首があった。早速値札を見ると、独りでに財布の紐が堅くなってきた。鋭そうな刃を持った匕首は、如何にも魔除け灼かな雰囲気があったが、値札には12000円と出ていたので、魔除け所か、旅人除けの効果を発揮してしまったではないか……。とんだ了見違いだ!
 結局、何も買わずに、二見シーパラダイスのバス停に着いた。
 空を見ると、雲が取れて晴れていて、暑かった。自然に私の左手には扇子を持ち、鬱陶しそうに扇いで、バスの到着を待った。しかし、その時間が長過ぎて、扇いでいた左手が疲れてしまい、余計暑くなってしまった。それだからこそ、到着するバスに冷房が入ってるかが気になってくる。それを思うと、又暑くなってきた。不快指数がうなぎ登りだ!
 ス停の裏側では、ブリキ板を通じて何かのショーをやっていて、賑やかだった。係員のアナウンスや観客の歓声がよく聞こえた。この甲高い声は小学生の声だろう。バス停に向かう時、修学旅行の小学生に出会ったが、この声がそうなのかも知れない。もしかしたら、今朝山田上口で擦れ違った小学生なのかも知れないね……。「旅行は偶然の出会いを約束してくれる」と、常々思っているのだが、やはりそうだった……。世間は以外に狭いものだな。
 さて、この小学生達は始終二見の景色をキョロキョロ見て、シーパラダイスに入って行ったが、まだ小学生達に夫婦岩の魅力や興玉神社のカエルの由縁なんか、判らないだろう。甘んじても、カエルの多さに喜ぶのは認めるが、夫婦岩は見ても判らないだろう。大小の岩に注連縄(しめなわ)があるとしか思えないだろう。私はそんな事を思いながら、暑さを凌いでいた。

 上は二見興玉神社。
 下は二見シーパラダイス。



(2002年5月27日) マコンデ美術館



 の浦。臨時駅池の浦シーサイド駅の傍らには、漣すらない穏やかな裏が水平線まで続いている。池の如く穏やかな浦と言うから、「池の浦」という地名が付いたと言われる。
 こんな静かな所に、アフリカ大陸の無限のパワーを秘められた美術品が見られると聞くと、大概首を傾げるだろう。私も最初はそう思った。こんな所に、アフリカ美術があるなんて、海の近く故、了見違いと嗤っていたが、実際行ってみると、見事な造形美やアフリカ大陸の魅力に息を呑み、日本のちっぽけさを痛感させられた。その美術品が、此処池の浦で鑑賞出来るのだ。
 池の浦バス停で降りて、緩い上り坂を登ったり、陸橋を渡ったりして、多くの雑草で埋め尽くされた歩道を2分程歩くと、右手に僅かばかりの近道を通ると、眼前に白い建物が見えてくる。そう、「マコンデ美術館」と書かれているのが、そこである。
 術館に一歩入ると、そこにはアフリカの大気が想像力に満ちた黒檀彫刻から発されていて、漲るパワーに圧倒されてしまう。どの彫刻もアフリカ大陸の無限のパワーに満ち溢れていて、作品自体には触れるが(触れない作品もあるので注意)、パワーに圧倒されてしまったら、触る事すら困難になる。とても硬い黒檀の形を捉えて、様々な彫刻を生み出していくバイタリティーが各々の作品に詰まっている。美しく具体的に仕上げる西洋美術と比べて、形を十二分に生かして、抽象的に仕上げるアフリカ美術にカルチャーショックを受けるだろう。
 作品の中には、形の都合で常識を逸した作品もある。「片目のマスク」は左側に大きな穴があるので、右目だけを仕上げた作品だ。「二連のマスク」は口の部分にピッタリの穴があるので、作者が顔を2つあるマスクを作ったそうである。又、男女のセックスを対象にした作品は、エロスと言うよりは、生命の神秘さに驚くだろう。作品自体が壮大で、セックスという行為を生命を創り出す行動と見て、その行動の糧を抽象的に、黒檀の形を壊さずに制作している。
 此処に来たら、是非見て欲しい作品がある。それは「チョースケ」と言う作品。どうして、チョースケなのかは見てのお楽しみだ。ヒントとしては、ザ・ドリフターズだ。判ったならば、見た途端、吹き出すだろう……。どんなものかは実際に行って、その作品を見た方がいいだろう。此処に出すと、興醒めしてしまうから。
 此処の美術館は、彫刻の他に絵画も展示されているのだ。遠近法を用いずに、人物や動物を抽象的に描いた絵画だ。中には小中学生程度の絵画があるが、それがなかなかどうして、動物の肢体、人物の動きが大胆に表現されていて、アフリカの日常生活を垣間見られるから面白い。その他、民族楽器や日用品までも展示されているので、1000円の入場料はさほど高くないだろう。
 用品まで見て、改めてマコンデの漲るパワーに息を呑んだ私は、広い空間に立った一人いる自分に気付いた。足音立てても、聞き耳立てる人は何処にもなく、人物の彫刻の目が私の存在を珍しがり、横目から私の行動を逐一観察していた。民族音楽のBGMが流れていても、目と耳は別神経のようで、来訪者ノートに書き込みをしている最中でも、誰かに見られている気が止まなかった。スムースには綴れなかった。此処に来ても、想像力は衰えていないようだな……。
 土産に、2羽の鳥が羽を広げている絵の表札を買った。4500円也。その他に彫刻や絵画、アクセサリーや民族楽器、中にはソープストーンや動物の革で作られた鞄もあった。彫刻と絵画は西洋絵画同様値が張る。やはり、容易にマコンデ美術を吸収するのは難しいのだ。
 閉館時間が近いのか、たった1人の係員が帰り支度をしていて、自然に私が本日最後の来訪者となった。荷物を預かってくれたり、土産物の説明をしてくれたりした係員の親切さに、疲れが少々癒された。



(2002年5月27日) 池ノ浦シーサイド

 ノ浦で未知のアフリカパワーを感じ取った私は、荷物を預かってくれたり、土産物の説明をしてくれた係員の親切さに、疲れを少々癒され、美術館を後にした。
 所が、私が此処を出る事を知っての事なのか、夕立が降った。静まり掛けていた鬱陶しさが広がった。おまけに両手には荷物を抱えていて、楽に傘は差せなかった。おまけに不便な折り畳み傘ときたから、鬱陶しさは倍加した。私は嫌な顔をしながら、折り畳み傘を広げて、臨時駅の池の浦シーサイド駅に向かった。列車に乗るのではなく、バスの時刻まで余裕があるから寄り道をしたのだ。「潮干狩り中止」の看板を見ながら。
 の浦シーサイド駅は、駅舎や庇が無い簡素な駅で、切符売り場らしい売店がシャッターを下ろしていた。ホームの後ろには、穏やかな池の浦が広がっていた。夕立が降っているので、漣が立ち始めていた。それでも、持ち味の穏やかさは失わずに、落ち着く雰囲気を四方に伝わらせていた。しかし、夕立に降られて、小さな折り畳み傘を差しながら見るのでは、軽い気休めにしかならない。幾ら娯しい旅でも、雨に降られては娯しみが半減してしまう。生活が便利になった昨今でも、天気には勝てないね。まぁ、それも旅の醍醐味だからね!
 此処で一首。
 池ノ浦辺の小さな臨時駅過ぎ去る列車出番を忘れ

 ス停に戻っても、雨は激しくなったり緩くなったりと夕立が続いていた。傘差しながらバスを待つなんて、窮屈過ぎる。鞄が濡れないように中に押し込む。私がこうしてひもじい思いでバスを待っているのに、定刻を過ぎてもバスは来なかった。池の浦で鎮まった鬱陶しさがぶり返してしまった……。
 蒸し暑くなってきた矢先、背高の青いバスが来た。来たか……。それと共に、雨も小降りになってきた。傘を畳んで乗車した。此処でも、冷房は付いてなく、又扇子の出番がやってきた。
 果たして、冷房が利いている乗り物に巡り会えるのは、何時の事やら……。
 此処で一首。
 漣が寄せては返す池ノ浦浦に消えたり夕立の騒々

 写真は夕立の池の浦。



(2002年5月28日) 紀伊長島の浜風


 伊長島。此処まで来ればれっきとした紀州だ。紀州の三重寄り東紀州だ。しかし、東紀州は熊野しか訪れていないので、どんな所なのかと期待していた。特急停車駅であるのにも拘わらず、駅前には賑やかさが無く、田舎の漁港町のような静けさと、山海に挟まれた小さな町の長閑さが同居していた。
 漁港町だから、さぞ魚料理屋が軒を並べているのかと思っていたが、駅から歩いて突き当たりに寿司屋があるだけだった。
 特別に見所が無いので、私は漫ろ歩きしただけだったが、なかなか面白い所もあった。
 羽川を渡って、すぐの細い路地に入ると、左側に洋風の家をした郷土資料館があって、中に入ったが、職員は休憩中という事で、私一人で館内を歩き回った。普通の民家を改築した造ったお粗末な資料館だった。動物の剥製や昔の絵葉書、出土した土器が陳列されていたが、電灯が点いていない所為で、埃が被っている様が目立ち、恐怖感と不潔感が漂っていた。蛾なんか飛んでいたら、ひとたまりもない。町の年表も昭和48年で止まっていたので、自分が存在していない年代にタイムスリップしたかのようで、今いる自体が疎遠になってしまった。出土品の調査書もあったが、昭和62年度のでも新品のようだったので、取るのを止めた。そこに、過剰な郷土を思う心の期待が見えていた。
 切れしそうな資料館を後にして、人通りの少ない路地を抜けると、左に漁港が見えてくる。鰹の水揚げ量が多い事で県下で有名だが、昼過ぎで競りが終わっていたので、此処には田舎の静かな漁港があっただけ。魚市場の上には鴎が落ちた魚を狙って、機会を窺っていたが、人間の私には魚市場の終了時間を知っているのに、鴎には魚市場と漁港の存在を知っているだけで、一つ残らず捌かれた魚の事は知る由もなかった。暇を持て余して、大きく弧を描いて飛んでいた。魚市場を通り過ぎる時、啼き声を聴いたが、私には魚の在処を教えてくれよと、問い掛けられているように聴こえた。私を余所者と知ってか?
 暑い。何処かに涼める所はないか。
 ロープ橋の下を潜ると、チラホラと小さな魚屋が目立ち始めた。干物を作っている所や、鱗を落としている所もあったが、地元客向けの店であって、観光客の目に止まる宣伝文句が書かれてある看板は一つも見当たらなかった。魚屋の中をよく見てみると、夕餉の支度をしている所や、狭い路地で洗い物をしている所、更には、孫の相手をする老婆の姿もあった。此処で紀伊長島の日常が垣間見られた。東京では忘れ去られた日常が健全なのだ。時間に追われる事はなく、ノルマに決して縛られず、一日一日を大事にしている。与えられた時間を有効に使っている事を理解しているようだ。
 さて、紀伊長島に来たのだから、土産でも買っていこうかと思い、ガイドブックを開いた。こしあんをカステラの皮でくるんだ「とらまき」と、地元のカッパ伝説に基づいた羊羹の「かんからこぼし」の2つがあった。早速、その店に向かおうとしたが、地図通りに進んでも、菓子屋は何処にも無かった。暑さの所為で、土地勘が狂ってしまったのか。いや、下手に歩いて迷子になる程、私は馬鹿ではない。魚屋と民宿の境の道を右に曲がって、すぐ後ろの通りを又、右に曲がった。物陰に入って涼むがてら、菓子屋を探そうとした。しかし、扇子が手放せず、扇ぎながら歩いた。要が壊れそうだ。
 扇を仕舞い込もうとした時、眼前に小さな菓子屋を見付けた。近付くと「とらまき」の4文字があった。此処だ。中に入ると田舎の菓子屋だ。右には贈答用の菓子折のサンプル、左には市販されているガムやチョコレート、菓子パン等が置かれていた。ショーケースには、生菓子に名物のとらまき、一番下にはかんからこぼしが並んでいた。そして、店内は冷房が入っていて涼しかった。数秒間店内で涼んでいると、中から五十路のおばさんが出てきた。生菓子を作っている最中だったのか、額が汗ばんでいて、手は餡を作っていたのか汚れていた。私はとらまきを2本頼んだ。何でも真空保存されているので、1ヶ月位保つという事で買った。だが、かんからこぼしは保存が利かないので、今回は控えた。2日しか保たないから、15センチの羊羹を2日で平らげるなんて、甘党ではない私には無理なので。
 とらまきを入れた紙袋を受け取る際、私はおばさんの手を見てギョッとなった。おばさんの手は深いひび割れが指の腹にあり、所々どす黒くなっている所があった。見た感じはカサカサで、美容的手入れはしていないようだった。逆手に言えば、今日までとらまきを作り上げた職人の息吹があった。粗末には頂けない。
 浜風に吹かれて一首。
 昼下がり競りが終わりし長島の静かな漁港鴎飛びけり

 さを扇で癒しながら、駅に戻った。暑さに耐え切れず、アイスクリームとスポーツドリンクを買って、急いで頂いた。腹には来なかったが、頭にキーンと来た。涼しい所か、肌寒くなってしまった。自然に長袖を纏った。
 特急到着迄かなりある。それまでに駅構内を歩いた。3番線に、見慣れない列車が停まっていた。「EURO LINER(ユーロライナー)」と出ていた。中は欧州で見掛ける長距離列車によく似ている。まぁ、ユーロは欧州の事だから、欧州の長距離列車をアレンジして造られた列車だろう。4人用個室と6人用個室で占められていた。個室はカーペットが敷かれていて、クッションやオーディオが置かれていた。恐らく、行楽用に使われる車両なのだろう。なかなか豪華な列車だが、見た目でも設備でも一昔前の雰囲気が拭えなかった。車体には「日本国有鉄道(旧国鉄)」の印があるし、オーディオも軽金属のボディで、部屋の雰囲気とは釣り合っていなかった(今の個室は、キチンと合わせているのだが……)。食堂車もあったが、「北斗星」や「カシオペア」と較べると、やはり見劣りする。テーブルにはクロスが敷いていなかったし、個室の設備を見た以上は、手入れはしていないと素人目でも判る。時代の流れだとしたら、致し方ないな……。しかし、私は1回でもいいから、この列車に乗って、遠くまで行ってみたい。個室でゆっくりくつろいで、酒肴に舌鼓を打つのもオツなものだ。あ、そうだ。去年(2001年)の2月に実現したんだっけ。寝台特急「出雲」のシングルデラックス(A1寝台)で、但馬浜坂迄行ったんだ。その時は夜だったから、余り酒肴を嗜めなかったけど、娯しかったな。少し贅沢な望みだったな。そんな昔話に苦笑しながら、1番線を歩いていた。時間柄、地元の高校生が次々とやってきたが、騒がしい事はなかった。

 上は紀伊長島の街並み。
 下は団体列車「ユーロライナー」。





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