2006年6月19日 梅雨晴れの大垣・岐阜

(2006年6月19日) 大垣へ……


 垣、岐阜……。この2つの都市に共通する点は何だろう。単純に考えてみると、岐阜県内の都市、東海道本線が繋がっている都市と思い付くのが筋だろうが、両都市共城下町であることは歴史好きな人以外は以外だろうと思う。岐阜は斎藤道三のゆかりの城、稲葉山城(岐阜城の旧称)があることは周知の事だが、大垣と聞かれたら、真っ先に何が浮かぶのだろうか。松尾芭蕉の「奥の細道」の結びの地が浮かんだらいい方で、城下町である事は余り知らないだろう。今回は、大垣と岐阜の城下町合戦と称して、半日ながらその都市を歩いてみる。6月19日、梅雨の真っ直中の日。
 (宿泊地の)松阪を8時43分に発って、名古屋を経由して、東海道本線の10時30分の新快速で大垣に向かった。
 垣。それは(当時)東京23:43発夜行快速「ムーンライトながら」の終着駅である。普段は、名古屋で降りてしまうので、どんな町なのか期待で一杯だ。しかし、周りは平常通りの平日の光景だった。時間も11時近く。近辺に向かうサラリーマン達が、あれこれ会話を交わしながら、到着を待っていた。私みたいに休暇を取って、旅行する人は果たして何人いるのかな……。と思っている人も、実は旅人なのかなと、そんな他愛ないことも考えられる。非日常的な過ごし方が出来る嬉しさを、他人に知られないように抱えながら。
 木曽川駅を通過し、木曽川を渡ると岐阜に入る。近未来的な造りの高架駅岐阜を越え、そして、目的地の大垣は、岐阜から3つ目の駅だ。
 到着すると、何やら面白い物を見付けた。「良い和を目指す大垣駅」を謳った看板だ。何の脈絡も無いキャッチフレーズだと思ったが、その説明を見たら、何と頓知を利かせたキャッチフレーズだろう。東京から大垣までの距離が丁度410キロなので、その語呂に合わせて「良い和」と付けたのだ。ただ、その410キロのキロポストが、駅ビルの建設に支障を来すそうなので、支柱にキロポストが描かれていた(見付けたのは岐阜に向かう時。まぁ、この看板が410キロのキロポストの変わりと思えば、いいオブジェだろう)。「良い和」かいい事がありそうだな……。
 しかし、今日は月曜日。博物館や観光施設、飲食店がこの日に休むケースが多いから、観光範囲が縮まってしまうのではと心配だ。
 を出て、脇にある観光案内所に立ち寄り、観光スポットを探す。そうしたら意外な発見を見付けた。此処大垣は大垣城や、奥の細道の結びの地だけでは無さそうだ。水の都としても有名なのだ。伊豆の三島もそうだったな。海より遠い大垣が水の都だなんて、何処か腑に落ちない気がするが、まぁ、行けば判るだろう。「論より証拠」と言うからね。因みに大垣城は開館しているそうであり、駅から近いと出た。下手に金銭を減らさずに済んだな。
 駅を出ると、大垣貨物駅跡を見付けた。貨物用列車が2両連結している簡素な跡地だが、その近くには希少価値が高い円いポストを見付けた。貨物駅跡地に円形ポストとは、ウーム、いい調和だ! 大垣貨物駅跡と書かれた看板には、「高屋村」と出ていたが、当時の名前だろう。現に大垣駅近くの交差点には、「高屋町」と出ている。

 上は良い和を目指す大垣駅。
 下はJR大垣駅近くにある大垣貨物駅跡。



(2006年6月19日) 水の都 大垣




 光案内所で貰ったパンフレットを元に、歩き始めた。
 程なく歩くと、水辺を見付けた。いや、水辺というより水路だな。その辺には、芭蕉が訪れた所で詠まれた俳句が何ヶ所もあり、「奥の細道」の結びの地だと解き明かしてくれる。ただ、流れる水は目立ったゴミは無かったものの、濁っていて、水の都と謳うのはちょっと無理がありそうだ。三島では地元企業の尽力で綺麗な水が復活し、自然が戻り豊かになったので、此処大垣でも地元の協力で水を綺麗にして欲しいよ。何でも「奥の細道」の結びの地だけでは、物足りなさが否めない。
 それにしても暑いな……。週間予報では週末は雨マークが出ていたものの、いざ旅してみると、雨が降ったのは土曜だけで、日曜の夕方頃にはスカッとした晴れ模様。そして、今日は雨の気配が無く、雨に降られるのが嫌な私には、何とも嬉しい旅日和なのだが、扇子がひっきりなしに動く暑さは真っ平御免だ。その暑さも水辺に植えられている木の陰に隠れると、シャンと止んでしまう。丁度若葉が生長している時期だ。いい日陰になっている。暫くは、日陰に隠れて歩くとしよう。濁った水辺をつまらなさそうに見ながら。東京の濁った水路と何ら変わりはない……。
 さて、少し歩くと、何やら看板が立っていた。見ると、「湧き水がある公園 栗屋公園」と出ていた。湧き水がある公園か……。水の都に相応しい。早速行くとするか。丁度喉が渇いているからな。
 屋公園は住宅地に囲まれた小さな公園だが、先程綴った通り、湧き水が沸いている公園だ。しかも、その湧き水を多くの人に味わって貰う為に、公園全体を整備したそうである。前は、雑木がボーボー生えていて、遊具が草臥れている(くたびれている)魅力無い公園だったが、今見てみるとその残像は何処にも見られない。遊具の数は余り見られないが、水遊びが出来る程の水辺にスラッと垂れ下がった枝垂れ柳が、いいアクセントを添えている。その近くには湧き水が滾々と湧き出ている。住宅地にありながら湧き水が味わえるなんて、東京では余り見掛けない(水辺がある公園はあるけどね)。ちょいとした贅沢な公園だな。序でに水質調査にも合格していて、非処理の水なので、気兼ねせずに飲める。しかし、公園に備え付けられていたコップの底が少々錆び掛けているので、両手で湧き水を受けて一口飲んだ。冷たかった。その湧き水で手を洗い、公園を後にした。
 た、此処の他にも、大垣城を北に進むと郷土館があり、何とそこにも湧き水があるのだ。麋城(がじょう)の井戸と言って、蒟蒻屋を営んでいた文七という男が、綺麗な水を求めて、川の近くに穴を掘り、木材を打ち込み、節を抜いた竹を思いっ切り差し込んだら、あ〜ら不思議! 竹の切り口から何とも綺麗な水が溢れ出た言い伝えがあるのだ。奇跡みたいな話だが、奇跡は必ず何処かで起きているものだ。(かけい)から流れている水は何とも綺麗な水だ。ただ井戸槽の水は遠慮しているそうだ。そりゃそうだ。誰でも新鮮な水を求めているからな。先程、公園で潤した喉が渇き始めたな。筧から水を掬って啜った。冷たかった。それにしても、町の中で湧き水を飲んだのはこれで2回目だし、滅多に無い事だな。
 垣城の近くにある郷土館を過ぎ、パンフレットを片手に又水辺を目指した。又、前のような水路と変わりない水辺だったら、「水の都」の名勝を一刻も早く抹消して貰いたいものだ。とぼやきながら歩いていたが、郷土館近くの興文橋に差し掛かった所、そんな思いは一気に晴れた。前とは全然違う水辺だった。水は濁っていないし、川幅も広く、流れに沿って遊歩道が設けられているし、その上、手入れされているので清潔感が溢れていた。水遊びが出来そうだな。何だか安心して、歩けそうだ。川沿いに進路を変えて、木陰を歩き始めた。此処にも芭蕉が訪れた所で詠まれた俳句が何ヶ所もある。
 差点角にあるオープンカフェを見付けた。清らかな水辺の近くだと、飲む珈琲も紅茶も一段と美味しく感じるだろうね。どうせなら、遊歩道にもテーブルを置いて、営業したらいいだろうねぇ。水辺を見ながらの一服、小洒落た贅沢だ。
 さぁ、蒸し暑さを頻りに仰ぐ扇子で追い払いながら、木陰を歩いていると、「水の都」と呼べる所に出会った。四季の広場という公園だ。住宅地に囲まれていながら、緑に恵まれていて、四阿(あずまや)もあるし、屋形船(?)もある。此処には噴水は無いが、周りの岩から滝が流れ出ている心安らぐ水辺の公園だ。更にカルガモもいた。遊歩道に座っていたが、この暑い日に水に入らないとは、随分暑さに強いカルガモだこと。

 上は湧き水がある栗屋公園。
 中は麋城(がじょう)の井戸。
 下2枚は水辺がある大垣の街並み。



(2006年6月19日) 大垣城


 辺に沿って歩くと、駅に繋がる大道にぶつかった。大垣城はそこから、大道沿いに歩くと右手に見えてくる。
 大道沿いには何処にもありそうな駅前商店街が広がっていた。今はお昼時だろう。飲食店ではランチタイム云々の看板を出して、客を呼び寄せている。早速、私も昼餉でも摂ろうかと思ったが、まだ大垣市街地を歩いたばかりなので、大垣城等訪れてから摂るとしよう。
 大道の真ん中の植木の狭間に、大垣城の看板が出た。何と、駅前商店街の細い路地に城門があったのには驚いたな。随分賑やかな所にあるんだな……。付近は公園になっているのが普通なのだが、城門近くまで商業地域があるとは、どんな都市計画を立てていたのか。城門を撮ったらフィルムが終わったので、フィルムを交換して城門を潜った。梅雨の中休みの蒸し暑さに驚きながら。
 垣城。天下分け目の関ヶ原の戦いでは、西軍の最前線を担った由緒ある城だ。戦前は国宝に指定されたものの、昭和20年の空襲で灰燼に帰した。しかし、昭和34年に復元され現在に至るが、商業地域が隣接していると、どうも印象が沸かない。まぁ、大垣と関ヶ原は近い事は判るが……。
 城門を潜ると、静かな林が続いていて、すぐ目の前に天守閣が控えている。何とも簡素な。益々、印象がぼやけてしまう。「本当に、西軍の最前線の城だったのか。」疑っても仕方がないだろう。
 しかし、その疑いも天守閣に入ると、一掃される。城の遺品云々は方々の城で見たので見飽きたが、一角は関ヶ原の戦いコーナーが設けられていて、関ヶ原の戦いを映像や模型で紹介されている(模型は前哨戦となった杭瀬川の戦い)。学校で関ヶ原の戦いは学んだが、詳細はよく知らない方には打って付けのコーナーだ。東軍徳川家康対西軍石田三成の戦いの全貌が此処で読み取れる。柱には、東軍と西軍の見方の集め方の違いやシステム、そして、勝因や敗因の分析が展示されていて、そのシステムに因っての人心掌握は、ちょいとした人生勉強になる。大きなワイド画面で関ヶ原の戦いの紹介を食い入るように見た後は、ちょっとした戦国体験を受けた。この城には、レプリカながら何と合戦に使った弓矢や槍、火縄銃までもが体験できる。紐で繋がれているので、手にした時の感触や僅かに使った感触しか受けられないが、直に持った時は本当にジーンと来たね。これで長篠の戦いや川中島の戦いが行われたのかと思うと、一瞬にして戦国時代の足軽になった気がする。まぁ、出来れば武将がいいのだが。
 この関ヶ原の戦いでは悲喜交々あったが、中にはかつての敵立花宗茂と協力しながら、退却した武将島津義弘や、西軍の度重なる寝返りに耐え切れず、戦況不利と悟り自刃した武将大谷吉継、更には殿を務めて戦死した武将。何も関ヶ原の戦いは徳川家康が勝利して、石田三成と小西行長が処刑された話だけではない。こういう内部での出来事を少しでもいいから把握して、歴史を勉強するだけで大きく違って見えてくる。

 写真は大垣城。



(2006年6月19日) 「奥の細道」結びの地



 季の広場を奥に進むと、また水辺の両脇に木が生い茂っていて、扇子を仰がずに歩けた。そして、「奥の細道」の結びの地に着く。江戸、東北、北陸、そして、大垣で旅を終える。さて、その結びの地は何処にあるのかというと、橋の袂に碑が建てられているのだ。此処で終えたのか……。松尾芭蕉が此処で旅を終えたなら、私は旅の最終日に此処に立ち寄ったのだ。「終」と言う共通点があるな。
 此処で一つ疑問がある。松尾芭蕉は此処から舟で桑名に向かったと書にはあるが、一体、何処に舟があるのだ? 舟なんか何処にも見当たらないぞ。まさか、舟での移動は架空で、「奥の細道」同様歩いて向かったのか? と思うのだが、付近をよく見て、考えてみ給え。私も付近を歩いてみると、何と海に接していない大垣ながら灯台があった。住吉灯台だった。灯台……? もしかしたら、船があるのか。住吉灯台を写真に収め、水路に降りてみると、やはりあった! 両岸から繋留されていながら、船があったのだ。しかも、船着場もあった。此処で旅客や荷物を扱っていたのか……。いやぁ、港と来たら海に隣接していて、多くの船が往来する所かと思っていたが、水路(川)も重要な港にもなるんだ。これなら舟で桑名に移動出来そうだな。しかし、桑名の何処に向かったのかは判らない。あっ、そういえば、桑名の長良川近くに住吉神社があったな。もしかしたら、住吉神社の「住吉」って、住吉灯台の事だったのか? もしそうだとしたら、降り立った所は、七里の渡しだったのか?
 まぁ、それはさておき、今こうやって舟で移動したとなると、どのような船旅になるのだろう。護岸工事で難無く行けるとは思えないがな。コンクリートで護られている水路に近い川を通るのだろう。そして、七里の渡し近くには、長良川河口堰等があり、風情がぶち壊されそうだ。それが嫌ならば、近鉄養老線(現 養老鉄道)で桑名に向かう他無いのだろう。そして、桑名方面の水辺に目を移すと、何処の都市でも見掛ける極普通の両岸をコンクリートで護られた味気ない水路があった。東京と何ら変わりないから、引き揚げよう。
 大垣から桑名を想いて一首。
 清き水サラサラ流れる大垣の寄りし桑名の栄えを尋ねる

 上は「奥の細道」結びの地。
 中は住吉灯台。
 下は船着場。



(2006年6月19日) 美濃赤坂



 垣駅に戻ると、頻繁に貨物列車が往来する。ホームで一休みしていると、乙女坂駅常備の赤紫色の貨物列車が通過した。実は美濃赤坂方面に向かう西濃鉄道の貨物列車なのだ。西濃運輸関係の鉄道だと思いがちだが、実際に何ら関係ない。全てが貨物扱い。美濃赤坂か……。此処大垣から岐れている東海道本線なのだが、どんな所なのか。興味本心で乗ってみることにした。何と、列車は垂井方面のずっと向こう。しかも、車体は大垣を往来しているのと同じステンレス車体にオレンジの帯がある列車。行き止まりなので、大垣駅界隈の賑やかさは無いだろうが、何処か拍子抜けしているな……。
 途中で荒尾という駅を通るのだが、ドアから顔を出すと、片面だけのホームで、あの東海道本線の威厳は消え失せ、田舎の長閑(のどか)な駅の印象が強い。それでも列車は車掌付きで運転されているので、「あぁ、流石東海道本線だな」と思わせてくれるが、駅が片面ホームとはねぇ。此処でも拍子抜け。
 して、美濃赤坂。一気にあの城下町の賑やかな雰囲気は此処には無く、郊外の小さな駅である。行き止まりなので、車止めが付いている。そして、右手には西濃鉄道の線路が続いている(荒尾から美濃赤坂に向かう途中に、線路が岐れていたが、あれも西濃鉄道なのだろう)。
 しかし、此処から延伸する計画はあったのだろうか。どう見ても中途半端な印象は拭えない。これが東海道本線では無いならば、判るのだが、東海道本線と出ている以上、何処かに接続していなければ、やはり中途半端だ。どんな目的で、此処美濃赤坂に鉄道を敷いたのか、真顔で問いたい気分だ。
 さぁ、駅から出て少し散策するか。着いたのは13時28分。出発は43分。僅か15分だけの駅前散策だ。駅前にカフェが1軒あるが、15分で満足に喫茶出来る余裕は無い。水分補給は、近くの自販機のスポーツドリンクで賄った。普通の行動とは何ら変わらない。侘びしいねぇ……。
 前に駅周辺の案内が出ていた。此処でも意外な点を見付けた。美濃赤坂は旧中山道の宿場町だったのだ。近くに宿場町関係の建物があるそうだが、僅か15分で満足な見学は出来る訳がなく(駅に無料レンタサイクルがあったが)、駅を出てすぐにある西濃鉄道の踏切に立ち入りながら、この先は何があるのかと、思案を巡らせてるだけが精一杯。宿場町だったなら、それをアピールする手段として、この西濃鉄道も旅客扱いすればいいのを、美濃赤坂で貨物列車を往来させているだけなんて勿体ない。線路を繋げて、大垣直通列車を走らせるべきだろうが、大垣〜美濃赤坂10往復あるかないかの所となると、無理がありそうかなと見え隠れしてそうだ。先程大垣駅を通過した貨物列車を見付けた。西濃鉄道の乙女坂駅常備だそうだが、貨物扱いだけならば、いい名前負けをしているね。乙女坂か……。侘びしいねぇ……。
 駅舎はやはり、田舎の長閑な雰囲気がしっかり残されている。木造で窓が多く、照明は陽差しだけ。改札は簡素な造りで、切符入れが備えられている。時刻表には大垣行きの時刻しかなく、経路図も美濃赤坂、荒尾、大垣だけ。やはり、ローカル線になっていたのだ。東海道線と言いながら、駅も路線も全てローカル線一色。ドラマのロケにも使えそうだな。

 上は東海道本線荒尾駅ホーム。
 中は美濃赤坂駅のホームとヤード。
 下はJR美濃赤坂駅駅舎。



(2006年6月19日) 岐阜城へ



 所は変わって、岐阜。名古屋から近い故ベッドタウンの印象があるのだが、大垣、各務ヶ原(かがみがはら)、瑞穂から見れば、立派な都市だ。此処も城下町なのだが、ホームに降りてみると、近未来的な駅舎だった。名古屋に負けない意気込みはヒシヒシと感じられるのだが、高山本線のディーゼル車が停まっている光景は何とも奇妙だった。写真に収められなかったのが残念だが、近いうちに収めるとしよう。
 駅構内の観光案内所に入り、岐阜城を尋ねてみると、開館していた知らせにホッとした。しかし、時計を見ると14時6分。観光時間が3時間少しだが、岐阜城だけなら充分に観光出来る範囲だろう。駅のバスターミナルを見ると、駅前再開発の途中なのだろう。駅前には古びた建物が多く見受けられた。岐阜駅と比較すると、時代に取り残された印象がある。恐らく取り壊される運命だろう。駅の袂を見ると、広大な自転車置き場にクレーンやダンプカーが何台も停まっていた。駅から延びている歩道も右側だけがまだ途中の段階である。完成が待ち遠しいな……。
 阜城へはバスが頻発している。その途中に駅前の繁華街を通るのだが、つい最近廃止された名鉄岐阜市内線の線路が残されていた。コンクリートで中央を埋められただけだが、此処にも列車(路面電車)が走っていたことを証明してくれるのだが、どの車もその道を通ることはせず、一般道を走っていた。高度経済成長時、車の邪魔と軽視されていた路面電車だが、昨今は復活を検討する自治体が多い。何でも排気ガスが殆ど出ないことが魅力だそうだが、岐阜の場合は、廃止に猛反対だったのだろう。方々に路面電車復活を訴えるポスターが貼られていた。市民の大事な足を復活する意気込みに感動した。何でも、合理化一本で押し通すだけが能ではないからね。そうしたら、このバスはどうなるのだろう……。
 思案している内に、岐阜城の最寄りバス停岐阜公園に着いた。岐阜城は岐阜公園内にあり、市民の憩いの場になっているのだが、降りた途端、その場所に足が止まった。何と、山の頂にあるのだ。今から、山の頂まで歩いていくのかよ。そりゃ、私の足は健脚なので、少々遠くてもへこたれないが、わずか3時間の観光としたら、とんでもない時間のロスになってしまう。一気に私の足は疲労を憶え、観光案内所で貰ったパンフレットを広げてみたら、ロープウェーがあると判り、一気に疲労が吹き飛んだ。単純だねぇ……。
 中は噴水や休憩所、お点前が頂ける茶房があったが、定休日なのが残念だった。今日は月曜日なので、さほど期待はしていなかったが。

 上はJR岐阜駅。
 中は埋められた名鉄岐阜市内線の跡。
 下は岐阜城がある金華山。



(2006年6月19日) 岐阜城(前)


 て、岐阜城だが、ゆかりの人物は誰だろう? 斎藤道三が土岐頼芸(ときよりあき)を追放して、城主になった曰く付きの城。織田信長が斎藤家最後の当主龍興(たつおき)を追放し、中国の故事に因んで稲葉山城を岐阜城と改名した事。この2つが挙げられるが(公園内には、若き日の織田信長の銅像があり、近くの鏑木門を潜ると居館跡がある)、意外な人物にもゆかりがある事を、此処で知ったのだ。NHKの大河ドラマ「功名が辻」でモデルとなっている山内一豊(かずとよ)とその妻千代だったのだ。二人はおしどり夫婦だったのは知っているが、まさか岐阜城とゆかりがあったとは。実は二人の婚礼の場だったのだ。
 は岐阜城から逸れるが、その碑の近くには、妻千代の功績が書かれている。
 ……当時の山内一豊は大変貧しく、戦に乗る馬も痩せ細った老馬しか乗れなかった。そんなある時、品評会に大変美しい名馬が出された。家臣達はその馬を欲しがった。勿論、一豊もその一人だったが、金10枚の高い値が付いていて、誰もその馬を買うお金が無かったのだ。ましてや、貧乏な一豊には夢のまた夢。そんな事実を知った妻千代は、嫁入りの際持たされた鏡の中から、金10枚を取り出し、一豊に持たせた。一豊はいの一番にその名馬を買う事が出来、しかも戦功を上げる事も出来、掛川6万石の城主から、最終的には高知24万石の城主に大出世したそうだ。はり、「内助の功」は美しいね。
 を、岐阜城に戻して。
 岐阜城へはロープウェーを使っていくのだが、その山の名は「金華山」。華やかな名前だこと。周りの幟(のぼり)には、斎藤道三や織田信長の名は記されてなく、山内一豊と千代の名がズラズラと並んでいた。NHKの大河ドラマの力は凄いね(視聴率がいいのかも知れないね)。
 あぁ、それにしても暑いなぁ。大垣では木陰に隠れられたから、扇子の出番は余りなかったものの、冷房が利いているバスから降りた直後だから、暑さは倍以上だ。裏が破れている扇子を平気で酷使している。この扇子も長い付き合いだ。ょっとしたらこの扇子が、内助の功を呼んでくれるのかも知れないね。
 パンフレットに付いている割引券でロープウェーの切符を買ったら、ついさっきロープウェーは出たと知った。まぁ、いいや。冷房も利いている事だし、涼むとするか。
 このロープウェー乗り場は、土産物屋も併設されているが、「これぞ岐阜名物だ」と言える物は、精々テレカや岐阜城の絵葉書位で、他は何処の観光地にもありそうなものばかり。この私も「岐阜名物は何だ?」と聞かれても、長良川の鵜飼いとしか出ない。
 さて、ロープウェーで岐阜城へ向かうとしよう。
 阜城。前述通り、斎藤道三の居城でもあり、織田信長の居城でもある。それにしても、天守閣は金華山の山頂に控えていて、先程訪れた大垣城と較べると威容が利いている。多分、天守閣から見る眺望は素晴らしい物があるに違いない!
 ロープウェーで山頂に着いたが、何と天守閣までは多少歩かなくては着かない。まぁ、ロープウェーで楽させて頂いたのだから、その事は承知しておかなくてはね。
 割引券の裏面に書いてある地図を元にして歩き始めた。ロープウェー乗り場近くにリス村があるのだが、私の目的はあくまでも岐阜城なので、チラッと見ただけで踵(きびす)を岐阜城に向けた。天下第一の門、馬場跡、二の丸門を過ぎると漸く天守閣が見えてくる。その途中に岐阜城主の移り変わりが展示されていた。斎藤道三、織田信長と歴史の表舞台に出た武将以外は、岐阜城は無名に近い存在だったのには驚いた。織田信長が安土城に遷ってからは、嫡子信忠、三男信孝、そして、嫡孫(信忠の嫡男)秀信が城主になったが、その秀信の生涯は、信長と較べると罪悪感が拭えない。祖父信長の功績の欠片すら遂げられず、1600年関ヶ原の戦いの折に攻められ、高野山に流され、5年後に亡くなっているのだ。そして、1601年には呆気なく廃城となり、岐阜城と程近い加納城に機能を移した。それ故、江戸時代には城郭が無く、漸く明治43年に再建されたものの、何ともお粗末な模擬城で(写真で見たが、本当にお粗末だ。見て確かめて)、現在のような立派な天守閣が建てられたのは、昭和31年だそうだ。

 上は織田信長像。
 下は「功名が辻」の山内一豊と千代の碑。



(2006年6月19日) 岐阜城(後)




 て、岐阜城に入城したが、一言で感想を言うと、大垣城が関ヶ原の戦いの前線ならば、岐阜城はドロドロした人間関係が交錯した居心地が悪い城だ。どうしてかって。それは、斎藤道三と斎藤義竜の関係が最大の原因だ。
 藤道三。油売りから美濃の支配者となったのは余りにも有名だが、実際は彼は美濃で産声を上げたそうだ。因みに油売りから美濃の支配者となったのは、父親との事実と重複しているのだ。しかも、彼の本当の姓名は「斎藤」ではなく、「長井」だった事実に驚いた。「斎藤」の姓は乗っ取った主家の名前だったのだ。しかも、時の守護土岐頼芸(ときよりあき)を追放し、美濃の支配者となったのだ。
 さて、此処からが岐阜城の居心地が悪くなる元凶が生まれる。嫡男義竜の誕生だ。斎藤姓から見ると、道三の息子だと思うのだが、歴史を繙く(ひもとく)と、昼ドラマ顔負けの複雑な人間関係が見えてくる。土岐頼芸に仕えた時、頼芸の側室の一人を好きになり、無理にお願いをして、道三の妻に迎えた。その時、彼女の身体に義竜の生命が身籠もっていたのだ。つまり、本当の父親は斎藤道三ではなく、土岐頼芸だったのだ。それ故、父子との仲は最悪で、道三は義竜を追放して、実際道三が生ませた次男竜重、三男竜定を跡取りにしようと画策したのを知った時、義竜は仮病を装い、見舞いに来させた時に殺したのだ。そして、道三は岐阜城と程近い長良川で義竜と対峙し、戦死を遂げたのだ。その時の軍勢が、義竜軍3万に対し、道三軍は僅か3000。それでも一歩も引かなかったのは、引き際を見極めていたのかも知れない。
 城の展示物に道三と義竜の肖像画があるが、隣同士に置かれているだけに、居心地の悪さが倍加する。悲喜交々が延々と続く戦国時代の人間関係が読み取れる。順風満帆に父子関係を保ち、且つ繁栄を築いた武将は数える程しかいない。愚将今川氏真が治める駿河を攻める事で意見が分かれ、断腸の思いで嫡男義信を東光寺に幽閉した武田信玄。謀将松永久秀の陰謀に因り、嫡男義興を殺され、それが元で心身を患い若死にした三好長慶。そして、複雑な人間関係で、父子が分かれ戦った斎藤道三と義竜……。この岐阜城は、昼ドラマの雰囲気がそのまま感じられる城だ。
 これ以上、居座ると胃に悪いので、最上階の展望室に上がった。
 ると、雄大な長良川が岐阜市街を流れている眺望があるではないか! しかも、時季を思わせる鵜飼いの屋形船が繋留されている。そうか。鵜飼いか……。岐阜の名物だもの。嗚呼、もう一泊出来る余裕があるならば、鵜飼いを娯しみたい物だが、今夕の新幹線で東京へ帰るのだから、その悔しさは上手く晴らせなかった。近いうちに、此処岐阜を宿泊地として、鵜飼いを娯しみたい。鵜飼いの屋形船から必死に視線を反らして郊外を見ると、長良川の両側に小高い山が聳えていて、自然が一杯ある都市だと証している。何とも良い街だ。雄大な川があるし、山もある。しかも、中京の大都会名古屋にも程近く、歴史の紐解く岐阜城もある。ただ、岐阜城で繰り広げられた人間関係は頂けないが……。
 此処で一首。
 長良川辺に留まりし屋形船帰路に乗れぬ悔しさ流せ

 れにしても、空腹だ。松阪で朝餉を摂って以来、食事らしい食事は全く摂っていない。大垣で飲んだ清冽な湧き水だけでは、いい燃料にはならないよ。何処か無いかな……。見ると、帰り道に展望レストハウスを見付けた。此処で、ビーフカレーとコーラを頂いた。中は小綺麗なカフェだったが、やはり、平日ということもあり、客足は多くなかった。しかし、客足が多くなかったのと引き換えに、静かに食事を摂りながら、岐阜市街の眺望を堪能することが出来た。
 りに、もう一つ歴史を繙く物を見付けたので、綴らせて頂く。岐阜城から麓に降りて、バス停に向かった時、チラッと見付けた。もし、皆様のお手元に赤紫の100円札をお持ちであるか。そこの肖像画には2つに分かれた顎髭が印象的な板垣退助が描かれているが、彼も此処岐阜に関係がある。やはり、彼の場合も斎藤道三義竜父子同様、いい関係ではない。自由民権運動の遊説中、暴漢に襲われた地が此処岐阜だったのだ。彼が暴漢に襲われた事実は知っていたが、此処だとは驚いたな。そして、彼が残した名声が、
 「板垣死すとも、自由は死せず。」が、近くの碑に彫られていた。

 上は岐阜城。
 中2枚は天守閣からの長良川がある眺望。
 下は板垣退助像。





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