1995年3月28日 3月末の一人旅

(1995年3月28日) 築地本願寺・築地場外市場


 の旅で始めに訪れたのは築地だった。此処に来た理由は、かつて築地にあった築地小劇場跡を見付ける事と、朝食を摂る為だった。
 小雨の降る中、地下鉄新富町駅で降りた私は、私の想像の築地との違いに驚いた。料亭が並んでいて、静かな所かなと思っていたのだが、現代的なビルが左右に並んでいて、地下鉄築地駅からは、外気を求めて続々と人が溢れ出ていた。
 さて、築地小劇場跡をガイドブックを頼りに探し始めたが、地理感が判らず、あっちもこっちも歩き、10分が経ってしまった。ガイドブックを見ながら探したが、それでも見付からなかった。おまけに築地駅の入口があちこちもあるので、完全に迷ってしまった。
 それにしても、小雨は降ったまま。広げたガイドブックが雫で濡れ、次第に不安を募らせる。晴天になってくれるかどうか……。
 黙々と晴海通りに向かって歩いていると、周囲の築地とは極めて対照的な古風な建物が見えてきた。そして、その近くに築地駅の入口があった。「まさか」と思い、ガイドブックで調べると、なるほど。私の顔に笑みが出た。築地本願寺だった。古代印度様式の石造りの寺は、どうも日本の寺とは思えない。
 意外な発見に目を取られながら、ガイドブックを覗くと、どうやら築地小劇場跡は築地本願寺の近くにあることが判り、ガイドブックを頼りに行ってみると、駐車場の消火栓の所に、石で堂々と『築地小劇場跡 里見ク(さとみとん)』と彫られていた。歴史好きな私は、此処で活躍していた脚本家の小山内薫(おさないかおる)を思い出した。昭和20年の空襲で消失してしまったらしい……。
 海通りを横切ると、築地場外市場に着く。此処は店作りは小さいが、本格的な味が格安で頂ける所だ。コーヒースタンドやカレー屋、中華そば等の食品は勿論、食器や家事用品を扱う所もあり、食の宝庫「築地」を表現している。古くからある所も多い。
 私は中華そばで有名な店に寄り、650円の(当時は550円)中華そばを頂いた。胡椒を振り掛けて、春の高校野球のラジオを聞きながら、築地の活気に負けないように啜った。路上に椅子やテーブルが置かれている所で、客は旨そうに中華そばを啜っていた。大方、出勤がてらに立ち寄った人だろう。
 食べ終えて、いい気分になった。
 私は築地の空を望んだ。「晴天になれ」と祈った。その祈りが通じたのか、降っていた小雨は止んでいた。
 食後の一句。
 雨上がりの築地に旨し中華そば

 上は築地本願寺。
 下は築地場外市場。



(1995年3月28日) 稲毛民間航空記念館

 本で最初の民間飛行練習場が開設されたのは、千葉の稲毛だ。当時活躍した「鳳(おおとり)」号のレプリカの永久保存がある場所が、稲毛海浜公園内にあるこの稲毛民間航空記念館だ。
 入口で遊んでいる幼児達を横目にして中に入った。入場無料という所がいい。
 パンフレットを入口で貰い、記念スタンプを押した。しかし、上手く押せた事は余りなく、二重になっている所や、出ていない所があったりして失敗した……。
 に入ると、左側に「鳳」が羽根を伸ばし、グライダーが宙吊りになって展示されていた。操縦席には人形が置かれてあり、如何にも大空を飛んでいる雰囲気を醸し出している。しかも、間近で見られる所もよし!
 私のオススメは、「民間航空発祥の地 稲毛」のコーナーだ。貴重な木製プロペラや、活躍した飛行機の写真、更には活躍した人のエピソードもあった。印象的なのは、此処で活躍した白戸栄之助の愛弟子島田武男と高橋信夫の面影を偲ばせている写真だ。この二人は事故で亡くなり、彼にとって大きな痛手であって、これを機に航空界から身を退いてしまったそうである。又、稲毛干潟と模型の飛行機を動かして、どうやって飛行練習を行ったのかを知った。
 今は、その面影は無いが、当時あった干潟を使って飛行練習を行った事を名誉にし、千葉市はこの記念館を設立したとの事だ。
 ペンシルロケット、「民間航空発祥の地 稲毛」のコーナー、そして、干潟模型の飛行機があるだけで、自然に昔の稲毛の情景が連想出来る記念館だ。
 此処で一句。
 白砂青松の稲毛に羽ばたく鳳号

 写真は稲毛民間航空記念館。



(1995年3月28日) 稲毛記念館



 毛海浜公園内にある「海のシンボル」こと稲毛記念館。
 入口の横には、純日本的な庭園に茶室海星園があって、青松に大小様々な砂利、澄んだ池が稲毛の快晴空を対称的に映していた。これが見事に調和し、一瞬古都に導き出してくれる。
 処のオススメは、300度の視界で東京湾が見渡せる3階の展望台だ。勿論、双眼鏡もあるから(但し、100円必要)、東京湾に浮かんでいる船舶も見られるから、行く価値アリ!
 晴れ渡っている東京湾に感嘆した私は早速、100円を入れて、双眼鏡を覗いた。
 右に寄せれば、森に囲まれている壁泉があった。また、遠くに東京が見えたが、上手く見えなかった。不思議にも、水平線近くはぼやけて見えるので、不愉快である。
 左に寄せれば、京葉工業地域が見えた。恐らく、あれは蘇我か浜野か……。よく見ると、工場群と離れている所に、ボンヤリと2本の煙突が、南の方へ煙を噴かしていた。
 カチッ。
 黒い垂れ幕が突然降りた。随分惜しい事をしてしまった。船舶を見ようとしていたのに、私は遠くの都市や工場群を望んでいたのだ。後味悪し。
 もう一度、100円を入れて、方向を東京湾に向けた。
 見えるかな……。見えた。
 東京湾に浮かんでいる小さな船よ。どんな船なのかなぁ……。タンカー、客船、それとも……。
 これから、何処へ行くのかな。太平洋を渡っていくのかな。それとも、東京湾を横切っている途中なのかな。もし、大海を渡っていくのなら、何時帰ってくるの……。船旅の具合はどう……。
 私はシャッターが降りる数十秒の間、答えが来ない質問を、続けて船に投げ掛けた。
 カチッ。
 質問の扉は再び、深く閉ざされた。溜息を一つ漏らした。もっと、質問したかったな。
 沖行く船よ、達者で行ってこいよ。私は一人の旅人に過ぎないが、水平線に消えるまで、見送らせて頂くよ……。
 此処で一句。
 双眼で春の海見る稲毛かな

 上は稲毛記念館。
 中は展望台からの東京方面。
 下は展望台からの千葉方面。



(1995年3月28日) 千葉ポートタワー

 上125メートルの青空ポタリング、千葉ポートタワー。
 (所在地の)中央港の日差しを一杯浴びて建っている、京葉線沿線の名所の一つだ。
 1階は東京湾や海の知識が判り易く説明している海洋展示室。2階と4階は展望室。そして、3階は瀟洒(しょうしゃ)なコーヒーショップ。
 ガラスの向こうには、東京湾が青い絨毯(じゅうたん)を一面に敷き占めていて、その上に白い雲が青い空に暈かし(ぼかし)を利かせている。やはり、ポートタワーからの東京湾の眺望は最高だ。独り占めしたい気分になってきた。そうなれば、私は東京湾の魅力を支配する男だ。東京湾の隅々まで望む。
 右には幕張新都心があった。そうとすれば、いなげの浜は見えるかな……。そんな気持ちを抱えて、双眼鏡で目を皿にして探した。無理だった。建物すらも見えなかった。あの建物は背が低いから。稲毛で見たあの青い空は、もう此処千葉ポートタワーでは見られないのか……。やはり、場所が変わると、そこで見付けた心の安らぎが消えてしまう。そこでしか味わえないのだ。
 ートタワーは、中央港のプロムナードと言っても過言ではないだろう。近くには穀物を貯蔵するサイロに船舶、そして同じような工場が、狭くて小さい地を細々と支配している。
 もう一つの景色を見よう。中央港の街並みはエレベーターで見たから、残りの一つを見よう。それが何と、稲毛記念館で見た所だ。「また同じ所か」と、嫌味を叩き付けた。どうせ、変わりはないだろうと見た所、稲毛記念館ではウッスラとしていた所も、クッキリ見えた。煙を噴かしていた煙突は、ひなたぼっこをしながら中央港の潮風を味わっている。もう蘇我、浜野は近いな。下は芝生の広場になっている。その近くには、倉庫が高さを競わずに軒を並べている。中央港を対に渡れば、京葉工業地域だ。
 此処で一首。
 千葉みなと潮風薫るこの土地に高く聳えるポートタワーよ

 写真は千葉ポートタワー。



(1995年3月28日) 千葉港観光船




 めて千葉みなとに来て、もっと海を堪能したい方は、この千葉港観光船がもってこいだ。
 さて……、ポートタワーで千葉港を眺め、直に海を娯しみたいと考えた私は、ガイドブックを頼りに観光船乗り場に向かった。この観光船乗り場は、千葉港(中央港)に入港する船の情報が書かれていたり、乗船する人の待合室や売店も併設されている。
 切符を買って、後ろの乗船所に行ってみると、「あすなろ」と書かれている中型の観光船があった。私は桟橋を渡り、2階の屋外のベンチ席に座った。
 この「あすなろ」号は、多少古びている観光船で、10年以上前からあった事を、何処を新しくしても判る。1階はビニール張りに長椅子がある船室。そして、私が座った2階は運転室とベンチが置かれている簡単な設備だ。
 さて、千葉の中央港の40分間のクルージングを、娯しもうとしよう。
 憧れていた潮風が、次々に私の元へ駆け寄ってくる。嗚呼……。進み行く単調なエンジン音に飛び交う飛沫、陽に当たり海面にキラキラ輝く宝石を作り出す東京湾。そして、晴れ渡る大空……。それらが複雑に絡み一体化して、観光船のただならぬ持ち味を出している。飛沫から湧き出る潮の香り、東京湾から澄みゆく碧い心、そして澄んだ大空。各々が各々の雰囲気を醸していて、私は今、本当に旅をしているのだなぁと感じる。
 潮風を浴びて一句。
 晴れ渡る青空泳ぐ鴎かな(これは同年8月16日に作った一句です)

 の千葉港には、外国船が多く停泊していて、余りの珍しさにシャッターを切ってしまうだろう。更に、輸入された穀物を貯蔵する金属サイロ、食用油を精製している工場のタンク、成田空港を発着する飛行機の燃料を、地下パイプを使って運搬している「丸紅空港公団」等(現 丸紅エネックス)、前半から見所が満載だ。私はカメラのシャッターを構えて、何を撮ればいいのか判らず、工場群の稼働振りを娯しんだ。今度は千葉港の工場群を支配して、中央港を観光船で娯しむ男になった。後半は川崎製鉄を回る(今は改称されている)。鉄鉱石にコークスで造られた黒く重い山が、何ヶ所も港に築いていて、形から「UOパイプ」と呼ばれている、長く重い鉄製のパイプが、ギッシリ山積みにされている。写真や資料集で見るよりも、実際観光船で直に見た方が、迫力がある。
 特に印象に残ったのは、高校1年の3月28日に行った時、ギリシア船籍の貨物船を見付けた事だ。残念な事に、写真に収められなかったが、何時かまた出会えると信じている。
 滅多に海に行かない人達にとって、海の存在はとても大きい。海に接しない埼玉から(当時住んでいた所)、千葉港の潮風を浴びる為に、立ち寄ったのだ。この3月28日の旅で、一番印象に残った場所である。

 上は当時の観光船「あすなろ」。
 中はサイロと食用油を製造する製油工場。
 下は「丸紅空港公団」(現 丸紅エネックス)。



(1995年3月28日・8月16日) 千葉城・亥鼻公園

 この項は、時期が2つに分かれているので、上手く切り返してご覧下さい。
(3月28日)
 葉市街地のど真ん中にある千葉城。
 千葉城の右側には、千葉開府850周年記念碑が建てられている。千葉の歴史は意外と古いのだ。
 60円という安い観覧券を買い、中に入ると、戦後から始まった祭りの御輿が年代別に陳列されていたり、鹿の剥製があったりした。壁には千葉氏の歴史がズラズラと連なっていた。見終わるだけで1階をグルッと一周する。合併された町村が多かったので、千葉市は意外と広い。幕張新都心や(外房線の)土気の昭和の森、いなげの浜や千葉ポートパークが千葉市とは余り気付かないのだ。見る所見る所違っていて、あたかも町から町へと向かった錯覚が生じた。しかし、却って千葉市の色々な顔が見られて良かったのかも知れない。
 2階に上がると、眼前には平安末期、源頼朝に加勢した千葉常胤(ちばつねたね)の鎧兜が現れ、観光客を厳しい目つきで歓迎している。一瞬、悪が打ち破られる目つき……。今にも常胤本人がこの鎧兜を纏って、此処にデンと座っていても誰も疑わない。写真を撮りたかったが、「撮影ご遠慮」の札に気付き控えた。
 4階に上がると、周りが暗くなった。プラネタリウムがあるからだ。此処に立ち寄りたいと密かに思っていたのだが、門は深く閉ざされていた。「開演中は開閉厳禁」だって、と言う事は開演中なのか。開演時間はもう無いし、それに行きたい場所もある。未練を拭い去り、5階の展望台に向かった。
 5階の展望室。双眼鏡を設置して、観光客に良き眺望を提供している。しかし、私は落下防止の金網が気になり、双眼鏡で城下を見る事を控えた。幾ら眺望が良いとはいえ、金網が張られていては、眺望を平気で妨害しているし、展望台としての価値が無くなってしまう。それに、金網越しに見た景色は、近くにある建物すらも遠くに見える錯覚が生じてしまう。
 亥鼻公園の一角にある千葉常胤ゆかりの居城、千葉城。見ていると、狭苦しい都市空間の中に静かな空間があるのだなぁと、心に安堵を与えてくれる。

(8月16日)
 天の下、千葉城を訪れた私は、展示物を見る事よりも、涼む事を優先していた。何か飲む物が欲しい……、そう思った私は、5階の展望室に上がり始めた。3月28日の記憶を繋げると、確か自動販売機があった筈だ。
 4階に上がると、プラネタリウムの扉が開いていた。そういえば、3月に訪れた時は閉ざされていたんだよなぁ。折角此処に来たのだから、立ち寄るとしよう。仇討ちのようだが……。
 プラネタリウムでは、(死を司る)北斗七星と(生を司る)南斗六星のお話が始まった。人の寿命はこの2つの星が司っているそうだ。10年以上経つが、今でもその時の話の内容はしっかりと覚えている。
 ……1000年以上前の中国の話で、或る夫婦が、自分の息子の寿命が19歳しかないと知り、どうにか寿命を延ばして欲しいと長老に相談した所、大木の許で碁を打っている二人の老人に、上等な酒と牛肉を差し上げればと良いと言われたそうだ。但し、老人が何を言われようとも、絶対に声を出さずに頷くだけが条件。
 早速、自分の息子に上等な酒と牛肉を持たせ、老人の許に赴かせた。二人の老人は牛肉を酒肴(しゅこう)にして、酒を飲み始めた。時々、老人は子供に質問を繰り返したが、子供は言い付け通り、頷くだけ。
 酒と牛肉が尽き、老人の一人が、人の寿命が綴っている冊子を広げた。(その夫婦の)息子の欄が19歳(十九)とでていたが、「十」と「九」とをひっくり返して、「九十」にし、その子供は長生き出来たお話だった。

 写真は千葉城。



(1995年3月28日) 新木場公園


 1995年3月28日、一冊のガイドブックから始まったこの旅の最終地点、新木場公園。新木場の名に相応しい木製のベンチと植木しかない公園だが、此処からの夕陽の眺望は絶景と出ていたから、最後に此処に来て夕陽を眺めたいと思っていた。最後は賑やかに終わらせたくない、私の性にピッタリだ。
 はゆっくり中に入り、夕陽が見えるベンチに腰を下ろした。夕陽はもう沈んでしまったが、まだ西の空は赤かった。西の空に沈む夕陽は、空を紅に染めた。かというと赤で、それでも上は橙に山吹、山吹の次は青……。青い夜の帳がこの一時を包む。今日出会った出来事が、この空の下で徐々に思い出と化していく。
 私は夕陽が見えるベンチに腰を下ろして、遠くのビルから赤い障害灯がチラチラ灯る景色が、夜を徐々に醸し出されていく姿を見ていた。夜は近い……。
 私は夕陽が見えるベンチに腰を下ろして、休んでいた。時折、前方から風が吹いて、コートの襟を絞めるのだが、妙だ。実に妙だ……。私は今3月末の新木場にいるのに、吹いてくる風は12月なのである。本当に寒い。どうしてなんだろう。私だけ妙な考えに取り憑かれているのか。それとも、この公園だけが12月の世界に置き去りにされているのか。いや、この旅が終わるつらさ、寂しさ、そして哀しさ……。3月28日という貴重な日が終わるつらさ、寂しさ、哀しさが私を凍えさせて、吹いてくる風を人一倍寒く感じさせるのだ。
 は夕陽が沈んだ公園のベンチに腰を下ろして、一休みしていた。障害灯は暗色に赤味を増してきて、海は黒ずんでいく一方だ。組んだ足が痺れ始めても、凍みる風が吹いても、私はジッと休んでいる。
 空は夜の帳で埋められた。それでも、私は夜の新木場を受け止めている。
 海よ……、空よ……、この旅の終わりを締め括ってくれ……。
 この日の別れを惜しんで一首。
 この旅は長きて娯し新木場の終わりを告げし沈みし夕陽

 上は夕暮れ時の新木場公園。
 下はお昼時の新木場公園。



(1995年8月16日) いなげの浜

 毛海浜公園は、本当に都会のオアシス。前回の旅行(3月28日)で稲毛民間航空記念館に稲毛記念館に行ったのだが、もう一つ行ってみたかった所があった。いなげの浜である。前回の旅行では季節柄控えていたが、夏真っ盛りの8月だ。さぞかし賑やかだろうと思って、足を運んだ。
 なげの浜は素朴だった。華やかなビーチパラソルなんか余りなかったし、子供達が楽しそうに、泳いでいるのだから……。それでもって、時間の流れが遅い。回りの時間に追われる世界から取り残された場所、いや長針の動きが緩やかな所だ。
 フラッと来たので泳がなかったが、私はすぐに此処を立ち去ろうとはせず、近くの防潮堤に上がって、久し振りの海を眺めた。大都会の狭間の小さな自然、波はその自然を褒めるかのように、次々と砂浜を濡らしていく。燦然とした太陽は小さな砂浜を照り付け、砂浜を濡らした海水を吸い上げていく。
 砂浜はただでさえロマンがあっていいのだが、もっとロマンがあるのは、防潮堤に書かれた白い字である。私はその字を読んだ途端、海を眺めるのを止め、その字を熟読するのに夢中になった。
 その白い字は防潮堤の至る所で見られ、それぞれ雰囲気の違った文章だった。遠き青春の文、再会を誓う文、失恋を悼む文、相手に渾身の想いを綴った文。私はどの位、この気持ちを把握出来たのか……。
 潮風に吹かれて一首。
 白い字で恋文を書く石の上微かに薫る稲毛の潮風

 写真はいなげの浜。





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