2006年3月15〜16日 春雨煙る三河・遠江の旅

(2006年3月15日) さらば、113系グリーン車!(前)

 月18日、ダイヤ改正。これにより、様々な列車が去就される。東京と山陰を結ぶ寝台特急「出雲」、名古屋と古都奈良を結ぶ急行「かすが」、そして、長き年月通勤客や旅客に愛されてきたこの113系(引退するのはJR東日本管轄内と聞いたが……)。
 113系は何度も見てきたので、どうって事はないが、特にグリーン車に思いが深い。特に窓が席毎にある1階造りのグリーン車だ。
 何と、そのダイヤ改正で、113系と共に1階造りのグリーン車も廃止されるそうなので、旅行の機会があった私は早速乗ることにした。ダイヤ改正から3日前の3月15日だ。
 しかし、運良くその113系が来るかが問題だ。最近東海道本線を走っている列車の殆どが211系かE231系の2つ。国府津(こうづ)から夜行列車に乗る行程なので、残された本数は10本も無い。果たしてその10本の中に113系があるのかどうかは、駅員すら判らない状態だ。電光表示では「3ドア(113系・211系)」、「4ドア(E231系)」と出ているが、流石に系統までは出ない。本当なら、この日の前日に東京駅に行き、113系に乗るのが道理なのだが。
 よいよ時計は23時30分に近付いた。残されている列車は、33分と40分の2本のみ。その後に数本あるのだが、国府津で東京発23時43分の夜行列車に乗り継ぐ為、この2本に限られてしまう。33分発の国府津行きが来たが、来たのは最新型のE231系。この系統のグリーン車は何度も乗っているので控えた。そもそも、113系の1階造りのグリーン車でなければいけないのだから。
 いよいよ残されたのが40分発の小田原行きだけ。この1本に懸けるとするか。ちょいと危なっかしい賭けだけどな。と、電光掲示板を見ると、「3ドア」と出ていた。113系が来ることは充分にあり得るな。一縷の望みを懸けて23時40分を迎えた。
 23時40分発の列車到着のアナウンスが入ってきた。その直後、駅員のマイクが入ってきた。
「入線中は、カメラのフラッシュを焚かないで下さい。」その声に一瞬ギョッとした。カメラのフラッシュ……。恐らく鉄道ファンが入線する列車を撮るのかと思ったら、ダイヤ改正と照らし合わせてみると、何とも嬉しい知らせが私の許へ舞い込んで来た。
 その知らせを確かめるべく、8番線ホームを覗いてみると、カメラを構えた人達が数人いて、入線を今か今かと待ち侘びていた。もしかしたら、113系が入ってくるのか?
 カメラのフラッシュご遠慮のアナウンスが入る中、列車が入線してきた。いよいよだな。
 ゴゴゴゴゴ……。入ってきた。見ると、緑とオレンジ色に彩られた列車が入線してきた。白い所は無い。211系ではない。正真正銘の113系だ。
 懐かしき113系。到着するや否や、ヘッドマーク付近では、カメラのフラッシュが次々に焚かれ、JR東日本管轄から去り行く113系に別れを告げていた。この私も1枚と思い、ヘッドマークがある方へ向かったら、いい所は既に取られて、すぐに撮せなかった。それでも、美味しい所はバッチリ撮りましたよ。嗚呼、東京では拝めなくなる物が一つ増えたな。地方に出掛け、その物に出逢えた嬉しさは計り知れない物だろうな。でも、JR東日本管轄から無くなるだけであって、JR東海の東海道本線ではバッチリ見られるので寂しくはない。それでも東京から消えてしまうのは、ちょっと寂しい気がする。
 113系が到着した8番線は、ちょいとした撮影会が開かれていた。普通のカメラで車体を撮す人もいれば、ケイタイのカメラで記念撮影する人もいる。ケイタイで記念撮影する人は恐らく、思わぬ出会いに驚いたのだろう。東京から去り行く113系を何処で知ったのかは別として。
 此処で一首。
 東京から去りし113系写真撮る弥生十八日浮かぶ面影

 速、1階造りのグリーン車に飛び乗った。勿論、事前にグリーン券を買って。しかも、豪勢に500ミリリットルのレモンティーと穴子押し寿司を買って、最後の別れを偲んだ。すると、一般のサラリーマン達もゾロゾロと入ってきて、お好みの席に座った。疲れてしまっているので、ゆったりとして帰りたいのは判るのだが、やはりもうすぐ東京から無くなると何処で知ったのだろう、通勤帰りの一時、去り行く113系のグリーン車に乗ってみたいと思ったのだろう。グリーン車を使う自体贅沢でもあるし、113系のグリーン車ならば、別れを偲ぶことがよく判る。行き先が何処であろうと、存分に別れを告げ給え。中には、質の悪い酔客が通り抜け出来ないと車掌に宥められ、苛立っている光景も見られたが、そもそも酔客が此処に来ること自体が間違っているのだ。キチンとマナーを守れるべき客がグリーン車に座れる資格が得られるのだ。そう思い、一口目の穴子押し寿司を頂いた。

 写真は懐かしき113系の1階建てグリーン車。



(2006年3月15日) さらば、113系グリーン車!(後)

 京23時40分、定刻に出発した113系小田原行き。もう夜中なので、車窓からの景色の臨むべくもないので、CDでも聴くことにしよう。周りの客も夕刊や週刊誌を広げて、黙々と読んでいるので。
 さて、この113系グリーン車なのだが、かつての特急・急行列車の車両を改造してグリーン車に仕上げた車両だ。席毎に窓やテーブルが設置されていたり、1席ごとのスペースが広かったり、座席がゆったりとしていたり等、混雑している普通車から見ると、何とも豪勢な造りである。しかし、今見ると、座席の造りやリクライニングを掛けるレバーが、古さを隠し切れず、2階建てグリーン車に主役を奪われてしまった。それでも私は、この113系グリーン車が好きであった。窓が開けられるし、グリーン車料金を払っている所為か、特急列車に乗っているような錯覚が生まれて、或る意味優越感に浸れるからである。しかし、特別な機会ではない限り、グリーン車に乗る機会は少ないのも否めない。それでも、ホームからグリーン車車内を羨ましそうに眺めている乗客の面白さは尽きない。
 此処で一首。
 名残惜しき113系グリーン車の座れし羨望あな面白や

 浜に着いた。此処で数人が降りて行ったが、グリーン車通路では、着席希望の乗客で溢れていた。それも、1階造りのグリーン車にだ。それなら、2階建ての方に行けばいいのだが、やはり、3月17日で廃止される113系の1階造りのグリーン車に乗りたいべく、此処に立ち止まっているのだろう。1階造りのグリーン車は既に、3月17日までの「超」特等席になっているのだ。
 通路も座席も混雑していた。いよいよ、此処も普通車両と変わりはなくなってきたな。通路に立っている乗客も、週刊誌を読み始めた。それでも、表情から見ると、やはり「座りたいな」と読める。
 塚、大船と確実に西に向かっているが、グリーン車の混み具合は一向に変わらない。しかし、普通車に行く姿は見られなかったな。余程、乗りたいんだなぁ。私は始発の東京から乗り、難無く座れたので余りきついことは言えないが、やはり、着席の機会を増やした方がいいよ。何でも、今度のダイヤ改正では、その事が盛り込まれているそうだが、実際、グリーン券を買っていながら、着席出来ない乗客の悔しさは計り知れない。特に、3月17日で廃止される1階造りのグリーン車に立ち入られても、着席出来なくては何の役に立たない。ゆったりとして帰りたいのに、これじゃ混雑している普通車と何ら変わりないよ。きっと、リクライニングを掛けている座席で、厚顔無恥に穴子押し寿司を抓んでいる乗客を見たら、怒り心頭だよ。許せよ……。
 茅ヶ崎、平塚、大磯、そして、二宮を発った。遂に、降りるときが来たな。国府津(こうづ)で乗り換えるからだ。
 を言うと、国府津で降りたのは、大垣行き夜行列車快速「ムーンライトながら」に乗る為なのだ。しかし、113系の1階造りのグリーン車に乗りたかったので、途中の国府津までグリーン車に乗り、国府津で乗り換える行程を取り入れた。しかし、(JR全線乗り放題の)青春18きっぷ有効期間内で、なおかつ青春18きっぷが使える列車なので、東京〜名古屋の指定席券がなかなか手に入り難く、漸く手に入れたのは、全車指定席区間の東京〜小田原の指定券。このながら号は、小田原から一部の座席が自由席になる曲者で、東京〜名古屋の指定券を取っている人は、何とも無いのだが、東京〜小田原の指定券しか取れなかった人は、混雑する車内で夜を過ごす事になる。前記の通り、東京〜小田原の指定券を持っている私は、このまま終点小田原まで向かっても、着席出来る保証は無いのだ。しかし、小田原の手前の国府津で乗り換えれば、ちゃんと着席出来る保証が残っている(如何にして、この期間に東京〜名古屋の指定券が取れるかが腕の見せ所だ)。
 の「ムーンライトながら」はすぐに着いた。着席してすぐに歯を磨いて、小田原到着を見届けた。すると、ホームには大きな荷物を抱えている客が一杯いた。こんな大きな荷物が置ける場所が何処にある? 青春18きっぷが使えるながら号の恩恵を、最大限に受けたい乗客がこんなにいるとは。そして、ドアが開き、ゾロゾロと乗車し始めた。小田原から自由席になる車両にいる人達は、何とも複雑な心境だ。自由に身動きが取れないからだ。この私も、こんな混雑している車内で、徒に起きようとは思わず、マフラーをアイマスク代わりにして寝た。



(2006年3月16日) 豊川稲荷門前


 川稲荷。かの鉄道唱歌でも「豊橋降りて乗る汽車は、これぞ豊川稲荷道」と謳われている程、有名な寺社である。天下の大道の東海道から少し外れているものの、初詣では大いに賑わう全国に知られている寺社だ。もしかしたら愛知万博に向かう途中に立ち寄った人もいるのかも知れない。新しい物ばかり追い求めては、得することは多いとは限らないからね。「故きを温ねて新しきを知る(温故知新)」と言うからね。
 この私も、豊川稲荷の存在を知ってはいたが、前記の通り、東海道から少し離れていることもあり、どうしても行けなかったが、今回は毎年行っている「お伊勢詣り」にただ伊勢に向かうのではなく、寄り道的志向を取り入れて、豊川稲荷に参詣することにした。稲荷か……。差し詰め狐が有名だろう。となると、いなり寿司やきつねうどん・そばが門前を賑わせているのだろう。
 行列車「ムーンライトながら」で名古屋に着いたのが、6時5分。そこから、再び折り返して、豊橋に向かった。まだ3月半ばだ。6時台はさほど明るくないし、暖かくもない。陰暦ではまだ2月だそうだが、全くその通りだ。
 「ホームライナー豊橋」の整理券(310円)を買うと、異様な気分になった。切符には、「ホームライナー豊橋2号 1号車1列目」と出ていて、1号車1列目の何処かは書いてなかった(特急列車に乗った人は判るが、1列4席あって、窓側からAB、通路を挟んでCDとある)。東京の特急列車には何度も乗っているが、こんな機会は初めてだ。
 時55分、その「ホームライナー豊橋」2号が着いた。ドアが開くと、豊橋方面に通勤するサラリーマン達が乗ってきた。この私も続いて乗ったのだが、切符に書かれてあった1号車1列目を見ると、通路側の左席だけが空いていた。どういう事なのか、此処は遠慮無しに訊いてみた。地元の人ではないことがバレバレだが……。
「1列目なら、何処でも座れますよ。」左隣のサラリーマンの答えで漸く謎が解けた。つまり、1席1席指定されているのではなく、列毎に指定されていて、指定された列ならば、窓側でも通路側でも座れるのだ。何だか、余裕のありそうなシステムだ。
 通路側だから、存分に景色が望めることは出来ないし、それに、昨夜の夜行列車で殆ど寝ていないから、大事を取って終点豊橋まで一眠りする事にしよう。進行方向で一番後ろの席だから、思い切りリクライニングを掛けても迷惑にならない。一気にリクライニングを掛けると、一眠りするには丁度いい程に倒れた。大体160度位か……。
 さて、寝るか!
 橋に着いたのは、7時48分。目を覚ますと、東海道新幹線の防音壁が右に迫っていた。近い証拠だ。車内は約5割の乗車で、終点の豊橋を迎えていた(名古屋を発車してすぐに寝てしまったから、混雑していたかは判らない)。見た所は殆ど通勤客のようだ。通勤途中に「ライナー」というスパイスを利かせるのは、いい気分転換になるし、ちょいと贅沢をしたという優越感もある。満員電車で押されないからね。
 三河の大都会豊橋。目的の豊川稲荷の最寄り駅豊川は、JR飯田線に乗り換えて、5つ目にある。しかも、名鉄線と同じホームに乗り場があり、途中の下地まで線路を共有している。それ故、豊橋を発って船町、下地は豊橋〜豊川の区間運転しか停車しない(一部長距離列車でも停まるが)。
 て、そのホームを降りると、名古屋駅で見た光景が豊橋駅でも見られた。名古屋、岐阜方面に通勤通学する客が名鉄線に乗っていた。同時にJR飯田線が入ってきて、客を吐き出していた。それにしても、JR東海道線からJR飯田線に乗った途端、幹線とローカル線の差は、同じ豊橋駅に停車しながら歴然だ。車体から見ても、設備云々は相当差があると判る。国鉄時代の名残の天井扇風機が残されていたり、ワンマン運転だったり、まぁ、山奥を走るのだから仕方の無い事だが、此処で一気に旅情が沸いてくる。ディーゼル音やセミクロス席、そして、都会から田舎に向かう列車自体だ。そんなローカル線に乗って、豊川へ向かった。豊橋からそんなに離れていない所なので、すぐに着くだろう。
 川駅に着くと、何ともまぁ無味乾燥な駅舎が私を出迎えてくれた。東京の郊外にでもありそうな連絡通路を兼ねている駅だった。今まで行った駅の中で、有名な寺社がある所は、駅舎もその影響を受けている事が多いのだが(那智大社の那智駅、出雲大社の出雲市駅、三嶋大社の三島駅等)、折角「鉄道唱歌」にも謳われている豊川稲荷があるのだから、少しは豊川稲荷の最寄り駅に相応しいデザインに出来ないのかねぇ……。幾ら柱を神社の鳥居の色、赤にしてもねぇ。
 名鉄豊川稲荷駅を左にして、駅のロータリーを過ぎ、細い道が続く路地に入った。今は、大手を振って歩けるのだが。初詣等のかなりの人出だと、相当混むのだろうな……。
 少し歩くと、何やら興味深い物を見付けた。豊川いなり表参道だ(別名 なつかし青春商店街)。ただの表参道ではない。昔あちこちで見た琺瑯看板がリメイクされて、飾られているのだ。そして、両側には飲食店に土産物屋が並んでいた。しかし、早朝と平日、曇天が重なった日なのだろう。人の往来は私以外いなかった。まぁ、大いに賑わっている門前もいいが、早朝の門前もある意味素顔が見られて得した(と思った方がいい)。
 此処で一首。
 門前の琺瑯看板懐かしや開店前の門前彩る

 上はJR豊川駅と隣接する名鉄豊川稲荷駅。
 下は豊川稲荷表参道。



(2006年3月16日) 豊川稲荷




 朝の静かな門前を過ぎると、いよいよ豊川稲荷に着く。
 総門を潜り、御手洗場で手を浄め、鐘楼を右手にと、何処にでもありそうな極普通の寺社だが、真ん前の法堂を参拝すると、左奥に何やら仏閣らしい建物が見えた。しかも、鳥居までもある。寺の隣に神社があるとは、聞いた事がない。確かに「稲荷」と付く以上は鳥居が付く筈だけど、同じ敷地に寺まであるとは……。何処か腑に落ちない気がする。熊野那智大社と青岸渡寺のように別々の寺社ならば判るのだが。
 次に神社の方(大本殿)を参詣した。やはり、豊川稲荷というだけあって狛犬ではなく、狐が本殿を護っている。お供え物もやはり、油揚げだろうね。
 お賽銭入れて、願い事を一つ唱えた。今までは、幸せを求める云々という貪欲な願い一本だったが、最近は徒に幸せを求めて、全てを毀したくないので、今自体をしっかり生きる誓いを唱える事にした。昨年は心身共々不調で、今でも体調は万全とは言い難い状況だ。まぁ、難しい事はさておき、誓いを唱えるとしよう。
 本殿の右を抜けると、奥の院に繋がる参道が続いていた。その参道には豊川稲荷に参詣した証として、白地に赤く「豊川稲荷〜」と書かれている小さな幟(のぼり)が立てられていた。住所を見ると、地元豊川市は勿論、豊橋市、名古屋市、ちょっと遠くに行くと一宮市、岐阜市とあり、何と東京から参詣した人もいた。東京にも稲荷にゆかりがある寺社はあるが、やはり、参詣するからには豊川稲荷のような有名な寺社に参詣したい気持ちが表れている(この私もそうだが)。しかし、幟の数が余りにも夥しく(おびただしく)、先程見たあの表参道と較べると、異次元に迷い込んだ錯覚に囚われる。おまけに周囲は林に囲まれていて、風の音でも寒さが倍加する。下手にケイタイのベルが鳴ったら、罰が当たりそうだ。
 次元に迷い込んだ錯覚に最も囚われたのは、狐を祀る所があった事だ。霊狐塚(れいこづか)と言って、狐の魂を慰める所だそうだが、その道程は奥の院がある所から、かなり歩く。しかも、等間隔で狛犬代わりの狐の石像が置かれていて、通過する度に現世から隔離されている雰囲気が漂い始める。あの夥しい幟さえ、異様な雰囲気があるというのに、これ以上何があるのだろう……。朝っぱらからこんな心臓に悪いのに出会すとは……。逃げ出したいが、私の足は全く言う事を聞かず、狐に導かれるように奥に進んでいった。
 そして、鳥居を潜って、そこで見た物とは……。
 狐、狐、狐……。右から左へ狐。狐に囲まれた社があったのだ。それにしても、1体2体はまだしも、ざっと見渡しても、優に200体は超える。多い分、不気味さが倍加する。
 嫌な印象を拭い切れず、恐る恐る鳥居を潜り、賽銭を入れたが、どうも、目の方は挙動不審の如く、周りの狐を眺めていた。どうも目付きから見ると、歓迎されているようには見えない。「人間来る事勿れ」と合唱しているみたいだ。九尾の狐伝説を熟知している私は、此処で悪い方に化かされるのかと心配し始めたが、却って悪い事を上手くはぐらかしてくれるのかなと考え始めた。

 上は豊川稲荷総門。
 中は豊川稲荷法堂と大本殿
 下は摩訶不思議な狐を祀る場所、霊狐塚。



(2006年3月16日) 熱田神宮



 海道で、「宮」と出ている宿場があるが、一体何処の宮なのかお判りだろうか。場所的には名古屋付近だが、そんな「宮」のモデル(?)となったのが、名古屋市熱田区にある熱田神宮だ。此処も中京では有名な神社で、初詣で大いに賑わう所だが、何と東海道の正式ルートは、此処から渡し舟で桑名に向かうのだ(桑名には七里の渡し跡があり、大きな鳥居が残されている。熱田から桑名までは7里(約28キロ)あったから、そう呼ばれている)。
 豊川稲荷の参詣後、豊橋に戻り、快速で一旦金山に向かい、各駅停車で熱田に戻ったが、此処から雨がぱらつき始めた。旅行している時は晴れている時が多いが、季節の変わり目はぐずつくそうなので、此処は怺えて、不便な折り畳み傘を広げて熱田駅を出た。何と、国道1号線に繋がっている路地に駅があったのだ。賑やかな雰囲気は微塵も無い。此処が熱田神宮の最寄り駅だとは……。
 田駅に続く路地を出ると左側に、熱田神宮までアーケードがある商店街が続いていて、門前の役割を担っているが、私が見た所、シャッターを下ろしている店が多く、人通りも少なかった。門前特有の賑やかさは皆無に等しく、驚きを隠せなかった。ただ、大都市の寂れた商店街といった所だろう。あの東海道でも有名な宮宿が、こんな寂れてしまったとは……。それでも、時季になると、信じられない程に賑わう所なのだろう……。シャッターには中日ドラゴンズ関係のポスターが貼られていて、地元に根付いた球団だと証している。
 アーケードを歩いているから、傘を差す必要は無いので、スイスイ行けた。右には片側2車線の大道が続いていて、その奥に深い森がある。そこが熱田神宮だ。入口は何ヶ所かあるが、初めて参詣するからには、正門から潜らないと気が済まないから、街角の案内板を頼りに歩いていた。すると、アーケードの商店街が終わり、左側にちょっとレトロな建物を見付けた。見ると、名鉄の神宮前駅だった。名鉄常滑線と岐れる駅故、乗降客が多いと言うこともあり、ちゃんとバス乗り場もあるし、タクシーも数台停まっていた。しかも、駅ビルだから飲食店が多く、人通りも熱田駅周辺と較べると倍以上だ。が、何か腑に落ちないなぁ。神宮前の「神宮」は明らかに熱田神宮だと判るのだが、初めて来た人には、どうも熱田駅の方が熱田神宮の最寄り駅だと判り易い気がする。しかも、僅か200〜300メートルしか距離はないのに、こんなに活気の差があるとは(因みに熱田駅の売店は、昼に一時的に閉めてしまう)。そこの方にも活気を分けて貰いたい物だ。まぁ、此処が熱田神宮の門前なのかもね。
 断歩道で熱田神宮側に渡り、正門を探しに境内に入ると、此処でも驚きを露わにした。
 熱田神宮の正門はそりゃ有名な神社だ。さぞかし賑やかだと思ったのだが、何と、大道の細い路地に繋がっていたのだ。周りは民家のようで、これが、東海道の宮のモデルになり、鉄道唱歌にも謳われている熱田神宮とは到底思えない。此処に日本武尊(やまとたけるのみこと)ゆかりの刀剣草薙剣が奉納されていることで有名なのに、そんな伝説を都会の繁忙を以て嘲笑し、その結果、正門付近でも民家が建ち並ぶ、何とも味気ない神社になってしまった。
 やり場のない呆れを抱えて、大鳥居を潜った。周りは背の高い常緑樹に囲まれて、雨に幾分か濡れずに済むが、しっとり濡れた玉砂利の道は、踏む毎にキュッキュッと気持ちの良い軋む(きしむ)音が奏でられる。
 この熱田神宮には、日本武尊だけではなく、かの織田信長公にもゆかりのある神社なのだ。(本殿しか参詣していないから、よく判らないが)何と桶狭間の戦いで勝利を得たお礼として築地塀が今日も残されている。その他にも、高野山金剛峰寺を開いた弘法大師が直に植えられたとされている「大楠」、花は咲いても実が生らない摩訶不思議な「ならずの梅」等あるそうだが、小雨が降っていて気分が沈鬱していたので、見に行かなかった。今度参詣する時は、カラッと晴れた日がいいな。そんな気持ちを抱えて、参詣した。すぐ傍には、結婚の宮参りだろう。文金高島田の花嫁が、親族と一緒に写真撮影していた。
 て、絵葉書を買おうとするか。もう、下手に名産品を買い込んで旅行する程、体力の余裕が無い。金銭は幾分かあるけどね……。絵葉書を買おうとした所、巫女から出たこの一言。
「幾らかは決めておりません。お気持ちでお納め下さい。」……はて、私の動作が止まった。そりゃ、寺社の絵葉書は500〜800円が相場なのだが、いきなり「お気持ちでお納め下さい」と言われると、ハッキリ言って困ってしまう。下手に1000円を出して、後々困りたくないし、かといって、お気持ちの言葉に甘えてしまって、端金出してしまうのも、良心の呵責に苛まれるし。こうして思案する事、僅か10秒。此処は相場の500円を出す事にした。

 上はJR熱田駅。
 中は熱田神宮。
 下は熱田神宮拝殿。



(2006年3月16日) 春雨煙る遠州へ……

 、折り畳み傘を広げて熱田駅に戻った。時計を見ると、もう昼餉の時間だ。周りを見回しても、満足に昼餉が摂れそうな所は見当たらず、途中で、週刊誌で話題になった肉まん屋を見付け、値段相応の豚まん2個を買って、昼餉に充てた。1個150円也。中身は湯葉が入っていて、ジューシーだったが、大きさは……。値段相応なので、どの位の大きさは察知出来よう。
 又、国道1号線から離れている熱田駅に戻った。すると、駅舎にある売店が閉まっていて、ホームに降りても、人影は疎らだった。すぐ隣に中央本線、名鉄線、区間快速以上の快速が停まる金山駅、知多半島に連絡する名鉄常滑線の分岐駅神宮駅がある影響で、殆どの旅客や商業はその駅に集中し易い。それ故、隣の(熱田)駅は寂れても不思議でも何でもないのだが、頻繁に往来する名鉄線を見る度走る度、この熱田駅が蔑ろにされている雰囲気が高まってくる。そうしたら、此処熱田駅で遠州に向かう私は、置いてけぼりの仲間なのか? 値段相応の大きさの豚まん2個ではその雰囲気は収まらず、静かに降り続けている雨を見ながら、列車を待っている他無かった。出来ることなら、止んで欲しい物だがな。
 昼餉の一首。
 春雨に煙る熱田の宮詣で熱き豚まん湯気も煙りし

 12時7分の各駅停車浜松行きで、関所が残っている新居町と砂浜にデンと大鳥居が立っている海岸が印象的な弁天島へ向かった。途中で快速に抜かれるが、折角の旅だ。都会のように1秒1秒をケチっては、都会の生活と変わりはなくなるから、敢えて鈍行に乗った。金銭の勘定はメリハリを付けても、時間云々の勘定は多少大まかでいい。旅行は単に観光名所を巡るだけではない(そうだとしたら、単なる遠足だ)。長時間の「何もしない」時間を設ける事も必要だ(欧州のバカンスは、この時間を設けているらしい)。そんな推論をぼやいている内に、刈谷と岡崎で快速列車に抜かれた。
 て、2つの快速列車に抜かれた鈍行列車は、シトシト降る雨をワイパーで拭いながら、遠州に向かっていた。この時私は先頭車両の運転席近くの席に座っていたので、降る雨の強さがあからさまに判り、雨に降られるのが殊の外嫌な私は、表情を曇らせていた。止む気配が全く見られなかったからだ。これじゃ、夜まで降ってそうだな……。鈍行に乗って良かったと思う所は、此処にもあると思う。
 豊橋を過ぎ、東海道の宿場町二川を過ぎると、遠州に入る。この付近になると、遠州灘と浜名湖が繋がる所を走るので、海に近い雰囲気が漂い始める、接岸されたモーターボート、鰻やスッポンの養殖場らしい建物がチラホラ。そんな所に新居関があった新居町がある。



(2006年3月16日) 新居関所



 居町に降りた。シトシトの雨は止む気配無し。それでも、雨脚が強くなっていない所が、唯一の救いだろう。近くには浜名湖競艇場があり、モーターボートのけたたましい音が響いていた。こんな雨でもレースがあるのは判るが、こんな平日にレースがあるのかな?
 跨線橋で駅舎に渡ると、売店とみどりの窓口とベンチがあるだけの簡素な造り。やはり、地方の大都市の小さな駅だね。
 さて、此処からは又折り畳み傘を広げて、新居関まで向かうとするか……。
 駅舎の近くは遊歩道になっていて、下水のマンホールには新居関が描かれていて、関所があったことを証している。旅人を厳しい取り調べで苦しめた関所も、明治に廃止になり、そして、平成の世になると、いい名所になってしまうからそのギャップに苦笑する。その一角に放浪の歌人種田山頭火の歌碑が立てられていた。日本の方々を放浪した歌人なので驚きは薄いが、一体種田山頭火は此処を訪れて、何を見付けたのだろうか。
 側1車線の細い道路の脇にその関所があった。
 先ずは、関所の隣にある記念館に入った。そこには関所の歴史が展示されていた。通行手形が無ければ、通れないことは周知だが(新居関には港に出入りする出船手形や入津手形があった。しかも、少しの間違いも容赦しなかったそうだ。完璧主義の走りとも言えよう)、地形上遠州灘と浜名湖が繋がっている所に関所があった為、浜名湖を迂回して、関所破りをする人が後を絶たなかった。そこで関所破りを捕らえる為、その周辺の村々に自衛団を結成させて、関所破りを取り締まったそうである。その関所破りを捕らえる為の様々な武器(長槍や刺又)が展示されていた。更に「入鉄砲に出女」と理通り、女性にも容赦ない取り調べが行われていたそうだが、何と(武家の妻女や普通の女が出家した)尼にも取り調べを行っていたそうだ。しかし、男性が調べる訳には行かず、関所勤めをしていた武士の妻女が取り調べていたそうだ。しかし、流石に男性と同じ場所で取り調べる訳にはいかず、関所と隣接している離れで行っていた。
 厳しい取り調べで旅人を苦しめた関所でも、関所破りをどうしても止められなかった旅人がいた。しかも、関所を滅茶苦茶に壊した挙げ句、何度も移転を強いられたそうである。一体誰だろうか? 人ではないよ。正解は、地震と津波。津波は場所柄何度も起きてもおかしくないのだが、地震は浜名湖と遠州灘に挟まれている陸地を陥没させ、繋いでしまった事もあった。これでは、流石の関所も武器を持っても為す術無しだから、改めて自然の猛威を思い知らされる。
 して、明治初期に廃止になり、多くの関所が瓦解されたが、新居関は(奇跡的に?)取り壊されずに、小学校や町役場になったりと紆余曲折の人生を歩んだ後、数少ない現存する関所という事で、昭和30年に特別史跡に指定されたのだ。しかし、前記の地震と津波の所為で現存する位置は3度目の場所なのだ。
 それでは、関所へ向かうとするか。承知の通り、通行手形がなければ通れないが、今は平成の世だ。手許には通行手形は無いが、代わりにJRの切符を持って入るとしよう。
 中には、蝋人形が取り調べの様子を再現していたが、役人だけの再現で、取り調べを受けている旅人は此処にはいなかった。しかし、女改(女を取り調べる事)の所だけはキチンと再現されていたのは、何処か皮肉だった。責めて、面番所(通行人を取り調べていた所)もキチンと再現して欲しいよ。
 しかし、関所って意外に広い建物なんだなぁ。面番所の広さはもとより、給人や番頭、足軽達の部屋や、役人が書を認める書院等もあって、旅人を取り締まる関所とは雖も、住宅をも兼ねてそうだな。きっと、厳しい任務の合間に静岡茶を啜りながら、世間話でも繰り広げていたのだろう。関所の隣は宿場町だから、話題が絶えなかっただろう。まぁ、私は取り調べを執り行う此処には住みたいとは思わないが……。
 雨に降られながら、関所を巡っていると、小さな渡船場があったので、興味津々で見てみた。港に近く、津波の被害をもろに受けた新居関は海と隣接していて、旅人は渡し舟で新居関に渡ったのだ。しかも、極最近(平成14年)に復元したそうだから、新居関の雰囲気がちょいと盛り上がったな。でも、(更なる雰囲気の増長の為に)海を此処に引くのは難しそうだな……。周りは住宅街で、関所があった町を偲ぶのは、この建物の他無さそうだ。

 上は種田山頭火の歌碑。
 中は新居関所。
 下は復元された渡船場。



(2006年3月16日) 旅籠 紀伊国屋





 居関の大御門を潜ると、宿場町の新居に入るが、今は、片側1車線の細い国道301号線が連なる静かな町に入る。関所を抜けた後の宿場町だ。ホッと出来る所だ。宿場町は説明しなくても判る通り、旅籠(はたご)が建ち並ぶ大層賑やかな所だ。そして、宿場町は近くを通る国道1号線沿いの住宅街や商業地域になっている。しかし、この新居の場合は、国道1号線から岐れている片側1車線の細い国道301号線にあり、これが賑やかな宿場町なのかは、素人目から見ても無理がありそうだ。天下の大道国道1号線ならば判るのだが……。
 その静かな所で、宿場町の面影を残してくれるのが、「紀伊国屋(きのくにや)」という旅籠だ。周りは住宅街に感化されているが、一軒だけでも残っていれば、充分に面影がある。
 外は、相変わらずのシトシト降りの雨。嗚呼、雨に降られながらの宿場町歩きか……。関所を過ぎたものの、気分は妙に沈鬱だ。それでも、私は紀伊国屋の戸を開け、中に入った。丁度、関所との共通券を持っているから、入らないと損する。
 は、柔らかい灯りが点っている旅籠。今日でもちゃんと客を迎えている。
 先ず、私の沈鬱な気持ちを吹っ飛ばしたのは、玄関に飾られている「紀州藩御用宿」の看板だ。紀州藩と言えば徳川御三家の一つだが、紀州藩の御用を務めることは、並大抵の事ではなれないし、旅籠の中でも大層格式高かったに違いない。実際に商人の身分でありながら、帯刀御免だったそうである。紀州藩御用宿か……。ひょっとしたら、紀州藩に畏まって(かしこまって)、泊まろうとした旅人がいただろうし、お忍びで吉宗公がお泊まりになったのかも知れないな(あり得ないけど……)。
 実際この紀伊国屋は、関所が無くなった明治になっても旅籠を務め、昭和30年代の廃業まで続いた老舗旅籠なのだ。関所が無くなって往来が増したから、さぞかし潤ったのかも知れないが、昭和30年代の高度経済成長の大義名分に、宿場町としての機能が無惨に消されたのは、地元としても悔しかっただろう。
 それでは、中に上がらせて頂くとしよう。雨の中歩いて、少々疲れたので……。
 階はこの紀伊国屋と新居宿の歴史が展示されている。この紀伊国屋は流石、紀州藩御用宿の看板に相応しい広さを誇っている。部屋数12部屋、奥座敷2部屋、そして、総畳数が何と63畳もあった新居宿最大の旅籠だったのだ。そうとなったら、毎日毎日女中が右往左往で忙しく、部屋の方々から飛び交う酒盛りの声で賑やかだったに違いない。そんな喧噪(けんそう)が2階の客室から聞こえそうだ。
 その一角に夕餉のサンプルが出ていた。さて、何が出されていたのだろうか? ご飯に味噌汁、漬け物に野菜の煮染めと、此処までは一般的なのだが、場所柄何時も出されていた物とは? ヒントは、此処新居は浜名湖と隣接している宿場町故……、此処まで来たらもうお判りだろう。そう、鰻なのだ。しかも、この紀伊国屋の名物として毎夕に出されていたのだ。しかし、一般に目にする鰻重(鰻丼)とは違い、ご飯と鰻の蒲焼きが別の皿で出されていたのだ。いつ頃から鰻重が出来上がったのかはよく判らないが、旅人が偶々蒲焼きを丼飯に載せて頂いたら、意外とイケて広まったのかも知れないな。ましてや新居宿最大の旅籠紀伊国屋だから、意外とそうかもねぇ……。
 鰻の蒲焼きと鰻重(鰻丼)に対する疑問を抱えながら、その隣には蒲焼きのタレを入れていた瓶が展示されていた。此処で驚くべき事実が記されていた。この瓶は、紀伊国屋創業時から使われていた物であり、そこの方には粉になっているタレが固まって残っているのだ。味云々より、よくぞ今日まで残っていたとは、江戸時代の生き証人が此処にいる。
 あ、1階の奥座敷に入るとしよう。床の間がある上品な部屋だが、此処に泊まれるのは身分の高い武士だが、その廊下にある「水琴窟」という何やら面白そうな物を見付けた。これは、紀伊国屋が現役時代に置かれた瓶で、滴る水滴が空洞に反響する音が聞こえるそうだ。それでは、その音を聴こうと、円い穴に耳を密接して聴いてみた所……、生憎水滴が滴る時に出会えず、空洞の乾いた音が響いていただけだった。しかも、雨が降っていたから、仮に滴っていても、その音にも掻き消されてしまう……。雨が降っていても旅が出来るのだが、こういう摩訶不思議な物に触れる時だけは、晴れた日がいいね。嗚呼、始末が悪いわ!
 水琴窟をほっといて、奥座敷に座ってみた。掛け軸が掛けられている床の間、そして水琴窟。特に水琴窟が奥座敷の近くに置いてあるから、余計奥座敷の価値が高まる。出された夕餉も相当上品だったのだろう。一般客室の喧噪を余所に、鰻の蒲焼き云々を酒肴(しゅこう)にして、酒を啜っていたに違いないな。しかし、此処で食事を摂る訳にはいかず、雨の音を聴きながら、静かで優雅な奥座敷の一時を過ごした。

 上は旅籠 紀伊国屋と提供されていた夕餉。
 中は客室と水琴窟。
 下は奥座敷。



(2006年3月16日) 雨の弁天島

 天島は関所がある新居町の隣の駅だが、雰囲気がガラリと変わってしまうのが何とも面白い。新居町は関所と宿場町が隣接している所為か、息苦しい空間と寛げる空間が背中合わせなので、そのギャップに驚くのだが、弁天島は見渡す限りの観光地で、ゆったりと羽が伸ばせる。どんな観光地かは、列車に乗ってから話すとしよう。折り畳み傘をいちいち直すのが面倒なので……。
 弁天島。「弁天」だけに何処か縁起がいい地名だ。車窓からは砂浜近くに大鳥居が立ち、その砂浜沿いに弁天島温泉のホテルが林立している。そして、時季になると、潮干狩りに海水浴で大いに賑わう、遠州の大都会浜松から程近いレジャースポットだ。所が、3月中旬の雨の日の弁天島は、静寂が漂う場所に過ぎず、時折新幹線が偉そうに轟音を発しながら、浜松に向かったり、豊橋に向かったりしている。
 弁天島に着いた。降りた客は私を含め2〜3名。それなのに、ホームの幅は異常に広く、かなり持て余しているように見える。聞く所に因ると、潮干狩り客や海水浴客を捌く為に、ホームが広いそうだ。そりゃ、浜松と豊橋の狭間の海水浴場だ。訪れる人も多いだろう。しかし、2〜3人だけだと、広々としたホームが寒々しく見える。
 駅舎も何ともシンプルだ。ホームの中程に改札が設けられていて、小さな待合室を右にし、地下通路を抜けて駅を出る。そして、駅を出ると、右に観光案内所、左に売店がある。目の前には弁天島海水浴場が控えていて、すぐに海水浴出来るメリットがあるのだが、目の前の道路には横断歩道が無く(しかも、駅前にはタクシープールが無い)、いちいち傍の地下通路を通るという不便さ……。よく考えて駅を造ったのかよ、そう疑っても仕方がない。
 テルの脇の細い道を通ると、そこはもう弁天島海水浴場だ。そして、車窓から良く見えるあの大鳥居がデンと控えているのだ。やっと出会えたな。
 と思ったら、天気と時季が悪かった。雨は何とか止んだが、灰色の曇天が水平線まで意地悪そうに広がっていて、折角大鳥居に出会えたのにも拘わらず、スカッとしそうな気分が萎えてしまう。おまけに潮干狩りと海水浴の場故、3月は時季外れ。海水浴場に人一人いなかった。海から吹き付けてくる風が余計寒く感じる。んな時期に、興味津々に海水浴場に来る人は、訳がない限りは本当に好事家(こうずか)だよ。一体何を求めてきたのだろう。私の場合は、海水浴場にデンと立てられている大鳥居をよく見ようと来たのだが、目だけはやたらに周りを見てばかりだ。よく見てみると、海水を用いたプールやその客を相手するレストハウス、はたまたサイクリングの事務所等もある。何れも時季外れ故、ドアを閉めてひっそりとしている。そして、海水浴場の後ろには弁天島温泉のホテルが建っているが、今の時期は空室だらけだろう。当日予約でも泊まれそうだな、コリャ。
 こんな所に長居は無用なのだが、折角来たのだ。少し休んでいくとしよう。丁度、座れそうな所があるので……。すぐ行ってすぐ帰る旅行は、時間に追われているみたいで嫌だから。

 写真は弁天島の大鳥居。





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