(2024年6月15日) 会津磐梯山と喜多方ラーメン |
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民謡『会津磐梯節』の一説に、「会津磐梯山は宝の山よ」と謳われている。会津地方には、東京人がワクワクする名所が目白押しである。例えば、縮れ麺が醤油ベースのスープに絡む喜多方ラーメン、新島八重と白虎隊の会津若松、そして野口英世の故郷の猪苗代。何処も彼処も行きたいのだが、行程が上手く組めず、今日まで流れてしまった。あっちに行けば、こっちは行けないという列車の時刻に振り回されたのだ。日帰りの行程ならば、新幹線の時間があるので、尚更組むのが大変だ。
此処では喜多方ラーメンを頂く前提として、行程を組んだ。これならば、何とか行ける行程が組めた。
そう乗ったのが、八高線の川越行き。
梅雨入りはまだかと軽やか朝の旅遠き旅路に誘う朝風
6月中旬は、午前5時頃になると充分に明るく、途中の箱根ヶ崎では綺麗な朝日が撮れた。普段の生活では朝日は撮らないが、こういった非日常的な空間に身を置いていると、気分が違ってきて、朝日すら見取れてしまう。
朝日を撮り終え、一眠りすると、川越に到着した。東京から気軽に行け、隠れ家的存在の「小江戸川越」だが、この時間は大宮や都心を繋ぐ中継駅になっている。
新木場行きの埼京線に乗り換えて、大宮へ向かった。
朝日が顔を覗かせていた晴天は、広い雲に隠れていた。でも、雨が降りそうな暗い雲ではなかった。天気予報もずっとにらめっこしていたし、土砂降りには遭わないだろう。
川越と大宮を境を成す荒川を通って、大宮へ向かった。
川越線ホームはジメジメした地下ホームだが、階段を上がると、スイーツ、書籍、駅弁、食堂が両脇にあり、利用客を出迎えていた。とはいえ、まだ7時前だ。空いているのは駅弁屋程度で、他の店はまだ夢の中。
流石、埼玉県の交通の要所、大宮だ。今春の花見で、大宮公園と氷川神社に立ち寄ったのだが、川越よりも人出が多い。
大宮駅の売店で、厚切りバームクーヘン、おにぎり、ヒレカツサンドを購入した。朝からこんなに詰め込んでは、胃腸に響きそうだ。久し振りの旅に浮かれていた嫌な証拠だ。しかも、大宮〜郡山は約1時間なので、おにぎりだけ頂くか。残りの2品は、旅路の何処かで頂くだろう。
写真は途中で撮った朝日。 |
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新幹線ホームに入った。
東北新幹線を利用するのは、もう8年ぶりになるな。新函館北斗まで延伸する北海道新幹線開業前の2016年1月だった。真冬の長万部と札幌に行ったが、本当に娯しかった。雪とふれあう機会が皆無の東京人にとっては、雪に覆われた世界は最高のワンダーランドだった。慣れない足下で雪を踏みながら歩いたり、雪に埋もれた砂浜で一休みしたりした。秘境駅の小幌駅、廃線になった留萌本線の留萌駅も撮った。夜に札幌駅へ行った時、街頭で見たイルミネーションがとても綺麗だった。
話を戻す。
此処大宮は、東北・上越・北陸と行き先が岐れている新幹線の要衝駅。通る新幹線も、東海道新幹線よりもバラエティに富んでいて、見る人を飽きさせない。頻りにシャッターが切られる。紺碧と金色のE7系(北陸新幹線)。紫とピンク色のE2系(上越新幹線)。そして、紺色と赤と山吹色のE3系2000番台(山形新幹線)。
私が乗るやまびこ201号仙台行きは、エメラルドグリーンの車体に、ピンク色のラインが引かれている東北新幹線で用いられているE5系。そういえば、8年前に北海道へ行った時も、この車両だったな。ご無沙汰しております。
6時45分、やまびこ201号仙台行きは、定刻に大宮を発った。
大宮駅西口の高層ビルをチラッと見る。川越では見掛けないデパートやら複合施設が、メタリックな建物で犇めき合っていて、如何にも新幹線停車駅の威光を知らされる。特に羨ましいことはない。由緒正しき小江戸川越に、こんなメタリックな建物が林立している都会になって欲しくない。江戸・明治・大正・昭和・平成が上手く調合された都市は、東京界隈では、川越くらいだろう。外連味のない都市を維持しながら、東京人から羨望される都市になって欲しい。そんなことをぼやきながら、赤飯のおにぎりを抓んでいた。
大宮の住宅地を抜け、郊外を出た。田植えをした田圃が段々目立ってきて、四季の移ろいが直に判る。今度は蛙の合唱が聞こえるのかな?
写真は大宮駅で撮った新幹線。上から、E5系、E7系、E2系。 |
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(2024年6月15日) 25年振りの郡山駅でとんだチョンボ |
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郡山で新幹線を降りた。改札を抜け、連絡通路を通ると、喜多方ラーメンの広告があった。何だか、喜多方ラーメンを頂く私を歓迎しているかの如く。これぞ、喜多方プライドだ。本場で頂く喜多方ラーメンは、絶対裏切らないだろう。
磐越西線ホームがある1番線に降りた。緑と赤のラインがあるE721系。車内は、空席ばかり。此処は、猪苗代湖側に席を取りたいな。
運転方向を見定めて、進行方向左側の窓側の席に荷物を下ろした。もし、猪苗代湖が見えたら、大盤振る舞いするか!
暫く郡山駅ホームで、撮影タイム。
郡山駅構内を見ると、ガソリンなどを運搬する藍色のタンク車があった。すかさず、一枚。更に、コンテナを運ぶ貨物列車も通過した。東京寄りには郡山貨物ターミナル駅があるので、往来が頻繁にある。人の往来がある郡山駅だが、貨物列車は「我関せず」とばかり、余所者を気持ちを知らず、無情に通過していった。でも、出会えただけ運がいい。「こんな田舎の駅の何処がいい?」と訝しむ地元住民の視線を余所に、私は郡山駅の写真を撮っていた。
実は、郡山駅を利用するのは、今回が初めてではない。
25年前の1999年9月に、高村光太郎の妻智恵子の故郷安達を訪れる為に、この駅で普通列車に乗り換えて、二本松まで向かった。その時も、今と余り変わらなかったな。構内が広く、ディーゼル車がノンビリと発車時間を待っていた。
そして、智恵子の実家の造り酒屋は行けたが、安達駅に向かう途中で道に迷ってしまった。線路と道路の方向で、駅の位置を割り出して、何とか汗を掻きながら安達駅を探した。当時は、地図が搭載されたスマートフォンがない時代。今、同様の行程だったら、間違いなく熱中症で倒れるだろう。
程良い頃合いを見て、私は運転手に猪苗代湖の方角を聞いた。間違いなく進行方向左側だった。進行方向左側の席を取って良かった。この電車の終点会津若松の途中に、猪苗代湖畔という臨時駅があるので、もしかしたら車窓から猪苗代湖が見えるのかも。そんな余所者の皮算用をしながら、私は郡山駅の写真を撮り続けた。
さて、電車に戻るかと……。
所が、定期入れがなかった。あれには、フリー切符もあったのだ。確かに、新幹線の改札を抜けた時は、あったのだ。と言うことは、在来線の何処かで落としたのだ。
私は完全に青くなった。あれがなければ、喜多方への旅が台無しになるだけではない。八王子〜郡山の運賃を払って、余計な出費する上に、帰路へ赴くことすらできなくなるのだ。
新幹線側の改札脇の窓口に訪ねた。返答は、「届いていない」とのこと。一気に、痩身に冷や水が走って、冷や汗が出てきた。
此処でもう一度、私の経路を話した。新幹線の改札を抜けた時はあった。
すると、近くの女性から、思わぬ吉報が。
「確か、新幹線改札を抜けた時、落としたのでしょうか?」
「えぇ。」
「あれ、新幹線の改札の窓口に届けました。」
無論、定期入れはあった。私はこの女性に深くお礼をして、定期入れを受け取った。
久し振りの旅だから、我をも忘れてしまったのだ。しっかりしろ、痩身の旅人!
25年振りの郡山駅なのに、とんでもない借りができてしまったな。
写真は喜多方ラーメンを紹介しているポスター、郡山駅構内。 |
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何とか、8時29分の電車に間に合った。慌てて走ったので、汗ばんでしまった。
冷房が利いている車内は快適だったが、まだ汗ばんでいる私には、殆ど利かなかった。
落ち着いた手付きで、扇子で涼を取りながら、大宮駅で買った無糖紅茶を啜った。
少し、暑さが引いた所で、車窓に目をやる。郡山市街地にある郡山富田、住宅地と商業地が混在している喜久田。田園地帯になった安子ヶ島。
そして、磐梯熱海は「熱海」で連想する温泉街。とは言っても、伊豆熱海のように宿泊場所が密集している温泉街ではなく、山間の静かな温泉街だった。差し詰め、「郡山の奥座敷」といった所だ。駅に近い水力発電所を過ぎると、立派な旅館が建ち並んでいる。
そういえば、「熱海」繋がりで、2011年の熱海梅園で、磐梯熱海の宣伝を兼ねた福引きに参加したことがある。最後から2番目だったが、最後の一袋の安積米が当たった。序でに、インフルエンザA型という厄介な土産も頂いた。
磐梯熱海は数分で山間に景色に戻った。緑一杯の山間にポツンとある一軒家を見ると、こんな所で生活している人がいるなと感心させられる。大きな買い物は郡山まで出るのだろう。
車内は、乗客がそんなに増えたり減ったりせず。ただ、都下でも滅多に見られない景色を、珍しそうにデジタルカメラで撮っている私は、どんな風に映るのだろう。間違いなく、余所者だと察知尽くだろう。
すると、線路が分岐した。その線路は草むらの中に入っていった。
何があるのだと、思わずデジタルカメラを準備した。
やがて、草むらは無くなって、一つのホームが見えてきた。すかさずシャッターを切った。そして、出来映えを確かめていると、「スイッチバックの駅、旧中山宿駅へようこそ」の看板が確認できた。
そうするうちに、中山宿に停車した。先程見た駅は、スイッチバック時代の中山宿駅なのだ。こんなに綺麗に手入れしているなんて。山間を走る時、どうしても勾配の関係上、勾配上にホームを設けることはできなかった。そこで、平坦な場所でホームを設けて、出発する時はその分岐点まで戻って、本線に入っていったのだ。中央本線の初狩や笹子もそうだ。そして、列車の走行技術等が向上して、勾配上に駅が設けられるようになって、このホームは役目を終えた。しかし、地元有志に因って、このホームは整備されて、鉄道ファンを迎えている。中山宿駅からそんなに離れていないので、機会があったら行くとするか。
暫く、山間に造られた田圃を通る。既に田植えを終えていて、青い苗が碧い空を見つめていた。そこに、白鷺が降り立って、長旅の疲れを暫し癒やしていた。
あの白鷺も旅人だ。向かうのは東西南北の何処か……。
写真は磐梯熱海温泉街、スイッチバック時代の中山宿駅。 |
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上戸を過ぎて、いよいよ猪苗代湖が近付いてくる。次第に山が切れて、平坦な土地が広がってきた。地平線の向こうには、猪苗代湖が広がっているのか。そんな余所者の懸けが始まった。見えてきたら、喜多方か会津若松で大盤振る舞いと洒落込むか!
臨時駅の猪苗代湖畔のホームと駅名標を上手く撮り、ずっと広がる田圃の向こうに期待した。デジタルカメラの準備は整っている。さぁ、来い!
しかし、見えてくるのは、田植えした田圃ばかり。湖畔すら見えない。一体、何処にあるのだ、猪苗代湖は?
そうしていると、猪苗代湖畔の隣、関都に到着した。電車の行き違いで数分停車している間に、地平線を睨んで、猪苗代湖を探し続けた。雑木林の隙間から見えるのは、田植えをした田圃だけ。余所者の懸けは呆気なく終わった。
関都駅汽笛残せし田植えかな
猪苗代湖が見えず、懸けの負けを悟ると、山が見えてきた。
これが、磐梯山なのか……。場所的にもそうかも知れない。
すると、川桁を過ぎた所で、抑揚がない車内アナウンスが流れてきた。
これが磐梯山なのだ。民謡『会津磐梯山』で、「会津磐梯山は宝の山よ」と謳われている。さて、その宝は何だろう? 金銀財宝なのか? 東京にはない会津の魅力か? そして、麓にある猪苗代湖の素晴らしさなのか? 正解は、訪れた者のみぞ知る。
磐梯山のお膝元、猪苗代に到着した。此処でかなりの乗客が降りた。野口英世の故郷であり、猪苗代湖、磐梯山の最寄り駅だ。今の1000円札の肖像画で脚光を浴びてきたが、今年の7月に北里柴三郎にバトンタッチするので、観光に響きそうな感じがする。
近くに猪苗代湖があるが、此処からでも見えないし、湖畔に着くまで結構掛かるだろうな。猪苗代は、遊覧船に乗船する予定なので、取っておく。
此処に、どんな宝があるのだろう?
猪苗代を出ると、暫く右側に磐梯山が見えるので、何枚も撮った。景色は田植えを終えた田圃がメインだが、磐梯山が上手く入るように撮った。景観をぶち壊す太陽光パネルや建物が無い分、田舎の長閑な景色がグッとくるのだ。
そして、磐梯山が去ると、また田植えを終えた田圃が見えてきた。此処に来るまで何枚も撮ったが、此処でも何枚も撮った。季節の移ろいが難無く判る光景だ。此処に蛙の合唱があったら、いい雰囲気になる。都下でも、見られるか否かの光景。本当に、余所者だと判り易い行動も、地元住民はどんな目で見ているのだろう。
写真は電車内から撮った磐梯山。麓の田圃にもクッキリと映っている。 |
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会津若松に到着した。此処で8分の待ち合わせで、新津行きに接続する。
新島八重と白虎隊で有名な会津若松だが、会津地方では交通の要所でもある。此処から只見線、会津鉄道直通列車、そして喜多方方面の磐越西線が延びている。此処に到着する前に、蒸気機関車時代の回転台や車庫もある。全盛期には、蒸気機関車の煤煙が舞い続けながら、会津地方の都会を担っていたのだろう。喜多方を訪れる後で、此処で約30分の待ち合わせがあるから、改札外に少し出られるだろう。
新津行きの磐越西線を見た。ステンレスの都会的な角張った車体は、ゆったりと時間が進む会津地方には似合わない。変に東京を過意識し、流行に遅れないようにしている空威張りが凄かった。気に入らない。
丁度、会津鉄道直通のお座敷トロッコ観光鉄道が、5番線に停車していた。上部が弧を描いていて、水色、青、紺色の3色のラインが、涼しそうに見えた。JRももうちょっと地元を意識した車体を造って欲しい。都会と同様のステンレス剥き出しの車体では、鈍い銀色の色彩が景観をぶち壊してしまいそうだ。
そのステンレス車体に乗車して、空いている窓側の席に座って、出発を待った。
そして、列車は出発した。何と、後ろに進んだ。進行方向側と逆の席に座ってしまった。会津若松の駅名標を見ると、磐越西線は此処でスイッチバックで方向転換をして、運転しているのが判った。
そして、田植えを終えた田圃が延々続く光景が続いた。会津若松に向かう途中で、何度も見てしまったので、この光景も飽きが来てしまい、シャッタを切る音もなくなった。段々、余所者から地元の人間に変わってきた。
そんな光景の遠くに、白亜の観音様を見つけた。思わず、シャッターを切った。運転中だったので、焦点が定まらず、数枚取った。さて、何処の観音様だろう。会津若松〜堂島の中間地点の東の方向にあるのだが、お判りになる方はいらっしゃるか。
写真はステンレス製車両の磐越西線、お座敷トロッコ列車、会津若松〜堂島で見つけた観音様。 |
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遂に、喜多方に到着した。此処で乗客が多少降りた。目的は、喜多方ラーメンだろう。余所者を惹き付ける程、美味しいのだろう。だから、東京で営むよりも生き残るのは難しい分、味を極めている。まぁ、紛い物は東京だけで十分である。
新津へ発つ嫌味なステンレス製の列車を見送ったら、静かな喜多方駅があった。降りた客は、既にホームを出ていて、列車を見送っているのは私一人だった。此処は、本当に喜多方ラーメンのお膝元なのか?
ホームには、全国にその名を轟かせている喜多方ラーメンの名店の看板が下げられていて、喜多方を訪れた観光客に、「是非我が店で、本場の喜多方ラーメンをお召しあれ」と、その威光を伝えている。私が目指している店だ……。突然の出迎えに、驚いてしまった。
「蔵とラーメンの街」と謳われている喜多方。「ラーメンの街」は余所者でもよく判るのだが、「蔵の街」とはこれ如何に。小江戸川越も、「蔵の街」と名高いが、此処は初耳だ。何方かが素晴らしいか、勝負しようではないか。しかし、時間が限られているので、蔵の街を見つけられるかは判らない。
改札を出て、脇のサックに、「喜多方ラーメン 老麺会」の地図があった。これには、喜多方ラーメンを出している店が、所狭しと紹介されている。東京でも、ラーメン激戦区があるが、流石にパンフレットは出していない気がする。此処で、喜多方ラーメン対するプライドがよく判る。紛い物は一切通じず、本物だけが生き残る本場なのだ。
駅を出ると、広い空の元に背の高くない建物があったが、往来が殆どなかった。あれ? 先程の乗客は何処に行ったのだ? 私は先程のパンフレットを広げると、掲載されている喜多方ラーメンは市街地の広範囲に広がっていて、各々がお好みの店や通い慣れている店があるのだと感じた。ゴールは一つだけではない。
写真は喜多方駅ホームと駅舎。 |
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私は閑静な駅前を通って、目的の店に向かった。
6月中旬なのに、暑いな。
私は極力、建物を影を歩いて、熱中症にならないようにした。合間に、冷たい麦茶を一啜り。
晴天は嬉しいが、6月でこんな暑さに見舞われては、今夏はどのようになるか。少なくとも、昨夏の胃痛を伴う体調不良だけは御免被りたい。自律神経失調症かも知れないが、これを歳の所為にしたくはない。今年は、無事に過ごしたい。
木造家屋が続き、懐かしい塩専売の看板や町中に残っているポンプ式井戸があり、令和の世に無くなった昭和時代の遺産に、ふっと溜息が漏れた。街中にあるタイムカプセルだ。そこに、喜多方ラーメンを作っている湯気が混ざると、空腹を憶えてしまう。鞄に大宮駅で購入したバームクーヘンがあるが、それだけでは満足できない。
駅から続く市街地は、電線を地中に埋設しているお陰で、青空が広く見えた。その青空に見取れながら、立ち止まって麦茶を一啜り。こんなこと、日常生活では殆どない。もし、地元の市街地を歩いていたら、こんな感動はなかったな。
写真は喜多方の街並み、途中で見つけたポンプ式井戸。 |
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地図を頼りに、目的の店に向かっていたら、煉瓦造りの建物が右にあった。扉を見ると、「冷房中」とあったので、涼むがてらに入るか。
此処は土産物屋で、会津地方の地酒、醤油や味噌、そして素朴な菓子等があった。その中に「会津焼」という煎餅があった。
見た瞬間、私の脳裏に淡い記憶が蘇った。
30年以上前に、この会津焼を箱で貰った記憶がある。たまり醤油を塗った煎餅で、喜多方から川越に働きに出た父親の知り合いから頂いた。多少湿気ていたが、米の味が判り易く、美味しかった。それから30年以上も経って、この会津焼と再会できたのだ。今でも、しっかりと喜多方の土産の一翼を担っているから、殆ど喜多方に縁が無かった私にとっては、何とも感慨深かった。味わって頂こう。
地酒のコーナーは、広く取られていた。そして、新聞の一片に、「品評会で金賞受賞云々」と掲載されていた。更に、地酒醸造所の数を見たら、東北地方の県が上位を占めていた。東北地方は地酒の大宝庫だから、味を競うのは並大抵のことではない。舌が肥えた酒豪のお眼鏡に適った逸品が、名誉ある賞を頂けるのだ。小江戸川越や都下の地酒では、これらとは対抗できるかな?
また、この煉瓦造りの建物は、江戸時代から続いている醤油、味噌醸造をしている商店の蔵屋敷でもある。「縞柿」と呼ばれる縞模様がある柿の木で造られた座敷は、殆ど調達できない縞柿を長年に亘って調達して、客人用に誂えた贅沢な屋敷である。これで、喜多方でも極めて裕福な商家の財力が判る。文明開化の折には、牛鍋等を抓みながら、未知なる美味に頬を綻ばせていた光景が目に浮かぶ。現在でも、醤油造りは続けられているので、会津焼に利用されているのかな。
充分に涼んだ所で、店を出た。すると、中のレトロなプラモデルの箱が見えてきた。昭和レトロがあるのかと、ちょっと寄り道。
店内には、プラモデルの他に、怪獣映画のポスターや昔懐かしいアイドルグッズ、名車のミニカー等が展示販売されていた。そして、つまみを回してチャンネルを変える昔のテレビもある。勿論、ブラウン管だ。このつまみを回すガチャガチャの感触が懐かしい。つまみを回すと、チャンネルが変わってしまうから、当時幼児の私には不思議が詰まっていた。
その両脇のショーウィンドーには、旧国鉄時代の電車の模型があった。昔、持っていたな。山手線の黄緑色の電車を。
写真は市街地にあるレトロな建物。中は店になっている。 |
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(2024年6月15日) 召しませ、喜多方ラーメン! |
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漸く、目的の喜多方ラーメンの店に着いた。その場所は、先程の煉瓦造りの建物があった通りから路地裏に入り、小さな公園と社が隣接している、商売するにはかなりハンディがありそうな場所だった。こんな路地裏にあるのか? こんな路地裏に、日本中にその名を轟かせている本店があるのか? 余りの意外性に、声を失った。先程通った通りは広かったが、此処にも喜多方ラーメンの名店があった。でも、そうなんだよ。現に、名店と謳われている店は、こういう所にあるし、並んで頂く価値があると確信している客や、その味に感動し再度訪れた客が、列を成しているのだから。私も、都会で喜多方ラーメンの仕様を予習し、是非本場で頂きたいと思ったから来たのだ。
私は、列の最後尾に並んだ。
しかし、6月中旬なのに暑いな。麦茶は干してしまったし、これ以上水分補給ができなくなった。列が動いた時、私は即座に木陰に入って、扇子で涼を取りながら、私の番を待った。
ふと吹く涼風に頬を綻ばせながら、路地裏を眺めた。
公園では、暑さを気にせずに遊具で遊んでいる幼児がいた。そして、公園にある掲示板に、昭和レトロをテーマにしたイベントのポスターがあった。昭和の大歌手の美空ひばりこと加藤和枝の顔が、印象的だった。令和生まれの子供は良しとして、平成生まれで彼女の名を知っている人は、どの位いるのだろうか? 11年前(2013年)、京都嵐山を訪れた時、彼女の記念館が閉館作業を行っていたのは、強烈なショックを受けた。彼女の物故があと10年以上遅かったら、記念館はまだあっただろうし、彼女の名も幾分か知っていただろう。「御嬢」の名で知られていたが、身内がボンボンだったら、その名も嗤われる。
暫く待っていたら、その細い路地に、自動車が次々と入ってきた。単に、自動車が入ってきたと思って、ナンバープレートを見たが、仙台、川崎、大宮と遠方から来たのには驚いた。例え都会で、喜多方ラーメンを頂いても、本場で頂きたい気持ちが充分に伝わる。これで、この店の名声の高さに、一気に痩身が冷えた。
さぁ、名店の逸品を頂くとしよう。本場の味を、自分の味覚で味わうのだ!
とはいえ、暑いな……。
暑さが苦手な私は、鬱陶しさを隠しながら、扇子で涼を取っていた。何分並んでいるんだ。下手すると、喜多方観光はラーメンだけで終わってしまうのか。
すると、中から店員がやってきて、黒い日傘を客に手渡し始めた。これは本当に嬉しい気遣いだ。この暑い中、いらっしゃる客の身を案ずるなんて、そうできることではない。有り難く使わせて頂くよ。私は黒い日傘を広げた。客も傘を広げた。
列はゆっくり、店内に吸い込まれて、遂に私は店の前に立った。そこで、店前のミストに当たりながら、私の番を待った。これも嬉しい気遣いだ。
そして、私は店員に促されて、中に入った。
店内は、大勢の客で賑わっていて、旨そうに喜多方ラーメンを頂いていた。絶え間なく、厨房から沸き立つ湯気や醤油ベースのスープの匂いが、余計空腹を促してくる。こんな忙しい合間を縫って、日傘を差し出してくれたのだから、感謝して頂かないと行けないな、コリャ。店内は、テレビを流しているが、殆どの客はテレビに目をくれず、眼前の喜多方ラーメンを頂くことに没頭していた。それ程、頂く価値があるというのだ。
チャーシューが多く載ってある肉そばを頂いた。縮れ麺に、薄口の醤油ベースのスープ。あれ、都下で頂いた時は、こんなに薄口ではなかった気がするが。そして、豚バラのチャーシューが、一面を覆っている喜多方ラーメンは極めて印象強く、「本場で頂く喜多方ラーメンは、これが王道だ」と力説しているかの如く。
では、本場の喜多方ラーメンを頂くか。
程良く茹でられている縮れ麺と、意外としっかりしている薄口のスープが良かった。見た目は薄そうに見えたのだが、ウン。これはお見事! チャーシューの下に隠れている輪切り葱とメンマを合間に挟むが、一面に載っているチャーシューに押され気味だった。欲を言えば、チャーシューの脂身がもっと少なければ、個人的には嬉しかったのだが(都下で頂いた喜多方ラーメンも、豚バラのチャーシューだった)。それを差し引いても、見事な喜多方ラーメンでした。本場の味、恐れ入りました!
喜多方の暑けど風吹く盛夏前旅を満たせし一杯のラーメン
写真は頂いた喜多方ラーメン。どの店かは、ご自分でお探し下さい。 |
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喜多方ラーメンを頂いたら、11時50分を指していた。予定の列車の12時36分まで、もう1時間もない。
本当に名残惜しいが、このまま駅に向かうとしよう。
あの蔵の街が見られず、小江戸川越との比較はできないが、次回に持ち越すとしよう。今度は、別の店で喜多方ラーメンを頂いて、街を散策しよう。
此処喜多方でも、郡山同様借りができたな。
何とか、建物の陰を歩いて、時折吹く涼風に気力を奮い立たせながら、喜多方駅に戻った。
既に、一番向こうの3番線に、12時36分発の会津若松行きが停車しているが、改札は12時20分に開くそうだから、此処で待つとしよう。
改札から駅構内を見ると、自動改札機は右脇に置かれていて、かつて使用されていた改札の柵が中央にデンと控えている。変な都会的様相はなく、素朴な地方の駅である。そして、ホームから吹いてくる涼風が、邪魔されることなく、改札外に届く。その風を痩身一杯に受けながら、ほんの数時間前のことを回想した。
―此処に降り立った時が、本場の喜多方ラーメンが頂ける嬉しさが懐かしい。その途中で、木造家屋や煉瓦造りの建物に出会って、此処で30年以上前を回想した。「会津焼」と言う煎餅が、記憶の片隅に残っていたが、今日それが鮮やかに蘇り、現実に飛び込んできた。
そして、12時20分に改札が始まった。使用されている車両は、八高線で見掛ける110系。悪くはないけど、新鮮味に欠ける。此処は八高線の駅なのか? でも、変にステンレス製の列車に置き換えられていなかっただけ、いいとしよう。
車内冷房が利いていたが、私は扇子で涼を取った。郡山のチョンボがまだ尾を引いているな。
気分転換に、ちょっと外へ出てみるか。
会津若松行きがノンビリ停車している喜多方駅構内。3番線のホームを持て余し気味だが、かつては此処から市内の熱塩温泉に向かっていた日中線があった。朝2往復、夕に1往復、計3往復で、日中は運転されないので、「日中は運転されない日中線」と揶揄された。山形県米沢市まで開通する予定だったが、途中の熱塩しか開通されなかった。ご多分に漏れず盲腸線となり、国鉄末期に廃線になった。米沢まで全通していれば、廃線は免れて、会津若松から直通列車があったかも知れない。喜多方は今以上に繁栄していたのかも知れない。終点の熱塩駅は記念館になっているが、喜多方駅には遺構はないのかと思っていた。しかし、駅舎があるホームの切欠きホームから発車していて、当時の駅名標も残っているそうだ。しかし、喜多方ラーメンを頂く前提で喜多方にきたので、それらを撮ることはできなかった。
列車はディーゼル音を噴かしながら、会津磐梯の田園地帯を走る。田植えを終えた田圃が、清冽な水を湛えながら、6月の暑さを気にせず、ゆっくり生長していた。東京在住者にとっては、田圃自体が珍しい存在である人はいるだろう。田舎から上京してきた若者にとっては、存在が無くなり掛けていた所で、本当に気が安らぐ場所に感じる。田舎にとっては聞き慣れたカエルの合唱を聴きながら夏を過ごすことは、割と贅沢なのかも知れない。
写真は昔の改札が残っている喜多方駅改札、水田が隣接している堂島駅。 |
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会津若松駅に到着した。此処で30分の待ち合わせで、13時30分の郡山行きに乗車する。
30分だけど、改札を出て歩くか。
会津若松駅は城下町で、駅舎も城郭風の駅舎。脇には、幕末の会津で故郷の為に薩長軍と対決した白虎隊の像がある(蛇足だが、西南戦争の折り、薩摩軍と対決した政府軍の中に、会津若松出身者もいたそうだ)。飯盛山で自決した悲劇的最期を遂げてしまった白虎隊だが、此処では会津若松を来訪する観光客を出迎えている大使となっていた。此処でデンと控えているのは、如何にも「我が鶴ヶ城を訪れてくれ! 私たちを悲劇のヒーローとして軽く扱うな!」とゴリ押ししている感じだ。序でに、新島八重と藩主松平容保(かたもり)も待っているそうな。
しかし、此処での滞在時間は30分しかないのだ。「列車の待ち時間が結構空いていたので、たまたま立ち寄った。」と伝えてしまうと、容保公も八重も、白虎隊からも怒られそうだ。日帰りの行程で、30分の時間を確保できたのが精一杯だ。今度来る時は、時間を確保して鶴ヶ城に向かうから、何とぞお許しを! 会津若松にも、借りができてしまった。
駅の土産物屋を覗くとしよう。喜多方ラーメンや地酒、松平家の家紋の形を象った三角形のゆべしがあった。また、戊辰戦争の薩長軍をテーマにした和菓子もあったが、壊れ易い会津焼を2袋も抱えていて、これ以上購入したら、会津焼は粉々になってしまうかと思い断念した。
写真は会津若松駅。 |
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13時30分の列車で、猪苗代に向かった。猪苗代湖に向かい、遊覧船に乗船する。食後の一時としては、最高だろう。
多くの乗客が、猪苗代駅で降車した。野口英世の歓迎を受けて、改札を抜けた。
すると、駅前に出た途端、私は呆然とした。自棄に静かなのだ。
駅前は、電線がない広い青空と、両側に欧州風の建物があったが、営業しているのは、右脇の喫茶店だけだった。中央には、広い道路があったが、自動車1台すら通っていなかった。これが、野口英世の故郷と名高い猪苗代なのか?
私が呆然としている最中に、裏磐梯の観光ホテルの送迎バスは、観光客を乗せて猪苗代駅を発った。そして、静かな駅が残った。
此処でも、磐梯山が見えるが、閑散とした駅前と一緒に撮られては、「宝の山」とはいい難い。雰囲気を見ると、北海道のローカル線の山間の駅によく似ている。昔は殷賑を極めていたが、今はその残像が哀れに見えてしまう。
此処から、猪苗代観光船の乗り場、長浜まで行くか。
と思ったら、バスの便が15時8分があった。しかし、今は14時だ。此処で小一時間も時間を費やすのは、もったいない。歩ける距離ならば、このまま歩いて行きたいが。さて、どうする?
近くの観光案内所で訊いた。その結果、磐梯山の宝の山は、消え掛けてしまった。乗り場がある湖畔の長浜まで、歩くと1時間以上も掛かる。こんな暑さで1時間も歩いたら、熱中症の虞がある。大事を取って、タクシーを利用しても、片道4000円近く掛かる。往復8000円は本当にきつい。しかも……、遊覧船は強風の為に運休とあった。
遊覧船に乗船する猪苗代での行程は、狂い始めた。さて、どうする?
私の行程を修正した。遊覧船に乗らずとも、猪苗代湖湖畔まで行ければいい。湖畔に休憩所があって、此処で一休みできればいい。
私はもう一度、訊いた。
湖畔まで、徒歩で何分掛かるかと聞いたら、2〜3キロの距離なので、歩いて行けるとのこと。2〜3キロの距離なら難無く歩けるし、この暑さで無風状態はきついが、今日は風がある程度吹いているので、水分補給を施せば行けるだろう。
此処で、駅前の閑散とした雰囲気の経緯を訊いてみた。
日本中がスキーブームに沸いていた頃、此処猪苗代でも磐梯山の中腹に、スキー場が造られ、スキーヤーが多く訪れた。そんなスキーヤー相手の旅館やホテル、商店が建てられた。道理で、駅前が欧州風の建物があった訳だ。
驚いたのは、昭和48年に、猪苗代駅でハンバーガーの店が開店したことだ。昭和46年に銀座で、マクドナルド1号店が開店したから、僅か2年で猪苗代にアメリカ文化が流入してきたということになる。47都道府県で最後に進出した山形県にできたのは、平成2年(1990年)とあるので、仮にマクドナルドではなくとも、地元は若いスキーヤーを迎える準備を整えていたと思う。当時の写真が駅に展示されていたら、信憑性は増すのだが。
そして、平成不況の荒波に飲まれてしまい、スキーブームは沈静化した。猪苗代駅周辺には、当時の面影を示す建物だけが残った。裏磐梯や湖畔の自然や野口英世の功績があるので、一定の観光客は見込めるが、この閑散とした駅前は何とかして欲しい。
写真は猪苗代駅舎、駅から見た磐梯山。駅前広場を見ると、かつてのスキーブームの残影が見られる。 |
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私は猪苗代湖まで歩いた。駅前はひっそりとしていて、自棄に幅広の道路を、持て余し気味だった。高い建物がない分、空が広く見えるが、人通りはなかった。此処は北海道のローカル線の山間の駅なのか?
観光客は裏磐梯の観光ホテルの送迎バスの中で、涼みながら向かっているだろう。私のように、徒歩で猪苗代湖に向かう人は、見た限り私一人だった。単なる好事家だな。
時折吹く涼風を受けて、陸橋を渡った。
右側に、猪苗代駅ホームが見えた。線路は、郡山や会津若松に向かって伸びていた。
私は暫く、その場に立ち止まって、駅を眺めた。
この線路で、野口英世は故郷凱旋したのだ。母シカとの再会に、多くの人が涙したのだ。世界の医療界で多大な功績を残した息子に対し、母親は慣れない手付きで手紙を書いて、帰郷を促したことは有名である。そして、二人は物故したが、功績は語り継がれ、2004年に1000円紙幣に採用された。もしかしたら、此処にスキー場を造って、殷賑を極めたのは、功績に対する功徳なのかも。
そして、陸橋を降りた所に、清冽な沢があった。沢はザワザワと涼しそうな音を流しながら、清冽な流れを呈していた。
私は思わず立ち止まって、沢を眺めた。都下でも、このような沢を見掛けるが、素直に立ち止まってその流れに見取れることは、どの位あるのだろう? 夏になったら、此処で子供達が、蝉時雨を聞きながら水浴びをするのだろう。自然に囲まれた場所での水浴びは、本当に贅沢に感じる。都会の子供達は、こういったことを知らないのかな?
田植えを終えた田圃に、湖畔に繋がる一本道がある。時折、涼風が吹き、植えたばかりの苗を摩る。サラサラと聞こえる音色は、暫し暑さを忘れさせてくれる。そんな一本道を歩く痩身の旅人。傍に見える道の駅をチラッと見たが、旅人の足はそちらに向かず、ひたすら湖畔を目指していた。
その旅人は、磐梯山が見える田圃に立ち止まり、徐に写真を撮った。本当に遮る建物がないから、雄大な自然が映った一枚が撮れた。これで、猪苗代を訪れたいい証拠になる。
そして、水分補給を取って、また湖畔に向かって歩き出した。
地平線から、猪苗代湖らしい湖畔が見えてきた。もう、猪苗代湖は近い。旅人の気分は昂り始めた。遊覧船に乗船する計画は破算になったが、湖畔に休憩所があればいい。
写真は陸橋近くの沢、磐梯山が見える水田。 |
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猪苗代湖に沿った国道49号線に出た。この国道に沿って、駅前では見られなかった大型商店が並んで、あたかも都会の郊外を思わせてくれるが、それは道路沿いでのお話。道路から一歩入ると、田圃が広がっている猪苗代の田園地帯が広がっている。田圃が湖畔まで続いていて、苗が湖風に吹かれて涼しそうだった。
さて、この辺に何かがあるのかとスマートフォンの地図を頼りに、近くにある白鳥浜を探したが、どうも見つからなかった。休憩所らしい所は見つからず、国道49号線を歩いたり、国道から外れて湖畔まで歩いたりしたが、全く見つからなかった。対岸に、色取り取りのテントが見えるので、此処にも何かあるのかと思ったら、生い茂った草が湖畔を覆っていて、休憩所なんて無かった。
こんな暑い中、歩いた苦労はどうなる? 私は半分近くになったプラスチックボトルの飲料を確認して、水分補給を取った。重苦しい溜息が漏れた。
このまま歩いて戻ったら、暑い中歩いた苦労が不意にされるから、もうちょっと湖畔に近付くか。丁度、日陰と猪苗代湖の涼風が絶え間なく吹いてくるので、此処で一休みするか。
私は猪苗代湖の湖風を受けて、立ちながら休憩した。
湖面には、湖風でできた漣が立ち、湖畔に来た私に涼を届けていた。湖畔の近くまで近付いても、湖風は特に機嫌を変えずに、涼しさを届けていた。漣と湖面を眺めたが、湖底が見える程綺麗だった。こんな綺麗な湖を走る遊覧船に乗船して、喜多方ラーメンの食後を娯しみたかったな……。
私は湖風に吹かれながら、水分補給をした。
やっと会えたか……。磐越西線の猪苗代湖畔では、見られるのではと期待していたが、見えてきたのは田植えした田圃ばかり。見えなかった分を、遊覧船で返そうかと思ったら、強風で運休という竹篦返しに遭った。このまま帰ったら癪だし、どうせなら湖畔に行ければと思って、やってきたのだ。綺麗な湖で良かった……。
私は湖畔に沿うサイクリングロードを通りながら、猪苗代湖を見た。
写真は猪苗代湖。遊覧船に乗船する計画が無くなり、絵になる写真がなかったが、その中でもましな2枚を掲載する。 |
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サイクリングロードから岐れた道を通り、再び国道49号線に出た。
さて、どうしようか?
私は、残り少ないプラスチックボトルの飲み物をゆっくり啜りながら、この時間をどうしようか思案した。このまま駅に戻ったとしても、時間を持て余してしまうだけだ。
そうだ。確か、途中に道の駅があったな。そこに行ってみるか。
また、田圃を貫く一本道を歩いて、道の駅に向かった。
一般道によく造られるようになった道の駅。道の駅猪苗代は、背後に磐梯山が控えているいい立地。道の駅と磐梯山が、すっぽりデジタルカメラのレンズに収まった。
道の駅は、所在地や近隣の名産品、地場産野菜、畜産を利用したレストランがあり、店内は土曜日のこととあって、賑わっていた。東京では八王子滝山しか道の駅がないから、余計珍しかった。
結構あるある。果物100%ジュース、果物ジャム、乳製品。会津若松駅で見たゆべし、喜多方ラーメン等があった。ただ、喜多方で購入した会津焼の煎餅はなかった。地酒もあった。喜多方で見た地酒の品評会金賞受賞のプライドが見て取れる。「会津でも、この位酒蔵があるのだ。さぁ、勝負できるなら、勝負しよう。金賞受賞は伊達ではないぞ!」小江戸川越がある埼玉県も地酒王国なのだが、真っ向勝負したら、どうなるのか?
また、東北6県をイメージした珈琲もあった。「東北」と訊くと地酒がよく思い浮かぶのだが、珈琲は余り訊かないな。各県の果物や祭からヒントを経て造られたブレンドコーヒーなのだそうだ。隠し味に林檎やサクランボのフレーバーが入ってるのかな?
猪苗代湖遊覧船に行けなかった分、此処で買い物をしようと思った。しかし、喜多方の会津焼煎餅が割れ易く、鞄も空きがない為断念した。
さて、此処で一服するか。1杯の喜多方ラーメンで補充した燃料が尽きそうだ。
私はレストランや軽食を出しているフードコートで一服しようかと思ったが、余り予算も残っていなかった。
そんな所で、鞄を漁っていたら、大宮駅で買ったバームクーヘンを見つけた。
これにするか。
私は、1杯の水を貰って、屋外のベンチに腰を掛けて、バームクーヘンを抓んだ。此処でも、涼しい湖風が吹いてきた。貰った水も、柔らかい冷たさがあった。美味しい水だね。徐々に、熱くなっていた痩身が、涼んできた。
それにしても、大宮駅で購入したバームクーヘンを、こんな所で頂くとはね。
写真は道の駅猪苗代。 |
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身体が充分に涼んだ所で、猪苗代駅に戻った。
その途中、猪苗代駅を経由するバス停を見つけた。バスの時刻表には、猪苗代駅方面と湖畔の長浜方面両方があった。しかも、バス停があったのは片側で、私が見つけたバス停は、湖畔の途中だった。湖畔に行くならまだしも、猪苗代駅方面に行きたいなら、何処で待っていればいいのだ? 此処で待っているのか?
歩ける距離なので、そのまま進むと、猪苗代駅方面に向かうバスに抜かれた。もし、先程のバス停で待っていたら、バスは停まったのかな。
陸橋を渡ったら、田圃の縁の用水路が、ザワザワと涼しそうな音で、余所者の足を止めた。確か、往路で清冽な沢を見つけたが、此処と繋がっているのかな。流石に、此処での水遊びは危険だが、コンクリートに囲まれた都会の人たちに、心身潤す憩いの一時を与えるには十分だ。
そんな長閑な田園地帯を走る2両の磐越西線。
そして、閑散とした駅前を通って、猪苗代駅に戻った。
早速、麦茶を購入して、冷房が利いている待合室で水分補給。此処が昭和48年に開店したハンバーガーショップだったのかな。駅舎の大きさといい、構造といい、そうだったのかも知れない。当時の写真があれば納得いくのだが。
幾分か休んで、身体が涼んだ所で、帰路の新幹線の切符を購入した。しかし、暑さを憶えたので、待合室に戻って涼んだ。そして、涼んで待合室を出て、また暑さを憶えて待合室で涼む。酷い悪循環だな。ふと、昨夏の胃痛を伴った自律神経失調症が、脳裏を過ぎった。今まで過ごした夏の中で、最低最悪の夏だった。
16時40分に改札が再開して、ホームに入った。
16時53分発の郡山行きに乗車した。
車内は立ちんぼがいて混雑していたが、運良くボックス席の窓側に座れた。
磐梯山に別れを告げて、東進する。
上戸を過ぎて、西に傾く太陽を見つけた。
あれ、何だろう? 空がまだ明るい青色だったから、まだ太陽が昇っているとしか認識できなかった。時刻は17時を指しているのに……。まだ、帰路に赴くには早そうで、もう少し旅ができそうな時間だ。そんな風に思えてしまう。
この光景を写真に撮りたかったが、線路が何度も方向転換しているので、太陽の位置が定まらない。方向転換している実感がない。方位磁針があれば、方向転換している実感があるのだが。
写真は見つけた用水路。長閑な田園地帯を走る2両の磐越西線。 |
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磐越西線は、田園地帯から住宅地が点在する郊外に移り、商業施設が建ち並ぶ郡山の街に進んでいった。
郡山に到着した。多くの乗客が、此処まで乗車した。
そして、各々の行程を持って、ホームを出た。到着したホームは、1番線だった。往路で、磐越西線に乗車したホームである。あれから約9時間も経ったのか。定期入れを無くしそうになった借りが大きかったのか、足早にこのホームから去った。入念に、胸ポケットの切符の確認を取って。
此処で、約1時間の待ち合わせで、東北新幹線に乗車する。
まだ時間があるから、もう一度郡山駅構内を撮った。
この時間でも、ガソリンを運搬するタンク車が係留されていて、旅の再開をジッと待っていた。また、長旅の途中の貨物列車も、郡山で停車していた。赤い電気機関車に牽引された藍色のタンク車は、此処でも長旅の疲れを癒やし、出発時間を待っていた。目的地に到着するのか、何時になるのだろうか? 人間のように新幹線が利用できないから、ただひたすらに在来線を旅する。それが、朝だろうと夜だろうと。
まだ時間があるから、郡山駅改札を抜けた。
福島と並ぶ都会の郡山は、ターミナルを囲むかの如く高い建物があり、駅前商店街の飲食店では夜の営業の準備をしていた。勿論時間上、此処で夕餉は摂れない。
郡山駅に戻って、駅構内にある名産品コーナーを歩いた。此処でも、道の駅で見た東北六県をイメージした珈琲があった。地酒王国の東北で、独特の喫茶店文化があるのだろうか。
やはり、目を惹くのはゆべしだった。会津若松で見たゆべしだが、此処では東京でも見掛ける四角形だった。形は見慣れているが、此処ではゴマ、ゆず、塩等の味があり、余所者の興味を引き立ててくれる。東北はずんだも有名だから、ずんだを利用したゆべしがあったら、東北土産としては最強ではないだろうか。
時間も予算も無いので、此処でゆべしを買うのが精一杯だった。会津若松では購入しなかったのに、郡山では購入するとは。松平容保や新島八重に怒られそう。白虎隊が怒り心頭で、私を追って郡山まで来てしまったら、もう会津若松の敷居が高くなる。
郡山駅の新幹線改札を通り、往路で見掛けた改札内の露店形式の立ち食いそば屋で、かけそばを啜った。380円で、麺大盛り120円の500円也。東京でかけそばの大盛りを頼んだら、500円以上は行くだろうなと痛感し、汗を掻きながらそばを啜った。大宮駅の賑やかで華やかな店で頂いてもいいが、こういった昔ながらの立ち食いそばが、旅情を無限大に引き出してゆく。
写真は郡山駅構内に停車していた貨物列車。都下の駅と何ら遜色ない郡山駅。 |
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新幹線ホームで、もう一度在来線の郡山駅構内を撮った。高く見る分、気付かなかった所もあるから面白い。
八高線で利用される110系の2両連結で、磐越東線での出番を待ちながら、ヤードで休憩を取っていた。
また、貨物列車に出会った。福島方面から来たから、宮城野貨物駅(現:仙台貨物ターミナル駅)を通過したのか? と言うことは、青い森鉄道・IGRいわて銀河鉄道を通って、青森から発ったのか。もしかしたら、青函トンネルを越えてきたのか。色々思案ができるが、貨物列車はそのことを気にせず、無造作に郡山を通過していった。
更に、運がいいことに、通過する新幹線も撮った。新幹線が通過する時間は10秒も満たず、デジタルカメラの準備をしていたら、あっという間に通過してしまう。幸い、通過のアナウンスがあったから、事前に準備ができた。
先頭は、こまちで利用される赤がメインのE6系だが、E5系が連結されていた。出来映えを見ると、通過する新幹線は速過ぎるのでクッキリ撮れなかったが、途中のE5系はJR北海道所有の新幹線だった。ピンクの帯の所が紫色だった。あれは、北海道のラベンダーから採用されたそうだ。営業している新函館北斗はラベンダーのイメージがない。富良野が有名だ。まさか、富良野のラベンダー畑を貫通して、帯広や釧路まで延伸したら、北海道独特の広大でゆったりとした空間がぶち壊れそうだ。そもそも、わざわざ新幹線を利用して、北海道に行きたい人って、首都圏でどの程度いるのだろうか? 青森港でフェリーで行ったり、電気機関車に牽引されて、青函トンネルを抜けたりするのは、時代遅れなのかな。
写真は通過した新幹線。「こまち」が先頭になっているが、後ろを見ると「はやぶさ」が連結されている。 |
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つばさ154号で、大宮に向かった。
途中で、黄昏に出会った。私の席は東側で、夜の帳が降りて間もないすみれ色した空だった。そんな黄昏空をつまらなそうに眺めながら、大宮駅で購入したヒレカツサンドを抓んだ。
ヒレカツサンドを頂いて、西側の席をチラッと見た。
すると、とんでもなく綺麗な黄昏が見えた。私は声を失った。
薄紫、オレンジ色、山吹色、黄色等が綺麗に折り混ざった黄昏空だった。
もしかすると、今撮り逃すと、酷く後悔するかも知れない。せっかく、遠出できる旅ができたのだから、心ゆくまで撮っておくか。
宇都宮を発った後、私はその黄昏を撮る為、ドアに凭れた。夕陽が雲の模様に反射して、黄色や山吹色の色彩を発していた。そして、上は徐々に薄紫色の空が広がり、次第にすみれ色の夜の帳が降りてきた。途轍もなく綺麗な黄昏だ。帰路を飾るには相応しい。
方角を見れば、あの磐梯山がある。
すると、あの民謡が脳裏を過ぎった。「宝の山」か! これも、磐梯山の宝なのか! 初見参である私への再来訪を促す贈り物なのか。とは行っても、会津若松も猪苗代も満足できる行程ではなかった。会津若松には、駅舎と白虎隊の像を撮っただけで、鶴ヶ城も城下も行かず、借りを作ってしまった。それなのに、このような贈り物を私に、届けて下さるとは……。
次第に、すみれ色の空が広がり、ブルーグレーの空で夜を迎える。磐梯山の贈り物は、遠離っていく。だけど、まだ黄昏が見える。デジタルカメラをズームにして、この黄昏を見届けたい。
宇都宮駅を発って数分経つが、私は席に戻らず、ドアに凭れながら、遠離る黄昏を撮り続けていた。
写真は宇都宮であった綺麗な黄昏。 |
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