(2016年1月11日) 札幌を去る早朝に咲いた一輪の花 |
|
|
その日は5時頃に起きた。最終日だ。
この日は、もう一度函館に行く行程を立てているから、朝早く行動しなければいけない。
早起きが得意な私だが、6時36分の特急「スーパー北斗」2号に乗って、函館へ行く行程を立てているから、少々朦朧気味の頭を叩き起こして、部屋を出た。
フロントでタクシーを確保して、札幌駅に向かった。歩いてでも行けないことはないが、地上に出たら踏み固められた氷が至る所で、余所者の歩行を妨げているし、地下街に行ったら全てが閉店している中で、誰もいない空間を歩くのは勇気が要る。東京ではないが通り魔がいたら、元も子もない。
ワンメーターで札幌駅に着いた。これで、札幌とお別れか。次に来るのは何時のことになるかな。2014年、2016年と北海道へ旅しているから、次は2018年になるのかな?
誰もいない駅構内の改札を抜け、線路に雪が残っているホームに立つと、意外な珍客が見送りに来てくれた。
寝台急行「はまなす」だ。方向幕は「札幌」と出ていた。昨夜何度も撮った寝台急行「はまなす」にまた出会うとは。偶然とは恐ろしい物だ。
私はデジタルカメラを取り出して、乗客が降りた後の車内を撮り始めた。ラウンジを見ると、そこで深夜の旅を娯しんだ跡が見られた。此処で酒肴を抓んだのかな。廃止になる「はまなす」に思い耽っていたのかな。夜行バスと違って、夜行列車は普段は感じない様々な思いが馳せられるロマン溢れる乗り物だ。のびのびカーペットがある車両や座席車両、更に、札幌の駅名標を入れた状態で「はまなす」を撮った。これで、札幌まで夜行列車が走っていたことが証明できた。
そこに、特急「スーパー北斗」2号が入線してきた。いよいよ、お別れの時が迫ってきた。自由席に痩身を投げ出して、ホットティーを一啜り。
そして、特急列車は動いた。他のホームを見ると、往来や列車の影は無く、見送りは寝台急行「はまなす」だけのようだ。初見参の札幌を発つには、余りにも寂しい見送りだ。
さらば、札幌。さらば、寝台急行「はまなす」……。
上は札幌駅に到着した、急行「はまなす」を牽引したディーゼル機関車。
下は廃止になる急行「はまなす」の札幌行きの方向幕。 |
|
|
|
(2016年1月11日) 早朝の特急は道南を目指す |
|
|
まだ眠っている札幌の住宅街を抜け、処女雪が広がる原野で日の出を迎えた。今日もいい天気に恵まれるかな。
そうしている間に、南千歳に到着した。駅名標の左側を見ると、新千歳空港・美々・追分と3路線に岐れている交通の要衝である。
そして南千歳を発つと、右側には新千歳空港が見えてくる。思わず、1枚撮った。こんな間近で見られるなんて、見ると、ターミナルが朝日を受けて、数機の飛行機が滑走路で停まっていて、ゆっくり朝を迎えている姿があった。札幌近郊に丘珠(おかだま)空港があるが、これは道内を結ぶ路線が大半を占めている。此処新千歳空港は先述の南千歳同様、国際線もある交通の要衝である。
特急列車は3路線に岐れている内の千歳線を走り、ホームと小さな待合室があるだけの美々を通過した(この美々駅は2018年3月に廃止された。どんどん廃駅が見られるJR北海道の駅だが、どの駅が廃駅になるかは判らない。この時点で美々駅が廃止になることは知らなかったので、折り合ったら、撮りに行くとするか)。
土が剥き出しになっている休閑中の田畑の地平線から、太陽が昇ってきた。時刻は7時14分だ。朝からこうやって、問題なく行動できるなんて、私はまだ若い証拠なのかな。昨夜就寝したのは23時頃で、起きたのは5時頃。6時間の睡眠で、よく頑張れるな。しかも、この辺は往路では通ったが、夜近くになっていたので、周囲の景色が判らなかった。だから、どんな風になっているのか、細大漏らさず撮りたい気持ちもあった。
そして、赤紫色のJRコンテナが見えてくると、北海道有数の工業都市苫小牧が近付いてくる。コンテナを上げ下ろしするフォークリフトを撮っていると、JR貨物の苫小牧貨物駅の社屋が見えてきた。そして、赤と白のツートンの煙突が白い煙を吹き出しながら、早朝から旅路に赴く私を迎えていた。空を見ると、青空が見えた。いい天気になるかも知れないな。ホットティーを一啜り。
上は3路線に分岐している南千歳の駅名標。その中の美々駅が廃止になった。
中は特急列車から撮った新千歳空港。
下は北海道有数の工業都市苫小牧付近での一枚。 |
|
|
|
(2016年1月11日) 工業都市と温泉地を通過して |
|
|
苫小牧から漸く海が見える。とはいっても、噴火湾沿いによく見えるのではなく、海沿いの道路から見える程度。
此処でも、私のデジタルカメラはよく働く。馬を放牧させている厩舎、室蘭岳。厩舎は木が邪魔していい絵にはならなかったが、これも北海道らしい光景の一枚だ。此処で生まれ育ったサラブレッドが、中央競馬や地方競馬のレースに出場するのか。厩舎といえば、日高本線沿線が有名だが、去年の(2015年)高潮で線路の法面が崩れた被害がそのままになっている。バス代行しているのだが、下手して廃線にならなければいいのだが。いや、斜陽化が止まらない北海道経済なら、あり得なくもない(2019年3月に鵡川〜様似が廃止になる)。
そんな心配を抱えて、温泉で有名な登別に到着した。柱に付けられている駅名標を見ると、北海道を代表するブランド麦酒の名が付けられていた。そういえば、この名が付けられている駅もあったし、1日目の夜に啜った麦酒もこのブランドだった。酒豪だったら、朝からこの麦酒を啜って、発つ北海道を偲ぶことができるのだが、2晩掛けて干した私には無謀過ぎる。仕方なく、温くなり掛けているホットティーを一啜り。そして、停車している各駅停車を眺めながら、登別を発った。此処でも青空が見えた。
暫くすると、その青空が雪雲に隠れてしまい、灰色の空が一面に広がってしまった。冬の北海道の気紛れ天気には慣れているが、向こうの函館はどうなのだろう。ホットティーを最後まで啜った。
そんな曇天の下に、停車しているディーゼル機関車が見え、苫小牧で見た赤紫色のJRコンテナが積まれていた。そして、JR貨物の東室蘭駅の社屋が見えてきた。
苫小牧と並ぶ工業都市室蘭だ。といっても、此処は東室蘭で、室蘭駅は此処から岐れた支線の終点だ。此処でも、北海道を代表するブランド麦酒の名が付けられている駅名標があった。更に、特急「すずらん」も停車していた。此処では特急ではなく、室蘭行きの各駅停車になっている。しかし、時刻表を見たら、この時間に特急「すずらん」は運転されていないが、どういうことだ。真逆、特急列車を普通の各駅停車の列車に充てているのか。まぁ、数年前も東京では東海373系(ワイドビュー)の静岡行きや、特急「踊り子」の特急列車(185系)を普通の伊東行きに使用していたことがあるが、これも同じことだろう。しかし、新型車両も工面できない程疲弊しているJR北海道の現状を見ると、やるせなさが拭えない。最近は都市近郊を走っていた711系が廃車になったと聞くが、これからどうなるのだろう?
東室蘭を出ると、海の様相は一変する。貨物船が行き交い、碇泊させるドックも見られた。そして、工場内に入線する専用線が、室蘭本線と同じカーブを描いて、柵の中に入っていった(この専用線は2014年に廃止になった)。この近くに陣屋町という貨物駅がある筈だが、コンテナは何処にも無く、線路が分岐してすぐにトンネルに入ってしまった。その途中に小さな家屋があって、そこの庇に「陣屋町駅」と書かれている看板が見えたのは確認できた。
時間を見たら、8時になっていた。札幌を発って、約1時間30分経つのに、まだ東室蘭とは。北海道の広さを思い知らされる。八王子から約1時間30分あれば、何処まで行けるのかな。中央本線の特急を使っても、甲府までは楽に行けそうだな。となると、小淵沢辺りかな。八王子〜小淵沢の距離を、北海道の尺度に収めるのは無理があるが、まだまだ目的地の函館までは、結構あるな。
此処で朝餉を摂ることにした。開店時間を迎えたばかりの駅弁屋で、ホタテとホッキ貝が載った駅弁を購入した。此処までは、北海道テイストが詰まっていたが、中身が思ったよりスカスカで、底の白飯が矢鱈目立っていた。道産のとうもろこしに蕗の煮付け、昆布の佃煮があったが、これで1000円とは割高感が強かった。札幌くんだりで、東京価格の駅弁を買わされるとは。北海道を発つのだから、昨日のジンギスカン弁当の方が良かったかな。丁度、自由席はガラガラだし、熱々のが頂けたかも知れないし。
上は馬を放牧している厩舎。
中は室蘭港での一枚。
下は廃止になった専用線。 |
|
|
|
(2016年1月11日) 北海道新幹線に未来を託して |
|
|
伊達紋別、八雲、森と停車し、特急列車は道南を走っている。
すると、車窓に1日目で撮るのに奮闘した、渡島駒ヶ岳が見え始めた。デジタルカメラでスンナリ撮れたが、天候が余り思わしくなかった。まだ曇っているのだ。困ったなぁ。雪に降られるのは2年前の青函の旅で慣れたとは言え、踏み固められた氷の上を歩いて、転ぶのは真平御免だ。2年前は函館駅の交差点で、堂々と滑って転んで、注目を集めた恥ずかしい経験があるから尚更だ。
表面が凍った小沼、大沼を撮って、暫くすると、この雪原には不格好な防音壁が見えてきた。
北海道新幹線だ。とうとう、北海道にも新幹線が走るのか。2年前は津軽今別駅と木古内駅で、その様を目の当たりにしたのだが、今回は発着地の新函館北斗駅(当時は渡島大野駅)でその様を目の当たりにした。何もなかった渡島大野が一気に、近未来的な雰囲気を纏った駅舎に生まれ変わってしまい、そして、渡島大野の駅名標が残り少ない命を雪降る道南で燃やしていた。
この北海道新幹線はJR函館本線経由で札幌へ向かうのだが、完成は2030年。そして、札幌を発った北海道新幹線は、何処へ向かうのか。旭川を経由して、稚内へ向かうのか。狩勝峠をトンネルで越えて、帯広、釧路と道東へ向かうのか。それまで北海道経済が再建できればいいけど。
ふと思った。開拓時代の苦労と北海道経済の斜陽化を食い止める道民達の苦労、どっちが厳しいのか。願わくば、東国原元宮崎県知事のように野心溢れる政策で、宮崎県を注目させ、立て直しのきっかけを造れる人を望む。
上は雪に覆われた渡島駒ヶ岳。
中は表面が凍った小沼。大沼の近くにある。
下は新函館北斗と改称する前の渡島大野駅。新幹線開通の準備は万端だ。 |
|
|
|
|
渡島大野を通過して、暫くすると、またJRの赤紫色のコンテナと電気機関車が目立ち始めた。五稜郭機関区だ。その中に、水色とクリーム色のツートンの貨物が赤紫色のコンテナと混ざっていたり、国鉄時代に使われたと思われる特急車両が野晒しになっていたりしていた。
そして、函館駅の広いヤードに迎えられて、函館に到着した。時刻は何と10時14分。6時36分の特急列車に乗ったから、かれこれ約3時間30分乗車したことになる。改めて凄い距離だと思うよ。地図では近そうに見える札幌と函館だが、特急列車を使っても約3時30分も掛かるのだ。これも北の大地の掟なのかな。
改修工事中の函館駅構内。北海道新幹線開通の垂れ幕が下がっているが、「新函館」と言っても、函館市ではないので、何か調子が狂いそうだ。もっと、ましな駅名は付けられなかったのかね。
コインロッカーの場所を見付けたが殆ど満杯で、数人の観光客が、空いている場所を捜すのに必死だった。言葉を聞いてみると、中国人みたいだ。まぁ、大都会で爆買いするより、観光地を回った方が気分的にもいいけど、その私も空いている場所を捜し始めた。カートが入る場所がいい。
何と、運のいいことに1箇所だけ開いていた。すかさず、カートを入れて、ロッカーを閉めた。これで、身軽に函館観光ができる。カートを必死に捜している観光客、許せよ。
さて、2回目になる函館だが、14時51分の特急「白鳥」80号に乗る行程を立てているので、実質観光時間は約4時間30分。この4時間30分を巧く割り当てたい。
そう思って、向かったのが。観光案内所。函館山の状況を知りたいからだ。丁度、観光案内所に、函館山に設置されたモニターから送られてくる今の眺望が映し出されている。曇天に覆われているのは承知だが、眺望はそれなりに見えた。前回は夜景に感動したが、今回は昼の眺望を娯しむとするか。上手く晴れてくれればいいのだけど。
2年前に宿泊した駅前の高級ホテルに軽く挨拶をして、向かったのは函館市電の函館前駅。雪は少し降っているが、傘を差す程ではないので、そのまま行くか。
泥が入り交じりモカ色をした雪が散乱している交差点を横切ると、市電函館駅前の乗り場。屋根があるので、此処だけは雪に降られる鬱陶しさは消えるが、今日は日曜日で多くの観光客が往来しているとなると、幅が狭い乗り場は混雑し、別の鬱陶しさが湧いてしまう。でも、裏を返すと、冬の函館は格別に魅力があることになる。私が再来したのも、その魅力に惹かれてのことだ。
写真は五稜郭機関区にあったコンテナと、旧国鉄時代に使われた(?)特急車両。 |
|
|
|
(2016年1月11日) 旅先の函館で通勤ラッシュ? |
|
|
交差点の右から市電が入ってきた。函館駅前だから、乗降客が多い。
函館市電は1両編成で、床は木の板というレトロ色豊かな乗り物だ。でも、電光掲示の運賃表があるとは、雰囲気が浮いているようで、何とも滑稽に見えた。
その乗り物に寿司詰めに近い状態で、停留所を発った。如何にも通勤ラッシュで、函館くんだりで日常生活を思い起こさせる空間に出会すとは……。上手く身動きが取れない。ボタンは誰が押すのか?
グォーッ、ガガン……、ガガン……。力強いエンジン音を響かせて、雪が舞う函館市街を走っている。しかし、私にはこの市電が不思議に思えて仕方がない。道路のど真ん中を走る鉄道の類いは、東京界隈には殆ど無いし、降りる時はバスのようにボタンを押して知らせる方式だからだ。電車とバスが一体化した乗り物とでも言えばいいのかな? とにかく、摩訶不思議な体験だ。
市役所前・魚市場通でも乗降客は無かった。電光掲示の案内を見たら、「Shiyakusyo-mae」、「Uoichiba-dori」としっかりローマ字表記になっていた。外国人観光客にも人気が高い函館だから、きちんと英語表記して貰いたい。「市役所」は「City office」と判るが、「魚市場通」は「Fish-market Street」になるのかな?
それにしても、この混雑はどうにかして欲しいな。それ以上に木の床はびしょ濡れで、下手すると滑ってしまいそうだが、このびしょ濡れに耐えて今日まで現役なのだ。
寿司詰めの観光客は、次の十字街で降りるのかな。赤レンガ倉庫や函館山の最寄り駅だから、降車客が見込める。電光表示は相変わらず英語表記の「Juji Avenue」ではなく、ローマ字表記の「Jujigai」だ。
ピンポン。ボタンが鳴った。その見込みが当たったな。
多くの乗客が降りた十字街だが、降りてすぐに各々の観光地に向かったので、痩身の停留所は往来がある道路の中にポツンとある静かな場所になっていた。その場所に静かに雪は降っているが、泥が混じったモカ色の雪がタイヤに押し退かされて、堆(うずたか)く積もっていた。
写真はレトロ調に塗装された函館市電。 |
|
|
|
(2016年1月11日) 果たせなかったあの眺望との再会 |
|
|
近くにいる坂本龍馬像に挨拶をして、函館山ロープウェーの乗り場に続く二十間坂を登り始めた。圧縮されている雪が続いている歩道か、雪が解けて滑り易くなっている車道を歩くか、さてどうしよう。あの眺望と再会する為の試練だ(オーバーだけど)。
此処は、圧縮されている雪の方にするか。私は圧縮されている雪が続いている歩道を歩いて、乗り場を目指した。札幌でも散々歩かされたからな。もう足も慣れているだろう。
思い出すな、冬晴れの札幌の朝。そんな空の下、札幌雪まつりの準備中の大通公園やテレビ塔が見られたし、時計台にも行けたな。昨日のことながら、懐かしく感じるな。今日は日曜日だから、時計台も円山公園も昨日より人出が一杯だろう。
そう昨日のことを思い出しながら、ロープウェー乗り場に向かった。2年前に来た時は、周りにあった教会がライトアップされていて、幻想的だったなぁ。だけど、今回は雪降る中での来場。果たして、どうなっているのか。
ロープウェー乗り場のモニターを見たが、駅前の観光案内所に出ていたよりも視界がかなり悪くなっていて、地形の輪郭が判り難くなっていた。思わぬ不意打ちに、声が出なかった。仮に行ったとしても、視界の悪い眺望しか見えず、無駄足を食うだけに終わってしまいそうだ。
ということで、函館山は中止。2年振りの再会は果たせなかった。
少々重苦しい足取りで、二十間坂を下った。下りだから、余計滑り易くなっているので、歩調が遅かった。
目指すは、2年前に立ち寄った赤レンガ倉庫だった。 |
|
|
|
|
赤レンガ倉庫は、かつては倉庫と言われた通り、函館港で卸した物品を仕舞う倉庫だったが、現在では商業施設が多く入っていて、函館観光の一角を担っている。
その道案内も、私より先に行った観光客の足跡が担っている。とにかく、此処を歩けばいいのだが、人の脚で圧縮された雪が滑り易くて本当に厄介だ。でも、2年前の青函の旅で散々歩かされたから、もう慣れている。東京でこのような大雪が降っても、通常の行動が貫けるだろう。ただ、昨日の美唄(びばい)と砂川のホームの堆(うずたか)い雪は、勘弁して貰いたいけど。
その足跡を辿って、赤レンガ倉庫に到着した。白と灰色に包まれた雪の函館に赤茶色の色彩が加わり、外気の寒さを遮る温かみが加わった。
折り畳み傘の雪を払って、赤レンガ倉庫に入った。あれ、冬の北海道を旅しているけど、折り畳み傘の出番は今までにあったか?
すぐに目に飛び込んできたのは、グミやゼリービーンズを売る店だった。それも、好きな量だけ買える量り売りだ。私の身長よりも高い透明な筒に入った色取り取りのゼリービーンズやグミ、金貨の形を象ったチョコレート等、子供にとっては最高のワンダーランドだろう。
だけど、私は一回りしただけで、その店から出た。ビーフジャーキーを嗜んでいる大人にとって、此処に立ち寄るのはどうも歳を取り過ぎた感じがする。「六十の手習い」という言葉があるが、それでもだ。此処は、私のような四十路間近の独身貴族が訪れる店ではない。子供連れの客を尻目に、そそくさと立ち去った。
その店の近くには、土産物屋があり、少し覗いてみたが、札幌狸小路で買った物が殆どで、見るだけに終わった。
……函館山は空振りだし、真逆此処でも空振りに終わるのかと、中を彷徨っていたら、前回は気が付かなかった店を見付けることができた。
我らアラサー・アラフォー世代には懐かしいアニメグッズが置かれている店に入った。本当に懐かしかった。ブリキの筆箱にトランプ、トレーディングカードにセルロイド製の人形もあって、一気に無邪気だった幼少期を回想してしまった。
―あの時は、道路に面した2階建てアパートに住んでいて、時間や金銭のことを気にしたりせずに過ごせたな。アパートの裏手には空き地があって、此処で自転車を乗る練習もしたっけな。今は狭苦しそうに一軒家が建っているけど、雑草が伸びていても十分な広さがあった空き地のことは、今でも憶えている。近くには商店が並んでいる十字路があって、よく親に連れられて行ったものだ。今でも営業している店や道路が拡張された影響で無くなった店もあったりして、当時を偲ぶには十分だ。
ダメだ。ここに長時間居ては、今との格差に苦しむだけだ。私は逃げるようにして、その店を出た。幼少期の思ひ出は、今でもしっかり残っている人は多く、懐かしむことができるが、逆に今との格差に溜息付いたりして逆効果の時がある。諸刃の剣のようだ。
次に向かったのは、戦国武将をモチーフにしたグッズが置かれている武将館だ。歴史ファンに根強い人気を誇る戦国時代。そこには現在にも通じる熱意や心意気、そして謀略等あって、興味が尽きない。こう見えても、戦国武将ファンなので、中に入ってみた。
中には、有名な戦国武将の伊達政宗や直江兼続の兜のレプリカや武田信玄や真田幸村の幟、更には織田信長の模造刀等あって、見て回るだけで興奮する。更に、幕末で活躍した坂本龍馬や近藤勇、土方歳三、沖田総司の新撰組のグッズもあり、歴史ファンにはたまらない場所だ。でも、彼らの武将の仲間に入るのかな? でも、土方歳三の終焉の地函館だから、彼の菩提を弔う為に、敢えて幕末の武士達も扱っているのだろう。今でも、彼の遺体を埋めた場所が判らず、墓だけ造られているので、成仏できない彼の霊が私を此処に呼んだのか? 冗談じゃない。旅の途中で、霊に呼び止められるなんて。お迎えは50年以上経ってからにしてね。
此処では、嵩張らない土産を買った。店内の一角に絵はがきとクリアファイルがあったので、手に取った。大半は戦国武将が描かれているが、一番気に入っているクリアファイルがあった。
四国を席巻した長宗我部(ちょうそかべ)元親があった。最初は小さな勢力だったが、元親の冴えた頭脳と戦術で、瞬く間に四国を手中に収めた。しかし、全国統一を目指していた羽柴秀吉の軍勢によって、降伏。しかし、土佐一国安堵されながらも、虎視眈々と天下を狙っていた。しかし、寵愛していた長男信親が九州で戦死した後は(その原因は、島津氏お得意の「釣り野伏」といって、大軍を隠しておいて、囮の部隊でおびき寄せるという戦法)、失意の内に亡くなった。
もう一つは、石田三成と大谷吉継が描かれているクリアファイル。ご存じ、関ヶ原の合戦で西軍を率いた武将だが、最近この2人の人気が高くなっているのだ。石田の場合は、亡き豊臣秀吉に忠義を尽くした点が評価されているが、大谷の場合は最後まで友であった石田の為に尽くした点が評価されている、しかし、大谷は重病を抱えていて、常に白頭巾で顔を覆っていた。関ヶ原の合戦に臨んだ時は、殆ど自力で戦うことはできず、配下の武将達に戦況を聞きながら、指示を送るしかできなかった。そして、西軍が破れても退却することはせず、唯一関ヶ原で自刃した唯一の武将だ。
先行き不透明な時代、こうして熱い情熱で物事に当たり、そして散っていった美しさや逞しさに惹かれて、人気が高くなっているのも頷ける。勿論、このクリアファイルも土産の内に入れた。
港に近い出入口の赤レンガ倉庫から外に出ると、何と晴れていた。酷い気紛れだな。仮に、函館山に向かっていたら、雪で遮られていた眺望が晴れて、気分が躍ったのかも知れない。
港に出ると、函館山が見えてきたが、雪雲に覆われている状態だった。だったら、行かない方がよかったかな。しかも、函館観光は約4時間30分だ。前回のようにノンビリ観光する訳にはいかないから、函館山に背を向けて、停泊しているイカ釣り船を撮った。あれ、このイカ釣り船、前回の2年前の青函の旅でも撮った気がする。
それと、本当に鋭そうな氷柱も撮った。長さはざっと50センチを超えているな。長万部でも氷柱を撮ったが、あの時は陽に当たって溶けていて、鋭さはなかったな。しかしまぁ、おぞましい雪国の凶器だ。人体に刺さることだってあるのだから。
上は赤レンガ倉庫。何時の間にか晴れていた。
中は停泊しているイカ釣り船。2年前に撮ったような……。
下は鋭そうな氷柱。東京人にはビックリ! |
|
|
|
(2016年1月11日) 今は2014年? 2016年? |
|
|
函館市電でまた函館駅前に戻った。丁度昼餉時なのだろうか、あんなに混雑していた市電が嘘のように空いていた。
特急列車の乗車時間と照合すると、約2時間50分も残っている。昼餉を頂いて、もう一度土産物を見るとなると、約1時間必要だから、観光できる場所は、2年前に立ち寄った青函連絡船摩周丸位しかないな。2年前の行程の再現か……。何か、新鮮味に欠けるな。もしかしたら、もしかしたらだ。
私は市電に乗りながら、残っている時間の配分をした。余り行動範囲は広くないな。朝早く札幌を発って、途中の函館で寄り道して、帰路の八王子に赴く。移動距離が凄いだけで、時間に追われそうだ。ダメだ。旅で時間に追われてしまってはダメだ。この時間内で、如何に効率よく巧く旅ができるかが見せ所だ。
そんなことを考えている内に、函館駅前に到着した。昼餉でも頂くか。
と、向かったのは、これも2年前の青函の旅で、塩ラーメンを頂いた中華料理店だった。確か、『寅次郎相合い傘』での行程を再現したかったから、此処にしたのだ。真逆、2年後にまた此処に立ち寄るとは……。
―屋台で塩ラーメンを頂いていた船越英二氏演じる兵頭謙次郎の隣で微睡(まどろ)んでいた寅さん。そこに、キャバレー歌手のリリーがやってくる。微睡みから目覚めた寅さんは、見覚えのある顔に驚き、リリーも同じ行動を取って、再会を果たす流れだ。
当然、頂いたのは塩ラーメンだった。その2年振りの再会を果たした塩ラーメンは、スンナリと腑に収まった。
まだ時間があるから、土産物屋でも覗いていくか。これもまた2年前に訪れた土産物屋。宿泊していたホテルの1階で営業しているが、中を覗くと、札幌には置いていない土産が結構あった。札幌狸小路では見掛けなかったワインやウィスキー、港が近いから海産物もあった。また、函館には名店があるので、その名店の味を閉じ込めたレトルト食品、冷凍保存されているタレに漬け込んだジンギスカンの肉もあった。
あれ? 札幌の焼き肉屋でジンギスカンを頂いたけど、狸小路の土産物屋には無かったな。あの店に冷蔵庫はあったけど、入っていたのはリキュールや牛乳、生ラーメンだけだったな。此処函館にもう一度立ち寄ったのは、何かの縁だろう。函館でも買っていくとするか。札幌での土産はホテルに頼んで、宅配を頼んで貰ったから、身軽なのもそれを助長させた。 |
|
|
|
(2016年1月11日) 2016年の青函連絡船の利用客 |
|
|
ジンギスカンの肉とその他を買って、向かったのは青函連絡船摩周丸だった。その途中の交差点で、足をすくわれて転んでしまった。すぐに立ち上がって、大事はなかったけど、あれ、2年前も此処で転んだ気がするなぁ。2年振りの函館だけど、2年前の青函の旅をしている錯覚に囚われた。それでは、昨日の札幌と一昨日の長万部は何だったのだ?
少し歩くと、右側に無意味そうに延びている路線を見付けた。前回は大して気にしてはいなかったが、その路線の行き先を目で辿っていくと、あの摩周丸があった。
ふと思い出した青函連絡船のこと。
昔、青森駅に到着した貨物は、この青函連絡船に入線させて、函館へ向かったそうだ。そして、ディーゼル機関車でその貨物を牽引しながら、あの路線を通ったのだ。いわば、青函連絡船の遺構なのだ。その下は、雪が積もっていて、足跡が摩周丸への道程を示してくれるのだが、雪が無ければどうなっているのだろう。色違いのアスファルトで描いた線路があるのかな?
さて、2回目の摩周丸だが、1回目では気付かなかった所があるだろう。それらを踏まえて臨むとするか。これがこの旅の最後に立ち寄る場所になる。
摩周丸に乗船して、最初に迎えるのは銅鑼と碇。岡晴夫の『憧れのハワイ航路』の一節に「船の出船の 銅鑼の音(ね)楽し」とある、その銅鑼だ。霧笛の「ボォー」ではなかったのだ。これで出港の合図を送るのだが、叩き方に特徴がある。ただ単に、バンバンと強く叩いて知らせては、周囲に迷惑を被るだけ。最初は弱く叩いて段々強く叩いて、出港を知らせたのだ。青函連絡船の待合室でノンビリしている所に、銅鑼の音が鳴り、急いで身支度を調えて乗船する姿が目に浮かぶ。
銅鑼の音に急かされて乗船した後に、JNRと黄緑色のJRマークが出迎える。もはや、JNRマークを知っている人は、若くても四十路近くになってしまう。JNRは「日本国有鉄道(Japan National Railway)」の省略で、今は民営化しているが、かつては国営企業として、全国に路線を張り巡らせていたのだ。そして、JRマークはお馴染みだが、管轄はJR北海道だったのだ。
中に入ると、青函連絡船の最後の年の花道を飾るポスターが出迎えてくれる。青函連絡船が廃止になった時は、私はまだ9歳だった。単独で乗る訳にも行かず、もどかしさは一入だ。
では、船内はどうなっていたのかというと、最初に紹介できるのは、普通席とグリーン席だ。私は、グリーン席に座って、窓からの函館港を眺めた。
普通席は青色のシートが掛かっていて、2人掛けになっている。中央に肘掛けがあるが、肘掛けが無く且つ船内が空いていた時は、此処でゴロ寝ができそうだ。この青函連絡船は夜中でも運航されていたので、一杯飲んで此処で気分良さそうにゴロ寝する客が目に浮かぶ。今だったら、迷惑行為だろう。
グリーン席は臙脂色のシートが掛かっていて、1人分にキチンと区切られている。しかも、肘掛けにもリネンが掛かっていて、リクライニングもできる。更に、肘掛けを引っ張れば、小さなテーブルが出てきて、缶麦酒等置けそうだ。枕元にはライトが付いていて、何とも豪華だ。此処でリクライニングを掛けて、缶麦酒を傾けたら、いい船旅になるだろうなぁ。……果たして、そうだろうか。
席を立って、切符が置かれているウィンドーを見た。その中にグリーン券があって、国鉄時代は1000円とあった。青森〜函館が2000円掛かる上に、グリーン車を希望すると1000円加算されるのだ。しかも、偶然見付けたJR北海道時代の切符。何と、1600円になっていた。オイオイ、リクライニングができて、小さなテーブルと枕元にライトが付いている、1人分に区切られた席が1000〜1600円だってさ。青森や函館で土産の一つが買えそうな値段だ。これが片道約4時間の航路で、安いか否かは個人の判断だが、私の場合は利用しない。そんな金銭があれば、酒肴代や土産物代に充てた方が、旅が娯しめるからだ。
再び、グリーン席に着いて、前で放送されている青函連絡船のドキュメントを見ていると、1隻のフェリーが函館港に入港していた。デジタルカメラのズームで調べると、津軽海峡フェリーと出ていた。但し、碇泊するのは、此処函館港ではなく、五稜郭駅に近い碇泊場だと聞いている。函館市街へ向かうのは、タクシーを使わなくてはいけない。
青函連絡船が廃止になっても、青函を往復するフェリーは健在だ。その理由は、青函トンネルは鉄道専門のトンネルなので、青函トンネルが使えない長距離ドライバーには必要不可欠の交通手段だからだ。向こうでも、青函連絡船時代の光景があるのだろうか。ドライバーなので、缶麦酒を傾けることはできないが、風呂に入って疲れを癒やし、風呂上がりに牛乳とか啜っているのかな。今度、北海道を旅する機会が巡ってきたら、このフェリーでも使おうかな。青函連絡船に乗れなかった敵討ちみたいなものだけど。
次に飾り毛布。この青函連絡船には寝台があって、毛布を使って色々な飾りを造ったそうである。2年前は撮らなかったが、今回は撮った。展示されている作品は「大輪」で、大きな花をイメージしている。しかし、1964年(昭和39年)に時間短縮の為に廃止されたのが惜しい。どうせなら、この時代に夜の日本列島を縦横無尽に走っていた寝台列車のベッドでも造って欲しかったな。昨夜撮影した寝台急行「はまなす」でも、こういう飾り毛布があれば、少しは気が安らいだだろう。
2年前に衝撃を受けた洞爺丸台風の悲劇を視聴した後、操舵室に出た。そこから、函館山が望めるのだが、雪雲が掛かっていて、いい眺望は期待できない感じだ。やはり、行かなくてよかったな。あの時は、天候が良かった幸運に巡り会えたから、見られたのだ。でも、やはり冬の函館山で夜景を眺めるのは、博打に似ている。
上は真正面から見た摩周丸。真ん中に線路があって、函館駅に繋がっていた。
中は摩周丸から見た津軽海峡フェリー。今でいうと、青函連絡船の現代版かな?
下は飾り毛布の模型。作品は「大輪」。 |
|
|
|
(2016年1月11日) 斜陽化で消えていくホームドラマ |
|
|
次に向かったのは、(レプリカながら)普通座席。と言っても、椅子ではなくゴロ寝が出来るようになっているカーペットが敷かれている場所だ。4畳半程の広さに区切られていて、物が仕舞える棚が区切りの役をしている。此処で色々な喜怒哀楽に彩られた人間模様が繰り広げられたのだろう。息を潜めながら、目的地を目指した駆け落ちの男女。都会での生活を夢見た若者、地元で採れた産物を青函で売り捌こうとする行商、そして、『寅次郎相合い傘』のように、冷え切った家庭から逃れ、自由を求める旅人。此処でも、座席同様一杯飲んで、気分良さそうにゴロ寝する客もいただろう。
そんな所で見付けたJR北海道の「613駅の、ホームドラマ」。JRになった当時の路線の(柱に掛ける)駅名標がズラズラ並んでいる。勿論、廃線になった路線もあり、当時を偲ばせてくれる。中にはJR標津線のように毛筆体で書かれた駅名標や、地元の人が拵えた粗末な駅名標もあり、見るだけでも興味をそそる。
一番面白かったのは、JR津軽海峡線で、普通の駅名標が3枚写されているだけ。その内の津軽今別は、本州唯一のJR北海道の駅で、北海道新幹線が開通すると、「奥津軽いまべつ」と改称する。また、観光用の駅で乗車も下車もできない竜飛海底・吉岡海底も、北海道新幹線が開通すると「定点」といって、非常時の避難口として第二の人生が待っている。それでも、普通の駅同様に駅名標が写されているのは、何処か滑稽だ。
そして、行けなかったJR留萌本線の部分も撮った。留萌から先に行けなかったのは悔しいが、こうしてみると、JR留萌本線も歴史を刻んできたのだなと感心させられる。廃止になった東幌糠駅、桜庭駅の駅名標もあったし、北秩父別(きたちっぷべつ)の駅名標は、急拵えの手造りだろうか、粗末な雰囲気が詰まっていた。
此処北海道経済の斜陽化により、次々と路線が廃止になっていく。2年前は木古内〜江差のJR江差線、そして、今回は留萌〜増毛のJR留萌本線だ。路線だけではなく、駅も廃止になっている。それどころではない。新型車両を賄う余裕が無く、JR発足当時の車両や旧国鉄の車両を何とかメンテナンスを施して、運転している。しかし、鉄道を廃止して、バス路線に切り替えた話は何度も聞くが、これで地域活性化や現状維持に繋がっているとは、到底思えない。鉄道もバスも客がいなければ成り立たないし、成り立たないから都会へ引っ越す。残った地域は限界集落として見放される。最低最悪の悪循環だ。北海道は開拓から始まったから、その精神が残っている限り、今の北海道を再開発する気力がある筈だ。あの拓銀が倒産した1997年からもう19年も経っているのだから、とっくに夢から醒めている筈だ。大沼公園でも、洞爺でも、札幌でも、そして函館でも外国人観光客が訪れているのだから、それを踏まえた北海道再開発を立てたらどうだろうか。何でもかんでも廃止云々と決め付けるのは、一辺倒で日本人の悪い癖。何処かの市長か伏せておくが、「攻めの廃線」と位置付けて、鉄道を廃止する案を立てているが、私から言わせてみれば、「それで、市民は幸せになれるのか。それで、人口が増えるのか」と言い返したい。嗤わせるのもいい加減にしてくれよ。
こうして、溜まっていた毒を吐き出して、摩周丸から下船した。
上は(レプリカながら)普通座席。荷物を入れる棚が仕切りになっている。
中はJR北海道発足時にあった駅の駅名標。
下は2016年3月に廃止されるJR留萌本線の留萌〜増毛。 |
|
|
|
|
下船したら、摩周丸の船尾部分を撮った。その先に、何らかのゲートがあって、此処から青森駅で積んだ貨物が、ディーゼル機関車で牽引されていたのだ。そして、あの線路を通って函館駅に集積され、行き先別に区分けされていたのだ。前回は大して気にしてはいなかったけど、やはり、再発見があったな。
時刻は14時11分。51分の特急には十分間に合う。後40分もあるが、中途半端に残ってしまったな。少し早いけど、駅へ入るか。
先述の通り、函館駅は改装中で、改装中の場所には衝立が立てられていて、狭く感じる。2階にあった私が味噌ラーメンを頂いた食堂は無くなっていた。今度来たら、何ができているのだろう。真逆、大手外食チェーン店が入るのではないだろうね。そうだとしたら、絶対立ち寄らないから。
切符が入っている定期入れを見ると、残る切符は、51分の特急列車の指定席特急券と、上野までの東北新幹線の指定席特急券の2枚のみ。道内でも特急を使ったが、全て乗り放題の切符で賄った。でも、この切符を使ったら、明らかに帰路に赴くのだ。
この函館も、乗り換えで利用したのは一昨日だったな。自由席は凄く混んでいて、通路での立ちんぼを強要されたな。あの時は多少晴れていたな。函館山に行ったら、いい眺望が待っていると思っていたら、長万部駅で雪の影響で遅れていたとは驚いたな。冬の北海道の天気の気紛れさに呆れたよ。
電光掲示板を見ると、私が乗る特急列車14時51分の特急「白鳥」80号が出ているが、改札が開くのは14時30分頃。それまで何をしてようか。改装中の駅構内を見渡して考えた。
まずは駅弁屋に立ち寄り、東北新幹線で頂く駅弁を買った。今から帰路に赴くと、上野には20時26分に到着するのだが、明日は仕事なのでそんなにノンビリはできない。自動的にこれが夕餉になりそうだ。
そして、観光客で混み合う道南の土産を揃えている売店に入り、何かの縁だと思い、ウィスキーを買った。ラベルを見たら、「余市」と出ていた。余市は小樽の西側にあるJR函館本線の駅で、ウィスキーの名産地だと聞いている。また何時かの北海道を旅することがあり余裕があったら、余市でも行ってみるか。
そして、近くの神社に奉納する大きな絵馬に、寄せ書きを綴った。これも何かの縁だろう。丁度試験シーズンだから、彼らに向けてエールを送るか。
「試験を受ける者達に幸運あれ! そして、日本・世界に麗しき平和あれ!」
マジックの出が悪いのか、マジックと紙の質が合わないのか、スラスラとした書き味がなかった。でも、帰路に赴く旅人のささやかな願いが通じればいいけど。
写真は摩周丸船尾にあるゲート。此処から、貨物を牽引して函館駅に運んだ。 |
|
|
|
(2016年1月11日) 白鳥は旅人を乗せて旅立つ |
|
|
30分の改札を通って、ホームに出ると、既に特急「白鳥」が停車していた。しかし、新青森駅同様、撮影者が多いこと。これも、一昨日の新青森駅同様、今年(2016年)の3月に廃止になるから、今の内に撮影しようとしているのだ。しかも、使用されている車両はJR東日本の485系で、臨時特急「白鳥」が運行する時に使われている車両なので、撮影する価値は十分にある。勿論、私もいい所を撮った。これはこの北海道の旅の証拠だけではなく、此処に特急「白鳥」が運行されていたいい証拠にもなる。
特急「白鳥」か……。今年(2016年)の3月に廃止になる特急だが、かつては大阪〜青森を往復した特急で、所要時間は10時間以上もあった。その経路が非常に複雑だ。東海道本線、湖西線、北陸本線、信越本線、羽越本線、奥羽本線と日本海沿いに走った(鉄道ファンの間では、「日本海縦貫線」と言われていた。2012年に定期運行が廃止された寝台特急「日本海」も同ルートだった)。しかし、その特急が廃止になった後は、東北新幹線が八戸に延伸した時に、青函を往復する特急になった。そして、新青森に延伸した時、同駅が発着駅となり、現在に至るのだ。そして、今年の3月に廃止になるのだ。何だか、白鳥が北国へ帰ってしまう感じで寂しい。
がら空きに近い指定席に一席に、荷物を放り出すと、もう一度ホームに出た。本当は自由席でも良かったけど、廃止になるので、「白鳥」と印刷されている切符を手に入れようと、指定席にしたのだ。
左隣のヤードに、青に金色のラインが書かれているディーゼル機関車を見付けた。瞬時に思い出した。確か、昨夜撮った寝台急行「はまなす」も、ああいうディーゼル機関車で牽引していたな。此処は「はまなす」の終着地ではないけど、青森へ向かう途中のJR江差線とJR津軽海峡線は電化区間だから、此処で電気機関車と交換して向かったのだろう。また、寝台特急「北斗星」も、此処でディーゼル機関車と交換して、札幌へ向かったのだろう。そのディーゼル機関車なのだろう。でも、3月以降何に使われるのかな。単純に貨物列車を牽引するだけでは、この色具合は派手に感じる。
上はJR東日本で使われている485系の特急「白鳥」。
下は寝台急行「はまなす」で用いられたディーゼル機関車。寝台特急「北斗星」にも使われた。 |
|
|
|
(2016年1月11日) 青函トンネルで北海道に別れを告げて |
|
|
14時51分、特急「白鳥」80号は、函館を発った。これから帰路に赴くのだが、新青森で東北新幹線に乗り継いで上野に向かうと、20時26分に到着する。約5時間30分も特急列車と新幹線に揺られるのだ。こんな長時間で、列車に揺られることは何てことはないので、自販機で買ったホットティーを啜った。
すると、五稜郭を通過した。あぁ、今回も行けなかったなぁ。五稜郭も函館観光の一つなのに。時間が余りなくて、結局2年前と同様に近い行程を取らざるを得なかった。要らぬ宿題ができたな。また北海道を旅することがあったら、また函館に立ち寄って、五稜郭へ行かなくてはいけなくなったからだ。
そして、特急「白鳥」は左に進路を変えた。五稜郭機関区に停車しているディーゼル機関車から見送りを受けて。
私は定期入れからもう1枚、指定券を取った。東北新幹線の指定席特急券だ。この特急が新青森に到着するのが、17時11分。そして、予約を取ったはやぶさ30号は17時22分に発車する。乗り換え時間は11分だが、新青森での用は往路で済ませてしまったので、そのままホームへ直行するだけ。
殆ど完成した北海道新幹線の構内が控えている木古内に、定刻で到着した。そして、雪に埋もれて何もなくなった知内駅跡を通過して、青函トンネルに入った。既に、このトンネルは3線軌道(新幹線も在来線も走れるように敷いたレール)になっていて、いよいよ北海道新幹線開通間近を思わせてくれる。
吉岡定点、竜飛定点を通過するが、ただの避難所として第二の人生を切るのは、観光用の駅だったことを知る私にしてみれば極めてドライで、この青函トンネルは単なる海底トンネルという低い価値に下がってしまいそうだ。一体、東京〜新函館北斗を何往復するかは知らないが、もし余裕があったら、もう一度観光駅として復活させたらどうだろうか。単に、東京から新幹線で北海道へ行けるだけなんて魅力無いし、下手すると、東京に人口や経済力を搾取されるストロー効果しかもたらさない恐れがある。況してや、北海道経済は斜陽化が止まらない現在、柔軟な考えで、東京から人を呼んで下さいよ。頼みましたよ、JR北海道! |
|
|
|
(2016年1月11日) 11分の待ち合わせは吉か、凶か? |
|
|
青函トンネルを抜けると、相変わらず森に覆われた雪景色が続くが、雪の強さが妙に違っていた。特急列車の速度も妙に遅いし、どうなっているのだ?
そして、JR津軽線の分岐点の新中小国信号所で、特急列車は止まった。時刻は16時19分になっていた。これでも、十分に間に合いそうだが、雪は激しさを増すばかり。
更に、嫌なアナウンスが流れてきた。
「雪の影響で、到着が遅れる見込みです。新青森駅で、新幹線をご利用になられるお客様がいらっしゃいましたら、ご連絡下さい。」
ちょっと待ってくれよ。この期に及んで到着が遅れるというのは、どういうことだよ。新青森駅では11分の乗り換え時間を確保しているが、それでも間に合わなければどうすればいいのだ。下手して、東北新幹線も止まってしまって、青森で宿泊するとなると、とんでもないことになりそうだ。
万が一と言うこともあるので、私は一番背後の乗務員室を叩いて、新青森到着は何時になるかと訊ねた。勿論、東北新幹線の指定券を見せて。
「17時22分ですか……。雪の影響ですから、何とも言えませんけど。お客様は、東北新幹線にご乗車されるのですか?」
「はい。17時22分より前に到着すれば、問題は無いのです。」そう。11分も余裕を持たせているからな。この11分が吉と出るか、凶と出るか? すると、車掌は、
「でも17時22分までに到着するかは、保証できかねますので、新青森駅に連絡致します。」と新青森駅に連絡し始めた。これで、最低限の対策は調った。
席に戻っても、発車する気配が見られない。11分の余裕を持たせているが、此処に来てその11分が物足りなく感じてしまった。いい加減、発車してくれよ。そう気を揉みながら、最後のホットティーを啜った。気を静めよとばかりに温くなっていた。
漸く、新中小国信号所から出発した特急「白鳥」80号は、約10分遅れで蟹田に到着した。雪の中の蟹田での乗降客はなく、すぐに出発した。
そして、青森駅に到着したのは、定刻より20分遅れだった。時刻は17時20分になっていた。時は無情だった。新青森は青森の1つ先の駅だが、僅か2分ではもう乗車できない。しかも、その22分も青森停車中で、鉄路は雪に隠れ、ホームの中までも雪が積もっていた。これじゃ、幾ら雪に慣れている東北でも遅れるに決まっている。東京では大パニックに陥るこんな雪を、青森人はドライに見つめ、列車の遅れを平気で看過していた。
新幹線に乗り遅れた落胆を隠して、私はデジタルカメラで、雪に覆われた青森駅を撮った。2年前の青函の旅で、再訪を果たそうと誓った青森駅が、この時だけは新幹線に乗り遅れた落胆を助長するかの如く、周囲が寒く染まっていた。青森は乗り換えだけで来たことに怒っているのか、青森の雪女に問い詰めたい。
結局、新青森には10分遅れで到着。急いで、新幹線ホームに向かうと、喧しい程に案内している新幹線の乗り継ぎのアナウンスが響いていた。あの特急で新青森駅に連絡して、急遽対策を立てたのだろう。私はそのアナウンスを聞きながら、これからどうするかを考えていた。
乗り継ぎ客は我先にと、新幹線ホームに向かっていて、コンコースにある土産物屋には全く目もくれなかった。往路で立ち寄って、良かったよ。
新幹線ホームには、はやぶさ30号に乗り遅れた客が駅員に事情を話して、対策を求めていた。何しろ、乗り遅れた上、乗れる新幹線を捜しているから必死だ。
私も、その旨を伝えると、今停車しているはやぶさ32号の空席に乗車して下さいとのこと。乗車し、窓側の席に一応着いて、まずは一安心。だけど、この席を予約している客がいるか問題だ。たまたま通り掛かった車掌に確かめた。上野まで空席だったら問題ないが、終点近くだからそう巧く行かなそうだ。でも、発車時間が迫っているので、「一応座って下さい」という適当な答えしか返ってこなかった。新青森駅の駅員だったのか。
写真は青森駅に到着時。雪で真っ白だけど、東京人はオロオロし、青森人はドライに見るだろう。 |
|
|
|
|
17時44分、はやぶさ32号が発った。その間に、夕餉を済ませておくか。函館で買った駅弁を抓んだ。函館界隈で飼育している和牛のそぼろが敷き詰められている贅沢な弁当だ。
それを一気に平らげて、仮眠を取ろうとしたが、「一応座って下さい」という言葉が引っ掛かり、もし座る客がいたら迷惑になるので、一応起きていた。車窓はすっかり夜の帳が降りて、つまらなそうに眺めている自分の顔が映っていた。
案の定、私が座っている席は、盛岡から乗車してきた客が予約した席だった。車掌にその旨を伝えると、丁度、隣の席が空席らしいので、躊躇(ためら)いなく座った。盛岡を出ると、停車駅が仙台、大宮、上野しかないので、座れる可能性は大きい。
そのことに安堵してか、私はノートパソコンでお気に入りのDVDを観た。『寅次郎相合い傘』だった。前回は函館での行程を再現したが、今回は長万部で蟹を頂いて、札幌の大通公園で、万年筆を売る所を再現しただけで、肝心の小樽は機会があったらということになったな。確か、小樽港で寅さんとリリーさんが、口喧嘩の末に寅さんが、リリーさんが亭主に捨てられたことを口走ってしまった為、喧嘩別れになった場所だ。私の場合はどうなるのだろう。
はやぶさ32号は仙台に停車した。幸いなことに、此処に座る客はいなかった。と言うことは、上野まで座れる可能性は高いということになる。途中、大宮に停車するが、大宮から東京へ向かうのに、わざわざ新幹線を使う人はそういないだろう。
そして、DVDは最後の方にきた。
寅さんは再び旅に出る。場所は何処かの海岸だった。その海岸をジッと見る光景は、何処か似ている。長万部で蟹を頂いた後に、じゃれ合った海岸だ。あの時は3人で自由気ままな旅だったが、此処では1人でその思ひ出に浸っているかのようだった。寅さんの旅は殆どが一人旅で、寂しさが付き纏っていることが多いが、今回は娯しさ一杯の3人の北海道道中だった。二度と再現できない娯しい旅だと溜息を吐き、その場を立ち去ろうとする。
そんな所に、停まっている1台のマイクロバス。バスに乗ろうとしている派手めの女性が、寅さんに声を掛ける。寅さんは此処で、思わぬ再会をするのだ。函館のキャバレー「未完成」で知り合ったホステスだったのだ。そして大歓迎の中、温泉へ向かう慰安旅行に同行して、この映画は終わるのだ。その時に山が映るのだが、調べてみたら函館郊外にある恵山(えさん)という山だった(当初は洞爺近くにある昭和新山かと思っていた)。
どういうことだろうか……。「もう一度、北海道へ来い」と言っているのか? それにしても、何故寅さんは、もう一度北海道へ向かったのだろうか。そうでなければ、海岸をチラッと見るだけで終わるだろう。余程、あの旅が娯しかったのだろう……。
振り返ってみると、1回目の北海道の旅も娯しかったし、今回の旅も娯しかった。
それじゃ、3回目の北海道の旅を考えるか……。私はノートパソコンを仕舞って、3回目の北海道の旅を練り始めた。今度は何処に行こうか。あのラストシーンを見ていると、どうしても小樽の存在が大きく出てしまう。今回は長万部と札幌を再現したから尚更だ。今度は、ニセコ経由の鈍行に乗って小樽へ行ってみるかな? そうだ。津軽海峡を渡るフェリーに乗って、青函連絡船を偲んでみようかな。序でに、旭川にでも行ってみるかな。函館塩ラーメン、札幌味噌ラーメンを制覇したから、今度は旭川醤油ラーメンだ。
でも、廃線云々も問題だな。2回の北海道の旅はこの廃線が拘わっている。もし、何処かが廃線の沙汰に遭えば、その路線に乗って写真に収めなければいけない。此処に列車が走っていた証拠が欲しいからだ。
限りなく夢は膨らむが、それが現実になるのは何時のことになるのやら。寅さんは身軽だから、行こうと思えばすぐに行けるが、私の場合はそうは行かない。そろそろ自分の年齢を考えなければいけないし、今でも鬱と闘っているから、家庭も持てないし結婚もできない。寂しい老後を送りたくないし、一日でも早く、私の子の顔を身内に見せてやりたい。
そんな複雑な心境が入り交じって、脳が混乱した所為なのか、睡魔が襲ってきた。上野まではまだ時間があるから、少しは仮眠ができよう。
私は3回目の北海道の旅ができるように祈りながら、家路に赴いた。 |
|
|